第35話 温泉デート
更に翌週の日曜日。
久しぶりにマスターに会う。
久しぶりに……って言い方は正しくないかも。
会うだけなら、『黒薔薇』にちょくちょく顔を出しているから。
そんな私は、遠距離恋愛や相手の仕事が多忙と言うよりも、会える分だけ恵まれているんだろう。
それでも二人だけでゆっくり会いたかった。
だってね。
お店では他のお客さんに気を使うから、知人の常連さんの顔で過ごすのが精一杯。
そこが余計に切ない。
『ゆっくり温泉にでも行きたいなぁ……』
マスターのメールの中には、そんな呟きが書かれていた。
温泉? 私も好きだけど……。
でも、マスターのそんなところが、ちょっとおっさんぽいかな……。
以前、合コンで知り合った一つ下の男の子と2回ほど遊びに行ったけれど、温泉なんて言葉は出なかった。
その人は、合コンで私の事を気に入ってくれたみたいで、また会おうって事になったんけど。
彼は、私が一つ上だから、当然しっかりしていて、お料理や家事が出来るんだろうって思っていたみたいだ。
まぁ、それなりに出来なくはないけれど。
結局、2回会ってみて、合わない事がわかったからお付き合いは止めにした。
いい人そうだったんだけど、何かぴんとこなくて。
メールで決めたデートの行き先は、温泉テーマパーク。
マスターが、温泉に行きたいといい、私が遊園地に行きたいって言ったから、間を取ったのだ。
何だか長年付き合ったカップルのような気がしなくもないけれど。
「いいじゃん。どっちみち前から知り合いなんだし。今更、気取っても」
並んで長椅子に腰掛け、二人足湯に浸かっていた。
「まぁ……ね」
先ほど男湯から出てきたマスターは、浴衣に羽織姿だ。
浴衣の丈が少し短いようで、脛が覗いている。肩を寄せ合っていると、浴衣越しに感じるマスターの肩と腕。
いつものセーター姿だとわからないマスターの胸板が、薄い浴衣越しにほの見える。
お風呂上りの汗ばんだ蒸気と一緒にマスターの体臭がもわっと漂ってくるみたいで、どぎまぎしてしまう。
心の中で、かぶりを振った。
マスターのこんな姿が粋でかっこよく感じられるのは、きっと私の欲目なんだ。
「なんだかさ……」
マスターがこっちを向いて、にこにこしてる。優しげな目線。
「そこ。手、差し入れたくなっちゃうね……」
マスターは、私の襟元と平行に手を伸ばす真似をした。
「うわ……」
胸元をかき合わせると、反射的にマスターの手をぺちんと叩いた。
何てこと!
すっかり甘ったるい気分に浸っていたのに……!
「痛てっ。ちょっと、からかっただけなのに」
「だって、マスター。ホントにやりかねないんだもの」
気づくと、よそのお客さんがこっちを見ていた……。
は、恥ずかしい。
それから、併設のゲームセンターで過ごす。
マスターがいくつかのUFOキャッチャーを見逃して、一つの台の前に立った。
「取れるの?」
「どうかな……」
それっきり無言で台に向かうマスター。
操作に集中しているマスターの真剣な横顔。
正直、仕事場でも見たことがない……。
やがて3度目のチャレンジでペンギンのぬいぐるみをGETすると、マスターは私の手に載せた。
温泉テーマパークで半日を過ごすと、お茶してショッピング街を回る。
夕食は、マスターとのデートのパターンでは珍しく洋食だった。
18日が給料日だったから、今日はマスターに会ってすぐに、借金のうち1万円を返した。
「何だか、臨時収入があった気分だな……」
マスターは、それを財布に収めると言った。
「じゃぁ、今日は、これで喜和子と食事しよう」って、ああ……何だか返した意味がないかも。
繁華街のはずれにある、小さな洋食屋さん。
それぞれのテーブル席は、天井の低い洞穴みたいなスペースになっている。
通路側以外は壁に覆われた少しばかりのプライバシーが保てる空間。
前菜を食べ終えて、しばらくすると、地鶏の香草焼きとフランスパンがテーブルに置かれた。
それをナイフで器用に切り分けるマスター。
すごく綺麗な食べ方をする人だなって思った。
育ちと言うのとは、ちょっと違う。
自分が飲食業だから、食事に対してそういう向かい方が身についているのかもしれない。
私もうつむいて、メインディッシュにナイフを入れ、フランスパンをちぎって口に運ぶ。
ぱりぱりのフランスパンの皮がお皿に零れ落ちた。
マスターのお皿のほうが、パンの粉の量が少ない。
私って不器用なんだろうかと滅入るひと時。
メインディッシュを空にすると、向かいに座るマスターの顔をぼんやりと眺めた。
「どうした?」
この食事が終わったら、またマスターと離れてしまうんだ。
休日の一日なんてすぐに過ぎ去ってしまう。
「1日って、すぐに終わるね……」
たった今、思ったままの事を口にする。
マスターは口元を紙ナフキンで拭いながら、「そうだな……」って。
マスターがサラリーマンなら、週末にまた会えるだろう。
けれど、自営のマスターとは、今度いつ一日フルに使って、デートできるかわからない。
メインディッシュの食器は下げられ、代わりにコーヒーとデザートがテーブルに置かれた。
綺麗に盛り付けられたチョコレートケーキの小脇に半球状のアイス。
フルーツと生クリームで飾られたそれを見ただけで、普段なら心が浮き立つはずだ。
けれど、デザートが食事の終盤だと思うと、切ない。
今日の記憶で次に会えるときまで、幸せな気分を持続させて。
会えない分はメールと電話で補充する。
まだ付き合って、1ヶ月だけど。マスターと付き合う限り、ずっとその繰り返しなのかな。
「月イチくらいなら、土日どちらかで、臨時休業はできる」
マスターは、私の心を読みとったみたいに言う。
まだマスターと会ってる最中なのに。
私ったら、きっと暗く沈んだ表情をしていたに違いない。
だからマスターがこんな風に気遣ってくれるんだ。
私は、こくんとうなずいて、デザートのケーキにフォークを刺し入れた。
もっと、マスターとの時間を楽しまないと。何か他の話題を探そうと頭を巡らせる。
このコーヒーよりも黒薔薇のコーヒーが飲みたくなっちゃったとか……。
ああ。そんなの当たり前じゃない。
もっと気の利いた話題はないかしら。
私が話題を提供するよりも先にマスターが口を開いた。
「なかなかすれ違いで、会えないのはこの先も一緒だからさ」
顔を上げて、マスターを見る。
「一緒に暮らそうか」
えっ? マスターの言葉を頭で反芻する。
一緒に暮らすって……言った。
確かに今。
私の周りの空気が止まった。 |