別れの言葉
化粧水が残り僅かだと気付いたのは、疲れた体を引きずり家に帰り着いた瞬間だった。
鍵を開けて玄関に足を踏み入れると同時に、頭の中に浮かんできたのだ。
外の明かりを頼りに電気を付け、迂濶だったと後悔する。
帰りに見かけたドラッグストアにふっと溜め息も出てきた。
明日は久しぶりに友達と会う事になってたし、買うなら今しかないよね。化粧水つけるのとつけないのじゃだいぶ違うからなぁ。それにもし荒れたら大変だし。と自分自身を説得させなきゃなかなか意欲が湧かないところが何となく物悲しかった。
老けたなと自嘲する。
活気に満ちていた頃の自分を懐かしみながら、あの頃とは違う気だるくいまひとつやる気の出ない体で私は来た道を引き返した。
「あいつ、彼女取られたらしいぜ」
ここまで屈辱な事はないだろう。
ろくに彼女も出来ないような奴らにこんな噂をたてられるなんて最悪だ。
彼女から連絡が入ったのは昨日の夜だった。
湯舟に浸かって微かな隙間風に煽られる湯気を眺めていたら親に電話だと言われ、タオルと携帯を渡されたのだ。
風呂場に携帯を持ち込む親の無神経さに憮然とし、多少不機嫌になりながら電話に出ると相手は彼女だった。
一気に気持ちが晴れた。
「明日話したい事があるの。放課後空いてたら私の教室に来てくれる?」
しかし彼女の話はそれだけだった。
ぷつりと向こうで回線が切られる音がして、ツー、ツーと間抜けな音が風呂場に反響する。
温まっていた筈の腹の底が急速に冷えていった。別れ話だと直感で分かった。
最近何かと用事を理由に会う事自体減らしていたし、会ってもどこかよそよそしかった。そのうえ他の男と親しげに一緒にいるところを何度か目撃していた。
これはもう確実だろう。
そういえば最後にまともに話したのはいつだっただろうか。
記憶を掘り返していくと三ヶ月も前の事で正直驚いた。
どういう内容だった?
次から次へと疑問は溢れる。しかし内容はもう思い出せなかった。だがぎくしゃくした感じではなかったはずだ。
きっと普段友達と話すのと同じ様にくだらない事ばかりを話していたのだろう。だから記憶に残らないんだ。
過去の自分を責めたくなったが、だからと言って哲学的な言葉がすらりと吐ける程ロマンチストでもない。
第一そんなこっぱずかしい事をする自分がイメージ出来ない。
彼女だって俺にそんな言葉が似合わないことはわかってただろう。
じゃあ何がいけなかったんだ?
彼女の姿を思い浮かべる。
随分前の記憶だが笑ったとこ、怒ったとこが色々と出てきた。
悩んでるとこ、驚いたとこ。
次第に記憶の中の彼女の姿に誰かが被ってくる。 そいつはぼやけているが見覚えがあった。でも俺は気付かないふりをして、くるくると変化する彼女だけを見ている。
考えてるとこ、寝てるとこ。
素っ気ないとこ。
けれど一仕事終え、眠っている彼女の隣にそいつがはっきりとした姿で現れた。
はっとした。
何度か彼女と話しているのを見掛けた奴だった。
あいつに、盗られたのか…?
もうとっくに切れた携帯を見る。
なぁ、そいつか?そいつなのか?
返事がくるはずがない。それでも呼び掛けた。
もうそいつと寝たのか?
最後の呼び掛けに、自分で絶望する。
ショックの所為か頭が回らない。
ろくに湯舟の温度も感じられず放心していると、扉の向こうから
「あたしだって入りたいんだからさっさと上がってよ」と苛立った姉の刺々しい声が聞こえた。
あの時から明日よ来るなと願っていたのにもう放課後になっていた。
俺は黙って荷物を纏めた。
化粧水を買うだけの予定だったのについつい菓子コーナーに足を運んでいた。
ああ、また太る。と思うがこれだけは止められない。
綺麗に棚の中に並べられたお菓子達を見て一ヶ月くらい前までは受験シーズンに因んだ商品が陳列していたのにもう春の製品に変わっている事に気付く。
気が早いな。
業者同士の熾烈な戦いを想像して、自分の感覚が鈍いだけかと考え直した。
数分かけて今の自分の嗜好に合う菓子をいくつか選び、化粧水と一緒に会計に出しにいく。
そうしようとして、足は止まっていた。
レジの向こうの男に見覚えがあった。間違いであってほしいと胸に着けられたプレートの名前を睨んだがよく見えない。
「あ、」
見えた。
間違いなく彼だった。
とたんに逃げ出したい衝動に駆られたが今頃商品を戻していくのは不自然だった。
彼の方も、自分のことを睨んでくる変な女が私だと知っているようだった。なんとなく、口の中に苦みが広がっていった気がした。
腹を括るしかない。
化粧水と菓子を持ち直し、私は自然に振る舞うよう心掛けてレジに向かった。
彼女が来ていた事は、この店に入ってきた時から知っていた。
化粧コーナーより菓子コーナーの方が時間が掛かった事に苦笑し、彼女が自分に気付いて動きを止めた事に胸が痛んだ。
彼女が渋々といった感じでこっちに来た。
目を俺から逸らしている。差し出された商品を手に取り、事務的な作業に掛かる。
「なんで、来てくれなかったの?」
その言葉に手が止まる。
見ると、彼女はもう目を背けてはいなかった。
その真っすぐな瞳の中に動揺を隠せない俺が映っていた。
五年前のあの日、俺は彼女の元へ行かなかった。その次の日も、そのまた次の日も行く事はなかった。
もう彼女との関係は終わったことを悟りながら、彼女の所に行って、さようならを聞かされるのが恐かった。
だから逃げた。
つかの間の沈黙も長くは持たない。
「もう終わろ?」
俺は黙って頷いた。
会計を済ませ、釣りとレシートを彼女に渡す。
「さようなら」
彼女は最後にそう言って出て行った。
長い、長い別れだった。
実際付き合ってたのはほんの数カ月だったのに、別れはその何倍も長かった。
息を吐き、天井を仰ぐ。
予想していたのより遥かに心は軽かった。やっと終われたのだと達成感に似たものさえも感じる。
なんだ、こんなだったらあの日彼女の所に行けばよかったじゃないか。
胸中もう見えない彼女の背中に向かって、あの日言えなかった別れの言葉を投げかけた。 |