二口女(ふたくちおんな)
私が里見家に嫁いだのは五年前になります。当時、里見家は先代の信輝様が興された肥料製造業と精錬業によって勃興した県内有数の金満家でありました。飛ぶ鳥を落とす勢いとはよく言ったもので信輝様の威光に逆らう者は一人もおりませんでした。
私の父もその一人でした。私の産まれた千葉家は古くから続く旧家として有名でした。しかし、明治・大正と既存の体制が大きく変わっていく時流に乗ることができず家は日に日に傾いておりました。そんな折、信輝様が長男の信久様の嫁に私を差し出すように申されました。新興の里見家に千葉の者を迎えることによって箔をつけようと思われたのでしょう。
――千葉家のために嫁いでくれないか。
「お受けいたします」
傾き続ける家を必死に支えてきた父にとって、この縁談は降って湧いた僥倖であったに違いありません。私を里見家に入れることで父は信輝様から多額の援助を受けることができるからです。幼い頃から父の苦境を見て育った私に選択肢はありませんでした。
盛大な祝言ののち里見家に迎えられた私は信輝様にこう言われました。
――信久は優柔不断で吝嗇なところがある。しかし、それは産まれ持った性分だ。それによって周囲と軋轢が生まれることもあるだろう。だが、妻であるお前は何がっても信久を立て、あれが自信を失わぬよう支えてくれるか。
「はい、信輝様。お言いつけ謹んでお受けいたします」
私が承諾すると信輝様は相好を崩して喜ばれました。
それからひと月が経った頃、私は信久様から呼び出されました。
――お前という家族が増えたので月々の米がよく減るようになった。ついては女中の一人に暇を出す。お前には女中の代わりに働いてもらうが良いか。
「分かりました。信久様」
私が頷くと、信久様はさっそく女中の一人を馘首なさいました。一人分の給金がただになったと信久様は無邪気に喜んでおられましたが、家中の者の多くは奥方である私と一緒に働くことに困惑しておりました。
女中のよう働く日々が一年ほど経った頃、信輝様が急逝されました。心筋梗塞でした。信輝様の死去は、里見家に暗い影を落としました。
信輝様の死によって里見家の頂点に立たれた信久様ですが、その威光は信輝様が予想されたとおり信輝様の足元にも及びませんでした。それは、二つの不幸を呼び込みました。
一つは、多くの者が信久様を軽視するようになったことです。信久様はその性格から信輝様のように人心を掌握することが出来ませんでした。
――大尽の癖に、ケチくさい二代目だ。信輝様もとんだボンクラを跡にされたものだ。
このような侮蔑は信久様を萎縮させ、物事に対して受動的な対応を取らせることになりました。
もう一つは信輝様の弟であられる正輝様の存在です。正輝様は若い頃から素行が悪く、無頼の輩と郎党を組んでは信輝様に金銭を集っておられました。繰り返し金銭を無心する弟に業を煮やした信輝様は正輝様を追放されました。
――二度と里見の家の敷居を跨ぐな。お前なぞ路傍で朽ち果てるが良い。
その正輝様がどこからか信輝様の死去を知って帰ってきたのです。戻られた正輝様は古株の役員などに強引に迫り里見家の関連会社に役員として入られました。信久様は正輝様の行いに右往左往するばかりで明確な方針を打ち出せずにおられました。
――叔父が帰ってきてしまった。どうすればいいものか。話し合いの場を設けるべきだろうか。
「良いことかと存じます」
――そうか。一度、叔父と話し合ってみよう。
会談の機会を持ったお二人でしたが、信照様亡きこの世に天敵のいない正輝様にとって信久様の苦言などは耳に入るはずもなく、正輝様の横暴は激しさを増していきました。怪しげな者を高給で雇い入れ、会社の金で毎夜、遊興に溺れる。異を唱える者がいれば暴力で翻意を迫りました。このような状況では心ある者も絶望し、里見家を次々に去っていきました。残されたのは、どこの馬の骨とも知らぬ者と正輝様に阿る(おもねる)者だけでした。
里見家の威光と会社の業績は急速に傾いていきました。信久様は悪化する業績を抑えるため、使用人に過剰とも言える倹約をかしました。
――消耗品は擦り切れるまで使い切れ。
――機械の故障は自分たちで直せ。業者を呼べばそれだけ銭がかかる。
――自分の怠惰を機械のせいにするな。お前たちがもっと真面目に取り組めば新たに設備を導入する必要はない。
使用人の作業環境を犠牲にした倹約は実を結びませんでした。出て行くお金が倹約によって抑えられるお金よりも遥かに多かったからです。信久様は、たびたび正輝様に散財を控えるように訴えましたが、その度に邪険に追い払われ、ひどい時には取り巻き連中に殴られて帰ってこられました。
信久様は、日に日にお酒に溺れていきました。使用人には侮蔑され、叔父には逆らえない。そういう鬱屈した晴れない気持ちをお酒で薄めておられたのでしょう。
――酒をくれ。俺には飲むことしかできん。叔父も使用人も俺を馬鹿にして言う事を聞かない。もう、俺にできることなどない。
「分かりました。直ぐにお持ちいたします」
私がお銚子を渡すと、信久様は「……せんな」と小さく呟かれました。
信久様が酒に溺れ、数ヶ月がたった頃、化学肥料を製造していた工場で大規模な火災が起こりました。老朽化していた設備が破損した為に起こった事故でした。火事で化学肥料工場は全焼。被害に巻き込まれた使用人や近隣住民への治療費も考えれば傾いた里見家にそれを支払うことは不可能でした。
こうして、先代の信輝様が築き上げた里見家の栄華は崩壊したのです。
――離縁してくれるか。もともと里見家の者ではないお前に辛い思いをさせるのは不憫でならない。
「……はい、それが信久様の願いであれば」
私が頷くと、信久様は寂しそうな顔で言いました。
――否定せんな。お前が来てからついに否定するところを見たことがなかった。
なぜ、私は非難されたのでしょうか。
私は、信輝様のいいつけを守って信久様を立て続けたのに。