第42話 家出3
最初から決めていたかのようにマスターは言った。
「うん……」
私はうなずいた。
「だから今日のところは帰りなさい。一度もお母さんに会わないで、喜和子を泊めたら、余計こじれるだろう」
確かにマスターの言う通りだ。
大体、マスターは、母が聞く耳持たずで、私とこれほど険悪になっていた事など何も知らなかったんだ。
そこにきて私が唐突にマスターのもとに飛び込んだんだから。
マスターにしてみれば、戸惑いを隠せないかも。
ゆっくりと諭すように言われて、自己嫌悪の波が緩やかに押し寄せてきた。
やっぱり……早まったって思う。
「私ったら……考えなし……」
自嘲気味につぶやいた。
違う違うと、マスターはかぶりを振った。
「そんなことない。喜和子が来てくれて嬉しかったよ。だからさっき俺、すんごく喜んでたろう?」
よしよしするみたいにマスターは私の頭を撫でた。
マスターの手の平から、大人な対応がじわじわとしみてくる。
これが歳の差なんだろうか。
もしかしたら、私が歳の割に幼稚なのかも。
仕事の面では、しっかりしてると言われるけれど。
そこに要求されるのは、事務処理能力プラスちょっとした配慮だ。
慣れだってあるだろう。
一方で私には生活力みたいなものが、欠けているのかもしれない。
大体、宝くじに当選して、見境失って散財したのがいい証拠じゃない。
「喜和子が静かだ」
何にも話さなくなった私にマスターが言う。
「んー。マスターって大人だなぁと思って……」
ほんとに大人だよ。
12年経ったら、マスターとおんなじように物事を考えられるようになるかしら。
「まぁ……無駄に歳は取っていないって事だろう」
ぎゅう……と、私のお腹が鳴った。
よりにもよって。こんな大真面目な場面で……。
マスターは、おや? と言う顔をしたかと思うと、腕時計に目をやった。
「7時半か……。食事して、それから喜和子の家に行こう」
マスターは、コタツから立ち上がると、私に部屋の鍵をほうった。
「車を出してくるから、鍵かけといて」
マスターは、もはや用のなくなった私のボストンを手に、外に出て行った。
私を家まで送っていくと言うことすなわち母に会うという事。
今日なら母に会うことが出来るだろう。
マスターと二人、私の家に向かう途中にあるファミレスに寄った。
明るい店内の窓際の席にマスターと差し向かい。
落ち込んでいても、体は気持ちに関係なく機能しているようで、ちゃんとお腹は空く。
それでもこれからの事を考えると、ボリュームのあるものは食べられなかった。
比較的軽めにと選んだ雑炊セットのレンゲを手に、はぁ……と一つため息をつく。
「どうした?」
「だって、あの頑固な母だよ? マスターに何を言い出すか心配」
「大丈夫。俺、打たれ強いから」
ここは、マスターの打たれ強さに期待するしかないのかな。
「家に着くのは……あと30分ちょっとくらい?」
「食事を終わってから向かえば、大体それくらいだろう」
となると、大体30分後には、マスターと母が対面していることになる。
私が家を飛び出して、母が怒っている状態で会う事になりはしないだろうか。
いいえ。はなっから、反対している母には、いつ会っても同じ事。
「ホントは、俺もちょっと緊張してるんだよ……」
マスターは、和定食をほおばった。
「うん……」
手提げバッグから携帯を取り出そうとして、手の甲がチョコの袋に触れた。
そう言えば、まだチョコを渡していない。
今日がバレンタインだと言うことは、頭にはあったんだけど。
家を出てきた話になったせいで、チョコ渡すのを忘れていた。
「マスター。これ……」
包装紙でラッピングしたチョコを差し出した。
マスターの眉がピクリとあがる。
「昨日……作った」
「そうか」
袋を受け取ると、マスターは目を細めた。
もっとロマンチックなシチュエーションで渡せれば良かったけど。
私の家出騒ぎの前には、本来、今日のメインイベントだった筈のことが、ついでみたいになってしまった。
「ありがとう」
マスターは、小脇に畳んだコートのポケットに袋を納めた。
チョコがしまわれた事を見届けると、あらためて携帯を取り出す。
もしかしたら、マナーモードにした携帯に家からの着歴でも残っているかもしれないから。履歴をチェックするけれど、どこからも電話があった形跡は無かった。
母は、私に何を言っても無駄だと思っているのか、意地になって連絡をよこさないのか。それともこれから連絡してくるつもりなのか。
なんにもないのがかえって不気味だった。
雑炊を一匙、二匙。だし汁と一緒に味わいながら、ちらちらと壁にかかった時計に目をやった。
もう八時を回っている。
マスターの食器もすっかり空になった。
「さてと……行くか」
マスターが伝票に手を伸ばす。
私は、手にした湯飲みを盆に戻して、うなずいた。
ファミレスを出たら、私の家まで10分とかからない。
マスターが家の前に車を横付けすると、二人一緒に玄関先に立った。
ドアを開けて、そのまま入ろうと思ったけれど、あえて手前のドアホンを鳴らす。
はいと言う声とともに現れたのは義姉だった。
「喜和子ちゃん……」
義姉は、すぐに一緒に並んでいるマスターに気づき、軽く目礼すると、「お義母さん」と叫びながら家の中に引っ込んで行った。
「喜和子!」
母がパタパタとスリッパの音を響かせて、小走りに廊下を駆けてきた。
私は、マスターと一緒に靴を履いたまま並んでいる。
母がマスターと話してくれない限り、家の中に入るつもりはないから。
母が、マスターと私を見比べている。
マスターがゆっくりと頭を下げ、母と挨拶を交わす。
「喜和子を……送ってきてくださったんですか」
「はい」
「内田さんのところに行くと言って、朝、家を出て行ったのですけど……」
「ちょっと早急だと、喜和子さんには話しました」
息を呑む思いで、傍らのマスターと母のやり取りを聞いていた。
私が話を差し挟む余地は、全く無い。
「そうですか。それで……。ありがとうございます」
「それで、今日は、お願いにあがりました」
おもむろに切り出すと、マスターは一気に言った。
「喜和子さんと結婚させてください。歳も離れているし、図々しいとは承知の上ですが」
母とは険悪で、この緊迫した雰囲気の中、それでもわずかにこそばゆい感情がわきあがってくる。
「仰ることはわかりました」
母は静かに言った。
何だ、マスターの話す事なら、一応は聞いてくれるんじゃないの。
「申し訳ありませんが、今日は遅いのでこれで。喜和子とも話したいので……」
何? 母さんったら、マスターを帰そうって言うの。
「母さん!」
「わかりました。失礼します」
マスターは、ガチャリとドアを開けて外に出ていってしまった。
「喜和子は中に入りなさい。話があります」
ぴしりと言い放つ母の言葉に、私はマスターを追いかけたかったけれどその場から動けなくなった。
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