第15話 マスターの気持ちは?
お客さんの呼ぶ声に、マスターはカウンターの外に出て行ってしまった。
気を取り直して、カップ手に取ると、中のコーヒーの表面がゆらりと揺れる。
そのまま口に運んで、一口二口飲むとカタリと受け皿の上に置いた。
心を落ち着けるために飲んだコーヒーは苦いだけで喉を通り過ぎていく。
仕事しながら軽く言っただけなんだから、真に受けるのはどうかしている。
それこそマスターの言葉通り、言ってみたものなんだろう。
マスターはカウンターの中に戻ってくると、オーダーされたらしいコーヒーを落とし始めた。
そのかたわら、いくつか皿を並べケーキを盛り付けている。
入り口のドアの鐘が鳴り、振り向くとサラリーマン風の2人が入ってきた。
更に、OLらしい4人組が来て、買い物帰りみたいな女性の二人連れ。
テーブル席が一つまた一つと埋まっていく。
ざわつく店内。
何も集中的に来なくてもいいのにって思うけど、お店は、お客さんがお客さんを呼ぶみたいなところがある。
水を持って行った先で、他のテーブルからオーダーの声が立て続けに掛かったりして、一気に忙しくなったみたいだ。
歳暮れで会社ではボーナスが出た直後だし、近くの繁華街では歳末大売出しをやっているから、中心部にあるここが繁盛するのは当然かも。
こんな場に私がいたら、かえって話相手も出来ないと気を使うだろう。
帰るつもりで立ち上がったけれど、食器を回収してきたマスターにとっさに「手伝うわ」と口にしていた。
「え?」
マスターにとっては、思いもかけない言葉だったんだろう。
だけど、遠慮している時間も勿体無いみたいで。
マスターは、きっと口を結ぶと「悪い。じゃぁ、片付けだけ頼む」
短く言って、再びカウンターの外に出て行った。
マスターの言葉を受けて、お盆を手に取ると、会計に立ったお客さんの空いた食器を下げに行く。
実は、ウエートレスの仕事って、アルバイトですらしたことがないんだけれど。
テーブルに盆を置くと、受け皿とカップを回収して盆の上に載せる。
上体を傾けて腕一杯動かして、テーブルを拭きあげる。
日頃、座りっぱなしの業務だから、使わない筋肉を使うみたいで新鮮だったし、マスターの助けになっていると思うと嬉しくて。
最初、おそるおそる盆を手にしていた私は、慣れてくるときびきびと動けるようになっていた。
どれだけ片づけを消化しただろう。
一気にわっとやって来たお客さんは、潮が引くみたいにいなくなった。
私がここに一人で通い始めてから、今日が一番の混みだったかもしれない。
「ありがとう。喜和子ちゃん、お客さんなのに悪かったね」
もう新たなお客さんはなくて、店内に残っているお客さんだけだ。
カウンター脇に配した時計を見ると、8時過ぎを指している。
「いいよ。お世話になってるし。マスター一人で大変だよね」
「うん。まぁ、なんとかなるんだけどさ。今まで一人でやってきたからね。でも手伝ってもらったからお待たせしなくて早く済んで助かったよ」
夢中で手伝っていた時はテンションがあがっていたけれど、今は店が空いていくのと一緒に下がってきていた。
ひと段落ついて明るく話すマスターの様子にさっきの言葉の名残りは、微塵もなくて。
マスターは、さっき自分で言ったことを忘れているんだろうな。
何なんだろう。
マスターと話していても寂しい。
今朝、あんなに会いたかったのに、マスターのちょっとした言葉を勘ぐったりして、余計に辛い。
「私。帰るね」
ぽつりと一言。
「喜和子ちゃん。元気ないぞ。今、にこにこしてたのに」
気遣うように話しかけてくるマスターを見上げる。
「マスターの……せいだもん」
この言葉が、今の私の精一杯の主張だった。
戸惑った様子のマスター。
「じゃぁ、おやすみなさい!」
ドアを勢いよく開け、私は外に出た。
苦しくて、悲しくて、マスターの事を振り切るように自宅への足を早めた。
これじゃぁ、気持ちの持って行き場がない。
家に帰ると自分の部屋にこもり、自然に愛あてに携帯の発信ボタンを押していた。
「はい。喜和子。どうした?」
3コールでつながった。いつもと変わらない愛の声。
つい一昨日電話したなかりなんだけど、愛にしか話せないんだもの。
「ごめん。今、いい?」
「いいよ! 今、お風呂からあがったとこ。マスターの事?」
さすがに愛は、すぐに話が通じる。
「うん……。今日もマスターの所に行ったんだけど」
「あ。どうだった?」
その言い方は柔らかくて、私から話を誘導するみたいだ。
元々、私は家にすぐ帰るのが厭で、オークションを差し引いてもちょくちょく『黒薔薇』に寄っている事を前置きに、今日あった事を話し始めた。
愛は時々質問をはさみながら、私の話を聞いてくれた。
「マスターの話をしても、愛は面白くないよね。ごめんね」
「いいよ。喜和子の話は、楽しいなんて言ったら語弊があるけど。嫌味じゃないの。他の子が恋愛話とか長電話してきたら、聴くのが苦痛だけどさ。」
「そう?」
「マスター。きっと喜和子の事好きだよ」
愛は自信ありげに答える。
だったら嬉しいけど。
でも私に接するマスターの表情とか行動とか全く見ていなくて、今の話だけでどうして判断できるの。
それは、励ましだよ。
「そんな事ないよ。嫌われてはいないと思うけど、恋愛対象にも入っていない」
「あら? 「嫁に来るか」まで言われて。喜和子。「行きます!」って言えば良かったのに」
「だって、ビックリして。からかわれているのかと思って、とっさに何も言えなかったんだもの」
私は携帯を手に部屋の中をぐるぐる歩き回る。
「マスター。「言ってみたものだよ」って?」
「確かにそう言ったわ」
「「言ってみる」という言葉は……」
愛は、自分なりの見解を話し始めた。
「ねぇ。喜和子。例えば車を買うとするでしょ」
何故に車……と思いつつ、話に耳を傾ける。
「うん」
「そしたら車の値段って、付属工具とかいろいろオプションがあるじゃない? その時にオプション一つタダでつけてよって言ってみる。これが「言ってみる」って事よ。駄目だと思っても、言ってみてOKだったらラッキーって感覚なんじゃない」
「交渉次第では、可能かもね……」
自分で口にしながら、あっ! と思った。
「マスターの言葉も同じ理屈が通るって事?」
嫁に来るかって言ってみて、行きますって言ってくれたらラッキー。ホントかなぁ……。
何だか巧みに愛に乗せられている気もしてくる。
「そっ。そういうこと!」
「でも、もしそれが本当だったとしても、もうマスターはそんな事、言ってくれないよ……」
私は、大きなため息をひとつついた。 |