第37話 母の反対
「じゃ、おやすみ!」
そのままリビングを出ようとした。
「待ちなさい。喜和子」
ぴしっとした母の声に引き戸に手をかけたまま、足そのまま振り向く。
「話したからこれでいいでしょう。まだ何かあるの?」
母は、あまり面白くなさそうな表情だ。何か文句があるんだろうか。
「『黒薔薇』のマスターって、結構歳が離れているんじゃ……。一体いくつなの」
「38歳」
別段、隠す事でもない。そのままを言った。
「あなたと一回りも違うじゃないの!」
「うん。でも話だって合うし、あんまり年齢差感じないから」
「喜和子。どう言うつもりなの」
声を荒げる母。どう言うつもりって、マスターは独身だし、なんら問題ないはずだ。
別に不倫の関係じゃあるまいし。
母の話は、長引きそうだ。
まして、今までテレビを見ながら待っていたとすると……。
私は、リビングの椅子に母と向かい合わせに腰掛けた。
「私。結婚するつもりだから」
きっぱりと言い放つ。
母は、一つため息をついた。
「あのね。喜和子。よりにもよって、そんな年齢のいった人と一緒にならなくても。喜和子ならもっと若い人だっているでしょう? それこそ郵便局にだって男の人はいるはずよ」
歳、歳って、何の関係があるんだろう?
まず、第一に重視されるべきは、人柄のはずだ。
私は、マスターの事が好きで結婚したいんだから。
大体、私だって二十歳やそこらの頃と違って社会人経験もある。
結婚に値する人物かどうかの判断能力くらい備えている。
だから、母が賛成してくれなくても、双方の合意で結婚は出来るんだ。
自分の結婚相手は、自分で決める。
別に母が結婚するわけじゃあるまいし……。
「だって、郵便局の人はなんとも思わないし。私は、マスターが好きなんだもの」
母は、少し考えたようにゆっくりとした口調で言った。
「12歳も離れていたらね……。確実に男の人のほうが先に逝くのよ。その時寂しい思いをするのは、喜和子なのよ」
それは、そうだ。平均寿命が女性の方が高いと考えれば、男性が少し年下くらいで丁度釣り合いが取れているのだろう。
でもそんな事を意識しながら結婚相手を探すなんてしないでしょう。
「とにかく、私は許しませんからね……38歳って言えば、うちの隆生よりも年上じゃないの」
隆生とは、うちの34歳のすでに頭髪が怪しい兄のことだ。
きっと母は、突然の事でパニクっているに違いない。
もう少し落ち着いたら、話を聞いてくれる余裕も出てくるだろう。
「ちょっと、母さん……。落ち着いてよ」
「冷静になって欲しいのは喜和子のほうよ。付き合うのと、結婚するのとではまるっきり違うんだから。今は、相手の事が好きで舞い上がってるかもしれないけど」
「付き合い始めたのは最近だけど、マスターとは知り合って長いの。だからちゃんと人柄もわかってる。じゃぁ、私、疲れたから寝るね」
これ以上、話していても会話は平行線を辿るだけに違いない。
私は、さっと立ち上がると、自分の部屋に戻った。
なんてこと……。
ほんの数時間前に受けたマスターからのプロポーズが、今の母との会話でぶち壊しだ。
私の同級生が結婚したと言っては羨ましがり、早く相手を連れて来いと言ってたくせに、実際、結婚したいと言ったらこれなんだもの。
そのまま絨毯の上に座り込むと、今日、使ったバッグを引き寄せた。
膨らんだバッグの中身は、ペンギンのぬいぐるみだ。
取り出すと、目と目の間が離れた癒し系の表情のそれと目が合った。
今日、UFOキャッチャーでマスターが取ってくれたもの……。
そう。今日は、久しぶりにマスターと会っていたんだ。
ほんの一時間程前まで、マスターと一緒にいたんだもの。もっと楽しい気分でいなきゃ。
私は、そっとぬいぐるみをベッドの枕元に置いた。
母がなんと言ったって、マスターと一緒に暮らそう……。
***
「何なんだよ。母さんも喜和子も黙り込んじゃって……!」
呆れた様子で兄が言う。
朝食のひと時。
今日の杉木家は、珍しく全員が揃って朝食のテーブルを囲んでいた。
テレビから流れるニュース番組は、思考の上っ面を撫でて行くだけで、頭には残らない。
もっとも朝につけているテレビは、時計代わりに過ぎないんだけれど。
いつもなら、母がもっとあれこれと話すものの、その母が無言の食卓は、やたらとテレビの音声ばかりが響いていた。
困惑した表情を見せる義姉。
けれど義姉の立場なら甥と姪の世話に逃げられるからいい。
だから、ついに沈黙に耐えられなくなった兄が口火を切ったのだ。
母の機嫌を損ねるとしたら、昨晩の事しかない……。
母は相変わらず無言で、白ご飯を口に運んでいる。
「一体、何があったんだよ……」
母と私と……どちらともなく、兄が話しかけてくる。
お茶を一口すすると、母は吐き捨てるように言った。
「喜和子が結婚したいんですって!」
兄の眉がピクリと動き、へぇと言った表情を見せる。
まじまじと私を見て「そうなのか?」と。
私はコクリとうなずいた。
「そりゃあ、良かったじゃないか……」
「認めませんからね! 私は」
すかさず、母が言う。
「母さんが認めなくったって、私は自分の意志で結婚するから」
はっきりとした口調の応酬に兄は、驚いた様子で母と私を見比べてる。
「何だよ。相手の事が気に入らないの? 母さんは」
母は兄のほうを向いて、訴えるように話した。
「喜和子の相手。あなたよりも歳が上なのよ。一回りも違うんだから」
えっ……と声を詰まらせる兄。
「どんな人なんだよ……。喜和子の相手って」
「『黒薔薇』のマスター」
それだけ言えば、兄にもわかるだろう。
兄は、マスターの顔を思い浮かべるようにしばらく考え込んだ。
義姉は、会話に立ち入らないよう、部屋のインテリアの一部みたいに傍観している。
「ああ、あの人かぁ……」
思い出したらしく、兄の声のトーンが上がった。
「隆生。知ってるの?」
「うん。『黒薔薇』なら、何回かコーヒーだって飲みに行ってるし……」
兄は、納得したようにうんうんと一人頷くと、私のほうに向き直り言った。
「喜和子。見かけによらず、渋いじゃん。あはは……」
兄は、好意的に思ってくれているみたい。
「あははじゃありませんよ!」
母は、それだけ言い放つと、席を立ち、さっさと奥の部屋に引っ込んでしまった。 |