魔女の秘薬
―――ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい―――
僕はまだ死にたくはないんです。
足元に転がる無数の死体に向け、ひたすら赦しを乞う。
もう動く事のない彼等に向けた鎮魂歌のように。
闇に包まれた荒野でまた爆発が起こる。火の粉が飛び、真っ黒な煙りが月明りを遮る。
人々の怒号。波打つ影。それらに呼応し、不気味に揺れる松明の火。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
手に猟銃や剣、農具を握り締めた人々が、死体に囲まれた人物を取り囲む。
目は血走り、顔は憎悪で歪み。殺気を膨らました群れの中、銃を持つ手が狙いを定めた。
僕はまだ生きていたいんです。生きて、もっと―――
だんっ。
発砲音がして、死体に囲まれた人物の身体が跳ねた。
それに続くように、次々と発砲音が鼓膜を穿つ。音に合わせ、的は踊るように暴れた。
生きていたいから――
普通ならばなんの抵抗も出来ず、体中穴だらけになり死ぬはずの人物から、黒い魔力が溢れ出す。
ほとばしるそれはこの場の全ての生命を屠殺せんと膨張し、質を変える。
男達の一人が異変に気付き、一刻も早く、一歩でも人々の群れから去ろうと駆け出した。
皆さん、死んでください。
赫く、不気味に光る瞳。
繰り返される惨劇。
人々の悲鳴。混乱。恐怖。
幕はまだ降りない。
***
薄暗い部屋だった。
あちこちに人の頭蓋骨が飾られ、円を基準にした魔法陣が壁に留まらず天井や家具にもびっしりと描かれている。
隅には蜘蛛の巣が多く作られ、その殆どが持ち主の姿が不在だった。
部屋の中心では一番手間のかかっていそうな魔法陣の上で大人でも三、四人は裕に入りそうな大鍋がぐつぐつと音を立てている。
お世辞にも香しいとは言えない異臭が鍋から漂い、容赦なく鼻を突く。
生臭いような、焦げついたような、腐ったような矛盾した臭い。
その鍋の前で、一人の魔女が箒代わりに棒の先に回転鋸がついたタイプの草刈機に乗って鍋の中身を掻き混ぜていた。
彼女はおよそ世間が魔女のイメージで持つ姿をそのままそっくり再現した黒づくめの格好をしていて、今は臭い対策にしっかりとバンダナで鼻と口を覆っている。
「ワライドクガエルの肝五十グラムとイタズラオオトカゲの体液二十リットルを十分に混ぜる。
混ぜ終えたら沸騰するのを待ち首切り草エキス大さじ一を加え、慟哭老樹の根を一束ちぎって入れる」
材料さえもっとましな名前なら料理のようにも見えただろう。
しかし彼女は魔女であり、ただいまの時刻は深夜。決してご飯を作っているわけではない。
まがまがしいいかにもな雰囲気を纏う紫色の本を抱え、魔女は本の通りに集めた怪しい材料を鍋に放り込んでいった。
「中身が紺色に染まり、鍋から緑色の煙が出たら調薬料『絶望風―どん底人生―』を大さじ二入れて蛇コウモリの牙を溶けてなくなるまで煮込む」
と、怪しげな材料を混ぜる彼女の部屋に、小さな何かが入り込む気配が微かにした。それは部屋中を満たす鍋の悪臭に軽く咳をする。
「ノックくらいしたらどうなの?」
魔女が振り返らずに窘めた。
「無茶言わないでください」
その人物、いや白猫は器用に肩をすくめた。
流れるような美しい毛並み。子猫と成猫の間くらいの大きさをしていて、瞳はこの地方の猫の間じゃそんなに珍しくない青磁色。妙に人間じみた表情をしている。
「猫にノックは出来ませんよ、それにドアを引っ掻いたらミントさん怒るじゃないですか」
「当たり前でしょ」
軽く理不尽な事を言いつつ、ミントと呼ばれた魔女は猫に振り返った。
魔女の必須アイテムである三角帽子。
重力に勝てず折れた先にぎざぎざ口の適当な顔のついた球体がぶら下がっていて、ミントが後ろを振り返った反動でぶらぶら揺れている。
彼女の愛嬌といえばそれだけで、むすっと不機嫌そうに口をへの字に曲げていた。
無造作に伸びた黒髪。瞳も黒く、まだ十代前半と幼さの色の強い顔立ちをしている。
整った顔かと問われると微妙としか言えないが。
「あたしの部屋のドアに一つでも引っ掻き傷をつけてみなさい。あんたの体をボロ雑巾並みにずだぼろにしてやるから」
ソプラノトーンから声音を低く下げ、勝手に部屋に入った猫を脅す。
「毎度毎度言われなくても承知してますよ。ところで何を作ってるんですか?」
猫の方は脅され慣れているのかさらりと物騒な脅しを聞き流し、緑色の煙りを出す大鍋を見上げて尋ねた。
「ああ、この薬の事?」
問われるとミントは得意げに鼻を鳴らした。
「聞いて驚きなさい、これは全人類を不幸にするための薬なのよ!」
本を抱えていない方の左腕を天井に突き上げ、びしっとポーズをとる。それに比べ猫はどこか冷めた目をしていて、やや間があり、
「……へぇ」
どうでもいいと言外に示すような返事をした。
「反応が薄いわ」
猫が全く驚かなかったのが寂しかったのか、不服そうに頬を膨らました。バンダナのせいでよく見えないけど。
「だってもう十九回目ですし、貴重なアイテム使うわりに毎回失敗してますし、そんなに頻繁に調合してると感動も薄れますよ」
「それでも驚くの!」
「無理ですって」
そして長い尻尾をバネのように曲げ、ミントの草苅機に飛び乗った。本に記載されたレシピを覗き込む。
「うわっ、慟哭老樹なんて入れたんですか!樹齢一万年を越えたものなんか滅多に市場に回って来ないのに!」
「覗かないでよ!」
「蛇コウモリの牙はまだ入れてないですよね、絶滅寸前のレア物ですよ!?」
「ちょっと、いい加減に…」
「ああ、他にも貴重な品々がどうせ失敗する薬の中に……なんて勿体ない」
「……うるさい」
冷徹な響きと共にミントは本を覗く猫の頭ごと本を勢いよく閉じた。ばんっと気味の良い音がして、風ではなく真っ黒い怨霊のような人影が幾つか飛び出しすぐに無散した。
「フギャ!」
猫らしい悲鳴を上げ、人語を解す猫は背中の毛を逆立たせてじたばたと暴れ、命からがら本から頭を引き抜いた。
「酷いです……」
ぐすん、と涙まじりに魔女の非行を訴える。
「あんたがそんなところに顔を出すのが悪いのよ。邪魔だから早くどきなさい」
しくしくとつぶらな瞳を潤ませるも、ミントの同情はちらりとも引けなかった。
それどころか首根っこをがっしりと掴まれ、ゴミか何かのようにぽいっと床に放られる。
猫特有の身体能力で無事着地に成功するも投げ捨てられた手前、なんだか虚しいものがあった。
「どうなっても知りませんよー」
ぼやいても当の本人はもう薬作りに熱中してて、たぶん耳には入らなかった。
***
森の中を走る。
木々は本能に忠実に従い、貪欲に少しでも日を喰らおうと自らの腕を伸ばし、微かに差し込む木漏れ日も、何かを照らすには不十分で。その不完全な闇を少女は駆ける。駆ける。
死にたくないから。
苦しい。辛い。心臓が暴れる。鼓動は大きく、鼓膜までどくんどくんと伝わる。木々の張る根に足を取られつつ、傷つきながらも走り続ける。
体中擦り傷や切り傷、青痣だらけ。それでも『立ち止まる』という選択肢はないから立ち止まりはしない。
異端が紛れ込んだためか、森に住む獣達は慌ただしい。
少女の無防備な裸の足はぼろぼろに荒れ、疲れも限界に達しようとしていた。
もう撒いた?だれもいない?
後ろを振り返ろうとして、根に足を引っ掛け派手に転ぶ。でんぐり返りのように一回転して、嫌というほど石に頭をぶつけた。
ぐらぐらと視界が揺れる。軽く吐き気もしたが、遠くから木霊する大人の男の叫び声にぐっと堪えた。
近くの大樹に身を寄せ、少女は口を手で押さえ気配を殺した。
こわいから、殺される。
悪だから、滅ぼされる。
決して善にはなれないから、畏れられる。
異端だから、遠ざけられる。
決して普通じゃないから、虐げられる。
こわいから、悪だから、異端だから、異形だから、善とは沿わないから、普通にはなれないから、化け物だから。
たったそれだけのことで、今少女は正義に付き従う、善良にして正当なる教徒達の手により葬られようとしている。
でも、それはきっと正しいことだから。
彼らの説いてきた『善』がそう示しているから。
だから少女は殺される。
でも、その基準をつくったのはだれ?
***
元の肉体が死に、猫の肉体を手にしてから彼は少しだけ変わった。
最強。最凶。最狂。最脅。―――さいきょうと呼ばれる事は数あれど、彼を正面から真っ直ぐ見る者はいただろうか?
最低。外道。鬼畜。気違い。悪漢。人殺し――罵倒されるのに慣らざるを得なかった世界で、誰からも見放され、蔑まされ、疎まれ。
もう見限ったはずの世界で、一人震え、怯え、純粋に彼を受け入れた彼女。
思えばそれこそが彼を変えたきっかけ。ほんの些細で、他人からすればどうでもいいことで。けれど彼の中で何かが動いたのもまた事実。
「これ以上森に入るな」
首から十字架を下げた聖職者共に警告する。
普通の教会関係者に比べ、目の前の聖職者は魔女抹消を専門とした武闘派らしい。どいつもこいつも説法しているだけのやつらより鍛え上げられた肉体、そして研ぎ澄まされた静かな殺気を放っている。
その人数、ざっと見十五、六人。対してこちらは一人で、今はただの猫に過ぎない。
彼は聖職者を一人一人品定めするかのようにじっくりと眺めた。
深夜。加えて月の光りも繁る森に邪魔され入らぬ見通しの悪い環境で、白い装束の彼らは目立っていた。
闇の中の白。
目立たないはずがない。……それは彼も同じなのだが。
魔女抹消専門に動いているということはそれなりに魔術を噛っている者なのだろう。どう見ても分が悪い勝負だ。
「使い魔か」
聖職者の一人、初老の男がつまらなそうに彼を見て言った。仲間に目配せし、気を引き締めさせる。
「そこをどけ。一介の使い魔なんぞに時間をくうわけにはいかんのでな」
「お前ら如きに僕が道を譲るわけないだろう」
けれど彼は鼻で笑う。
負けるつもりなど微塵もないから。
男はさぞかし面倒臭そうに顔を顰め、仲間に顎をしゃくって何かを合図した。
仲間の聖職者の内、若い男が二人前に出た。まだ大人になりきっていない顔立ちをしていて、恐らく今回初めて魔女と対峙する予定だったのだろう。
この二人が彼の相手になるらしい。
「俺ぁちっさい動物をいじめる趣味なんて持ち合わせちゃいないんですがね」
一人が下卑た笑いを浮かべる。
「まぁ、さっさと片付けちまおう」
口々に文句を言いながら、一瞬にして自らの得物を呼び寄せる。空間魔法の初歩の技だ。よく見ると彼らの手には包帯が巻かれていて、緑色の陣が描かれている。あれを媒介にして呼んだのだろう。
一人は白銀のシンプルな槍。一人は教会のシンボル、全てを浄化すると言われる白龍の装飾の成されたサーベル。それぞれの流儀に沿い、身構える。
だが、もうこの瞬間から決着は目に見えていた。
彼らは一つ、大きな勘違いをした。どうしようもなく重要で、それゆえ絶対見落としてはいけないものを見落とした。
それは今目の前で進行を防ぐ彼の存在。
使い魔などと生温いものではない。本来ならば立場を忘れ、命乞いをしてでも、無様な姿を晒すことになってでも敵対してはならない存在だった。
彼は口の端を吊り上げた。
ただの猫に過ぎない彼は瞬時に内に秘めた魔力を練り増幅。これから使う魔法のイメージに合わせ、魔力を変質させる。
通常、使い魔は自らの魔力を練ることはない。
魔女によって作られる使い魔達は、作った魔女本人により動力源である魔力を補充され、予め設定した行動しか取れないよう設定されている。
つまり、魔法を使用するために作られた魔法特化型でなければ魔法を駆使することは出来ず、そして魔法特化型はより多くの魔力を溜め込まなければならないため、彼のように猫の姿で作られるのはまず有り得ない。
この世で何よりも清く、正しく、そして何よりも怠惰的で愚かな聖職者たちはようやく気付く。
自分達の間違いに。
「転移魔法。黒球」
しかし、気付いたところでもう遅かった。
彼と彼らの中間で真っ黒い球体が生まれた。
暗影。
そう表現するしかない。
森を覆う闇よりも暗く、冷たい印象を与える球体は、悲鳴を上げさせる暇なく聖職者を一人残さず飲み込み、飲み込んだものごと消えた。
人のいなくなった森に白い猫が一匹だけ残る。風に煽られ、森がざわつく。
「僕もずいぶん甘くなったものだな」
猫は息を吐くとその場をあとにした。
転移魔法。
今頃聖職者達がどこに移動したのか彼は知らない。ただ聖職者全員が生きている事は確実なわけで。
「昔の僕だったら殱滅してたのにな」
そうして彼は彼女のいる小屋へ帰っていく。言葉とは裏腹にどこか清々しい笑みさえ浮かべながら。
………帰ろうとしたのだが。
小屋があったはずの場所は炎で包まれていた。
ぱちぱち。火花の爆ぜる音がして、さっきまで無傷だった小屋は見事に燃えて一回りも小さい炭の塊になりつつあった。
その傍らには一人の魔女がげほげほと咳込んでて。
「あの、……ミントさん?これは一体どうゆうことでしょうか………?」
ミントは半泣き、半怒りという表情で猫を見た。顔中煤だらけ。お世辞にも可愛いとは言えない。
「また失敗……したんですか?」
ぐすん。鼻を啜るなんだかわびしい音がして、ミントは叫んだ。
「そうよ!失敗したのよ、私は失敗したのっ!!」
今にも泣きそうな雰囲気に圧倒され、猫はびくりと毛を逆立てた。
「記念すべき二十回目の調薬失敗………ははは」
いい感じで壊れてきているミントに、猫は首を傾げた。
「えっ?確か今回で十九回目じゃなかったですか?」
「…………っ!」
ぎくっ。
ミントは身を固くした。暑くもない気候で冷や汗がだらだらと流れている。
その明らかな挙動不審な様子に、猫は半眼になってミントを見据えた。
「まさか、一度調薬に失敗した失敗品を再度調薬に使った。とかないですよね」
ふいっと猫の視線から顔を反らす。
「したんですね」
「あったような、なかったような……ね」
「ね、じゃないですよ」
呆れ過ぎて怒りも込み上げない。やれやれと思いつつ、まだまだ未熟な魔女を叱りつけるのはいつでも出来る。それよりも事態の収拾を急げと理性は冷静に判断した。
「落ち込んで、反省してる暇があったら家を戻しましょう。言い訳もその後で」
「猫のくせに」
愚痴を零しながらも、猫に促されミントはよろよろと立ち上がる。
いつの間にか差し込んだ木漏れ日に目を細めながら。
これは、全人類を不幸のどん底に叩き込もうとする魔女と、その魔女に尻に敷かれながらも日々を過ごす白猫の物語。
もしくは、世界から切り離された少し臆病な彼女と、その彼女よりかなり臆病な彼の、それぞれが失った世界を取り戻すためのあがきの物語。 |