第2話 喜和子。喫茶『黒薔薇』へ行く
仕事帰り。
午後6時ごろに職場を出る。
私の足は喫茶『黒薔薇』に向いていた。
昭和30年代から営業しているこのお店は、リニューアルを繰り返しつつも古き良き雰囲気を失わずに保っている。
入り口の木製のドアを開けると、カラカラとドアに取り付けられた鐘の音が鳴った。
お客さんは、テーブル席に何組かいるだけでカウンターは空だ。
中途半端な時間帯だったかもしれない。
マスターは、私を見つけると、軽く微笑んだ。
その表情は私に「来たか……」って言ってるみたいだった。
私も軽く会釈すると、カウンターの一番はじっこのコーナー部分に座った。
隣の椅子にバッグを置く。
香織さんと一緒に岩盤浴に行った帰りに買ったエルメス。
今となっては、買い物をしまくっていた頃が恨めしいけれど、せめてフルに使って元を取らなくては。
コーヒーを落としているマスターに声をかけた。
「この間は、ごめんなさい」
マスターは私のほうを向き、ちょっと考えた風だったけど「ああ……」と合点がいったようにうなずいた。
「香織さんにも知られたくなかったんだな」
「なんかね。言うときは自分から言いたかったから」
マスターは「そうか……」と言うと、一旦コーヒーを運んでカウンターの外に出て行った。
他のテーブルでオーダーを取っているらしいマスターの声が聴こえてくる。
手持ち無沙汰な私は、右手で頬杖をついて、携帯をいじり始める。
受信メールを開き、ぼんやりと過去の友達からのメールを見直す。
合コン話の内容。
この頃は、絶好調でお金を使っていた頃だ。
マスターは戻ってくると、再びコーヒーを落とし始めた。
「喜和子ちゃんもブレンドコーヒーでいい?」
なんだか疲れていた。
「あー。甘いのがいいな。カフェオレで」
しばらくして、カフェオレが私の前に置かれた。
「今日は、俺のおごり」
マスターが言い、私は「えっ?」と、マスターの顔を見上げた。
「この間のおわび」
「いいよ」って言おうかと思ったけど、「はい。そうですか」とマスターがコーヒーを引っ込めるわけがない。
ここは好意に甘えて、ありがたく戴こう。
砂糖を流し込んでかき混ぜる。
右手に取っ手をつかみ左手で包み込むようにカップを持つと、ふーっと冷まして一口飲んだ。
ほろ苦く甘いミルクが喉にしみこんでいくようで、おいしかった。
「マスター。やさしいね」
声をかけると「ふん。たまにはな」と返事が返ってきた。
ここが安らぐのは、マスターの人柄のせいだろうか。
それともマスターが38歳と、私よりも一回りも年上だから安心できるのだろうか。
もっともマスターが8月生まれで私が6月生まれだから11歳差の時もある。
まぁ、大した変わりはないけれど。
店内に新たなお客さんが入ってくる気配はない。
マスターは、先ほどのお客さんにコーヒーを運び終えると、カウンター内の椅子に腰を下ろした。
「相変わらず家に居づらいか」
「うん」
私はうなずいた。
300万円の一件はもう母は何も言わなかった。
そうしたら今度は赤字の事がよみがえってきた。
あれは、借り入れでかたがつくはず。
母にばれないように気をつけなくちゃ。
だけどなぁ。
借金か……。
私は、一つ大きなため息をつく。
「どうしたんだよ。300万の一件でまだ怒られてるのか?」
「そうじゃないんだけど」私は口ごもる。
マスターはすっかり話を聴く体勢になっている。
自分が遊びに来いって言ったから?
「言えよ。何でも聴いてやるぞ」
どうしようかな……。
カップの取っ手をもてあそびながら切り出した。
「あのさ……」
マスターは、じっとこちらを見た。
その表情は34歳のうちの兄よりも若々しい。
多分、兄のように禿げてないからだ。
白髪になるタイプだから染めてるって言ってたっけ。
店の照明にあたった部分がほんのり茶色い。
その顔を見ながら、マスターって結構、顔立ち整ってるんだ……と再認識。
「どうした?」
「残額の読み違いで、借金、作っちゃった」
マスターの目を見て言えなくて、うつむいてそれだけ言った。
「何!?」
マスターの驚いた声。ああ。そんな大きな声で言わないで。
店内のお客さんが反応してこちらを見る。
マスターはあたりを気にして、慌てて声を潜めると、身をかがめ、体を乗り出した。
「どう言うことだよ!」
ちょっと口調が怒っている。
「カードの引き落とし金額が通帳の残額よりも大きいの」
今度は、端的に言った。
「あ〜あ……やっちゃったのか」
マスター。呆れてるんだろうな。
だって、何でも聴いてやるって言ったじゃない。
「で、どうするんだ」
どうするんだと言われましても……。
その腕組み、その口調。止めて欲しい。
何だか詰問されてるみたいだ。
「定額を担保に郵便局から借りる」
ぴしっとそれだけ言うのが精一杯だった。
「さすが喜和子ちゃんだね。ちゃんと考えてるって訳か」
ああ。その言い方、何だかいやみっぽいよ。
そもそも考えなしだから借金作ったのに。
次の言葉が出ずにまた黙り込むとマスターが言った。
「もうちょっと考えて使えば良かったな。言ったぞ、俺。使いすぎで借金にならないようにって!」
ああ。もう充分、自分に嫌気がさしているんです。
だから怒らないで欲しい。
「ごめんなさい」
何故、マスターにごめんなさいを言ってるんだろう。そうだ。忠告を聞かなかったからだ。
「いくら足りないの」
私は口ごもった。
それを言ったらまた怒るでしょ。
そんなに! って。
マスターは、腕組みを解くと私の表情を読み取ったかのように言った。
「怒らないから言ってごらん」
私は上目遣いにマスターを見た。
「ホントに怒らない?」
「ああ」
マスターは、うなずいた。
「203,500円の請求が来たんだけど、通帳残は88,000円ぐらいなの」
それを聞いたマスターは、黙り込んだ。
あの、黙り込まれると怖いんですけど……。
「え〜と、12万弱の赤字か」
その沈黙は、どうやら頭の中で計算していたからのようだ。
ちょっとほっとする。
「引き落としはいつだ?」
「来週の火曜日」
そうか……とまた腕組みをして、来週火曜か……とつぶやくマスター。
郵便局から借りる事にしたんだから、私の中ではもう終わった話だ。
マスターには関係ないんだからさらっと聞き流してくれればいいのに。
聞いてくれるだけでいいんだから。
その腕組みがちょっと厭だ。
「喜和子ちゃん」
「ふぇっ?」
私が思ったこと、見えてないよね……。
「リボ払いって知ってるか? ああ、でも引き落としが迫ってるからなぁ」
勿論、知っている。
でも赤字になるとも思っていないから、カードを使うときはいつも一括支払いだった。
「それは、知っているけど。いつも一括支払いにしていたから」
「カード会社の案内にさ、途中から支払い方法変更できるとか書いてなかったか? でもなぁ。来週の火曜日なら変更、間に合わないか……」
あ。そうか……。
途中で支払い方法を変更できるとか、あったような。
でもさすがにもう変更はきかないだろう。
「多分……間に合わない。でも、次の請求が来たらそうする」
リボ払いがすっと出てくるなんてさすがマスター。年の功だ。
借金するのは、今回だけ。
あとはきつくても月々の給料からリボ払いで払って。
頭の中で今後のシミュレーションをしてみる。
月々2万円のリボ払いとしてもコンスタントに2万円ずつ取られるのは、かなり苦しい。
とりあえず、お昼は毎日お弁当必須で、コンビニで買ったり外食するのはやめて、遊びに行くのも控えて。
ボーナスが出たら返済用にプールしておこう。
「まだ請求が来るのか?」
マスターは怪訝な顔だ。
その表情にはっと気づく。
何気なくした次回の請求の話で、私は墓穴を掘ってしまったようだ。
「あ。ええ、まぁ」
「この際だ。全部でどれだけ足りないんだ。言ってみろ」
また怒らないでよ……。
「ええと……全部で50万くらい」
マスターは目を丸くした。
「喜和子ちゃん。使ったなーっ」
また沈黙。マスターは呆れているんだろう。
これで隠してることは何もない。
マスターだけでも話せたから、気持ちが軽くなった。
マスターは、何やら考えてるみたいだ。
「喜和子ちゃん」
「はい」
「明日も来いよ」
ん? ここには、ちょくちょく来るつもりではあるけれど。
正直、コーヒー代をケチりたい気持ちもなくはないが、これから切り詰めて生活していかなきゃならない。
この程度の気分転換がなければ、本当に滅入りそうだもの。
「勿論。来るわ」
「貸してやるよ」
「え?」
「12万円」
その言葉に、私は信じがたい思いでマスターを見つめた。
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