第14話 そして再び『黒薔薇』へ
本当は、気づかなかったんじゃなくて、自分の気持ちに蓋をして押し込めていただけだ。
「喜和子?」
「あ……。うん」
慌てて涙を人差し指で拭う。
「やっぱり……好きだったんだなと思って。今、愛に言われてあらためて自覚した」
「そっか。喜和子、可愛い!」
ひとたび認めてしまった感情をくすぐるように受話器から響く言葉。
私は、目を閉じてなお残る涙を流しきった。
ふっと笑みが浮かぶ。
「マスターとうまくいけばいいね。協力するからね」
「うん。ありがとう」
一応そう返事したけれど、うまくなんて行くんだろうか。
愛との電話を終えると、携帯を握ったままベッドに倒れこんだ。
マスターの事を好きと認めてしまった私が、これから茶道教室の後にマスターと香織さんと3人で集い、普通に振舞う事が出来るだろうか。
幸いな事に、今は12月で繁忙期だから、香織さんとはすれ違いだけれど。
今までは、オークションがあったから、スタッフルームにまで入って、マスターと個人的に話してたんだ。
借金の件が終わったら、常連客に戻ってカウンターの内と外の間柄。
マスターと親密に話すこともなくなってしまうのかな。
2人でパソコンの画面を覗いた。ハプニングで抱きとめられて、今日は車で送ってもらった。
マスターは、なんとも思っていないのかもしれないけれど、こんな気持ちのままでいるのは辛い。
そう思ったら、またまぶたが熱くなって涙があふれてきた。
週明けの月曜日。
停留所で、バスを待つ。
昨日は、『黒薔薇』に行く事もなく、ぼうっと家でテレビを見たり、読書をしたりして過ごした。
本当は、マスターに会いに『黒薔薇』に行きたかったけれど。
あまりにもしつこく日曜日まで現れたら、なんなんだって思われそうで。
それでも私は、家に居づらかったら来いとマスターが言ってくれた言葉を『黒薔薇』に行くためのパスポートみたいに思っていた。
今日は、帰りに『黒薔薇』に行こう。
マスターのお陰でオークションが無事終了した事や、車で送ってもらったお礼を言う口実があるから。
帰りにマスターに会えると思うと、今日の仕事もなんとか乗り切れそうだ。
やがてバスが来て、私は、はずみをつけて乗り込んだ。
職場の自分の席に着くと、いやおうなしに業務が始まる。
窓口仕事は、お客さんが多いとそれなりに忙しいのもあるけど、変化に富んでいて時間が早く経ってしまうところがいい。
まぁ、いろんなお客さんがいるわけだけど。
お昼休みは、二交替になっていて、職員半分ずつ休憩を取る。
今日は、同じく20代で独身の女性と一緒になった。
休憩室で、一緒にお弁当を食べながら「朝、杉木さんの応対してた男の人、カッコ良かったよね」って彼女は言う。
……全然覚えていない。
まぁ、カッコいいか悪いかは個人の好みの問題だし、私の頭は、今日『黒薔薇』に行く事で一杯だったから。
接客業務は「あのお客さん、威圧感があって厭な感じだったわね」とか、「感じよかったから、つい丁寧に説明しちゃった」とか、休憩時間になるとストレス解消がてらによくそんな話題が繰り広げられる。
「ごめーん。あんまり印象になかったかも」
正直に言った。
彼女は目を丸くして「杉木さん。最近、変わったよね。いつもさっさと帰るし。誰かいるんだ。いいなぁ」
言われてみればいつもの私は、今、彼女が言った様な言葉を真っ先に口にしていたほうかも。
確かに変わったかもしれない。
そして、今日もさっさと帰ろうと思ってるんですけど。
「そんな事ない。誰もいないよ。最近、オークションやってるからそのせいかなぁ。入札があるか気になっちゃって」
私は巧みに話題を軌道修正してしまった。
午後からの仕事を終えると、15分ほど残務整理しただけで、帰り支度をする。
今日の仕事は、処理もスムーズに進んだから、あえて残る必要もなかった。
郵便局から『黒薔薇』までは、バスに乗れば停留所3つ分。
職場である局も茶道教室も『黒薔薇』も、この繁華街の近い位置に存在するのだ。
私は、散歩がてらに歩くことにした。
『黒薔薇』のドアを開ける。
視界にマスターの姿が飛び込んできた途端、心をわしづかみにされてるみたいに息苦しくなる。
「喜和子ちゃん。 いらっしゃい」
今日は、くすんだ黄緑色のセーター姿のマスター。
喉が凍りついたみたいに、とっさに挨拶の言葉が出なかったけれど、私は、カウンターに向かい、空いた椅子の上にバッグとその上にコートを丸めて置いた。
「マスター。こんにちは……。土曜日はありがとう」
一連の動作が習慣みたいになっていて、そこで一気に言えた。
「いや、こちらこそ。久しぶりにオークションの画面見て熱くなったよ」
本当に一緒に楽しんでくれていたんだろうか。
ううん。
マスターの気遣いでこんな風な言い方をしているのかも。
「ええと、黒薔薇ブレンドお願いします」
「了解」
コーヒーを落としはじめたマスターの手元をぼんやりと眺めていた。
色々、面倒をかけているのに全然気にした様子はない。
「俺。土曜日、コーヒー飲んでいけって引き止めたから遅くなったろう。大丈夫だったか」
やっぱりなんだか今日のマスターはやさしいみたいに感じられる。
でも社交辞令で、私が良い様にとっているだけなのかな。
「そんな。中学生や高校生じゃないんだから」
「そうか。喜和子ちゃんの家は厳しそうだから」
私がここで家の愚痴を口にするせいで、マスターの頭の中には、厳しい杉木家のイメージが出来上がってるみたいだ。
「ちゃんと言っておけば大丈夫」
我が家は確かに厳しいかもしれないけれど、まぁ、それでも常識的な範疇だ。
私がひねくれている部分が多分にあるのはわかっている。
義姉も私に気を使っているようだし……。
「そうか。それなら良かった」
そこで、マスターはオークションに話題を変えた。
「今日、入札者の一人から、メールが来てさ」
あっ。そうか……。
マスターにすべてお任せしてたけど、落札されて終わったみたいに思っていたけれど、まだ私には発送って仕事があるんだ。
「あ。いつ送ったらいいの」
「とりあえず、明日には送れるようにしといてよ。入金を確認したら、メールする」
「うん。わかった」
黒薔薇ブレンドが私の前に置かれた。
ずっとコーヒーを落としている時から、香りを楽しんでいた。
砂糖もミルクも入れずに一口飲むと、瞬間、とがった苦味が存在を主張する。
それはやがて舌先にじわっと広がると、柔らかな酸味を残して口中を通り抜けていった。
ずっと茶道教室の帰りに通い続けて慣れ親しんだ味。
「おいしい……」
初めて飲んだわけでもないのにわざわざ口にするのも変だけれど。
マスターの方に視線をよこすと、私の言葉に満足げに微笑み返してくれた。
「ホントに……。ここに来るとほっとする。すごく居心地がいいんだもの。だから毎日来たい」
マスターは、食洗機にカップをセットしながら言った。
「それなら、嫁に来るか?」
今、なんて? 一瞬、耳を疑った。
マスターの放った言葉を頭の中で復唱する。
(嫁に来るかって……)
食器をセットしながら、ついでみたいに言わないで欲しい。
もしそこで、「うん」って言って、そのあと「冗談だよ」って言われたら私は立ち直れない。
だから、なんて言っていいのかわからなくて、返す言葉もなかった。
「ふん。言ってみたものだよ」
マスターは、自分で口にした言葉を自分で終わらせてしまった。
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