挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
この世界がゲームだと俺だけが知っている 作者:ウスバー
208/239

第二百一章 帰還

 ――リンゴが、死んだ。

 その事実だけが重く、深く胸にわだかまり、俺は息も出来ない。
 だから、壁の穴から一度は倒したはずの触手が無数に這い出してきても、何も感じなかった。

「ソーマ!」

 サザーンの声。
 泣きそうなその甲高い声に、何かを思った訳ではない。
 ただ反射的にそちらを見ると、サザーンを背負ったミツキがすぐ傍まで来ていた。

「逃げます」

 ミツキは短く言って、背中にサザーンを背負ったまま俺を小脇に抱えると、一息にその場を離れた。
 あっという間に遠ざかっていく景色。
 数秒で反対側の扉に着いて、ミツキはそのまま三階への階段を登っていって……。

「あ、リンゴの、時計……」

 リンゴが遺した、クロノスウォッチ。
 それを、あの場に置いてきてしまった。

「取って、こないと……!」

 ミツキの腕をほどいてもどろうとしたが、身体の動きが鈍い。

 ――憤激の化身のペナルティ。

 よく分からない単語が一瞬だけ脳裏をかすめた。

 とにかく、このままじゃ困る。
 俺はミツキに必死に訴えた。

「もどらないと! あれは、リンゴの……!」
「時計より、私には貴方の方が大切です」

 強張った顔が、なぜか泣いているように見えて、俺は口をつぐんだ。

 意識して、空気を吸い込む。
 ほんの少しだけ、胸の重みがやわらいだ。

「……悪い」

 俺の謝罪に、ミツキは三階の部屋の扉を開けながら、「いえ」と短く答えた。

「私は、前に、言ったはずです。
 世界を救うとは難業で、何の犠牲もなしに出来るような事ではない、と。
 貴方が、責任を感じる事ではありません」

 その言葉に、俺は唇を噛む。

 そんなことはないと、叫びたい。
 リンゴが死んだのは世界を救うための犠牲だなんて、認めたくもない。
 けれど……リンゴが死んだ今となっては、そんな理屈に何の意味もない。

「……ですが、貴方はそれでいい。
 そんな貴方だから、私は好きになったのです」
「ミツ、キ……」

 二人を抱え、敏捷にペナルティを受けているはずのミツキは、それでも速かった。
 会話をしながらもその目は油断なく周囲を警戒し、最短距離を行く足はもう三階の大部屋を抜け、四階に続く階段に足をかけていた。

「今は進みましょう。これ以上、何も失わないように。
 貴方が動けない間は、私が守ります。
 だから貴方は――つっ!!」

 前触れは、なかった。
 四階に進む階段の途中、塔の壁が突き破られ、そこから数本の触手が飛び出してきた。

 道が完全に塞がれた。
 そう思った。
 だが、ミツキは流石だった。

 ためらいなく前方へと跳び、俺たち二人を抱えたまま宙返り。

「ぐっ!」

 押し殺した声をあげ、空中でバランスを崩したものの、殺到する触手の群れをかわして四階の部屋に転がり込む。
 後ろで扉が閉まる音を聞きながら、ミツキは倒れ込むような姿勢で加速を続け、部屋の真ん中を越えた辺りで前のめりに倒れた。

「ミツキ!? うわっ!」

 俺とサザーンの身体も前方に投げ出される。
 いまだに憤激の化身のペナルティは続いている。
 俺は受け身も取れずに地面に転がった。

 しかし、それより深刻だったのは……。

「ミツキ!」
「避けたつもりだったのですが、少しかすってしまったようですね」

 ミツキの足が、真っ赤に染まっていた。
 俺の目から見ても、完全に避けていたように見えた。
 それでこのダメージなのだから、まともに受けたらどうなるか、想像は出来てしまった。

「特に、問題ありません。それより……」

 鞄から取り出したポーションを無造作に足にぶつけて治療しながら、ミツキが前方の扉をにらみつける。

「回り込まれていますね」
「なっ!」

 目の前の扉からは、異変を感じられない。
 だが、ミツキが言うからには、そうなのだろう。

 考えてみれば、この時点で後ろからの追撃がないのも不自然だ。
 俺はゲームの先入観から、邪神の欠片の知能を甘く見ていたようだ。

 だがだとすれば、どうすればいいのか。
 道は、この先一本しかない。
 しかし、邪神の欠片が待ち構えている中を進むのはどう考えても……。

「……仕方、ありませんね。
 サザーンさん、後は、お願いします」

 俺が結論を出すよりも早く。
 ミツキが、動いた。

「……ソーマ」

 透き通った声で、名前を呼ばれる。
 気付けば、ミツキの端正な顔が目の前にあった。

「あとはお願いって、一体何を――んっ!」

 本当に、一瞬の出来事だった。
 至近距離にあったミツキの顔がもっと近づいて、気が付けば唇に温かい物が触れていた。


「――ッ!!」


 永遠にも感じる一瞬。
 短くて長い口づけを終えたミツキは、名残惜しそうに俺から身体を離し、今まで見たこともないほどやわらかい笑顔を浮かべた。

「私ばかりずるいと、リンゴさんに怒られてしまうかもしれませんね」
「ミツ、キ……?」

 その笑顔が、憂いのなさすぎる表情が、俺の不安を煽る。
 しかしミツキはもう、止まらない。

「私が邪神の欠片を引きつけます。
 だから、私が扉を出てからきっかり十秒後に進んで下さい」
「ミツキ! 何を言って……!」

 止めなければいけない。
 そう思うのに、身体は自由に動かない。

「……分かった」

 そして。
 俺の隣で、サザーンがうなずき。
 心底安心したような顔で、ミツキが歩き出す。

「待て! そんなの、俺は……」

 俺の叫びは、ミツキには届かずに。


「――貴方と出会えて、私は幸せでした。
 だからどうか、貴方だけでも、生き延びて」


 その姿が、扉の奥へと消える。

「ミツキ!!」

 その背を、追おうとした。
 鈍い身体に鞭打って、前に進もうと……。

「行く、ぞ」

 しかし、その動きをさえぎったのは、サザーンだった。
 ひ弱な手で、俺を止め、逆方向へと引っ張る。

「サザーン! 何言ってるんだよ、ミツキが、ミツキが……」
「今追いかけても、無駄だ。……進むんだよ、僕らは」
「そんな、割り切れる訳……!」

 怒鳴り返そうとした俺の口は、途中で止まった。
 無機質な仮面の上を、涙の筋が流れているのに、気付いてしまったからだ。

「……だって。僕らには、進むしか、ないじゃないか」

 悲しげにつぶやかれた言葉に、俺は何も反論出来なかった。


 ……そして、十秒が経つ。
 見計らったように、身体の鈍さはなくなっていた。

 扉を開ける。
 その向こうに、邪神の待ち伏せは、なかった。



 サザーンの手を引いて、半ば引きずるようにして塔を登る。
 速度で劣るサザーンは何度も転んだが、決して弱音を吐こうとはしなかった。

 五階を抜け、六階を走り、七階を駆け、八階も今、通り過ぎた。

「もうすぐ! もうすぐだ! あと二階、それで魔法陣の……」
「ソーマ!!」

 悲鳴のようなサザーンの声。
 真横の壁が、ぶち抜かれる。
 そこから赤黒い何かが見えるより先に、俺はサザーンを抱えて前に跳んだ。

「う、ぐっ!」

 ミツキのように鮮やかとは言えない。
 だが、やった。

 触手を飛び越え、九階の部屋への扉の前に、転がる。
 そのまま触手が攻撃を始める前に、部屋の中に入ろうとして……。

「……お、い」

 触手が持っている物に、気付いた。

「ソーマ? 何してるんだよ! こんなとこで……」

 サザーンの声がする。
 だが、聞こえない。
 目の前にある物にだけ意識が集中して、それ以外の物が目にも入らなくなる。


 そうして、カランと、それ(・・)が落ちる。


 薄い刀身に、見事な刃紋。
 この世に二つとない、軽い刀。

「……月、影」

 ミツキ・ヒサメの愛刀で、あいつが肌身離さず持っていたそれは、無残にも真っ二つに折られていた。

 何が起こったのかなんて、尋ねるまでもない。
 それでも俺の口は、勝手に言葉を紡いでいた。

「殺した、のか?」

 胸の中が熱くなって、反比例するように頭が冷えていく。
 熱くて冷たい衝動が、全身を冒す。

「ソーマ! ソーマ、ダメだ、ソーマ!」

 背後から雑音が聞こえる。
 でも、関係ない。
 俺は触手をにらみつける。

 壁から新しい触手が這い出てくる。
 どんどんと、増える。
 でもそれも、関係ない。

「……殺して、やる」

 武器は、ない。
 不知火は壊れてしまった。
 ほかの武器では、こいつに傷一つつけることは出来ないだろう。

 だけど、それでもいい。
 武器がなければ殴ればいい。
 拳なら壊れない。

 今の俺の筋力なら、きっと少しくらいダメージは与えられる。
 それならいい。
 それなら俺はあいつを殺せる。

 どうせ拳は壊れない。
 触手が邪魔ならまず触手を。
 それから腕を、頭を。
 そして最後にコアにとりついて、数百発でも数千発でも、殴って殴って殴って、あいつが死ぬまで殴り続けてやればいい。

 俺は触手に向かって一歩を踏み出して……。


「――バカ野郎!!」


 横から、衝撃。
 不意打ちを受けた俺はバランスを崩し、飛びついてきた何かともつれ合うようにして部屋の中に転がり込んだ。

 俺たちは勢いよく床を転がって、俺が下になる形で止まった。
 部屋の扉は勝手に閉まり、邪神の欠片の姿は見えない。

「何で、邪魔をした?」

 俺はそれだけを確かめて、俺に馬乗りになっている人物、サザーンに向かってそう言い放った。
 サザーンは何も言わない。
 俺は声を荒らげた。

「あいつは、俺の大切な人を、ミツキを、殺したんだぞ!
 リンゴも、ミツキも、こんなところで……」

 サザーンは、何も言わない。
 ただ無言で、その手を自分の顔の前まで持ち上げ、

「なっ!」

 自分の仮面に手をかけると、それを勢いよくはぎ取った。
 その下から、現れた、顔は……。

「お、前……。その、顔は、いや、でも……」

 動揺する、俺に、

「目は、覚めたか?」

 サザーンは、仮面を外したその人物は、そう語りかける。

「お前がやるべきことを、思い出せ。
 逆上して、復讐するのがお前のやらなきゃいけないことか?
 お前が一番やらなきゃいけないことは、一番やりたいことは、なんだ?」
「そ、れは……。魔法陣を動かして、邪神を……」
「違う!!」

 見たことのない、サザーンの顔。
 聞いたことのない、サザーンの声。

「違う、だろ。ミツキの、最後の言葉を、思い出せよ」
「ミツキ、の……」

 まるですがりつくように、サザーンは俺を揺さぶり、



「――お前には、帰る場所が、帰らなきゃいけない場所が、あるんだろうが!!」



 その言葉が、俺を貫いた。

「かえる、ばしょ……」

 暖かい場所を、俺のいるべき場所を、思い出す。
 ……そう、だ。
 俺には、まだ、帰る場所が、帰りたい場所が、ある。

 必要な物は、もうそろっている。
 魔法だって、ちゃんと覚えている。
 俺は帰ることが出来る、はずなんだ。

「あと、ほんの、ちょっとじゃないか。
 世界なんて、さっさと救って……。
 お前は、お前のいるべき場所に、帰っちゃえよ」

 サザーンは、震える声でそう言って、俺から離れて、立ち上がった。
 そして扉を、俺たちが向かうべき扉ではなく、なぜか、俺たちが入ってきた扉(・・・・・・・・・・)をじっと見て、動かなかった。

「……サザーン?」

 問い、かける。

「何、やってる。さっさと、行け」

 硬い声に、嫌な予感が膨れ上がる。

「さっさと行けって、お前は、どうするんだよ」
「……僕には、野暮用がある」

 それだけで、察してしまった。
 そうして、察してしまえる自分が、心底嫌になる。

「そんな顔、するな」
「だ、けど……」
「僕がわざわざ、自分から死にに行くはずないだろ。
 とっておきの作戦がある。
 邪神の欠片が絶対に足を止めずにいられないような、凄い作戦が」

 そう言って、強がりの笑顔を作る。
 でも、俺は止められなかった。

 だって俺は、帰りたいから。
 強がって笑うこいつを見捨てても、それでも帰りたいから。

「……たの、む」

 だから、かすれた声でそう言って、背を向けて歩き出す。
 前へ。
 一人で邪神に立ち向かう、サザーンとは逆の方向へ。

「ソーマ!」

 扉に、辿り着く直前。
 サザーンの声が、俺を引き留めた。
 振り向く。

「僕は……。わたし(・・・)は……」

 言葉を、待つ。
 だが、サザーンは結局、力なく首を振った。

 そうして、強い思いを押し込めるように、唇を噛んで、それから……。


「――ソーマ。僕は、お前が、大っ嫌いだったよ」


 涙でぐしゃぐしゃで、唇を青ざめさせ、それでもサザーンは笑顔で言った。
 言い切った。

 そして、それが最後だった。
 俺がその笑顔を目に焼きつける前に、臆病で勇敢なそいつは俺に背を向けた。

「……ソーマ。一つだけ、頼みがある」
「なん、だ?」

 サザーンは、俺に背を向けたまま、俺に、顔を見せないままで、


「――絶対に、振り返らないで」


 俺たちは、それぞれの進むべき道に進んだ。




 登る。
 登る登る登る。

 轟音が塔を揺らす。
 何か、大きい力がぶつかり合う音が響く。

 だが、振り返らない。
 前だけを見て、登り続ける。

 何が起きているかは分からない。
 それでも、この音が続いている限りサザーンは生きているのだと言い聞かせて、前へ。

「あった!」

 十階に、着く。
 俺は扉を開けると同時に魔法陣に駆け出し、

「セット! セットセットセット!」

 ミスリルの彫刻刀から大量のミスリルを生み出す。
 彫刻刀をしまう時間すら惜しい。
 俺は用を終えた彫刻刀を投げ捨てながら、魔法陣の中心でネクラノミコンを開く。

「魔術の尖鋭ソーマが希う。
 偉大なるマナの導きを、絶後なる奇跡の実現を……」

 ゲームのイベントでは、儀式の発動には長い呪文の詠唱が必要だった。
 幸い、その呪文についてはネクラノミコンの開発記録に全文が書いてある。
 間違える心配はない。

(早く、早く、早く!!)

 だが、長い。
 ゲーム時には楽しんでいたはずの呪文の詠唱が、俺の焦りを加速させる。

 だが、その詠唱もとうとう終わりに近づき、

「……を以て、ここに、その力を――ッ!?」

 喉の奥から、空気が、漏れる。
 まだ、塔の揺れと轟音は続いている。

 だが、一本だけ。
 邪神の欠片の触手が、床を突き破って俺に向かってきた。

 ――回避を、考える。

 だが、駄目だ。
 ここで動いてしまっては、今までの準備が無駄になる。
 もう一度、最初から詠唱を始める余裕は、もうない。

 触手が迫る。
 俺は死を覚悟しながらも、最後の詠唱を……。


 ――ニタァ。


 その、時。
 俺の腰、鞄の中から、黄色い閃光が奔った。

(く、ま?)

 それは、二つとないぬいぐるみ。
 俺と、俺たちと喜怒哀楽を共にした、頼れる仲間。
 脇差を握ったくまと、触手が交錯する。

「――!!」

 悲鳴が、口の中から飛び出しそうになる。

 脇差に込められた金剛徹しの力で触手は迎撃され、その代わりにくまは部屋の隅まで吹き飛ばされた。
 耳がちぎれ、中の綿が飛び出す。
 倒れた身体は、ピクリとも動かない。

 ――だが。

 時間は、稼げた。
 もう儀式の完成を阻むものは、何もない。

 俺は、呪文の、最後のフレーズを口にしようとして……。

 ほんの、一瞬。
 一瞬だけ、ためらった。

 脳裏に浮かぶのは、おぞましい姿に変じたイアスキーの姿。
 もしかして、俺も……。

(知った、ことか!!)

 迷いを、振り捨てる。
 俺は最後のフレーズを叫ぶ。



「――ここに、その力を、示せ! ネクラノミコン!!」



 詠唱は、完成する。
 同時に魔法陣が輝き出し、それは部屋を、この街全てを覆う光となって……。





 ふらり、ふらりと、前に進む。

 階段に足をかけ、身体を持ち上げ、それが終わったらまた別の足を。
 交互に足を進ませれば、ほら、身体はまだちゃんと動く。

「く、ま。あとちょっと、だからな。
 終わったら、ちゃんと、直して、やるから」

 魔法陣の間の奥。
 最上階へと続く階段を登りながら、俺は自分の鞄に向かって呼びかける。

 光が収まった時。
 その場に残ったのは、俺と部屋の隅に打ち捨てられたくまだけだった。

 俺はすぐに駆け寄ったが、不思議なことに、片耳のちぎれたくまは俺が呼びかけても全く動こうとはしなかった。
 悪戯好きなくまのことだ。
 きっと、俺を驚かそうとしているんだろう。
 俺はくまを鞄の中にしまい込むと、魔法陣の部屋をあとにして、最上階へと足を進めた。

 塔に吹き込む風の音が。
 階段を踏みしめる俺の足音が。
 それから、自分の心臓の鼓動までも。

 周りに満ちる全ての音が、妙にはっきりと聞こえる。
 どうしてだろう、と考えて、思い至った。

「そう、か。あの音、止んだんだ」

 儀式を完成させるまで、あれだけひっきりなしになっていた轟音も、塔の揺れも、今は全くなくなっていた。

 でもそんなこと、もうどうでもいいことだ。
 俺は最上階の扉の前に辿り着くと、その扉を押し開けた。

 広がるのは、ゲーム通りの光景。
 設えられた巨大なベッドと、そして、街の景色が、塔のが見渡せる、大きな窓。

「確かめ、ないと……」

 疲れた身体に鞭打って、俺は窓へと歩く。
 歩いているのか、よろめいているのか、もう自分でも分からない。
 ただ義務感だけに突き動かされて、俺は窓から外を覗き込んだ。


「……は、はは!」


 目に映ったそれ(・・)を見て、まず口からこぼれたのはそんな音だった。

 巨大な窓から見下ろしたその先の光景。
 見えたのは、無人になった街と、うずくまる巨体。
 ゆっくりと、光の粒になって空に溶けていく、邪神の欠片の姿だった。

 高いところから見たからだろうか。
 それとも、相手が死んだからだろうか。
 あれほど大きく、強大に見えた邪神の欠片も、ここから見下ろすとまるで一回りも二回りも小さく見えた。

「はは、はははは! 勝った! 勝った!!」

 快哉が、口から漏れる。
 勝利の喜びに、目から涙がこぼれる。

 俺はよろめくように窓から離れ、くるりと回転。
 全身で喜びを表現する。

「俺たちはやった! やったんだ!」

 結局、邪神と言ってもHPを持つただのモンスター。
 禁じられた儀式によって力を奪われた邪神の欠片は、遂に消滅したのだ。

「これが、人間の力だ! これが俺たちの……」

 もう一度、あふれる喜びを示すように俺は両手を上げて、そして、次の瞬間――



 ――背中が、爆発した。



「……がっ、ぐ!」

 床を、転げる。
 背中に受けた衝撃を殺しきれず、何度も手を、足をぶつけ、最後に部屋の壁にぶつかって、ようやく止まる。

「なん、だよ……」

 せっかくいい気分だったのに。
 せっかく、一瞬でも、…………を、忘れていられそうだったのに。

 苛立ちに、こみあげる怒りに、痛みも気にならない。
 俺は隣にあったベッドを支えにするように、立ち上がろうとして。

「……あ?」

 それを、見た。

 禍々しく光る、血のような巨大な宝石。
 窓をこじ開ける、荒々しく、力強い巨大な腕。
 醜悪な顔に、焦点の合っていない目。
 そして、こちらに伸ばされる、無数の触手。

「邪神の、欠片……?」

 何が何だか、分からない。

 もしかすると、俺は夢を見ているのかもしれない。
 とびきりの、最低最悪の、とんでもない悪夢を。

「早く、目覚めないと……」

 力の入らない身体に鞭打って、身を起こす。
 苦労して、ベッドまで這い上る。

「……ダ。……ケテ」

 軋るような音が、耳に入る。
 邪神の欠片が、何かを言っている。

 でも何を言っているのだか、全然分からない。
 いや、これは夢だから、分からなくても仕方がないのかもしれない。

「そうだ。ああ、そうだった……」

 震える手で、鞄から真っ黒な指輪を取り出す。

 アーケン邸から仲間たちみんなで取ってきた、思い出の指輪。
 それを、自分の指にはめる。
 何だかそれだけで、仲間たちと近くなった気がして、嬉しくなった。

「なん、だよ。邪魔、するなよ」

 なのにそれを、赤くて汚い奴が邪魔をする。
 赤黒い触手を伸ばして、俺の前に何かを落とした。

 複雑な装飾のされた腕輪。
 何だか、どこかで見たことがある。

「…ダ。……ヨ。……ケテ」

 耳障りな音も止まない。
 そのせいで考えがまとまらない。

「…ヤダ。…タイ、ヨ。…スケテ、タスケテヨ、……マ」

 だけど、そうだ。
 これは、大事な、とても、大事な……。

「イタイヨ。イヤ…、コンナノ、…リ。タスケテヨ」

 邪神の言葉が明瞭になる。
 邪神の欠片は、助けを求めていた。

 意味が分からない。
 やっぱり夢だ。

「イヤダ。ホントウハ、ヒトリハ、イヤ。オイテイカナイデ。ボクヲ、ワタシヲ、タスケ、テ……」

 そう思った時、答えが分かった。
 これは……。



「――タスケテヨ、ソーマ!」

 ――これは、サザーンの腕輪だ。



「そっ、か。……あ、はは。ははははっ!」

 全部、分かった。
 すっきりと解決した。

 そりゃあ、そうだ。
 こいつが、邪神が助けてなんて言うはずがなかった。

 これは、伝言。
 死の直前のサザーンの言葉を再現した、邪神なりの伝言だったのだ。


 ――絶対に、振り向かないで。


 どうしてかサザーンの最後の言葉が胸によみがえって、目の辺りが燃えるように熱くなる。
 サザーンの大事な腕輪を、そっと、大事に鞄の中にしまい込む。
 叫び出したい衝動があふれて、だけど何て言っていいのか分からなくて、俺はけたたましく笑い出した。

「あは、あはは! あははははは!!」

 口から笑いがあふれて止まらない。
 もうおかしくて仕方がない。
 おかしくておかして、何がおかしいのか分からないけれど、あとからあとから笑いの衝動がこみ上げて、止まらない。

「はは! ははは! あははははははは!!」

 おかしくておかしくて、おかしいのが自分か世界かも分からない。
 でも、分かる。

「……もう、終わりだ」

 この世界には、何もない。
 全部壊れて、なくなってしまった。
 希望なんて、ここには一欠片も残っていない。
 全てこいつが、邪神が絶望に変えてしまった。

「終わっ、たんだ……」

 その瞬間、俺は本当にこの世界を棄てる決意をした。
 未練なんてないし、うまくいかなくても構わない。
 こんな終わってしまった世界で生きるくらいなら、失敗して死んだ方がマシだ。

「帰る、んだ」

 俺は、帰る。
 あの穏やかで平和な場所に、俺のいるべき場所に、帰るんだ。

「クルッタ、カ?」

 軋る音が耳をざわめかせる。
 だが、俺は答えない。
 ただ、震える手で黒いリングに触れながら、最後にこちらを見つめる異形を見た。

 これが、俺がこの世界で最後に見る光景になるはずだから。
 はっきりと、何があっても忘れないように、そのおぞましい姿を両の目に焼きつけ……。

 ――俺は、唱える。

 この世界から逃げ出す呪文を。
 この世界に別れを告げる呪文を。
 この世界を捨て去るための呪文を。


「――スリープ」


 魔法の眠りが俺を包む。
 重くなる肉体に、失われていく熱。

 薄らぐ視界に、俺に殺到する赤黒い肉の鞭が見える。
 だが、それは少しだけ遅い。
 死が俺を捉える一瞬前に、俺の身体はベッドに捕らえられる。

 沈み込む意識に、暗転する景色。
 存在しない(パッチで消された)はずのイベントトリガーが引かれ、全ては静かに反転する。

 世界は閉じて、裏返る。
 時の流れが逆流し、あらゆる因果が逆転する。
 こぼれた水は盆にもどり、転げる岩は山を登る。

 あまねく世界は巻きもどり、そして――



「ディズ・アスター。俺はお前を、忘れない。必ず、お前を――」



 ――全ては、真夏の夜の夢へと変わる。




















「―――!」


 耳朶を打つ耳慣れた声に、俺の意識は浮上した。
 反射的に見開いた目がまず認めたのは、ファンタジー世界の魔術師そのものの姿をした男、イアスキー。

「……っ!!」

 そうであってしかるべき、しかし同時にどうしようもなく非現実的にも感じる光景。
 ここが魔術師ギルドの奥で、今は洗礼の儀式を受けたところなのだと、頭の中の冷静な部分はささやいていた。

 しかし、理性の判断より先に、本能がそれに拒絶反応を示す。
 俺は思わず、よろめくように身体を引いた。

「ソーマ!」

 そんな俺を救ったのは、またしても少女の声だった。
 声に振り向くと、視界に飛び込むのは鮮やかな空色。
 この異世界で誰よりも多くの時を共に過ごした、かけがえのない仲間の姿。

「リン、ゴ……?」

 そのはずなのに、なぜだろう。
 何よりも切望したはずのその姿が、ぼやけて、にじんで、はっきりと見えなかった。

「…ソー、マ?」

 よどんだ視界の中、駆け寄ってきた青い少女が、不思議そうに俺を見上げる。
 そんな他愛ない仕種が、たとえようないほど懐かしく、愛おしい物に感じて……。

「――ッく!」

 耐えきれずに、俺の頬を熱い物が伝う。
 熱い何かがとめどなくあふれ出して、何も見えない。
 その代わりのように、俺は目の前の華奢な身体を抱きしめた。

「…ソーマ。ないてる、の?」

 その問いかけに、何と答えようとしたのか、自分でも分からない。
 ただ、嗚咽と一緒に切れ切れの言葉が漏れた。

「俺は、帰ってきた。帰って、きたんだ……!」

 腕の中で青い髪が身じろいで、そこから細い手が伸ばされる。
 白い指が優しく俺の頬を撫で、そうして彼女はぎこちなく、それでも精一杯に微笑んだ。


「――おかえり、ソーマ」


第三部 完
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ