放課後の音楽室に流れるピアノの音色。
毎日同じ曲で、いつも途中で終わってしまう。終わるところが変化しているのに気づいたときから、私は音楽準備室に入り浸るようになった。
何の曲なのかは知らない。誰が弾いているのかも知らない。私はどうしてもその正体を知りたくなった。誰の曲で、弾いているのはどんな人なのか。だが、不思議な事に、誰もその曲を聴いたことがないというのだ。
……それもそうだ。音楽室は放課後になると、鍵が掛かってしまうのだから。私は準備室から先生が出てくるのを見計らって、こっそり聴きに行っているだけ。どんなに親しい友にも、あまり詳しく聞けなかった。チクられるのが、怖かったから。
ある日、聴き慣れたメロディが、壊れた。
突然、ベートーベンの"運命"みたいに、ジャガーン、と。思わず手に取っていた楽譜を床にばらまいてしまう。
音の無い時間が、とても長く感じられた。
何事も無かったかのように、いつもどおりの旋律を取り戻したピアノは、少し悲しげに聞こえた。私は、普段温厚な人に、思いっきり怒られたかのように背を丸めて、急いで楽譜をかき集めた。びっくりしすぎて泣きそうだった。
学校を出ると、音楽室のある四階から、まだあの旋律が聞こえる。今日は長い。初めて聴く、あの曲の続き。さっきの恐ろしい音は、アイデアが湧いて喜んでいたのだろうか。じゃあ、その後に続いた、静か過ぎる演奏は?
次の日、曲の長さは元に戻っていた。気に入らなかったのだろうか。
弾いている姿を見たい。そう思ったのは、今朝の友人との約束の所為。
「幽霊なんじゃないの」
友人の友人、ということで、初めて話したパソコン倶楽部の彼女、木藤さんは、身を乗り出してきた。鼻息荒く、太いフレームの眼鏡をしきりに上げていた。
「そうかなあ」
「絶対そうよ! どうして見てみないの? 今日にでも覗いてみなさいよ!」
彼女の迫力に気圧されて、思わず頷いた。
「やった! 約束よ。明日、絶対教えてね」
自分のクラスに戻るとき、彼女は文字通り、飛び跳ねていた。だすんだすん、と教室が揺れた、気がする。
「あそこまで期待されると、見ないわけにはいかないよね」
独り言は、少し言い訳じみて聞こえた。
鍵が無いので、表の引き戸は諦めて、準備室と音楽室を繋ぐ、少し古いドアのノブを回す。
ぎょりっ、と不気味な音がしたが、ピアノの音は止まらない。ほっと息をついて、ゆっくりとノブを回しきった。
と、そこで手が止まる。
――本当に、見てもいいのだろうか。
実は人がいて、こっそり作曲をしていたのだとしたら。聞かれていたと知って、怒るかもしれない。悲しむかもしれない。感想を求められるかもしれない。いや待て。今まで、私以外に、この曲を聴いた人は、私が知っている中ではいない。……幽霊? だとしても、実体の無いそれを、木藤さんに何と説明すれば良い? 最初から、私の幻聴でしかなかったら?
困って準備室を見渡す。時計が目に入り、もうすぐ先生が戻ってくる事に焦る。
「ええい、いっちゃえ!」
小声でそう言いながら、思いっきり扉を引いた。
ガゴッと、板と板がぶつかる音がして、気付いた。
あ、これ押すのか。
普通、押してみてから、引くことに気付くよな、と場違いな事を考える。
「てぇい!」
改めて思いっきり扉を押した。
大音量で軋む木の板にぎょっとする。それでも開けきると、ピアノの椅子に、誰かが座っていた。
「え、誰?」
同時に、互いに同じことを言っていた。
マリー・ブラウン。彼女はそう名乗った。小学二年生の私と同じくらいの背の高さ。折れそうなほど細くて、大人っぽかった。
キレイな金色の髪と、くっきりした目鼻立ちは、明らかに日本人じゃない。のに、言葉が通じる。流暢な日本語だった。
「えっと、あの、その、それは何の曲?」
とっさに聞けたのはそんなことだった。
「私の曲なの。まだ完成してないんだけど」
「そう、なんだ」
書きかけの楽譜を手に取り、マリーは私を見た。
「あなたは、私の音が聞こえるのね?」
一瞬、何のことを言っているのか分からなかった。曲の事だと気付いて、頷く。彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「どう? この曲、好き?」
「だ、だ、大好きっ」
どもりにどもって、やっと声をひねり出す。
「ありがとう。これが完成したら、また会いに来て」
マリーはピアノの下に潜り込むと、底に楽譜を挟んだ。「あっ」と声が漏れる。ピアノの下から出てくると、マリーは人差し指を口の前に立てて、可愛らしくウインクをして、消えていった。
その楽譜を見たい。
彼女の曲を知りたい。
そんな好奇心に負けてしまう前に、私は音楽室を後にした。
バカだった。
音楽室を後にして、その先にあるのは準備室。
扉を開けば、先生が仁王立ちで待っていた。
「何してたの、笠見さん?」
私はしどろもどろになって、訳の分からない事を口にした。謝った事は確かだ。
ただ、なにか余計な事を言ってしまった気がして、その日帰ってから思い出す事に必死だった。
「もう行きません、だ!」
突然叫んだ私に、木藤さんは大げさに尻餅をついて応えた。痛そうだ。
「な、なんなの」
「もう放課後に音楽室には入りません、みたいなこと言っちゃった!」
「結局、どうだったのよぅ」
じれったそうに聞いてくる大きな眼鏡を無視して、私は一人焦る。
このままでは、完成しても聴きに行けない!
なんということだろう。
怒られた翌日に、また準備室へ入るなどという度胸は無かった。音楽の授業では先生は何事も無かったかのように話しかけてくれたけれど、私はピアノの底の楽譜が気になって、完全に上の空だった。
それから二、三週間ほど、音楽室には近寄らず、まっすぐ家に帰っていた。
だが、その間にも曲は完成しているかもしれない、と思うと、小心な自分が歯痒かった。
音楽室に行くきっかけをくれたのは、木藤さんだった。
「もういいわ! 笠見さんが教えてくれないのなら、私、自分で見てやる!」
業を煮やした木藤さんが、立ち上がった。野次馬心が溢れ出ている彼女をマリーに会わせるのは、作曲の邪魔になるんじゃないかと避けていたのだ。
「ま、待って! 何かが居たかどうかハッキリしてないのに、鍵の掛かってる音楽室に、許可無く入るなん――」
まくし立てる私を手のひらで制し、木藤さんは呆れたという表情になる。
「誰が許可無く入るって?」
「え」なんで思いつかなかったんだろう。
必死で、一緒に連れて行って欲しいと頼んだら、案外簡単にOKしてもらえた。
放課後、さっそく職員室に行こうとする私を、廊下で待っていた木藤さんが止めた。
「音楽室の前のほうが良いわ」
単に、彼女があまり動きたくなかっただけかもしれないが、それは効率的なやり方に聞こえた。
音楽室と、準備室の戸の間の壁に寄りかかって、先生を待つ。
ほどなく、先生はやってきた。
「あら、どうしたのあなたたち」
「私たち、確かめたい事があってきたんです」
えぇっ、と私は木藤さんを見た。先生に、あの曲のことを言ってしまうのか。「ね」と彼女は私に振る。私が、説明するのだろうか……?
私はマリーのことを話した。もちろん、ピアノの底の楽譜のことは秘密だ。木藤さんも興味津々という様子で聞いていた。
全部話し終わると、先生は嬉しそうに準備室へ入れてくれた。
「そう。あの子まだ曲をかいているのね」
先生の目が懐かしそうに細められる。
「先生、知ってたんですか」
「あれは、私がここの五年生、あなたたちより三つ上だったときよ。私も放課後の音楽室で、マリーに会ったの」
先生が五年生だったとき……今から三十年近く前のことになるのか。
「あのときも、マリーはピアノを弾いていたわ。まだドアもあんなに古くなくて、静かに入られたのよ」
「マリーって、何者なんですか?」
幽霊だと信じて疑っていないくせに、木藤さんはそんなことを聞く。
「何者なのかしらね。聞いたことないわ」
木藤さんは不服そうに引っ込んだ。
「まだ、同じ曲を書いているのかしら。あの頃は、たぶん三、四小節くらいしか出来ていなかったと思うわ」
私が聞いたのは、もっと長く、三十年かけて少しずつ完成に向かっているんだと、改めて知った。
「彼女、完成したら聴きに来てねって言ってたんだけど……そう、まだ未完成なのね」
「もしかして、先生。そのためにこの学校へ?」
「ええ」
「ねーえー。ピアノ、音鳴ってないけど」
和やかな雰囲気は、木藤さんの苛ついた声で崩れた。確かに、今日は何も聞こえない。
「人数が多くて、怯えてるんじゃないかな」
私の言葉に、先生が頷く。
「恥ずかしがっているのかもしれないわ」
「なによそれー。聴けないってこと?」
ぷりぷりと怒っている木藤さんを連れて、今日のところは帰ることにする。マリーはきっとスランプなのだ。
その翌日から、私はまた準備室へ通うようになった。今度は先生公認である。
たった一日のスランプは、まるで木藤さんを避けていたようでなんだか感じが悪いが、楽譜を見せてもらえたら、練習して木藤さんに聞かせてあげようと思った。
――ジャガーン!!
不意を突かれて、また楽譜を床にばら撒いた。急いで掻き集めながら、もしかして、と期待する。もしかして、今日また何か思いついたのかな? と。
やはり、曲は伸びた。前のとは違う、楽しげな旋律が流れる。
私は職員室へ走った。ピアノの音色はどこまでもついてくる。先生を、マリーのことを懐かしげに話す先生を、マリーに会わせてあげたい。あの曲を聴かせてあげたい。私は手足をでたらめに動かして、階段を駆け下りる。
まだ聞こえる。まだ聞こえてる。ねえ、先生、聞こえてる?
職員室の引き戸を開く。予想以上に力が入って、とても大きな音を立ててしまった。
室内が静まり、視線が集まる。冷や汗が出た。
「あ、のぉ。皆川先生、いらっしゃいますか……?」
自分の席でコーヒーを啜っていた先生が、目を丸くして駆け寄ってくる。
「どうかしたの?」
私はその時、ピアノの音色が止まっている事に気付いた。それでも……
「今日は、マリーに会えるかもしれません」
先生の小さな目が、もっと細く小さくなった。
「行きましょう」
鍵を開けて、音楽室に入る。
中には誰もいなかった。ピアノは静かにたたずんでいる。
先生と顔を見合わせて、私は肩を落とす。
「気にしないで。今日は会いたい気分じゃないのよ、きっと」
頭を撫でてくれる先生の手は、少し震えていた。
ごめん先生。期待させてごめんなさい。会えると思ったのに会えなかったときって、悲しいよね。心が締めつけられるんだよね。私は知ってる。あれから何度も、マリーと会おうとしたんだから。でも会えなくて。だから今日は、あの時と同じ、マリーのベートーベンが聞こえたから、もしかしてと思――
「なーに諦めてるんですか、二人とも」
扉の方から声が飛んできた。
「木藤さん……!」
「あーあー、ひどい顔。泣くのはまだ早いわよ」
そう言って、木藤さんは上を指差した。つられて上を見上げるが、何も変わったところはない。
「聞こえないの?」
素っ頓狂な声を上げて、木藤さんは笑った。今日の彼女はとても楽しそうである。
「笠見さん。さっきまで聞こえていたんでしょ」
私は頷く。木藤さんは顎に手を当てて、得意げに話し始めた。
「で、今は聞こえない。ピアノに誰も座っていないものね。でも、私には聞こえる」
「どういう意味?」
先生が困惑する。
「二人とも、初めてその、マリーさんだったかしら? ……に会ったのは、こっちから入ったときでしょう」
木藤さんは準備室の引き戸を指した。
「あ!」
私と先生は、また顔を見合わせて、急いで音楽室を出る。
――聞こえた! マリーのピアノの音色!
確かにそれは、準備室を通って聞こえてきた。音楽室からは聞こえない。
三人で準備室の扉をくぐると、そこには綺麗なブロンドが輝いていた。
「マリー……!」
先生が両手で自分の口を覆う。
マリーは振り返り、にっこりと微笑んだ。
「ちょうど、完成したところなの」
彼女は楽譜を此方に見せるように、持ち上げた。
びっしりと、音符の詰まった紙だった。
「弾いてみせて」
これは木藤さんが言ったのか、私が言ったのか、よく分からない。声が混ざっていたと思う。
マリーは首を縦に振り、ピアノへ向き直った。
優しく、綺麗な旋律に、さりげなく伴奏が重なる。頭がとろけてしまいそうな、大人っぽいロンド(輪舞曲)だった。
ベートーベンは曲中には使われておらず、始終静かな曲だった。私はどうやら眠ってしまったらしい。隣で木藤さんも目を閉じていた。ピアノの前で、先生が楽譜を見ていた。
「先生、それ……」
先生はくるりと半回転して、屈託のない笑顔を見せた。
「もらっちゃった」
その時の先生は、三十歳くらい、若く見えた。 |