表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

短編

硝子の琴

作者: 瑞原チヒロ

*「琴」ではなく「竪琴」で書いています。

「硝子の琴」



  王の愛せし 永遠姫とわひめ

  かいなむせぶ 音無き竪琴たてごと

  王を愛せし 永遠姫とわひめ

  心響かせ  おぼろの音色……


     *


 透き通った空間があった。

 一面柔らかな銀光に満ち、それ以外の色は見られぬ。地面より盛り上がる小山さえも透けるような銀色で、時折鼓動のようにきらりと光る。

 その、小山を背後にした平らかな場所に――

 一人の娘が、いた。


 美しい娘だ。まるで自身が光を生むかのように、その輪郭は柔らかな乳白色の光が縁取り包む。

 磨いた真珠のような肌を覆う白い布地の裾が、ふうわりと地面に広がっている。

 透き通った空間では、その娘だけが異質だ。か細い体躯たいくの白は何色にも染まるようでいて、その実決して周囲の銀色には染まらぬ。

 長く伸びた髪もそれは見事な純白をしている。地面に座り込むようにしている今、その髪の先は地につくほどの位置にある。娘がほんの少し頭を動かすたび、純白の先端たちが地上をくすぐるようにかすかに揺れる。

 伏せられた長いまつげの下、宝玉のような紅の瞳が、粛として光を湛えている。まるで冬の夜に一人煌々(こうこう)と輝く、孤高の月の静けさ。

 その、細い両腕に。

 ――抱かれし、冷たい色の竪琴。


 娘のたおやかな指先が弦を弾くたび、

 ほろほろ、ほろほろと竪琴がく。


 足音が、透明な空間を揺らした。

 弦を弾く指がつと止まる。

 娘は顔を上げた。闖入者ちんにゅうしゃは乱暴な足取りで娘の前にやってきた。どの方向から現れたのかは分からぬ。――いな、方向など意味はない。男がそもそも違う空間から来たことを、娘は知っている。

息災そくさいだったか」

 娘を見下ろし、男は言う。

 細部を飾る宝石もきらびやかな、若々しく雄々しい若者。荒ぶる者の印象をかもす褐色の肌は、空間の銀光をも弾くように強い。

 娘はその紅色の瞳で、男の双眸そうぼうを見上げる。

 娘を見下ろすは、遠い世界の海の色。

 娘の懐かしき故郷に似た色。

 無言の娘を、男もまた無言で見下ろし続ける。眉間にしわを寄せたまま、じっと。

 やがて、男は重い口を開いた。

「そろそろ考えは変わったのであろうな」

 底に、有無を言わせぬ力を湛えた声音。

 娘は淡く瞳をまたたかせる。

 小さく顔をかたむけ、それからゆるりと首を振った。

 男の瞳に怒りの炎が灯った。

「強情なやつめ。なぜ分からぬのだ――もはやお前の行くべき場所は我の元にしかない。それともこの狂った世界で永遠に過ごそうというのか」

 言葉に応じるかのように、空間が銀色を強くする。それはほんの一瞬の輝きに過ぎず。彼らに干渉することもない。

 再び光を鎮める空間の中央で、娘は小さな唇を開く。

 か細く、空にかき消えそうな、流れ落ちる夜露の声で。

「あなたさまの隣には、行けませぬ」

 それは殊更に揺らぎのない言葉。男の苛立つ心に、迷いなく火種を投じる。

 男は声を荒らげた。

「なぜだ。なぜそこまで我を拒絶する。そなたは我を愛しているのではなかったのか」

 娘の紅い瞳がひととき悲しげに揺れる。いいえ、と答える声は、それでも静けさを失わず。

「いいえ、あなたさま。わたくしはあなたさまを愛しております。この世が終わるまで、わたくしの心はあなたさまのもの」

「ならばなぜ」

「けれど世には守らなければならぬことわりがございます。わたくしはあなたさまの隣にいられませぬ。それがこの世のことわりゆえ」

 何がことわりか――男は苦々しく吐き捨てる。

 たくましい片腕を広げ、彼らを包む異常なまでに透き通った世界を示し。

「見ろ、この狂った世界を。時の止まった世界を。この場所を作り出したのは我だ――我が望めば時さえ意のままになる。その我の前で、何がこの世のことわりか」

 娘は目を細めて男を見る。まるで遠い世界にいる者を見るかのような眼差しで。

「そうしてあなたさまはすべてを意のままになさる。だからわたくしはあなたさまのものにはなれませぬ。それは何故なのか、お分かりになりませぬか」

「分からぬ――」

 男は苛立いらだちまぎれに顔を振る。「分からぬ」

 再び娘を捉えた視線には、憎悪に似た何かが忍び込んでいた。

「そなたは、そなたたちは、どうしてそうなのだ。そなたの一族は、我の伴侶はんりょとなるべく生まれた。我の伴侶はんりょとなる以外の道などない。そなたたちを生み出したのは、他ならぬ我なのだ。そのそなたたちが、なぜ我の意思に背くのだ。なぜ愛していると言いながら、我の隣に来ようとせぬッ」

 激情が空気を揺るがし、目に見えぬ力が娘の頬を打つ。

 しかし娘は声ひとつ立てぬ。ひととき崩れた体勢をゆるりと直し、凛と男を見上げる。まばたく目はさやかに澄んで、何物にも犯されぬように見える。

 ただその頬だけに痛ましい赤みがさして、それを見た途端男の顔は泣きそうに崩れた。

「ああ」

 膝をつき、両手を伸ばす。娘の抱く竪琴を越え、娘の顔を包む。平素は力に溢れたその指先が、弱々しく震える。

「すまぬ。痛かったろう」

 娘はすうと微笑む。

「わたくしは痛みなど感じませぬ、あなたさま」

 男は狂おしいほどの感情をのせた視線で、娘を愛撫あいぶするように見る。娘のまとう白い布を透かし、愛する者の全てを見る。

 頬を包み込んだ両手を離さぬまま。

 愛おしさに震える指先はやがて、娘の唇に触れる。花開く前のつぼみのように初々しいその場所。

 顔を近づける。娘は動かぬ。嫌がる気配も逃げる気配も微塵みじんもない。

 けれど、そのまぶたを下ろすこともない。

 波紋の生まれぬ湖面のような眼差しを、男に向けたまま。

 唇をかすめる直前に、男は止まった。

 切なげな溜息を残し、体を離す。名残惜し気に娘の顔から両手を下ろしながら、

 なぜだ、と一言の呟き。

 その問いに答える言葉はない。代わりに、けがれを知らぬ娘の唇は夜露の響きを紡ぎ出す。

「わたくしはあなたさまのものにはなりませぬ。けれどあなたさまをけして恨みませぬ。わたくしも、わたくしの先代たちも、みな……この世が果てようとも、あなたさまだけを想いまする」

 男は娘の紅眼を覗き込む。

 その顔が、微苦笑に揺れた。

「残酷なことだ」

 娘はとろりとつややかに微笑う。

「あなたさまの生み出したわたくしたちですゆえ」

 男は初めて笑った。愉快そうに声を立てて。

 その笑い声が、空に消える直前にきしんで割れる。

 よどんだ一滴の墨を垂らしたように、決定的な歪みが後に残され。

 男は囁く。地深く、ひたすら落ちていくような声音で。

「……ならば永遠にここにいるがよい。時の止まったこの場所で、音の鳴らぬその竪琴を抱いて、魂がち果てるまで」

 娘の腕の中、透明な色を持つ竪琴が光を弾く。

 娘は無言で、立ち上がる男を見ていた。すうと逞しい背を伸ばせば先ほどまでの弱々しさはどこにも見えぬ。全てを射抜く怜悧れいりな魂を、若々しい体躯に漲らせて。

 この世に特別な存在というものがあったなら、それはおそらくこの男を指すのであろう――

 男は王者となるべく生まれた者。

 だがあまりにも力に満ち溢れていたがために、王者になることすら放棄した者。

 この世の全てが男の思うがまま。思い通りにならぬことはない。思い通りにならぬものはない。

 たったひとつのことを除いて。

 動きひとつで存在を生み出し、また存在を消し去るその指が、娘の視線の先でぴくりと動く。

 何かをこらえるようにそのまま、拳の形を取り。

 男は娘に背を向けた。

「また来る」

 数度の足音ののち、その姿がかき消える。

 ――本当は一瞬で望む場所へと行ける男が、それでも足音を響かせるのは、言葉に出来ぬ心がそこにはあるからなのかもしれぬ。

 娘は男の消えた空間を見つめ、やがて目を伏せた。麗しいまつげが震える。けれど涙を流すことはない。

 愛しいあなたさま。誰も聞くことのない、甘やかな囁きが、静かな世界に落ち出でた。

「我らの命さえ意のままに操るあなたさま。この世の全てがあなたさまのもの。ゆえに永遠に孤独なあなた。……わたくしはあなたさまの隣には参りませぬ。それがわたくしの、わたくしたちの魂の祖の望んだこと。わたくしたちが唯一あなたさまにしてさしあげられること……」

 細くしなやかな指が、膝の上にある竪琴の弦に添う。

 たったひとつあの男が娘に与えた、この透き通るような楽器。音を奏でることのない、硝子の竪琴。

 膝から落ちただけでたやすく砕けるそのもろはかない物体で、男は娘の心を試す。かつて豊穣ほうじょうの大地に生まれし頃、竪琴を爪弾つまびくことを何より愛した娘の腕に、それのみを与えることで。

 ――閉じられた、この時を刻まぬ世界。

 ただただ清浄な銀色だけが続くこの場所に一人きり、娘は硝子の竪琴を抱く。

 添えた指先が弦を弾く。今にもぷつりと切れて落ちそうな、張り詰めた弦を。

 音は鳴らぬ。

 ただ、ほろほろとくだけ。

 ……誰も知ることのない想いをのせて、泣くだけ。


    王の愛せし 永遠とわ姫の

    かいなむせぶ 音無き竪琴

    王を愛せし 永遠とわ姫の

    心響かせ  おぼろの音色



       それは硝子の

 


(終/2013.11.16)

お題配布元:Pentas「ありがとう」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点]  とても繊細で美しくて、素敵な作品でした。  導入からすうっと入っていける感覚がして、いきなり感動してしまいました。特に、娘と王のやりとりは目の前で見ているかのような感じがして本当に良かっ…
2017/07/07 15:52 退会済み
管理
[良い点] 改めて感想を書かせていただきます。文章の構成する世界の美しさに魅入られました。王と娘、相愛ながらにして娘は王の隣にいることを拒む。それは他ならぬ王の為。全てを手中にした王の、唯一思うに任せ…
[良い点] ラブコメとはまた違う愛の表現の仕方が非常に良かったです。 すごく落ち着いて読めるし内容が頭に残っていく感じがして、私はこの作品から何か学べたような気がしました。 [気になる点] 短編で終わ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ