第41話 家出2
仕事を終え、残業もそこそこに職場を出る。
一瞬、歩こうかと迷ったけれど、荷物が気になってバスに乗ることにした。
他の乗客に混じりバス停に立つ。
2月中旬の外は、大分日が長くなってきたようで、あたりはうっすらと明るかった。
行き交う車と道路向こうに立ち並ぶ商店街を視界に捉えながら、今朝方の事を思い返す。
つい感情的になって、後先考えずに荷物をまとめて家を出てきてしまったけれど……。
どうしよう。これでよかったのかな。
それに勝手に押しかけてマスターは何て言うだろう。
膨らんだ手提げバッグからは、手作りチョコを入れた袋の端っこが覗いている。
本当は……今日は、普通に仕事帰りにマスターの家に寄って、いつもみたいに一緒に過ごして帰るはずだったのに。
やがてやって来たバスが停車すると、私は手提げバッグとボストンの持ち手をひとまとめに持ち、バスに乗り込んだ。
繁華街の停留所で降りたのは、私一人。
そのまま乗っていれば家まで行けた。
けれどここで降りてしまったら、このままマスターのもとに行くしかない。
ちょっと短絡的だっただろうか。
左手のバッグの持ち手が、まるで後悔の度合いを計るみたいに食い込んでくる。
でも聞く耳持たない母だもの。こうするしかなかったんだ。
もっと私の話に耳を傾けていてくれたら、ここまでの事はしない。
私は、はずみをつけてボストンと手提げを右手に持ち替えると、空いた左手で空気を漕ぐように歩いた。
やがて『黒薔薇』の看板と木製のドアが目に入ってくる。
脇道からその後ろの同じ敷地内にあるマスターの家に回り込むと、少しためらった後、インターホンのボタンを一気にぐっと押し込んだ。
インターホン越しの返事はなく、すぐにマスターが現れ、ドアを開けてくれた。
今日は『黒薔薇』定休日で、ましてやバレンタインだから、流れ的にマスターの家を訪れるのはごく自然な事。
一つ、様相が違うのは、私の手にしているボストンバッグだろう。
マスターは、ドアを半開きにしたまま、一瞬、怪訝そうな顔で私を見つめた。
「どうしたんだ? その荷物……。とにかく中に入って」
茶の間に私を座らせると、マスターはすぐにキッチンに向かった。
伯父さんから『黒薔薇』を譲り受けて以来、マスターはここで、ずっと一人で生活している。
他に使われていない部屋もいくつかあるらしい。
確かに一人の世帯に伯父さん夫婦のこの家は広すぎる。
ここに来たのは、今日が初めてではないけれど。
飾りっ気のない部屋。
飾り棚に置かれた光時計が6時半を指している。
やがてキッチンから香ばしいコーヒーの香りが流れてきた。
マスターの手には、マグカップが二つ乗ったお盆が乗っている。
マスターは、コタツの角をはさむように座り、自分のコーヒーに口をつけた。
私もつられるようにマグカップを両手に持つと、熱々のコーヒーにふぅっと息を吹きかけ、そっと口をつける。
一口。そして、もう一口。
舌一杯に苦味が広がり、コーヒーの味とともに鼻腔から吸い込む香りをも味わう。
マスターのコーヒーには癒し効果があるんだろうか。
気持ちが少しずつ穏やかになっていくようだ。
マスターは、何も言わずにじっと隣で私の様子を見つめている。
「落ち着いた?」
コトリとマグカップを置いたところで、マスターが言った。
「うん……」
「俺との事、反対されたからか?」
この大きな荷物を見れば、容易に想像がつくと言うものだ。
「母にマスターに会ってって言ったんだけど。会う必要ないって言うの。どれだけ言っても母は頑固で、しまいにはそんな話聞かないって。だから……」
「それで、家を出てきたのか」
畳み掛けるようにマスターが言い、私はコクンとうなずいた。
コタツの上掛けの模様に目を落としていると、再び母のきつい言葉がよみがえってくる。
「そっか……」
マスターは、また一口コーヒーをすすった。
「マスター。気を悪くしないで。母がわからずやなだけなの」
「やっぱり、歳が離れているからなぁ」
「それは言っていたけど。でも、本当はそんな事じゃなくて、会わないのは、反対するはっきりした理由がないからなの。きっと。兄は、割と好意的なんだけど……」
マスターは黙って私の話を聴いている。
「だから家を出てきた」
私は、マスターの顔を見据えきっぱりと言った。
母の反対になんて屈しない私の決意をマスターにわかって欲しくて。
「喜和子……大胆だなぁ」
少しの沈黙の後、マスターがぼそっと言う。
それからボストンバッグに目をやると、クスクスと笑った。
マ、マスターったら……なんで笑うの?!
私は、悲壮な思いでここまでやって来たのに。
私の不満げな表情を見て取ったのか、マスターは、慌てて言葉を付け足した。
「あ。ごめん……今、真剣な話をしてたのに」
「何か可笑しかった?」
「いや……可愛いなぁと思って……」
は? 予想外の言葉にどきっとして顔が熱くなる。
で、でも笑うとか可愛いとか、そう言う場合じゃないと思うんですけど。
次の瞬間、私はマスターにぎゅっと抱きしめられていた。
とっさの事に離れようと、少し体を浮かせてマスターのほうを見た。
厭なわけじゃないけど、意外な反応にびっくりしてしまったから。
けれど、マスターはそのまま唇をはさむように軽く吸ってきたから、ますますうろたえてしまう。
「うわぁ……」
キスした後に出る言葉じゃないと思う。
でもマスターの言動が意味不明なんだもの。
「何だ。今、初めてしたわけじゃないのに……」
マスターは不満げな表情だ。
そうじゃなくて、今、このタイミングじゃないと思う。
体を離し、呼吸を整えた私にマスターは言った。
「わざわざ時間を取って会って欲しいと言わなくても、こちらから会いに行って、お願いすればいいだろう?」
そんな簡単に母が応じるとは到底思えない。
「もしも駄目って言ったら?」
「そしたら、もう一回、会いに行く」
マスターが言い放った。
「それでも駄目って言いそうだよ。うちの母」
「そしたら、もう一回」
根比べに持ち込もうと言うのか。マスターは……。
「許可が出るまで会い続けるの?」
「いや、4度目は無いよ」
マスターは微笑んだ。
「3回お願いして駄目だったら、喜和子がここに来る」 |