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人魚姫の憂鬱

作者:黒川うみ
 世界はなんてつまらないんだろう。
 人間は快楽を追求しているようで、全然それができていない。
 零と一の間にあるものさえ未だ理解の範疇外。
 毎日が単純なことの繰り返し。
 面白いことなんてひとつもない。
 生まれつき両足の不自由な八咫にとって、世界とはそういうものだった。

 八咫の好む気晴らしは、海辺の別荘の広いバルコニーに天体望遠鏡を設置して、室内の明かりを全て消した後、それを覗き込むように直に床に寝転がることだった。
 一応は人気の別荘地だが、一番外れに位置しているだけに人家の明かりは見えない。バルコニーの下に広がる浜は完全なプライベートビーチだ。当然、セキュリティは強固で砂浜にたむろするような若者が入り込むことはできない。
 街へは車を使って三十分もかかる僻地だが、八咫は一年の殆どをこの別荘ですごしている。
 都会では猛暑とニュースは報じているが、常に海風の吹き込むこの別荘では汗を流す暑さに達することは殆どなかった。
 満天の夜空に、ざざんざざーんと波音が反響する落ち着いた場所を独り占めして、八咫はうつらうつらと瞼を上下させていた。部屋の中に戻るのが億劫になってこのままバルコニーで寝てしまうこともしばしばあるので、既に柔らかいマットレスの上で頭を枕の上に置き、夏掛けの毛布を腹部に掛けている。
 このバルコニーにはリモコンのスイッチひとつで屋根がせり出してくる仕掛けが施されている。日よけのロールカーテンも雨よけのビニールカーテンも自由自在だ。
 だが、屋根のない方が彼の好みだ。
 開放的な空間の方が気分が良い、それだけの理由である。
 とうに深夜をすぎているが八咫にとっては起きていることの方が多い時間だ。それでも今日は寝てしまいたい気分だったから、天然BGMの波音にノイズが混じったことが酷く不快に思えた。
 じゃぶ、じゃぶ、じゃぶ……誰かが海水をかき分けて歩いてくる。
 いくらプライベートビーチといえども、海側からの侵入は阻めない。いや、そもそも人の泳げない岩場が外側に存在して、満潮時でなければ入ってくることは困難だ。今が丁度その満潮時刻だというのがひどく堪に触った。
 あってはならない侵入者である。
 第一、人の家を訪ねるのに裏の裏から無断侵入とは警察に通報されても仕方がないレベルだ。
 ごろりと俯せになり、腕の力だけでのそのそとバルコニーの縁まで寄っていって下に目を凝らした。じゃぶじゃぶと歩く誰かの姿は月明かりに照らされ、朧気だがそこにいることは間違いない程度には見ることができた。
 泥棒にしては酷く小柄でウェットスーツなどを着ている様子はない。酸素ボンベも背負っていない。無防備に砂浜へ上がった不審者は、間抜けに「へくちゅっ」とくしゃみをした。そのくしゃみは女性のもののような印象を受けた。たぶん、髪は長い。そして胸はない。
 誰も見ていないと思っているのか、一糸纏わぬ姿で途方に暮れたように海の方を見て突っ立っている。小さな呟きが鮮明に耳に届いた。
「……うー……どうしよう……」
 遭難者だろうか。少し警戒レベルを下げて考えてみる。だいぶ離れてはいるが、一般の海水浴場があるにはある。その辺りのゴミが流れて来ることもあるから、潮の向きによっては人も流されるかもしれない。だとしたら相当な間抜けであるが、昼からこの時刻まで流されてここに漂着したとしたら随分と幸運だ。普通ならとっくに水死していておかしくない時間、海を漂っていたことになるのだから。
 とりあえず泥棒だったら通報すればいいと思って、八咫はリモコンのスイッチを操作した。パッパッパッと海側の部屋に明かりが灯る。驚いたように振り向いたのは、中学生か高校生くらいのほんの少女に見えた。
「えーと、一応、そこ、プライベートビーチなんだが」
 そんなに大声ではなかったが、少女には届いたらしい。明らかに狼狽し、次にしゃがみ込んで恥ずかしそうに腕で身体を隠した。その試みは成功したとは言いがたいが、泥棒でないと判断するには今の反応だけで十分だった。
「困っているならそこの階段登ってこい。困ってないなら出て行け」
 きっぱりとした男性の声に彼女は身を震わせたが、縁から人影が遠ざかったので意を決したように折れ曲がる長い階段を上り始めた。
 八咫は面倒だと思いながらソファに這い上がり、側に置いておいた車椅子に乗り移る。足を確保した八咫はフローリングの床をすーと滑って脱衣所に移動した。引き出しには三、四着のバスローブが畳んで入っていた。それを一着車椅子に乗せてバルコニーに戻ると、階段の縁に身を隠すようにして思った以上に幼い顔をした少女が居た。彼女は出てきた人物が車椅子に乗っていることがよほどか意外だったらしく目を見開いた。なかなか、可愛らしい面立ちをしている。
「女物の服はないから、ひとまずこれでいいか?」
「……う、うん」
「じゃ、着ろ」
 無造作に投げると、バスローブは階段近くに落ちた。細い腕を伸ばして取ると、彼女はしばらく物陰でごそごそしていたが、バスローブの紐をしっかりくくると、おそるおそる八咫の前に歩み出てきた。
「あ、あの……」
 身長は百五十センチ台。童顔。胸も尻も発育していない。色気なし。可愛いというより幼いと表現した方が正しい。恥ずかしがる身体などどこにもない。
「中学生か」
 八咫は容赦なく切って捨てた。
「こんな時間に何をしている。海水浴場から流されたのなら捜索が出ているだろうから、連絡を取ってやるが」
「あ、えと、その、えと、あの……」
「はっきりしろ」
 ところが彼女が何かいう前に、彼女の腹がぐうーと音を上げた。顔を真っ赤に染めて身を縮める少女に、八咫はため息をついて車椅子の車輪に手を掛けた。
「来い。俺は料理はしないが、冷蔵庫に何かしら入っている。好きに食え」
 車椅子は音も立てずにするするとフローリングを滑っていく。少女はおずおずとその後をついていく。これが健常者の男性なら警戒もしただろうが、車椅子の男は長いTシャツを着ているだけでズボンを履いていない。そもそも足を通すべきその足がどこにも見えない。だから車椅子を使っている。
 何かあればさっきの階段を駆け下りればいいと覚悟を決めた彼女は、おそるおそる口を開いた。
「あの……ありがとうございます」
「礼はいい。遭難者の救助は大人として当然の義務だ。棚の食器も適当に使え」
 一方的に言い放ち、八咫はコーヒーサーバーに水と粗挽きの豆をセットする。その背後で遠慮がちに少女が冷蔵庫を開けて、中に入っていたサンドウィッチの並んだ皿を取る。
「これ、食べても、いいですか?」
「好きに食えと言ったはずだ。そんなことをケチらなければならない生活をしているように見えるか?」
「……い、いいえ」
 台所だけで十畳、リビングは三十畳くらいありそうで、そこここに置かれた家具や調度品からして、ああお金持ちなんだな、というのはよくわかる。同時に、ぶっきらぼうだが深夜のよくわからない訪問者にきちんと応対してくれるのだから、人が悪い訳ではないのだろう。
 勝手にしろというのは、単に彼が自分でやるよりも、両足のある彼女が自分で動いた方が早いからという意味に思えて、リビングのソファに座った彼女はひどくいたたまれない気分で落ち込んでいた。
 彼は自分の珈琲を持ってきて、彼女の正面で車椅子を固定した。
「お前、名前は?」
「なっ 魚神山、華鱗ですっ」
「ナガミヤマ? 聞かない名前だな。俺は八咫。とりあえず話は食って落ち着いてからでいい。この家には俺しかいないからな。シャワーを使いたければ使っていいぞ。一応客間があるから、寝たければ二階の部屋を使え」
 あまりにも至れり尽くせりで華鱗は遠慮したくなったが、まさかこんな時間にバスローブ一枚で出ていくわけにもいかない。とりあえずサンドウィッチをひと口囓ってみた。もぐもぐと丁寧に咀嚼して飲み下す。ぱく、もぐもぐ。ぱく、もぐもぐ。どんどん速度が上がって食事に夢中になるのに時間はかからなかった。
 眠気覚ましに珈琲を飲んでいる八咫は、ぼんやりとした目でその様子を眺めていた。
 皿に載っていたサンドウィッチを綺麗に平らげた華鱗は、リンゴジュースを飲んでようやく人心地ついた様子だった。だから、珈琲二杯目に突入していた八咫はさらっと尋ねた。
「で、カリン。お前は遭難者なのか? ただの迷子か?」
「遭難……に、なる、んでしょうか……」
 いきなりどよんと落ち込んで肩を落とした華鱗は、俯きながらも自嘲していた。
「魚神山の娘がよりにもよって海で遭難しただなんて……情けない……。挙げ句、他人様の手を煩わせるなんて……」
 察するに、魚神山というのは漁師か海女か、そういう海に関する職の家だろうか。八咫は頬杖をついて真顔でいった。
「別に。誰だって溺れる可能性はあるし、波に攫われないなんて保証はないだろ。毎年死者が出ているくらいだ。助かっただけ有り難いと思え」
「……」
 常識的な慰めに、なぜかさらにどよよんと影を落とした華鱗だった。
「あの、ヤタさん……」
「何だ」
「失礼を承知でお訊きしますけど。ヤタさんって泳げますか?」
 本当に失礼な質問に、八咫は苦笑した。今は通常の五輪ほどではないが、障害者競技大会もそれなりに注目を集める。その中には、健常者に劣らない水泳選手もたくさんいる。足を使わなくても泳げる人もいる。しかし泳げるようになるまでにはそれなりの修練を積まなくてはならない。
 両足が失われたように見える八咫が泳げるかどうかは本人に確かめるしかなかった。
「まあ、こんな身体だから疑問に思われても仕方ないが、屋内プールならそこそこ泳げる。波のあるところでは浮き具に頼るが、ここのプライベートビーチは泳ぐより浮くことを目的に所有しているから、海ではまともに泳がないな。危険だから」
「……そこそこって、どのくらいです?」
「限界まで泳いだことはないが、百メートルくらいは余裕だ」
 健常者で五メートルも泳げない人がいることを考えれば、それは大変優秀な数字だった。
「百……」
 さらに表情を曇らせていく華鱗はリンゴジュースをちびちびと飲んで、はあぁと重いため息をついた。そのため息の意味することは明らかだ。
「別に泳げなくても問題ないだろう。学校の成績が気になるのか?」
「いえ、泳げることは泳げるんですけど……」
 そう口を噤んだ華鱗は、気まずい沈黙の後にリンゴジュースを一気に飲み干して、言った。
「ヤタさんは、人魚伝説って信じてますか?」
「は?」
 突拍子もない質問だった。
「ボクの家って人魚の末裔らしいんです。人と人魚が結婚して産まれた子供が始祖らしくて。だから中学を卒業するまでに、どうしても、泳げるようになる必要があるんです。人の姿で。そうしないと家から出してもらえなくなるんです。ボクは家を継ぐつもりなんてないし、もっと都会に出てたくさん勉強したいこともあるし、どうしても試験に受からないといけないんです。だけどどうも勝手が違うっていうか、魚の時は歩くようにすいすい泳げるのに、なんでか人の姿の時はうまく泳げなくて……」
「…………」
 八咫は沈黙して、額を抑えた。なんだか今、聞き捨てならない言葉が混じっていた気がするのだが。
「人の、姿? 魚の姿って何だ?」
「だから、人魚なんです。一般に知られる半人半魚じゃなくて、人か魚のどっちかの姿しかとれないんですけど。泳ぐ時はいつも魚の姿だったから余計勝手がわからなくて……」
「……魚、に、なるのか? お前が?」
「はい。あ、でも、どっちかっていうと、小さい鯨っていうか、イルカみたいな感じなんですけど」
 平然と語られた台詞に、八咫はぐいっと珈琲を飲み干して三杯目を注ぎに車椅子の車輪ロックを外そうとしたら、マグカップを華鱗に取られた。
「おかわりならボクがやります。あれ、注ぐだけでいいんですよね。このくらいさせてください。お皿とかもちゃんと洗います」
「あー……、ああ」
 なんだか厄介な拾い物をしたことにようやく八咫は気が付いた。
 語られる内容がかなり現実離れしている。頭でも打ったのだろうか。いやしかし意識ははっきりしているようだし……。
「カリン、お前、何歳だ?」
「中三……十四です。来年は高校受験もあるし、この夏が勝負なんです。何がなんでも泳げるようにならないといけなくて……でも全然うまくいかなくてむしゃくしゃして、気晴らしに魚の姿でずっと泳いでたら、元の浜を見失ってしまって……」
 どうやら間が抜けているのは元かららしい。
 八咫は荒唐無稽な話を反芻して、理解不能な部分は切り捨てることにした。
「泳ぐ練習ならプールへ行け。初心者が海で泳ぐなんて遭難して当然だ」
 実に理に適った忠告に、華鱗はあくまでも真面目に、沈んだ声で反論した。
「だ、だって、水の中でパニック起こすと魚になっちゃう癖があって……プールにいきなり大きな魚が現れたら大騒ぎになっちゃうじゃないですか……」
 そりゃあ大騒ぎになるだろう。ならない方がおかしい。
 ちょっと納得しかけて慌てて首を横に振る。眠いせいか奇怪な話を自然に受け入れてしまいそうになる。だが、流されてはならない。
「泳ぎの練習をしているのはわかったが、素っ裸でか? いくら公共の海水浴場でも警察沙汰だろう」
「ち、違います! えと、その、魚の姿で泳ぐ時は水着いらないから、っていうか脱げて流されちゃって……」
「……。とりあえず、家に連絡しろ。こんな時間まで出歩いていいと思っているのか?」
「あ、それは大丈夫です。むしろ泳げるようになるまで帰ってくるなって言われてて。代々練習用に使う家があって、今はボクひとりなんで戻らなくても騒ぎにはなりません」
「随分と念の入ったことだ」
「はは……昼間より夜の方が練習しやすいもので……」
 そして何を思ったのか彼女はソファから立ち上がって、フローリングの上で八咫に向かって正座した。
「あの、ここまでお世話になっておいて、図々しいんですけど。さっきここの浜はプライベートビーチって言いましたよね? それって他の人は入って来られないってことですよね?」
「まあな」
「ほんっとに図々しいお願いなんですけど、しばらく使わせてもらえないでしょうか。私にできることは何でもしますし、お金が必要なら、高校生になってからバイトして稼ぎます。お願いします!」
 ぺこんと勢いよく土下座したら、ごんっと床に頭をぶつけて華鱗は小声でイタッと呻いた。つくづく間抜けな少女だと呆れた八咫は、薫り高い珈琲をすすりながら少し考えた。もうすぐ真夏の盆の時期だ。雇っている通いの家事手伝いの中年の女性から、今年は盆に休みを取りたいという話を受けている。
 別に彼女が居なくても数日くらいなんとかなるが、いつも世話になっているのだからたまにはゆっくり休暇を取ってもらうのも悪くないかもしれない。
 それに少し、華鱗に興味が湧いていたのも確かだ。
「中学生から金を巻き上げるわけにはいかない。その分、掃除や洗濯をして働くなら、貸してやってもいい」
「本当ですか!?」
 目を輝かせた少女に、八咫は釘を刺すのを忘れなかった。
「その代わり、お前は未成年なんだから、きちんと両親の了解を得ること。誘拐犯として訴えられるのは御免被る」
「もちろんです! 迷惑はかけません! 頑張って働きます!」
 気合い十分である。
 八咫は笑顔の華鱗に向かってにやりと口角を上げて告げる。
「ただし、お前の話が本当だったらな。明日俺の前で化けてみせろ。本当に魚になれるんだったら、ひと夏、貸してやる」
 少々意地悪な条件だったかもしれないが、華鱗はまさしく飛び上がって喜んだ。
 その様子を見た八咫は、車椅子のロックを外してくるりと方向転換して別の部屋へと華鱗を連れて行った。そこには大きなコンピュータが並んでいて、八咫が操作した一画だけを見てパソコンだと理解した。そこらに並ぶ分厚い本は英語だらけで読むこともできない。
 パソコンを起動させた八咫は有名な通販サイトを表示させると、華鱗を側に手招きした。
「なんですか?」
 きょとんとする華鱗に、彼は本気で呆れてみせた。
「馬鹿が。まさかずっとその恰好でいるつもりか? 近くに店はないが、今は通販という便利なものがある。金はあとで保護者に要求するから、必要なものを注文しとけ。普段着なり水着なり下着なり、女は色々と物入りだろう? そんな姿でうろつかれているところを見られたら俺が逮捕される」
「あっ」
 借り物のバスローブ姿で、しかも水着も海に流されたということを思い出した華鱗は耳まで赤くなったのだった。

 結局、華鱗の身の上話が真実だというのは翌日明らかになった。
 バスローブ姿のまま海に入って行った彼女が深くなったところへちゃぷんと潜った瞬間、バスローブだけがぷかりと浮かんで、小柄な少女の身体がかき消えた。その代わりにイルカに似た生物が現れて、入り江をくるりと回ったと思うとばしゃんと三メートルほど垂直に跳ねてみせた。
 まるで水族館のショーのようだった。
 その生き物は浮いたままのバスローブの方へ泳いでいくと、口でくわえて岩陰の方へ向かっていった。そして岩を伝うように八咫の前に現れたのは間違いなく華鱗だった。
 じゃぶじゃぶと浜に上がってきた彼女は笑顔で上を向いて尋ねた。
「信じてもらえましたか?」
 言われるまでもない。手品であっても、このプライベートビーチに五メートルを超えるような大物が入り込むことはまず、ありえない。
 朝一で華鱗の父親と話をしたが、よろしくお願いしますと言われてしまったのだから、これ以上疑う必要性を感じなかった。
 バルコニーから眺めていた八咫は深々と頷く。
「納得した。だが、なぜ中学卒業までに泳げるようにならなければならないんだ? それだけ泳げれば十分だろう?」
「万が一の時、人前で変身しないように、です。祖母は自制心を鍛える修練だと言っていました」
「まあ、公になったら面倒なことになるだろうな。親の監視が外れる前に特訓をするのは理に適っている」
 階段の下に用意していた別の乾いたバスローブに着替えて階段を上ってきた華鱗に向けて、八咫は面白そうに笑いかけた。
「陸に上がった人魚姫は喋れなかったそうだが、そうでもないんだな」
「童話の『人魚姫』ですか?」
「ああ。まあ、アンデルセンはグリムと違って民話より創作がメインで、作り話なんだから当然か」
 そうして二人の共同生活は始まった。

「そういえば、八咫さんは何の仕事をしているんですか?」
「SE」
「えすいー?」
「システムエンジニア。ソフトウェア開発とか。年間億単位の稼ぎがある」
「億ぅ!?」

「お前ほんっとーに泳げないんだな。なんでそんなあっさり化けんだよ」
「お、溺れるかもって思うと、つ、つい……」
「ビート板でも買うか?」
「はう……」

「いまさらですけど、八咫さんって何歳ですか?」
「お前の倍」
「……二十八歳!?」
「だから、大人の義務としてお前を預かるって筋を通したんだろ。人を何だと思ってるんだ」

「うわっ 八咫さん上手! 腕の力だけでよく泳げますね!?」
「こういうのは慣れだ。俺の場合は小さい頃から腕の力だけで移動してきたからな。そもそも人の体は浮くようにできてるんだ。あとは推進と方向転換さえしてやればいい」
「……なるほど……」

 盆を過ぎる頃になると、華鱗も次第にパニックを起こすこともなくなり、両手両足で泳ぐことに慣れてきたようだった。そこまで来れば若さがものをいう。泳ぎはどんどん上達して行った。
 八咫は一日の殆どをパソコンの前で過ごしていたが、これは彼の仕事だから苦情をいうわけにもいかない。足の付け根から先のない彼は人前に出ることを嫌うらしく、打ち合わせもウェブを通じて行っている。
 外に出ないで飽きないのかという問いに、彼は平然と飽き飽きしていると答えた。
「だけどまあ、人混み嫌いだしな。好奇の目で見られるのは慣れてるが、不快なのに変わりはない。それに、これだけ自然に囲まれてると気分転換には困らない」
「確かに素敵な場所ですけど……」
 目の前には海が、周囲には緑が広がっていて、人家はない。
 夜は波音と葉がざわめく音が重なって区別ができないくらい静まり返る。明かりがないから星も良く見えるし、華鱗も覗かせてもらったが、八咫の所持している天体望遠鏡はかなり高額で倍率も良くて、土星の輪もはっきりと拝むことができた。
 中学生の身には羨ましすぎるロケーションと設備だ。しかし、それにしても人気がなさすぎる。田舎育ちを自覚している華鱗でさえ寂しさを感じるくらいだ。
「彼女とか、作らないんですか?」
 素朴な疑問だった。
 むしろ思春期まっただ中の華鱗に取って、いい歳した男性が、しかも定職についていてものすごい収入がある人が結婚しないことが不思議だった。最初はとっつきにくいと思ったが、八咫は優しくて面倒見もいいし、大人としての良識も持ち合わせている。
 身体障害を抱えていても自分のことは自分でできる人だし、誰とも逢わなくても身だしなみに気を遣っている。髪は月に一度、理髪師さんに出張散髪をお願いしているらしい。
 華鱗から見ても、顔は正直、イケメンに分類されると感じる程で、時々ドキッとしてしまうのは秘密である。こんないい男を放っておく女性の気持ちが理解できなかった。
 しかし、八咫は興味なさそうに珈琲をすする。
「人付き合いは疲れるからな。興味ない」
「ええ、勿体ない!」
 彼にとってはその反応の方が意外だった。
「そんなことないだろう」
「そんなことありますよ! 恰好良いのに」
「そう言われてもな」
 食後の余韻を楽しむ会話は毎日交わされていた。
 八咫は今時の女子中学生を珍獣を観察する感じで面白がっていたし、華鱗は滅多にない年上の社会人との会話に興味津々だった。
 そこそこ親近感はわいていたものの、もうすぐ八月が終わる。学生にとっては夏休みの終わりだ。その前に華鱗は家に帰らなければならない。実際、明後日には両親が礼も兼ねて直に迎えに来る予定になっている。
「そういう華鱗はどうなんだ? 中学生といったら恋愛に羽目を外せる年頃だろう」
「そんな余裕はありません。全然泳げなかったんですもん。ボク、大学は東京に行きたくて、勉強も必死でしたし。できれば高校も大学の付属校に行きたいんです。正直、この夏休みを全部泳ぎの練習に費やすなんて、先生に知られたら叱られます」
「お前、中学生にしてはしっかりしてるのに、一人称だけは何度注意しても直らないな。『ボク』じゃなくて『私』だろ」
「そんなの面接の時だけ猫被ればいいですもん」
 図太い神経でそう唇を尖らせた華鱗に、男は人生の先輩として首を横に振る。
「そういう癖は普段から直さなければ意味がない。第一、大学付属を受けるつもりなら高校での生活態度が全部筒抜けだ。今のうちに直すことをお勧めする」
「……八咫さんだって、自分のこと『俺』って言うじゃないですか」
 愚痴るような反論は嘲笑の返事がきた。
「仕事相手は基本外国人で、仕事も全部英語だからな。英語の一人称くらい把握してんだろ?」
「……I、My、Me、Mineのアレですか? それずるくないですか? 英語の一人称は日本みたいにたくさんないから誤魔化してるってことでしょう?」
「俺だって受験や就職の時はちゃんとしてたぞ。きちんと大学院まで出て、一人前に就職して仕事をして、信頼されるまで苦労したんだ。親の理解があったからこそだが、親の力に頼らずここまでできた。だが、お前はまだその道の途中だろう? 普段から規律正しい生活をして気を引き締めていかないと、思わぬところで足を掬われるぞ」
 実感のこもった言葉は親や学校の教師よりも重みと説得力があった。
 彼の場合は障害者というハンディキャップもあったのだ。重みがあって当然である。
「むー……普段から気を引き締めて、か……」
 思わず唸った華鱗ははっとした。
「って、誤魔化されませんよ!? 八咫さんの彼女の話をしてたんでしょう!?」
「今現在、付き合っている女性はいない」
 ちっと舌打ちした八咫だった。
 いい感じに誤魔化されかけていたのに気が付くとは堪がいいことだ。そう、純粋な『人』でないせいか、彼女は野生の堪とも言うべき第六感が実に冴えている人だった。
 八咫は車椅子を動かして、開けっ放しの窓からバルコニーへ出る。
 相変わらず気持ちのいい風と音と光に満ちた空間に目を細めて、頬杖をついた。
「なんで女っていうのはこういう話が好きなんだろうな」
 後を追いかけてきた華鱗は鼻息荒く再度唇を尖らせた。
「単なる好奇心です。っていうか、八咫さん往生際が悪いですっ」
「……人魚姫みたいな話なんだよ」
「へっ?」
 苦り切った表情で細くなった月を見上げた八咫は、深々とため息を吐いて、正真正銘、人魚の少女に視線を移した。
「アンデルセンの『人魚姫』。あれ、人魚姫が言葉を喋れたら幸せになれたと思うか?」
 唐突な質問だった。
「人魚姫が、喋れたら……?」
 確か、彼女は美しい声と引き替えに人間になったはずだ。自らも人魚なだけに、その童話は暗唱できるほど読み込んだことがある。しかし、彼女が喋れたらという『もしも』の話は考えたことがなかった。
 八咫は海の方へ目を向けて、ぽつりと呟く。
「人魚姫が言葉を喋れたら。……幸せになんてなれないし、彼女は王子を殺すことを選んだだろう」
「え……?」
「人魚姫が人魚だったという証拠はないし、彼女が浜に打ち上げられた時にはもう、王子と王女は恋仲だった。醜い三角関係の果てに原作とは別の意味で悲恋に終わる。人魚姫は喋れなかったからこそ、泡になって消えずに天に召されたんだ。喋れないからこそ、綺麗なイメージのまま物語は終わる。たとえ悲恋に終わっても、それは彼女にとって幸いだったんだろう」
 淡々と語られた台詞に、華鱗は口を挟めなかった。
 意味を考えるだけで精一杯だったのだ。
「この歳になれば、嫌でも人並みの恋愛を経験するもんだ。結婚を考えたことだってある。結局しなかったけどな」
「……」
「いい友人だったし、いい恋人だったよ」
 そう呟く八咫の横顔を見た華鱗は、胸の動悸が速くなるのを抑えられなかった。ひと月近く一緒にいたが、今まで見たこともない程、彼は優しい表情で遠くを見ていた。今未だその人に恋をしているような切ない表情だった。
「一応のこと大学院も卒業したし、就職もできた。SEとして結構優遇された条件だったから、結婚を考えた。普通に指輪を買って、普通にいい店を予約して、結婚を申し込んで、断られた」
 務めて淡々と語ろうとしているのが華鱗にはわかった。彼の中で、その恋はまだ終わっていないということも。
「別に仲が悪かったというわけじゃない。付き合い始めて三年、当然の流れだ」
「……なら、なんで、断られたの?」
 核心に迫る問いに、泣き笑いするような表情で彼は答えた。
「友達としてはいい。恋人として付き合うのも楽しい。だけど、あなたと家庭を築く将来が想像できないといわれた」
「……」
「あなた自身は有能で性格も良くて、家柄も文句はない。だけど、結婚式の後がどうしても想像できないんだそうだ。子供ができて、これがあなたの父親よと胸を張る勇気も、子供に障害が遺伝する可能性を承知した上での子育てをする気力も、ないと。だから別れましょうとはっきりと断られたよ。これ以上一緒にいても、お互いのためにならないからと」
 それは足の障害だけを理由に結婚を断られたということだが、彼は苦笑した。
「彼女は勇気のある人だ。普通、心の中で思っていてもそこまではっきりと言えないからな。だから、諦めた」
 諦めきれない想いはあるが、仕方がないと八咫は首を振る。
「むしろ気付くべきは俺の方だったんだ。義足技術が発達して車椅子なしで歩けたとしても、自分に足がないことは現実なんだと。そこから目を背けなければ、彼女に嫌な思いをさせる前に別れを切り出せたはずなんだ。彼女のサインを見逃し続けることもなかった」
 人魚姫は、自分の手が届かない相手に恋をする物語だ。
 叶わない恋と知って、想い人を殺すより自分が死ぬことを選んだ人魚姫。
 彼女の悲恋はあまりにも潔いものだった。
「障害者を障害者と糾弾するのは、彼女にとって自分を許せないほどつらいものだっただろうに」
 人魚姫のように、自分と相手との本当の距離を理解していれば、傷つけることもなかった。
 そう語る八咫の横で、大人の恋愛の複雑さに華鱗は顔を歪めていた。所詮中学生の自分が知る恋心は、せいぜい相手と少しでも長く一緒にいたいと感じる、その程度のものだ。結婚や家庭などというものは遥か先の出来事で、自分たちさえ良ければいい付き合いなのだ。
 だが、華鱗には別に思うことがあった。
「……贅沢です、その女性」
「そうか? 人として当然の心理だと思うが」
「そうですよ。ボク……私なんて、子供が産まれたら男女構わず魚に変身する子なんですよ。絶対に!」
 八咫が横に立つ華鱗を見上げると、見事なふくれっ面をしていた。
「私の父と母はいとこ同士で、二人とも自分たちの体質をわかった上での結婚でした。産まれる子が魚に化けるとわかってて、普通の人となんか結婚できません。だから、魚神山家はまず親戚以外と結婚しません。吹聴されても困るし、妖怪扱いも嫌ですから、自然とそうなります」
 恰好いいなと思う異性がいても、自分の素性がバレるのが怖くて一歩も踏み出せない。それどころか引いてばかりだと、十四歳の少女はぶすくれる。
 あまりにも不機嫌な顔だったので、八咫は思わず吹き出してしまった。
「なるほど。華鱗にとっては贅沢の極みか」
「当前です! 八咫さんみたいな素敵な男性を袖にするなんて、頭おかしいですよ! 私が結婚相手に立候補したいくらいです」
 言ってから、華鱗は慌てて顔を背けた。
「も、もちろん、冗談ですよ。八咫さんが恰好良いのは本当ですけど」
 自分が魚に化けるところを見てもなお、平然と子供扱いしてくれた。それが華鱗には意外で、新鮮で、心地よかった。
 学校の親友だって、自分が魚になるところを見たらきっと化け物扱いするだろう。そのくらい華鱗にもわかっていた。
 複雑な乙女心は知るよしもないが、八咫は先程とは違う苦笑を浮かべ、やがて笑った。
「褒めてくれるのは嬉しいが、未成年に手を出したら俺はただの変質者だぞ。大人になってから出直してこい」
「へー。大人になったら結婚を申し込んでもいいわけですか?」
「考えるくらいはしてやるよ。今のままじゃ女扱いもしてやれん。身長はともかく、胸もなし、尻もなし、色気もなし。どこに魅力を感じろってんだ?」
 あまりにぶっちゃけた発言に華鱗は顔を真っ赤にした。
「セクハラです! 今のは絶対セクハラですからね!?」
「本当のことだろうが」
 けらけらと笑う男の顔を思い切り引っぱたきたい衝動にかられながらも、真実であるだけにそれもできない。同年代の女の子より発育が遅れている自覚はあったが、年上の男性に言われると何だか悔しいものがある。
 売られた喧嘩だと思って華鱗は腰に手を当ててキッと八咫を睨んだ。
「後悔しても知りませんからね。ウチは代々美男美女の家系なんですから。人魚の血筋なめたらいけませんよ? 八咫さんなんてかるーく誘惑できるくらいになっちゃいますから!」
「そりゃあ楽しみだ。できるもんならやってみろ」
 大人の余裕たっぷりに笑われてカチンときた彼女は、ぷいっとそっぽを向き、踵を返して室内へ戻って行った。やはり乙女心は複雑だ。
 八咫は瞼を閉じて軽く息をついた。
 長いことひとつの恋に囚われてきた。叶わない恋、届かない人に焦がれてきた。だから世界が嫌いだった。自分にまともな足があればと嘆いたことは数え切れない。母を責めたことも、自殺を考えたこともあった。
 だが、
「確かに、本物の人魚姫に比べれば、贅沢な悩みかもしれないな」
 件の彼女とは今も時々連絡を取り合っている。何のことはない、仕事上の話だ。良好な関係に変わりはないし、つい先日、彼女から結婚式の案内状が届いたばかりだ。出席するつもりはなかったが、この際、気持ちの節目として素直に祝福しに行ってもいいかもしれない。
 このひと月余り、予期せぬ客人の出現で久しぶりに笑える日々を過ごせた。
 こんなに笑ったのは本当に久しぶりだった。
 気持ちを切り替えるには十分なほど。
「人魚姫も最後は王子と王女の結婚を祝福して逝ったんだしな。ここは男気を見せる場面か……」
 そう呟いた八咫は、随分と長い間、バルコニーで風に当たっていた。込み入った事情に踏み込みすぎたかと、華鱗が心配して様子を見に来るまで、ずっと。


 翌年の春、手紙が届いたと家事手伝いの女性が笑顔で仕事部屋を訪れた。
 去年の盆に来た女の子が、見事志望高等学校に受かったとの報せだった。同封された写真の笑顔でブイサインをした、真新しい制服姿が初々しくて可愛らしかった。

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