これは春エロス2008(2008/3/20/〜4/20開催)参加作品です。企画特設サイトの作品一覧表の観覧または
「春エロス」などで検索すると、他の作品群も読めます。
お楽しみ頂けましたら幸いです。
第一話「???」
――あなたの棘に、
満たされるために生まれた。
着物に頬かむり、下人の格好をした小柄な男が辻道をゆく。
彼は小鳥のようにざわめく心臓を喉下に感じながら真顔を繕うと、四郎兵衛と呼ばれる見回り小屋の男達を横目にした。男達が視線を門から外しているのを見計らい、ひいふうみいと歩みを舌で転がして通り過ぎる。
一歩また一歩と、緊張でぎこちない歩みで背後にするは、鳥籠の象徴、柳の木。
それが完全に消えてしまうと、ついに男は手を大きく振って、膝を高々と上げて大川へと向かった。
頬かむりが勢いに弄ばれ、後ろへと流れる。拍子に露出したのは、幼い影、少年であった。
冷静に頬かむりを両手で正すと、疾駆し、鳥のように飛翔する。風のように速かった。それほどまでに、少年の心は高ぶっていたのだ。
そうだ、ずっと、……会いたかった。
山谷堀というお堀をなぞるように進んで土手を上がり、少年はついに目的の匂いを嗅いだ。
むっと鼻腔に絡みつく、濃厚な水の匂い。次いで光が弾け、蒼穹と水面とを踊る太陽光が、高揚を抑えきれずに彼の全身を包み込む。
目下に横たわる大川、隅田川、と呼ばれる川のすがた。
少年は思わず、打ち震えた。こんなにも燦然とした隅田川は初めてだと感嘆に身をすくめる。
けれどすぐに目的を思い出し、遠く広くと小首を回した。
探しているのは舟渡し。舟渡しを求めて勾配を下っていき、ふいに目を止めると、彼は駆け出した。
身体が熱を帯びている。卵のような顎から汗が滴り、肺は肋骨を強く押し上げては引っ張り下ろす。
眩暈がした。倒れそうだった。けれども、ここ倒れるわけには行かなかった。
「すまないが」
激しく空気を求めながら、川岸で火を焚く男たちに声を投げた。
適当に結んだ髷、これ以上焼けることは出来ないだろうと思われるほど黒い上半身を露出し、腰に布だけ巻いた男たちが一斉に目をやる。
じろりと、嘗めるように動いた眼球の意図を彼は瞬時に悟り、後じさってしまわないよう、ふくらはぎに力を込めた。
よくよく見れば、少年はとても奇妙な格好をしているのだ。痩せぎすには大きすぎる男物の着物をだらしなく着て、頬かむりを深く縛っている。
衣服と、衣服からちょんと覗く四肢は泥をまぶしたように薄汚れていて、だが頬かむりに隠れた顔は、奇異なほど整っているようだった。男たちに伺えるのは顎と唇くらいのものだろう、しかしその一部分だけを覗っても、著名な画家の絵筆を思わせる流麗さがあった。
美貌の少年があえて大人の男の格好を真似ている。そのことに気付いたのか、一人の男がにたりと笑った。
「坊主、どっかの奉公から逃げてきた口か?」
少年は千切れる息を無理やり整えながらも頭を振って、出来るだけ低い声になるよう、喉を絞る。
「そんなことは関係ない。それより、
……心中が見たい」
「なんだ、お前もあんなものを見に来たのか」
皺の深い舟渡しが、眉間に皺を寄せる。
「けったいな世の中よ。……おい、客だ」
年長の舟渡しに手をこまねられ、火に手を翳していた一番歳の若そうな男が顔をあげた。
男はだらしない背骨を少しだけマシにすると、面倒くさそうに籠を担ぎ、よたよたと歩き出す。その背を追って少しばかり下ると、川には一隻の古い舟が水面に浮かんでいた。
男は慣れた手つきで岸と舟とを結ぶ縄を繰りながら、
「一分だ」
「一分?」
舟賃が思ったよりも高くて、喉を騙るのも忘れて少年は聞き返した。
川を渡る橋は五つもある。よほどの急ぎ用があるか物好きでなければ、渡し舟など乗るものはいない。
川に舟を持つものは大抵、漁をしているのだ。そんなに金を取るはずがない。
「まぁよ。見りゃ分かるだろう。心中見物ってのはな、良い見物になるんだ。男と女が腰紐を互いに巻いて川にぷかぷか浮かんでる。そうそう見れるもんじゃねえ」
確かに、川を一望すると、町人の乗った舟が多いようだった。
彼らが見物のために金を惜しまないのならば、客商売、値がせり上がるのも必然なのだろう。しかし。
「そんなに駄賃はない」
「それじゃあ、駄目だ」
「なんとかまけてほしい」
「はっ、駄目だ。お前が払わなくとも、客は何人と来るんだからな」
親指と人差し指で円をつくって嘲ると、男は舟を戻そうと縄を引っ張った。
少年は呆然と佇立していたが、やがて意を決し、舟渡しが手繰ろうとする舟へしなやかに飛び乗った。
「てめぇ、降りろ!」
慌てて男が少年の袖を掴む。
少年は引きずり下ろそうとする手を無言のまま弾くと、きっと睨んだ。
そして――。
「水夫よ」
河のぬるりとした匂いが爽やかな風に押し上げられ、光彩は喜びに羽を広げる。
少年は口角をあげていた。
光に皮膚の境界を失い、景色と同化する。いやむしろ、内から光を放っているようにさえ思える。
男は心を奪われた。
瞬間的に忘却の極地へと立たされる。夢見のように、その情景は美しすぎた。
「銭より何より、いいものをあげる」
頬かむりを外し、くるんと首に巻く。するりと下りる緑の黒髪と、猫のような瑠璃の流し目。紅色のふっくらとした唇に、僅かにのぞく女の色合い。
少年ではない、少女だ。
いやしかしこれは――、
「わっちを、好きに鳴かせて良いよ」
魔性だ。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。