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  退魔師の夜 作者:空之風
大変お待たせしました。
第六章、完結です。
6−8<裏>幽鬼達への鎮魂想
朧気な意識のまま、少女は目を覚ました。

目を覚ました途端、どうしようもないほどの寒気が少女を包み込んだ。

寒いと、そう呟こうとした口は、何故か言葉を紡ぐことができなかった。

身体がやけに重たい。それこそ、呼吸をするにも疲労を感じてしまうぐらいに。

そんな状態で言葉を発することなど、少女には無理な話であった。

ここはどこなのだろうか。

自分は何をしているのだろうか。

断片的に思い出せるのは、施設のおばさんに買い物を頼まれて、それで大好きな姉と一緒に出かけて。

そういえば、その帰り道で、姉と繋いでいた手を自分は離してしまって。

だけど今は、視界いっぱいにその姉の顔が映っている。

姉が自分を抱き締めてくれているのだという事は、何となくわかった。

ただ、どうしてだろう。

抱き締めてくれているはずなのに、こんなにも寒い。

姉の温もりが、感じられない。

すぐ目の前にいるのに、姉の顔が霞んでしまってよく見えない。

こんなに近くにいるのに、必死に自分の名前を呼んでくれている姉の声が、とても遠くに聞こえる。

それでも――。

大好きな姉が、大粒の涙を流して泣き叫んでいるのぐらい、今の自分でもわかった。

――どうして泣いているの?

その問い掛けは言葉にならず、だから少女は姉の顔に手を伸ばそうと腕を動かす。

慟哭する姉が、とても辛そうで、とても悲しそうに見えたから、慰めてあげたくて。

だけど、自分の身体とは思えないほどの重さに、少しだけしかその手は動かない。

それでも、必死に手を伸ばそうとする。

大好きな姉の温もりを感じたくて。

大好きな姉の声が聞きたくて。

大好きな姉に、泣き止んでほしかった。

それでも、少女の手は僅かに上がったまま動かず、すぐに疲れて腕を降ろしてしまう。

――眠い。

意識がぼんやりとしてくる。それはまるで、眠りにつく前のようで。

いつもなら少女が眠る時、眠りにつくまで姉が手を握ってくれていた。

少女の手を包む、姉の温もり。

その温もりが、今は無い。

だから少女は、せめて姉の手を握りたかった。

だけど、もう一度伸ばそうとした手は、さっきよりも重くなっていて、ほんの僅かしか動かない。

そんな少女の切実な願いも姉には届かず、姉も少女の想いに気付けない。

そして、少女の意識は遠のく。

手も、温もりも、願いも、何一つ姉に届く事なく、少女は深い眠りにつく。



ただ、薄れゆく意識の中で――。

感じられない姉の温もりと。

本当に辛くて悲しそうな姉の顔。

たった二つだけ、心残りとして残ったまま、少女の瞼は閉じられ。

少女の手は姉の手を掴む事なく、冷たいアスファルトに垂れ落ちた。







夢を、見ていた。

その夢の中で、少女はただ浮かんでいた。

誰もいない、何もない、そんな暗闇の中、ただ独りでポツンと浮いている。

ここはどこなのか、そもそも自分はいったい何なのか、そういった疑問を少女は持てなかった。

自分も周りも、何もかもが曖昧で、よくわからない、そんな世界。

そんな中で、大きな喪失感と、どうしようもない寂しさが少女を覆う。

ただ、自分が何かを探していることだけは、はっきりと分かっていた。

きっとそれは、少女の喪失感を埋めるもの、寂しさを埋めるもの。

それが何なのかも思い出せず、わからないまま、少女は探し彷徨っていた。



どれくらい彷徨っていたのだろうか。

そこには時間という概念も無いので、少女にはわからない。



――ほんわかと、温かい光があった。



何も感じられなかった世界で、初めて感じた温かさ。

それがどうしてか懐かしく感じられて、或いはそれこそが探しているものなのかもしれない。

少女は吸い寄せられるように、気がつけば光を目指した。

近づいてみて、少女は初めて気付く。

光の中に、小さな陰があった。

温かさの中に、哀しさがあった。

優しさの裏に、寂しさがあった――。

でも、それは少女が欲していたものによく似ていた。

だから、少女は迷うことなく、光の中へと飛びこんだ。

それは、本当はもっと温かくて、もっと優しい光だと知っていたから。

独りは、寂しいのは、もう嫌だったから。



光の中は、やっぱり温かかった。

少女を優しく包み込んで、常に一緒にいてくれる。

楽しくて、嬉しくて、そんな時が過ぎていく。



怖ろしい闇が、光を覆い尽くそうと迫ってくるまで――。



怖かった。

深く昏い闇が、温かい光を黒く塗り潰し、か弱い細々とした光に変えてしまった。

そして、闇の中から無数の黒い手が少女に手を伸ばす。

少しずつ近づいてくる、無数の黒い手。

闇の向こうからは、呻き声のようなものが重なり合って聞こえて来る。

それが、少女には怖くて仕方が無かった。



だから、助けて欲しかった。



黒い手が、すぐそこまで迫って来ている。

怖くて、怖くて、少女は泣きながら助けを求める。

弱くなってしまった、遠くなってしまった光に向かって、必死に『手』を伸ばす。





――この『手』を、握り締めて欲しかった。

――もう一度、あの温もりが欲しかった。



――大好きな姉に、届いて欲しかった。





少女の願いを込めて伸ばしたその『手』を――。

温かい手が、しっかりと握り締めた――。



瞬間、光が満ち渡る。

弱々しかった光は、闇を掻き消すほどの強い光に。

遠くなってしまった光は、再び少女を包み込んだ。

世界が、一変した。



その光は、あの闇を追い払うほどの強さがありながら、いつも以上に優しく、そして温もりに満ち溢れていた

そんな中で、少女は確かな手の温もりを感じていた。

伸ばした手を、しっかりと握り締めてくれた。

少女の身体を、温かく抱き締めてくれた。



ようやく、届いた手。

ようやく、感じられた温もり。

ようやく、叶った想い(ねがい)





少女は、やはり幸せだった――。













真夜中の工事現場に瘴気が満ち渡る。

外観上は何の代わり映えもしていないが、決して誰もここへ近寄ろうとは思わないだろう。

本能で危険が感じ取れてしまうほどの、濃密な死の気配。

人が感じ取れてしまう、世界を歪ませてしまうほどの残留思念。死者の残した無数の叫びが、彼方此方を彷徨う。

まるで冥府への入り口を思わせる魔窟と化したそこで、二人の対の存在が対峙する。

片や、その魂まで奪い尽くす者。

片や、その意志まで護り抜く者。

決して相容れぬ二人、永瀬光貴と黒端智伸は、既に互いを敵と認めていた。





「貴様……」

自身の周囲に怨霊を纏い、鋭い視線で俺を睨みつける黒端。

「貴様、この街の退魔師か?」

その問いに答えてやる口など、俺は持ち合わせていない。

ただ無言のまま、俺は蒼來之剣を垂れ下げた状態で黒端の前に立ち塞がる。

背後で未だ困惑している和泉を庇うように。

無言を肯定と受け取ったのか、奴は再び口を開く。

「何故、ここにいる?」

解せぬ、と奴は語る。

「もはや僅かとはいえ、かの街には未だ瘴気が残っている」

険しい表情をそのままに、その声には動揺が微かに見え隠れしている。

どうやら、奴はここから数キロも離れた街中の瘴気が明確に感じ取れるらしい。

ソラ並みの気配を察する能力の持ち主なのか、或いは奴が自分で放った瘴気だからか。

だというのなら、奴の動揺も頷ける。

「何故、貴様がここにいる? ならば――」

同じ問いを繰り返す黒端、そして。

「ならば、今も尚(・・・)瘴気を祓っているのは(・・・・・・・・・・)何者だというのだ(・・・・・・・・)?」

当惑さを隠しきれず、黒端は一瞬だけ俺から視線を外し、街へと向けた。







つい数十分前までは瘴気が広がっていた街中も、今ではあと僅かで「霧散」という言葉が当てはまる程に薄まっている。

同時に、生者を求めて街中を彷徨っていた怨霊も、その数を激減させている。

だが、未だ(ゼロ)ではない。

残り僅かとはいえ、亡霊は今も尚、街の中心地に実在している。

この街の随一を誇る摩天楼、三十五階建ての市庁ビルの真下にある幹線道路上にも、生者を求める怨霊達の姿があった。

怨念の群れが向かう先は駅の方面。

駅周辺は疎らだが人通りもある。その気配を感じ取ったのだろう。

それ等は怨霊である限り、怨念そのものである限り、生きている者を求め続ける。

己の憎悪(すべて)を叩き付け、冥土への道連れとする為に。



怨霊とは、死者が残した負の残留思念。



ならば――。



「全く、深夜残業で疲れ果てているサラリーマンに更に仕事を押し付けるなんて、教授よりもタチが悪い」

どこからともなく聞こえてきた悪態と同時に、先頭にいた怨霊に蒼白い炎が迸る。

実体を持たない怨霊を、熱量を持たない炎が焼き尽くす。

負に満ちた思念が、穢れ無き火に包まれて、瞬く間に炎と共に消滅する。

いつの間に現れたのか、怨霊達の進路上に一人の男性が自然体で佇んでいた。

その格好は白い半袖のワイシャツに黒色のスラックス。

左手にはビジネスバックを持ち、右手には術式の模様が刻まれた呪符を人差し指と中指で挟んでいる。

右手の呪符以外を見れば、仕事帰りの会社員という表現がピッタリと当て嵌まるだろう。

事実、彼は仕事の帰りだった。

会社にただ一人残っていた彼は、そこで瘴気を感じ取り、仕事を切り上げて街中の様子を見に来ただけの“一般人”だ。

但し。

黒端智伸にとって不幸なことに。

永瀬光貴にとって幸運なことに。

その一般人は、かの“京都”直属の退魔師に匹敵する程の、優れた退魔の力を持っていた。



怨霊とは、死者が残した負の残留思念。

そして、退魔師とは、それ等を祓う者達のことを指す。

ならば、今宵この時に限り、彼は。

眞淵京夜は、退魔師となろう。



「退魔師、か……」

生者の気配をすぐ近くで感じ取り、怨霊達が眞淵へと進路を変える。

十体程度の、おそらくこの場に残っている全ての怨霊が己へと向かってくるのを見つめながら、眞淵は焦燥感も見せずにポツリと呟く。

退魔師とは、彼にとっては鎖だ。

重く、冷たく、自分の全てを縛り付けて決して逃さない、呪いじみた鎖。

だというのに、なぜこんなことを引き受けてしまったのか。

そう自問自答した眞淵の脳裏に、自分の姿を見つけて、必死な表情で頭を下げてきた少年の姿が思い浮かぶ。

――ありがとうございます!!

気が付けば頷いてしまっていた自分に対し、深く頭を下げて言った少年の言葉には、深い感謝の念がありありと感じられた。

(琴音の言った通り、本当に真っ直ぐな少年だな)

確かに、気持ちのいい少年だ。

自分でも自覚できる程、屈折している己とは比べ物にならない程に――。

「本当に、いったい何をやっているんだろうな、俺は」

嘲りを存分に含んだその笑みと口調は、全て眞淵自身に向けられていた。



「――」

内心の葛藤と自嘲を抑え込み、眞淵は表情を引き締めて、徐々に迫り来る怨霊を見据える。

右手に持つ呪符を眼前に掲げる。

指先から込めた気に呪符が反応を示し、呪符に刻まれている術式の模様が薄く光る。

途端、眞淵に最も近付いていた二体の怨霊が燃え上がる。

先程と同じ、蒼白く熱を感じない炎。

もし、ここに永瀬光貴とソラがその炎を、その術式を見たのなら、以前に淺倉兵庫教授が言った評価の意味を理解することだろう。



浄火。

神道では、神前に捧げ、人々の願いを天に届ける神聖なる炎。

仏道では、死者の魂を浄土へ導く灯明となる清らかな灯火。

そして退魔師の中では、本来の浄火を退魔用に構成し直し、怨霊に対して絶大な効果をもたらす、対怨霊戦では最高峰に分類される術式のことを指す。

これを扱える退魔師は圧倒的に少ない。

退魔師の総本山“京都”の中で退魔の名家として名を連ねている家系でも、浄火の術式を扱える者はごく僅か。

陰陽五行を基礎にしている術式で浄火を編み出すという、術式と理に対する知識と理解力、そして術式に対する適正の高さ。

これらの条件を満たした者のみが浄火を編み出せる、最高峰の術式の一つ。

浅間彰、斯波達観、京極長将、新野道久、結城琴音。

淺倉兵庫をして、そんな“京都”の名立たる実力者達に匹敵すると評される、眞淵京夜。

その真価の片鱗を垣間見せる蒼白の炎。



「死は何も語らず、何も語れず、故に生が貴ぶ」

憎悪も妬忌も哀訴も怨嗟も、あらゆる負の残留思念による穢れを清絶し尽くす、圧倒的な清浄の炎を前に、怨霊は周囲の瘴気ごと消滅する。

――オ…ア……アァ……。

浄火の余波で苦悶の呻きをあげる怨霊達。

「ここは生ある者のみがいて良い場所。死者がいて良いところではない」

そんな怨霊達を前に眞淵京夜は無慈悲に宣告し、再び呪符を構える。

或いは、それが彼なりの慈悲なのかもしれない。

「ただ、消え去るといい、亡霊」

再び、蒼白の炎があがった。









永瀬光貴の登場に、黒端智伸は少なからぬ衝撃を受け、また動揺を自覚せざるを得なかった。

(油断したか……! まさか、もう一人退魔師がいたとは……!)

今もなお、街中の瘴気と怨霊が滅せられているが故に、油断していた事は否めない。

だが、黒端は“京都”の、現代の退魔師が抱える弱点を熟知している。

政府にすら秘密主義を貫き、その弊害として深刻な退魔師不足に悩まされている彼等が、定義の上では「地方中小都市」に過ぎないこの街に、複数の退魔師を置くとは考えられない。

ならば一つの街、一つの市を担当する地域担当者を統括する地方管制者が到着したというのだろうか。

それにしても、到着があまりに早過ぎる。

(――否、全てはもはや詮無きこと)

考えても仕方がない。知識が裏目に出て、楽観の結果がこの有り様。

この街に二人以上の退魔師がいて、一人が己と対峙している。それが現状だ。

黒端は意識を切り替え、少女を護るように立ち塞がる退魔師を観察する。

第一印象は、何よりもその若さ。

おそらくそこの少女と同年代なのは間違いないだろう。何より少女の驚愕に満ちたその表情が、この少年が知人であることを雄弁に物語っている。

それが、黒端智伸を一層警戒させる。

即ち、その若さで一都市を任せられる程の実力者であるということ。

事実、少女に襲いかかろうとしていた八体の怨霊は瞬く間に全て斬り捨てられた。

その八つの剣筋を、黒端はその目で捉える事が出来なかったのだから。

今も尚その刀身を淡く輝かせる太刀は、霊刀としては大業物の部類に入るだろう。

そして、その担い手もまた尋常ではない。

地域担当者と言えど、その実力差は天と地の差がある。

中には術式も気息も使えず、符札のみで怨霊の浄霊と瘴気の浄化を主に行っている者も少なくない。

そのような者は、中級以上の妖魔が現れた場合、近隣の地域担当者や地方管制者に応援を求めるといった有様だ。

だというのに、この少年は二十歳にも達していないであろうにも関わらず、実力という面では先日に葬った退魔師でも比較にならない。

身に纏う威風、気迫、それは或いは“京都”直属の退魔師と同等か。

このような凄腕の退魔師が、この街にいたとは……。

脳裏に奔る凶兆の流れ。

それを黒端は半ば意識して押し込める。

(正面から対峙するは分が悪い。あと一歩であの霊魂を手に入れられぬことは口惜しいが、ここは一度身を引き、次の機会を――)

そこまで考えを巡らした時、ふと気付く。

常人よりも遥かに霊魂についての理解が深い黒端智伸だからこそ気付けた異変。

「……え?」

同様に、その霊魂を身に宿す和泉真理も、その変化に気付く。

正面の黒端智伸と背後の和泉真理。二人の様子が変わったことに永瀬光貴は気づき、怪訝な表情を浮かべる。

異変が何なのかを理解した黒端は、再度の衝撃に目を見開き、そして憤怒に表情を歪める。

和泉もまたそれを感じ取り、先ほどまでの気丈さとはかけ離れた、今にも泣きそうな顔で自らの体を抱き締める。

「嘘……何で? 待ってよ……」

和泉真理の口調には大きな焦燥が混ざり。

「ふざけるな……!」

黒端智伸は憮然と呟き、和泉を見据える。

「待って! 私の中に居ていいから! ずっと居ていいから!! お願いだから――」



――消えないで!!



悲壮に満ちた和泉真理の叫びが静寂を切り裂き。

「ここまできて消えるだと!? 私はただの道化かッ!!」

歯を食いしばり荒げた声で、黒端智伸はこのふざけた結末を呪った。

そこで漸く、永瀬光貴も、中にいるソラも知る事となる。



和泉真理の中にいる少女が、消えようとしていることに。





「馬鹿馬鹿しい! もはや、貴様ら如きに何の用など無い……!!」

最後まで理不尽な結末に対する呪詛を吐きながら、黒端は俺を警戒しつつ後ろに飛び下がる。

その身に無数の怨霊を纏わせ、黒端は最後まで俺から目を離さず、工事現場から去って行った。

俺はそれを追わずに見届け、すぐに背後へと振り返る。

「先輩ッ!!」

振り返った俺に気付いた和泉が、泣き叫びに等しい声で俺を呼ぶ。

「この子が、この子が消えちゃう!! まだ一緒にいっぱいやりたい事があるのに! ずっと一緒にいようって約束したのに!!」

目に大きな涙を浮かべて、懇願するように、縋り付くように俺の腕を掴む。

「お願い、この子を、妹を助けて……助けて下さい……!」

「和泉……」



――その願いに、俺は何と答えればいいのだろうか。



大事な、大切な仲間が、助けを求めている。

本来ならば、それこそ全身全霊を以って、それに応えてやりたい。

誰もが笑っている、温かい日常。

それが、こんな冷たい非日常にしか生きられない俺にとって、何よりも大切な宝物だから。



――だけど。



和泉の掴んだ腕を解き、膝を付いて和泉の両肩に手を置く。

「ごめん――」

謝罪の言葉しか、言うことが出来なかった。

その願いは、その『わがまま』には、応えてやることができない。

何故なら、“その子”はもう、この世にはいないのだから。

ここにいるのは、“その子”の欠片。残された想い。

未練を果たした残留思念をこの世に留まらせるなど、そんな高度な術式、俺とソラには出来ない。

それに何より――。

未練を残した魂の一部が、願いを果たして、本来あるべき場所へと還って往く。

そんな『優しい結末』を、幾多もの未練を力で強引に断ち切ってきた退魔師である俺が、どうして止めることが出来ようか。

死者は冥府へ逝き、やがて生まれ来る場所へと還っていく。

それが世の理であり、正しいことなのだと、誰もが信じている。

たとえそれが、一人の少女を、大切な仲間を悲しませる結果になろうとも――。

「“その子”はね、死んだ後も、ずっと何かを探していたんだ。ずっと、ずっと、死んでしまった後も、探し続けて」

出逢いがあれば、別れもある。

出逢いの喜びがあれば、別れの悲しみもある。

「そうしてようやく、和泉の中でそれを見つけたんだ」

その『悲しみ』が、『強さ』になることを信じて。

「死んでしまっても願い続けた想いが叶ったのだから、もうこの世には留まってはいられないんだ」

「そんな……」

言葉を失くし、悲しみに顔を歪ませる和泉。

「だって、まだ、何もできてないんですよ。“この子”は、何にもできずに死んじゃって……だから……」

それ以上は言葉にならず、代わりに涙が頬を伝う。



――妹を、助けて下さい。



さっき、和泉はそう言った。

妹。和泉の中にいる少女の霊は、和泉真理にとって妹であり、家族なのだ。

それは、家庭の事情に複雑な思いを抱く和泉にとって、どれほどの重みがあるのだろうか。

どれほどの、救いと安らぎだったのだろうか。

それを失う苦しみが、どうしようもないくらいに理解できてしまう。

それでも、俺は……。

「短い間だっただろうけど、きっと充分過ぎるぐらい、いろんなことを貰ったんだと思うよ。だから、“その子”は満足して帰ろうとしているんだ」

涙を流す和泉の瞳を見つめて、俺は言った。

「なら、お姉ちゃんなら、ちゃんと最後まで見送ってやらないと。――ごめんな、別れの挨拶ぐらいしか、力になってやれないけど」

俺は静かにソラの方へ振り返る。

「ソラ、頼む」

ソラはこくりと頷いて、指先で虚空に術式を刻む。

すると、虚空に白く優しい光が集まる。

それは視覚化された残留思念、この世に残っている魂の残り香。

両手のひらに収まる程度の大きさしかないその光に向かって、和泉がゆっくりと手を伸ばす。

言わなくても和泉にはわかるのだ、この光が“妹”なのだと。

俺は、静かに後ろに下がった。







「ごめん、なさい……」

そっと光を撫でながら、和泉は涙を零す。

「もっと、あなたに何かをしてあげたかった……。私は、あなたの名前すら、知らなくて……」

突然の別離に、何を言うべきなのかわからず。

故に和泉は、ただ心の内を語っていた。

「私も、もっとあなたと一緒にいたかった……。ずっと、一緒に歩きたかった……!」

それは後悔ではなく、願い。

この穢れ無き優しい魂を最期まで護り切れたのも、その願いがあったからこそ。

――妹と一緒に、生きていきたい――

だが、それは叶わぬ願いだった。

その妹は、既にこの世にいないのだから。

だから、この邂逅は一つの奇跡、儚い夢物語であったのだ。

光は少しずつ弱くなり、無情にも別れの時を告げようとしている。

だけど和泉は、何を言っていいのかわからず、それ以上の言葉を紡げずにいた。



だから、言葉を紡いだのは消えゆく“妹”の方だった。

触れている手のひらを通して、



――ありがと、お姉ちゃん!



笑顔で、和泉の心にそう告げた。



そのたった一言が、何も言えなかった和泉を、和泉の心を、いったいどれだけ救ったことだろうか。

「うん……うん……!」

溢れる涙をそのままに、和泉は何度も頷く。

妹の気配が更に薄くなる。

別れの刻はもう近い。

だから、和泉は最後の言葉を交わす。

「私も、本当に、本当に楽しかったよ……だから……!」

僅か一週間だけの、これからずっと大切にしていくだろう優しき一週間をくれた“この子”へ。

心の底からの、全ての想いを込めて、和泉は消えゆく家族へとその言葉を紡いだ。

「私の方こそ、ありがとう……」



そして、光は消えていく。

まるで儚い雪のように、残り香を天に昇らせて。

消える寸前、妹の満面の笑顔を見た気がした。

「う、うぅ……あ……」

別れを終えた和泉は、その場に崩れ落ち、

「うああぁぁーーーッ!!」

思いっきり泣いた。





和泉に手を伸ばそうとして、その手を自ら止める。

俺には、ただ泣き崩れる和泉を見つめることしか出来なかった。

これから自分がやることを思えば、和泉に胸を貸すことなど出来るはずもない。

それが偽善であることが、俺自身が誰よりもわかっていたから。

「……ソラ」

「……」

ソラは何も言わず、ただ頷いてくれた。





どれぐらい泣いていたのだろう。

泣き疲れた和泉は、ようやく顔をあげて、光貴へと振り返る。

「永瀬、先輩……」

感謝や疑問など様々な事柄が頭に浮かび、何から言うべきなのだろうか迷ってしまう。

「和泉」

そんな和泉の内心を察してくれたのか、光貴から口を開く。

だが、出てきた言葉は、和泉の予想とは違っていた。

「――ごめん」

「え?」

どうして先輩が謝るの?

当然のように浮かんできた疑問は、突然の睡魔によって言葉にできず。

地面へと傾きかけた身体を、素早く駆け寄った光貴が優しく支えてくれた。

(あ……)

温もりに包まれて、和泉は身体の力を抜いて光貴にその身を預ける。



――これは、俺のわがままだから。お前は、みんなと一緒の日常にいてくれ。



――だから、本当にごめん。



心底から申し訳なさそうな、苦しくて辛そうな、そんないつもと違う先輩の声を遠くに聞きながら。

優して、かっこよくて、素敵な先輩の腕の中で、和泉は安らかな眠りについた。





「……」

眠りについた和泉を、そっとプレハブ倉庫の壁に寝かせる。

「ソラ、俺はどうしようもなく最低な奴だな」

自嘲しながら俺はソラに語り掛ける。

黒端智伸が人を殺し、その魂すら弄ぶ外道だというのなら。

自分の都合で仲間の大切な思い出を勝手に忘れさせる俺は、いったい何だろうな。

勝手に大丈夫だろうって判断して、それが和泉を傷つけ、より悲しませる結果となった。

或いは、あの時にあの子を祓っておくべきだったのか。

そうすれば、黒端に狙われることも、和泉がここまで悲しむこともなかった。

生者と死者。本来ならば出会ってはならないもの同士。それを正すべきだったのか。

「光貴……」

俺の右肩に、宙に浮いていたソラがゆっくりと座る。

「ワレも同罪ゆえ、否定など出来ぬの」

目を瞑り、肯定するソラ。

「じゃが、記憶を忘れさせたとしても、真理にはこの一週間の想いが残っておる」

ソラが術式で忘れさせたのは、今夜の出来事と、黒端と、そして“妹”の記憶のみ。

ソラは、和泉の想いまでは、消し去らなかった。

「たとえ思い出せなくとも、この一週間は大切な日々だったと、きっとそう想えるはずじゃ」

「俺たちが残してやれるのは、ただそれだけなんだな」

俺は空を見上げる。

薄らとかかっていた雲は流れ、月が静かに輝いている。

そうやって少しだけ月を見上げていた俺は、和泉へと視線を戻す。

涙の跡を残して安らかに眠っている和泉。

和泉の頬に、優しく手を添える。

「少しだけ、待っていてくれよな、和泉。すぐ、家に送り届けるから」

眠ったままの和泉にそう語り掛けて、俺はゆっくりと振り返る。

「行こうか、ソラ」

後始末が、残っている。







月下の夜、郊外にある道路の上を、闇に紛れて黒い影が蠢く。

山林に挟まれたこの道路は、この街から離れる公道のうちの一本で、その中でも山道を通るルートであり、利用者は少ない。

況してやこの夜中、遠近問わずヘッドライトの灯りすら見当たらず、あるのは虫の鳴き声のみ。

黒端智伸は、そんな誰もいない道路を単身で歩いていた。

彼から発せられる瘴気のせいか、または彼の周囲を漂う数体の怨霊のせいか、黒端の周囲だけ虫の声が遠いように感じさせる。

(とんだ茶番だ)

内心の大きな不満は容易に怒りへと変換される。

手に入れば最強の手駒となったであろう霊体は、己が使役する怨霊の幾割かを捨て駒にしたにも関わらず、あろうことか己の目の前で成仏して果てた。

とんだ茶番であり、そして度し難く忌々しいことに己は無様な道化と演じる羽目になった。

(もはや、このような街に用は無い)

黒端は早急にこの街を離れる決断を下した。

半分は怒りに身を任せて、もう半分は冷徹な計算の下。

力を得た代償は大きい。

この身はもはや陽の光を浴びると力を失い、長時間耐えられぬ身体と成果てている。

――夏季の朝は早い。あと数時間で日が昇る。

――それまでに街を離れて、あの退魔師から身を隠すべきであろう。

屈辱に身を忘れず、常に客観的な思考を持ち合わせている黒端智伸。

或いは、これが 老獪(・・)というものなのだろう。



だが、その老獪を凌駕する苛烈で気鋭に満ちた意志が、黒端智伸を捉えた。



「む――!」

後方から、明瞭過ぎる程の敵意と闘志の気配を黒端は感じ取った。

反射的に背後へと振り返る。

視線の先には、僅かな街灯と星空のみが照らす薄い闇が広がっている。

だが、姿形こそ見えずとも、黒端は相手の存在を認知していた。それは相手も同様に違いない。

幾多の怨霊を使役する外道、黒端智伸。

蒼來之剣の使い手たる退魔師、永瀬光貴。

およそ百メートルの距離を以って、二人は対峙する。

(よもや追いつかれるとは、よほど気配感知が巧みなのか)

あの少女を追い詰めた時のことも思えば、思い当たる節はある。

街外れの工事現場などという辺境、普通に探したところで運良く見つけられるはずがない。

そして今も、おそらくは抑えているとはいえ黒端から僅かに滲み出る瘴気の気配を感知して辿って来たのだろう。

その推測からも、あの相手が術式においても優れた技量の持ち主であることが推察できる。

もはや、一戦を覚悟せねばなるまい。

黒端は身体から次々と怨霊を出現させて、臨戦態勢を整えた。





彼我の距離はおよそ百メートルといったところか。

星空と街灯だけでは向こうの姿は視認できないが、あそこまで濃密な瘴気を出されれば、ソラでなくても感知できる。

どうやら、懲りずに怨霊を出現させたらしい。

二十体、いや三十体以上の怨霊の気配。禍々しいまでの瘴気の大渦を感じる。

「やる気らしいな、あっちは」

「そのようじゃの」

「好都合だ」

右肩に乗っているソラに答えて、蒼來之剣を両手で構える。

刀身に気が満ち渡り、その薄らだが力強い輝きが、微かに漂ってくる瘴気を打ち祓う。

その波動を感じ取ったソラが嘆息する。

「今の光貴を相手取るなど、達観や長将でも遠慮願うじゃろうな。とはいえ、あの者に同情など不要。因果応報、自業自得というものじゃ」

それに、とソラは続けて、

「ワレもまた、あの者を許すつもりなど有ろうはずが無かろうて」

静かに、虚空に術式を刻む準備を整える。



俺は、黒端智伸に向かって一歩を踏み出す。

その瞬間、黒端が命令を下したのか、瘴気の大渦が急激に変化を始める。

目に見えぬ怨霊の群れが、こちらへと押し寄せる。



その尽く、全てを斬り捨ててやる。

思い知れ、黒端智伸。

道を踏み外した者の末路を、俺が教えてやる。



そして、俺は怨霊の只中に向かって駆け出した。







先頭を往く怨霊に向かって、刀を振るう。

一撃で霧散する怨霊。

だが、永瀬光貴はそれだけでは止まらない。

烈風の如き速さと勢いのまま、且つ淀みを感じさせぬ流れるような動作で、二度、三度、四度、五度と刀が振られる。

そして、銀閃が煌き弧を描く度に、次々と怨霊が斬られ、屠られ、消えていく。

瞬く間に二十の怨霊が屠られる。

「なん、だと……」

眼前の光景に、現実に、瞠目する黒端智伸。

(こやつ……!!)

もはや出し惜しみできる相手ではないと判断し、持てる全ての怨霊を出現させる。

場の瘴気が最大限に濃くなる。

常人ならばおよそ生きられないそこは、冥府と同義だ。

そして、総勢百を数える冥府の誘い手達が、たった一人に向かって殺到する。

だが、そこに黒端智伸の誤算がある。

相手は、一人ではなかった。

突如、半数の怨霊達の動きが止まる。

まるでその地に縛られたかのように、その場に漂うのみ。

そんな動けない怨霊達を、術式を刻み終えたソラが冷めた目で見据えていた。

残った半数の怨霊達に向かって、光貴はその只中へと飛び込む。

蒼來之剣の一振りで、その周囲にいた怨霊達が滅されていく。

鋭い剣筋で一閃された怨霊が消滅する。

怨霊はただ憎悪に身を任せて、間近にいる光貴に向かって呪詛の手を伸ばし、瘴気を流し込む。

だが、呪詛も瘴気も、まるで疾風のような速さで縦横無尽に動き回る光貴を捉えることはできない。

数の暴力によって僅かに捉える事に成功した怨霊もいるが、ソラの術式がそれを防ぎ護る。

周囲を覆う瘴気も、光貴の身体を循環する力強い気息がそれを弾き返す。

怨霊の軍勢に真っ向から立ち向かい、突き進んでいく光貴と、それを援護するソラ。

それは、宛ら暴風雨のような攻勢。

止まる気配などまるで見受けられない。

況してや、怨霊如きで止められるようなものではない。

幾多もの怨霊を消滅させながら、ただ一心不乱に黒端の下へと近づいてくる。

あの道を外れた者を断罪せんと、その刃を煌めかせて。

「ば、馬鹿な……有り得ぬ……」

一歩、二歩と、黒端は後ずさる。

手強い、どころではない。

己が使役する百を超える怨嗟。

その全てを叩きつけても、この少年は止まらない。

己では、この強者を止められない。

圧倒的過ぎる、愕然とする程の実力差が、そこにあった。





身体が軽い。

思うように手足が動いてくれる。

疲労など全く感じない。

俺の周囲を取り囲む怨霊の群れ。

普段なら警戒しなければならないそれ等も、今は脅威に感じない。

漲る戦意と闘志に呼応するかのように、力が溢れてくる。



――あなたはきっと、戦いがなければ生きられない。



脳裏に思い浮かんだのは、俺の人生を、その始まりから終わりまで縛り続ける一言。

戦いを求める俺の魂が、強く脈動しているのかもしれない。



だが、今の俺にはそんなこと関係ない。



俺の心を占める感情はただ一つ。

眼前の怨霊を横へと切り裂く。

薄い影が霧散した更にその向こう、夜の闇の中に浮かぶ人影。

驚愕と焦燥の表情を浮かべ、俺を凝視している。

それが見て取れるぐらいに、既に両者の距離は縮まっている。

そして、怨敵の姿が視界に入った瞬間、心を支配している感情が、激情となって外へと溢れ出した。

「黒端ぁぁああーーーー!!」

――この男だけは、絶対に許さない!!

吼えると同時に、脚に力を込め、怨霊の檻を突き破るように飛び出す。

残りの距離を一瞬で無くす疾駆。

黒端が気付き、本能的に身体を捻った時には、俺の刀が黒端の身体を捉えていた。

袈裟斬りに蒼來之剣を一閃する。

咄嗟に身を捻ったところで躱しきれるはずもなく。

俺と黒端が交叉した瞬間、黒端の右肘から先が宙に舞った。

「がぁッ――!!」

苦痛の声を呻きながらも、黒端は大きくその場から飛び引く。

少しの距離を隔てて、再び俺と黒端は対峙する形となる。

右肘から先を切断されて隻腕となった黒端は、俺に殺意を向けてくる。

だが、その殺意もどこか空ろだ。

それが何故かは、黒端の目を見ればわかる。

「ば、化け物か、貴様……」

ありえないものを見る目で、俺に問いかける黒端。

奴は、明らかに俺に呑まれていた。

問いの内容が、あまりにも皮肉に満ちていて嘲笑を誘う。

「それをお前が言うか。望んで化け物になったのは、あんただろう――人妖(・・)

そう、黒端智伸という『人間』の密教術者は、確かに“京都”に登録されている。

その資料によれば、黒端智伸は既に八十歳を超えているはずなのだ。

だが眼前にいる黒端の外見は壮年、三十代か四十代ぐらいにしか見えない。

そして、瘴気に紛れて黒端から発せられているのは、明瞭なまでの妖魔の気配。

退魔師にとって、間違えようがない気配。

人として生まれた黒端智伸は、妖魔としてここにいる。

その間に何があったのか、どのような思いがあったかなど知らない。

ただ、ここにある事実、それだけで充分過ぎる。

未練を残した幽鬼達を、禁忌によって思うように使役し。

その業を以って退魔師を殺害し。

街中に瘴気と怨霊を出現させ。

そして、和泉と少女を、俺の仲間を傷つけた。

不完全な存在が故に現世に害意を抱く、実に妖魔らしい行動。

もしかしたら魂の変質によって、人としての心が、妖魔としての心に呑み込まれたのかもしれない。

だとしたら――。

「なぜ、だ――」

失った片腕から血を滴らせながら、未だに愕然とした表情で黒端は口を開く。

「なぜ貴様のような者が、こんなところにいるのだ!?」

理不尽に対する怒りと焦燥が混ざり合った口調が、黒端の内心を物語っている。

「人に害成す妖魔を滅ぼすのが、俺の役目だ」

それが、こういった“非日常”が無ければ生きられない、俺の役目。

哀れな程に狼狽える黒端に対して、俺は。

「贖罪の時だ――ここで滅びろ、黒端智伸!」

冷徹に、奴の死を宣告した。

「小僧が、調子付くなァッ!!」

黒端は掌をかざして瘴気を放つ。

それを、蒼來之剣の一閃で切り裂く。

だが黒端は瘴気を放ったと同時に後方へと飛び引いていた。

屈辱より生き残る事を選択するあたり、奴の狡猾な性格が伺える。

しかし、その選択は誤りだ。

この男は逃げられると思っているのだろうか?

俺とソラの二人から。

「黒端智伸とやら、ワレがいることに気付いておらぬのか」

凛然と、右肩に座るソラが呆れを含んだ声で呟き、同時に陰行の術式を刻む。

途端、黒端の動きが重くなる(・・・・)

「ッ!?」

それは単なる一瞬の錯覚。

僅かな瞬間、黒端は全身が重くなることを感じ、すぐさま目に見えぬ重圧から解放される。



黒端智伸の体勢を大きく崩すには、それだけで充分だった。



急激な変化に耐え切れず、よろめく黒端。

蒼來之剣を翻し、強く地を蹴る。

目を見開いて、迫り来る俺を愕然と見据える黒端。

「馬鹿な――」

有り得ぬと、その目が心情を語り、その深淵の瞳は刀を振り下ろす俺を捉えていた。



――黒端智伸。もし、お前が魂の衝動に呑みこまれたというのなら。

――俺は、全力でそれに抗ってやる!



「おおぉぉおおおーーー!!」



そして、銀の一閃が、人妖・黒端智伸を切り裂いた。

「がああぁぁぁーーッ!!」

苦痛の断末魔が夏夜に響き渡り、終幕を告げた。





俺が見ている最中、黒端の身体が崩れていく。

人から妖魔になった黒端は、例にもれず存在を許されず、塵となって消え去るのみ。

それが妖魔の宿命だ。

また、周囲を漂っていた怨霊達もその存在感を徐々に無くし、次々に消えていく。

黒端智伸という深い瘴気に囚われていた怨霊達は、その根源が消滅したことにより瘴気から解放されたのだろう。

死者の魂が現世に留まる道理はない。元ある場所へと還っていく魂たち。

「終わったの」

ソラの言葉に、俺は「ああ」と頷く。

元凶は滅んだ。

街中の瘴気も、眞淵さんが対処してくれたことだろう。眞淵さんには後でお礼を言わなければいけないな。

後は和泉を家に送り届ける役目が残っている。

最後に、黒端智伸がいたところへと振り返る。

お前が何を望んだのか知らないが、俺はお前とは違う。違ってみせる。

戦いが無ければ生きられない俺だけど、決して自らそれを求めたりはしない。

「俺は、絶対に呑まれてやるものか……!」

強い決意を胸に、俺はソラと共に再び歩き出す

振り返ることは、もうしなかった。







新野道久は永瀬光貴のいる街へ向かう途中、全てが終わったことの報せを受けた。

流石に疲れた口調だった光貴に労いの言葉をかけて電話を切ると、新野は車の中で大きく息を吐いた。

「やはり、人手が足らない。何とかすべきなのだが……」

今夜は何とかなった。だが、今度はどうだろうか。

それを思うと、光貴ら退魔師たちに申し訳ない気持ちになる。

それともう一つ。

光貴から出てきた人名を、新野は噛み締めるように呟いた。

「眞淵、京夜……」

眞淵家の人間が、術式を以って退魔を行った。

この事実は、絶対に隠蔽しなくてはならないだろう。

もし表沙汰になった場合、“京都”の重鎮達が眞淵京夜にどんな処罰を下すか、わかったものではない。

それだけ眞淵という家名は“京都”の中では、正確にはその重鎮達には嫌忌されている。

(何とかしなくては……)

公人としては人材不足を、私人としては眞淵京夜のことに頭を悩ます新野。



新野道久もまた、本格的に“京都”は変わるべきだと感じ始めるようになったのは、この時からである。







【和泉side】

目覚めた時から、どうしてだろう、とても悲しかった。

まるで心の中にぽっかりと穴があいたような、何かを失ってしまったような、そんな感覚。

昨日は、何もなかったはずなのに……。

どうして、私は起きてすぐに泣いているのだろうか。

「変なの……」

ベッドから起きないといけないのに、心も体もベッドから動いてくれそうにない。

枕元の目覚まし時計を見る。

陸上部の朝練はとっくに始まっている時間で、あと少しで学校にも遅刻してしまう。

叔父さんも叔母さんも既に家にはいない。そもそも昨夜に帰ってきたのかもわからない。

(昨日の、夜……?)

何でだろう、心に引っ掛かりを覚える。

同時に、またどうしようもない悲しさが込み上げてくる。



結局、学校が始まる時間になっても、私はベッドの上で静かに涙を流していた。





(学校、サボっちゃったな)

お昼頃になって、外をあてもなく歩きながら私はそんな事を思う。

だけど、今は何かをやろうとする気力が湧かない。

何か、本当に大切な何かを失ってしまった、そんな気がしてならない。

だったら、私は何を失ってしまったんだろう……。

どうしてこんなにも悲しいのだろう。

ふと視線の先にある公園に目が留まった。

そこは住宅街にある公園、その入口近くで主婦っぽい人たちが世間話で談笑している。

公園の中では、何人かの子供が無邪気に遊んでいる。

遊んでいる子供たちの多くは男の子だけど、何人か女の子の姿もあった。

(あ……)

元気に駆け回る子供たちを見て、また私の中で感情が湧きあがる。

だけど、悲しい気持ちもあるけど、今度はそれだけじゃなくて、温かい何かも一緒に私の胸を満たす。

「こんにちは」

後ろから声をかけられるまで、私はずっとあの子たちを見つめていた。

ハッとなって振り返ると、花束を抱えた二十歳過ぎくらいのお姉さんが穏やかな笑みを浮かべて佇んでいる。

「どうしたの、泣いているみたいだけど?」

そう言われて、頬に手を添えて気付く。

私はまた涙を流していた。

「い、いえ、何でもないです」

慌てて袖で涙を拭う。

お姉さんは「そう」と頷くだけで、何も言わない。

事情を聞いてこない、その優しさが今の私にはありがたかった。

「キレイな花ですね」

話題を変えようと、私はお姉さんが持っている花束に視線を向ける。

白い花びらの中に、黄色い小さな花びらがある、綺麗な花だ。

「ありがとう」

「お見舞いですか?」

「いえ」

私の問いにお姉さんは静かに首を横に振る。

「今日は、妹の五回忌なの」

「あ……すいません」

「大丈夫。ようやく、私も前に進めたから」

頭を下げる私に、お姉さんは穏やかな口調で言った。

「妹もね、ちょうどあの子たちと同じ年頃だったの」

公園で遊ぶ子供たちを見つめながら、お姉さんは続ける。

「あの時も、一緒に手を繋いで歩いていたのだけど、信号で手を離してしまって――」

そこで気付いたように、お姉さんは苦笑を私に向ける。

「ごめんなさい。いきなり暗い話をしちゃって」

いえ、と私は首を横に振る。

「その、前に進めたっていうのは?」

「今年ね、保育士試験に合格できたの」

そう答えたお姉さんの笑顔は、どこか陰があるけど、それでも輝いているように私には見えた。

「自分が手を離したから妹は死んだんだって、いっぱい悲しんで、いっぱい自分を責めて。だけど、このままじゃダメだとも思っていたから」

――あの子は、私が笑うと本当に嬉しそうだったから。

お姉さんは静かに目を瞑って、遠き日を想うように言葉を紡ぐ。

「強いんですね」

それが、私の率直な思いだった。

「そうでもないわ。立ち直るのにすごく時間かかっちゃったし」

おどけるお姉さんに、私もクスッと笑みを零す。

――でも、今の私なんかより、ずっと強い。

――今はまだ、悲しみの方が大きいけれど。

――いつの日か、この人みたいに前へ進めるだろうか。

おかしい話だと思う。

自分でも何が悲しいのかよくわかっていないくせに、私はこの人に憧れているのだから。

私はお姉さんが持っている花束に目を留める。

「あまり花には詳しくないんですけど、それって水仙でしたっけ?」

「ええ、そうよ。雪中花とも呼ばれていてね、まさに妹にピッタリかなって思って」

「へえ。妹さんのお名前、何て言うんですか?」

私の問いに、お姉さんは優しく、その名を口にした。

雪香(せつか)佐加井雪香(さかいせつか)っていうの」

その名前を、心の中に刻みつける。

理由なんてわからない。だけどきっと、私はその名前を絶対に忘れないと思う。

「あの、もし良かったらご一緒してもいいですか?」

お姉さんは一瞬驚いた顔をしたけど、すぐに笑って頷いてくれた。

「私は構わないけど、学校はどうしたの?」

「サボっちゃいました」

「あら、いけないわよ」

「大丈夫です。今日だけですから」

二人して笑い合う。

夏の空は、蒼く。

その先に、知っている誰かの笑顔がある気がした。

「私は桂香(けいか)佐加井桂香(さかいけいか)。よろしくね」

「私は、和泉真理って言います」

雪中花。花言葉は思い出。



一つの別れがあり、一つの出会いがあった。





七ヶ月もお待たせしてすいません。
第六章、ようやく完結しました。

次回からは夏休み編に入ります。


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