第9話 喜和子。借金を一部返済する。
木曜日。
仕事帰りに茶道教室に行くのは2週間ぶりだ。
先生には、先週、用事が出来て教室に来る事が出来なかったお詫びをして。
香織さんは、来なかった。
今週、会えると思っていたのだけど。
私がぷいっとバスで帰った時以来、会っていないから、謝りたかったのに。
「船谷さん。聞いてない?」
お稽古中、隣に座った先生に言われ、はっと我に返る。
「あ……。いえ。聞いてないです。多分、仕事で忙しいんだと思います」
こんな時、メールで連絡を取れればいいんだけど。
香織さんは携帯を持っているけど、夜間は塾に行く娘さんに自分の携帯を貸しているのだと言っていた。
娘さんが高校に上がるまでは携帯は持たせないようだ。
だから香織さんから連絡をもらう分には構わないけど、こっちからメールや電話はしづらい状況なのだ。
「そうね。12月はねぇ。みんな忙しいから」
茶道教室の顔ぶれも今日はいつもの半分くらいの人数と、少ない。
「はい。私ももしかしたら、仕事の都合でお休みをいただくかもしれません」
去年の今頃はなかなか来る事が出来なかったから、話ついでにあらかじめ言っておく。
実際、これから業務量が増えてくる。
出勤して仕事の状況を見なければ、早く帰れるかどうかわからないのだ。
マスターのところへも毎日と言うわけにはいかないだろう。
オークションの管理を任せっぱなしで悪いけれど。
「船谷さんに初釜のお手前をお願いしようと思ってね」
先生がぽつりと言う。
「船谷さんにですか? わぁ。素敵」
初茶会は、外部会場を貸しきって、他の教室のみなさんも集う事になっている。
そんな中でお手前をするのは、ある程度、長くお茶を続けているベテラン勢ばかりだ。
社会人になってからお茶を始めた私よりも、香織さんは習っている期間が大分長い。
「まぁ。いいわ。来週になら会えるでしょう」
先生はそう言うと、私のほうを見た。
「杉木さんもお運び、お願いね」
「はい」
母が聞いたら、ほら着物を新調しておいてよかったでしょう? と言うに違いない。
お稽古が終わり、教室を出る。
先生宅の一本向こうの道路は商店街だ。
華やかな通りで、治安はいい。
歩きながら昨日の事に思いを巡らせる。
スタッフルームでは、マスターと目が合って顔が熱くなってしまった。
話も途切れ途切れで進まなかったし。
大体、今週月曜日から、私は何だかおかしい。
だから今日だって、香織さんと3人じゃなきゃ話が持たないんじゃないかと思って、香織さんが教室を休んだら来ないって言ったんだ。
今頃、マスターは忙しく働いているだろうか。
茶道教室から『黒薔薇』までは、ほんの10分ほど。
曲がり角まで歩いて来た。
ここで右に曲がるとバス停だ。
どうする? まっすぐ行けば『黒薔薇』だけど。
ふと迷って立ち止まったけど、その考えを振り切るように右に折れた。
今、行けばちょうどバスが来る。
寄り道すれば、バスがだいぶ後になる。
香織さんが来なければ、『黒薔薇』には来ないと言ったんだから。
言った事は守らなくちゃ。
バス停に向かう足を早めながら、私は(マスター。おやすみなさい)と心の中でそっとつぶやいた。
帰宅して一人リビングで食事を済ませると、自室にこもり、バッグから手帳を取り出す。
今日、ボーナスの手取り額を確認し、メモっておいたのだ。
机の引き出しから電卓を出してきて、ここから簡易保険の年払い分と家に入れる分を差し引く。
残った中から、マスターに返せそうなのは、丸めた数字で5万円。
明日、早速引き出してマスターに渡そう。
あとは、オークションの品が51,000の値がついているから、うまくいけばこの5万円とあわせて今月中にも返せるかもしれない。
明日……。
マスターに借金の一部を返す。
私はほっとした思いで眠りについた。
翌日、仕事帰りに職場近くのATMに立ち寄った。
ここで、マスターに渡す5万円を引き出す。
業務中に引き出すのはなんとなく気が引けて。
通帳を確認すると、5万円を差し引いてもまだまだ残額に余裕があるが、これもしばらくの間だけだ。
保険料や家に入れる分で、あっという間に目減りしてしまうだろう。
なんで、マイナスになるほどお金を使ってしまったのか。
まぁ、今更、そんな事言っても仕方がないけれど。
私は、用意してきた茶封筒に5万円を収めると、『黒薔薇』に出向いた。
木製のドアを引き、鐘を鳴らす。カウンターの中にマスターはいた。
「マスター。こんにちは」
私は、カウンターの定位置に座ると、どさっと隣の椅子にバッグを置いた。
まずは、お金を返さなくちゃ……。
ファスナーを開け、茶封筒を取り出す。
水を置くマスターに入れ違いに茶封筒を差し出す。
「マスター。これ。5万円入ってる。まだまだ足りないけど。確認して」
茶封筒に視線を移したマスター。
「喜和子ちゃん。無理してないか? 返すのは少しずつでいいんだぞ」
あらためて私の方を見た。
水曜にオークションで51,000円で入札があった事を確認しているから、この5万円はそこから充当できる。
「大丈夫。オークションの入札金額が、そのくらいでしょう?」
それを言うと、マスターは納得したようだ。
「そうか。それなら受け取っておくよ」
マスターは、封筒を手に取ると、枚数を確認してレジに納め、入れ違いに領収書を切ってくれた。
それから私はそれとは別に今度は財布から千円札を4枚出した。
「これでコーヒーチケット下さい!」
以前、冗談めかして言っていたけど、返済とコーヒーチケットが一気に出るとはマスターは思ってもいなかったようだ。
「おいおい……いっぺんに大丈夫か。俺、買えって言ったからか?」
だって……話は聴いてもらうわ、借金はするわ、オークションの代行までしてもらっているんだから。
ちっともマスターの得にならない私が、やっとお客さんらしい事が出来るんだもの。
「だって、これだけ頻繁に来るならチケットの方が得でしょう? オークションも期待出来そうだし」
「喜和子ちゃんがそう言うなら」
マスターがふっと口元を緩めた。
「じゃ、しっかり喜和子ちゃんのオークションの管理しないとなぁ……」
入札期限は、一週間後に設定してある。
明日の夜8時だ。
今の段階で入札状況はどうなっているだろう。
まだ明日までは、変動があるだろうけど。
「オークションサイト見ていくだろう?」
「あっ。うん……」
私は、コーヒーを飲みながらうなずいた。 |