逃避行④
越境。目的地はまだです。
マケディウス王国東部の街『リネツィア』から更に東。小さな半島を跨いでフルヴァッカ公国の港街『リジェカ』がある。
直時達はその手前の半島部、山地から海へと注ぐ河口付近で野営をしていた。河の両岸は断崖で、近くを通る街道も無い。河口近海も複雑な岩礁が多く海路から外れているため、普人族の眼を気にする必要が無かった。
空が茜色から濃い藍色へと染まる中、一行の顔を照らすのは竈の火。メインディッシュは既に平らげられた、サメとエイの混ざったような魚の串焼き(3メートル強あったが、扁平な頭部から背中まで固い外殻に覆われ、内臓を除くと肉は思った程とれなかった)。
今は、それぞれが干し果物や、焼き芋などを肴に蒸留酒や果実酒を口にしていた。
芋や酒類は、駆け足滞在だったにも拘わらずフィアとヒルダが買ってきていた。当然、直時が持参していた蒸留酒も徴収されているが、昼食に引き続き豪華な晩餐に文句はない。
「で、やっぱり追跡はされてるってこと?」
炙ったヒレを齧りながら直時が訊ねる。クニクニとした触感が意外と美味である。
「ミケちゃんからの情報で早速ギルドに伝言が入ってたわ―」
シーイスは国組織での追跡は諦め、直接冒険者に依頼。ヴァロアは今のところ情報無し。マケディウスは利権を報奨として御用商人に情報と懐柔を通達。カールはヒルダにリシュナンテから要請があったということだ。
ほっこり焼けた芋をお手玉しながらフィアが報告する。
「ヒビノを捕捉したのなら、道程を教えて欲しいそうだ。目的地は判っているだろうから、経過から立寄り先へ触れを回すのだろう。あと、まさかと思うが足の速い空中騎兵に強行させるとかだな。侵入が漏れれば戦の火種になりそうだが、カール程の大国ならやるかもしれんな」
ヒルダは、直時から分捕った強い蒸留酒を咽もせずに一息で飲み干し、杯を差し出す。おかわりのようだ。
「ギルド通さない依頼って受ける冒険者多いの? 商人は取引先の繋がりとかあるから怖そうだな。無茶をしそうなのはカールと出方が判らないヴァロア…かな?」
ヒルダの杯と自分に蒸留酒を注いだ直時は、ミソラの杯にも足してやる。
「…その仔、産まれ立てなのよ? 飲ませ過ぎちゃ駄目よ」
まだ熱そうな芋の皮を剥きはじめたフィアが、横目で睨んだ。
「一国からの依頼なら、余程危なそうな案件以外大丈夫だと思うんじゃないかしら? 恩にもなるしね。ただ、ギルドからの受けは悪くなるから報奨と仕官目的の普人族じゃないと受けないんじゃないかしら?」
アツアツの芋に塩を振りかけて齧る。
「リッテからの要請は面倒臭いから却下だな。カールに義理は無い。無茶は恐らく両国ともするかもしれん。特にカールは隣国には強気で押すだろうな。ヴァロアは先の戦で痛手を被っているからあまり露骨な真似はせんだろう。カールを間に挟むことになるし、ヴァロアが動いたとなれば、カールの御機嫌取りに走る国が出るだろうしな」
ま、そんなに心配することもなかろう、と、ヒルダはあっけらかんとしている。直時としては、ヒルダやフィアのような猛者ではないので不安が拭えないのだが、二人の落ちついた様子にやや安心した。
「…で、だ。深刻な方の話だ。虚空大蛇の卵が親元から奪われ、幼生が虐待されたと聞いたギルドは上を下への大騒ぎとなった」
ヒルダの声音が低くなり、フィアも顔を伏せる。
神々にも匹敵する力を持つ存在の怒りに触れることを恐れた冒険者ギルドは、その総力を挙げて実行犯と関係者の割り出しをすることとなった。場合によっては討伐依頼が全ギルドで出されるかもしれないとのことだ。
「犯人はギルドが責任を持つってことになったの。で、ミソラが無事だってことを親の神獣に早く知らせるべきだとなったのよ」
フィアの言葉にもっともだと頷く直時は隣のミソラへ笑みを向ける。
「ミソラ! お母さんとお父さんに会えるぞ!」
「(ほんと? ミソラ、まだお母さんもお父さんも会ったことない…。こわくない?)」
転写によって、両親や家族といった概念は憶えているはずだが、生まれてはじめて会うのに不安を感じているようだ。
「もちろん! きっとミソラ好き好き大好きーってなるよ」
短い間ではあったが、子は親許で愛情を注がれるのが一番だと思う直時は、満面の笑顔で請け合った。
「それでね。神域を通して報せて欲しいって言われたの」
「神域からは地上を覗けるって言ってたね。じゃあ、メイヴァーユ様経由で?」
頷くフィア。ただ、メイヴァーユから直接ではなく、虚空大蛇と縁の深い他の神霊や神々、神獣を頼るとのことだ。
「じゃあ、すぐにでもミソラは御両親と会えるんだね?」
「…そうね。ほんとうに直ぐよ」
何故か青い顔で向かい合う直時の背後へと視線を移す。いつも余裕たっぷりのヒルダも強張った表情だった。
目立たない地形での野営で、しかもフィアとヒルダがいることで探知強化の上掛けをしていなかった直時は、今更ながら背後の波間から何か大きなモノから流れ落ちる水音を聞いた。
夜の帳が訪れ月ばかりが明るい砂浜に、色濃く落ちる大きな影。大きなフイゴのような音が規則的な間隔で聞こえ、だんだんと大きくなってくる。
砂を押しつぶす音がしたとき、直時はゆっくりと背後を振り返った。
頭上から覆いかぶさるように降りてくる黒い影は、篝火の灯りを受けて漸くその姿を明らかにする。鎌首をもたげた大蛇の頭が一行のすぐ上で止まった。
宵闇と炎の照り返しではっきりした色は判らないが、濃い青、群青色と、赤紫色の2つの大蛇の頭があった。頭部だけで3メートルを超えている。闇の中、海中に没した体長を計るべくもない。視認してしまったことで、その圧倒的存在感に金縛りになってしまう。
固まってしまった直時、フィア、ヒルダ。ミソラはその様子に怯えたのか素早く直時の服の下へと隠れてしまった。
シューっという音と共に夜目にも真っ赤な舌がチロリと吐き出されては戻る。
「(我等が愛児を守ってくれたこと、礼を言う)」
突然、一行の頭蓋に響き渡る念話。思いもよらない優しい響きに皆の緊張が解け、ミソラも直時の襟元から顔を出す。
「(元気なのね? 良かった…。さあ、もっと良く顔を見せて)」
母親だろう赤っぽい大蛇の頭が近付く。念話の響きはとても柔らかく優しい。しかし、その迫力に腰が引けてしまいそうになる直時。
フィアとヒルダの方を見るが、眼で『行けっ』と指示されてしまう。ミソラに両親を怖がらせるわけにもいかず、一歩進んでミソラを促すように右腕を差し伸べた。
躊躇うかのようなミソラへ笑顔で頷く直時。少し強張っていたのは仕方無いところだ。襟元から這い出た身をからませながら差し伸べられた手の先へと進むミソラ。
先の割れた大きな舌がミソラの顔を舐める。
臭いか、感触か、気配だろうか? 何が契機となったかは判らないが、次の瞬間ミソラが飛び出して母大蛇の顔面にへばりつく。
「(お母さんっ!)」
叫ぶ我が仔の身を優しく撫でる母の舌。父大蛇も顔を寄せ、同じく撫でる(舐める)。
大きな満足と少しの喪失感を感じ、それでも心からミソラを祝福する直時は、親子の邂逅から数歩後ずさる。フィアはその肩を軽く掴み、ヒルダは自分より低い頭に手を置いた。
再会を喜び合った神獣の親子は視線を直時へと向けた。
「(今はただただ礼を言う。しかし、どういった経緯であったのか記憶を見せてもらえまいか?)」
許可を求めるかのようだが、有無を言わせない圧力があった。ミソラとの出会いは直時が見せるしかない。おっかなびっくりで了承すると、青い大蛇へと近寄る。
「(眼を瞑って気を楽に…。難しいかもしれんがな)」
後半の含み笑いに少し気が紛れた直時は言う通りにする。何かが頭頂からするりと入り込んでくるような感じがして、脳だけではなく体の内側…、強いて言うならば魂というべきものを優しく撫で上げる感覚がした。
「(眼を開くが良い。そうか…。お主が我が子を救ってくれたのか。それに噂の者であったとはな。面白い。『巳空』か。良い名だ。アナンタよ。我等が子の恩人が名付け親になってくれたようだぞ? 『ミソラ』と言う名に異存は無いか?)」
父大蛇が母親へと顔を向ける。
「(美しい響きですね。神々から名を頂戴しようと思っておりましたが気に入りました)」
「(ミソラ、ミソラって好き! おにーちゃん言ってた! きれいな空っていう意味もあるんだって!)」
音の違う漢字で『美空』とも読めると教えてもらっていたようだ。
「…自分ごときが名付け親など、本当によろしいのでしょうか? 神々と較べるべくもないと思うのですが…」
ひたすら恐縮する直時である。
「(良い! 良い! これも奇縁というもの。縁は結んで繋がってゆくものだ。なにより我が子が気に入っておる)」
念話に楽しげな響きが籠っている。安堵の息を吐く直時。
「(この恩は忘れない。我が名は『ミズガルズ』だ。憶えておいて欲しい)」
「申し遅れました。自分はタダトキ・ヒビノです」
「(私は『アナンタ』宜しくね)」
「(ミソラ! ミソラ!)」
ミソラの両親へと軽く頭を下げ、ミソラには手を振る。
「(竜の子と妖精の子よ。我が子を害した者が判れば直ぐに教えて欲しい)」
今までの柔らかさが嘘の様な迫力に、ヒルダとフィアは全身を小刻みに震えさせながら辛うじて頷いた。ギルドが追っていることは既に伝えてある。それを理由に報復を保留してもらっていることは直時は知らない。
「(早い報せを待っていますよ?)」
アナンタも怒りを押さえているようだ。神獣の気に当てられた二人は今にも卒倒しそうだった。
「(では次の再会を楽しみにしている)」
うって変わった様子で直時を見やるミズガルズ。
「(おにーちゃん、一緒に行かないの?)」
「(ミソラよ。我等と人は共に歩めぬ。色々な意味でな。それにまた会える。ミソラがもうちょっと大きくなったらな)」
優しく言い聞かせる巨大な親に、不承不承頷くミソラ。寂しそうな我が子を優しく舐めるアナンタは、ミソラを顔面に乗せたまま踵を返す。
「ミソラ! 元気でな! お父さんとお母さんにいっぱい甘えろよーっ!」
直時は明るい大きな声で別れを告げた。
身をくねらせ沖へと出た神獣は、巨体に見合う飛行骨を空中へ伸ばす。魔力で張られた翼から風を呼び、海水の飛沫を散らせて宙空へと身を躍らせた。
月光に照らされた蛇身は30メートルを超えた。飛沫を月虹へと変え翔け去る姿が消え、暫くしても三人は微動だにせず夜風に身を晒していたのだった。
「…行っちゃったね」
無言で頷く直時。フィアとヒルダの眼前の背中は少し寂しそうだった。
「まだ酒はある。今日は呑もう」
ヒルダが元気づけるように首へと腕を回す。
「今日『も』、じゃないですか?」
引っ張られながら苦笑を返す直時の腕を取ったフィアが言う。
「いいから付き合いなさい」
その瞳には常に無い優しさが浮かんでいた。
やっぱり神獣とこのままというわけには…。
ミソラぁ!!!