逃避行⑤
空が濃い群青から明るい藍色へと移り行く夜明け。一陣の浜風に頬を撫でられた人影が起き上がる。燻ぶった竈の傍らに寝そべっていた直時である。
「むーーーーー」
起き上がったものの、座ったまま眼を瞑ってゆらゆらと上半身が揺れていた。今にも倒れ込んでしまいそうである。ミソラとの別れを紛らわせるため、相当深酒をしたようだ。元凶のフィアとヒルダは気持ち良さそうに寝ている。
ともすれば、かくんと落ちる頭を重そうにもたげた直時は、両手で自分の頬を打つ。じんとした痛みに漸く意識が戻って来た。ごしごしと両掌で顔を擦る。
「っは!」
強制的に覚醒させた頭を途切れさせないよう、砂地で見よう見まねの結跏趺坐をし、『気』を全身に巡らせる。
(流れは順調。魔力も充分。ゆっくりと吸って、止めて、吐く…)
下腹部に熱いものが貯まり、全身へと溢れだし巡っていく。眠っていた身体が活動準備を調えた。
立ち上がった直時は、水の精霊に真水を用意してもらうと、洗顔と歯磨きを手早く済ませる。歯磨き粉の代わりは、岩塩を砕いた塩の粒だ。
大きく伸びをした後、そのままストレッチへと入り、全身の筋をほぐした。軽く汗ばむほど念入りにすると、前方の波打ち際へと眼を向ける。
『探知強化』で感覚の強化をし、『アスタの闇衣』の上掛けも忘れず自身に施した直時は、着ていたものを脱いで足元に畳んだ。結構几帳面である。
ミソラの両親が残した砂の溝を歩き、踝が浸かるまで海へ入った。早朝の空気は涼しく、足元の海水が温かく感じる。夜が明けきらないため、青黒い波間を恐れ気も無く沖へと進む直時。強化した彼の眼には、輝度、明度も最適化され、解像度もグンと上がって映っている。不安はない。
腰まで海に浸かったところで、軽く勢いをつけて波間に跳び込む。海面から消えた直時は息が続くまで潜水したまま沖へと泳ぐ。
「ふはっ! きっもちいぃーっ!」
再び洋上へと現れたのは30メートルほど沖であった。そのまま仰向けに浮かんだままで波間を漂う。凪ぎの時間であったのか波もうねりも高くない。明るさを増してゆく空を見ながら、泳ぐでもなく波に合わせ軽く手足を動かせて揺られるままだ。
競泳は苦手で早く泳ぐことは出来ないが、水と戯れるのは大好きなのだ。
「そういえば、今年は海に行ってなかったもんなぁ」
直時がのんびりだらだら過ごすのは自室だけではない。邪魔(家族からの雑用等)が入らない分快適だと、海だ山だと独りで出かけては、お酒を飲みながら持参した文庫本を読んでいたりしていた。
独り海水浴も板についており、砂浜に着くやいなやビーチパラソルと折り畳みチェア、ビーチマットを設置し、クーラーボックスから出したビールを寝転びながら飲むのである。
酔いと太陽に火照ったら、海で軽く泳いだり漂ったりして、また浜辺でビールを飲み、肴を食べる。本を読む。昼寝する。堪能したあとは車で寝て酔いを醒まし、混雑のなくなった深夜の道を帰宅するのである。(※飲酒後の遊泳は危険なので絶対にマネしてはいけない。しかも単独なので誰にも気付かれずドザエモンという危険もある!)
「逃げる先は、やっぱり海辺が良いなぁ。海の幸も獲れるし、塩だって作れるだろうし―」
心地良い波に身をまかせ、緊張感の欠片も無い直時。
「ミソラ、行っちゃったな…。ミズガルズさんとアナンタさん、でかかったなぁ。いっそ、追手出してる鬱陶しい国を滅ぼしてもらおうかなぁ」
物騒なことを口にする。
(まあ、そんなことしたら空白地帯が出来て戦乱を助長するだけだろうけどね)
追跡する諸国の勢力圏を抜けたわけではないのに緩み切っているのは、多くのことがありすぎて緊張を持続するのが難しくなったためである。
意図的に緩む時間を作らねば、またリスタル戦の悪夢を見るようになってしまう。そう自己診断した上での海水浴なのだった。全裸なのは趣味ではなく水着が無いためである。
「ねーさん達は綺麗だけどこえーしなぁ。ミケさんが一緒なら良かったのになぁ。あの猫耳と三毛猫っぽい短い尻尾に触れられなかったのは今生の心残りベスト3に入るだろうなぁ。仔魔狼元気かなぁ? あの子のでっかい肉球をもっとぷにぷにしとくんだった…」
素肌で水の分子に触れている解放感から、色々と駄々漏れな発言の直時である。ぷかぷかと浮かぶその姿に、海底からゆっくりと近付く影がある。
「なんか来てるなぁ。全然まったりさせてくれないとは…。精霊さん達―」
鋭敏化した感覚と、水の精霊からの警告で接近する何かに気付く。
一瞬動きを止めた影は、直時の様子を窺ったのだろう。次に動いた時には、水面を突き破った大きな顎を噛み合わせていた。湾曲した大きな口からは鋭い牙が並び、大きな物は一抱えもある。
図体の割に小さな眼。鱗が見えずぬめぬめと光る肌。ウミヘビかと思ってしまう長い身体であったが、胴は遥かに太い。黄土色に黒い斑が浮かんだその巨体は、地球で言う『ウツボ』に良く似ていた。直時を一飲みにしようとすることから、大きさは段違いであったが…。
喰い付いたはずの獲物の感触が無く、海面に顔を覗かせたまま辺りを見渡す巨大ウツボ。その頭上10メートル程の空中に、海水を滴らせて浮かぶ直時の姿があった。
「…でかい。小さい種類も多いけど、やたらとでかい生物もいるな。それより、水の中ならともかく素っ裸で空中ってのは落ちつかない…」
スースーと心許無い。特に下半身が。
「ひーちゃん、ぷるちゃんいける?」
風と水の精霊にイメージを伝える。笑い声が聞こえ、肯定を返す精霊達。
精霊達に肯いた直時は、大ウツボから少し離れた海面へと跳び込んだ。水中で身を反らせ、沈む勢いのベクトルを上へと変える。姿よりも、水音に反応したのだろう。大ウツボが再び見つけた獲物へと躍りかかった。
海面へ顔を出した直時へと迫る大顎。しかし、大ウツボの下顎から強烈な衝撃が襲う。太い水柱が迸り激突したのだ。弾き飛ばされ、海面から空中へと持ち上げられた体長は15メートル程あった。
大ウツボと同じくらいの太さの水柱は、勢いをそのままに方向を変え球形の檻となる。空中に浮かんだ水球の中では、洗濯機の中の洗い物のように大ウツボが廻っていた。海洋生物が溺れそうになっている。浮かせているのは風の精霊達だ。
「朝食にしてやろうかと思ったけど、こんなに大きいと食べ切れないな。それにアナゴも太刀魚も鱧も細長い奴は小骨が多いしな。却下! アーンド、リリースッ!」
砲丸投げのイメージで、巨大な水球を沖へと投げ飛ばす。風の精霊は忠実にそれを実行した。
離れた沖合いに大きな水柱が聳え立った。激流から解放された大ウツボは着弾の衝撃に暫く腹を見せて痙攣していたが、弱々しい動きながらもやがて海中へと戻っていった。
(ふむ。水、水流を操る…)
直時は、何か思い付いたのか、水の精霊で潮流を作りだす。流れに乗った身は、立ち泳ぎのように首から上だけを浮かべたまま沈むことなく海面を緩やかに滑っている。移動速度を上げていくが白波は立たない。流れそのものを操っているからだ。
水流と一体になる感覚を掴んだ直時は、次に海面下へと姿を消す。魚のように水を切るわけでなく、身をくねらせるでもなく、ただ流れと共に泳ぎ回る。風の精霊と水の精霊により頭の周囲を空気で覆い、呼吸分の酸素を確保している。
「見難い…」
水中を自在に泳ぎ回っているのに不満をこぼす直時。折角のダイビングであるが、視界が歪んでいるのだった。
顔前の空気と水の接触面をガラスの様に平面化しようとするが、なかなか調節がうまくいかない。
岩礁にぶつからず泳ぎ回れているのは、水の精霊が教えてくれているからだが、いまいち感覚が掴み難い。
(出来れば自分の眼で見たいんだけど仕方ないか? いや、なら人魔術だったら?)
海底に腰を下ろした直時は、考えながら使えそうな魔法陣を描く。
「凍てつけ 氷の盾 『氷塊・硬』」
以前改造した氷の盾を作りだす。直径1メートル程の円形の氷が出現する。硬度を上げるため、空気を極力排したため透明度は抜群である。
「おーっ! これならクリアに見える!」
空気と水の間に挟んだ氷の盾の向こうには、暗いながらも神秘的な海底の景色が映っている。
―ただ問題がひとつ。
「うわっぷ!」
氷の盾は10秒程で消え、油断していた直時は水中に呑まれる。確保していた空気は泡となって海面へ消えた。それを追うように慌てて海面へと向かう直時。
「―びっくりした。あの術は持続時間が短いんだよな。しかも移動できん。色々と改良の余地があるな…。さてと、戻るか」
チラリと見た砂浜はかなり遠い。知らない間に沖へと出てしまっていたが、先程のように精霊術で操る水流に乗れば楽に帰れる距離である。
ところが直時は抜き手を切って泳ぎはじめた。そのクロールは競泳選手のように力強くも早くも無いが、それなりに綺麗なフォームである。
砂浜に辿り着いた直時は、仰向けに倒れ荒い息を吐く。胸が大きく上下している。ハードな運動だったようだ。途中、波を頭から被って水を飲んだり、疲れてクロールから平泳ぎに変えたのは秘密である。
その直時の視界に、上空から舞い降りてくる二つの影が映った。風を纏ったフィアと竜翼を広げたヒルダである。
「…おはよう」
「まあ、なんだ。まずは『露天風呂』とやらにでも入ってはどうだ?」
フィアもヒルダも不自然に眼を逸らしたままである。
「…俺、真っ裸やん!」
漸く自分の姿に気付いた直時は真っ赤というより真っ青になって、脱いでいた衣服のもとへと走り去った。
「全部見てた?」
『岩盾・方舟』で作った浴槽に浸かりながら、岩壁の向こうへと訊ねる直時。
「黒斑大ウツボに襲われたあたりからかな?」
「うむ。あの精霊術の使い方はなかなか良かったぞ」
『岩盾』の将棋の駒型を衝立として、露天風呂がもうひとつ。フィアとヒルダがその湯に浸かり、朝風呂を堪能していた。
「慣れてきたみたいだからわかると思うけど、精霊術は自分の手足の延長みたいなイメージで使うこと。戦いの流れを考えるのは良いけど、精霊術の働きを考えてるようじゃ駄目よ?」
ヒルダが褒めたが、フィアは採点が辛いようだ。
(その精霊が出来る事を考え、発生手順を考えしてたら、実践するタイミングまで持っていくのに時間が掛かって駄目だということかな?)
自分なりに解釈する直時。
「ヒビノの話では魔力も魔術も無い世界だと言うし、ピンとこないのかもしれんな。私が責任を持って身体に叩き込んでやるから安心しろ」
含み笑いしているヒルダの楽しそうな声に、温まっているはずの背筋が寒くなる直時。
「ま、まぁ、まだ逃亡中でありますからして、落ちついた先で活動地盤を固めた後じっくりと教わるということで…」
「昼間は移動するけど、夜なら空いてるじゃない? 今夜から訓練するわよ」
しどろもどろの直時の発言を遮るフィア。当然だという口調である。
「あうあうあう…。お手柔らかにお願いします…」
観念した声に満足気なフィアとヒルダ。
「私は武術と精霊術を受け持とう。授業料は前に言った通り一日に金貨一枚だ。みっちり教える時間が無いようなので、逃亡中は割引してやろう」
「武術は問題ないとして、ヒルダさんって精霊術使えたんですか?」
直時の疑問も尤もである。炎の吐息や竜翼の風は、魔力から直接現象を引き起こす竜人族の固有術であり、精霊術や人魔術ではなく直時に教えることができる類のものではない。肉体の強化や変化も種族の固有術に入る。
「体捌きと同様、反射的に精霊術を行使できるよう訓練する。問題ない」
「それは息をつく間もない連続組み手を延々と続けるということですか?」
「飲み込みが早いじゃないか」
我が意を得たりとばかりに機嫌の良い声だ。直時の未来は真っ黒に塗り潰される。
「ところで砂浜まで帰ってくるのに精霊術を使わなかったのは何故だ?」
精霊術で色々と試していたのは上空から見ていたヒルダとフィアである。この疑問も尤もだ。
「あー…。それはですね。体を動かしたかったのと、基礎体力の向上もあるかなぁーっと…」
前半が本音で後半は思い付きである。しかし、心機一転で朝晩の筋トレくらいはやろうと思っていたのも事実だ。…このところ酒で酔いつぶれていたが。
「良い心掛けだ。だが基礎体力を上げるのならもっと効率的なやり方もある。特にヒビノとフィアは治癒術が使えるからな!」
「ちょっ! それは治癒術を使う前提の方法なんですかっ?」
「大丈夫。死なないように手加減してやる」
したり顔で頷くヒルダであるが壁の向こうが見えない直時は不安感が最高潮である。
「それで私が人魔術と精霊術、あとはアースフィアの歴史ね。私への報酬はヒビノの『知識』。とりあえずはあんたが持ってる本を読めるよう言語とか、風習とか、文化ね」
「そんなんで良いの? あーでも知識かぁ…。原理とか構造とか詳しく知ってるわけじゃないから再現は難しいかもしれないけど、危ない知識も多いんだよな。でもまあ、フィアなら良いか…」
魔法陣の件でも慎重な姿勢を崩さなかったし、神霊であるメイヴァーユとの繋がりもあることだ。知識の暴走にはならないだろうと判断する直時である。
「読書が目的かぁ…。文字と文法だけじゃ駄目なんだろな」
「当然でしょ。それが書かれた文化的背景を知る事無しには読解できないじゃない」
同じ世界であれば、言葉は違っても共通の存在を意味することで翻訳がし易い。直時が比較的この世界の言葉に拒否反応を見せなかったのは、元の世界が空想の産物とはいえファンタジーやSF、伝奇などの物語が氾濫する世界であったからだ。
強烈な頭痛と鼻血に見舞われはしたが…。
「『転写』するにしても情報量多いよ? 俺の知識量なんて中途半端だけど、現代ニホン語に多少の古語、諺やら外国語。基本的な技術に聞き齧り、歴史に文化に所謂お約束まで入れるとして……。多分初めて転写してくれた量の何倍もある…かも」
「……それ本当?」
直時の言葉に冷や汗を垂らすフィア。あのときメイヴァーユに指示されたとはいえ、直時へ転写した情報量は並の普人族なら3日3晩意識不明になるであろう量だった。
「こっちの世界に全く無い物なんかは、その概要から知識が必要だろうし…。うーむ、なんとなくで憶えてるようなことも出来る限り理論立てて整理して転写するようにするよ」
直時の言葉がフィアの知識欲を刺激するが、同時に恐怖感をも与える。
「ヒビノの訓練やさしーくしてあげるから、転写はちょっとずつね? 様子見しながらね?」
「えっ! マジ? じゃあ初回は平仮名カタカナに身の回りの名詞あたりからいくか…」
腰の引けてしまったフィアの声に、想像していた地獄の特訓からジムのインストラクターレベルに引き下げられるのを感じた直時は、様子見ではあるが、親戚の子達へ読み聞かせた昔話の絵本程度から始めようと予定を立てることにするのであった。
露天風呂で身も心もほっこりと癒された三人は、干し果物と干し肉、磯で獲った巻貝と海藻のスープという簡単な朝食を食べながら次の目的地への検討をする。
初めての露天風呂を経験したフィアとヒルダにいつものキツさは無く、心持ち上気したような姿に日本の文化を評価されたようで直時も満足気である。
「近くの街は『リジェカ』だったよね? 前回みたいに俺が先行して目立てば良いんだよね? 今回はミソラいないし、街に入って歩き回るのも良いか」
直時としても素通りばかりでは味気ない。
「えーっとね。今回は他へ進路をとって、『フルヴァッカ公国』から逸れようと思ってるの」
フィアの言葉に首を傾げると、その理由を教えてくれる。
「フルヴァッカはマケディウスみたいに央海に沿って海に面した領地が多いんだけど、周囲の国が港を欲しがってて絶えず狙われているの。マケディウスほど国力が無いから余計にね」
「そこへヒビノが現れたというだけで、いらぬちょっかいを掛ける国が多いのだ。カールは白北海に港を持っているが、央海側にも野心はある。外交圧力でもってフルヴァッカの港を租借しているしな。今はカールに譲歩したことで、周囲の紛争国への牽制になっているが不安定であることに変わりは無い」
「俺が現れるだけで紛争の火種になりかねないと? そんな大層な…」
冗談だろうと見た二人の顔は真剣そのものだ。どうやら本当らしいと判断する直時。
「…ただね、この辺りは何処も小競り合いを続けていて何処へ顔を出しても碌なことになりそうもないのよ」
はぁーっと溜息をつくフィア。
脳内に地図を思い浮かべる直時。確かにこの辺りは小国がごちゃごちゃと乱立しているようで、国境線も曖昧である。
「うーん。じゃあいっそのことイリキアまで直行する?」
「余計な混乱を各国に与えないようにするためにはそれが最善だろうな。しかし、イリキア到着まで足跡を残せないというのは我々にとってマイナスになる」
直時の提案にも問題はあるようだ。特に、マケディウスに残してきたミケやリナレス姉妹が不利になるようなことは避けたい。
「それで考えたんだけど、私達は空路じゃない? 陸路で目撃されなくても主要な海路上空を飛ぶことで、商船団に目撃されれば良いと思うのよ」
「なるほど! ちなみに主要海路の領海は?」
「盲点だったな。海路はだいたい領海外に設定されている。海上輸送は陸に近くては襲われる率が高くなるからな」
フィアの提案に賛成するヒルダ。事情に疎い直時は当然賛成である。
「ヒビノには主要航路を転写するわ。目立つように先行してちょうだい。私達は商船を見かけたら降りてヒビノの進路を聞くようにすれば追跡してるように思うでしょう」
「了解。じゃあ転写よろしく! ついでに俺の国の言葉の転写もやっておこうか?」
直時の返事に詰まったフィアがふるふると首を横に振る。
「ちょっとずつでいいからっ! それで充分よっ!」
焦るフィアの様子がちょっと可愛いと思った直時だった。情報量に恐れをなしたと判断していたが、フィアの中ではその内容に畏れを抱いていたのは伝わっていなかった。
直時の眼の端にヒルダが二人のやりとりを面白くなさそうにしていた事に気付いたことは幸か不幸か…。少し膨れた頬は普段の様子と違い、見た目(直時主観で20歳前後)より幼げだった。
(なん…だとっ? これがギャップ萌えか! 流石はヒルダさん! 奇襲を掛けてくるとわっ!)
視線を逸らせた不機嫌な普段は怖いだけの竜人族に、頭を撫でたくなる誘惑に襲われる直時であった。
陽光を反射して洋上を翔ける姿は、3,980(サンキュッパ)円の折り畳み自転車に跨り風を纏った直時である。
一際大きな船が眼下に見え、目撃情報を提供するため低空へと舞い降りる。
(やたらとだだっ広い甲板だなぁ。まるで空母みたいだ)
荷物の中から引っ張り出した風除けの980円のサングラス越しに見える船。
直時の知識に近いのは太平洋戦争時の航空母艦である。木造ではあるが、広い甲板には飛翔生物である獅子胴鷲が日向ぼっこをしているだけで商船に付きものである大量の積荷が無い。座礁して助けた船は帆船であったが、この船にはメインマストも無い。両舷側にとってつけたような帆が張られているだけだ。
(舷側以外帆もないのに進んでるってことは魔術推進か…。でもこれだけ大きな船が主動力を魔術で賄うってことは軍船かな?)
高度を下げて様子を窺った後、早々に離脱した直時。それでも自身の姿を良く見せるため何度か船の周囲を飛び回っている。
直時が航空母艦と思ったのも無理は無い。実際に空中騎兵の洋上基地として試作運用中の艦船であった。
右舷側に聳える艦橋から身を乗り出した人物がこの偶然の邂逅にほくそ笑んでいた。
「やっと再会できたな。『黒髪の精霊術師』」
ヴァロア海軍の軍服の中に一風変わった情報部の制服を身に纏った人物がいた。央海で試験航海中である空中騎兵母艦に強行着艦し、本国命令を盾に指揮権を掌握した男が呟く。
彼の名は『サミュエル・ペルティエ』。先の戦でヴァロアリスタル侵攻軍において参謀として陸軍に在籍していた男であった。
ちょっとツンデレっぽくしてみました。