Thuban (改稿版)
今日最後の、終業のチャイムが鳴った。
日直の号令も終わり、息苦しい授業から開放された皆は、それぞれのやりたいことを始める。ある人は友達の席へ行って他愛もない話を始め、またある人はホームルームが始まるまでに下校の準備を始める。私はどちらかというと、後者だ。
友達がいないわけじゃない、たぶん。ただ、自分から人と関わるのが得意じゃないだけ。きっと、私には想いを伝える度胸がないんだ。表に出したときに、それを誰かに認めてもらえないのが怖い、そんな臆病な人間。
それが私、平岡由佳だ。
「由佳」
鞄の中に向けていた視線を上げる。声の主は葉山渚だった。私とはまるで対照的な、常に人の中心で笑っているような子だ。
「どうしたの?」
聞くと、渚は突然手のひらを合わせて拝むように頭を下げてきた。
「頼むっ! 勉強教えて!」
急すぎる頼みに、一瞬思考が停止する。ああ、そういえば、もうテストの二週間前だっけ。
「うん、いいよ」
途端に渚は嬉しそうな顔をする。
「やった! じゃあ放課後教室残っててね!」
「あ、うん」
もう、こんな返事しかできない自分が恥ずかしい。顔が紅く火照っていくのが自分でも分かる。
「勉強だったら僕らも混ぜてよ」
ちょうど私たちの隣で別の人と話していた瀬名くんが声を掛けてきた。彼は、渚とは幼馴染で、中学からしか渚のことを知らない私より、もっと彼女のことを知っている。
「お、いいよー。でも祐樹、成績よくなかったっけ?」
「英語と国語はね。数学が壊滅的」
やれやれ、といったふうに手のひらを振る瀬名くん。
「数学ならうちの由佳が教えたげるよ!」
そう言って、渚が私の肩をぽんぽんと叩く。瀬名くんは苦笑を浮かべて、
「渚じゃないのがなんとも……」
二人がそんな会話を続ける間、ついさっきまで瀬名くんと話していた彼の方をなんとなく見た。目が合って、思わず視線を逸らしてしまう。
竜野恭一郎、それが彼の名前だ。
隣の席になってしばらく経つけれど、直接話すことは殆どない。由佳や瀬名くんがいてようやく一言二言会話がある程度。私とは違う意味で、話し下手な人なんだろう。
「ホームルーム始めるぞー席つけー」
教室のドアを音を立てて入ってきた先生の一声で、口々に話していた皆が自分の席に戻っていく。
「じゃ、由佳、あとでね」
渚と瀬名くんも自分の席に戻っていった。
私も、心の中に恥ずかしさを残したまま、教卓のほうを向いた。
***
「ねえ、今度星を見に行かない?」
四人で机をつき合わせて勉強をしていると、渚がそんなことを呟いた。
「どうしたのさ、急に」
瀬名くんがきょとんとした顔で聞き返す。確かに、何の脈絡もなかった。
「んー、なんていうの? 夏の思い出みたいな」
にしし、と笑って渚は答える。窓から差し込む夕日に照らされて、薄紅色に染まった彼女の笑顔は眩しかった。
「あ、いいかもね。夏休みにみんなで行くの。恭一郎はどう?」
瀬名くんが竜野くんに話題を振った。それまで黙々とペンを動かしていた竜野くんが顔を上げた。
「お前らが行くんだったら行くわ」
「あいさー」
抑揚がなく素っ気ない返事。でも瀬名くんは気にする様子もなく、返事を返す。私はそれが少し可笑しく思えて、口に手を当てた。それに気付いたのか、竜野くんが私のほうを見た。私は慌てて口元から手を離した。
「平岡、お前は?」
「へ?」
唐突な質問に、思わず間の抜けた声を出してしまった。その恥ずかしさで、頭が真っ白になる。隣では渚と瀬名くんがワイワイ盛り上がっているが、内容は頭に入ってこない。
「お前は行かねーの?」
それで、ようやく星を見に行くのかどうか聞かれているのだと気付いた。
「あ、行くよ……」
「そうか」
それだけ言って、竜野くんは私から視線を外した。
「平岡も行くって」
その代わりに、自分たちの世界に入り込んでいた二人にそう伝えてくれた。二人とも私のほうを向いた。渚が笑った。
「由佳、星好きだったよねー」
「……うん」
前に一度話したことがあった。それを覚えていてくれたのだとわかって嬉しかった。
「平岡さん星座とか詳しいの?」
「あ、うん」
「じゃあさじゃあさ、夏休みに見頃の星座教えてよー」
にこにこと笑ってそんなことを尋ねてくる瀬名くん。私はそれがなんとなく羨ましくて、頷くことしかできなかった。
***
四人で山に行った。麓までは自転車で、そこからは歩いて山頂を目指した。山頂には小さな天文台がある。私たちはその前の広場で星を見るつもりだった。
だんだんと辺りが暗くなってゆき、空を見上げると星も増えてきた。普段運動をしないから、少し山を登るだけで息があがる。それでも不思議と気分は晴れやかだった。
「晴れてよかったねー」
「曇ってたら別の日に行けばいいだけだけどね」
そんな会話を、先を行く渚と瀬名くんがしている。私と竜野くんは少し遅れてそれに続いていた。私に合わせてくれているのだと思う。
よく人が通る山道らしく、思っていたよりも歩きやすい。とはいえ、運動靴ではなくサンダルで来たのは失敗だった。いつもより服装に気合を入れて、ワンピースを着てきたのに、それも山登りには向いていなかった。
「あっ」
声を出すのと身体が浮くのが同時だった。一瞬遅れて、自分がつまずいたのだとわかった。
ぐっと、右腕が引っ張られる。誰かに腕を掴まれたんだ。それで我に返って、なんとか踏み止まれた。振り返ってみると、私を支えてくれたのは竜野くんだった。
「危ないだろ」
「あ……ありがとう」
呆然としてしまって、口に出せたのはそれだけだった。
「由佳―、大丈夫―?」
先を行っていた渚と瀬名くんが振り返って私の心配をしてくれている。私は大きく頷いて返した。
二人に追いつこうと一歩を踏み出そうとしたが、思うように足が動かない。それを疑問に思う前に、竜野くんが私の肩を掴んだ。
「祐樹。平岡、疲れてるからここで休ませる。先行っててくれ」
瀬名くんはわかった、と返して、私のほうを心配そうに見つめる渚と二人でまた上り始めた。段々と二人の姿が闇に紛れ、ついに見えなくなった。
「あ、あの……」
「登山にサンダルなんかで来るからだ」
言葉を遮られ、私はもう何も言えなかった。
***
竜野くんと私。二人並んで道の端に座って空を眺めていた。
大きな星の川と、いろいろな星座。光の帯を挟んで、ひときわ輝いて存在するのが織姫と彦星だ。
「なあ平岡」
突然竜野くんに声を掛けられて戸惑う。そんな私を差し置いて、竜野くんは言葉を続けた。
「お前、星好きだって言ってたよな」
「あ、うん」
私に合わせてくれたのか、その話題は有難かった。
「竜座ってあるだろ。あれってどんな星座?」
「えっ、なんで」
そういうことに疎いと勝手に思っていたので、竜野くんがその名前を知っていることに驚いた。知っていてもせいぜい夏の第三角形くらいだろう、と。
「苗字が竜野だから、なんとなく」
それで納得できた。確かに自分と共通点のあるものは覚えていやすい。
「ええと、竜座はあれ。ちょうど、今一番よく見える時期なんだよ」
北極星の周りにある細長い星の並びを指差し、なぞっていく。竜野くんはその先を眼で追っている。
「あんまり明るくないな」
「うん。三等星より明るい星が三つしかないから。でも私、この星座結構好きだよ」
「なんで」
竜野くんは真顔だ。少しくらい表情を変えればいいのに、と思う。
「昔はね、北極星は竜座のトゥバンっていう星だったんだって。なんか素敵でしょ。あとはそうだなぁ、キャッツアイ星雲も見られるから」
自分がいつもより饒舌になっているのがわかった。竜野くんとは話しにくそうと思っていた自分はどこへ行ってしまったんだろう。
「へえ」
竜野くんの相変わらず素っ気ないその返事に、少し笑ってしまった。
「なんで笑うんだよ」
竜野くんの表情は変わらないんだけど、その言葉には少し恥ずかしさが混ざっているような気がした。
「なんとなく」
そんな言葉の交わし合いが楽しかった。
それからしばらく、私たちは夜の星空を眺めていた。
「平岡」
竜野くんが私の名前を呼んだ。
なんだろう、と思って横を見ると目が合った。その瞳は真剣そのものだった。いつも、何を考えているか分からない竜野くんが、今は、何か覚悟を決めたのだとわかった。
夏の夜はこんなに涼しかっただろうか。空気がしんと静まり返った。虫の音さえ今は聞こえない。
竜野くんが口を開くその瞬間までが、永遠に感じられた。
「俺、お前のこと好きだから」
まるでなんでもないことのように竜野くんは言った。その場の流れでなんとなくわかっていたつもりでも、口に出して言われると、どう答えていいかわからない。ただ、頬が紅く熱くなってゆくのを感じた。
「あっ、あのっ」
考えが纏まらないままで、まともに口が回らない。それでも何か言おうと、頭が空っぽのまま喋った。
「そう言ってくれたのは嬉しいし、私は竜野くんのこと好きだよ。普段あんまり話さないから、何考えてるかわからないけど、私のこと気に掛けてくれて……。今日星を見に来れたのも、竜野くんがあのとき私に声を掛けてくれたからだよ」
話し始めると、不思議とつっかえることはなかった。いつになく私は喋れている。竜野くんの表情は変わらない。ただ、その目は私を見てくれていた。
「でも、私は竜野くんのこと友達だと思ってるから……それに、私、好きな人もいるし」
言ってしまってから、しまったと思った。こんなこと言うつもりじゃなかったのに、無意識のうちに話してしまった。ああ、恥ずかしい。消えてしまいたい。
そんな私とは裏腹に、竜野くんはとても冷静なようだった。そして、一言だけ、
「知ってた」
「へっ!?」
また、変な声を出してしまった。ますます顔が赤くなっていくのを感じる。それくらい、竜野くんの言葉は私にとって衝撃的だった。
「し……知ってたって……、それは……」
まだ、竜野くんが考えている人が、私が本当に好きな人だと決まったわけじゃない。落ち着け、大丈夫だ、私。ああ、それにしても、どうして急に舌が回らなくなるのだろうか。
「知ってるよ。お前が、葉山のこと好きだって」
やっぱりなんでもないことのように言う竜野くん。私はもう言葉を返すこともできなくて、身体をわなわなと震わせるしかなかった。
「注意深く見てなきゃ気付かないかもしれないけど、お前が葉山に話しかけられたとき、いつも少しだけ顔赤くしてるからな」
「なっ……」
トドメ。
そんなこと、全く気付かなかった。そりゃ、渚に話しかけられたとき、うまく返事ができなくて、恥ずかしくてっていうのはあるかもしれないけれど、そんなに日常的に赤くなっていたとは思わなかった。
「安心しろ。別に、女同士だからって軽蔑とかはしない」
「そ……そういう問題では……」
「じゃあどういう問題だよ」
不思議そうに聞いてくる竜野くん。
「あ、いや、だから……竜野くんは、私が渚のこと好きだって知ってて告白したんでしょ?」
竜野くんは首を縦に振った。振ったのだけれど。
「別に、付き合って欲しいから告白したわけじゃない」
「じゃあ、なんで……」
「なんでって」
竜野くんがはあ、と溜息をついた。
「葉山を好きな平岡が好きだから」
風が吹いた。その風は、妙に心地がよくて、私の熱くなった身体を包んでくれた。すっと、さっきまでの緊張がほぐれてゆくのを感じた。
私がずっと隠していたこと。ずっと、いけないことだと思って、黙っていたこと。誰にも話さないでいたこと。きっと、彼以外の誰も知らない私の秘密。それを、彼は認めてくれた。私の存在を、認めてくれた。今はとにかく、そのことが嬉しかった。
「あの、竜野くん!」
「ん」
「ありがとう! 私、行ってくる!」
私は立ち上がり、駆け出した。温い空気が私の身体にまとわりつく。でも、全身を撫でてゆく風はいつになく心地よかった。
私は振り返らずに、もと来た道を駆けた。天文台のところに、彼女はいる。上り下りの坂道を走る。いつもより気合の入った服装は走りにくくて、途中で私はサンダルを脱いだ。それを右手に持って、左手でワンピースの裾を持ち上げて裸足で地面を蹴った。痛かった。もしかしたら、何か踏んだかもしれない。足を切ったかもしれない。でも、今の私にはそんなことは気にならなかった。
翼が背中に生えたのではないかと思うくらい、今の私は軽やかに駆けていた。
いや、そうじゃなく。これはきっと、ずっと背負っていた重石がなくなったからなんだ。そして、竜野くんが私の背中を押してくれたからなんだ。
天文台前の広場に出た。
瀬名くんがいた。――渚もいた。
「おー、由佳、大丈夫だったー!?」
笑顔で手を振ってくれる渚。きっと、私と竜野くんのことは知っているのだろうな。
瀬名くんがいるとか、そういうのはもう関係なかった。今の私なら何でもできる気がした。
私は、竜野くんへの感謝を込めて、私の思いを込めて、叫んだ。