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1.感情は破廉恥だ(著:マグロアッパー)



 ――――――――――――――――――――――――


 はれんち[2]【破廉恥】

 (名・形動) [文]ナリ


 人として恥ずべきことを平気ですること。人倫・道義に反すること。また、そのさま。恥知らず。「 ――な人間」 「 ――極まりないふるまい」


 ――(西暦2006年10月27日発行 大辞林第三版より)――



「汚い」

「お前を殴るぞ」


 革手袋を嵌めていない手が迫り、鈍い音がした。

 感情は容易に人を分け隔てる。諸悪の種だ。嬉しい悲しい花を咲かせる。


 だから、きっと、やっぱり。



 * * *


 

 森の中の白い収容所。大人の背丈二つ分ほどの高さの塀に囲まれた、特殊な施設。感情保有者の矯正場。僕が寝起きする施設には破廉恥な人間が集まっている。


「感情は破廉恥だ。言え」


 朝の挨拶に先生が部屋を回る。若い女の先生だ。髪の毛が短い。スーツを着ている。筋肉質で細い。口元が知的だ。目つきが鋭い。手に革手袋を嵌めている。


 破廉恥な人間である僕は、促されるまま復唱する。


「感情は破廉恥です」


 破廉恥な人間。つまりは未だに感情を持っている人間のことだ。

 今の時代にも何千人に一人かは感情を持った人間が生まれることがある。


「感情警察からは誰も逃げられない」

「感情警察からは誰も逃げられません」


 彼らは泣いたり笑ったり、怒ったりする。平気で人を好きになり、嫌いになる。容赦なく人を分け隔てる。愛がない生き物。人間の皮を被ったモンスター。


 そういった人間がこの施設には収容されていた。感情警察が管理する施設で暮らしている。そこで教育してもらうのだ。立派な大人になる為に。幸福な社会に適応する為に。人を自分の持ち物で勝手に分け隔てない為に。愛を獲得する為に。


 ――人類を保存していくのに「感情」は不要だ。


 幾度かの絶滅の危機を乗り越えた末、人類が辿り着いた結論がそれだった。


 西暦という今から二つほど前に使用されていた暦の終末に、酷い戦争が起きた。それ以降、生き残った人類は人類の在り方について疑問を持ち始めたと習った。


 経済を加速させ、科学を発達させてきた人類。その末路としての滅亡の危機。だが経済や科学の発生は必然であり、その発達もそうである。ならば問題はそれを扱う側にあったのではないか。そこで「感情」というエラーに考えを及ぼし始める。


 様々な学術からアプローチしても、感情の有意味性を人類は説明することが出来なかった。争いの種でもあり、喜びの種でもある感情。人類に紛れ込んだそれ。


 或いは「感情」とは、神が人類に仕掛けた爆弾なのか。


 当時、そう考えていた科学者や哲学者もいたらしい。高度な文明を築いて科学を発達させても、感情ある限り人は自ずから滅びの道を辿る。他者を妬み、差別し、決して一つになることは出来ず、お互いを傷つけ合う存在。楽園追放者。


 感情故に人は分け隔てを無くす。誰かを好きになることは誰かを嫌いになることに繋がる。楽しむことは悲しむことに、笑うことは泣くことに繋がる。


 感情ある限り人は不安定な儘だ。容易に自ずから危機を作り出す。

 一つ前の暦でも主義や理想、感情を発端にした酷い戦争が起きた。


 ようやく人類はその時から、感情を取り除いた進化を望み始めた。

 発達させてきた科学を活用し、人類から感情を取り除こうと試みたのだ。


 科学がよりよい社会の実現の為にあるのなら、感情を取り除く行為は科学の本意ともいえた。愚行を三度繰り返さない為の、人類の手による人類の進化。


 無感情な人間、その第一号の誕生。管理された全体主義の時代。あるポイントから爆発した進化の波は、時間をかけて緩やかに、だが確実に地球を覆った。


 そうやって人類は、人類から感情を取り除くことに成功した。

 争いも無くなった。人は自由で善良で幸福な存在になったのだ。


 奢ることも昂ぶることもない。心乱れることも腹を立てることもない。誰を嫌悪することもなく、誰を好きになることもない。分け隔ては地球上から無くなった。


 ――人類は本当の意味で愛を獲得した。


 感情を持ってしまった、出来損ないの、僕らを除いて。


「逃げても隠れても無駄だ。何故だ」


 コツコツと乾いた靴音がした。その音で現実に立ち返る。

 先生が僕の周りをゆっくりと歩いていた。


 施設で習う人類感情史を思い返していた僕は、無感動に答える。


「星と月、太陽だって感情警察の味方だからです」


 先生が正面に戻る。僕を見据えた。

 愛を持っている人が肘を引く。


「お前を殴るぞ」


 僕らは毎日、そう言っては殴られる。


「はい」


 感情を持った人間から感情を無くすことは出来ない。薬を使えば一時的に無くすことが出来るみたいだけど、沢山の不都合も生まれるようだった。そこで色々と考えられた末、シンプルに暴力を与え続けることが効果的だと分かったらしい。


 だから殴られる。朝と夜に決まって殴られる。

 笑ったり泣いたり、感情を見せたら殴られる。


 感情は良くないものだということが、たっぷりと躾られる。殴られることが習慣になると徐々に神経がオカしくなる。顔から表情が消える。恐慌や混乱を経た後、感情が麻痺し始める。感情は破廉恥だから、そうやって矯正する必要があった。


 今日も重く鈍い音が部屋に響く。


「よし」

「ありがとうございました」


 僕は頭を下げる。


「朝食まで自由にしていろ」

「はい」


 先生が部屋から去る。扉の閉まる音。

 簡素な洗面台の前に立った。痛む頬を蛇口の水に晒す。


 小さい頃は色んなことに泣いたり喚いたりした。笑ったり喜んだりした。

今ではそういうこともない。淡々と殴られ、そのことを受け入れている。


 それでも時々思う。

 これもみな、あの、感情というやつのせいなのだ、と。


 だが憤ることすらよくない。感情を麻痺させればよいだけだ。その為にも感情を意識しないことが大切だった。なので今朝も僕は、むず痒さにくしゃみをする。


 僕を生んだ両親を思い返すこともない。怒ることも楽しむこともない。笑わないことにも慣れた。自分をわくわくさせることなく、僕はこうやって生きていく。


 じっと鏡に映る自分を見つめる。

 見つめられる僕。疑わせる僕。振り向かせる僕。見失われた僕。


 愛は、まだ、僕ではない。



 * * *



「何をしてるの」

「何も」


 僕が今いる施設には十人近い患者がいた。先天的だったり後天的だったりする感情保有者たち。人と人とを分け隔てることを何とも思わない、破廉恥な人間。


 僕たちはそこで一緒に生きていた。外と同じようにそれぞれ仕事を割り振られている。僕は男の子でもあり女の子でもある子と洗濯をする。服やシーツを洗う。


 僕らは破廉恥だが、生きることに真面目で勤勉だ。それでも昼食の後に与えられた自由時間は、それぞれ好き勝手に過ごしていた。ホールで喋ったり、部屋で倒れたり、庭でぼーっとしたり、殴られたり、未来のことを思ったりしている。


「施設の外には出ちゃいけないんだよ」

「外じゃないから大丈夫」


 その自由時間。庭沿いの塀に登って腰かけ、外を眺めている女の子がいた。注意しても顔を動かさずにそう答える、美しい素朴さと健康を蓄えている女の子。



挿絵(By みてみん)



 僕は彼女を見つけると、塀をよじ登って一緒に座る。塀にはそれだけの厚さがあった。外に出ても仕方ないことは知ってるし、意味がないから外には出ない。


 先生も誰も注意しない。彼女はときどき喋って、たまに歌う。はやく立派な大人になりたいのだと言う。愛に参加したいのだと言う。確か僕とおない年だ。


「お母さん、元気にしてるかしら」女の子が尋ねる。

「きっとね」僕が応える。


 多くを語らず、特に語るべきこともない僕らの会話。

 その単調さに耳を澄ませる。


「愛は素晴らしいわよね」

「うん」


 女の子はよく同じことを聞く。


「人を分け隔てないんだもの」

「すごい」


「はやく立派な大人になりたいわね」

「そうだね」


 外の世界に参加することを僕らは切に望んでいた。皆で働いて食料を作って、頭の良い人は合理性を追求して、夜はのんびりして、淡々と人類を保存する作業だ。


 かっちこっちかっちこっち。針が右にいったり左にいったりすることはない。


 いつも同じ気分、いつも同じ感動。同じ愛。同じ状態。悲しんだり楽しんだり、怒ったり泣いたりすることはない。誰も好きにならないし、誰も嫌いにならない。


 欲望を満たす方法は作られていて、人がお腹をすかせることも頬を腫らすことも、傷つくこともない。皆が銀の匙を持っている。平和な牧場。乱されない楽園。


「お母さん、元気かしら」

「大丈夫だよ。元気にしているよ」


 女の子がまた、お母さんと言う。


「そうよね」

「うん、そうだ」


「静かね」

「静かだ」


 そうやって何もしないでいると、やがてチャイムが鳴った。

 僕らは塀を降りた。それじゃ、と言って別れる。


 部屋に戻って学習プログラムをこなす。定められた分が終わると部屋の掃除をする。洗濯物を回収する。お風呂を洗う。お風呂に入る。配られたご飯を食べる。


 先生が来ると殴られる。消灯は早く、鍵をかけられて寝る。

 夢はあまり見ない。見ても忘れてしまう。その筈だ。


 暗闇の中で何かがぼやけて光る。


 何百もの赤い鳥が森から一斉に飛び立つ。手足の長い人間に似た生き物が笑う。空がオレンジ色に爆発する。女の子とその光景を見ている。女の子の口が動く。


 あなたは……。


 夜中に突然起きることがあった。寝汗をびっしょりかいていることがあった。女の子と笑い合っていた気がして、うすら寒くなる。水を飲んでまた眠りにつく。


 覚えてないよ、何もかも。忘れたいことが多いんだ。

 女の子のこと。両親のこと。先生のこと。好きだった人のこと。


 僕が感情を持っているということも。



 * * *



 部屋に光が満ちて目を覚ます。顔を洗って先生を待つ。殴られて仕事をして、任意の一行もなく日々は静かに過ぎていく。満たされた毎日、穏やかな毎日だ。


「やぁ」

「うん」


 お昼の自由時間。庭に出ると、男の子でもあり女の子でもある子が陽に当たってのんびりしていた。地面に腰を下し、建物の壁に背中を預けている。


 僕は挨拶に応じた後、塀の上に視線を投げかける。


「いない」

「あぁ、あの子ね」


 女の子の姿をしばらく見かけていなかった。いつもいる訳じゃない。どちらかと言えばいない日の方が多い。そのとき、どこにいるのか知らない。庭を後にする。


 女の子もやっぱり仕事を任されていて、双子の女の子と施設の掃除をしていた。双子の女の子。頭に尻尾が一つあるのが姉で、頭に尻尾が二つあるのが妹だ。


 その二人は髪の毛が真っ白な、大人みたいな女の人とよく一緒にいる。ホールで見かけて女の子のことを尋ねる。隣の施設で研究されていると口を揃えて答えた。


 研究、そうか。僕たちが生かされている理由だ。


 いずれ感情を発現させない環境が完全になれば、この施設も隣の施設もなくなるのだろう。感情警察もいなくなる。つまりは先生も。きっと、多分。


 次の日も、女の子はやっぱりいなかった。

 珍しく庭に僕一人だ。物足りなさにあくびをして塀を登る。


「施設の外には出ちゃいけないんだよ」


 座って外を眺めていたら、聞き覚えのない女の子の声がした。

 振り返る。知らない女の子が庭にいた。


 こんにちはと言うと、こんにちはと返してきた。


「何をしてるの」その子が尋ねる。

「ぼ~っとしてる」僕は答える。


「施設の外には出ちゃいけないんだよ」

「外じゃないから大丈夫」


「ふ~ん。どうやって登るの」

「頑張って登る」


 その子が頑張って登って来た。わぁ~、と言った。破廉恥な子だ。


「広いね」

「広いよ」


「何をしてるの」

「ぼ~っとしてる」


 その子はまたふ~ん、と言った。僕らには管理番号はあるけど名前はない。

 人が増えると少しだけ厄介だ。誰が誰だが曖昧になる。その子を見つめる。


「みかけない子だ」

「最近きたの」


「知らなかった」

「そうなんだ」


 目を合わせる。くりくりとした目の奥で踊っているものがあった。

 

「感情は破廉恥だ」思わず言った。

「感情は破廉恥だ」その子も言った。


「本当にそう思ってる?」

「思ってるよ。でも、中々なくならないの」


「感情はなくならないよ。麻痺させるものなんだ」

「そっか、じゃあもっと沢山殴られないとダメだね」


「そうだね」

「さようなら」


「さようなら」


 見知らぬ子が塀から降りる。チャイムが鳴った。

 僕は立ち上がり空を見た。


 雲を読んで空を歌うあの子が来ない。またむず痒さにくしゃみをする。


 僕は卑しい生まれだ。だから愛を持っている人みたいに、言葉を休ませたり、意識を豊かに休ませたりすることが出来ないのかもしれない。不自由だった。


「あ~~~」


 声に出した。塀を降りて部屋に戻る。

 やがて一日が終わる。夢は、見ない。



 * * *



「施設の外には出ちゃいけないんだよ」

「外じゃないから大丈夫」


 久しぶりに女の子の姿を見かけた。塀の上に立っていた。男の子でもあり女の子でもある子も庭にいる。注意した後、いそいそと塀を登る。座ってぼんやりする。


 見上げると、女の子が泣いていた。


「泣いてる」

「泣いてない」


「でも涙が」


 女の子は目元をごしごしと擦った。頬を大きく腫らしていた。

 鼻血の跡が乾燥し、顔にこびりついている。


「嘘泣きだよ」女の子が言う。

「嘘泣き」僕も言う。


「嘘泣きなら大丈夫よね」

「うん」


「感情は破廉恥だから」


 感情が何か悪さをしたんだろう。女の子は鼻を啜る。

 尋ねると母親が死んだという。事故だったという。


「事故」

「機械に巻き込まれてしまったの」


 僕らは自然と顔を合わせた。


「外の世界は完璧に管理されている」

「外の世界は完璧に管理されているわ」


 お互い視線を元に戻す。


「どうして」

「分からない。先生がそう言っていたの」


 沈黙が落ちた。僕は言う。


「本当かな」

「どういうこと」


 視界の端、女の子はもの問いたげな目で僕を見た。


「テストかもしれない」

「テスト」


「君が分け隔てていないことの」

「あぁ」


「分からないけどね」

「あなたって」


 女の子の強い眼差しを感じる。

 僕は顔を向けた。


「なに」

「寂しい人なのね」


 二人とも目を逸らさなかった。


「感情は破廉恥だ」僕から口を開く。

「感情は破廉恥だ」女の子もそれに続いた。


「寂しい人」

「忘れて」


「うん」

「さようなら」


 だぼだぼの服を着た女の子が塀から飛び降りた。駆け出していく。


 僕はチャイムが鳴るまで外を眺めていた。光の眩しさに目がチカチカした。女の子の言葉を考える。寂しい人。分け隔てている人、という意味だろうか。


 僕には何も、分かれなかった。



 * * *



「欲望は解消したか」

「ありがとうございました」


 存在の仕方なさがたまる時、僕は僕を吐き出す。その行為に先生がたまに付き合ってくれる。夜だ。先生が皆を殴り終わった後が多い。僕の部屋でする。


 先生にも存在の仕方なさがたまる時があって、丁度よいのだという。僕が吐き出したものを処理している間に、先生が贅肉の無い綺麗な体をシャツで覆う。


「女の子」僕は言う。

「なんだ」先生が振り向く。


「髪の毛の長い。切れ長の目の」

「あぁ、あいつか」


「お母さんが死んだ」


 先生はじっと僕を見た。


「そうだ」

「本当ですか」


「本当だ」

「あぁ」


 先生は行為の後は嘘をつかない。つまり女の子のお母さんは死んだのだ、本当に。でも牧場で女性が一人いなくなっても困らない。中年女性が一人減っただけ。


 シャツだけを身に着けた先生が歩く。ベッドに腰かける僕の前に来た。

 薄い毛を眺める。


「泣いていたな」先生が言う。

「嘘泣きだと言っていました」僕は答えた。


「嘘泣き」

「嘘泣きです」


 欲望に濡れた先生の目と目を合わせる。

 何かを言いかけて僕は口を噤んだ。


「感情は破廉恥だ」先生が言う。

「感情は破廉恥です」僕は復唱する。


「私たちは嘘泣きなんかしない」

「僕たちは嘘泣きなんかしません」


「難しいな、感情は」

「難しいです。感情は」


 それから先生は僕をベッドに倒した。シャツを脱いで準備をした。剥き出しの色をお互いに眺める。先生が「た」と「て」の間で僕を挟む。また行為を始めた。


 興奮をあおられ、僕はたくさん吐き出す。


 タンパク質だと言って、吐き出した物を先生が舐める。口の中でもごもごした。

 苦いと言った。美味いものじゃないと。その光景を無言で見つめていた。



 * * *



「今いる場所から正面に七歩進んで」


 塀を見ながら庭で立ちつくしていると、後ろから女の子の声がした。

 言われた通りに進んだ。女の子も着いてくる。


「右へ直角に曲がって三歩進んで」

「はい」


「左に直角に曲がって四歩、ううん、三歩進んで」

「はい」


「目をつぶって」

「はい」


「どんな臭いがする」


 鼻をすんすんと鳴らす。いつもの庭の臭いだ。


「いつもと一緒」

「そう」


 女の子が動く気配があった。


「目を開けてもいいかな」

「いいわよ」


 瞼を上げる。いつの間にか女の子は塀の上に立っていた。

 僕も続いた。膝を抱えて座る。


「施設の外には出ちゃいけないのよ」

「外じゃないから大丈夫」


 二人で空を見る。

 ゆっくりしていると女の子が口を開いた。


「お母さん」

「うん」


「本当に死んでいたわ」

「そうなんだ」


「えぇ、そうなの」

「うん」


「別に何てことないけどね」

「そう」


 いつもみたいに無言になる。

 何かしらの重さが僕らを確かめていた。


「静かね」

「本当に」


「嘘泣きのことを言っては駄目よ」

「もちろんだよ」


 そこで女の子も塀に腰を下した。

 境界線の上から外を見下ろしている。


「ここから飛び降りたら、死ぬかしら」女の子が聞く。

「死なない」僕は答える。


「えぇ」

「痛いだけ」


「そうね」

「意味がないよ。自分の満足で人に迷惑をかけるだけ」


 女の子が僕を見て言う。


「感情は破廉恥ね」


 僕も女の子を見て言った。


「感情は破廉恥だ」


 すると背後から、あ~~という甘ったるい声が聞こえた。

 揃って振り向く。新しく入ってきた女の子だ。


「何してるんですか」


 新しい子は尋ねると、また頑張って登って来た。

 女の子がこんにちは、と言う。僕はやぁ、と言った。


「はい」


 新しい子は元気よく答えた。


「あなたは何をしているの」女の子が尋ねる。

「ひとりかくれんぼです」新しい子が屈託なく答えた。


「一人かくれんぼ」僕が言う。

「私が鬼なんです」新しい子が言う。


「この施設の子を、みぃ~んな見つけようと思って」


 一拍置いて、僕と女の子はお互いを見た。顔を元の位置に戻す。

 なるほど、とそれぞれに言う。

 

 新しく来た子は体が小さい。年齢も低いんだろう。

 まだ殴られ慣れていない。


「それじゃ、さようなら」


 小さい子が塀から庭に飛んだ。


「えぇ、さようなら」

「うん、さようなら」


 とてとてと駆けて行く後姿を眺めていると、大人の男性が走って来た。

 新しい子の頭を棒で横殴りに殴りつけた。体ごと吹き飛んだ。


 泣いて喚いて、また叩かれた。声を上げた。母親を呼ぶ。

 手に滑らかな感触がした。見ると女の子が僕の手を掴んでいた。震えていた。


 チャイムが鳴る。気付かないふりをして塀から降りた。

 泣き止まない子は引きずられ、また母親を呼ぶ。僕は庭の中程まで進む。


 ふと振り返った。


 女の子が立ち上がり、塀から内側に落ちた。どさりと音がした。

 痛いと言って泣いた。大声で泣いた。お母さんと言った。お母さん、と叫んだ。


 僕らは、まだ、十三歳だった。



挿絵(By みてみん)



 叫びながら、泣きながら、女の子は両手を口に手を当てる。涙は光っていた。

 先生がやってきて、女の子を殴った。そういう毎日だった。



 * * *



 朝の光が瞼の裏に満ちてくる。ベッドから起き上がると顔を洗った。髭はほとんど生えない。歯を磨いてスーツに着替えた。革の手袋を手に嵌めた。


 施設の一室に集まって挨拶をして、時間が来たら部屋を回る。

 感情は破廉恥だと言って子供を殴りつける。それが今の僕の仕事だ。


 五年近い歳月が経ち、僕は施設で働いていた。


 新しい子はあの後、施設から逃げて捕まって、いなくなった。よくあることだった。女の子はあれから塀の上に登ることもなく、立派な大人になって外に戻った。


 無感情だった。もう嘘泣きをする必要もなく、人を分け隔てることない。愛に生きている。欲望を処理したり、指定された男性と子供を作ったりして、牧場で皆で生きている。人が死んでも泣くこともない。お母さんと、叫ぶこともないのだ。


『あなたはここで働くのね』

『うん』


 十六の頃、僕らはそうやって別れた。さようなら、そう言って別れた。

 最後に握手をして、女の子が外の世界に戻る。


『挨拶は済んだのか』


 その光景を先生が黙って見ていた。


『はい』

『今夜、お前の部屋に行くからな』


『わかりました』


 今でも僕らは欲望を処理し合っている。他の人で処理することもあるけど、よく知っている者同士の方が効率が良いのだ。先生は昔から変わらない。僕だけが大きくなり、行為の時はたまに上と下を入れ替え、それでも最後には先生が上になる。


 牧場以外で働く人間は子供を作る必要がない。出来てしまうこともあるが、作ることは計画にない。間引かれることが多い。女性はやがて産めない体になる。


『お前、あの女が好きだったんだろ』


 たまにそうやって先生にからかわれることがある。

 好きという感情を知らない筈の人に、そうやって尋ねられることがある。


『感情は破廉恥です』

『好きという感情は、独占したいという意味らしいな』


『さぁ、どうなんでしょう』


 一度だけ、仕事で女の子が働いている牧場に赴いたことがある。経過観察の仕事だ。女の子は和を乱すことなく、淡々と仕事をこなしていた。お腹が大きかった。


 愛に生きている彼女は、“好き”でもない男の子供を産むのだ。当たり前のことだ。それが分け隔てをしないということだ。全体の為に生きるということだ。


 僕はその光景をよく思い出す。色んなことを想像する。よくないことだ。


「感情は破廉恥だ。言え」

「感情は破廉恥です」


「感情警察からは誰も逃げられない」

「感情警察からは誰も逃げられません」


「逃げても隠れても無駄だ。何故だ」

「星と月、太陽だって感情警察の味方だからです」


「お前を殴るぞ」

「はい」


 毎日そう言って子供を殴りつけながらも、僕こそが破廉恥だった。

 ある晩、先生と処理し合ってる最中に、訳もなく涙が溢れた。


『嘘泣きだよ』


 女の子の言葉を思い出す。この感情は嘘だ。嘘ならいいと思う。

 嘘であってほしいと思う。そうじゃないと、困る。


 感情が人を差別する。好きになるということは駄目だ。好きになれば嫌いが生まれる。そうやって自分の持ち物で人を差別する。人類を苦しめてきた元凶だ。


 この想いも全て、温かい泥のような官能の底に沈んでしまえばいい。


 そのまま溺れ死んで息を吹き返さないといい。最後の呼吸の音がそうやって聞こえるといい。ぽこりと、水底から泡が一つ、浮かびあがるといい。


 先生が興奮を高めようと、交わりながら口に舌を入れてきた。覆い被さってくる。何度か舌を絡める。息遣いが荒くなる。肩に手を添え、ぐっと引き離した。


 先生が目を瞬かせ、僕は口を開く。


「汚い」


 感情が悪さをした。僕はぎこちなく笑っていた。泣きながら笑っていた。

 上に乗っていた先生が、僕を収めたまま肘を引く。


「お前を殴るぞ」


 革手袋を嵌めていない手が迫り、鈍い音がした。

 感情は容易に人を分け隔てる。諸悪の種だ。嬉しい悲しい花を咲かせる。


 だから、きっと、やっぱり。



 感情は破廉恥だ。




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