第88話 異動人事?
「う……ん?」
ナンか焦げ臭い???
ああ、何かが焼けているんだな?
モウロウとした俺の意識が、妙な匂いをキャッチした。
けど、ココのマンションはオール電化で制御されている。
火の元を扱うものは総て制御機器が据え付けられているから、火事とは無縁のハズなんだが……?
……にしても、旨そうなモノが焼け焦げて、香ばしい匂いも混じってる。
ナニを焼いてるんだ?
誰が……焼いてんの?
「こん! こん! けほけほ、けほっ!」
誰かが別の部屋で咳き込んでいるのが聞えた。
ん? ……誰かが? ……ってえええっつ???
そりゃ、一人しか居ねぇだろっつ!
俺はガバッと跳ね起きた。
眼を開けた俺は、部屋中に充満した白い煙と焦げ臭い匂いに仰天する。
「あっ、アオイッツ!?」
遣ってくれたなっ!
俺はドタバタとキッチンへ急行した。
目の前には、煙で眼を遣られて泣きながら咳き込んでいるアオイと、その足元で同じく咳き込んでいる毛玉仔猫のマリが居た。
俺は慌ててIHコンロのスイッチを切り、コンロ上に据え付けてある大型換気扇を起動させると、手当たり次第に各部屋の窓を開けて行った。
業務用換気扇に匹敵する仕様のお陰で、瞬く間に煙と焦げた匂いが取り払われる。
「アオイッツ!」
「ごっつ、ごめんなさいっつ!!!」
俺の怒鳴り声にビクッたアオイは、胸の前でフライパン返しを両手で持つと、素直にペコリと頭を下げた。
「……」
ナンだよ? 意外と素直じゃん?
俺はアオイの反応に軽く退いてしまった。
「あ、あ、あのっ、つ、司に朝ごはん……作ろうって思って、そっ、そいで……」
終わりの方は、半泣きだった。
「司の……そ、そのっ、お嫁さんになりたいから、あの、朝ごはん作らなきゃ……って……だ、だけど上手く出来なくって……」
「……」
俺はアオイの後ろに見え隠れしている、大量の卵の殻を見付けてしまった。
同時に、まな板の上に乗っけられた大量の焼きコゲ卵を発見してしまい、それ以上アオイを責めるコトが出来なくなってしまう。
※−1)『司のお嫁さんになる!』……そう言や、初めてココに遣って来たあの時も、そんなコトを言ってたっけ?
「アオイ、お前なぁ……」
「司が恵理さんのコト好きなのは知ってるのっ。でもね? アオイだって司のコトがスキなんだもんっつ!!!」
「……」
……こう言うコトを、朝っぱらのこの非常時態に言うかな?
俺は強引なアオイに怯んでしまう。
大量にムダに消費しちまった卵やその他諸々の調味料……注意して、叱って遣らなきゃなんないコトが一杯あった。
なのに、俺は先にアオイに告られるって言う『先手』を打たれてしまい、言わなきゃなんねーコトを有耶無耶に見送ってしまう。
甘いな? 俺。
特定のオンナを持たなかった時の俺とは大違いだ。
以前の俺なら『フザケンナっつ!!!』で、お終い……だったのに。
アオイは俺に叱られるのを覚悟して小さくなり、上目遣いで涙ぐみながら俺の顔色を窺っている。
そんな顔すんなよ。
「……ま、アレだ……朝飯は俺が作るから、アオイは新聞取って来て?」
「怒んないの?」
「なんで?」
「卵いっぱい遣っちゃったし、どれも失敗して食べられないんだよ?」
アオイの言葉に肩の力が抜けた。
「……自分で判ってンじゃん」
それ以上、俺がナニを言い上げるってンだ?
俺はアオイの頭にぽんと手を載せた。
* *
「っはよーざいまーす」
二匹の仔猫を無事冴子の所へ送り届けて、俺にしては珍しく始業時間の五分前に、持ち場である第三設計課のドアを開けていた。
「……」
「……」
社員数十五人のうち、女性社員五人全員が頭をつき合わせ、声を潜めて話していたが、彼女達は俺を見るなり突然会話を止めて、モノ言いたげな視線を一斉に遣して来た。
「……? ど……どうしちゃったんです?」
ナンか空気がヘンだ。
俺の声を聴いた途端、彼女達はお互いに目配せをして、ソレゾレの机に戻って行った。
呆然と立ち尽くす俺の目の前を、シカトで素通りして行くヤツも居る。
ナンだよ? この空気はぁ?
事務所内で噂になっている人物は、多分俺。
ソレは判っているんだが……???
「ナンかあったンすか?」
俺は席に着くなり、向かいの鈴木主任に事情を説明して貰おうとして声を掛けた。
「おはようさん……最後まで知らなかったのは、どうやら本人みたいだな?」
主任は相変わらずの見事なペン回しを披露しながら、複雑な面持ちで俺を見返して来た。
「……は?」
「日高、お前誰か……上の連中に睨まれているのか?」
「っあ? ナンのコトっすか?」
キョトンとした俺の表情を読み取って、主任が浅く溜息を漏らした。
「だからさぁー、ホンッと頼むからぁ〜、揉め事はカンベンしてくれよ?」
「……は?」
俺は主任の言葉に内心ムッとする。
っても、状況説明もナシでイキナリ俺に『カンベンしてくれ』って言われたって……俺だってカンベンして欲しい。
「惚けているのかと思ったが、ホントーに何も知らないのか?」
「はぁ? ナンのコトだかさっぱり……」
華麗なペン回しをしていた主任の手が、ぴたりと停まった。
手から落ちそうになったペンを、素早く利き手でキャッチすると、主任は俺の様子を窺うように細い眼を更に細める。
そして、一際声を潜めてこう言った。
−「今朝、社内ポータルサイトで、お前がマレーシアの工場に異動する旨の業務連絡があったんだ」
「えっつ???」
――いっ、異動? マ、マレーシア工場……って
一気に俺は青ざめて、厭な冷や汗が滝のように流れ出す。
マレーシア工場って言ったら、※−2)ゴキと生活して頑張ってるって記事が社内報に載っていたヤツと同じ所じゃねーのかよ???
――冗談じゃないっつ!!!
「マ……マジっすか?」
「ああ」
つか、そんな話、俺は全く聞いてねーぞっつ!!!
ドコの会社でも同じだとは思うが、業務連絡で全社に向けて発信される人事異動は、本人の承諾を了承してからの掲載に至る。
俺の慌てた表情を訝った主任は、机上に肘をついて腕組みをした。
「しかも、この異動の事を、ウチの白石さんが知らなかった。ついさっき、俺宛に確認の電話が入ったんだ」
「か、課長から?」
「ああ。それも豪い剣幕でな? 日高が承知したのかとも訊かれたが、そんな事訊かれたって返事のしようが無い。コッチだって知らなかった事だしな?」
意味深にそう言って、主任は俺の出方を窺っているようだった。
「……」
俺は言葉を失った。
それが誰の差し金なのかを、俺はスグに判ってしまったからだ。
「でな? 日高の異動を誰が決めたのかって、部内で持ち切りなんだよ……心当たりないのか?」
「え? ……ま、まさかそんなの……ある筈ないですよ」
俺の心臓がドキリと厭な音を立てた。
――公表してしまったのは、きっと伊達総務部長。
金曜日のあの夜に、俺に忠告と制限を掛けて来て、逆に恥を掻かされたのが、直接の理由だろう。
それとも俺が恵理を部長から奪ったと思われているのかもだ。
木村工業での人事異動は、毎月のように頻繁に行われていて、別にコレといって珍しいコトじゃナイ。
通常、異動=左遷の公式は、ここ木村工業では当て嵌まらない。
現に、上司の席に座る者でも、コロコロと持ち場の部署が変わっている。
特に幾つもの肩書きを持つ『兼任』の役職を務めている者の異動は顕著であり、昇進・昇級と見なされていて、反対に一つの部署の肩書きの『専任』上司であれば異動も無く、その将来性は余り期待出来ないと言うジンクスが囁かれている。
だけど俺の場合、入社半年後のイキナリな海外異動。
しかも、現時点で『設計部門』に所属していながらの『工場』への異動は、誰が見ても格下げ異動だろう。
とても将来性の期待出来る社員が、待遇されるような状況には思えない。
……あのヤロウ……
思えば、それだけ部長が甚くプライドを傷付けられたってコトなんだろうが……
つか、職権乱用だろっつ???
それに、恵理もこのコトを知らなかったって……
言い表しようの無い不安に煽られて、俺は自分の自由を奪うオモリを胸に載せられてしまったような気がした。
「よお、日高。業連見たぜ? 流石だよなぁ。出世街道マッシグラってか?」
トイレで用を足していると、特許管理課の石川が声を掛けて来た。
あっつ、もぉ。
タダでさえ混乱してて、頭がどうにかなっちまいそうだって悩んでるのに、こんな時にお祭り大好きの石川とハチアワセかよ?
イヤミたっぷりの明るい笑顔を振り撒く石川に、俺はウンザリして肩を落とした。
「資材部の中川さんにもその話があってな? 入社四年目で辞職かよって泣きみてた」
「え? 辞職って……行かないのか?」
「馬鹿言え。都市の真ん中に建設するのとはワケが違うんだぞ? 家族思いで娘さん命の先輩が単身で行けるか? 俺だって勘弁だ。誰が行くかよ? ……んで? 身軽なお前は行くんだろ?」
『身軽』って……
チラリとアオイと恵理の顔が頭に浮かんだ。
俺、ナンだカンだで主夫遣ってるし。
「ナンでそう言い切れンだよ?」
「お前がOK出したから業連に載ったんだろ?」
「……」
『違うんだ!』
俺はその言葉をグッと飲み込んだ。
つか、この期に及んで否定なんか出来ねーよ。
通常の手続きをしてくれていれば、俺だってソレナリに考えたさ。
なのに一方的に……
俺の胸のオモリが更に大きくなって圧し掛かる。
石川は、そんな俺の胸の内にはちっとも気付かない。
「東南アジア最大拠点候補地のマレーシアかぁ〜。あそこは日本国内の大手企業工場が立ち並んでるチョットした工業地帯だ。日本人も多いんじゃないか? っま、クソ暑くて大変だろうが先発隊頑張れよ? 俺達は新社屋が完成してから涼みに行って遣るからよ?」
石川は皮肉を込めて厭味っぽく笑った。
……他人事だと思いやがって!
俺は石川の笑顔に無性に腹が立った。
もっとも、特許管理室って言う石川の所属している部署内での海外異動は、まず在り得ない。
「まぁ、五年間は向こうだな? どうだ? 戻って来れたら『英雄』だぞ?」
「!?」
……ごっ、五年……間?
何気に言ったその言葉に、俺は鼻白んでドン退きした。
「どうした? そのくらいでコッチに戻って来られるんなら儲けモノだぞ? そのまんま海外の拠点をたらい回しに彷徨わされるってーヤツも居るそうだからな? お気に入りのモテ過ぎちゃんで困ったねーっ?」
馬鹿にしてンのかよ?
俺の災難を知らずに、目の前でフカシテやがる石川にマジクソムカついた。
「ああ、羨ましいだろ? ツイデに『石川も俺と同じく異動を希望しています』って伊達さんに伝えておいてやるからな?」
俺は、石川から何かしら嫉妬みたいなモノを読み取っていた。
ナニかカン違いをしているぞっつ???
伊達部長に俺が気に入られているとでも思っているのかっつ???
その逆だっ!
先に用を済ませた俺は、ノー天気な石川のシャツで手を拭いた。
「うわっ! キッタネーッツ!!!」
「ふふん!」
俺なりの仕返し。
って、ガキかよ?
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