シーイス公国動乱⑫
このサブタイトルもあと少し!
ヒルダがシーイス公国空中騎兵、精鋭『千華雪』隊と共に西のヴァロア国境へと飛び発った。見送ったシーイスの役人達は一部を残し王府へと帰路へ着いた。
護衛騎士も少数が駐留することになり、その中には長身の女騎士、お忍びのカール帝国第一王女アルテミアの姿があった。本人はバレていないつもりである。大きな謀には気を使うが肝心な所で抜けているのは王族のおおらかさ故だろう。直時達は承知の上で見て見ぬ振りをしていた。第一、忙しくて構っていられなかった。
獣人族の入植地で住環境の整備に勤しむ直時達は、時に子供達と戯れたりしながらも多忙な日々を送っていた。ヒルダが戻るまで、世話人達と奉仕活動を続ける予定である。
ミケはギルドや懇意にしている冒険者と連絡を取り合いながら、受け入れ先の獣人族の来訪を待っていた。シーイス役人達の大半が去ってから、本格的に動き出した。次々と引き取られていく住人に、顔色を悪くした居残り役人が王府へと連絡を取ったが後の祭り――。結果、現在残る住人は五百人を割っている。最初に保護した人数の二割り程度である。それに送還作業は未だに続いている。最終的に何人が入植地に留まるのか、不安に苛まれているようであった。
結果として、折角建てた住居にも空きが多くなったが、これは直時達には喜ぶべきことであった。たとえモフモフな子供達が少なくなろうとも……。
獣人族と誤認されていた夜鳥人族と魔人族の数名は、依頼完遂を待ってクニクラドの『暗護の城』へ送ることになっていた。それまでは入植地で生活してもらうことになる。
そして数日後。ヒルダが国境沿いを北上、シーイス公国からカール帝国へと入ったと連絡があった頃、事態は少しずつ動き出す。
トリエスト回廊を南下する輸送部隊は、哨戒、防衛を厳にし、遅いながらも着実に進んでいた。参謀副官が立案した移動防御陣で、以後の損害は激減していた。
特に脚の早い陸騎兵を威力偵察隊として再編成。荷車には大型の騎獣を直掩として配置。どちらも、襲撃が集中している西のシーイス国境側へと重点配置したのだ。
この場合の野盗とは、リシュナンテ率いる同国の特殊獣人部隊である。
リシュナンテは、犠牲が出てから荷の襲撃に無理はさせず、外縁の哨戒部隊に対して射程ギリギリでの弓矢や攻撃魔術での遠距離射撃で嫌がらせをしていた。射っては退くため損害は無かったが、輸送隊の足を遅れさせることには成功していた。
「くそっ。しつこい奴等だ。食料が奪えないなら大人しくしておれば良いものをっ」
「案外、フルヴァッカ侵攻で被害を受けた奴等かもしれません」
「捕捉出来ないのか?」
「獣人共の足は早い上、気配を消すことにも長けております。騎兵といえども対応が遅れます。せめて空中騎兵が何騎かでもいれば……」
「無い物ねだりであったな。お互いに――な。軽傷者しか出ていないのが不幸中の幸いか……。先を急ごう」
散発的な野盗の攻撃に辟易しつつも、グレッグ率いる輸送隊はトリエスト回廊を南下し終わり、フルヴァッカへ向けて東へ転進しようとしていた。
「足止めも限界だね。攻勢に出ないといけないんだけど、国境の向こう側はどうかな?」
「例の入植は完了。少数の護衛兵を残して軍は撤収。但し、住み着いた住人は当初より大幅に数を減らしているとのことです。懸念であった『竜姫』は、依頼のため西へ向かい不在。黒髪と晴嵐は残留しています」
「これ以上ない好機だね。アインツハルト侯にも厳命されているし、僕も散々振り回された。『彼』にはそろそろ消えてもらおうか」
リシュナンテが浮かべた笑みは、普段通りの爽やかさだった。しかし、口調には粘く昏いモノが含まれていた。
《女達とはこれで最後だ。君達も精々可愛がってやれ》
部下の男連中へと念話を送る。万が一にも聞かれないための配慮だ。
情を操り人を操る。彼等は、獣人族を蔑みながらも任務だと割り切ってはいた。しかし、今、戦闘前の猛りを大義名分のもとで大いに発散していた。夜の帳の中、どの幕屋からも甘い叫びが途絶えることは無かった。
その日、ミケは同胞を迎えに訪れた豹人族のとある部族、雪豹人族から問題を持ち込まれた。
「追われているようなので保護したのだが、何やらキナ臭い事情があるようでな……。正直、こちらに連れてくるのは気が引けたのだが、我等も寄り道する余裕は無かった。なので仕方無く同行を許した」
「おかしいと感じた理由は何なのニャ?」
「種族が雑多であったのと、大きな荷を抱えていたことだ。荷は食い物のようだが、しっかり梱包されていた。おそらく輸送中の物だろう」
「……盗賊働きをしたのかニャ?」
「当人達は否定しているが、怪しいところだな」
壮年の豹人族の言葉に、ミケは眉を顰めた。
とりあえず、途中保護したという獣人族に話を聞くために呼び出しをしようとした。
しかし、直時から緊急の念話が届いた。警戒用人魔術に反応があったのだ。
《警戒警報発令! 二〇騎前後の陸騎兵が接近中! 防人要員を至急配置に付けてくれ!》
直時とフィアは砦の外に出た。ミケは、定住予定の獣人族から選抜した戦闘要員へ指示を飛ばす。防壁上の防塁へと向かわせた。
《敵襲の恐れ有り。非戦闘員は退避壕へ避難せよ!》
ミケの広域念話が砦の中に響いた。幼い子供の手を引いた年長者が、各所に建設された地下壕へと走る。
年長者とは言うが、殆どが普人族で言えば十代半ばに見える子女が多い。犯罪被害に遭っていたのが、女子供が多いという事情故である。因みに戦闘要員として志願したのも、十代後半以上の女性が多数を占める。
先頭を走る少数の男性陣は、肉体の欠損を治癒術で回復した者達だ。結構なお年寄りもいたりする。他に、世話役として来ていたボランティアの獣人族やギルド付き冒険者等も武器を手にとった。
彼等は、厚い岩壁で守られた防塁に駆け込み、狭い覗き窓から周囲へ警戒の目を走らせた。
「特に避難訓練したわけじゃないのに、行動が早いね」
「役割分担があったからじゃないかしら?」
直時の感嘆にフィアが答える。二人共、風を纏って空中から周囲を警戒中である。
保護された末の入植地。ある意味、難民キャンプに近いものがあったが、生活必需品を供給する傍ら、直時は自立した生活の構築にも力を入れていた。
保護される経緯に同情も憤りも感じるが、大事なのは未来である。そう、信じてもらう必要がある。心身の傷をなぞって、ただ受け身に施しを受けるだけにはなって欲しくなかった。各人に役割を振って、責任を持たせた。
小は食器洗いから、大は戦闘要員まで、大人も子供もそれぞれに仕事を持ってもらったのだ。勿論、小さな子にもだ。
結果、問題点は多々あるものの、定住を希望した、あるいは定住せざるを得なかった者達は、前を向いて歩き出していた。その矢先の厄介事であった。
「野盗にしては、全員が騎兵とか不自然ね。そこそこ数もいるみたいだし」
「とりあえず攻撃の意図は無いのかな? 遠巻きにしているだけだ。斥候にしては大掛かりだけど……」
「唐突に高い防壁をもった砦が出来てたら、普通は様子見するでしょ? ましてや騎兵だもの」
「あー。そういや、もとは何もないところだったもんな」
フィアの呆れた答えに合点が行く直時。気付くのが遅い。
シーイス公国が獣人族の開拓地を用意したことは噂で流れたかもしれないが、要塞を作ったとは思わないはずである。
「威嚇にぶっぱなしておこうか?」
フィアの了解を得た直時は、なるべく派手な精霊術で牽制をすることにした。
――轟!
天空に風の渦が立った。巨大な竜巻が何本も天空へと伸び、巻き上げられた岩が恐ろしい音と火花を放っている。引きこまれれば身体を砕かれるのは確定である。直時の精霊術だ。
様子を窺っていた騎兵隊は、恐慌に陥る騎獣を宥めて反転、撤退した。帰隊した彼等は、輸送隊指揮官であるグレッグ・フォン・シュレシュタインに報告した。
――賊はシーイスの獣人! 根城は白乙女山地南部の砦! 精霊術師が守護!
受けたグレッグは本国へ対処を問うため、念話を飛ばした。
念話限界距離に配置された連絡要員は、急念をリレー念話で迅速にカール帝国本国へと伝えた。中央でどのような経過があったか、グレッグに窺うことは出来なかったが、帝都からの返信は「獣人族の砦に限って、攻撃を許可する」で、あった。
「海賊共に鉤と舫い綱を用意させろ。獲物を逃がすなと伝えろ。切り込むぞ!」
整列した討伐隊を前に、グレッグが剣を抜いた。騎兵達はそれぞれが得物を掲げ、「応っ!」と叫んだ。
帝国の北端から南端まで、延々と陸を移動させられていた海兵達である。ここぞ鬱憤を晴らす時だと、闘争心が燃え上がっていた。士気を下げぬためにも闘いが必要だった。
参謀副官は、最後まで越境攻撃には反対だった。本来の任務は物資の輸送である。これ以上遅れることは避けたかった。本国からの返答が『攻撃命令』ではなく、『攻撃許可』であったことに疑念もあった。しかし、グレッグは攻撃命令を下してしまった。部下である副官には、意見具申は出来ても命令に反することは出来ない。
報告を元に可及的速やかに戦闘を終わらせるべく、作戦の立案をはじめた。
数日後、獣人族の砦に軍勢が押し寄せた。騎兵だけではない。軽装歩兵を中核とした大軍である。短期決戦を望むカール軍は、最低限の護衛を残し一大攻勢に討って出たのだ。
「野盗ってことは無いよなあ? どう見ても正規軍に見えるんだが……」
「シーイスの獣人族反対派ってわけでもなさそう。他に正規軍を派兵可能な国だと、隣国のカールとマケディウス、ジリ貧のフルヴァッカだけね」
「――ということですけど、どこの軍か判りますか?」
防壁上で対峙した軍を見下ろしながら、直時は長身の女騎士へと訊ねた。
「カール帝国北領のシュレシュタイン軍だ。陸上での輸送作戦中であった筈なのだがな」
即座に答えが返った。何かと絡んでは避けられているうちに、身分がバレていると悟ったアルテミア王女である。
「王女殿下の御威光でおさめていただけませんか?」
「この身は帝都に帰ったというのが公式見解でな。名乗っても偽物と断じられるだろうよ」
「印籠みたいな、王家の印は無いんですか?」
「インロウが何かは判らぬが、そんな便利な物は持ちあわせておらん」
胸を張るアルテミア。直時は失望の溜息を深く、ふかーく吐いた。
「カール帝国第一王女殿下に謹んでお尋ね致します」
「うむ。申せ」
「正当防衛として被害が出ても宜しいですか?」
「是非も無い。ここはシーイス公国領内である。妾が証人だ。お主等の反撃は正当な行為であったと保証しよう」
やたらと偉そうなアルテミアに疑いの眼差しを送る直時。
言質を得たミケは念話を飛ばし、フィアも拳を握って決意を固める。この世界ではやるやる詐欺は罷り通らない。言辞に重きを置く種族が多いためである。
「避難は済んでる?」
「勿論ニャ。それと、例の盗賊働きをしたかもしれない娘達は軟禁しているニャ」
「出てこられてもややこしくなりそうだし、見張っててくれないか?」
「任せるニャ」
ミケは胸を叩くと、防壁の内側へと飛び降りた。彼女達は闇の精霊術により、安全に隔離されることになる。
ミケを見送った直時は、再びアルテミアへ向き直った。
「殺す方が良いか、捕縛する方が良いか、御希望はありますか?」
「選択の余地があるのか?」
「出来る限り御要望に沿いますよ? ま、シーイスとカールの関係に配慮したというところです。当然、対価は望みますけどね」
強気な発言の中にも、殺人を忌避する直時の意図が汲み取れるアルテミア。弱みを突くか、恩を売るか、少し迷う。
「殺したければ好きにすれば良い。私はどちらでも構わない」
「えーっと……。国民ですよ?」
「民草ならば心もくだこう。しかし、国を害する愚臣は別だ。疲弊しきった友軍への物資輸送を放り出しての戦闘なぞ言語道断。それに、今のシーイスは物資の供給に無くてはならぬ。それすら判らぬ指揮官ならば、お主らが始末せずとも未来は変わるまい」
アルテミアは冷たく言い放った。
本来ならば、アインツハルト侯爵の策略の結果であり、情状酌量の余地は充分ある。アルテミアも情報は得ている。
しかし、軍人とはいえ、階級が上になるほど政治的判断能力が求められる。一軍を率いるなら、広い視野を持っていなくてはならない。職業軍人ではなく、領地経営をする貴族の子であるならなおさらだ。
王女の視点から、グレッグの行動は己が率いる部隊だけに限った短絡的視野であると断じられた。国益を第一と考える王女の立場では仕方が無い。
(本音を言えば、シーイスよりこの者達を敵にまわしたくない。そういうことなのかもしれぬ。対応を誤れば竜族に睨まれたヴァロアの轍を踏むやもしれん。見栄えの良い男だったが、リシュナンテは諦めるか……)
内心の葛藤をおくびにも出さず胸を張るアルテミア。
極秘作戦を続行中である宮廷魔術師リシュナンテ。彼を切り捨てることを決めた。
「彼奴等の撃退は任せる。その上で帝国の恥を忍んで聞いてもらいたい件がある――」
意を決したアルテミアは、兜を脱いで直時とフィアへと向いた。
グレッグ・シュレシュタインが討伐隊として抽出した兵は二八〇〇。輸送隊の護衛戦力の七割にのぼった。
軽装歩兵二〇〇〇。補術兵五〇〇。攻勢魔術師二〇〇に、重騎兵が一〇〇という陣容である。因みに、『重騎兵』は兵の装備ではなく、騎獣の頑丈さに由来する兵科である。砦攻めということで、脚は早いが防御力の無い『軽騎兵』は輸送隊の護衛に残された。
カール帝国シュレシュタイン領軍は、突撃合図の鼓笛を受けて、吶喊の声を上げた。
叫びの勢いとは裏腹に、重騎兵を前面に押し立てて補術兵が防御魔術を展開、兵はその後ろから慎重に進む。戦車を盾に進軍する歩兵のようである。
防御魔術の傘の隙間から、攻撃魔術と矢が放たれた。軽装歩兵の副兵装である短弓から放たれた矢は、補術兵により威力が増している。
先制攻撃の半数が防壁に、そして半数が防壁内へと届こうとした時、突然の轟風が全てを天空へと巻き上げた。
「攻撃を確認。これより正当防衛による反撃を開始する。初撃は威嚇攻撃であり、指揮官の賢明な判断を願う」
広域念話ではなく、風の精霊術による声の拡張だった。声の主は直時である。
「やる気みたいね。斥候の報告を聞いてないのかしら?」
「あの程度の攻撃は対処済みってことじゃないか? じゃあ、一丁ド派手に行こうか!」
直時の言葉に、アルテミアをはじめ防衛に当たっていた者達が一斉に首を横に振った。斥候ではなく、追討部隊である騎兵を追い返した精霊術。あれを上回ることをしようという直時に、フィア以外の一同は顔を青くした。
身構えた軍勢の最前列に位置する重騎兵達は、硬く大きい騎獣の背で微かな音を聞いた。口笛だ。そのメロディは小さな旋風が運んできた。
アースフィアとは異なる世界で愛されたその曲は『ボレロ』と言った。
繰り返される毎に大きくなるメロディ。そして、強くなる周囲の風。砂を巻き上げていた塵旋風に、徐々に大きな物が混じる。砂粒が小石に、小石が石塊に、そして遂には岩石へと変わる。
微かに聞こえていた音は、荒れ狂う風に負けない大きさへ変わっていた。風の精霊術で増幅している。興をおぼえたフィアが楽器を手にした。繰り返されるリズムを覚えることは、吟遊詩人でもあるフィアにとって難しいことではなく、徐々に盛り上がるようアレンジを加えた。
身動きの叶わない軍勢へ、直時は頃合いだと最終小節を叩きつける。
幾つも立ちのぼる岩の竜巻の間に、巨大な水柱が加わった。水の大蛇が大きく身をくねらせる。全てを呑み込み、洗い流す大質量が頭上に踊った。
叩きつけるような音色を合図に、天空へと炎の大輪が咲いた。火に慣れた騎獣だったが、蒼穹を覆い尽くす紅蓮の炎は別格だった。積み重なった恐怖が、ついには弾けた。尻をすぼめて後退りし、果ては騎手の命令も聞かず遁走しだしたのだ。
「ああああああっ! 手綱を締めろっ! やばいやばいやばいっ! 逃げろおおおっ!」
直時の叫びも虚しく、惨劇は回避出来なかった。
重騎獣を前面に押し立てた布陣が最悪の事態を引き起こした。象並の巨躯を誇る上に突撃用騎獣鎧まで装備した重騎獣達は、後続の味方をその巨体で圧し潰したのだ。
悲鳴と怒号が飛び交い、騎獣の巻き起こす土煙の中で防御魔術や攻撃魔術の魔法陣が光った。騎獣が逃げ去り、土煙が晴れた後には原型を留めぬほど破壊された、かつては人であったモノが土と混ざっていた。
「えっ? 威嚇しかしてないのにっ! えっ? 俺のせい? 俺のせい?」
「落ち着きなさいっ! 攻撃してきたのは向こう! 反撃の宣言もしたし、威嚇だけで直接攻撃はしてないっ! 正規軍の騎兵隊なら騎獣を抑えて当然! よって、『私達』に落ち度は無い! 良い?」
顔を青くしてオロオロする直時の背中を、フィアが思い切り叩いて言い聞かせた。幾分落ち着いたところで、改めて眼前の光景を見渡す直時。「うぐっ」酸っぱい物が喉奥からせり上がってきたが、無理やり飲み下す。
(フィアはああ言ってくれてるが、これは間違いなく俺の攻撃の結果だ。リスタルであれだけ殺したんだ。今更何を怖気付く。後ろには多くの女子供がいる。通すわけにはいかないんだよ)
『殺人』を忌避しつつも許容し、しかし、正当な理由を欲しがる直時。既にその手を血に塗れさせたはずなのに、未だ恐怖を感じてしまう。
直時は、右掌を白くなるまで握りしめ、防壁上から混乱中のカール軍を見下ろした。戦闘はまだ終わっていない。
隣に並んだフィアが、震える右拳をそっと両手で包んだ。ビクリと震えた後、直時の肩から力が抜けた。フィアが微かに肯く。
大きく息を吸い込んだ直時は、大音声を発した。
「撤退せよ。退かねば次は当てる。繰り返す。撤退せよ。撤退するなら追撃はしない」
決然とした宣言は、風の精霊によって辺りに木霊した。同時に一陣の風が動揺する彼等の間を吹き抜けた。
風で頭を冷やされたのか、カール帝国シュレシュタイン領軍の行動は迅速だった。可能な限り負傷者を収容し、撤退していった。残ったのは無残な骸と、見捨てられた瀕死の兵だけだった。
「フィア、ここは頼んだ。外に行ってくる。助けられる者はなるだけ助けたい」
「じゃあ、私も――」
「いや、これは俺の我が儘でやる事だ。フィアにはここを守っていてもらいたい。あと、アルテミア王女から聞いたリシュナンテの件、ミケにも念話で説明しておいて欲しい。拘置してる娘達が、危ない娘達だってことをね。対処も二人で宜しく。俺だと、女の子相手に甘い対応しか出来ないだろうからね」
言うだけ言って、直時は防壁の外へと飛び出した。
噎せ返る血の臭い。その中を直時は生存者を探して回った。風の精霊に呼吸を拾ってもらっては駆けつける。
「精霊達、この者へ癒しを――」
精霊術での治癒は、消えかかった命の火を次々に繋ぎ止めた。起き上がったカール兵は、信じられないように自分の身体を見ている。
「部隊に戻るか、投降するかは自分で決めろ」
黒髪の精霊術師は、それだけ言って次の生き残りへと治癒を続ける。
フラフラと立ち上がったカール兵達は、どうするべきか決めかねていた。
直時は攻撃を命じられた敵だ。しかし、自分達を死ぬ目に遭わせたのは友軍の騎兵だ。そして、見捨てられた自分達を助け、未だに同僚へと治癒を施しているのも、その敵だ。
彼等は困った様子で、同じく救われた同僚と顔を見合わせていた。
「助けてぇーっ!」
突然、女の叫びが聞こえた。
直時と快癒したカール兵が、声の方を向く。獣人族の一団、それも娘ばかりが追われるように逃げて来た。血を流している者もいる。
カール兵は顔を強張らせて近くの武器を手にとった。討伐作戦の原因となった獣人族だと思ったからだ。
直時も、アルテミア王女からリシュナンテの謀略を聞いたばかりである。警戒心を持ってはいたが、負傷した娘達を武装した兵士が囲むのを見て、間に入らざるを得なかった。
「はいはいはいはいっ! 双方落ち着いて! って! 君はガラムさんの妹――っ?」
腹部に血を滲ませ仲間に支えられた虎人族の女性は、記憶が確かならラーナ・ガーリヤである。
「タダトキ・ヒビノ?」
「そうです! お兄さんが探してましたよっ? しっかりして下さい! 直ぐに治癒しますから――」
慌てて近寄った直時に、ラーナがしがみついた。同時に、周りの娘達も見を寄せてくる。
「ちょっ? ぐぁっ! 何を?」
困惑していた直時の顔が苦痛に歪む。胴に回されたラーナの指先から鋭い爪が伸び、脇腹へと喰い込んだのだ。
「リッテぇぇぇぇぇーーーーっ!」
ラーナの叫びを合図に、他の娘達もそれぞれの想い人の名を呼んだ。
次の瞬間、離れた森の影から攻撃魔術の束が放たれた。
誤字脱字のお知らせありがとうございます。
折角の御指摘なのに、直近の話しか直せていません。
この場を借りて、お礼とお詫びを!