表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

2.感情は破廉恥でない(著:網田めい)



 ――かん‐じょう〔‐ジヤウ〕【感情】――

 物事に感じて起こる気持ち。外界の刺激の感覚や観念によって引き起こされる、ある対象に対する態度や価値づけ。快・不快、好き・嫌い、恐怖、怒りなど。

「―をむきだしにする」「―に訴える」「―を抑える」「国民―を刺激する」



 ――よく‐ぼう〔‐バウ〕【欲望】――

 不足を感じてこれを満たそうと強く望むこと。

 また、その心。「―にかられる」



 ――むじゅんげんり【矛盾原理】――

 論理学で、思考の原理の一。

「Aは非Aではない」または「いかなるものもAかつ非Aであることはできない」という形式で表される。同一原理の反面を表す。矛盾律。矛盾法。→思考の原理




 * * *




 感情が無ければ、欲望も無くなるのでは? という疑問は消えているはずです。

 施設にいた頃に救済されているのだから、この疑問が浮かぶのはおかしいのです。


『マタ ヲ ヒライテ クダサイ』


 昔は感情がありましたので、受精行動は痛みだけでした。――では、快楽となってしまった受精行動と出産は、感情で出来ているのでしょうか?


 いいえ、違います。


 これらは合理性として、気持ち良くなっています。

 気持ちが良いから、たくさん産めるのです。産みたくなるのです。

 これを、真実の愛と呼び、破廉恥ではありません。


「あっ……」


 気持ちが良いことは、たまらない。だから、清いのです。

 気持ちの悪いことは、気持ちを悪くするので、気持ちが悪いのです。

 欲望は美しく、感情は醜いです。


「あ。あ。あ」


 分娩の痛みは、星が瞬く事と似ています。星の輝く理由は月が明るいから、負けまいと余計に光るからです。太陽が元気なのは、死んでしまった人間の臓器と同じ。星がクラッカーのように飛び散り、汚いから蒸発させようとしているのです。私たちは、美しいのです。それらの下で愛を保有する人間は、特に――言ってしまえば私は、海と大地が混じった豊かな生命の宝箱そのものです。大地は、星と月を心底どうでもいいと思っていますが、太陽だけは大好き。


「ん。ん。ん」


 大地の気持ちが分かります。卵子が太陽の形と似ているから、大地は太陽が好きなのです。太陽のおかげで、私は生きていると実感できるのです。太陽は、大地を好きか知りません。

 海の白波は、わざわざやってきて沖へすぐ帰っていきますが、懲りなくまた訪れます。私に、愛を求めているからでしょう。「あー。あー。あー」ひとつ罪を重ねると、またひとつ、自動的に罪は重なります。これは道を踏み外すと、外道を歩むということですが、大地が勝手に山を創るのと、てんで、変わりません。私は見守ることしかできない、まるで星のようです。

 ああ。ああ。星のようだ、とは、とてもくだらない。しかし、嬉しいことには変わらない。白波は、感謝の言葉をいつも欲しがる甘えん坊ですから――私は、ありがとう、と、よしよしと、愛でることができます。


「ん。ん。ん」


 月並みとは、人間らしいことをさします。これは、娯楽を楽しみ、真実の愛に溺れるということなのです。今の私は出産をしていますので、愛に溢れています。ええ、月並みに!


「ん。ん。ん」


 普通の赤ん坊は感情がないので、産まれても泣きません。

 これは産まれたことが嬉しすぎて、言葉が出ないのでしょう。


「あー。あー。あー」


 駄目な赤ん坊は、感情があります。すなわち悲しいので、泣くのです。

 産まれてきたことを謝りたいからこそ、泣くのでしょう。


「んっ。んっ。んっ」


 子供は宝物です。心配は無用です。

 感情が有ったとしても救ってもらえるのです、私のように!




 * * *




 頭上に、まるで落雷だ。

 私は、死の宣告をされた。機械のくせに生意気だ。


「あ。あ。あ?」


 急に溢れてきた心の言葉を、思考上で文章化してしまった。

 何が何だかわからなくなって、はじめて訪れたように自分の部屋を見回した。

 私は、知識源と扱われ、廃棄された“紙”と呼ばれるクロスをリノリウムの床に敷き、座っている。二週間前に出産は終わった。バイタルは安定しているが、十二時間に五回の受精行動を二回に減らされる。精子をくれてやるのはもったいないと、管理塔に宣告されたのだ。


「…………」


 天井からの声は終わった。話は要点しか聞けなかった。私は、感情が無いので、食道に刃物を突っ込まれても、尿道へピアノ線を畳むように入れてから、勢いよく引き抜かれても良い。殺されることに恐怖はなかった。当たり前だ。


「…………」


 尻に敷いた紙は、無意識に握った私の手と連動し、くしゃり、と、酷く無様な音を立てた。うつむいていた私は、両腿の間から、ちらりと見えた文字に気がついた。破廉恥な施設が懐かしく思えた。


「――どうぞ」


 一体、精子はどこで覚えたのか。自動ドアをノックしてから部屋に入ってくる。私は、マニュアル通りにクロスを広げる。放送に従い、股を開いた。


「……、……」


 私は、指を使ってひっぱって。私の中身をはじめて魅せた。

 なぜ見せびらかしているのか、わからなかった。


「…………」


 すぐに入りたがる馬鹿な精子の首筋へ、吐息が多めに漏れた。首筋を舐め回したい。お前が私から逃げないよう、腰を太ももで潰すつもりで挟んでやりたい。いつも通りの押し込もうする運動は、もはや気怠さを感じるが、これもまた、いつも通りに気持ちよかった。ただ一つ違うのは、この一発で妊娠する気がしたことくらい。必死な精子の頭を撫でてやると、脳裏にひとつの疑問が焼きついた。


 快楽は。欲望は、感情なのだろうか。




 * * *




 秋というのは、茶色だった。冬というのは、青色だった。

 春というのは、桃色だった。夏というのは、赤色だった。


 部屋の壁は、四季の色がすべて混ざって黒色になりはじめた。――とは、よく言ったもので。今は、ただ、消灯の時間に過ぎない。これは私の人生が終わるから、暗く、黒く、そう感じているだけ。


「…………」


 昔の自分には、あり得ない感覚だった。今では何かを想うと、壁を眺めてしまう。真っ白な壁は、想ったことを身勝手に映してくれる原稿用紙と同じ。動画のように、言葉が浮かんで泳いで、一文は現れる。文脈は道路標識みたいなもので方向を指示してくれるが、壁に映ったものは語が彩豊かな色に変容し、もはや道路標識でない文章だった。これらは、進むべき方向を見失っているように錯覚するからこそ、はっとしてしまう私の絵画だ。笑ってくれる人は誰ひとりもいなくて、いつも辛い顔した悪魔だよ、こいつらは。

 壁は、ひどくざらざらだ。やすりをかけると私の頭蓋の中身が分かるかもしれないと、かち割りたくなったら、埋め尽くしていた言葉はすうと消えた。「…………」脳の中身は何なのかと考えながら、ふたたび見つめる。壁に最後まで残っていた一文は「生きたい」の一言だった。


 かさり。


 寝返りをうち、紙のベッドが鳴った。もう少し近づかないと、手は壁に届かない。「生きたい」一文に触れてみようとしたが、諦める。その一文の意味が、頭に入らないから必要ないとまで思った。かわりに胎動した腹をさすると、私の肺から言葉が産まれるように、破水した。気持ちが悪い。


「――生きている。何も知らずに、生きている。私は、お前のことを知らずに生きている。今のお前は、感情を持っているか。作っている最中か?」


 息をする苦しさは、出産そのものだ。欲望とは何か。感情とは何か。

 これらを、腹の中のお前から教えてほしくはないが、私の悩みだけは聞いてほしい。


「…………」


 誰もいない。誰も、天井の声すら答えてはくれないから、「生きたい」は「逝きたい」と、私を弄ぶように変わった。


「…………」


 私は、なぜ変化したのかと考えた。その意味を理解したくはないから、脳が語の持つ多面性を定めるため視点を切り替えて、化かしたのだろう。一文が変化したことで誘われるように――易々と、ようやく壁へ触れることができたのだから、間違いではない。私は納得しているのだ。


「…………」


 言葉は剥がれ、身体に重なり沁み込むと、私は「捨てられた」と何かが明白となり、楽に寝返りを打てた。




 * * *




『シュッサン ノ ジカンデス マタ ヲ ヒライテ クダサイ』


 窓は無いから真っ白な壁に、風景の文章を映して出産の準備をはじめた。幼少の私は庭沿いの塀の真下で雑草を根から引き抜き、丁寧に横一列に植えなおしていた。先生との性行動が終わったまんまの姿で、草を活ける光景が潤んで浮かんだ。施設の庭園は夏の熱気でゆがんでいるのに、股からは冬の雪よりも冷たく白い液体が垂れ続けた。赤くはなかった。何でもない私の部屋の壁や天井の色と、まったく同じだった。


「――今。今。今。楽しい! 楽しい! 楽しい! 幸せです、私!」


 たけだけしく語りたい。これが娯楽なのです、と。

 痛くは無いです、もう慣れているから。

 子供は嫌いです、娯楽だから。

 嫌いなことが分かると痛さも快楽も途切れてしまった。

 私は、まるで進むだけの時計だった。


『――マタ ヲ ヒラク ト カンジョウ ガ ウマレタ アリガトウ バイバイ ナマゴミ』


 用済みの私は機械に殺されるが、これは誰のせいでもない。

 私が悪いのだ。私は、私の感情に社会的に殺されるのだ。


「…………」


 ひどく善良で幸福な存在、出産者の棺桶の、先。感情が有る、無い、の、未来へ。悩んだすえ、私はよだれを垂らしながら頭を抱え、ただの無邪気となった。私は子供なのだ。五体満足で、なお若くして死ぬときは、大人になりたくはないと自分自身の若さに安堵した瞬間、死ねると気がついた。感情は理屈に削られ、もはや無く、まるで灰以下の粒子だった。ざわり、ざわりと、毛穴から首のない蠅が出てきて動けなくなり、途方に暮れた。粒子が霧のように視界を包む。赤色で、黒色だ。苦い糞の味がする。二色がカチカチと入れ替わるたびに、落ち葉を踏みしめる音がして、嫌いな先生が近づいてくる。がさつく音で、耳の奥は痒くなり、自死を誘う。


「ありがとうございます。ありがとうございます。私は私で。私は私で。ひとりでも。たったひとりで。感情を処理できます」


 「死にたくない」と、言葉にすることは怖い。これが恐怖という感情だ。

 感謝は、しかし簡単だ。頬は笑顔を勝手に作るのだと、たった今知った。

 解読する気の失せる薄味の紙を、すべて飲み込み喉を詰まらせたから、言える。


 つまらないけれど、どうか死なないで。


 お腹とお腹。私との赤い糸は千切れて、赤ん坊は泣いていた。「――、――、――!」とても、破廉恥に――ううん。これは勇敢だ。狂った私は、私の赤ん坊を気高いと信じた。信じているから抱きしめる。感情は死んだのだ。生きている私は、泣けない。泣いてたまるものか! すでに狂った涙は、子供へ託していたのだ! この生の欲望は、感情なのだろうか! 私の出産人生は、なんという名の語なのだろうか! 胸のそここから発し、脳のそここに通じる! きゅんとして、性器のそここへ溜まりつづけるタールピットと似た語に違いなく、気持ちが良い!


 ああ――この名は、語は、恋か愛か!


 いいや、違う! 私の人生に、相応しい語が見つからない!

 そもそも相応しい語を見つけたとして、私は一体どうなるのだろうか!

 万物を知る機械は絶望しないからこそ、いつまでも優しくしてくれる!

 下品な人間は、見苦しく馬鹿なのだ! 文字通り息が詰まって、私は死んだ!


 さあさ、美しく生きる道を真面目に考えようではないか!




 * * *




 ――むだ【無駄/▽徒】――


 1.役に立たないこと。それをしただけのかいがないこと。また、そのさま。無益。「―な金を使う」「時間を―にする」

 2.「むだぐち」に同じ。


 [補説]「無駄」は当て字。


「しゃれも―もいっかう言はず」〈滑・膝栗毛・初〉



 ――すべての抜粋、デジタル大辞泉より――





挿絵(By みてみん)

(網田めいさんがmarieさんから頂いたFA)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ