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内緒のラブストーリー
作:藤村香穂里



第30話 新年


 それでも「内田さん」と名前を呼んだ事で、マスターは機嫌がよくなったみたいだ。
 引き続き話しかけてきてくれたから。
 まったく……マスターときたら子供みたいだ。
 カードの赤字がわかった時とか、オークションを代行出品してくれた時なんかは、すごく頼りになって、大人だなぁって思っていたんだけど。
  
 飛び飛びに街灯に照らされた広い道路を渡り、マスターと2人公園にたどり着く。
 入り口付近にまで及ぶ雑踏は、さしづめ満員のエレベーターみたいだった。
 おまけに年越しの瞬間に花火が上がるから、もう23時近いのに、続々と後から人がやって来る。
 とにかく滅茶苦茶、人が多い。
 家族連れに仲間らしきグループにカップルまで。
 カップルか……。
 私達は、そのカップル達にに同化して見えるだろうか。
 体を縦にして人波を縫い、ステージの見えやすいところに移動する。
 足裏にごつごつした地面の感触。
 ヒールが公園の土に埋まりそうになりながら歩く。
 この公園がこんなににぎやかなのは、大晦日の今日がきっと最高だろう。
 マスターが振り返り、逆手にくいっと手のひらを曲げたから、その腕にしがみつくいた。
 こうしてぴったりと体を寄せ合っていても、誰も気に留めない。
 人に紛れると言う点では、混雑万歳かもしれない。
 私だけがマスターの左腕を独占する権利を持ってるんだ。
 今の私なら多少厭な事を言われたからって怒らないに違いない。
 人々の頭の間からステージの余興をぼんやりと目で追う。
 バンド演奏や素人芸で日付の変わる瞬間までの時間稼ぎをしているようだ。
 唐突にマスターが体を折り曲げ、耳に顔を近づけてきた。

「5階まで階段昇る元気。ある?」

「えっ?」

 私は、マスターをまじまじ見つめた。
 話が見えない。
 これからどこか階段を昇るような処に行くんだろうか?

「高いところの方がいいだろう? 花火を見るには」

 言葉を変え、マスターが言った。
 確かに見晴らしのいいほうが良い。
 それにここは混んでいるから、他に静かな環境があるのならそれにこした事はない。

「体力なら、あるけど」

 私の言葉を確認すると、マスターは再び体を縦にして、人混みをかき分けて歩き始めた。
 マスターの作ったスペースを私もついて行く。
 先ほど公園に到着した時よりも、私達の後ろには更に人が増えていた。
 公園の出入り口を人にぶつかりそうになりながら出ると、やっと人気は少なくなった。

「さてと……」

「マス……いえ。内田さん。どこに行くの?」

 大晦日の今日、ホテルのレストランやバーなんかは、予約の宿泊客しか使えないと聞いているけれど。
 ああ。でも5階も階段を昇るのならそうしたところではない筈。
 マスターったら何をたくらんでいるの。

「ここからほんの5〜6分だから。まぁ、ついて来て」

 混雑を抜けても左腕には、繋がったまま。
 普段、会える時間が限られるから、なんだか甘えたくなっている。
 大晦日のイベントでテンションがあがっているからだろうか。

「大きすぎず、小さすぎず、いい感じだね!」

 マスターがぽつりと言った。

「は?」

「胸……」

 次の瞬間、私は体中の血が逆流しそうになった。
 しがみついた左腕。ボタンを留めずに羽織っただけのコート。
 この状態でマスターの左肘は確実に私の胸の位置を捉えていたんだ。

「喜和子ちゃんが熱を出しておぶった時も背中に感じたけど……」

 左腕から手を離すと反射的にマスターをどついていた。

 この……この、おっさんはっ! 
 私が熱に浮かされてた夜。
 あのロマンチックだったひと時にそんな事を思いながら私をおぶっていたんだ……! 
 マスターの阿呆!
 あはは……と笑うマスター。
 そうだよね。
 そう言えばそんな人だったよね。
 好きになって目くらましがかかっていた。
 マスターが思いっきり美化されていたんだ。私は。
 喫茶『黒薔薇』で、香織さんと私と3人でおしゃべりしていた頃は、エロい事もばんばん言っていた。

「しゃべらなければ、マスターって結構、良い男なのにね」

 カウンターに肘をつき、ぽつりとつぶやいていた香織さんの姿が思い浮かぶ。
 マスターの古くからの知人である香織さんは、マスターの事を本当に心配していた。
「この店、大丈夫なのかしら……」とか「早くマスターにお嫁さん来ないかしら」なんて。


 階段を一歩一歩踏みしめる。
 金属製の段を踏みしめる音が夜間にこだまする。
 ここは繁華街で比較的明るかったし、マスターがミニライトで足元を照らしてくれたから、暗くて危ない事はなかった。
 三階まで昇ったところで、いい加減、疲れてきた。
 まったく……今日はなんてよく歩かされるんだろう。
 それも行き先がどれも車に乗るには近すぎるような繁華街の微妙な位置にあるからだ。

「喜和子ちゃん、大丈夫?」

 正直、きつい。

「なんだか……もう疲れた」

「あともう少し……頑張れ!」

 手すりに体重を預け、腕の力で漕ぐように階段を昇る。
 マスターは、平気なんだろうか……。
 服装は私よりずっと身軽だけれど。
 いや、私に声をかけつつ、マスターだって、結構息が切れている。
 一段一段、階段を踏みしめる。
 体重の載った投げやりな足音。
 そしてそのペースも次第に遅くなってくる。
 なんでここまでって思うけれど。
 高いところと言うのは、実は内田建設の社屋だった。
 今、マスターと私はそこの非常階段を昇っている。
 内田建設の社屋の近隣に住むマスターは、非常時のために鍵を預けられていた。
 だから本当は、社内に入る事だって可能なのだけど、セキュリティの問題があるから、こうして屋上に向け外側の階段を昇っている。

「頂上は近いぞ! 喜和子ちゃん」

 マスターは、自分にも言い聞かせているみたいだ。
 先に屋上手前の柵に取り付けられた鍵をマスターが開放した。
 かくて、最後の一段を踏みしめると、次の一歩で屋上のコンクリートの床に無事到着。
 数歩歩いて、私はしゃがみこんだ。
 冷たい空気をいっぱいに吸い込んで吐き、息を整える。
 前方の空を見上げると、今、出てきたばかりの公園が目に入った。
 樹木に囲まれた青白っぽい光。
 そうか……あの場所から歩いて来たんだ。
 マスターは、まっすぐに給水塔のあるドアまで歩いていった。
 このまま座り込んでいてもいいのかな。
 バッグから携帯を取り出して開けると、もう23時50分になっていた。
 それにしても……これだけ歩いて、しかも5階までの階段を昇ってきたんだから、いい加減、休みたい。
 際限なく続く暗い空と小さく見える建物を見ていると、一種の畏怖を感じる。別に高所恐怖症じゃないけれど。

「喜和子ちゃん。ここ」

 マスターが持ってきたのは、あの銀色の断熱材のシートのようだった。
 ドアの向こうには、給水塔の部屋やエレベーターの管理室なんかがあって、このシートもそこに放り込んであるらしい。
 マスターがシートを広げ、二人並んで、腰を下ろした。お陰で直接コンクリートの冷たさを感じる事がない。
 さては、マスター。
 ちょくちょくここに来ているんだ……。

「何だか、ここに座ってるとお花見みたいだね」

「そう。花見の季節はいいぞ。もっとも夜桜見物しか出来ないけどね」

「さては、しょっちゅう、ここ来てるの?」

「まあ。たまーにね。会社やってる時間にはできないし。下手すれば不審者だよ」

 マスターは楽しそうに言いながら、ポケットから携帯を取り出した。

「23時58分か……そろそろだな」

「うん」

 私も再び携帯を取り出して開いた。
 姿勢を正し、花火の上がる方向に座り直した。
 
 携帯のデジタルの文字が0時に切り替わると同時に、パチパチとはじくような音に続けて、暗い背景に五月雨式に花火がいくつもあがった。
 あれはしだれに菊の組み合わせだろうか。
 その後、ドォォォンとお腹の底に響くような音。
 高く上がった点から次第に円の範囲を広げて開ききった大輪の菊の花は、やがて火の粉となって落ちていく。
 私は、ただひたすらに夜空に見入っている。

「綺麗だね」
     
 つぶやくようにマスターに話しかけた。

「うん」

 マスターの横顔をちらと見る。
 年が変わる一瞬なんて、また一年先の話。
 今、マスターと二人でいられる実感をずっと記憶に焼き付けておこう。
 小さな連続花火の後、ひときわ、大きな花火があがる。
 多分、これが最後の花火だろう。
 案の定、その後花火が上がる気配はなかった。

「来年も一緒に見られたらいいな……」

 そんな風に話しながら、マスターにそれは当然だろうって確定してくれる事を期待していた。 
 けれど、マスターからは何の返事もなかった。
 その代わり、私の顔を覗き込むようにして、すくいあげるようにキスをした。


前回まで、食事シーンなどに時間をかけたので、今回は、多めに書いて展開を入れました。
続きは、また一週間後を予定しています。








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