“ハイドは死ぬ、もう誰も死なない”
彼女の遺書にはそう書かれていた。
*
けたたましく、目覚まし時計が鳴り響く。私が一番嫌いな音だ。もぞもぞと身を捩じらせながら時計を止めると、窓から差し込んだ朝日が顔を照らした。
四月になったとは云え、朝はまだ肌寒い。私は上着を羽織ると寝ぼけ眼で洗面所に向かい顔を洗う。一日の始まりだ。
身繕いもそこそこに、朝食を作り始める。我が家の場合、朝はご飯なので必然的に和風になる。今日のメニューは卵焼きに焼き鮭、そして味噌汁。ベタではあるが一寸の隙も無く、完璧なメニューだ。
窓から差し込んでくる朝日を浴びながら料理をすると云うのはなかなか気持ちがいい。卵焼きが焼き終わり、あとは盛り付けるだけと云うタイミングで夫が起きてきた。
夫に生きがいを問えば、十中八九“仕事”と答えるだろう。今の仕事は小学生の頃から憧れていたそうで、仕事にはいつも誇りを持っていた。
ただもう少し家庭を省みてくれれば云うことは無いのだが……
私は皿を並べていく。子供はいないので二人分だ。
「今日は遅くなるの?」
「たぶんな……」
「夕飯は?」
「今日は……いい」
「そう……あんまり遅くなるなら……」
「電話するよ」
素っ気なく夫は云った。
仲は冷めていた。いつからそうなったのかは分からないけれど……昔はこうじゃなかったのに。この事がいつも私を悩ませる。
夫を仕事に送り出すと、私は朝食の跡を片付ける。皿を洗う冷水が手に痛い。料理は好きだが、皿洗いは大嫌いだ。手が荒れてしまう。
“キュッ”っと蛇口を閉めながら次の仕事を考える。ああ掃除をしなければ。
先月買ったこのサイクロン式の掃除機はなかなか使い勝手が良い。これを買ってから掃除が半分の時間で済むようになった。
一通り掃除を終えると、次は洗濯だ。洗濯物と洗剤とを洗濯機に投げ込みボタンを押す。これだけで仕事は終わり、便利な世の中になったものだ。
しばらく休憩。テレビドラマの再放送を見る。ここ最近これが一番の楽しみだ。見終わると、洗濯物をベランダに干す。マンションの五階からの眺めを堪能つつ洗濯物を干していく、これが終われば午前中の家事は終了だ。
私はパソコンの電源を入れた。起動するまでの間にコーヒーを淹れてテレビを点ける。いつも見ている報道バラエティだ。
フォルダの奥深くにあるファイルをクリック。パスワードを入力して暗号化を解除する。開いたのは私の日記だ。
別に特別なことを書いている訳でもなくごくごく普通の日記なのだが、やはり誰かに見られるのは気恥ずかしいものなので、こんなセキュリティーを付けてフォルダの奥深くに隠している。と云っても、隠す相手など夫程度のものなのだが。
毎日昼前にこの日記を書くのが日課である。
(昨日は何があったけ……)
“それ”を見つけたのは、そう考え始めた矢先のことだった。
(おや……?)
昨日の分の日記が既に書き込まれているのである。そして何より私が驚いたのはその異常な文面だ。
四月二日
あの感覚が忘れられない。とどめを刺すあの感覚を……
相手の名は確か“相沢 緑”と云っただろうか。免許証にそう書いてあったと思う。
別に彼女に恨みが有った訳ではない。強いて理由を挙げろと云うなら、ただ殺したかったからだ。
ああ今もあの映像が脳裏に浮かぶ……肉を切り刻み、相手をいたぶるあの感覚が忘れられない……
あのバラバラにした感覚が今もこの手に……
(なんだこれは?)
私はこんなものを書いた覚えはない。
(相沢……緑……?)
私は記憶の糸を辿ってみた。しかし幾ら辿ろうと該当者はいなかった。
(これは一体……)
しばらく同じ自問を続けてみたが答えが出るはずもない。
テレビは芸能関係の報道をしていて、呑気なコメンテーター二人がほぼ雑談に近い会話をしている。私はあの自問を繰り返しながらそれをボンヤリ眺めていた。
ふと、それまで和やかだった空気に一気に緊張が走った。何かあったらしい。
「今入ったニュースです。昨日夕方Y山の山中で発見されたバラバラ死体の身元が先ほど判明し、警察から公式に発表されました。司法解剖の結果、被害者は市内在住の34歳の専業主婦“相沢 緑”さんであることが断定されました。警察は通り魔的犯行ではないかと見て捜査を続ける模様です」
──相沢緑?
私は慌ててパソコンモニターに目をやった。
──この相沢緑か?
先ほどのニュースでは、身元は“先程”断定されたと云っていた。つまりあのときまでに相沢氏が殺されたことを知っていたのは……
──殺した本人だけだ。
「怖いですねぇ、最近の事件を見てると存外大人しそうな人がこういう事件を起こしていますねぇ。普段温厚な人を怒らせると怖いそうですよ〜ボクの知り合いにもね、一人そんな奴がいるんですよ。いつもはホンットに大人しい優等生タイプなんですが、ちょっと怒らせるとね。もう人が変わるんですよ。本当にジキルとハイドみたいにね。ああ云うのは見た人じゃないと分からないだろうなぁ。まあ皆さん行いにはせいぜい気をつけましょう。では次のニュースです、先日発覚した……」
──ジキルとハイド……か。
あの二重人格の殺人鬼……
私は恐ろしい想像をした。昼は大人しいジキルの私……夜になると、ハイドの私が殺戮を求めて外へ繰り出す……
(馬鹿な)
私は否定した。
しかしモニターに目をやると、確かに私の秘密の日記にはあの文章が書かれているのだ。彼女が死んだと知っていたのは殺した本人だけ……
(違う、私はさっきまで相沢なんて奴は知らなかった)
ふと、あることを思い出した。例えばXの人物にYの人格が宿ったとする、するとYの人格にはXの記憶が引き継がれるがXに戻ったときにはYのときの記憶は失われているのだ。以前何かで読んだ記憶がある。
つまりもしハイドの私が相沢氏を殺してこの文章を書いたとしても、今のジキルの私は全く覚えていないのであって──
(下らない)
私は思わず心の中云った。
(全く、馬鹿な妄想だ! 私が二重人格? ジキルとハイド? はっ! 全くなんて話だ。そんなことが……)
──あるはずが無いと云い切れるのか?
今の自問に私は絶句した。
もう正午を過ぎていた。
(何か食べよう……)
私はそう思いキッチンへふらふらと向かった。
ジキルとハイド……あのことが頭から離れなかった。馬鹿な妄想だと思いつつも、断言することが出来ないことに恐怖を覚えた。
云うまでもなくあの日記のせいだ。
(何が有っただろうか……?)
冷蔵庫を開けると、大した物は入っていなかった。野菜だけは多少あったので、インスタントラーメンを作ることにした。一応肉も少し有ったが、とても食べる気にはなれなかった。
鍋に水を張ってコンロに乗せる。お湯が湧くまでの間に野菜を切っておかねばならない。
コンロの下の戸棚を開けて、いつもの万能包丁を引き抜いた。
──それが目に入った。
(見てはいけない)
私の第六感が警鐘を鳴らした。しかし私はそれから目を背けることが出来なかった。
大振りの肉切り包丁だった。いつもは万能包丁で殆どのことを済ませているので、めったに使うことはない。
──バラバラにされた死体……
私はその包丁の柄を握る。心臓の鼓動がどんどんどんどん早くなっていく……
覚悟を決めた。
(大丈夫だ……まさかこんなことがあるはずが無い……)
自分にそう言い聴かせると、私は包丁を引き抜いた。
鈍い銀色の刃。そこには荒々しく拭き取った血の跡が──
私はそれを放り出した。
*
怖い。何が怖いって?私自身が怖いのだ。いや、正確に云えばハイドの私が怖いのだ。
日記だけならばまだ良かった。これだけならば何かの間違いだと思えた。私が二重人格なんてあるはずが無いと、確証や証拠は無くても心の底ではそう思うことができたし、実際その可能性の方が遥かに現実的なのだ。
しかしあの包丁を見つけてしまった。恐怖を押し殺して調べて見たが、血は間違いなく牛肉や豚肉の物ではなかった。乾いてはいたが、水で濡らすと簡単に拭き取る事が出来たので、血が付着したのはつい最近のようだった。私がこの包丁を最後に使ったのは二月前のことだ。夫は料理などしない。
客観的に見れば、これだけで二重人格ではないかと思うのは馬鹿馬鹿しいと思えるのだろうが、私に恐怖心を植えつけるには十分だった。
私は怖い。存在するかも分からない、ハイドの私が怖い。
私はあの日記を読み返した。
(ああ私は、本当にこんな事をしたのだろうか……)
いくら考えたところで答えが出るはずは無い。
十一時過ぎに夫は帰ってきた。夫が風呂に入っている間に、極々簡単な夜食を作った。私は昼から何も食べていなかった。しかし空腹は感じなかった。
お茶漬けを食べる夫を眺めながら私はまたあのことを考えた。しかし恐怖がこみ上げるだけで考えは同じところを堂々巡りするのだ。
「ねぇ……」
夫に話しかけた。
「なんだ?」
「二重人格……って本当にあると思う?」
「どうして?」
相変わらず素っ気無く夫は話す。
「ちょっと……ね。テレビで見たから」
会話はそれで終わった。
その夜はとても寝れないだろうと思っていたが、気疲れしていたらしく直ぐに深い眠りに落ちた。
あの音が鳴り響く。こんなうるさい機械は無くなって欲しいとも思うけれど、無ければ起きられないので仕方がない。
いつものように朝食を作り、夫を送り出す。掃除をして洗濯をしてドラマを見る。いつも通りの一日。
パソコンの電源を点けた。
自然の力は偉大だ。朝日を浴びながら家事をしているうちに昨日の恐怖感は薄れていって、楽観的にこう考えることが出来たのだ。
(やれやれ、昨日はどうかしていたのではないか。私が二重人格だなんて……あの日記や包丁だって何かの間違いに違いない。いや、そもそもあんな物は存在しなかったのではないだろうか? 疲れから来る幻覚だったのでは?二重人格よりも遥かに現実的だ。きっとあの文章は消えているに違いない)
そう思って日記を開いた。けれどあの文章はそのまま残っていたし、更には新たな日記まで書き込まれていた。
四月三日
ああ殺したい殺したい。またあの感覚を味わいたい。 けれども今度は慎重にやれねばならない。相沢の死体は発見されてしまった。もっと良い場所を探さなければ。
私はこっそり部屋を抜け出し、夫の車に乗り込んだ。
思ったよりも簡単に、その場所は見つかった。ここなら絶対にバレないだろうと思う。
明日だ、明日やろう。私は明日人を殺す。どんな奴を殺そう? 子供にしようか、大人にしようか。男にしようか、女にしようか。
帰る分のガソリンが足りなかったので、帰る途中で給油した。一応顔を見られないように注意はした。
家に辿り着いてこれを書き始めた私はとても興奮していた。頭は明日のことで一杯だ。
ああ楽しみだ楽しみだ。明日が楽しみで仕方ない。
血の気が引いていくのが分かった。
何もする気が起きない。あのことが頭から離れない。ハイドの私は今夜人を殺すかもしれない。私にはどうすることも出来ないのだ。
既に夜は更けていて、夫が帰ってきても不思議ではない時間だった。
“ガチャ”っと扉が開く音がした。夫が帰ってきたのだ。
私は夕食の準備を始めた。
夫と知り合ったのは大学一年のときだ。同じ学部だった私たちは次第に新興を深めていって、三年のときに付き合い始めた。
大学を卒業後、私たちはそれぞれ別の会社に就職したが、その後も三年の間交際を続け、ついに結婚した。私は会社を辞め家庭に入った。
最初は上手く行っていた。しかし……やがて二人の間に小さな歪みが生まれた。本当に小さな歪みだったけれど、その歪みは少しずつ少しずつ……だが確実に大きくなっていった。
私は夕食口に運んでいる夫の顔を盗み見た。
夫は浮気していると思う。特に断定できるだけの証拠があるわけではない。けれど随分前からなんとなく夫の挙動がちょっとおかしいような気がするのだ。
「なぁ……」
「え?」
夫から話しかけてくることは珍しいので私は少し驚いた。
「昨日の夜中……どこかへ行ったのか?」
まるで冷水を浴びせられたような感覚に陥った。
「どう……して?」
「昨日夜中に部屋を出て行っただろう? それに車のガソリンがほとんど残ってなかったはずなのに今朝は満タンになってたから」
外は漆黒の闇。その中に街灯が幾つかぽつんと立っているのを私は寝室の窓から見ていた。隣のベッドでは夫が既に軽い鼾を欠き始めていた。私は灯りを消して(私は暗くないと眠れない)頭から毛布を被り、ベッドにもぐりこんだ。
ベッドの中で私は震えた。今夜私はまた人を殺すかもしれないのだ。自分の意思で止めることは出来ない。
──私はただただ祈り続けて朝を待った。
*
“ジリリリリリリ”
例の音が鳴り響く。私は力一杯スイッチを叩いた。朝日が顔を照らす。気分は最悪だった。それでもなんとか朝食を作り、夫を仕事に送り出す。
家事などできる気分ではなかった。夫を送り出した私はパソコンの前にペタリと座った。
パソコンが起動する間に心臓がどんどん早くなっていく。起動すると、フォルダを開き、例の日記にカーソルを合わせた。手が震え、心臓が更に早くなっていく……
震える指で“カチッ”とクリックした。パスワードを入れる。
四月四日
殺した。例の場所でだ。
部屋を抜け出して獲物を探した。時間が時間だからあまり人通りは無い。
しばらく陰気な路地で車を走らせていると、そいつを見つけた。
ダークグレーのスーツに同系色の鞄を持ったサラリーマン風の男。猫なで声で誘うと簡単に車に乗ってきた。車であの場所に向かった。
そして彼にナイフを突きつけて外に出るように促した。
震えて立ち尽くす彼の喉仏にナイフを突きつける。
まず右肩を刺した。彼は叫び声を上げたけれど、周辺には民家は無いので誰も助けになど来ない。
ナイフを刺したまま、私はこの前使った肉切り包丁を左腕に叩きつけた。“ブシュ”っと云う心地よい音と供に鮮血が腕から湧き出る。彼はまた悲鳴を立てて倒れこんだ。
右肩のナイフを抜いて、代わりに包丁を叩きつける。右腕が半分千切れかけた。動脈から血が噴出す。彼は激しく身をよじり抵抗しようとする。
腹部にナイフを突き立てた。黒っぽい血が流れ出る。彼は一際鋭い悲鳴を立てた。しかし私が心臓にナイフを突き立てると、だんだんと動かなくなっていった。
彼が死ぬと私は解体の作業を始めた。肉切り包丁を使って切り分けていく。人間の骨や筋は意外と硬いので少々大変だ。
まずは右腕。半分千切れかけていたので割合簡単に切り落とせた。左腕に取り掛かる。“ゴリッゴリッ”と、音を立てながら、骨を切断していった。同じ要領で、足や首も解体した。
刃を食い込ませる毎に噴出す血や、骨や筋の硬い感触が私の思いを掻きたたせた。死体は彼の荷物と供に近くの林に棄てた。まず見つかる恐れは無いだろう。
ポケットに入っていた免許証に彼の名前が“大久保 真一”とあったと思う。
大久保の死体を棄てる前に、私はデジカメで写真を撮った。この写真を見ると、あの感覚がまた手に蘇ってくる。
私はいつもパソコンの傍に置いてあるデジカメに手を伸ばした。恐る恐る電源を点ける。高級そうなグレーのスーツに身を包み、手足がばらばらになった男の映像が──
私はそれを放りだして、寝室のベッドに潜った。
(忘れろ。忘れるんだ)
必死に自分に云い聴かせた。しかしどう振り払おうと、あの映像が頭から離れない。あのばらばらの四肢、あのどす黒い血……
殺した相手は“大久保真一”だった……当然ながら知らない名前だ。
──知らない名前?
「大久保真一……」
声に出して呟いてみた。
確かに知らない人物のはずだ。けれど……何故だかこの知らない名前に聴き覚えが在るような気がしたのだ。
家事などできるはずがなかった。気分は最悪だ。あの映像が頭を過ぎる度に吐き気を覚え、昼前には一度嘔吐した。
一日ずっとそうしている内に、外はすっかり暗くなっていた。夫の夕食を作らなければならないけれど、それどころではなかった。今夜はインスタントラーメンで我慢してもらおう。
ああ怖い怖い怖い。ハイドの私は今夜も人を殺すのか? また包丁やナイフで刺し殺し、バラバラに解体してしまうのか?
(眠よう、寝てしまおう。朝までゆっくり眠ろう。大丈夫、私は誰も殺したりはしない)
*
いつものようにあの音に起こされた。朝日が顔を照らす。今の私には嫌味にしか思えない。
昨日よりはいくらか気分はマシだった。しかしそれでも悪いことには変わりない。それでもどうにか夫を送り出し、パソコンの前に座る。
電源を押す手が震えた。傍らには昨日のデジカメがあったがとても触る気にはなれない。
四月五日
残業帰りのOLを殺した。人通りの無い路地を歩いていた。年は私よりいくつか下だと思う。上手い口実が思いつかなかったので、最初からナイフで脅して車に乗せた。
例の場所にあった大きな石で頭を殴った。かなり血が出たが死んではいないようだったので、左腕を石で潰した。鋭い悲鳴を無視して間髪入れずに右手に石を叩きつける。“ミシッ”っと云う音と供に腕が潰れた。
痛みが相当激しいらしく、両足で私を攻撃してきた。しかし右足にナイフを突き立てると途端に大人しくなった。
抵抗がなくなったところで、私は石を彼女の顔に落とした。
私は彼女をまた写真に取った。免許証は持ってなかったが、名紙に“安藤 美里”とあった。明日はどうしよう? 誰を殺そう?
そうだ明日は二人同時に殺してみようか? 一人のときとはまた違った感覚が味わえるかもしれない。
明日、私は人を二人殺す。
吐き気がこみ上げた。トイレに走り吐くだけ吐いた。あの日記が脳裏を過ぎる。ハイドの私はまた人を殺したのだ。“安藤 美里”と云う赤の他人を──
──昨日の感覚が脳裏をよぎった。あの“大久保真一”と云う名に感じたあの感覚が。何なのだこの感覚は? 私は確かにこんな人物は知らない。なのに何故? ハイドの記憶はジキルには無い筈なのに──
*
トイレから戻った私はパソコンの前に座りあの日記を読み返した。しかし何度読み返してもその文面は変わらない。自然と、デジカメに視線が移っていった。震える手を伸ばした。
(見たくない……見たいはずがないではないか)
そう思ったけれど、一方で“見なければならない”と云う妙な強迫観念にも捕われていた。
深呼吸を一つして腹を括ると、電源を点ける。
くちゃくちゃに成った顔や手、胴体が血の海の中に放りだされていた。
強烈な吐き気が再度込み上げて、私はカメラを放り出すとトイレに駆け込みまた嘔吐した。戻すものがなくなってもまだ酸っぱい物がこみ上げてきた。
──ヒトゴロシ、ヒトゴロシ、ヒトゴロシ……
私の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。ハイドの私は今夜も殺す。それも二人……
誰かに相談しようと思ったけれど、こんなことを信じてくれそうもない。──いや、そもそも相談できるような人がいなかった。今まで意識していた以上に私は孤独だったらしい。夫なんてもってのほかだ。よしんば信じてくれたとしても、夫は確実に私を警察に突き出す。
ひたすら悩み続け、気がつくと夕暮れになっていた。朝から何も食べていないけれど、全く食欲が無かった。
私は夫に冷凍食品の食事を用意してラップをかけた。
終わると、私は寝室に行き毛布を被る。
──ジキルの私は、ただ怯えることしか出来ないのか……
*
真夜中に、私は起き上がった。横には夫がベッドで丸くなっている。眠れるはずなどなかった。私はひたすら考え続け、結論を出した。止めなければならない……絶対に。
──ジキルが死ねばハイドも死ぬ。
それが私の出した結論だ。私は今夜首を吊る……
リビングの天井からロープを吊るした。私は早速踏み台に上ろうとしたけれど、直前で少し躊躇った。別に怖気づいたわけではない。遺書を残した方が良いかもしれないと思ったからだ。
──何を書こう? あまり詳しく動機を書くわけにはいかない。殺したことが発覚してしまう。私はあくまでも一連の事件とは関係の無いものとして、名誉を傷つけずに死にたかった。
散々迷った挙句、私は短い文を書いた。これは遺書と云うよりも、私自身を安心させるための物だったのかも知れない。
“ハイドは死ぬ、もう誰も死なない”
私はそのメモを満足げに眺めてからポケットに突っ込むと、踏み台の椅子に上った。早くしなければ……いつハイドの私が目覚めるか分かったものではないのだ。私は大きく息を吸う。
「大丈夫……もう誰も死なない……」
そう呟くと、私は椅子を蹴った。
──恐怖は無かった。感じたのは、悪夢から逃れる安堵感……
*
顔を上げると、刑事が一人立っていた。
「ああ、君か……」
「検死の結果がでました」
「教えてくれ……」
「奥さんは間違いなく自殺です。殺してから吊るされたと云うことは絶対にありません」
「……」
「それと……着衣のポケットから、その……」
「なんだ?」
「遺書と云って良いのか……妙なメモが見つかったんです」
と云うと、刑事は紙切れを差し出した。
“ハイドは死ぬ、もう誰も死なない”
「どういう意味か……分かりますか?」
「……いや」
*
妻との仲が冷め始めたのは、あの女に出会ってからだ。
飲み屋で出会った水商売風のその女は、持ち前の魅力を当たりに振りまいていて、俺は直ぐに虜になった。
俺は妻よりその女を愛し始めた。女も俺を愛してくれた。妻とのすれ違いが徐々に多くなっていった。
俺はたびたび女と会った。そのたびに俺の愛情は深くなり、妻のことは忘れていった。子供の頃から憧れていた自分の仕事だけに俺は生きてきた。そんな俺に女との関係は刺激的だった。
「子供が出来たの」
その言葉を聴いたとき、俺は飛び上がって喜んだ。妻との間に子供は無かったので尚更だ。
その瞬間からだ。妻が邪魔になったのは。
「子供が生まれるまでに結婚して……じゃないと、全てを世間に公表するわ」
女はそう云った。公務員で、それなりの地位にも着いている俺にはこの脅しは絶大な効果があった。俺は妻を愛していなかったし、女と一緒にもなりたかったから直ぐに妻と分かれたかったが、大きな壁があった。仕事だ。
いきなり妻と離婚して、他の女と一緒になればよからぬ噂が間違いなく職場に流れ、俺の地位は地に落ちる。
けれども俺は、ずっと憧れ続けたこの仕事だけは何を犠牲にしても絶対に失いたくなかった。
──コロシテシマエ……
そんな囁きが聴こえた。それはいくら振り払っても、頭から離れることはなかった。
その日から俺はどうやって妻を殺すのかを考え始めた。絶対に捕まってはいけない……計画はなかなか浮かばなかった。
そんなときだった。あの事件が起こったのは。
四月二日。夕方に身元不明のバラバラ死体が発見された。
本庁の警部である俺はこの事件を担当した。何時間か後に付近の林から免許証が発見されたが、遺体は顔の損傷が激しく、司法解剖に回していたので、身元の発表は翌日になることになった。免許証には“相沢 緑”とあった。
俺は少し彼女に付いて調べたが、特にトラブルらしいトラブルに巻き込まれたこともなく、怪しい交友関係も無かった。解決の難しい通り魔の可能性が高かった。
──この計画を思いついたのはそのときだ。
マンションに帰ってベッドに入った俺は、妻が寝たのを確かめるとこっそりと寝室を抜け出した。妻が日記を書いていることは前々から知っていた。パスワードは妻の誕生日だった。甘いセキュリティーだ。
そして俺はあの“日記”を書き込んだ。
書き終わった俺は台所に行き、肉切り包丁に自分の血を付けておいた。妻が発見すれば駄目押しになると思ったからだ。
翌日、マンションに帰ると、妻の顔色が悪かった。初日なのであまり期待していなかったのだが、思ったより効果があったらしい。
昨日と同じように寝室を抜け出して、パソコンに向かった。次の日、妻は見るからにやつれていた。俺は計画が上手くいっている事を感じた。
俺は駄目押しに、ガソリンの事を話題にして、その夜も“日記”を書いた。被害者の名前を考えるのが面倒だったので、大学時代の同級生の名前と苗字を入れ替えることにした。“安藤 真一”と“大久保 美里”から“大久保 真一”“安藤 美里”といった具合だ。妻とは別に仲が良かった訳でもなかったはずなので、気づく事は無いだろう。
インターネットで入手しておいた合成写真をデジカメに入れておく。
仕事をしているときも、このことで頭が一杯だった。マンションに帰ると、妻の姿が見えなかった。寝室を覗くと、妻がベットの中に潜っていた。寝てしまっているらしい。俺は適当に腹ごしらえをすると、“日記”の作業に取り掛かった。手ごろな写真を手に入れておくのも忘れない。
朝。目を覚ますと、隣のベッドに見知らぬ女性が寝ていた──と、思ったのは一瞬で、よく見ると妻だった。元々白かった顔が更に青白くなり、心なしか頬も痩せ、まるで別人のように見えた。
この日は仕事が暇だった。事件が起こるわけでもなく、ひたすら書類整理に時間を費やした。
仕事を終えると、寄り道をせずにマンションへと帰宅した。昨日と同じように妻はベットに入っていた。食事もそこそこにパソコンの電源を点けると、二人の人物をじっくりと残虐していく様子を生々しく書き込んでいった。
その夜はどうした事かなかなか眠れなかった。ようやくうつらうつらと眠気がやってきた頃に、隣のベットが軋んだ。妻が起きたのだと悟り、俺は慌てて狸寝入りをした。
寝室を出て行った妻はなかなか戻らない。
──もしや
と思い、俺は寝室を抜け出した。心臓が早鐘を打ち、不安と期待が入り混じる。
リビングに行くと妻がいた。吊り下げられたロープに首をかけていて、何やらぶつぶつと呟いていたけれど、上手く聴き取ることが出来なかった。
──そして妻は首を吊った。俺は扉の影からそれを見ていた。
妻は何も疑われることも無く、直ぐに自殺と断定された。意味不明の遺書──俺にはすくなからず理解できるが──を残していたため、精神異常による自殺が疑われた。俺はそれらしい挙動があったことを匂わせておいた。
俺はあの女と再婚し、別のマンションに引っ越した。早い再婚も俺の思惑通り、妻を失った悲しみからだと同情を引いて、妙な噂がたつことなど無く今も無事に仕事を続けている。
朝食の席で、俺は新たな妻に目をやった。腹もだいぶ膨らみ、時期に出産だ。
──俺は妻に微笑みをかけた。妻も俺に微笑を返した。
*
あの女が死んだと聴いたとき、私は心の中で“ザマァミロ”と、思いっきり叫んだ。
あいつから受けた屈辱は絶対に忘れない……私が復讐する前に、あいつはとっとと会社を寿退社した。けれど私はそんな事では諦めなかった。
私はあいつの夫に近づいた。少し色目を使うと、直ぐに私の虜になった。私は彼と関係を深めていった。私は彼から今のあいつを探りつつも、彼のことも聴きだした。もしかしたら利用できるかもしれないと思ったからだ。そのうちに彼の仕事に対する執着ぶりを知った。これを利用しない手は無い。
私はあいつを殺すため、彼との間に子供を作った。そして子供が出来たことを打ち明けると、
“子供が生まれるまでに結婚しなければ全てを公表する”と持ちかけた。そんな事になれば彼は破滅だ。かと云って、離婚して直ぐに再婚すれば、よからぬ噂が流れて結局彼は職を失う。だから私は“子供が生まれるまでに”と云う期限を付けたのだ。
彼は板ばさみになり、自らを守るにはあいつを殺すしか無いと云う状況に追い込まれた。──いや、もう一つ彼には道があった。あいつではなく私を殺すと云う選択肢だ。けれど私はそうはならないように、彼を私に徹底的に惚れ込ませておいた。
そしてしばらくすると、“妻が自殺した”と、彼の口から聴かされた。どうやら彼は上手く殺ったらしい。私は以外に思った。
彼は私と再婚し、新しいマンションに引越し生活を始め、もう直ぐ子供も生まれる。
けれども私は、子供が産まれたら親権を彼に譲り、離婚するつもりだ。彼は私を愛しているけれど、私は彼を愛してはいないのだ。彼と結婚したのは、産まれてくる子供が哀れに思えたからだ。彼(それとも彼女?)には別に恨みはないのだ。だが私一人で育てるのは大きな負担になる。私は子供の親権を彼に押しつけ、自分の人生をまた歩むつもりだ。
──朝食の席。彼は私に微笑みをかけた。私は作り笑いを返しておいた。
了 |