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 『黒薔薇』で熱を出してしまった喜和子。マスターが家まで送ってくれるって……。
内緒のラブストーリー
作:藤村香穂里



第18話 熱2


「喜和子ちゃん……」

 私は、マスターの上腕に頬を寄せてじっとしていた。
 きっと熱のせいだ。こんな大胆な行動に出られるのは。
 頭上に乗せられたマスターの手の平の感触がして、それはゆっくりと下に滑り落ちた。

「わかったよ」

 そのまま2〜3度頭を撫でられ、しがみついていた腕を緩め、顔を上げた。

「一緒に行こう」

 マスターはカウンター脇の私のコートを手に取り、広げると私の肩にかぶせた。

「鞄は自分で持てるな」

 それだけ言うと、マスターは私に背を向けてしゃがみ、振り返った。

「乗って」

 目の前にマスターの背中。

「え?」

「喜和子ちゃん。病人だろ?」

 さぁと促すマスターの目。
 その背に手をかけて、おそるおそる体重を載せた。
 マスターは、両膝に手をかけ一気に立ち上がると、弾みをつけてしっかりと私を背に乗せ直して。

「体、熱いなぁ。辛そうだ」

「ごめんなさい……」

 勝手に熱を出して、おんぶまでさせてしまって。

「いいよ。俺がメールしたから、無理して来たんだろう?」

 カードのマイナスの引き落としの話をしたときみたいに怒られると思ったのに。
 涙が出るのは、熱に浮かされているせいだけじゃないかもしれない。 

「病人を使って悪いけど、スイッチ切ってくれる?」

 鞄を持った反対側の手を伸ばして、お店の照明を落とす。

「ありがとう」

 マスターは、片手を外し、外側から勝手口の鍵を掛ける。
 バランスを崩すまいと私はマスターにしがみつく手を強めた。
 ずっとこの感触を覚えていよう。
 マスターにおんぶしてもらう事なんて、もう一生ないかもしれないもの。

「私。マスターの事好きだなぁ」
 
 独り言みたいにつぶやいた。
 もしも嫌がられたら、熱のせいにしてしまおう。

「うん?」

 マスターが聞き返すみたいに言う。
 本気だと思われていないのかも。

「マスター。大好き」 

 もう一回言ってみる。

「……嬉しいね」

 嬉しいって言った? 
 すかさず聞いてみる。

「本当?」

「うん」

「ほんとにほんと?」

 そこまで話したところで、車庫の前に着いて、話は中断されてしまった。
 再びマスターがかがむ。
 足の裏に固い地面の感触。
 ほんのわずかの間だったマスターの背中。
 車のエンジン音。
 パァッと点灯したライトがまぶしい。
 どうしてこんな遅い時間にしか、マスターと2人になれないんだろう。
 マスターは運転席から出てくると、ぼうっとそのまま立ち尽くしている私の手から鞄を取って後部座席に置く。
 助手席に乗り込む私を確認して、外側からドアを閉め、車は、ゆるやかに滑り出した。

 冷えた暗い車内にデジタルオーディオの光が浮き上がっている。
 じっと半分横を向いたまま、マスターの運転する姿を見ていた。

「ごめんなさい。マスター」

「ごめんなさいはもういいよ」

「マスターにうつったらどうしよう……」

「その時は、喜和子ちゃんが看病してくれ」

 私の頭上にマスターの手の感触。マスターは前に視線を向けたままだったけれど。

「しばらくマスターの所に行けないね……」

 少しの沈黙。赤信号で止まり、マスターが視線を向ける。

「そうだな」

 もっと何か話さなきゃ。
 でもマスターを見つめたまま、熱に浮かされた頭で気の利いた話題の接ぎ穂も見つけられなくて。
 胸が一杯になって、息が詰まる。言葉の代わりに涙がこぼれた。

「早く、治すこと」

 約3.5キロの行程はあっと言う間だった。
 家の前に車が横付けされると、エンジンをかけたまま先にマスターが降りて、玄関まで小走りに駆けて行った。
 エントランスの明かりが点き、母の声。
 内側から助手席のドアを開け、ゆっくりと地面に足をつけた。
 後部座席に置いた鞄を手に取ると、母が走り寄って来た。

「まー。喜和子ったら。マスターにご迷惑をかけて!」

 すみませんでしたと頭を下げる母。

「じゃぁ、喜和子ちゃん。お大事にね」

 そつなく、母と挨拶を交わして去っていくマスターにさっきの名残りはもうなかった。

 母が部屋のベッドを整えると着替えて横になる。
 その間もお説教。

「熱があるのに寄り道なんかして!」

「だって、気づかなかったんだもの。途中から急に熱があがってきて」

 病人だってのに母は容赦ない。
 もう、辛いんだから静かにして欲しいんですけど……。

「喜和子。マスターに迷惑かけて」

 そもそも『黒薔薇』のマスターは香織さんの知り合いだ。
 茶道教室の帰りに香織さんと一緒に『黒薔薇』に通うようになってもう足掛け4年が経つ。
 そんなわけで、我が家でマスターの話題も出る事があったし、私が一人立ち寄ったところで不思議にも思われていない。

「明日……起こしてね」 

 部屋を出て行く母にそれだけ言った。
 職場に休むって電話を入れなきゃならない。
 マスターに迷惑かけて……それだけは、母に同意する。
 マスターは……もうお店に着いただろうか。 
 今頃、後片付けしてるかも。
 掛け布団から手を伸ばして、携帯を取り上げ画面を覗いた。
 22:50 流石にまだ起きてるだろう。
 でも、メールする暇があったら安静にしていろと言われそうだ。
 携帯を閉じ、手に握ったまま目を閉じた。
 一緒に車のところまで行くと言った私のわがままにおんぶしてくれたマスター。
 大好きと言ったら「……嬉しいね」とも。
 もし、うつってしまったら「その時は喜和子ちゃんが看病してくれ」って。
 それから……頭に載せられた手の平。
 ほんの一時間ほど前の現実を何回も思い出す。
 ずっと反芻しているうちにすうっと体の力が抜けて心地よくなってきた。
 だんだんと考えてることのつじつまが合わなくなる。
 ああ……このまま眠っていってしまうのかな。


 熱を出してしまっては、当分、マスターに会うことは叶いません。
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