逃避行⑥
サブタイトルのセンスの無さが痛い今日この頃…。
「転属は今から有効だ。装備課で荷を受け取ったら空中騎兵詰所へ行け。書類はこれだ」
ヴァロア王国情報部部長が大きな書類鞄から羊皮紙の束を押し付ける。
「は?」
元リスタル侵攻軍参謀サミュエル・ペルティエは耳を疑った。
侵攻作戦失敗の聴き取り調査から始まり、異例の転属、新しい任務を聞いたばかりである。
「貴様の身分は情報部付特務大尉だ。軍部での扱いは2階級上と同等なのは説明するまでもないな?」
「はい。身分について疑問はありません。しかし、今すぐ移動ですか? 経過説明も任務内容も理解しましたが、標的の目的地は判明しております。追跡は不可能であるとおっしゃいましたよね? 強引に追跡をするよりは、詳細な情報を収集した上でと愚考しておりますが?」
サミュエルとしては自分の分析力と判断力を買っての配属だと思っている。対象の情報収集とその分析が先だと判断していた。
「標的の速度は貴様も判っているだろう? 情報収集は続行させるし、報告は届けさせる。分析は移動しながらでも出来るだろう? イリキアが目的地という情報とて正確ではないのだ。一足飛びにリッタイトまで行かれたらどうする? 今は拙速を尊ぶべきだ」
上司の言葉は尤もであるが、相手は空中騎兵の速度を上回る。リッタイト以東が目的地であれば、こちらも充分な準備の上、長期的な視野で臨むべきだと判断していたサミュエルである。
「心配するな。王家が本気なのだ。物資も資金も人員も白紙委任されている。可能な限りの手を打った。貴様はまず標的と接触することを第一に行動しろ」
任せろとばかりに自分の胸を叩く情報部長。情報部といえば陰湿な噂ばかりを聞くが、まとめ役ともなると案外この男のような親分肌でないと務まらないのかもしれない。あくまでも表向きの顔としてだろうが…。
「それに直接追尾は不可能かもしれないが、標的の移動距離は予測以下だ」
「はい。速度に較べて距離が稼げているわけではありません。日中の限られた時間だけを移動にあてていると考えます。全力での移動なら、ロッソ離脱の翌日リネツィア上空に達する時間は確認された半分以下でしょう」
夜間飛行をせず、休息に重きを置いていると判断できる。慎重且つ、安全な道程だ。
ここまで推察されたのは直時達の油断でもあった。戦闘を主とする空中騎兵は長時間の飛行には向かず、彼等の巡航速度は直時達のそれには遥かに及ばない。夜戦専門の騎獣は昼間の活動を制限されるし、中継点を設けて日中用、夜間用と乗り換えるにも自分達の突発的計画に対応できることはまずないと考えていたからだ。
全て納得したわけではないが命令とあれば仕方無い。そう思ったサミュエルは渡された書類を素早く確認していく。速読で脳裡に刻みつける中に、無視できない書類があり手を止めた。
「……民間人も同道せよとはどういうことですか?」
3騎編成で複座。騎兵以外の3人が自分と護衛であるのは理解できるが、残りのひとりがエリア・ブロサールという女性とのことだ。強行軍に耐えられるとは思えない。
「金と女と言っただろうが。現物を見せねば相手も納得するまい。没落はしたが子爵位の第3息女で器量良しと評判だ」
「貴族の娘っ子に今回の飛行は無理と考えます」
命令とは言え、あまりの無茶振りに非難の眼を向けてしまうサミュエル。
「綺麗な娘っ子でも芯は強い感じだったぞ? 邪魔なら途中で捨ててくれと言う覚悟も気に入った。ロッソでの交渉に送り込む予定だったが、仕事内容は同じだ。彼女も既に待機しているだろう。貴様も覚悟を決めて任務を果たせ」
最後の言葉は命令だった。サミュエルは無言で右拳を左肩に当てる。ヴァロア式の敬礼である。
ペルティエ特務大尉にとって何から何まで異例ずくめの命令であったが、人払いがされた空中騎兵離着場で待っていた獣騎が一番の驚きであった。
「白い体毛に4枚羽根……。飛竜の上位種……」
翼蜥蜴とは明らかに違う。海竜のように長い首、紡錘形の胴体の中ほどからは大きな主翼、すぐ後ろにやや小さな副翼、尾は二叉に長く伸びている。脚は2本で地走鳥のように細くはあるが、大きな爪は地面をがっしりと掴み、力強さを感じる。
白烏竜。
人族と変わらぬ知性を持ち、固有術以外にも個体によっては人魔術すら操ることが出来る。強靭さは獅子胴鷲に劣るものの、飛翔速度に優れ、渡りの習性から長距離飛行にも秀でている。本来なら普人族の騎獣になどなるはずもない種族である。
(調教か…。同種や近隣種に知られたらとんでもないことになるな)
卵か、幼生時に捕獲され、調教という名の育成がなされる高位魔獣の存在は意外に多い。発覚した場合その種族を敵に回すことになるが、脆弱さを自覚する普人族にとって高位魔獣の使役は魅力的だ。ハイリスクハイリターンといったところだろう。
装備課へと立ち寄るまでにサミュエルが意見具申した通り、補術兵も待機していた。準備は万端のようだ。
気になるのは彼と同道する二人である。一人は先程懸念を表した子爵の第3息女。エリア・ブロサール嬢。御歳17。ヴァロアの平均的女子より小柄。明るい白茶色の髪は貴族にしては短く、肩口で揃えられている。服装は旅装用ドレスではなく、乗馬用ズボンに飾り気の無いブーツ。上衣の下は詰襟ブラウスであるが、羽織っているのは装飾の無い皮の上着であり、防寒(飛行用だろう)にごついコートを足元の荷物に重ねている。
地味な服装にも拘わらず、整った顔立ちに凛とした美しさが輝いている。書類には従軍経験有り。最終階級は中尉。除隊してさほど経っておらず、立ち姿も背筋が伸びていた。
なによりサミュエルが評価したのは手荷物の少なさであった。貴族の子女であるなら馬車一杯の荷を用意しても驚かなかっただろう。しかし、彼女が用意した手荷物は片手で持ち運べる程度だった。必要最低限の荷を効率良く纏める手際は、優秀な軍人である証拠と思っている。
(確かに活動的な印象ではあるな。それに較べて…)
書類に護衛とあった補術兵を渋い顔で見るサミュエル。
オデット・ドゥブレ、19歳。第308補術兵大隊所属。階級、軍曹。
濃紺の髪はショートストレートに、前髪は眼の上で揃えられている。エリア嬢の後ろで侍女然として佇む姿は、小柄なエリアより頭一つ分高い。
(軍人とは言え女性であるから荷は多くなっても仕方が無い。仕方が無いが、貴族の娘に較べて多過ぎるのではないか?)
時間優先で必要経費は国が持つというのに、自分の半身ほどの旅行鞄を2つも用意している。
「ドゥブレ軍曹。任務は理解出来ているか?」
「はい。本作戦への魔術支援と、エリア様の護衛と理解しております」
「オデット、護衛の優先順位はペルティエ特務大尉殿の方が上よ」
「はい。エリア様」
サミュエルは知らなかったが二人は知り合いであった。身内と言っても良い。エリア付きの侍女であったオデットが、彼女の軍入隊にもくっ付いていったのである。
当のエリアが除隊し、オデットが従軍中であるのには理由があったが、今は置く。
「本作戦の要は早さだ。不要な荷は置いてゆけ。それとエリア様、貴女は除隊された身。私のことはサミュエルと呼び捨てで結構です」
「オデット、だから言ったじゃないの…。特務大尉殿の御命令よ。自分の荷だけにしなさい」
呼び方については言及せず、任務に対する不備を指摘するエリア。
「しかしこれはエリア様に最低限御入り用な荷です」
オデットが用意した荷物はエリアのためのものだった。大きな旅行鞄の片方にはドレスや下着をはじめとした衣類が。もう片方には装飾具や香水、化粧品等が収められている。
「軍曹。必要な品は現地で賄える。資金も国庫から出る。エリア嬢に見合う品を、移動先で見繕うのに協力してくれ。移動に時間を取られれば品定めも出来ん」
尚も躊躇うオデットの未練を切るべく、サミュエルが下手に代案を出す。
荷を諦めたオデットが手にしたのは、エリアと同じような小さな手荷物だった。ひとりの軍人としては優秀であるようだ。
場を収めたサミュエルは騎兵達と簡単な確認事項を終え、1番騎の後ろ座席へ着き他の2騎の様子を見る。
それぞれの荷は騎獣の腹部に装着された流線型の格納籠に『浮遊』を掛け収納された(騎兵と乗客である3人にも『浮遊』が施されている)。飛翔準備が調ったことを確認したサミュエルは、用意した補術兵に合図を送る。
全員が鞍と安全帯を繋ぎ、支持架を両手で握って前傾姿勢をとる。鞍の形としてはバイクを2台連ねたような形であるが、体の前面を鞍にピタリと着ける所が少し違う。
1騎につき3人の補術兵が『地走り』を3重に施術。それとは別に『幻景』で視認度を下げる。同時に騎兵が愛騎に念話で離翔を命令。白烏竜は一歩で宙へと弾かれた。
サミュエルが具申したのは荷(人を含む)の徹底した軽量化と隠密移動、移動魔術の多重掛けであった。早翔け用の王家秘蔵である空中騎兵を用意した情報部長に、やるなら徹底的にやるよう求めたのである。
飛び去っていく風景の早さに手応えを感じ、普段は変化の少ない表情が笑いへと変わるサミュエル特務大尉であった。
一昼夜を移動に費やした結果、翌早朝には央海上を航行する目的の船を見つける事が出来た。『幻景』で友軍が確認し難いことは判っていたので、1番騎が低空で接近し連絡筒を甲板に投下する。
暫く上空を旋回していると当直の甲板員から連絡があったのだろう。手旗信号が両舷と艦首艦尾で振られている。
「着艦許可出ました。降りますか?」
「降りよう。私は限界だ。君達も御苦労だった。着艦後はゆっくり休んでくれ」
騎兵は僚騎へと念話を飛ばし、順に着艦を伝える。
補術兵の掛けた『地走り』は白烏竜が自らキャンセルし、エリアの乗る3番騎から順に着艦する。強行軍にへたり込む女性二人。サミュエルは白い顔をしながらも出迎えた艦長へと命令書を提示する。王家の威光もあり、3騎獣と3騎兵と3乗客は最上のもてなしを約束された。
「では我々は休息させていただきます。白烏竜には治癒術もお願い致します」
東進を指示し、最後に船室へ向かったサミュエルであるが、寸刻も置かず叩き起こされる羽目になる。
(―上空に黒髪の精霊術師!)
艦内に指向性のない緊急念話が響いたのであった。
サミュエルは艦橋の窓から身を乗り出すように上空へと顔を向ける。艦の周囲をゆっくりと飛んでいるのは、縦に並べた銀色の車輪の乗り物に跨った小柄な人族だった。
「黒髪の精霊術師…」
艦橋内の誰かが呻くような声を上げる。ヴァロア軍にとって、恐怖と恥辱を喚起させる存在。
(まさか追い抜いていたとはな)
サミュエルにとって嬉しい誤算である。口元に不敵な笑みが浮かぶ。
何度か艦の周囲を回った後、その人物は右手を振って艦橋を掠めるようにして飛び去った。高度を上げ、東へ向け加速する。瞬く間に小さくなる姿が消えるまで、その場を動くものはいなかった。
「追いますか?」
艦長がサミュエルに問う。勿論、自艦に配属されている空中騎兵にである。
「いえ。艦を東進させていただければ結構です。補術兵には騎獣の回復を優先させてください。私は正午まで休息をとります。ああ、情報部宛に現在時刻と黒髪確認との連絡をお願いします。では、船室をお借りします」
了解と敬礼する艦長(海軍少佐であるが、特務大尉は中佐相当になるので上官扱い)へと丁寧に答礼を返し艦橋を後にするサミュエル。疲労の極みであったが、血が沸き立っている。眠れるだろうか? と、梯子のような急勾配の階段を下りるのだった。
彼の心配は杞憂に終わった。簡単に言えば眠る前に再度緊急念話が発せられたのである。直時が去って、ほぼ一刻後、フィアとヒルダが甲板上に降り立ったのである。
(ヴァロアの軍艦みたいよ? 大丈夫かしら…)
(義勇兵と敵対するのはそのときの戦だけだから問題なかろう? まあ、遺恨で手出しするなら沈めるだけだ)
フィアが念話で懸念を伝えるが、ヒルダは何も心配していない。
「突然ごめんなさい。私はフィリスティア・メイ・ファーン。ちょっと訊きたいことがあってお邪魔したの。銀色の乗り物に跨った黒髪の普人族を見なかった? 東に向かって飛んでいったと思うんだけど」
街で訊ねるのと変わらない調子のフィア。ヒルダは後で黙っている。
「これはこれは…。晴嵐の魔女と黒剣の竜姫がお揃いとは! お目にかかれて光栄です」
水兵の後ろから進み出たサミュエルは二人の前で軽く頭を下げる。
「私はヴァロア王国のとある役人で、サミュエル・ペルティエと申します」
「御丁寧にどうも。早速で申し訳ないんですけど、『黒髪の精霊術師』って奴が東に向かってるはずなんだけど見なかった? 言いたくないならそれも仕方ないけど」
『魔女』と言われたことに立腹したフィアが、高圧的な口調に変わる。ヒルダが半ば呆れ顔だ。
「包み隠さず申しましょう。一刻ほど前に本艦の上空を東へ飛び去るのが目撃されました」
「あら。有難う! 一刻前ね」
フィアもヒルダも判っていて訊いている。サミュエルの言葉に嘘が無いことを意外に思った。
「ひとつお訊ねしても宜しいでしょうか?」
「どうぞ」
「貴女達が彼を追う理由は? 依頼ですか?」
愛想笑いをしながらであるが、眼だけは笑っていない。顔を見合わせたフィアとヒルダであるが、ニヤリと笑い合ってすぐに答える。
「依頼は受けてないわ。ロッソに置いてけぼりにされたから気分を害してるだけ」
「挨拶も無しに逃げられたのでな。一発殴らないと気が済まんのだ」
直時を追う初期の理由をそのまま正直に言う。尤も今は合流した後のやらせであるが。
「ヴァロア王国からの依頼として、彼の捜索をお願いできますか?」
「一度紹介してあげたでしょ? 何度も同じ依頼は嫌よ」
「面倒臭い」
取り付く島も無い二人に苦笑を返すしかないサミュエル。しかし、その様子から他国の依頼を受けている可能性は低いと判断された。
「情報ありがとね。私達はもう行くわ」
「カールも本気で追っているらしいぞ? まあ頑張れ」
フィアが礼を言い、ヒルダが忠告というか、煽りを入れる。苦笑を深めつつも、頭を下げるサミュエル。
ヒルダがフィアを背後から支え、竜翼を広げる。甲板から舞い上がった二人が互いの能力を相乗させ、直時に劣らない速度で東へと天翔ける。見送った水兵達が持ち場に戻る中、サミュエルだけが考え込んでいるようだった。
(追跡が正確過ぎる。精霊術の痕跡を辿る方法があるのか? それとも…)
微かな疑念が頭をもたげたようだが、さすがに体力の限界だった。ふらつきながら船室へと帰り、正午まで深い眠りに就くサミュエルであった。
「とまあ、そんな感じでヴァロアからお誘いあったんだけど断わってきたわ」
「あのでかい船はやっぱ軍艦だったのか。しかし、二人とも良く無事だったね」
「義勇兵、特に冒険者の義勇兵相手に遺恨を露わに接すれば、国の名声に傷がつくからな。下手をすれば冒険者ギルドから敵性扱いされてしまう」
央海に浮かぶ群島のひとつ、5キロ四方ほどの無人島で直時、フィア、ヒルダが夕餉を囲んでいた。
「過去にギルドと敵対した国ってあるの?」
「正面切って敵対したところはないわね。ギルド創設に神が関わってるんだもの」
「普人族ならやりかねんがな。うちの直系ではないが、竜人族と敵対した国がいたからな」
「その話なら聞いたよ。100人足らずで一国を滅ぼすんだものなー」
かなり物騒な話であるが、団欒とした雰囲気である。
「じゃあ今日から訓練ね」
「宜しくお願い致します」
「腹が落ち着くまで座学だな」
「りょーかい。んじゃフィア、まずは対価としてうちの国の言語の初歩ね。平仮名と片仮名転写するよー。あと、幼児向け知識とね」
「ん。お願い」
期待に眼を輝かせるフィアに向けて魔法陣を編む。直時とフィアの頭上に現れた魔法陣が繋がり、制限された情報がフィアへと流れる。
「くぅーっ! 転写されるのは久し振りだけど、結構くるわね。これで幼児レベルなの?」
「身の回りの名詞やらとセットで送ったけど、幼稚園…普人族で5歳までくらいかな? それでも多分こっちにない物もあるから適当に質問してくれていいよ」
頭痛に顔を顰めるフィアに直時が答える。実際、車や電車、飛行機等、どこまで説明して良いか判らないので、牽引する獣が不要な早く走る馬車、レールの上を走る連なった箱馬車、竜のような巨体で空を飛ぶ乗り物、その程度からはじめないと仕方無い。
こめかみを揉みながら新しい知識を咀嚼し理解しようとしているフィアを放置して、直時はヒルダへと訓練内容を確認する。
「そうだな。何事も基本からだな。今夜は基礎体力の向上から始めよう」
「方向に異存はありませんが、方法に疑問があります! 治癒術が必要な基礎体力作りって一体どのような方法なんでしょうかっ? 場合によっては拒否―」
「却下する」
予防線を張る前に玉砕した直時はがっくりと項垂れた。
うんうん唸って知識と格闘しているフィアを残して島の浜辺まで来た直時は、これから始まる過酷な訓練に怯えつつ、ストレッチを入念にこなす。
「体は温まったようだな。では脱げ」
準備が整った直時にヒルダが命じる。
「は?」
「下着以外は全部脱げ。ああ、靴は良いぞ。初回だし足場まで気に出来ないだろうからな」
「理由を聞いても良いですか?」
「うむ。これから島の外周を走りながら私の剣を避けてもらう。服を着ていては肌で感じる感覚を身につけにくい。そのためだ。剣はぎりぎりで当たるよう振るつもりなので、衣服がズタズタになってしまうからな。一度の訓練で一着駄目にしてしまうのは可哀相だと思ってな」
「色々と突っ込みどころが満載なのですが、ひとつだけ! ぎりぎり当たるか当らないかじゃないんですか?」
「うむ。ぎりぎり当たるように斬る。心配するな。致命傷には気を付ける」
「いやああああああああああぁぁぁぁぁぁーーーーーっ!」
悲鳴を上げて逃げる直時。そこへ襲いかかるヒルダの眼は赤く爛々と燃えていた。
「……非道い。酷い。あんまりだ」
ヒルダに衣服を毟られ、アースフィアに来てから替えの下着として購入した褌一丁にスニーカーという形容するのに憚られる格好の直時。槍を手にしているが、シュールさを際立たせている。どこのブッシュ○ン? といういでたちだ。
「今回は精霊術を使うなよ。あくまでも基礎体力向上が目的だからな」
「ううう…。了解です」
訓練前から精神的ダメージが大き過ぎた直時。既に涙目である。
「では開始! 走れ!」
ヒルダの声でスタートを切る。ハイペースのランニング程度で走り出した直時であるが、背後から濃密な殺気が感じられた。
「ちんたら走るんじゃないっ!」
本能のまま飛び退いた地点に黒剣が振り下ろされる。衝撃に弾け飛ぶ砂。深さ1メートルほどの窪みの底でヒルダが立ち上がる。
(前見て走ってたら死ぬ! マジで死ぬ!)
ヒルダから眼を離さず、槍を体の前面に立てて構える。右手を下方石突きの方へ、左手を上方切っ先の方へ。
「止まるなっ! 走れっ!」
一足飛びで襲い来るヒルダ。後ろ向きに全力疾走しながらヒルダの動きから眼を逸らさない直時。
構えた黒剣が僅かな溜めを見せた。
(来る!)
右手から横薙ぎ。直時は左わき腹に怖気を感じた。右足を蹴って予想される切っ先の範囲から逃れる。
唸りを立てながら擦過する黒剣。ぎりぎり当たらなかった。安堵も束の間、振り切る前に左手で勢いを止めたヒルダの薙ぎ払いが両手で右脇を襲う。サイドステップで空中にあるため避け切れない。右手、槍の下を斬撃下方向に、左手は逃れるよう傾けた上体へ引きつける。逸らす刃に斬られないよう添えるだけ。
鋭い擦過音と共に刀身が槍に沿って走り抜けた。捌けたと感じた瞬間着地。即座に後方へと逃れる。
「勘が良いな。全くの素人ではないのか?」
「ハァハァ…。ただの生存本能です」
始まったばかりであるのに直時の息は荒い。
「ふっふっふ。やはり面白いな。さあ、立ち止まるなっ! 動けっ!」
どうやら押してはならないスイッチを押してしまったようだ。心底楽しげな顔で黒剣を振り上げたヒルダが直時へと突進する。
直時の命を懸けた鬼ごっこが一息着いたのは半刻後であった。全身に浅くはあるが斬り傷を追って血塗れ、息も絶え絶えで時折咽ぶような呼吸である。
その姿を満足そうに見下ろすヒルダの元へ、フィアが歩み寄る。
「どんな感じ?」
「素人同然だと思っていたがなかなかどうして筋は良い。それよりも限界のようだ。治癒を頼む」
「まーかして。精霊達よ―」
フィアの精霊術による治癒が直時を包み込む。傷口は塞がり、瘡蓋が剥がれ、元の身体へと復帰する。
「……ありがと。フィア」
仰向けのまま直時が礼を言う。
「では第2ラウンドだ」
「ちょっ! うそっ?」
「身体を見てみろ。疲労も治っているだろう? 筋力も以前に増していないか?」
「え? いやあんまり実感は…。でも腹はちょっと引き締まったような気がしないでもないかな?」
腹だけではない。脚も無駄な肉が削ぎ落とされ、多少筋張っているような気がする。言われればそんな気がするという程度であるが…。
「肉体を酷使した後、回復させれば以前にも増して強靭になる。治癒術が使えるなら、これを繰り返すことで短期間の基礎体力強化がはかれる」
ヒルダが満足そうに説明する。直時もそれに異論は無い。無いが、確実にこの人は…。
「鬼っ! 悪魔っ! ヒルダっ!」
「…今、私を前2つと同じ意味で扱ったな?」
ゆらりと黒いオーラが立ち昇ったのを幻視した直時は今度こそ全力で走りだした。
その夜、無人島にある男の悲鳴が長々と響いたのであった。
特訓とは精神修養でもある…のか?