電車はドアを開けたまま、動こうとしない。
美佐は寒さに目を覚まし、慌ててホームへと下りた。寝過ごしたこと何度かあったが、その日の駅の光景はいつもと大きく違った。
――ここは何処?
雪は単線のホームに、所々積もっている。
数時間前まで会社の忘年会で随分飲んでいた。上司に愛想笑いを振りまき、酒など全く飲めないのに無理をした。今更、後悔しても遅い。胃には不快感が残っている。
寒さが足元から込み上げてきた。駅の表示板を探すが何故か見当たらない。
寒さに震えながらも、雪がまばらに残るホームを歩いた。静かな駅の風景に、ヒールが地面を刻む音が響いた。
ほどなく、彼女は少し離れた改札の奥に灯りを見つけた。
その光に吸い込まれるかのように近付いて行った。
美佐は来週、三十歳の誕生日を迎える。
気が付くと、同僚の大半は寿退社をしていた。気がついた頃には、会社の女性の中で一番年上だった。男性社員がちやほやする時期はすでに通り過ぎていた。忘れかけた頃にくる両親からの電話は、結婚の催促ばかりになった。賞味期限の切れた食品のようだ。世間の対応は冷たく感じる。
五年近く付き合って来た彼と会わなくなり、一か月が経つ。
いつもように会って食事をし、最近会った出来事を話した。時に映画を見たり、些細なことでケンカをする。気が向いた時はベッドを共にした。時にオプションは付くものの、二人の関係に大きな変化は無かった。何かが足りない気がした。
ジグソーパズルの最後のワンピースが、どこかいびつで入らない感覚に似ている。笑顔は素敵だったが、生涯ずっと共に暮らすとなるとどこか違う。
しばらく会うの止めましょうと切り出すと、
「君が望むなら」と彼は頷いた。
あっさりした返答に、彼女は戸惑った。
何故そう口走ったのか、理由は正確には分からなかった。ベッドで煙草を吸う癖が嫌だったし、結婚話をあえて避けてばかりいたことも……、理由は幾らでも思い浮かぶ。このまま会わずに時が経てば、二人のこの関係は終わる。着信履歴のない携帯電話を見つめながら、もしかすると、彼も別れを待っていたのかもしれないと思い切なくなった。
二週間ほど前、会社で大きなミスをした。
今までには無い、不注意によるものだった。FAXでお得意先に送るはずの資料を、誤って競合会社に送信してしまった。気付いた時には遅かった。双方の会社からすぐにクレームの電話が鳴り、一年がかりで進められて来た企画が全て白紙に戻された。
事件が発覚してからすぐ、上司に謝罪に行った。険しい表情ながらも、優しい言葉をくれた。だが、会社の損害の大きさを考えると胸が痛んだ。奥歯にものが挟まっているとはよく言ったものだ。怒りに体を震わせながらの上司の優しい言葉は、責任感の強い彼女を打ちのめした。
美佐は駆け込んだ会議室のドアに鍵をかけ、声を殺してしばらく泣いた。壁にもたれかかり、涙を流し続けた。
――死にたい。
窓に微かに映る、化粧のくずれた自分の顔を見て思った。何故か、生きていても仕方がない気がした。自分が死ねば、これからも続くであろう意味の無い人生から、自由になれる気がした。
惨めだった。寂しさを抱えたまま恋に落ち、今度こそと確信した恋もまもなく終わる。自分の人生の全てが失敗のように思えた……。
「わたしもびっくりしましたよ。消灯して整備に入ろうとしている電車の中から人が出て来るなんて思いもしなかったですから……。あと四時間もしたら、始発が出ると思います。暖かいし、ここで待っていたらどうですか。少しぐらいなら眠っていても構いませんよ……」
彼女が駅員室と書かれたドアを開けると、男が驚いた顔をして立っていた。事情を話すと申し訳なさそうに頭を下げた。灰色のハイネックのセーターに、濃紺のズボンをはいている。五十過ぎだろうか、白髪頭の下に穏やかな顔がある。ストーブの上にあるやかんが白い煙を上げていた。駅長はお茶をいれると彼女の前に差し出した。
「終着駅でアナウンスが入ると思うんですが……。聞こえませんでしたか?」
気を使っているのかもしれないが、良く話すと思う。相槌を打つだけで精一杯だ。
「近くにビジネスホテルとかありませんか?」
話がある程度すすんだところで、彼女は口を開いた。頭が痛む。
「うーん。温泉街ならあるんですがね。タクシーで四十分ぐらいかかりますよ。何なら連絡取りますよ。いい露天風呂がありましてね……」
駅員は腕を組んだ。これから必死に宿泊先を探すよりは、確かにここで始発を待つ方が無難に思えた。
「ここの駅は何という駅なんですか」
彼女が再び質問すると同時に、やかんの蓋が激しく動いた。駅員の
「いけない、いけない」といいストーブの上のやかんを取ると、台所へ駆けて行った。
明日の仕事が休みで良かったと思う。まあ、そうでなければ、忘年会で飲みすぎることも無かったのかもしれないが……。
窓に広がる銀世界を見つめた。どう見ても、外にある光景は近隣の街であるようには思えなかった。今時、駅員室の中央に石油ストーブが置いてあるなど考えられない。雪が降るなどとは、昨夜のニュースでも聞かなかった。
美佐は大きく欠伸をした。
「そう、実はですね。こんな話があるんです。この建物から見えるあの杜が有名な神社でして……、占いには興味はありますか」
駅員が窓の外を指差した。
雪化粧をした木々が見える。
彼女は首を縦に振り、再び欠伸をした。
部屋が温かいためだろうか、続けざまに欠伸はでてくる。以前、占い師に手相を見てもらった時のことを思い出す。二十九歳で結婚するといわれて随分と喜んだことをだ……。占い自体、いい加減な話題が多いと思う。もちろん今でも雑誌の星占いなどを読んでいる自分には、否定するつもりさらさらない……。
眠さのせいだろうか、さっきからストーブが揺れて見える。
「そう、それは良かった。その神社の御利益もあってか、ここの駅長室に来た人だけが噂する夢占いがありましてね。……ここに来ると、その日、必ず近い未来に起こる夢をみると言われいるんですよ……」
意識が朦朧としていく。駅員の姿もぼやけ始めている。
「ねっ、聞いてますか。お客さん」
声が響いている。遠い世界で聞こえているようだ。答えることはできなかった。
幼い子供が彼女の方に歩いてくる。歩みはたどたどしい。潤んだ瞳の中には、はっきりと彼女の姿が映っている。
「ママ」
子供は大声を上げた。どうやら言葉はまだはっきり話せないようだ。一、二歳なのだろうか。黄色いセーターに、デニム地のズボンをはいている。足元はふらつき、今にも倒れそうである。
「ママーッ」
張り裂けんばかりの声である。両手を前に伸ばし近付いてくる。彼女は戸惑った。その子供の姿に全く記憶は無かった。
子供は彼女の足まで辿りつくと、しがみつきながら
「ママ、ママ……」という言葉を繰り返し半狂乱に泣いた。子供の小さな手が美佐の服を固く握り締めている。子供の小さな手が美佐の服を固く握り締めている。彼女はしゃがみこむと、両手の親指で子供の頬に零れ落ちた涙をぬぐった。何処か面影は幼い頃の自分に似ていなくもない。
何処からか、彼女の名を呼ぶ声が聞こえてきた。子供の向こう側に影らしいものが見える。顔はかすみ、はっきりとは分からない。声が男性のものであることだけは分かる。
「……美佐、こっちだよ」
そう聞こえると、すぐに男の影は消えた。確かに私の名だ。何故か体中が熱くなった。美佐は子供の頭を撫ぜた。栗色のつややかな髪だった。
「……わたし、君のママなの?」
子供は彼女の胸に顔に埋めると、美佐の体を掴み、動こうとしなかった。子供をそっと抱きしめた。
やかんの蓋が再び激しく動いた。
「どうやら、お目覚めですね」
再びお茶をいれようとしている駅員の横顔が目に入った。彼女の上にはいつの間にか、毛布がかかっていた。
「どうです? 夢は見ましたか?」
駅員は笑顔で質問する。答えに迷った。子供の顔が目に浮かんでくる。瞳はどこか幼い頃の自分に似ているような気がした。
「その顔ではもう内容を覚えていないのですかね?」
美佐は言葉につまると、頬を赤くした。
「人生は長いし、また見ることもあるでしょう。あんまり先のことばかり知ってもね……。始発前には起こしますから、もう少し眠った方がいいですよ」
駅員の優しい声の余韻に浸りながら、記憶が薄れていくのが分かった。
※
――寒い。
「ねっ、聞いてますか。お客さん」
美佐の体が揺すられる。そこにいたのはさっきの白髪頭の駅員ではなく、真新しい紺色のブレザーを着た若い駅員だった。
「だから、終点ですよ。早く起きてください。車庫に入りますから」
口調には苛立ちがあった。
彼女が起きたことを確認すると、その若い駅員は背を向け次の車両へと向かって行った。
ホームへ下りた。風は冷たかったが、雪は無かった。彼女は呆然と目前に広がる複線のホームを見つめた。
白髪頭の駅員の姿を思い出す。夢というにはあまりにも現実的だった。子供の栗色の髪に触れた感覚が残っている。軟らかい手は、とても温かかった。
――雪?
頬に触れた冷たい感覚に空を見上げた。そこには電灯の下、真綿のような真っ白い雪が宙に浮かんでいた。まるで白い羽が空を埋め尽そうとしているかのようだった。
「……わたし、まだ大丈夫かな?」
白髪頭の駅員を思い出し、ひとりごちた。
手のひらを前に出すと一枚の羽のような雪がのった。すぐに体の中に染み込んでいくようにとけた。美佐は視線を遠くに向けた。
遠くレールの先、分岐のある大きな赤信号の上に、雪が優しく降り積もっているのが微かに見えた。
( 了 )
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