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  汗ばむ鳥籠 作者:雪芳
第十九話「カルマの指」
 その日は憂えているような空だった。どんよりと重たげな雨雲は今にも泣き出しそうで、ひばりは急いで物干し竿から衣を取り外していた。

「ひばり」

 だから、その声をもう少しで聞き漏らすところであった。呼ばれたような気がして振り返ると、三船が廊下から庭先の物干し場へと視線を落としていた。

「どうしたんです、三船おかあさん」
 無意識に喉が強張る。先日の夜の一件から三船と会っていなかったひばりは、お咎めがないものと思い込んでいたが、そうではないのだろうか。

 身構えていると、
「話があるから、おいで」
「お話ですか?」
「そうだよ」

 三船の生気のない物言いに、自然と力が抜ける。ひばりは布団を廊下に上げ終わると、三船の部屋へとついていった。
久しぶりの三船の部屋、キセルの匂いがひばりを軽く酔わせる。

 まるで将棋でも指すように二人、座布団の上に対峙すると、三船がキセルに種をつめて、火をつけた。緩やかな紫煙と濃厚な煙草の香りが部屋にくゆる。

 ひばりは煙など気にせず、ひたすら背骨を緊張させ、汗ばむ拳を握りこんだ。

 一体、話とはなんなのか。やはり、自分が止めに入ったことが気に食わなかったのか。
 冷や汗が体中から滲む。がちがちに固まりながらキセルで一息つける三船の動向を見やっていると、

「話だが」
ふいに三船が口を割った。

「三島が死んだ」

 一瞬のうちに耳を疑い、ひばりは呼吸をするのを忘れた。三船が死んだ、しかも自殺だという。一体、どういうことなのか。三船が殺したのか。

「私を、酷い女だと、思うかね」

 しかし、続く三船の言葉があまりにも寂漠としていて、責めやる感情が奪われる。

「自殺だった。梁に帯を巻いてね、首を吊ったんだよ」
「自殺……」

「養生に入ると、その間に必要な金は全部年季に回るんだよ。それに加えて、馴染みの男が江戸から消えたらしい。元々矜持の高い子だったからね、もう、生きるには辛すぎたんだろうよ」

 私を酷い女と思うかい、と、三船は付け加えた。
 普段の貫禄ある三船とは明らかに違う。あの夜、ひばりの制止に小島への怒りを失い、部屋へと帰っていった三島のまま。
 そればかりか、力尽きたような三船は更に陰鬱と感ぜられる。まるで一日で十年も年老いてしまったかのように。

 三島の折檻は異常だと思えた、しかしながら小島の行動に非がなかったかと言えばけしてそうではない。
 そればかりか、小島も鬼のようだった。操を立てて金回りに窮し、禿に苦を強い、最後には昔の朋輩である美佐の指を切り落としたのである。正気の沙汰ではない。

「そんなことはない、三船おかあさんが怒るのも、無理はありんせん」

 応えたひばりに、
「小島がああなったのは、この大海屋にいたからだ。もし町の娘なら、ごく並みの恋慕をかけられただろうよ」

 三島はキセルを火鉢に引っ掛けると、両の手を広げた。右の手の五本目、細く短い無名指が僅かに捩れ、曲がっている。

「この間、お前は仁平と話していただろう。生き様が身体に出ると。みてご覧、この指を。これはね、本当は、真っ直ぐだったんだよ。
 だけど曲がった。ろくな生き方をしてないからさ。女を囲って、子どもを流して、しまいにゃ借金地獄に落とす酷い女なのさ。
 仏さんも、見捨てちまう」

 少しばかり節の目立ち始めた手がわなないて、畳を小刻みに叩く。あまりにも儚い、まるで死の淵にたつ者の手のような、三船の手。

 ひばりは反射的に、その右手を、幼い両手で包み込んだ。
 そしてきっぱりと、言い切った。

「そんなことない、三船おかあさんは、わっちを看病したろう」

 なにがそうさせたのか。突き上げる戸惑いがそうさせたのか。ただただひばりは、三船の手を握った。そうしなければ、三船が消えてなくなってしまうような気がした。

 迷子にならないよう親の手を必死で掴む子どものように、ひばりはついには、腕ごと胸に抱き寄せる。
 どくり、どくりと三船の脈が静かに鳴っている。
 懸命に、すがりつく。

 やがて、
「……娘がいたんだよ。ちょうど、お前くらいの」

 三船が口を開いた。

「だけどね、地震で死んだ」

 箪笥に萎えた背をもたせかけ、

仄聞そくぶんしたことはあるだろう。四年前の大地震だよ」
 ためらいがちに、呟く。
 朴訥と己を振り返る。

「安政の、神無月。夜だった。夜見世の、半ばくらいだったろうか……。
 娘を寝かしつけようと思ってね、二人で横になっていた。予兆なんざなかったね。
 忽然と、床がなくなった」

 胡乱な目がついと天を泳ぎ、

「ああ、地震だと思ってね、怖かった。上も下もなくって、真っ暗闇さ。建物が潰れちまった。
 娘は泣いてね、だけど身体が動かなくってね。声だけで慰めていたら、手を探ってね、無名指だけぎゅっと、握ってきた。
 そうして二人して、助けを待った」

 自身の無名指を、左手で握る。

「そのうち、悲鳴と焦げ臭い匂いがあった。
 ああ、死ぬんだなと思って、でも、娘だけは死なせたくなくてね、叫んでいたら、娘が熱いと泣き出した。火鉢の火が、そっちに回ったんだろう。
 ぎゅっと指を掴んできてね。千切れるかというぐらいの力で握って、あついあついと泣くんだよ。
 そのうち煙も回ってきてね、声が小さくなってきてね。指を握る手もゆるくなってきて、……脈もとまった」

 指を掴む左手が徐々に締まる。

「そしたら、仁平の声がして、急に身体が軽くなった。
 びっくりしたよ。梁が下に落ちていた。私は箪笥に下敷きになっていて、あの子の腕だけ梁の間からぬっと出てた。
 一面が火の海でね、奉公人のやつら、私だけ引きずっていくんだよ」

 三船は慟哭を内に閉じ込めたように、おののく。
「どうしてと思う、どうしようもなかったとも思う。分からない。でも私ぁ、あの子の指から離れてしまった」

 深く瞑る。
 閉じすぎた瞼に堪えている悲壮に、それでも涙は滲み、吉原大見世大海屋主人はか細い川をつくる。
 川は記憶から後悔を紡いでゆく。

「……次にあの子に会えたのは、夢ん中だった。
 骨を拾おうとはしたんだけど、小さくて見つからなかった。夢ん中でね、どんどん空に上っていっちまった」

 なおも、無名指を捻る力は緩まず。

「きっと、私の所業にお怒りになって、仏さんがつれてっちまったんだ。
 だってそうだろう、私には勿体無いくらいの、いい子だったんだよ。死んだ旦那の忘れ形見でね、そりゃあ、いい子だったんだ。
 死ぬわきゃあ、なかったんだよ」

 白み、捩れていく。

「どうしてだろう。こんな女の命を奪っていけばいいのに。私を殺せばいいのに。
 業というものなんだろうか。水子ばかり見てきた、業なんだろうか。
 今じゃあ鬼と違わないさ。腹いせに遊女をいたぶるんだ、恐ろしい、だから指が戻らない。あの日から、どんどん曲がっていく。
 汚い、汚い……」

 ついに指は、くの字を描いて血を失い、歪んでいた。
 しかし三船は自身の痛みなど分からぬように力を注ぎ続ける。どんどん、どんどん……。

 ひばりは溜まらず、三船の両手を離そうと手を突き出した。
 渾身の力をもって、三船の腕を掴み、制止する。手と手、指と指の間に力を滑り込ませ、引き離すために顔を紅潮させる。

「私は汚いんだ、汚い、汚い!」
 抵抗する三船の力は頑なだった。幼いひばりにはあまりにも強靭であった。しかしここで、引き下がるわけにはいかなかった。意を決して、ひばりは行動に出た。

「……おかあさん!」
 無我夢中、遮二無二に無名指を摘むと、その指に甘噛みをした。

 予想だにしていなかったのだろう。三船は刹那にひるみ、ひばりはそれを見逃さず、右の無名指を腕ごと抱き寄せる。

「あがねえ!」
 捩れた指に優しく頬を寄せ、きっと三船を睨む。いつの間にか、ひばりは目に涙を浮かべていた。

「そんなことありゃせん。おかあさん、あがねえ、それはあがねえよ……」
 ひばりはしゃくりあげながら、三船を見つめた。

「ええですか、おかあさん。わっちの生まれ故郷では、畑ばかり耕すもんで、みんな手が年寄りのようだったよ。
 だけどね、それを汚いなど思ったことはないです。手が曲がっていて、なんなんです。それくらい、どうってことありゃせん。
 神さんが曲げたんでない」

 頭を振ってから、更に頬を摺り寄せ、

「ええそうでしょう。確かに、おかあさんは沢山、赤ん坊を流したかもしれん。仏さんはお怒りかもしんねぇ。
 だけど、吉原で生きる者の、それが生きるための術でしょう。それくらい、娘さんだって分かるべ。
 子どもだって、そんぐれぇのこと」

 ひばりの心の中には、三船と三船の娘。そして村の姿があった。
 とても厳格な冬、苦界といってもまだ足りぬ寂しい土地。そこに生まれ、生きる運命を背負った者たちの姿。生き様。

 疲れきり老いた手、痛みに捻じ曲がった指。
 一体、なにを恥じることがあるだろう。

「この手は、一生懸命、生まれた土地で生きた手でしょう。吉原で生きてきた手でしょう。遊女や禿らを守ってきた手でしょう。娘さんの最後を看取った手でしょう。
 この手の、この指の、何が汚いべか!
 汚いことなど、あるものか!」

 幼い一喝が部屋を打ち、沈みゆく。

「おかあさん、おらはこの手が好きだ。
 だから寂しいこといわんでくなせぇ。悲しいこといわんでくなせぇ。そんなこと言ったら、おらは、ひばりは……」

 それ以上の叱咤は、高ぶった感情が堰きとめてしまった。悲しみは細く小さい肩を微動させ、華奢なうなじまで赤くする。
 三船は打ちひしがれたように、顔の皺を解いた。
 そうして、自分の腕に絡みつく幼い熱、ひばりに視線をこぼした。
 親に捨てられ売られてきた少女が、見世の主人のために泣いているという情景。いや、主人という概念を越えて心をぶつけている光景。
 それらが三船の潤んだ目に、ゆっくりと、染み込んでゆく。

 しばらくしてから三船は、右の無名指でついと眉間をなぞり、皺をほぐすようにひとしきり揉んだ。その動作は疲れているというよりも穏やかな気持ちから生まれたもののようで、どこか優美だ。

「ごめんよ。弱気になっていたみたいだよ」

 眉間から、ひばりの髪へと指が移る。柔らかく芯のある黒髪を撫でる。

「なんでだろうね。ただ、小島が死んだことを伝えたかったのにね。悪い話をしたよ」

 三船の様子に応じて、ひばりは顔をあげた。
 黒の眼に緑の眼に、長い睫毛が水に濡れた蝶となって瞬き、ぱっちりと開く。

「そんな。おかあさん、わっちは有難いよ。なんだかこうして二人きり、本当のおかあさんみたいだ。
 おかあさんみたい。おうちで、二人で……」

 安堵したのか、ひばりは笑みを漏らした。激情で固まっていた頬を緩め、花のように笑う。
 そうしてひばりは、再び三船の手に頬を添えた。


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