異邦人
新しい任地に来て、一年が過ぎようとしていた。
出社時間が遅いこともあり、満員電車に乗らないですむのが何よりだ。故郷ではぎゅうぎゅう詰めで運ばれていく日常だった。それが嫌で転勤を希望したのが一年と少し前になる。
車内の空調は毛並みを優しく撫で、非常に心地良かった。
不意に左肩が重くなった。
隣の席に座っていたサラリーマンが居眠りを始めていた。太り気味の中年だ。
「大丈夫ですか」
右隣の女性が心配そうに声をかけてきた。
大丈夫です。もうすぐ降りますし。
礼を述べた直後、後頭部にサラリーマンの頭が落ちてきた。
よほど疲れているのだろうか。起きる気配もない。
身体全体で押し上げて、真っ直ぐにしてやった。こういうとき、体が小さいと不便だ。
ふう。
溜め息をついた途端、頭に嫌なものが落ちてきた。ヨダレだった。
「ちょっと、おじさん」
女性が頭越しにサラリーマンを小突いた。
「あ、すみません」
口元を拭ったサラリーマンがあわててハンカチを取りだした。
「気をつけてください」
自分のことのように言う女性が好ましかった。同族だったら惚れてしまうかもしれない。
車内アナウンスが駅への到着を告げる。
よいしょっと。
年寄り臭いかけ声で、座席から下りた。いつも携帯している粘着式のローラーで、椅子に付いた毛を掃除した。
ありがとう。
女性に深々と頭を下げて礼を述べた。彼女は笑顔で応えた。
「うちの子と同じ毛並みだから、他人事じゃなくて」
それはどうも。
もう一度頭を下げて、電車を降りた。
悪意はないのだろうな。
彼女が言ったうちの子とは犬だ。我々との見た目の違いは、二足歩行か、四足歩行かだ。
地球に「犬」というものがいると知っていたら、転勤は断ったかもしれない。ただの好奇の目ならまだしも、連れられている犬と見比べられるのは抵抗があった。今ではだいぶモラルが浸透し、見比べられることはなくなっていた。
あ、課長、おはようございます。
おはよう。
あれ、寝癖がついていますよ。
なんだと。誰かブラッシングしてくれないか――
帰りに帽子を買おうと思った。