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内緒のラブストーリー
作:藤村香穂里



第36話 決心


 微動だにせず、マスターを見つめていた。
 喉がカラカラに乾いている。

「一緒に暮らす……」

 マスターの言葉をなぞる。
 マスターはうなずいた。

「喜和子。嫁に来い」

 今度は、はっきりと。
 思いもかけないマスターの言葉。
 そんな大事な事を食事ついでにさらりと言うなんて。
 とっさになんて言ったらいいのかわからなくなる……。

「あの……」

 何か言おうとして、言葉に詰まった。
 マスターは、フッと笑うと、コーヒーを一口飲み、受け皿に置いた。

「おっさんが図々しかったかな」

 ぽつりと一言。
 それから伏目がちに納得したように「まぁ、ね。付き合うならまだしも結婚となると……」

 違う。違うよ、マスター!

「それに喜和子は、もっと年齢のつりあった……」

 私が何も話さないうちにマスターはなおも話を続けようとする。

「待ってよ」

 これ以上、マスターに話させちゃ駄目だ。
 この人は、すぐにちょっと言ってみただけなんだって言い方をする。
 今だってそうじゃない。
 それって、マスター。
 自分が傷つかないためじゃないの?

「マスター。私。まだ返事してないよ?」

 それきりマスターは黙ってしまった。
 ふたり差し向かいのテーブル。
 沈黙が続く。
 喉の奥に痛みを感じる。
 その痛みが涙腺を伝って、涙がこみ上げてきそうだ。

「ちょっと、お化粧直ししてくるね」

 バッグを手に席を立った。
 カツカツとヒールの音を立てて、奥まった場所にあるレストルームに向かう。
 木製のドアを引く。幸い中には誰もいなかった。
 洗面台の大きな鏡に半身映し、上を向く。
 目を閉じると、溜まっていた涙が頬に熱い筋を引いた。
 こんなところで、大泣きしちゃ駄目。
 涙をハンカチに吸いとらせて、大きく息を吸って吐き出す。
 数回、それを繰り返した。
 涙の跡をファンデーションで押えて、紅筆で口紅を塗りなおす。
 くちびるに馴染ませて、鏡の中の自分をチェックした。
 26歳の身に結婚の2文字は、充分なくらい現実味を持っている。
 まさか……マスターがそこまで考えてくれるなんて思わなかった。
 
 気持ちを落ち着けて席に戻ると、そのまま二人、店を出た。
 もう夜の10時近い。
 学生時代なら、まだまだ宵の口とばかりに遊んでいたけれど、社会人になってからは、少なくとも職場の飲み会などで、日付を廻る事はほとんどなかった。
 時間を忘れて遊んでいられるとしたら、精々、久しぶりに会った友達くらいだろうか。
 マスターとのデートは精々11時位がタイムリミットに習慣づいていた。
 別にお互いにいい歳だし、遅くなったって構わない。
 夜の11時は、翌日、どちらかが仕事だから疲れを持ち越さないためだ。
 それに以前から、家の事を愚痴っていたから、一回り年上のマスターとしては、私の事を気遣ってくれているみたいだった。
 ここから、家までは、高速に乗って一時間弱かかる。
 助手席に座り、前を走る車のテールランプをぼんやりと見ていた。
 マスターと二人でいられる時間があと一時間。
 今度、いつ会えるって、一番聞きたい事だったけれど、聞けなかった。
 マスターだって仕事があるんだから、わがままを言って困らせたくなかった。
 そんな気持ちをすくい取ったかのようにマスターが口を開いた。

「次の休みは……3週間後にしよう」

 片手ハンドルで左手を軽く左足の上に載せた格好のマスターが明るく言った。

「え?」

 月イチなら丁度、一ヵ月後だと思っていたから、思いのほか早い日を指定したマスターに、思わず聞き返してしまった。

「一週間早める位のアバウトさがあってもいいだろ」

 確かに、一週間、違っても月が替われば月イチには違いない。

「そうやってだな。微妙に一週間ずつ、縮めていく……」

 私は、くすくすと笑った。
 マスターの気持ちが嬉しい。

「ホント? お店は大丈夫」

「なに。フルで働いてるから、俺が休みたいんだ」 

 3週間後にまたゆっくりと二人で会える。
 バレンタインは、過ぎているけれど……。
 ううん。チョコレートは、仕事の帰りに『黒薔薇』に寄って渡そう。

「今度は、私が計画年休取れるようにするね……」

「俺は自営だから、自分の勝手だけど、喜和子は無理するな」

 車の中で、マスターの口調は、すっかりいつものノリに戻っていた。 
 さっきの洋食屋さんでの言葉が、夢だったかもと思えるほどに。
 やがてハンドルを内側から逆手に回し、高速を降りる。
 ETC搭載のマスターの車はノンストップで、一般道に合流した。
 他愛もない会話を交わしながら、少しずつ家に近づいて行く。

 信号が赤に変わった。
 マスターがぽつりと言う。

「喜和子。あんまり重たく思うなよ」

「え?」

「なかなか会う機会がないと思って、ちょっと先走ってしまっただけだから……さ」

「マスター」

 さっきのお店での話だ。
 なんて言ったら、いいんだろう。
 ああ……すぐに返事をしなかったから。
 嫁に来いと言われた時に、すぐに「はい」と答えればよかった。
 けれど、少し時間を置いた今は。

「そうじゃなくて……」

 考えたけれど、上手い言葉が見つからなくて。

「私。カード決済赤字にしたり、マスターに面倒かけてばっかりで……」

 私は何を言っているんだろう。 

「喜和子の面倒なら苦にならないよ」

 そんな言葉にかっと頬が熱くなる。

「よろしくお願いします。あの、さっきの返事だけど……」

 かしこまって、やっとそれだけの言葉を搾り出した。
 マスターが私のほうを向いたけれど、その時、信号が青に変わった。

「ありがとう」

 それだけ言うと、マスターは車を発進させた。

 玄関先に車をつけてもらうのも気が引けて、少し家の手前で車を停めてもらう。
 玄関先まで小走りに駆けると、電燈の下に立ってマスターに手を振った。
 ハザードを2,3度点滅させてマスターの車が走り去る。
 またしばらく二人きりで会えないと思うと切ないけれど。
 それでもマスターと結婚の約束をした事で、しっかりと気持ちがつながっているのだと感じる事ができる。

 時計は11時10分を指していた。
 そっと玄関のドアを開けて、靴を脱いであがると、リビングから明かりが洩れている。
 母が、ソファに腰掛け、夜のニュースを観ていた。
 もしかして、私の帰りを待って……って事はないよね。

「ただいま」

 顔だけ出して、すぐに部屋に行くつもりだった。
 そうしたら、母は渋い表情で言った。

「喜和子。遅かったのね」

「あ。今日は、ちょっと遠出したから……次はこんなに遅くならないようにするね」

「喜和子の相手って、一体、どういう人なの? そろそろ言ってくれてもいいんじゃない?」

 歳暮れの叔母さんの家での出来事から、もう一ヶ月近くが経っている。
 それにマスターと結婚の約束をした今となっては、もう言ってもいいだろう。

「実はね……『黒薔薇』のマスター」

「え? 今日、『黒薔薇』に行ったのね?」

「そうじゃなくて……私の付き合ってる人が、『黒薔薇』のマスターの内田さんなの」

「ええっ!?」

 母は大声で叫び、それきり押し黙ってしまった。


 いつもお読みいただきありがとうございます。
 現在第37話を執筆中で、2000文字ほど書いているのですが、悪性の風邪に悩まされ、本日のアップは難しい状況になってきました。
 仮に37話を書き終えたとしても、見直しをかける時間が取れません。
 大変すいませんが、近日中アップと言う事でご了承願います。
 
             11月4日 藤村香織
 








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