2.感情は破廉恥でない(著:網田めい)
――かん‐じょう〔‐ジヤウ〕【感情】――
物事に感じて起こる気持ち。外界の刺激の感覚や観念によって引き起こされる、ある対象に対する態度や価値づけ。快・不快、好き・嫌い、恐怖、怒りなど。
「―をむきだしにする」「―に訴える」「―を抑える」「国民―を刺激する」
――よく‐ぼう〔‐バウ〕【欲望】――
不足を感じてこれを満たそうと強く望むこと。
また、その心。「―にかられる」
――むじゅんげんり【矛盾原理】――
論理学で、思考の原理の一。
「Aは非Aではない」または「いかなるものもAかつ非Aであることはできない」という形式で表される。同一原理の反面を表す。矛盾律。矛盾法。→思考の原理
* * *
感情が無ければ、欲望も無くなるのでは? という疑問は消えているはずです。
施設にいた頃に救済されているのだから、この疑問が浮かぶのはおかしいのです。
『マタ ヲ ヒライテ クダサイ』
昔は感情がありましたので、受精行動は痛みだけでした。――では、快楽となってしまった受精行動と出産は、感情で出来ているのでしょうか?
いいえ、違います。
これらは合理性として、気持ち良くなっています。
気持ちが良いから、たくさん産めるのです。産みたくなるのです。
これを、真実の愛と呼び、破廉恥ではありません。
「あっ……」
気持ちが良いことは、たまらない。だから、清いのです。
気持ちの悪いことは、気持ちを悪くするので、気持ちが悪いのです。
欲望は美しく、感情は醜いです。
「あ。あ。あ」
分娩の痛みは、星が瞬く事と似ています。星の輝く理由は月が明るいから、負けまいと余計に光るからです。太陽が元気なのは、死んでしまった人間の臓器と同じ。星がクラッカーのように飛び散り、汚いから蒸発させようとしているのです。私たちは、美しいのです。それらの下で愛を保有する人間は、特に――言ってしまえば私は、海と大地が混じった豊かな生命の宝箱そのものです。大地は、星と月を心底どうでもいいと思っていますが、太陽だけは大好き。
「ん。ん。ん」
大地の気持ちが分かります。卵子が太陽の形と似ているから、大地は太陽が好きなのです。太陽のおかげで、私は生きていると実感できるのです。太陽は、大地を好きか知りません。
海の白波は、わざわざやってきて沖へすぐ帰っていきますが、懲りなくまた訪れます。私に、愛を求めているからでしょう。「あー。あー。あー」ひとつ罪を重ねると、またひとつ、自動的に罪は重なります。これは道を踏み外すと、外道を歩むということですが、大地が勝手に山を創るのと、てんで、変わりません。私は見守ることしかできない、まるで星のようです。
ああ。ああ。星のようだ、とは、とてもくだらない。しかし、嬉しいことには変わらない。白波は、感謝の言葉をいつも欲しがる甘えん坊ですから――私は、ありがとう、と、よしよしと、愛でることができます。
「ん。ん。ん」
月並みとは、人間らしいことをさします。これは、娯楽を楽しみ、真実の愛に溺れるということなのです。今の私は出産をしていますので、愛に溢れています。ええ、月並みに!
「ん。ん。ん」
普通の赤ん坊は感情がないので、産まれても泣きません。
これは産まれたことが嬉しすぎて、言葉が出ないのでしょう。
「あー。あー。あー」
駄目な赤ん坊は、感情があります。すなわち悲しいので、泣くのです。
産まれてきたことを謝りたいからこそ、泣くのでしょう。
「んっ。んっ。んっ」
子供は宝物です。心配は無用です。
感情が有ったとしても救ってもらえるのです、私のように!
* * *
頭上に、まるで落雷だ。
私は、死の宣告をされた。機械のくせに生意気だ。
「あ。あ。あ?」
急に溢れてきた心の言葉を、思考上で文章化してしまった。
何が何だかわからなくなって、はじめて訪れたように自分の部屋を見回した。
私は、知識源と扱われ、廃棄された“紙”と呼ばれるクロスをリノリウムの床に敷き、座っている。二週間前に出産は終わった。バイタルは安定しているが、十二時間に五回の受精行動を二回に減らされる。精子をくれてやるのはもったいないと、管理塔に宣告されたのだ。
「…………」
天井からの声は終わった。話は要点しか聞けなかった。私は、感情が無いので、食道に刃物を突っ込まれても、尿道へピアノ線を畳むように入れてから、勢いよく引き抜かれても良い。殺されることに恐怖はなかった。当たり前だ。
「…………」
尻に敷いた紙は、無意識に握った私の手と連動し、くしゃり、と、酷く無様な音を立てた。うつむいていた私は、両腿の間から、ちらりと見えた文字に気がついた。破廉恥な施設が懐かしく思えた。
「――どうぞ」
一体、精子はどこで覚えたのか。自動ドアをノックしてから部屋に入ってくる。私は、マニュアル通りにクロスを広げる。放送に従い、股を開いた。
「……、……」
私は、指を使ってひっぱって。私の中身をはじめて魅せた。
なぜ見せびらかしているのか、わからなかった。
「…………」
すぐに入りたがる馬鹿な精子の首筋へ、吐息が多めに漏れた。首筋を舐め回したい。お前が私から逃げないよう、腰を太ももで潰すつもりで挟んでやりたい。いつも通りの押し込もうする運動は、もはや気怠さを感じるが、これもまた、いつも通りに気持ちよかった。ただ一つ違うのは、この一発で妊娠する気がしたことくらい。必死な精子の頭を撫でてやると、脳裏にひとつの疑問が焼きついた。
快楽は。欲望は、感情なのだろうか。
* * *
秋というのは、茶色だった。冬というのは、青色だった。
春というのは、桃色だった。夏というのは、赤色だった。
部屋の壁は、四季の色がすべて混ざって黒色になりはじめた。――とは、よく言ったもので。今は、ただ、消灯の時間に過ぎない。これは私の人生が終わるから、暗く、黒く、そう感じているだけ。
「…………」
昔の自分には、あり得ない感覚だった。今では何かを想うと、壁を眺めてしまう。真っ白な壁は、想ったことを身勝手に映してくれる原稿用紙と同じ。動画のように、言葉が浮かんで泳いで、一文は現れる。文脈は道路標識みたいなもので方向を指示してくれるが、壁に映ったものは語が彩豊かな色に変容し、もはや道路標識でない文章だった。これらは、進むべき方向を見失っているように錯覚するからこそ、はっとしてしまう私の絵画だ。笑ってくれる人は誰ひとりもいなくて、いつも辛い顔した悪魔だよ、こいつらは。
壁は、ひどくざらざらだ。やすりをかけると私の頭蓋の中身が分かるかもしれないと、かち割りたくなったら、埋め尽くしていた言葉はすうと消えた。「…………」脳の中身は何なのかと考えながら、ふたたび見つめる。壁に最後まで残っていた一文は「生きたい」の一言だった。
かさり。
寝返りをうち、紙のベッドが鳴った。もう少し近づかないと、手は壁に届かない。「生きたい」一文に触れてみようとしたが、諦める。その一文の意味が、頭に入らないから必要ないとまで思った。かわりに胎動した腹をさすると、私の肺から言葉が産まれるように、破水した。気持ちが悪い。
「――生きている。何も知らずに、生きている。私は、お前のことを知らずに生きている。今のお前は、感情を持っているか。作っている最中か?」
息をする苦しさは、出産そのものだ。欲望とは何か。感情とは何か。
これらを、腹の中のお前から教えてほしくはないが、私の悩みだけは聞いてほしい。
「…………」
誰もいない。誰も、天井の声すら答えてはくれないから、「生きたい」は「逝きたい」と、私を弄ぶように変わった。
「…………」
私は、なぜ変化したのかと考えた。その意味を理解したくはないから、脳が語の持つ多面性を定めるため視点を切り替えて、化かしたのだろう。一文が変化したことで誘われるように――易々と、ようやく壁へ触れることができたのだから、間違いではない。私は納得しているのだ。
「…………」
言葉は剥がれ、身体に重なり沁み込むと、私は「捨てられた」と何かが明白となり、楽に寝返りを打てた。
* * *
『シュッサン ノ ジカンデス マタ ヲ ヒライテ クダサイ』
窓は無いから真っ白な壁に、風景の文章を映して出産の準備をはじめた。幼少の私は庭沿いの塀の真下で雑草を根から引き抜き、丁寧に横一列に植えなおしていた。先生との性行動が終わったまんまの姿で、草を活ける光景が潤んで浮かんだ。施設の庭園は夏の熱気でゆがんでいるのに、股からは冬の雪よりも冷たく白い液体が垂れ続けた。赤くはなかった。何でもない私の部屋の壁や天井の色と、まったく同じだった。
「――今。今。今。楽しい! 楽しい! 楽しい! 幸せです、私!」
たけだけしく語りたい。これが娯楽なのです、と。
痛くは無いです、もう慣れているから。
子供は嫌いです、娯楽だから。
嫌いなことが分かると痛さも快楽も途切れてしまった。
私は、まるで進むだけの時計だった。
『――マタ ヲ ヒラク ト カンジョウ ガ ウマレタ アリガトウ バイバイ ナマゴミ』
用済みの私は機械に殺されるが、これは誰のせいでもない。
私が悪いのだ。私は、私の感情に社会的に殺されるのだ。
「…………」
ひどく善良で幸福な存在、出産者の棺桶の、先。感情が有る、無い、の、未来へ。悩んだすえ、私はよだれを垂らしながら頭を抱え、ただの無邪気となった。私は子供なのだ。五体満足で、なお若くして死ぬときは、大人になりたくはないと自分自身の若さに安堵した瞬間、死ねると気がついた。感情は理屈に削られ、もはや無く、まるで灰以下の粒子だった。ざわり、ざわりと、毛穴から首のない蠅が出てきて動けなくなり、途方に暮れた。粒子が霧のように視界を包む。赤色で、黒色だ。苦い糞の味がする。二色がカチカチと入れ替わるたびに、落ち葉を踏みしめる音がして、嫌いな先生が近づいてくる。がさつく音で、耳の奥は痒くなり、自死を誘う。
「ありがとうございます。ありがとうございます。私は私で。私は私で。ひとりでも。たったひとりで。感情を処理できます」
「死にたくない」と、言葉にすることは怖い。これが恐怖という感情だ。
感謝は、しかし簡単だ。頬は笑顔を勝手に作るのだと、たった今知った。
解読する気の失せる薄味の紙を、すべて飲み込み喉を詰まらせたから、言える。
つまらないけれど、どうか死なないで。
お腹とお腹。私との赤い糸は千切れて、赤ん坊は泣いていた。「――、――、――!」とても、破廉恥に――ううん。これは勇敢だ。狂った私は、私の赤ん坊を気高いと信じた。信じているから抱きしめる。感情は死んだのだ。生きている私は、泣けない。泣いてたまるものか! すでに狂った涙は、子供へ託していたのだ! この生の欲望は、感情なのだろうか! 私の出産人生は、なんという名の語なのだろうか! 胸のそここから発し、脳のそここに通じる! きゅんとして、性器のそここへ溜まりつづけるタールピットと似た語に違いなく、気持ちが良い!
ああ――この名は、語は、恋か愛か!
いいや、違う! 私の人生に、相応しい語が見つからない!
そもそも相応しい語を見つけたとして、私は一体どうなるのだろうか!
万物を知る機械は絶望しないからこそ、いつまでも優しくしてくれる!
下品な人間は、見苦しく馬鹿なのだ! 文字通り息が詰まって、私は死んだ!
さあさ、美しく生きる道を真面目に考えようではないか!
* * *
――むだ【無駄/▽徒】――
1.役に立たないこと。それをしただけのかいがないこと。また、そのさま。無益。「―な金を使う」「時間を―にする」
2.「むだぐち」に同じ。
[補説]「無駄」は当て字。
「しゃれも―もいっかう言はず」〈滑・膝栗毛・初〉
――すべての抜粋、デジタル大辞泉より――