1
少し遅めの夏休みをケイコとマナミは取っていた。まだ紅葉には早すぎるし、海には遅すぎる。とても微妙な季節ではあったが、久しぶりの2人だけの旅行を楽しんでいた。
「ねぇ、ここが仲居さんが言ってた洞窟かな?」
マナミは洞窟から隠れるようにケイコの後ろに回り、袖を掴んで洞窟の中を覗きこんでいる。2人は泊まっている旅館の仲居から、面白い話を聞いたのだ。
「あの、やっぱりお客さんも鏡鬼が目的ですか?」
2人がお土産を旅館の外に買いに行こう玄関で靴を履いていると、仲居がそう2人に声を掛けた。名前は‘高橋亮子’というらしい。この旅館は独特で、全ての仲居に名札がついている。しかし、ケイコとマナミは何の事だか分からずに、互いの顔を見合わせた。この時、マナミが好奇心旺盛な子供の顔に変わったので、ケイコは嫌な予感を感じていた。マナミという子は昔からとても好奇心が旺盛で、面白そうな事があればすぐに頭を突っ込む、そのくせ怖がりで最後にはケイコが面倒を見ないといけなくなる。そして案の定、マナミは嬉しそうな顔で目を輝かせ、右足に靴を履いたまま床に乗り、飛びつかんばかりの勢いで仲居の手を取った。
「何ですかそれ?」
「え……。し、知らなかったんですか。私は女性2人だし、夏でも秋でもない季節だったので、それが目的だと思っ―」
その少しの仲居の話の間でも、マナミは待ちきれずに足を踏み鳴らして急かす。
「そんなことはどうでもいいです! 鏡鬼って何ですか?」
「コラ、マナ。人の話は最後まで聞くようにって、昔から言ってるでしょ」
「え〜、でも〜」
マナミの失礼な態度にも、仲居は顔色1つ変えずに笑顔で続けた。
「いいですよ。私はそんな事気にしませんから。鏡鬼というのは、この旅館の近くにある洞窟に住むといわれている、鏡を使って人に真実の姿を見せる鬼の事です」
「真実の姿を、ですか……」“何だか、随分胡散臭い話だな”
そうケイコは思ったようだが、マナミは輝いた笑顔で言った。
「それ、どこにあるんですか!」
そして2人は今、その洞窟の前まで来ている。
「ねぇ、入ろうよ」
マナミは怖がりながら小さな声で入ろうと言っているが、格好は完全に逃げ腰になっている。
「マナ。入ってもいいけど、それならせめて前に出ようよ」
先程よりもさらにケイコの後ろに隠れるマナミ。袖口ではなく、完全に背中に抱きついている。
「だって……。怖いんだもん」
「あのね。さっきの話なんて所詮作り話で、そんな鬼いないに決まってるでしょ。まったく、怖がりも治ってないんだから」
「い、いいよ、分かったよ。入ればいいんでしょ」
マナミは開き直り、怒りながら洞窟に入いっていった。
「コラ。一人で行ったら危ないでしょ。ったく、単純な性格も治ってない」
ケイコは自分自身で、まるで子供をあやす母親のようだと思いつつも、心配なのでマナミを追いかけて洞窟に入った。
2
洞窟の中は仲居から聞いたとおり、数メートル先も見えないくらい真っ暗だった。懐中電灯2個で床を照らしながら進んでも、壁に手を付いていないと扱けそうになって進めないので、懐中電灯を持っていない手を添えながらケイコは進んだ。マナミは結局ケイコの背中にしがみ付いている。
「や、やっぱり、怖いよ〜」
「あのねマナ。せめて自分の分の懐中電灯くらい持ちなさい」
「え〜、だ、だって……。そんな事したらケイちゃんにくっ付けないから―」
「あ!」
マナミが駄々をこね始めようとした時、懐中電灯で照らされた道が二手に分かれているのが目に止まって、思わず大きな声が出たケイコ。
「ここが仲居さんが言ってた分かれ道ね」
ケイコはいたって冷静で平然とそう言ったが、マナミは完全に怯えてさらに強くケイコに抱きつく。
「な、何か、こ、こ寒くない?」
「洞窟だから当然でしょ。それでマナどうする? ここまで来て、何もしないで、何も見ないで帰るの?」
先程までとは違い、マナミに呆れながらも気を使っている声ではなく、積極的に行きたい素振りと明るい声にケイコは変わっていた。
「私は行ってみたいんだけど? この分かれ道を分かれて、1人ずつ奥に行かないと鏡鬼には会えないんでしょ?」
「そ、そう、言ってたけど……」
消え入りそうな小さな声のマナミに、「それじゃあ」といってケイコはマナミから体を引き離した。そして懐中電灯をマナミに持たせて、「私は右の方を行くからマナは左ね」と、ケイコがマナミを心配することなく進もうとした。が、マナミはとても不安そうな顔でケイコを引きとめようとした。
「ケイちゃん、ほ、ホントに大丈夫かな? ケイちゃんは、怖く、ないの?」
「全然。怖いんだったら、マナはそこに残ってて。私だけ奥に行って、鏡鬼がどんなのかを見てくるから」
ケイコはそう言い残して右の道を進んで闇の中に消えていった。それを見送ったマナミも、仕方が無いといった感じで恐る恐る、慎重に震える手を壁に付いて左の道に進んだ。
「失敗したかな? ちょっと怖がらせすぎたかも」
ケイコは少しだけ後悔をしていた。いつもならマナミを怖がらせるような事はしないのだが、相変わらずの性格だったので、反省させる意味でも進みたい様な素振りをしてみたのだ。本当は鏡鬼になど興味はなかった。ただ、洞窟の1番奥に鏡鬼の腰掛があると仲居が言っていたので、どんな物を腰掛けと言っているのか見て、ただの石なら仲居に「くだらない石があっただけ」と言ってやろうと決めていたのだ。そんなことを考えながら歩いていると、洞窟の一番奥らしき広い空間に出た。その瞬間に、空気が変わったのを感じた。
“こんなところに人がいるの? まさか、わざわざ怖がらすために人を仕込んでいるとか?”
頭を色々な考えが巡る。
『お前さんがケイコかい?』
いきなりだった。ケイコが今まで生きてきた中で聞いた事がない、とても低く背筋が凍りつきそうな声が、明かりもない暗闇から聞こえてきたのは。しかも、相手は自分の名前を知っている。ケイコは少しだけ動揺しながらも、平常心を装って気の強い声を暗い空間に投げつけた。
「あなた、旅館の人に雇われたんですか?」
ケイコは質問をしながらも、震える手で懐中電灯の光を使って声の主を探していた。
『俺が雇われた? それはちょっと違うな。どちらかと言うと、俺があいつらを雇ったって方が正しいだろうな』
現実を見たくないケイコは、相手の姿を見つけようと必死になって光を暗い闇に当てる。先程の言葉が耳に届いてない事を悟って、声の主が暗闇から喋りかける。
『おいおい。お前さん、俺を探すのに必死かい? なら俺がどこにいるか教えてやるよ。腰掛のような、丁度いい大きさの石があるだろ? そこに俺はいる』
ケイコは心臓の音がこの空間中に響いて、耳に届いているのだと思った。それ程この現実を理解したくなかった、見たくはなかった。なぜならすでに、声の主が言ったところは見ていたからだ。腹を決め一度目を瞑ってから、目を見開いてその腰掛のような石の上に光を当てた。そこには、光を吸い込む闇よりも深い色をした影と、鋭くどう考えても人のものではない、ケイコに狙いを定めた鬼の目が浮いていた。
『そうだ。それが俺だ。だがおかしいな。お前さんがここに来て、すぐに目が合ったと思ったんだが。まあいいそんなこと、それよりも―』
影の中から現れる、声が聞えるたびに見える口の中と鋭い牙に、ケイコは釘付けになっていた。この時ケイコは確信した。影のような体も、人ではない鋭い目や牙も、全て人が作り出せるものではない。 本当に鏡鬼は居たのだと。そんなケイコの心の中などお構いなしに、鏡鬼は続ける。
『お前さん、自分の真実の姿が知りたくてここに来たんだろ? そのためには、やってもらわなくちゃいけないことがある。心配する事は無い、簡単な事だ。お前さんと一緒に入ってきた、マナミの真実の姿を知るだけでいいんだ』
マナミという言葉で我に返ったケイコは、大きな声を出していた。
「ちょっと、マナミには手を出さないで! あの子はあなたに会ってないんだから、関係ないでしょ!! それに、あの子は本当にいい子なのよ! 真実の姿を知ったところで、何にも―」
『はーっはははは!!! お前さん、何も分かってないようだな。人間にいい奴なんていないんだよ。その証拠に、お前さんがいい子だと言ったマナミの真実の姿を見せてやるよ。といっても、本当はお前さんが一番よく分かってると思うんだがな。まあいい、お前さんだけが持ってきた、その手鏡で見せてやるよ』
ケイコの目には、首を絞められて力なく横たわるマナミの姿が映っていた。
「アンタが、アンタがいけないのよマナミ!! 私達、私達結婚の約束もしてたのに、私の誕生日に約束してたのに!! 最近冷たくなったのは、アンタのせいだったのね!! 何でアンタは、いつもいつも、私の邪魔をするの? ねぇ、マナミ? あの人は、ケイスケは私の1番大事な人なの! だから誰にも渡さない、例えそれが私の1番の親友でも」
その時のケイコの目に涙はなく、顔はなぜか清々しささえ漂っていた。
3
「気を落とすなよ、ケイコ」
マナミの葬儀を終え、ケイコはケイスケと自宅で食事をしていた。マナミの死因は絞殺。その犯人は既に捕まったという。
「辛いよな。ケイコと旅行を終えた次の日だったんだろ? マナミちゃん殺されたのって?」
そう口にしてから、ケイスケは心の中で“しまった”と呟いた。その言葉と同時に、向かいの席に座っていたケイコが泣き崩れたからだ。慌ててケイコの横に行き、ケイスケは両肩に手を付いて宥めようとしたが、相当の時間を要してもケイコが泣き止む様子はなかった。仕方がないので、泣いて立つ事も出来なくなったケイコを軽々と抱きかかえ、ベットのある寝室に向かった。寝室の扉を片手で開け、中に入って喪服のままベットの上にゆっくりとケイコを置くと、掛け布団を掛けて横の床に座ったケイスケ。ケイコは慌てて手を伸ばし、ケイスケを探す。ケイスケも分かっていたみたいで、捜しているケイコの手を掴み、もう片手でゆっくりと頭を撫でる。掴んだ手からは、ケイコが震えているのが伝わってきて、寝付くまではとてもじゃないけど帰れないと心の中でケイスケは思っていた。
“随分と情緒不安定だったな。葬式でも何度も泣き崩れてたし。親友とはいえ、ケイコらしくない”
そんなことを考えながら、ケイスケは家の扉を開けた。既に時間は深夜だったので、テレビをつける気になれずにいたが、食事をほとんど食べる事が出来なかったケイスケは、何か入っていることを期待しながら冷蔵庫を開ける。が、暗い部屋に唯一の明かりで照らし出されたのは調味料とビールだけ。つくづく、自分の不規則な生活に嫌気を感じながら、一本だけビールを手にして、明かりをつけないままベットに向かった。といっても、ケイスケの部屋は小さく、台所と壁を隔てることなくベットが置いてある。そのベットに腰を下ろして、少し先程のことを思い出していた。ビールを開けることなく、ただ無言で。ふと気になったので、ベットの頭側に置いてある目覚まし時計を見た。針は3時を差したところ。部屋は暗いといっても、ベットの足側にある、ベランダに続く大きな半透明の窓が月明かりを取り込んでいるために、見えないくらい暗くはなった。そのはずなのに、目覚まし時計の奥に見えるはずの冷蔵庫が、いくら目を凝らしても見えない。
『そんなに見なさんな』
聞いた事もない、腕に覚えがあるケイスケですら怯む声が聞こえてきた。
『お前さんに、いい事を教えてやろうと思ってな』
「誰だ!」
ここでようやくケイスケの声が出た。ただ、この時には随分と落ち着きを取り戻していたケイスケの姿を見て、影は喋り始める。とても楽しげに。
『お前さん、随分と似てるんだなケイコに』
“な、何なんだ? ケイコの知り合いか? それにしては……”
ケイコの家に何度もケイスケは足を運んでいた。親戚が集まる場所にも呼ばれるくらい、仲が良かったのだ。ケイコの事を知っているとなると、その時の誰かなのだろうと、なぜか思っていた。ただ、影が濃くて人であるか確認出来ないのだが。
『お前さんの大事な女。ケイコの秘密の姿を見せてやろうか? マナミに関する秘密の姿をな』
普段のケイスケなら聞く耳を持たなかっただろう。ただ、今回の事、いくら親友とはいえケイコの性格であの落ち込みようは何かあると思っていた事もあって、同意をしてしまったのだ。
「マナミちゃんの事で、か。見てやってもいいが、もしケイコを侮辱するような事なら、許さないからな。それと、後でちゃんと警察に行ってもらう。不法侵入したんだからな」
ケイスケの声に、恐怖や不安が混じっていない事を不思議に感じたようだ。
『随分と落ち着いてるな、お前さん』
「一応、昔色々してたんで」
影は「そうかい」と言って台所から、唯一鏡がある洗面所に姿を消した。そして、戻ってきた影の手には鏡があり、台所で止まってケイスケに鏡を投げた。その鏡を受け取った瞬間に、影は喋りかけた。
『大事な女の割りには、この家にケイコの写真一枚もないんだな』
「……」
無言で影を見た。
『まあ、俺には関係ないが』
暫く影を見ていたが、ケイスケは影から鏡に目線を移し覗き込む。しかし、鏡はケイスケの顔を映さずにあの時の、ケイコがマナミの首を絞め、マナミが首を振りながら目から涙を溢す姿が。徐々にだが確実に、ケイコが絞め殺していく姿が、その時のケイコの顔が映像で流れた。
『それがケイコの、親友を殺したのにも拘らず、殺されたと涙を見せるあの女の真実の姿さ』
この言葉は既にケイスケの耳には届いていなかった。ただ同じような言葉だけを、鏡を握ってブツブツと呟いていた。
「ケ、イコ、ケイコが、マナミちゃんを殺した? あのケイコが、マナミちゃんのことを? あ、あのケイコだぞ。ケイコなんだぞ? そんな事するわけない……。ケ、ケイコが、マナミちゃんを―」
『殺したのさ』
4
「話って何?」
ケイスケは次の日の朝早く、ケイコを公園のベンチに呼び出していた。2人とも熟睡できていないようで目の下には隈を作り、朝日に照らされた姿は、明るい時間には似合わない喪服姿のまま。ベンチに座っていたケイスケは俯いたままだったが、その横にケイコは並んで座った。公園にはまだ誰もいない。
「話、聞いたんだ」
「何の話?」
ケイコの声からはまるで生気が感じられなかった。それはケイスケも同じで、俯いたままケイコを見ないで続ける。
「ケイコ……。ケイコ、お前がマナミちゃんを殺したって話」
ケイスケはこの時初めて、横に座っているケイコの顔を見た。俯いたまま目だけで確認するように。この時どう反応をするか、そして反応次第で本当か嘘か判断しようと思っていたからだ。まだ未だにケイスケは信じる事が出来なかったから。
“落ち着いてる。昨日までとは全然違う……。昨日の事は、夢、だったんだよな。そうだよな、影がしゃべるはず―”
「何だ―」
ケイスケの頭の中で結論が出ようとしていた。ただ、その結論はケイコが力なく続けた言葉で脆く崩れた。
「知ってたんだ」
ケイスケはケイコの顔を上げた。その言葉の意味を理解できないようで、とても驚いた顔で。
「し、知ってた? ど、どういう―」
「知ってるんでしょ? 私がマナミを殺した事……。何でそんなに驚いた顔してるの?」
「そ、んな……。なあ、ケイコ! 嘘だろ? う―」
ケイコはゆっくりとベンチから立ち上がりながら、「嘘じゃない」と言い残し、その場を立ち去ろうと一歩踏み出した。そして、次の足を踏み出した所で、最後になるであろうケイスケの顔を見ようと振り返った。そしてその時、自分の首に手があることに気づいた。ケイスケが後ろに回って、首を絞めようとしていたのだ。そのことに気づいたケイコだったが、抵抗することなくケイスケに首を絞められることを選んだ。目に涙はなく、自分がマナミの首を絞めている時、マナミの顔が恐怖に歪んでいく様を思い出していた。
“あぁ……。マナミも同じものを見たんだ”
ケイスケの顔は、既に人の物ではなくなっていた。ただの鬼。そして、鬼はもう1人。膝を付いて、体を折られるくらい曲げられたケイコを見ながら、満面の笑みを浮かべている闇よりも深い色をした鬼。
5
「はぁ、はぁ、はぁ……」
ケイスケはベットの上で目を覚ました。勢いよく剥いだ掛け布団や敷布団に溺れるくらい汗を掻いていたために、上半身を起こしただけで、血だらけの喪服から汗が滴り落ちる。尋常ではない汗を掻いた事とは関係なく、体中が震えている。
“さ、さっきのは、夢、だよな? 夢だよな……。そ、そうだ。俺がケイ―”
足元から差し込んでくる日差しが殆どなかったが、時計を見ると朝だと分かった。血だらけの手や口元、喪服などは目に入らず、震えを何とか止めてから立ち上がろうとしたケイスケの、まだ寝ぼけて働かない頭の中に大量の鳥の鳴き声が聞こえてきた。その鳴き声がするほうを見ると、どうやらベランダに鳥が集まっているらしい。ぼやけて見えるシルエットと鳴き声からして、ベランダに集まっているのは烏のようだ。なぜ大量の烏が集まっているのか理解できないらしく、立ち上がってゆっくりとベランダに向かう。少しずつ近づくにつれて、烏が何かに群がっているのが分かり始めた。烏が群がっている何かも、ゆっくりと進む事で半透明な硝子の向こうに見え始めてきた。ゆっくりと歩く事で忘れていた体の震えが、またどんどんと蘇ってくる。そして窓の鍵に手が届く時には、完全に何がそこにあるのかが理解できた。黒く長い、マネキンのような形をした何か。確認しなければという思いで、ケイスケは窓の鍵に手を伸ばす。しかし、震えてどうしても鍵を開けれない。
“そんな……。さっ、さっき見たのは、夢じゃ、ないのか? もしこの窓を開けた先に、開けた先に、開けた……”
『教えてやろうか?』
その声には聞き覚えがあった。昨日聞いた、昨日初めて聞いた影の声。その声が今ケイスケの耳の横で聞こえる。
『窓を開けた先に寝てるのは、ケイ―』
ケイスケは最後まで聞かずに、意味のない叫び声をあげてベットに走って戻り飛び乗ると、汗で重くなった掛け布団を頭から被った。
『おいおい。助けてやらないのか? 烏に襲われてるぜ』
ケイスケは体を前後に揺らし奇声を発しながらも、布団の隙間からベランダの方を見ていた。それに気づいている影は、わざと焦らすように鍵を開けない。
『お前の大事な女なんだろ? いや、元大事な女か。結婚の約束をしてたんだろ、社長に目を掛けられる前は』
奇声を上げ続けている事で口の中は乾いていたが、体から出る汗は止まらない。鼻水が口の中に流れ込んできても、涙が溢れ出してもただ揺れて奇声を発し続けている。
“あぁ、たまらないな。この壊れていく感じ。けど、もう少し楽しませてくれよ”『本当は大事だったんだよな、好きだったんだよなぁ。けど、仕事失敗しちまったんだよな。それでどうにもならなくなっちまったんだよなぁ〜。だから手を出した。自分を気に入ってる事を知ってた社長の娘になぁ〜。それから話は進んで、お前今月には婿養子になるんだろ? だから、この女が要らなかったんだよな? 生かしておくのも耐えられなかったんだよな。何せ、同い年の自分のガキが出来るのは不味いもんな! だから、殺したかったんだろ? この女』
影が勢いよく窓を開けた。そこには、顔の半分近くを烏に喰い散らかされ、もう半分は腐り落ち、体の至る所には穴が開いて、その穴から蛆が湧いている。そんな姿になっても分かるケイコの姿があった。その姿を見て、ケイスケは奇声を上げるのを止め、体の揺れが止まって布団を握る手からは力が抜けて、ただ項垂れた。
『おかしいな、何泣いているんだ? お前さんが殺したんだぞ、ケイスケ』
その言葉は耳元で、声の質とはかけ離れた優しい声で囁かれた。
「違う! 違う!! 違う!!! 俺が、俺がケイコを殺すはずが無い!!」
俯いたまま耳を塞いで、頭を振ってその声が聞こえないようにしようとした。が、影は牙を剥き出しにして笑顔を作り、片手でケイスケの顎と頭を押さえて自分の方を向かし、もう片手で両腕を掴んで下ろさせた。
『お前さんが殺したんだよ。他の誰でもない、お前さんが』
口から涎を垂らしながら、止まっていた涙がその言葉で頬に流れた。
『いい子だ。ようやく理解できたか? それならこれも理解できるよな。ケイコがマナミを殺した理由も』
ケイスケにはまったく思い当たる事がなかった。普通の精神状態ならそれに近い事を答えただろうが、今は壊れた視線を影に向けるだけだ。
『マナミがお前のガキを身篭った、こう言ったのさ。あぁ、分かってる。お前はマナミには手を出しちゃいない、社長令嬢で手一杯だったからな。けどそれでも、そのことが真実かなんてケイコには関係なかったのさ。何せ、ケイコは昔からマナミの事が目障りで仕方なかった。いつもいつも、買い物に行けば同じ物を買い、食堂に行けば同じ物を食い、歌を歌えば同じ歌を歌い、彼氏を作れば同じ彼氏を作る。そう、昔からそうだったんだ。だから思った、自分の腹の中にケイスケの子供が出来たんだから、同じ様にケイスケの子供を作ったんだと。けど、最近それ程会ってなかったから、最後の性格の部分だけ変わったの知らなかったんだな。結婚してる男にしか興味がなくなったって事に。まあだから、いずれはお前さんのガキを孕んだんだろうがな』
ゆっくりとだが、影の言っていたことを理解しだしたケイスケの目に、憎しみのような感情が表れてきた。
「ならお前が、お前の所に行かなければ、ケイコとマナミちゃんは死なずに、済んだのか?」
影は軽く『あぁそうかもな』と言った。
「ならお前が、ケイコに嘘をつかなければ、ケイコが、マナミちゃんを―」
『いや、多分殺してたと思うぞ』
影の声は、表情に釣られてとても明るい。
「ならお前が―」
『もういいんじゃないか? そろそろいつもの時間だしな』
ケイスケが理解できずにいると、今まで鳴いていた烏の鳴き声が止み、代わりに玄関の呼び鈴が部屋中に響き渡った。
『ほら、いつもの警察が来る時間だ』
ケイスケは、なぜ警察がここに来るのかということで戸惑い、またパニックを起こそうとしていた。
『いやあよう、昨日お前さんが言ってたろ? 不法侵入したから俺を警察に連れて行くって。ただ、俺は面倒が嫌いでよう。警察にこの家まで向かいに来てもらったんだ。っていっても、この部屋の中に入られるのはまずいか。何せ、死体があるからな。けどま、俺には関係ない』
影はケイスケから離れ、呼び鈴だけではなく、何本の腕でノックしているのか分からないくらいの音でノックされている扉に向かって歩き出した。もちろんノブも、ガシャガシャ外れんばかりに回り続けている。
『おいおい。どうしちまったんだ?』
這って近づいたケイスケは、影の足にしがみ付いて震えた。その姿を見下しながら、影はケイスケの耳に口を近づけて、あることを呟いた。その言葉を聞いたケイスケは、驚きの表情で影を見上げた。今度は聞こえるように、背を伸ばしたまま影が先程の言葉を繰り返した。
『喰えばいいんだ、死体を』
聞き間違いではないと分かると、ケイスケは首を横に振り、尻を付いたまま手を使って後退りをした。それをゆっくりと、一歩の差が出来たところで一歩を踏み込みケイスケを影は追い詰める。そんな事が続いて、ケイスケが押入れに背中が付いて逃げ道が絶たれた。そんなケイスケに影は屈んで、それでもケイスケよりかずっと高い場所から影が俯いているケイスケに言葉を掛けた。
『だから、喰えばバレない。何をそんなに躊躇うんだ?』
「い、やだ……。それ、それだ、けは、いや、だ。いや―」
『あの女を何も残さず綺麗に喰えば、お前は幸せを掴めるんだぞ? 俺が喰いやすく料理してやるあの女を喰えば、社長令嬢と幸せになれるかもしれない。いや、それ以上の幸せが待ってるかもしれないんだぞ? 心配するな、俺が喰いやすく料理してやる。それでも―』
幸せ、その言葉がケイスケの頭の中に流れ込んだ。その言葉だけが流れ込んだケイスケは、「本当に……」と躊躇いながらも呟く。影を見上げながら、「本当にそれだけでいいんだな」と。その言葉に、影は満足げに答えた。
『あぁ、それだけでいい』
呼び鈴がなり、ノブを回す音は玄関だけではなく全てのノブから聞こえる。ノックの音は今や、扉という扉だけではなく、天井や床、窓や押入れの中からも中に入れろと叩き続ける。その中ケイスケは、ただ一心不乱に出される料理を食べ続けた。いつも目覚まし時計を置いている場所にご飯を置いて食べているケイスケだったが、今は床の上に並べられている皿から手掴みで、這い蹲りながらただ赤に染まる料理を食べている。
『さぁ、次の料理は最後にしてお待ちかねの、生みそ親子丼だよ』
影はとても楽しげに料理を出し続けた。何度も何度も食べたものを戻しては、また口の中に手で押し込む。汗が体中から噴出し、泣きたくもないのに目からは涙が流れる。そんな様子を、床に這い蹲りながらまるで虫のように一心不乱に食べているケイスケの様子を見ながら、影は微笑んでいた。
“さあ、今日は食べ終わる事が出来るかな?”
何度も吐き、汚物塗れになった手を最後の一皿、終わらせる事が出来る最後の一皿に伸ばした所で、ケイスケの目から生気が消え、口から泡を吹いて気を失った。その姿を見て、影は残念そうに気を失ったケイスケに話しかけた。
『あ〜ぁ。また初めからやり直しだ』
「はぁ、はぁ、はぁ……」
ケイスケはベットの上で目を覚ました。勢いよく剥いだ掛け布団や敷布団に溺れるくらい汗を掻いていたために、上半身を起こしただけで、血だらけの喪服から汗が滴り落ちる。尋常ではない汗を掻いた事とは関係なく、体中が震えている。
“さ、さっきのは、夢、だよな? 夢だよな……。そ、そうだ。俺がケイ―”
足元から差し込んでくる日差しが殆どなかったが、時計を見ると朝だと分かった。血だらけの手や口元、喪服などは目に入らず、震えを何とか止めてから立ち上がろうとしたケイスケの、まだ寝ぼけて働かない頭の中に大量の鳥の鳴き声が聞こえてきた。
6
「あのぉ〜、番頭さん?」
女性2人の旅行客。
「はい、何でしょうか?」
「ここの旅館の人には、全員に名札が付いているんですね」
ここの旅館ではそういう決まりなのだ。
「えぇ、そうですよ」
「あなたは、‘篠崎慶介’さんって言うお名前なんですか」
「そうです。何かあれば、名前で呼びつけてくださいね」
田舎の旅館の番頭にしては随分と男前。
「は〜い。何かあったらすぐ呼びま〜す」
「アンタ、ほっとに男前に弱いわね」
番頭は2人の前から去ろうとしたが、少し歩いたところで立ち止まり、2人に振り返りこんな話をし始めた。
「あの。やっぱりここには、鏡鬼が目当てでいらしたんですか?」 |