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  退魔師の夜 作者:空之風
お待たせしました。
6-7、更新です。
※6-6、一部修正を加えました。
6−7<裏>幽鬼達への鎮魂想
その少女は、幸せだった。

物心ついた頃には既に両親は他界しており、少女の思い出に両親の姿はない。

決して裕福だったわけじゃない。

身寄りもなく施設に預けられた少女にとって、欲しい物が手に入ることなんて稀だった。

それでも、少女は幸せであった。

いつでも、少女の大好きな姉が傍にいてくれたから。

少し年の離れた、優しい姉。

どこに行くにも、二人は手を繋いで共に行動していた。

怒ると怖いけど、それ以上に普段は優しい姉。

姉と一緒に歩ける、それだけで少女は幸せだった。



そう、少女は幸せな人生であった――。

最期に、たった二つだけ――。

本当に心残りとして、この世に残してしまったものがある以外は――。









【真理side】

「活きの良い浮遊霊を飼っているな、小娘」

明らかな嘲笑を含んだ声が、背後から私に投げかけられる。

振り返った私の視線の先、ついさっきまで誰もいなかったはずの公園、その中央にその人はいた。

公園の薄明るい街灯に照らされながら、ただ佇んでこちらを見つめる男性。

それだけだというのに、私の身体は自分でもわかるぐらい震えている。

「あなた……誰……?」

尋ねる声がひどく渇いていて、うまく声が出せない。

この人を見ていると、どうしてだろう、どうしようもない悪寒が身体中を駆け巡る。

(この人……怖い……)

無意識に足が一歩後ずさる。

そんな私の様子を、彼は無言のまま見据えている。

その昏い瞳が、私の内心全てを見透かして呑み込んでいく、そんなイメージすら湧きおこる。

「――やはり、害無き思念体にしては、随分と存在が強いものよ」

私の内心の怯えを余所に、彼は感心した声で言った。本当に愉しげな口調で。

「瘴気に侵されれば、さぞ大禍を齎す幽鬼と化そう。或いは、この街にいる退魔師すらも屠れるやも知れぬな。我が手駒として、まさに申し分無い」

(何を、言っているの……?)

私には、この人が何を言っているのか全く理解できない。

理解できないけど……一つだけ、わかったことがある。

明確に言葉にされなくても、わかってしまう。

街灯の小さな光など呑み込む、その深い闇に似た瞳が明確に告げている。

この人が何者なのかは知らない、何を言っているのはもわからない。

だけど、この人の狙いは。

「“それ”を寄越せ、小娘」

私の中にいる“この子”なんだって。



異変には、すぐに気付けた。

彼の身体から蜃気楼なものが立ち上る。

いや、あれは蜃気楼というより、透明な影とも言うべきかもしれない。

それはどこかで見たような光景。

そう、一週間前に“この子”と出会った時と同じ影だ。



透明な影が、目の前の男性から姿を現した。

その瞬間、途轍もない悪寒が身体を駆け巡る。

「ッ……!?」

反射的に悲鳴を上げそうになり、だけどその声が出ることはなかった。

呼吸が苦しい。声が思うように出せない。

空気が重たい。夏だというのに身体が震える。

「なん、なの……」

正直、何が起きているのかよくわからない。

いきなり声をかけられて、いきなり悪意に満ちた目で見据えられ。

いきなり“この子”を狙って、妙な影を出してきて。

何が起きているのか、本当にわからない。

だというのに私は、あの影がとても恐ろしいものだと、そう感じている。



(怖い……)

途轍もないぐらいの悪意が、私に向けられている。

あの人はその場から一歩も動かず、代わりに不気味な影が近づいてくる。

風でも吹けば霧散してしまいそうな、そんな靄に似た影は、ゆっくりとだけど真っ直ぐに私へと向かってくる。

(来ないで……)

だけど、私は動けずにいた。

「――ぁ」

声がうまく出せない。。

身体は震え、金縛りにあったかのように、手も足も動かせない。

でも、もし身体が動いたとしても、逃げるどころかその場にへたりこんでしまったかもしれない。

(お願い、来ないで……)

どうして、こんな思いをしなくてはいけないのか。

近づいてくる影を見つめながら、そんなことを思う。

「い、や……」



視界が霞み、涙が頬を伝う。

私は、泣いていた。



影は、もうすぐそこまで迫ってきている。

だけど、身体は動かない。

逃げたいのに、逃げられない――。

(嫌!! お願い、誰か――)



――たすけて!



(……え?)

一瞬、そんな声が聞こえたような気がした。

そして気付く。私が感じているものだけじゃなく、あるいは私以上に怖がっているもう一つ思いがあったことに。

恐怖を感じているのは、私だけじゃなかったことに。

(怯えて、いるの?)

そう感じ取った瞬間、脳裏にある光景が浮かび上がった。





ゴミや酒ビンの破片など様々な物が散乱した部屋の片隅で、精一杯小さくなろうと膝を抱えている少女。

いつも自分以外の人が部屋に入ってくる事を怖がり震えていて、ちょっとした物音だけで怯えてしまう、そんな臆病になってしまった少女。

その少女は、紛れも無く私――まだ両親という名ばかりの生みの親の下にいた頃の私。



部屋の片隅で震えている少女(わたし)と、“この子”が重なった。





(あ――)

恐怖で硬直していた思考が回復する。

怖い。怖いけど、だけど――。

この人の狙いは、“この子”だ。

私の中で身を竦ませて、震えて、ともすれば泣いている、少女だ。

これからも一緒にいようね、と、ついさっき誓ったばかりの、妹みたいな少女だ。

だったら……。

(だったら、私が――)

“お姉ちゃん”である私が、護ってあげないと――!!



途端、身体を縛っていた金縛りがスッと解けた。

目の前には視界いっぱいにまで近づいてきた、悪意の塊みたいな影。

「ッ!?」

反射的に後ろに飛び下がって、影から逃げる。

「――ほう」

あの人が軽く驚いたように感嘆の声をあげる。

だけど、そんなのに構っている余裕なんて私には無かった。

後ろに飛び引いた勢いのまま、私は身体を翻して、背を向けて走り出す。

(とにかくあの影から、あの人から逃げないと――!!)

未だ私の中で怯えている少女の想いを感じ取りながら、私は公園から飛び出す。

目的地なんて考える余裕もない。

とにかく、この場から逃げ出すことだけを考える。

静寂に満ちた住宅街を、私はただがむしゃらに走り抜けた。







獲物たる存在を内包した少女が走り去るのを見ながら、黒端智伸は「ほう」と息を溢した。

「あそこから持ち直すとは、些か瘴気が足りなかったか?」

この公園には既に瘴気が渦巻いている。その全てが黒端から発せられたものだ。

気の弱い人間ならば負の思念によって心が押し潰されていてもおかしくは無いほどの瘴気なのだが。

心が挫けぬどころかこの場から逃げ出せるとは、どうやらこちらの予測以上に心が強い少女だったらしい。

だが――。

(いくら足掻こうと、所詮は逃れられぬ。否、逃がしはせん)



黒端智伸の狙いは、先ほど自身が明言した通り、和泉真理の中にいる“少女”を手に入れることである。

より正確に言えば、瘴気によって“少女”の思念を憎悪に塗り潰し、怨霊して手駒とすることだ。

常人が知覚できるほどの強さにして、透き通るかの如き純粋な思念体。

あれほどの逸材、瘴気に中てれば清水に墨を垂らすかのように怨嗟が侵食し、さぞ強力な怨霊と化すだろう。

邪魔する者の命を容赦無く、無慈悲に屠り去り、その上で手に入れた怨霊を弄び嗤う。

破綻した蒐集家。狂った力の求道者。

或いは、あの儀式の代償により、そう位置付けられた存在(・・・・・・・・・)

黒端智伸とは、ようはそのような“モノ”である。



(まだ幾ばくかの猶予があるとはいえ、そう長くも持たぬ、か)

かの幽霊を手に入れるため、この街の退魔師の目を逸らす為に放った瘴気と怨霊。

それが驚愕に値する速度で祓われ、浄化されていくのを黒端は感じ取っていた。

優秀な退魔師だと認識していたが、どうやら評価を改めなければならないようだ。

とはいえ、かの者が浄化を終えてこちらに向かって来るのと、己が幽鬼を手に入れるのと、どちらが早いかと問われれば、それは――。

言葉で語るまでもなく、少女を追って悠然と歩き始めた黒端が、その答えを明確に物語っていた。






嘗て、この世の無情さを嘆き、一つの理想を掲げた僧侶がいた。

無念、未練をこの世に残し、世を呪う怨嗟の声をあげる魂魄。

退魔師と呼ばれし者達は、それらに対し実力を以って退ける。

だが、仏の道に仕える僧侶はそれを良しとしなかった。

怨霊を祓うのではなく、寧ろ怨霊であるが故に、その悲しき幽鬼を成仏させる事こそ仏の道。

そう悟った僧侶は単身霊山に籠り、およそ二十八年という苦行の歳月をかけて、遂には一系の秘術を編み出した。

怨嗟に塗れた怨霊を諭し、成仏させるという僧侶の理想(ねがい)を体現した術式。

だがそれは、人の身でありながら魂を弄ぶという禁忌をも犯しかねない、外道へと堕ちる道をも示してしまう禁断の呪術でもあった。

故に、僧侶はこの術式を密なる教えとして、極僅かな弟子のみに授けた。

憐憫なる魂を救うという理念と、決して天道を踏み外してはならぬという戒めと共に。

そして現代。

その理念と戒めを受け継いだはずである今代の術者は、ある儀式を行い、その代償を差し出した結果。



道を、踏み外した――。








【真理side】

「はぁ、はぁ……」

建物の陰に隠れながら、息を整える。

どこをどう走ったのか、全くわかっていない。

ただあの人から離れなきゃいけない、その一心でずっと走っていたから。

それがいけなかったのかもしれない。

不気味なほど静かな住宅街を駆け抜けて、気がつけば私は、住宅街を抜けて山の麓にまで来てしまっていた。

いま私がいるのは、小さなタバコ屋の裏手。

シャッターが下りた状態でかなりの月日が経っているみたいで、灯りも物音もしない。

きっと今は誰も住んでいないのだろう。

その近くには、作業が凍結されたまま放置されている工事現場があるだけ。

周りには民家も無く、道路の左右には夜の林が広がっている。

電柱に括りつけられている街灯の数も少なく、住宅街と比べてここは薄暗く感じる。

どうしてこんな人気のない方へ逃げて来てしまったのか、今更ながら悔やんでしまう。

かといって、今更住宅街の方へ引き返せない。

携帯電話は家に置いて来てしまっているから、誰かに助けを求める事もできない。

(でも……)

もし誰かに助けを求めたとして、果たしてあの人はそれで諦めただろうか。

思い出すのは、さっきの光景。

闇を纏ったような雰囲気に、憎悪に満ちた影みたいなものを使役する姿。

あの人は、普通じゃない。

化け物、そんな言葉が脳裏に思い浮かぶ。

おそらく、あの人は躊躇無く、誰かの命を奪える。そんな気がしてならない。

「どうして、こうなっちゃったんだろ……」

背を壁に預けて、ポツリと呟く。

いつものように深夜の散歩に出かけただけだったのに。

いつもと違うことと言えば、それは――。

そこまで思い至って、そして心中に湧き上がって来た想いに、私は慌てて頭を振った。

「違う、あなたのせいじゃない! ――だから、安心して。私はあなたを絶対に見捨てたりしないから」

未だ恐怖に囚われ、更に私の一瞬の考えを読み取って怯えを見せた“この子”を安心させようと、私は努めて優しい声で語りかけた。



――私自身は、実の親から見捨てられたから。

――今はもう、独りの寂しさを知っているから。

――だからこそ、私は“この子”を絶対に見捨てたりはしない。



その決意が伝わったのか、何かに怯えている恐怖の感情は未だ残っていたけど、少しだけ安心したようだった。

「これからどうしよう……?」

これから家に戻るのは無理。

私自身、あの人が私を探していそうで住宅街の方には怖くて近寄れない。

それに自宅に帰れたとしても、あの家が私達を護ってくれるとはどうしても思えない。

(やっぱり、朝になるまでここで隠れているしかないのかな……)

朝になれば人気も多くなるし、あの人が何者かわからないけど、人通りの多いところで襲ってきたりはしないと思う。

あとは警察署にでも駆け込めば、きっと助かる。

あんな非常識な影を見た後だと、楽観的で常識にとらわれた考え方だと自分でも思うけど、今の私にはそれしか思いつかない。

(そうと決まれば、後はどこか身を隠せるような場所を――)



その時、強烈な圧迫感と凶悪な悪寒に、背筋が凍った。



「ひっ――!!」

心臓が一際高く撥ねあがり、無意識に私の口から短い悲鳴があがる。

歯が噛み合わず、ガチガチと音を鳴らす。

身が竦みながらも道路の向こう、住宅街の方へと振り向く。

少ない街灯の灯りでは、道路の隅々までは見通す事は出来ない。



それでも、私は見つけてしまった。



ここから数百メートル先の道路、電球が切れかかっているのか点滅する街灯の下。

こちらに向かって歩いてくる、黒い人影を。



「ッ――!!」

あがりかけた悲鳴を、口元を押さえて押し止める。

(何で!? どうしてこっちに来るの!!)

どうして私の場所がわかったのか。偶然なのか、それとも――。

(とにかく、隠れなきゃ!!)

どこか隠れられそうな場所は無いかと周囲を見回して、放置された工事現場が目に留まった私は、弾けるようにそこへと駆け込んだ。









男は、嘆いていた。

その男は、表向きは田舎の僧侶として経を唱え、その裏では先代より受け継いだ秘術を用い、多くの死魂が満足して成仏できるよう各地を行脚していた。

開祖以来、秘術に込められし理想。

それを男は理解し、そしてそれこそ己が天命であると確信していた。

或いは、誰よりもその尊い理想を遂行せんという男の使命感と、それを妨げる無情なる現実が、何よりも男を焦燥させたのかもしれない。

たとえ秘術を用いたとしても、現世に留まる程の強い未練を残した者を成仏させるのは並大抵のことではない。

そもそも、秘術はあくまで術を記したのみ。それを成すには術者の力量が何よりも必要となる。

そして、男は先代と比べると、理念では凌駕していたが、術者としての力量はどうしても見劣りしていた。

成仏させることもあった。だが、それ以上に成仏させられず、寧ろ下手に干渉されたせいで暴走し、故に最後は実力で排除してしまうことの方が多かった。

人生を捧げた生き方とは、まるで異なる現実。

男は、己が力量不足を嘆いた。

もっと、自分に力があれば――。

そう思ったことは一度や二度ではなく、否、もはや日々を生きる上で常に感じている焦燥だった。

高過ぎる理想と比して、卑小過ぎる我が身。

故に、男が力を求めたのは必然の帰着だった。

己には術者としての適性が無く、正道では大した力は得られない。

ならば、正道以外の方法、邪道しかなかった。

男が敷いた陣は、禁呪と呼ばれる禁忌の術。

開祖たる僧侶が秘術を編み出した際に生まれた副産物。

ある代償を差し出すことで、術の効果を飛躍的に上げることができる術だ。

それこそ、僧侶が危惧したように、死魂を自在に操ることができるほどの、人の身には過ぎた力を。



その日、その男――黒端智伸は、禁呪を発動させた。

そして、黒端は力を手に入れた。



代償として、己の魂の一部を差し出したことで。









【真理side】

プレハブ倉庫の裏手に、私は息を殺して身を潜めていた。

「……っ」

心臓が激しく波打つ。極度の緊張で息をするのも苦しいぐらいだ。

身体を覆う悪寒は未だ抜けていない。それどころか、どんどん強くなっている気がする。

(もう、近くまで……)

震える身体を両手で抱き締める。

倉庫の陰から、工事現場の入り口へと視線を向ける。

そこにはまだ姿を現していないけど、恐ろしい何かがやって来ていることが感覚でわかってしまう。

(どうか、見つかりませんように……)

身を屈めながら、祈る思いで道路を見つめる。



そして――。



「――っ」

反射的に両手で口元を押さえる。

そうしなければ、私は声をあげていたと思う。

それぐらい、衝撃的な光景だった。

工事現場の入り口にあたる道路に現れた人影は、一つじゃなかった。

一つは紛れも無く、あの公園で襲い掛かって来たあの男の人のもの。

そして、その人の周囲には、無数の透明な影が漂っていた。

さっきの公園で見た影と同じもの、それが何重にもなってあの人の周囲を囲んでいる。



――オオォォ……。

――ア……アァ……。



ノイズみたいな音が微かに聞こえて来る。

でもそれは、どこか恨みに満ちたものに聞こえて来る。

(早く、早くどこかに行って――!!)

ずっと聞いていたら恐怖のあまり発狂してしまうかもしれない。

それぐらい呪い染みた音、いや怨嗟だった。

だれど、そんな願いを踏み躙るかのように、あの人はその場で足を止めた。

(な、何で!?)

物音一つ立てていないし、息だって両手で押さえて殺している。

なのに、あの人はゆっくりと周囲を見回して、そして工事現場へと足を踏み入れた。

まるで、私がここに隠れているのがわかっているみたいに。

もしかしたら鼓動の音で気付かれてしまうのでは、と思ってしまうぐらい、心臓が早く波打っている。

“この子”の感じている恐怖と同じぐらい、私も恐怖を感じている。

その周囲に無数の影を漂わせたまま、あの人は工事現場の中央付近まで歩いて来て、辺りを見回す。

こっちに首が向きそうになり、私は慌てて身体を引っ込める。

(お願いだから、もうどこかに行ってよ……!!)

もう何度目になるかわからない願いを心中で叫ぶ。

暫く身を小さくしていた私は、意を決してもう一度顔をあげて、ゆっくりと物陰から顔を出す。

あの人は私に背を向けて、まだ周囲を見回していた。

だけど、何も無いと悟ったのか、踵を返して入り口の方へと戻って行く。

(良かった……)

去って行く男性の後ろ姿を見ながら、私は心底から安堵の息を吐いた。

このまま隠れていれば、きっと何とかなる。



そう思った矢先――。



――コロ……テ……ル……

すぐ背後から、そんな不気味な声が聞こえて来た。



「……え?」

思考が空白に染まり、そして後ろに振り返る。

視界に広がったのは、ゆらゆらと揺れる透明な影。

その影には、人の顔のようなもの、それも苦痛に歪んでいる表情が浮かんでいるように見える。

そんなところまで見て判別できてしまうぐらい、私のすぐ後ろその影はいた。

そして、その影は見えない手を私の目先にまで伸ばしていた。

「いやぁぁあああーーー!!」

反射的にその場から飛び出して、影から逃れようと距離を取る。

ほとんど四つん這いになりながらも倉庫の陰から逃れて、後ろを振り返る。

あの影はゆっくりと私の方へ向かって来ている。



その時、私は背筋を凍らせる視線を感じた。



「あ……」

恐る恐る、首を動かす。

動かした視線の先に、あの人がいた。

その黒い目が、真っ直ぐに私を見据えていた。







身を竦めている少女に向かって、黒端智伸は言葉を放つ。

「気を許した刹那こそ、最も恐怖が倍増される時」

その少女が身体をビクッと震わせるのを視界に捉えながら、黒端はゆっくりと歩き出した。

「いい恐怖だ、小娘。恐怖は容易く世を呪う怨毒に成り果てる。或いは貴様も我が内に呪縛されるか」

黒端の身体から、無数の怨霊が溢れ出す。



――ォ…ォォ……ァァ

――タ……ケテ……ク…シイ……



黒端から放たれた怨霊の群れが、和泉を取り囲む。

雑音染みた怨嗟が幾重にも重なり、少女の、和泉真理の正気を蝕み、その表情を恐怖に染めていく。

「い、いや……」

身体中が引き攣り思うように声が出せないのか、拒絶の声は小さくか細い。

逃げ出す勇気も奪われ、震える足に力が入らず、血の気を失い顔色を蒼白に染めながら、和泉は愕然と黒端を見上げるしかなかった。

その絶望に満ちた表情を、その恐怖に呑み込まれた瞳を見て、黒端は自然と口元を釣り上げる。

今の黒端の胸中にあるのは、「愉悦」の二文字のみ。

生者の恐怖が、絶望が、眩暈すら起こしてしまいそうな甘美に満ちた歓喜と悦楽を黒端智伸に齎してくれる。

それは到底抗い切れぬ誘い。己の最奥から湧き上がる衝動が、黒端智伸という存在を突き動かしている。

そこに、嘗て幽鬼を救わんと志し、幽鬼を救えぬと嘆いていた心は無い。



確かに、黒端智伸は力を手に入れた。

だが、彼は終ぞ気付かなかった。

禁術の代償として差し出すのは、己の魂の一部。

それはつまり、魂の欠損を生じさせる(・・・・・・・・・・)ということ。

そして、気付いた時には既に手遅れであった。



その時、“黒端智伸”はそこで死に絶え。

その時、“黒端智伸”はそこに現れた(・・・)





「世を呪い――」

宵の闇より昏い瞳で和泉を射抜き、

「生者を憎み――」

周囲を漂う怨霊達を支配下に置き、

「怨詛に心を満たし――」

哄笑してしまいそうな己を内心に隠し、巌のような口調で、

「内の思念体と共に――死ぬがいい」

黒端智伸は無慈悲な号令を下し、直後、怨霊達が和泉へと殺到した。







【和泉side】

――ニクイ

誰かの感情が入り込んでくる。

憎しみが湧きあがってくる。なんで“自分が生きている”のか、それがどうしようもなく憎い。

今すぐ自分に包丁でも突き刺して、コロシテヤリタイ――。

(嫌!)

――イタイ

そう感じた時には、全身に激痛が奔った。

身体中の骨が砕かれ、突き刺さったナイフが内臓を切り裂き、全身を焼かれているような、痛くないところがないぐらい全てが痛い痛いイタイ――!

(嫌、入ってこないで!!)

いろんな憎悪が、怨嗟が、不安が、悔恨が、私の中に入り込んでくる。

(いや! お願い、やめて!!)

私じゃない無数の“誰か”が、私を蝕み、侵食し、壊していく。

私が、私じゃなくなっていく。

苦しい、憎い、怖い、悲しい。色んな感情が、想いが渦巻いている。

もう、どれが自分の感情なのか、わからない……。

(もう、いや……)

こんなの、耐えられない。

ずっとこんなのを感じていたら、狂ってしまう、壊れてしまう。



だったら……。

もう、諦めてしまった方が、いいのかもしれない……。

“私”を捨ててしまった方が、どんなに楽になれるのだろう……。

このまま、私じゃない無数の“誰か”に、身を任せてしまった方が、きっと……。

もう、いや……。

もう、何も考えたくない……。



もう、疲れた……。





――おねえ……ちゃん……





(……あ)

小さな、本当に小さな声が、私に届いた。

――“助けて”って、泣いている声が。

(泣いている……)

“あの子”が、泣いている。

苦しんで、怖がって、怯えて。

助けてって、泣いている。

たくさんの怖い想いに晒されながら、必死になって私に手を伸ばしている。



どうして、忘れてしまったのだろう。

どうして、もっと早く気付いてあげられなかったのだろう。

こんなにも、独りきりで“妹”が怯えているというのに――。



(ごめんね――)

黒い感情の中に浮かぶ、ほんの小さな光に向かって手を伸ばす。

いろんな負の想いが流れ込んでくる中、それでも手を伸ばす。

“独り”にはさせない。

私がずっと一緒にいてあげるって、約束したんだから。

だから――!

強く伸ばした私の手が、助けを求める“妹”の手を掴んだ。

掴んだその小さな想いを手繰り寄せて、強く、強く胸の中に抱き締める。

流れ込んでいた負の感情が止まる。

(あなた達なんかに、“この子”は渡さない……。“この子”の想いは汚させない……!)

私はお姉ちゃんだから――。

私が“妹”を護ってあげなくちゃいけないんだから――。

だから――!!

(“私達”の中から、出ていって!!)







無数の薄黒い影が、目の前の少女を囲っている。

その少女は両膝を地面につき頭を垂れて、両手で身体を抱き締めながら、目に見えて身体を震わせている。

その様は、傍から見ればまるで黒端に向かって許しを請うようにも見えるだろう。

そして少女の内側では、膨大な負の想念が津波の如く押し寄せ、少女の精神を蝕んでいることだろう。

黒端が号令を下してまだ十秒と少し。

寧ろ、心を壊すこと無くそれだけの時間を耐えている少女に、黒端は少しだけ顔を顰める。

少女に取り憑いているのは怨霊の数は十を超える。

並みの人間ならば既に発狂または廃人と化していてもおかしくない瘴気なのだが。

些か、見当違いだったようだ。

この少女、思ったよりも強い。

身体が、ではなく、心が。

(気に入らぬ)

それが、黒端の感情を急降下させて、不快感を覚えさせる。

「ふん」

それを鼻で笑い飛ばす。

ならば、さっさとその不快感を払拭してしまえばいい。

なに、難しいことではない。

――怨霊を、更に追加すればいいだけのことなのだから。

黒端は更なる怨霊を身体から出現させる。



――直後、少女に取り憑いていた怨霊達が弾き飛ばされた。



「ッ!?」

黒端はこの地へ来て初めて、驚愕に目を見開いた。

先程まで少女に取り憑いていた十を超える怨霊は、少女の身体から追い出されて周辺を漂う。

その全てが、今にも消え失せそうなほど儚く、稀薄な存在となって。

あまりに強い想いが“彼ら”を逆に侵食したのだと、頭の片隅でそのように結論付けながら、黒端は少女を、和泉真理を見つめる。

その目にもはや愉悦の色は無く、あるのは敵意。

この時、黒端智伸は認識を改めていた。実に不愉快なことに、改めざるを得なかった。

目の前の少女“達”は脆弱な獲物ではなく、警戒すべき敵であるのだと。

「……せない」

俯いたまま、和泉は小さく呟く。

「……なんかに、触れさせない」

誰かに聞かせる為というより、自分に言い聞かせるように、和泉は言葉を紡ぐ。

「護って、あげるんだから。絶対に……!」

先程までの弱々しい口調ではなく、強い意志を込めた口調。

そして、和泉は顔をあげて、正面から黒端を見据える。

和泉の顔色は蒼白、重病人のそれに近い。



だというのに――。

己を捉える和泉の目に籠る気魄に、思わず黒端は後ずさりそうになった。



それに気付いてしまった黒端は、ぎりっと奥歯を強く噛み締めた。

百を超える怨霊を従える己が、たかが少女一人に、一瞬でも気圧されてしまったことに、この上ない屈辱と憤怒を覚えながら。

膨大な敵意と殺意の籠った黒端の視線に射抜かれながら、それでも和泉は顔を逸らさない。

その全てが、和泉真理の全てが語っていた――。

「あなたなんかに、“この子”は指一本触れさせない! 絶対に、“この子”は絶対に、私が護ってあげるんだから!!」

決して、最後まで屈しはしない、と――。

「小癪なッ! 小娘風情が!」

不快と怒りを顕わに、黒端は吐き捨てるように言い放つ。

「護るだと? 貴様如きが、たかが人間の小娘風情(・・・・・・・)が、何を護れるというのだ!」

黒端の身体から怨霊が噴き出すように次々と現れる。

無数の怨霊の群れが和泉と黒端を取り囲む。

「何も護ること叶わず、無念のうちに死ぬがいい、小娘!!」

怒号と共に、怨霊が一斉に和泉へと襲い掛かる。

和泉は身体を抱き締める両手に力を込めて、ぎゅっと目を瞑った。

そして、怨霊達の触手が和泉に手を伸ばし――。







一陣の風が、怨霊達を悉く切り裂いた。







【真理side】

「――護れない、だと? 護ってみせるさ」

目を瞑っていた私の耳に、ここで聞くにはあまりに場違いな、聞き慣れた声が聞こえた。

「……え?」

目を開けると、目の前に広がったのは誰かの背中姿。

私は、自分の目を疑った。

(え? なん、で?)

理解が追い付かない。今夜は色々なことがあり過ぎたけど、これは極めつけだと思う。

だって、私はその後ろ姿を、その声を知っている。よく知っている。

私をあの人から護るように、こちらに後ろ姿を見せて相手と対峙するその人の名を、私は知っている。

その人は――。

「永瀬、せん、ぱい……?」

私が、好きになった人だから――。



ここまできて、もしかしてこれは夢なんじゃないかとすら思ってしまった。

だって、あまりにも予想外だったから。

だけど――。

心の片隅で、先輩が現れたことに納得してしまう自分もいた。

あの日、駅の駐輪場で私を助けてくれた先輩なら、永瀬光貴という人なら、事情を知らされれば真っ先に駆け付けて来てくれる、そんな人だから――。









背後に振り向くと、和泉は目を見開いたまま、呆然と俺のことを見つめている。

まあ、確かにそれが当然の反応だろうな。

そんな和泉の頭に、ぽんと手を乗せる。

「よく、本当によく頑張ったな、和泉。もう大丈夫だ」

「……え? なんで、先輩が? え?」

「後は、俺に任せろ」

未だ混乱している和泉から視線を外し、前へと振り向く。

俺の視線の先には、無数の怨霊を引き連れる男。

間違いなく、この男が黒端智伸だろう。

街中に瘴気を撒き散らし、挙句に和泉真理と中にいる少女にも手を出した外道。

「――ああ、護ってみせるさ。和泉も、その意志も、和泉の中にいる少女も」

後ろで和泉の肩が震えたのを気配で感じ取りながら、俺は右手に持つ刀の、蒼來之剣の切っ先を黒端智伸に向ける。

目の前の男の姿、そして気配に納得する。

成る程、全てに合点がいった。

こいつは、もう人間じゃない(・・・・・・)

躊躇する必要など、もはやどこにもありはしない。

そもそも、こいつが人であろうがなかろうが、そんなもの関係ない。

こいつは、和泉真理を襲った。

もう少しで、和泉は殺されそうになった。

誰も彼もに、悲しみを背負わせようとした――。

<光貴。冷静に、じゃ>

(わかっている)

ソラに言われるまでもなく、俺は冷静だった。

人は度が過ぎた怒りを覚えると逆に冷静になると聞いたことがあるけど、まさにその通りだと思った。

奥底から湧き上がる怒りを、全て闘志に変える。

漲る戦意が、気息となって身体中を循環する。

蒼來之剣に気が満ち渡り、刀身が光を帯びる。

淡く静かな光だが、そこに儚さなど欠片も見受けられない。

逆に内に込められた力の脈動を抑えつけている、そちらの方が適切な表現だろう。

まるで、俺の心を代弁しているようだ。

――早く、あいつを斬らせろ、と。

(ソラ、全力でいく。止めるな)

<誰が止めようか。寧ろ手を抜くようなら説教じゃ>

ソラの言葉に、静かに頷く。



心から、護りたいと思う人達がいる。

だから、俺は護る為に手を伸ばして、蒼來之剣を手に取った。

そう、その為に――。

「その為に、俺は退魔師になったんだッ!!」

外道・黒端智伸、お前は俺が断罪する。






気がつけば1万2千文字……。
話がどんどん長くなっている気がする(汗)
もうちょっと短く分けるべきか考え中です。

次話が6章の最終話になる予定です。


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