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華につどう蝶
作:若紫


 私は30歳になった。ジュエリーデザイナーとして店も持てるようになった。7番目の彼氏はいままで付き合った中で一番いい人だと思っている。つまり、生活のすべてに満足しているのだ。
いまの彼は普通のサラリーマンで、年齢は私よりも3つ上。包容力があって、穏やかな人だ。“ペリドットの石のような人”だと私は思っている。
ペリドットの石はエジプトでは“太陽の石”と呼ばれている。パワーストーンの一つで“ネガティブをふきとばし、他人からむけられるマイナスの感情を跳ねかえしてくれる”守護石だ。
彼とは体の相性もよかった。彼とのセックスは私に安らぎと再生の力をあたえてくれる。ただ、気持ちいいだけのみせかけの薄っぺらいセックスとはちがう。
私の店は月に一度5作品の新作をだす。ひと月で5作品というのはかなりきつい、というか無謀だということを最近、痛感しているところだ。
オープンしてからもうじき2年たつ。店は巷でそこそこ人気がある。店の名前はGALATEA(ガラティア)。小さな店だが自分の夢を形にした店だった。
今日のデートは自宅デートだ。というのも今日、新作の5作品が店頭にならんだからだ。だからこうゆう日は自宅デートと決めている。
仕事を終えると癒されたい。がんばったね、と労ってもらいたい。
「今回の作品はブレスがおおいんだね」
「きにいらない?」
「いや、(はな)らしくていいと思うけど。今回は比較的、性別関係なく使えそうな物がおおいね」
 実物をまえに悠斗(ゆうと)はそういって、それぞれを手にとってくれる。悠斗にみせているのは一番にできた処女作たちだ。これらは店頭にはならばない。量産する前の作品はすべて私のランジェリーボックスにはいる。
「ホワイトデーがちかいから彼氏にプレゼントできるようにしたのよ」
「僕にはホワイトデーしてくれないんじゃないのか?」
 悠斗のからかうような言葉に甘えてよりそう。悠斗は髪にキスしてくれた。悠斗の癒してくれるセックスがしたい。新作を作りあげた時のセックスが一番、魅力的なのだ。
「悠斗さん、元気ちょうだい」
「すいとるの?」
 悠斗はそう言いながらくすくす笑う。私は「そう」と言うと悠斗をみつめた。子供あつかいするみたいに、おでこにキスしてくる。
「唇にもして」
 甘えた声でいうと悠斗は唇にキスしてくれる。そっと触れるだけのキスにうっとりと目を閉じたのは私のほう。
「ベッドいこうか?」
「つれてって」
 すっかり甘えん坊の子供になった私はそう言って、首に腕をまわす。悠斗はお姫さま抱っこでベッドまで運んでくれた。
 この人に会うまではお姫さま抱っこで運んでもらえるなんて想像もしていなかった。現実的には女の子の夢であるお姫さま抱っこをしてくれる男は貴重なのだ。
「今日はゆっくりキスしようか?」
 悠斗の顔がゆっくり近づいてくる。単純だけど“ゆっくり”とかいわれると大切に丁寧に抱かれるようなきがする。優しく甘やかされるような、そんなセックスをしてくれるんだろうな、という期待感がうまれて、心が甘くふわふわしだす。
 悠斗は宣言どおりのキスをしてくれた。ふわりとふれるような唇へのアプローチから始まるキス。
 ゆっくりと唇を味わうような感覚に唇がじ〜んと震える。瞳をとじて、誘うように唇をわり開くと、悠斗の舌がそっと侵入してくる。
 角度をかえながら歯列やほっぺの肉を刺激される。強く押すのではなく、触れるか触れないかの頼りないやり方にムズムズして、逃げるように口をひっこめようとしたら、悠斗の手の平に阻止されてしまう。
 じれったさと、くすぐったさに根をあげた私は舌で悠斗を捕まえると、悠斗の舌に虐めないで、と催促する。すると悠斗の口づけは深く奪うようなディープキスにかわった。
 息があがって声が漏れる。くちゅ、くちゅ、と湿った音がして体はジンジンとうずく、悠斗の首筋に腕をまわしたまま、互いの体液を交換するようなキスに欲望がつのる。
 もっと、と唇を押しつけようとしたら、悠斗は離れていってしまった。互いの唇を繋ぐ透明な糸はきれて、私の口角からたれていく。悠斗はその体液すら愛おしそうに、指でぬぐうと、チュッと音を鳴らして舐めてしまった。
 そんな悠斗の姿にわき腹から、背筋から、ぞくぞく、して。欲望の色が見え隠れしている瞳は、いつもよりすこし乱暴な感じがするのに、大切に抱こうとしてくれている悠斗の態度が、私を欲ばりにさせるみたいだ。
 服はまだいっさい乱れていないのに、心はもう裸になったかのように興奮している。はやく責任をとって欲しいのに、悠斗はまた、キスしてきた。
 腫れぼったくなった唇に悠斗の唇が、再びかさなる。悠斗の唇は紅くぷくっとしていた。私を焦らして煽って深く、深く、感じさせてくれる悠斗のキスは次第に、ほっぺにうつり、首筋、鎖骨、胸へと移動していく。
 ちゅっと唇が触れたり、ぬるっとした舌が触れたりする。悠斗のディープなキスで火のついた体は、悠斗の行動を、悠斗の感覚を、追うことにあっというまに夢中になる。
「満足できましたか?」
 悠斗の胸の上で、ぐったりとしている私の髪を弄びながら、悠斗がいった。私は気だるい瞳をむけながら、こくんと頷く。
「いいお手前でした」
悠斗と私の体の相性はよほどいいのか。悠斗に抱かれると、私には余力がなくなる。ぐったりと心地いい気だるさに、導かれるように眠りにつくしかなくなるのだ。
「おやすみ」
 悠斗はそういうと、再びキスしてきた。欲望をかきたてるようなキスではなく、温かな愛をつたえるような蜂蜜色のキス。
悠斗の唇は冷たくて、行為で火照った唇に心地よかった。悠斗の唇と、悠斗のあたえてくれた余韻に目をとじると、私はそのまま眠ってしまった。
 眠りにいざなわれる思考のかたすみで、悠斗はまるで女の子の夢を具現化したみたい、と思う。行為のあとに覚めてしまうような態度をとる男もすくなくない。タバコをすったり、さっさと着がえたり。
しかし、悠斗は裸のまま抱きあって、言葉をかけてくれる。お風呂にいれてくれたこともある。悠斗が「甘やかすのが好きだから」そういってくれたことがあった。
その言葉にどんなに甘えても悠斗はいっこうに嫌な顔をしなかった。それどころか、温かく微笑んでくれるのだ。悠斗は最高の彼氏なのである。

悠斗との自宅デートですっかり癒された華はまたメキメキと働きはじめる。店にだした新作たちはまずまずの評判だった。今日は店が休みの日だ。平日の水曜と木曜日は店をお休みさせるのだ。
とはいってもお休みしているのは店だけで、華はお休みというわけにはいかない。5作品の新作のために、休みの日は有効につかわなければならない。
かといって、デッサンをかくわけではない。イメージをかきたてるために、美術館にいったり、本を読んだりするのだ。本は小説もあれば、世界の神話集とか宗教本、ほかには植物辞典や絵本なんかも読んだりする。
今日は図書館で本をあさることにした。文章を読むのは邪魔くさくて、裸体のみをうつした写真集を一冊てにとった。華の目をとめたのは女性の首筋から鎖骨、胸、鳩尾、下腹の微かなふくらみ。そのラインをうつした写真だった。
女性の胴体を横からとったその写真は白黒で美しいと素直に思ってしまう。女性の肉体的な魅力は体のもつラインなのかもしれない、と思わせる写真だった。
興味をひかれて彼の作品集を数冊てにしてもどってくる。今度は“青がテーマになった写真集”をひろげる。人公的な青は存在しない。その写真集は自然のなかの青ばかりを追いかけていた。
海に空はもちろん青い花畑、青い魚に青い鳥がうつっている。自然界で青はめずらしい色のように思っていたけど、けっこうあることがわかった。この写真集にも華の目をひいたものがあった。
青い羽をもつ鳥の写真をあつめたもので、その中心には一輪の白いバラがあった。写真の上におかれた白いバラは、青い世界を美しくひきたてていた。
しかし、華の目がもったのはここまで、3冊目の写真集を開こうとしたが、目がぱし、ぱし、となって、目蓋がものすごくおもい。じつは今日は3時間しか寝ていない。仕事をして、肩こり防止用のヨガをしていたら、あっというまに時間がすぎてしまっていた。
「ああ、ねむい」
 華はとじた写真集のうえに、ばたりと倒れこむ。平日の図書館には小さい子供とお母さんしかいない。人もすくないし、奥にある窓ガラスにめんした席にすわると、個室のようなきがしてくるほど外部との接触がない。
 ついつい、人目をきにすることなく、素がでてしまうのだ。学生のように机のうえで眠ってしまう。いけないと思いながらまどろむ誘惑は、強烈で誘惑に勝つだけのものを、この時の華はもっていなかった。
 それから、どれくらいたっただろう。ふと他人の気配に目をさますと、となりに人が座って、こちらをみていたのだ。あわてて起きあがる。そして、自分をみている人に、背をむけた。無防備な自分を赤の他人にみられたか、と思うと恥ずかしさで動揺してしまう。
「その写真集みせてくれない」
 動揺と恥ずかしさで、慌てて立ち去ろうとする華に彼はいった。華は写真集を借りようと、胸に抱いていたのだが、「すみません」といって素直にわたす。
 写真集を手渡そうとのばした腕をつかまれて、おもいっきり体勢がくずれる。不本意にも腕をひっぱった相手に倒れこんでしまった。
「お姉さん、いい唇してるね」
 その言葉に華の血の気がひく。直感で“変態だ”と思ってしまった華は、体がかたまってしまった。
 そんな華の唇をじぃーと見ていたかと、思うと。あろうことかキスしてきたのだ。唇と唇を押しつけるだけの短いキスだったが、華には何時間もキスされたようなきがした。
「オレ、K大の星川(ほしかわ)(とう)()。また、会おうね」
 キスしてきた痴漢はそう名のると、写真集をうけとって、爽やかにさっていった。華はどうすることもできなく、しばらくこのままかたまっていた。
 いきつけの図書館で、年下の男に痴漢にあった私は呆然と立ちつくすしかなかった。15、16の娘ではないのだ。30歳の立派な大人がキス一つ、たとえ痴漢にあったからといって、おおげさに騒ぐことはできない。
 衝撃と不快感はあったものの、犬にかまれたと思って諦めるしかなかった。とりあえず、もうこの図書館には一生くることはないだろう。
 華は家にかえって図書館の図書カードを捨てた。今日のできごとを清算するかのように。しかし、華はこの痴漢と再び会うことになる。
 それは以外にはやく訪れた。なんと客としてその痴漢が店にきたのだ。しかも、お客のいない時間にひょっこり現れた、そいつは不服そうに話しかけてきた。
「お姉さん、また会おうねっていったのに、図書館こなくなるんだもん。オレ、ショックだったんだから」
 いや、普通いかなくなるだろう。と思いつつも華は客として彼をあつかう。
「お客様、今日はどういった物をお探しですか?恋人へのプレゼントとか」
 痴漢をするようなやつに恋人がいるわけがない、と思いながら華はいった。レジカウンターの中にさえいれば、とりあえず、安全だろうと思いながら、華は彼に営業スマイルをむける。
「お客様より冬夜って呼んでほしいんだけどな」
ふてぶてしいそいつに、華は店員としての態度をくずさない。ちいさな店であってもここのオーナーは華なのだ。プロとして、その態度を崩すことは、自分自身のプライドが許さない。
悠斗はそんな華の性格を「華はへんなところで完璧主義だね」といっていた。自分でもそう思う。ふだんの生活では完璧主義とは程遠いのに、変な場面では完璧主義。ある意味プロフェッショナルの所がでてしまうのだ。
のろけ話にもなるが、悠斗はそんな華を「かわいい」といってくれるので、華は満足している性格の一部だ。不思議なことに嫌いなところも好きな人に「いいよ」と、肯定されると好きになってしまう。
「華さんっていうんだ。イメージどおりの名前だよね」
 そういった冬夜に、思わずネームプレートを隠したい気持ちになったが、あえて華はそれをしない。自分のネームプレートをかくす店員が、どこにいるだろう。なんとか表情を崩さないように、心がけてはいても、崩れてしまいそうになる。
「そうだな。好きな子にプレゼントでもおくろうかな。ここにおいてあるの、どれもカワイイから」
 作品をほめられて華のガードがすこしゆるむ。しかし、次の冬夜の言葉にちょっとあがった好感度はマイナスになった。
「チャームポイントは清楚な唇だから淡い水色の石がいいかな」
 唇マニアかとおもいながら、華は後悔の気持ちでいっぱいになる。安全地帯から商品を説明するために出ていってしまったあと、冬夜の言葉をきいたのだ。華のわるい癖で作品を褒められると、つい好意をもってしまう。
「清楚な感じでしたら、川をイメージしてつくられたこのブレスレットはいかがでしょう。曲線のラインをもつデザインになっていてアクアマリンとブルートパーズが交互にはめこまれています。お値段もお手ごろですし、シンプルなデザインですので、どんな場面にも対応できると思います」
 “清楚”と“淡い水色”というキーワードから、すぐさま頭に浮かんだのはこのブレスレットだった。山にながれる清涼な水のイメージでつくった、そのブレスには青色にまぎれて若葉のようなシトリンが3個まぎれている。
「華さんはこれ気に入ってるの?」
 華はいわれて、きょとんとする。どうして、私が気に入っている物をきくのだろうと思いながらも答えた。
「そうですね。どれも気に入っていますが、そのブレスレットは特別な物なので」
 今、すすめているブレスレットはこの店を開店するために、考えたデザイン第一号だった。はじめこの店には、ブレスレット、指輪、ピアスにイヤリング、あわせて30種類しかなかった。
「ふ〜ん、じゃあ。それちょうだい」
 そういって冬夜はそのブレスレットをわたした。華は「5600円になります」と値段をつげる。すると冬夜は1万円をわたした。精算するためレジへとむかった華に冬夜はいう。
「包まなくていいから、裸でちょうだい」
 華は不思議に思いながらも「わかりました」と答えると、お釣りとベルベッドのプレートにおかれたブレスレットを渡しにいく。
「お釣りが4400円とこちらが商品です。あの、本当になにも包まなくてもいいんですか?」
 華はそういって冬夜をみる。冬夜はかるく「いいの、いいの」というと、ブレスレットをとっていく。
 そんなブレスレットをみながら華は粗悪にあつかわれるブレスレットが、可哀想だと思う。華は作品のすべてを愛している。買われていった作品が、大切に愛でられることが華のもっとも望むことなのだ。
 さすがに、あからさまにガックリとうな垂れはしなかったが、華は心の中で、くすんと泣いた。
「え?」
 腕をつかまれたかと思うと、手早い動作でブレスレットが華の腕につけられた。華が困惑の表情をむけると、冬夜はいう。
「はい、プレゼント。また華さんが会ってくれるように、好きな子にプレゼント贈ってみた」
「あの、困ります。もらう理由がありません」
 華はそういって慌ててかえそうとしたが、冬夜は「それじゃあ」といって華を抱き寄せてしまった。
 しまった、とおもった華の思考が早いか、口を閉ざされたのが早いのか。あっというまに、再び痴漢にあってしまった。いま思えば、あらわれた時、すぐ警察を呼べばよかったのだ。
 冬夜は華の唇を味わうように角度をかえていく。舌の侵入を防ぐように固く閉ざされた唇を溶かすように、舐めたりはさんだりする。頑なな唇にアプローチしつづけると、観念したように少しゆるんだ。
 冬夜はなんの躊躇いもなく、舌をいれると華の熱い口内を味わった。冬夜の舌を排除しようと蠢く舌に、わざと絡めては擦ったり吸ったりをくりかえす。
 わざと湿った厭らしい音をたてて、抱き寄せた腰をぐっと近づけた。華の抵抗がすくないことに満足して、唇をはなすと華にいった。
「これで理由ができたでしょ?」
 華は悔しそうな顔で冬夜を睨んだ。こんなことされて、客も店員もクソったれもあったものじゃない。そして、なにより悔しかったのが、自分の体が熱く濡れてしまったことだった。
 悠斗とのキスだってこんなに感じたことはない。悠斗とのキスは欲望をたかめるような、そう前菜のようなキスなのだ。しかし、いまの冬夜とのキスは明らかにメインディッシュだった。
「華さん、腰くだけてるの?」
 おかしそうにいわれて、華の顔が真っ赤に染まる。不本意でも冬夜に寄りかかっていないと、そのまま床に座りこんでしまいそうだった。
「そんなことないわ」
 華は強がってそういうと、冬夜から離れて一人でたつ。ぬけそうになる腰を叱咤してたつと、冬夜を睨みつける。いまの華にはそれが精一杯だった。
 「無理しなくていいのに」と伸ばされた腕を叩き落として、華はいう。自分の体の変化を知られたことも、無理やりディープキスをされたことも、華は許せなかった。
「触らないで」
 激しい拒絶の言葉をはっして、自分の腕をつかむ。手も体も悔しさや恐怖感で震えていた。
15、16の娘とかいっていたことを撤回する。どんなに年をかさねてもキスひとつだって大事(おおごと)だ。
「今度はとらせてね」
 冬夜はそういうと、店からさっていった。そのあと、とても営業できるような状態じゃない華は体が落ち着いてから店をしめると、まだ会社にいっている悠斗のマンションへとむかった。そして、悠斗の帰りをまったのだ。
「悠斗さん、お帰りなさい」
 帰宅した悠斗に抱きついて、華は今日のことを消すように悠斗に甘えた。悠斗は「どうしたの?」と聞いてきたが、とてもいえることじゃなくて、華は「甘えたいの」といっただけだった。
 ご飯も食べずにベッドにいって、華は悠斗を求めた。自分から積極的に悠斗を求めたのだ。そんな華に悠斗はいつもどおり優しい瞳をむけていう。
「今日は熱心だね」
「あ、もっと熱くして」
「そうだね。もっと熱くなってとろとろにとけよう」
 華にそういうと、悠斗は体勢をかえる。悠斗の熱で冬夜の熱を冷まそうとするのに、体はいっこうに冷えなくて、そのことに戸惑いながら華は快楽に溶けていくしかなかった。
 今まで感じたことのない悦楽にのみこまれたにもかかわらず、華の体はいつもの気だるさをもたらさなかった。それどころか、指輪のデザインが頭にうかんでベッドからでてしまう。
 悠斗の机に腰かけると紙と鉛筆でそれを形にしていった。そんな華の姿に悠斗は言葉をもらした。華の耳には届かないように。
「まったく。僕の最大の恋敵だな」
 女の胴体と男の胴体がモチーフになった指輪にはブルーダイヤモンドが似合う、と思った。二人の男女は頭を共有していた、そこにブルーダイヤをはめこむのだ。悠斗はそのデッサンをみて「官能的だね」といった。自分でもそう思う。
 いいできだと思う。女性らしい滑らかなラインと男性の逞しいライン。二つは頭と下半身で繋がっているのだ。

 冬夜はカメラのレンズ越しに女性の喉仏をみていた。汗が流れるその首は艶めかしく仰けぞっている。すらっと細い首をしている彼女(モデル)は裸体のまま、冬夜の体に跨っている。
カシャ、と一枚とると、カメラをわきにおいた。そして、手を頭において枕がわりにする。今回の写真集のテーマは究極のフェティシズムだ。
これは女性版と男性版をだす予定をしていて、知り合いの女性カメラマンが男性版を担当している。最高のパーツのみを収録した写真集。
「あっ、ねえ、動いてよ」
 腰をくねらせながら悶える彼女はそう催促してきた。しかし、冬夜にはそのきはまったくない。というか、生理的な気持ちよさはあってもそれ以上がないのだ。写真をとってしまえばわざわざ動力を使いたいとは思わない。
「ねえ、冬夜きいてるの。冬夜?」
 無反応な冬夜に怪訝な顔をして、彼女は名前をよんだ。冬夜は相手をするのも邪魔くさくて、視界をとざしてしまう。そんな態度の冬夜に、当然のように彼女は怒って部屋をでていってしまった。
 この半年。女性のありとあらゆる唇をみてきた。しかし、これといった題材がみつからなかったのだ。そして写真集をおいてくれている図書館でいい(モデル)をみつけた。
 上下ともにバランスのとれた唇は、うっすらと肉付いた理想のものだった。つややかで、健康そうな色をした唇はリップでもぬっているのかと思ったが、何もつけてはいなかった。
 指でふれた感触もけっして期待を裏切るようなものではなく。ふわ、ふわ、としたいい手触りだった。指にのこる心地よさに、つい唇でもふれたくてキスをしてしまった。
 彼女しかいないと思っていたのに、彼女はそれから図書館にはあらわれなくなってしまった。近くに住んでいるのだろうと、あてもなく探し歩き、GALATEA(ガラティア)という店で彼女をみつけた。
 図書館でみかけた時とはちがい、薄化粧をしていたが、どんなによそおっていてもいい唇はかわらなかった。
 店の名前に聞き覚えのあったオレは何とか思いだす。そういえば、モデルの子がここの物を気に入ってつけていたことを思いだしたのだ。
「オーナーがひとりで全部つくっていて、どれもかわいいの」
 といっていた。店にはいると、たしかに作者の感性のよさがうかがえる作品ばかりがならべられていた。そのどれをとっても“妥協”という言葉はうかがえない。値段も2000円から数十万円とはばひろく、高校生から大人の女性まで利用できるように工夫されていた。
 彼女は警戒心まるだしで、それでも、きわめて冷静に客として自分をあつかおうとしているのが、おもしろかった。
 ちょっとした悪戯心が芽ばえたのは、「プレゼント」といって渡したブレスレットを困惑しながら返そうとしたからだ。
 始めはからかうような軽いキスにしようと思っていたのだが、唇の柔らかさについつい離れられなくなり、そして、深く啄ばんでいたら、もっと深く、深く、犯してみたくなった。
 唇を堪能して離れると華の唇はごろっと印象をかえていた。均等がとれた唇は、下唇がぷくっとふくれて、強請るような色気を醸しだしていた。赤く血行のよくなった唇にはついつい、もっと食らいつきたくなる。
 色気をました唇に、冬夜は絶対に彼女を撮りたいと思った。冷静と情熱をかねそなえた唇に興味がわかないわけがなかった。
「あ、ケイ番くらいきいておけばよかった」
 自分が携帯番号もきいていなかったことにきづいて、携帯をとりにたつ。そして、迷わず操作して通話のボタンをおした。
「あ。アミちゃん?あのさ、GALATEAの店番しってる?教えてほしいんだけど」
 GALATEAを愛用しているモデルの子に電話すると店の電話番号はあっさりわかった。そして、水曜日と木曜日が休みだということもしった。
 携帯をきって画面をみる。待ち受け画面に時計と日付と曜日が表示するように設定してある。画面には『7/29(木)』と表示されていた。
「ああ、残念」
 とりあえず今日はこのまま眠って、明日になったら店にいこう。セクシーな唇をもつ彼女に出演依頼をOKしてもらうのだ。あの唇にレンズをむけたら、絶対最高の一枚がとれると思った。

「はぁ・・・・」
 華は深い溜息をついた。目線のさきにはあの男女がモチーフになった指輪のデッサンがある。そのほかに3枚のデッサン。
「はぁ・・・・」
 今日は何回、溜息をつけばいいのか、わからない。4枚のデッサンはどれもいいできで、このまま商品として十分だせる。ただ、
「はぁ・・・・」
 どのデッサンをみても強烈に思い浮かぶのは、あの痴漢大学生の顔だ。そのことがどうしても、紙の世界から現実にうみだすことを躊躇ってしまう。
 ましてや、悠斗との情事のあとにできたことがショックだった。さっさと忘れてしまいたいのに自分の分身のようなそのデッサンたちを捨てることはできない。
 華は自分の作品をこよなく愛している。それがたとえ出来損ないのデッサンであったとしても、きちんとファイルし保存しておくくらいに。それに、自分がつくりあげた第一号作品は絶対手元においておく。
 店の名前をGALATEAと名づけたのだって、華のそういう愛情からきたものだ。
ギリシャ神話にでてくる若き彫刻家ピュグマリオンがアプロディアをモチーフにつくった女性の彫刻に恋をしてしまった。彼の想いは日に日にましてなにも手がつかなくなってしまう。
それをみていたアプロディアが同情し彫刻にキスをするようにいった。いわれたとおりピュグマリオンがキスをすると彫刻はほんとうの人間になった。それが店の名前にもなったガラティアだ。
ピュグマリオンがガラティアを愛したように華も自分のうみだした作品を愛している。だからこそこの名前にきめたのだ。
それがだ。あんな不本意なうみだしかたをしてしまった自分が恨めしい。しかもだ、あの痴漢の顔がうかぶからと、具現化してあげられないなんて屈辱だった。
「華さん」
 みょうに明るい声に呼ばれて顔をあげる。常連さんは華のことを「華さん」と呼ぶから、てっきり常連さんがはいってきたのだと思って、反射的にスマイルがでた。接客の基本はやっぱりスマイルだ。
「いらっしゃいま・・・・?」
 お客の顔をみて、そのままかたまってしまった。もう忘れてしまいたい、と思っていた顔がそこにあったのだ。それは悪夢以外の何物でもない。
「お帰りください」
 自然とこぼれた言葉はスマイルとともに投げられる。接客態度のままの冷たい言葉に冬夜はショックをうけたような声をだしていった。
「ひどいな。オレたち深い仲なのに」
 華は眉尻がぴく、とうごく。誰と誰が深い仲だというのだろうか。華はそれでもスマイルをくずさずにいう。顔だけみていたら立派な接客だ。
「買わないのなら、お帰りください」
「華さんにわざわざ会いにきたのに冷たいな」
 白々しくいう冬夜に、冷ややかな視線を投げかけても無駄だった。それがわかった華は態度をかえる。電話の受話器に手をおいた。
これは客ではないのだ。ただの痴漢。しかも唇マニアでキスフェチの変態なのだ。彼にとってはセックスよりもキスのほうがエクスタシーを感じる行為なのだ。きっと。
「どこにかけてるの?」
「警察です」
「どうして警察なんだよ。オレがいったいなにした」
 冬夜は華の言葉にあわてて通信を切る。そして、批難がましい目で華にいった。まるで自分が無罪放免だといっているような口ぶりに華はきれる。
「よくいうわ。2回もキスしたじゃない。立派な痴漢よ。この変態、手を離しなさい」
 もともと気が強いほうの華はお客じゃないと、割りきってしまえば、その言葉も荒くなる。猫をかぶる接客とはちがうのだ。
「だって、それは華さんの唇があまりにも魅力的だったから、男としてついやっちゃっただけで」
「ついですむ話じゃないでしょう。警察につきだしてやるんだから手を離しなさい」
「ちょっとだけ猶予をちょうだい。警察には話しを聞いてからかけてよ」
 ゆずらない華に勘弁したのか、そういって頭をさげてきた。華はしぶしぶ手をはなすと、腕を組んでその話とやらを聞いてやることにした。せめてもの武士の情けだ。
「オレね。カメラマンなんだ。それで、フェティシズムをテーマにした写真集をとろうと思うんだけど、なかなか理想の唇にあえなくて、そしたら華さんの唇があらわれたわけ」
 そう説明している冬夜は、カバンの中から何かを慌ててとりだして「これみて。オレの作品」
 そういって渡されたのは図書館できになった女性の胴体を横からとった白黒写真。フォトファイルには他にも図書館で華がみた作品が何点かあった。とりあえずカメラマンということは本当のことらしい。
 なんだかショックだ。いいと思って気に入った作品がこんな痴漢にうみだされていたなんて。
「それで」
 華はフォトファイルをめくりながら促した。どの写真も華の感性を揺さぶる物ばかりで、もしかしたらこのフェイルひとつで3作品はかけるかもしれない。
「それで華さんに唇のモデルになって欲しいんだ。オレ、華さんの唇に惚れたから絶対とりたいんだ」
 華はそれだけ聞くと「そう、わかった」といって、受話器を再びとろうと手をのばした。すると冬夜はあわてて華の腕をおさえる。
「わあぁ、警察につきだすのは返事をきかせてからにして」
 その言葉に華はきっぱり、迷いもみせずに「NO」といった。絶対に撮らせてなんてやらない。もし、また変なことをされたらたまったものじゃない。
「華さんの唇じゃなきゃ。オレもう撮れないんだよ」
 泣き落とすかのように見あげてくる冬夜に華は素直にいった。
「また、変なことされたらたまったもんじゃないわ。だいたいどうしてそんなことしなきゃいけないの。私には大事なお店があるの」
 わかった?とでもいうような華の言葉に冬夜はそれでもくらいついてくる。
「店は水曜と木曜日が休みでしょう?撮影は華さんの都合にあわせるし、OKしてくれるまで店に電話するから」
 諦めないぞ!というように、くらいついてくる冬夜に華は動きをとめる。すこし思考を回転させてからいった。
「威すつもり?」
「華さんにOKしてもらえるなら」
 そう答えた相手に本気のにおいを感じて、華は考えはじめる。付きまとわれるのは嫌だし、警察につきだすのは何となく可哀想になってきた。
 華だって作品を完成するためなら身だって削る。同じクリエーターかと思うと何となく気持ちもわかるのだ。
 綺麗にファイリングされた写真たちをみると、彼らがとても愛されていることがわかる。自分の作品を大切に考えていることが、うかがえて何となく同類のようなきがしてきたが、痴漢は許せない。
「華さんしかいないんだ。オレの作品完成してくれる人は」
 華の些細な心の変化をみぬいた冬夜は、そうたたみかける。華が自分の作品に多大なる愛をかけているのは、この店をみればわかった。
店のレイアウトまで作品中心にされているからだ。いや、もしかしたらこの店も彼女の作品なのかもしれない。
「写真集できたら一生姿をあらわさないでよ」
 華の譲歩に冬夜の表情はパアと明るいものになる。そして華の手をしっかりとつかむと、神さまでも見るような目でいった。
「華さん、ありがとう。撮影おわったらすぐに姿けします。来週の水曜日からでいい」
 あわせるといったのに、勝手に予定をいれてしまおうとしている彼に華は呆れる。華はもうひとつ大事な注意点をいい忘れていたことにきづいた。
「あとそれと私には触らないで」
 華の言葉にさっと手を離した冬夜は、へらへらと愛想笑いをうかべた。そして、「水曜日にむかえにきます」といいのこして店をあとにした。
 そんな冬夜の姿に、華はありし日の自分の姿を思いだしていた。自分にもあんな時があったのだ。店の忙しさに追われて、新鮮なあの頃の気持ちを忘れていた。
 はじめはできると思っていた5つの作品のノルマも、最近ではつらいだけのものになってきていた。忘れていたのはあの頃の情熱。夢を叶えようと我武者羅だったあの頃の自分だ。
「お店があるかぎり私の夢はつづいてたのよね」
 ごめんね。というように店の中をみわたした。どれもこれも華がつみあげてきた夢の形そのものだった。これにきづくきっかけをくれただけで、もう痴漢にあったことは大目にみるか。というきになった。

「華さん、次は横むいて。そう」
 華は白いソファに座って、めちゃくちゃ至近距離のレンズに戸惑っていた。唇しかとらないのはわかっていた。が、まさかこんなに近づいて撮影するなんて思っていなかった。
「華さん、カタイよ。おちついてリラックス、リラックス」
 こっちのきもしらずに冬夜はいった。いざとなると変なことされるのではないかと、気負ってここまできて、さらに慣れないカメラをむけられる。そして、何より、こんなちかくで一か所だけを撮られる(みられる)のって意外とすごく恥ずかしい。
「華さん、唇が可哀想だよ。硬直しすぎ」
 カシャ、カシャ、いえばいうほどリラックスという言葉から遠ざかってしまう。
「華さん、意識しすぎたよ。カワイイ唇みたいな。華さんのかわ」
 華のほうがブチ切れた。自分を弁護する言葉ばかりが頭をめぐって、そのまま唇からぶちまけてしまう。
「うるさい。私は素人なのよ。リラックスしろっていわれたってプロじゃないんだからできるわけないじゃない。あんたカメラマン名のってんだったら、リラックスさせなさいよ」
 カシャ。その音に「え?」とおもうと目をぱちぱちさせた。カメラ越しにニカっと笑うやつの顔。
「おもいっきり怒ってる唇も魅力的だね。お茶にしようか。コーヒーがいい、それとも紅茶?」
 呆気にとられて冬夜の顔をみていたが、反射的に返事をかえしてしまう。「コーヒー」と。コーヒーが机におかれて、自分がコーヒーが飲めないことにきづく。
「華さん、コーヒー飲めないでしょ」
 いわれて砂糖をいれていた手をとめる。とりあえず甘くすればまだ飲めるかな、と思って砂糖を2杯いれたところだった。冬夜のカップには茶色い琥珀色の液体。まだ、砂糖もミルクもはいっていなかった。
「え、いや。そんなこと」
 なぜかコーヒーを飲めないことを知られたくなくて、つまらない意地をはろうとした私のカップと自分のカップを冬夜はとりかえてくれた。
「ありがとう」
 華は素直に礼をいうとカップに口づける。ふわっとやさしい香りがしてほっとする。それから、冬夜をみた。ミルクもいれないで砂糖2杯のコーヒーを飲んでいる。きっとコーヒーはブラック派なのだろう。
「あの指輪って華さんの新作?」
 きゅうに話しかけられて、何のことかわからない。そんな表情をむけていると、冬夜はいった。
「紙にかいてあったじゃん。男と女の指輪」
 ああ、あれかと思い。華はどう答えていいのかわからなかった。ただ、紙にかいただけの作品にするのはおしく、かといって形にするのは躊躇われたからだ。
「あれさ、ちらっとしかみえなかったけど。官能的な作品だったよね」
「商品にはきっとならないわ。いいブルーダイヤが手にはいらないから」
 そう言い訳すると冬夜は「ふ〜ん」といって、すこし黙ったかと思うと、また口をひらいた。
「オレ、あれの第一号ほしいな。なんか頭で繋がってる感じがさ、おんなじ方向むいてていいよね」
 その言葉に華はどきっとする。たしかに官能的な作品だけど、その奥にはおなじ未来(ほうこう)を見つめている男女を表現したのだ。でも、悠斗はそのことにはきづいてはくれなかった。
「もう、撮影はじめましょ。はやく帰りたいから」
 華はそんな思いをふりきるようにいった。カップを机においたまま再びソファの上にすわる。
ちょっとリラックスできたかな、と思ったものの、やっぱり慣れないカメラにかたくなってしまう。カメラをかまえていた冬夜が話しかけてくる。
「華さんって彼氏いるの?」
「どうして?」
「いや、いないんだったらオレ彼氏に応募しようかなと思って」
「残念です。とってもいい彼氏がいます。子供がはいるすきはありません」
「じゃあ、さあ。華さん彼氏といっしょにいる気持ちになってよ」
「え、どうして?」
「だってそのほうがリラックスするでしょ。目つぶって、彼氏の姿おもいうかべて」
 華はコーヒーの件で意外と紳士だと知ったこともあり、素直にいうことをきく。目を閉じると真っ暗で何もうつらない。それだけでもちょっときが楽になる。
「華さんって彼氏になんて呼ばれてるの?」
「華って呼ばれてるわ」
「じゃあ、華って撮影のとき呼んでいい?」
 華はすこしかんがえる。深い意味があることのように思えないが、でも、会ったばかりの人に呼び捨てにされるのはちょっと嫌かも。しかし、華と呼ばれるほうが、身近な感じがしてリラックスしやすいかも。華はうなずいて返事をかえした。
「華、かわいい唇だね。愛しているよ」
 華さんの時とはちがい。すごく恥ずかしい気持ちになる。顔が赤くなっているのが自分でもわかった。それに悠斗は「愛しているよ」とはいわない。
「悠斗さんはそんなこといわないわ」
 思わずたえきれなくなって、華はいった。レンズをのぞいていた冬夜の動きが、とまってしまう。もちろん目蓋を閉じている華にはわからない。
「華、キスしてもいい」
 疑問系ではないその言葉に華はどきッとする。どう答えていいのかわからなくて、戸惑っていると、さらに言葉をかけられた。
「華、真っ赤になってる。かわいいね。ぎゅっとしたくなる」
 華は年甲斐もなく真っ赤になっていく自分を意識した。まるで15歳の初恋の時にもどったような錯覚をしてしまう。30歳になって再びこんなときめきが味わえるなんて、思っていなかった。
不意打ちのときめきにある程度のことなら対応できるはずの30歳の精神がパニックをおこして、まるで小娘のような態度をとってしまう。
「唇も真っ赤だよ。触っていい」
「あ、触らないって」
 なんとかいった言葉は震えていて、自分の反応にさらに恥ずかしくなる。
「言葉だけだよ。触ってるのは」
 頭のなかで唸る。結局、この日の撮影は年下の冬夜にいいようにあつかわれてしまった。「かわいい」「すきだよ」「あいしてる」これ以上の歯の浮くような、そして、直球で甘い言葉をいわれつづけてしまった。
 悠斗が絶対いわないようなこともスルッといってしまう冬夜は、きっと遊び慣れしているのだろう。そうじゃなかったらあのリップサービスのよさは異常だ。
 やっとの思いで撮影が終りこれで解放されるとほっとしていたら、冬夜にいわれた。
「華さん、また撮らして。満足いくものが撮れるまでとりたいからさ」
 作品にたいして妥協できない思いがわかる華は「わかったわ」といって、さっさとその場をさっていった。今日の自分を思いだすと色々とダメージをうけてしまう。
 その日、華は悠斗の上にのりかかってぎゅっと抱きついていた。今日のダメージは今日のうちに始末しておかないといけいと思ったからだ。
 肌の温もりは何でも癒してしまうのだろう。それは、おばあちゃんになっても同じことだろう。きっと、子供をぎゅっと抱きしめるお母さんも、自分が安心するから抱きしめるのだ。
「うう〜、悠斗さん」
 かまってオーラを溢れだしている華に、悠斗はよしよしとポンポンしてくれた。背中に悠斗の温かな慈愛を感じて癒される。悠斗がこうしてマメに水やりをしてくれるから、いまの私の生活は枯れることがないのだ。
「華、最近つかれているよね。なにか問題でもあったの?」
 いわれて華は一番の問題児を頭にうかべたが、あえて悠斗にはいわなかった。無理やりキスされて、泣きつかれたからってモデルをしている何ていえなかった。絶対心配する。それに怒りもするだろう。
「お店が忙しいだけ」
 そういって誤魔化す。悠斗の上で色々考えごとをした。まずは4枚のデッサンのこと。そして、モデルのこと。ぐるぐる考えていると、溜息をつきたくなる。
「華」
「うん、なに?」
「結婚しよう」
 華の思考がとまる。いま悠斗さん何いった。
「僕と結婚してくれないか。返事は今すぐじゃなくていいから」
 華は悠斗の心音をききながらその告白をきいた。悠斗さんとだったら結婚したいな、と思ったことはあった。でも、それはいまの自分の気持ちじゃない。
 悠斗は優しくて大事にしてくれる。セックスだって申し分ないし、生活だって安定したものだろう。悠斗は賭け事をしないし、お酒もお付き合い程度だ。
 でも、だからこそ不安になる。優しく守られてしまって、私はいまのモチベーションを保てるだろうか。甘えて流されてきっと、私の仕事はダメになっていくようなきがする。それだけじゃない。恋人と妻ではその責任がちがう。妻としての責任におわれて仕事がおろそかになれば、きっと、私は悠斗さんにつらくあたってしまう。
 10代、20代なら感情にまかせて結婚に踏みこむことも容易いことなのかもしれない。でも、30代になり仕事があったり自分というテリトリーをもったりしていると結婚は恋愛だけでは踏みこめない。
 もっといえば、恋愛以外の条件でも結婚できるのだ。それは仕事だったり自分の生活感だったり人それぞれ色々だ。
「ゆっくり考えて」
 悠斗は優しくそういって、華の頭に手をおいた。大きな手が頭をつつんでいて、華はただ「うん」としか答えられなかった。
 30歳。区切りの年。華は仕事か、恋愛(悠斗)か、選らばなくてはいけない局面に始めてぶつかってしまった。ただ、我武者羅(がむしゃら)に走っていればいい年代(とき)をすぎてしまったような空しさが心にあった。

 華はお客がいる時には、何かを忘れるように働いた。というか、答えをみつけることが怖いのだ。
 店をみると結婚することが不安になり、家で一人でいると結婚しないことが不安になる。このまま、独り身で仕事だけをしていく覚悟も華にはなかった。温かな家庭も子供もほしい。
 華だってわかっている。仕事も、家庭も、何もかも全て手にはいるほど、甘くはないということを。何かを得るためには、何かを妥協しなければいけない事実も。
 しかし、華には妥協するモノを、切り捨てるモノを、選ぶことができない。悠斗と結婚したら、きっと、女としての幸せをあたえてくれると思う。でも、それじゃあ、仕事という、もう一つの幸せはどうなってしまうのだろうか。
 ふと、時計をみると、閉店の時間になっていた。華は慌てて閉店の準備をする。今日は冬夜と約束があった。冬夜が迎えに来るまでに、片付けないといけない。回をかさねるごとに、撮影は緊張をともなわなくなっていた。
 ついさっき電話があって「今日、撮影させてほしい」と突然、言ってきたのだ。悠斗とフレンチレストランにいく約束をしていたのだが、華はそちらを断って、冬夜の誘いにのった。
 冬夜はよっぽど華の唇がきにいったのか、華の仕事が終わる前に来ては「仕事中の華さんの唇』とか言って、写真を撮ったりもしていた。
「華さん、むかえにきたよ」
 そういって現れたのは車にのった冬夜だった。店の戸締りをしていたら、クラクションを鳴らして現れたのだ。カバンはもう手に持っていたから、そのまま車にのりこむ。
「車は贅沢よ。若者」
大学生に車は贅沢だろう。と思いながらも少しほっとした。今は、若い冬夜が背伸びをしているこの感じが、すごくほっとさせる。
「大人な彼氏に勝つためには無理も必要です。華さん、晩飯まだだろう。オレもなんだ。どっか食いにいこうよ」
「ふふふ、いいわね。お姉さんが奢ってあげる」
 素直に背伸びをしていることをみとめた冬夜が、おかしくて華はクスクス、笑っていった。
「いいよ。オレが奢るから。好きな女に奢ってもらえないよ」
 そういった彼がかわいくて、華は、また、クスクス笑ってしまった。そんな華に、すねたような顔をすると「何が食べたい?」と聞いてきた。華はきを使って「焼き鳥」とかえした。焼き鳥くらいなら学生でもなんとかなるだろう。
 一本80円の焼き鳥屋で、華はビールを飲みながら、焼き鳥をたべた。冬夜は車の運転があるからウーロン茶だ。駐車場をでて、店に行く途中。華は酒屋を見つけていた。食事をおえた華は2本のワインを買った。今日は何だか飲みたい気分だったのだ。
「2本も買ってどうするの?」
「もちろん、飲むのよ。ワイン飲めるんでしょ?」
「まあ、飲めるけど。襲ってもしらないよ」
「それはだめ。触ったら、ネガ没収してモデルやめる」
「あぁ、いちばん痛いところを!!」
「そうでしょ」
 華と冬夜はそう言い合いながら、冬夜の部屋へとむかった。冬夜はどれだけ近づいても“触らない”という約束は守った。髪一つ、触れてこようとはしなかったのだ。
 とくに、今日の撮影はお酒の力もあって、リラックスしてできた。お酒で麻痺した頭には、カメラのシャッタ音も、フラッシュも、レンズも、何もかも気にならなかった。
「華、きれいだよ。もっとオレをみて」
 今の華には、冬夜の甘い言葉も、誘うような言葉も、何もかもがジ〜ント痺れてくる。女の人は褒められるのが大好きだ。それは華だって例外ではない。恥ずかしい、と恥らいながらも、もっと言って、と思っているのが、女の性というものなのだ。
霞んでいる思考の中で、ただ一時的に現実逃避したいだけなのかな、と思ったが、それもワインが減るにつれて、どうでもよくなってくる。
「うっすら唇あけて、そう。色っぽいよ。次は横むいて」
 ワインを飲みながらの撮影は、あっとゆうまに進んでいく。ワイングラスに口をつけて飲み干しているシーン。上機嫌に歌を歌っているシーン。ワインの力で、無防備に色々な表情をみせている。
もう、ワインは1本あいて、2本目の半分を飲んでしまっている。冬夜が飲んだのは、机に置かれている(から)のワイングラス一杯だけ。
「華」
 カメラを降ろして、真っ直ぐ見つめられて、華は名前を呼ばれた。ワインで犯された頭では、その瞳の危うさには気づかない。
「キスしていい」
「だめ、さわらない約束」
 華はそう言って答える。手にもったワイングラスの中を、くるくる回して遊んでいた。となりに座っている冬夜は、そんな華を熱い視線でみている。
「触らないよ。キスだけ。華の感じた唇が撮りたい」
 華はワイングラスを机におくと、膝に顎をのせる。そして、首をかしげて、ふと、微笑んだ。それは意図したものではなかった。酔って頭がふら、ふら、したのだ。
 しかし、誘惑という香りをかもしだしていたのも事実だ。冬夜の顔が数センチのところまで近づいてきて、華に問いかける。
「してもいい」
 華はもう、どっちでもよかった。キスされても、されなくても、どっちでもいい。と思った。なんだか、とても気持ちいい。体も頭もふわ、ふわ、する。冬夜のリップサービスで、ガードが緩んでいるという理由もある。
 チュ。むにゅ。とした物が唇に触れた。キスされてる、と思うとおかしくなってきた。くす、くす、笑うと。ちゅっ、ちゅっ、と唇をついばまれて、華は「ぅん」と鼻から声をだした。
「かわいい。華さんの声」
 ちゅっ、ちゅっと音をさせながらの唇へのキスに、華はよりかかる。押倒すように倒れこんでも、冬夜は背中に手もまわさない。片手はカメラをもう片方は頭の下だ。
「もっとしていい」
 カメラを机において、頭の下に両手を隠して、冬夜はいった。何だか、その態度がいじらしくて、ついつい華はうなずいてしまう。
 角度がかわって、唇のあいだを舐めるように、舌がそっと触れる。華がゆるした隙間に、そっと舌が侵入してくる。自分の舌よりも、少し体温の低い舌が気持ちいい。
「あっ」
 華はおもわず、声をもらしてしまった。酔っていて、熱い体と、浮遊感たっぷりの思考には、あまりにも魅力的なその甘さに、うっとりと目を閉じてしまう。
「華さん、かわいい」
 唇を触れあったままの言葉に、華の神経が酔わされていく。舌が再び、はいってきたときには、華は自分も愛撫をほどこした。侵入してきた舌を、舐めたり吸ったりした。アイスキャンディか飴玉のように甘い。
 ゆっくりと逃げていく舌を追いかけると、冬夜の口内に導かれてしまう。キスされていたのが、いつの間にかキスしている。キスが深くなれば、二人の呼吸も湿った熱いものになって、互いの興奮をおしえあった。
「華さん、触っていい」
 冬夜は堪らなくなって、華にいった。華は濡れた息のまま「いや」といって、再び深い口づけをしかけてくる。二人の会話は、唇が離れることなくくりかえされる。
 冬夜はおきあがる。けれど、約束があるから、華を抱きしめることはしない。唇が離れるのが嫌なのか、華は冬夜の動きにあわせて起きあがると、ソファに素直に押倒される。体勢がいれかわり、今度は冬夜が優位な姿勢で、華にキスをした。
「華さん、虐めないでよ」
 甘くささやく声には、余裕がないくせに、それでも手は床にあるままで。
「う、んん。ネガとるよ」
 キスに夢中になりながら、華はそういって拒んだ。冬夜のキスは、いつまでもしていたくなるようなキスだったから、それだけでいい。それに自分には悠斗がいる。
「ひどいな」
 こんなに熱烈なキスをしてきて、こんなにエロティックなキスを受けているのに、華はそれ以上、決して許さない。熱くなっていく体は堪らなく熱を求めるのに、約束という言葉がカギになってしまっている。
 華は下肢のうずきと、唇の甘さ、舌の熱さに、煽られながらも、酔いがまわる体は、悠斗とのセックスのあとのようなけだるさと、甘さを示しはじめている。完全に受身になると、その傾向は、ますます増していき華はそのまま。
「うそ。華さん、嘘だろう」
 華が目をとじて、大人しくなったことを、怪訝に思い、冬夜が唇を離してみると、何と、眠ってしまっているのだ。
 冬夜は恨めしげに華をみつめると、溜息をついた。机においたカメラを手にとると、カシャっと一枚とる。
華の唇はぽてっとして、まだまだ、愛撫を強請っているのに、少し開いた唇からは、安らかな寝息が聞こえてきている。
冬夜はあきらめて、華を抱き上げると、カーテンで隠してあるベッドへと運んだ。華に布団をかけてやると、自分は膝掛けを腹にかけてソファで眠った。
もちろんシャワーを浴びた後だ。そうじゃないと、とても眠れるような状況じゃない。薄いカーテンごしに、華の寝息が聞こえてきて、冬夜は溜息をついて瞳を閉じた。とても眠れるような状況ではなくて、そのまま夜を明かすことになった。

華は起きて焦った。冷や汗がでて、頭が痛かった。もちろん、二日酔いではない。
3年間、付き合った恋人に、プロポーズされている女が、他の男と寝るなんて、何て最低なことをしたんだろう。と思ったのだ。しかし、よく考えると、服はきちんときている。冬夜はソファで眠っている。
なぜか耳栓とアイマスクをして眠っている冬夜を、慌てて起こして、昨日、何かなかったか、尋ねたが、冬夜は「触ってないよ。ネガとられたくないから」と言っただけだった。
あれから、日がたてば、たつほど、仕事がてにつかない。今までこんなことはなかった。どんな時でも、アクセサリーとむき合う時には、スパっと忘れられた。
店の奥の2畳ほどの工房で、華はTカンにビーズを通しては、丸く曲げていく。しかし、いつもは芸術的なほど、美しく丸々と出来るのに、今日は歪んでしまう。
「ああ、もうダメ。今日は何もできない」
 積もり積もって、とうとう手が止まってしまった。
 華がペンチを置こうとした時、お客が来たことを告げるチャイムが鳴って、たちあがった。「いらっしゃいませ」という前に、はいってきた人が優しい笑みでむかえてくれる。
「華、営業でこの辺まで来たから寄ったんだ。邪魔だった?」
「え、大丈夫よ。今から休憩しようかと思ってたところだから。コーヒーでもどう?」
 華は「邪魔だった」と言われてドキッとした。自分はどんな顔で悠斗を見ていたのだろうか。
 華はそういって、工房へ悠斗をまねきいれた。悠斗に椅子をだして、自分はインスタントコーヒーをいれる。コーヒーをてわたすと「ありがとう」と言ってカップを受けとる。
「どうしたの?仕事中に来るなんてめずらしい」
 悠斗が仕事の合間に、ここに来たことはなかった。生真面目な悠斗は、きっと、学生の時にも学校をぬけだして、遊びにいったこともないのだろう。
「そんなに緊張しなくていいよ。返事をもらいに来た訳じゃないから」
 心の中を見透かされたような、そんな言葉に心がざわついた。自分が悠斗と結婚したいのか、したくないのか、わからないのだ。悠斗には「そう」としか、返せなかった。決心がつかない華には、それ以上、踏みこんでいく勇気がない。
「華」
 コーヒーのカップに口もつけないで、机におくと、悠斗はじっと華をみた。華もカップを机におくと、悠斗の瞳をみつめかえす。そらせなかった。今、そらしたらきっと、逃げてしまう。悠斗からも、仕事からも、そして、何より自分自身からだ。
「華」
 悠斗はまた、前を呼んで、頬に触れてきた。優しく触れてくる手の平に、逆に緊張してしまう。
「華、セックスしていい。ここで」
「え?」
 悠斗のあまりにもストレートな誘い文句に華は戸惑う。こんな直球のやり方をしてくるような人じゃないから、何か切羽詰ったものを感じた。まして、華がこの店でそういう行為をすることを、固く禁じていることを、悠斗は知っている。
 仕事は仕事、プライベートはプライベートときっぱりとわけている華は、店でキスされることだって嫌だった。でも、いま悠斗を拒むことはできない。悠斗自身を失ってしまうようなきがしたのと、かるい罪悪感からだ。
 悠斗の手に自分の手を重ねると力をぬいた。それが返事だ。悠斗の体が伸びてきて、首筋に悠斗の息を感じる。
 そのまま机にのせられて。悠斗はキスしてきた。華は瞳をとじると、ただ悠斗に身をまかせた。それは仕事場でこんな事をしなければならない事への抵抗感。
 ちょうどその時、冬夜は華に現像した写真をみせようと店にきていた。店にはいるといつものようにチャイムが鳴った。でも、華は現れない。おかしいと思って、奥にはいってみる。
 店の奥に、工房があることを知っていた。華をむかえに来ては、そこで待っていたからだ。何か音が聞こえてきて、耳をすます。華だけじゃなく、他に人がいるのかもしれない。
「あっ、ぅうん、悠斗さん」
「華。もっと名前よんでくれ」
「っ、悠斗さん。ふっ、はあ、ああん」
「華、華っ」
 萌黄色のワイシャツにしがみつきながら、華は喘いでいた。いつも、仕事の時に穿いているパンツではなく、白い素足が男の体をからめている。しがみつくようにして華は、何度も何度もその男の名前をよんでいる。
 「悠斗」という名前には、聞き覚えがあった。華の彼氏の名前だ。冬夜は他の男に抱かれている華の表情をみた。そして、そっとその場から離れた。
 華は冬夜が来ていたことに、きづかなかった。ただ、悠斗と体を繋げながら思った。悠斗とのセックスに、自分は魅力を感じていない。癒しと再生のセックスであった悠斗との行為に、ただ体が反応しているだけになっていたのだ。
 自分が悠斗との関係で失くしたくなかったモノ。それはセックスの後の甘い気だるさと、まどろんでいく眠りだけだったのだ。
 出会っていた頃に感じていた悠斗への想いは、きっと、月日をおうごとに変わっていって、ついのまにか、自分が癒されたいだけの物になっていたのだ。悠斗に恋しているのではない。愛着のあるマッサージチェアと同じになっていた。
 失くしたくない。と思った想いは、悠斗にむけたものではなく。そういったモノだったのだ。仕事への活力のために悠斗と別れたくなかった。
 結婚なんてできない。悠斗に揺らされながら、華は快楽に沈む片隅でそう思った。そして、あの指輪を思い浮かべた。「悠斗さん、悠斗さん」と呼びつづけながら、ブルーダイヤの似合うあの指輪が頭をしめていた。そして、その先には。
 いまの私には、女であることか、仕事をしていくことか、どちらか一つを選ぶことはできない。でも、一つ確信したことがある。悠斗との結婚はありえない。しかし、手放す決意はついていなかった。

 悠斗がかえった後、とても仕事ができるような精神状態じゃなかった。それでも、店を閉めるようなことはしなかった。贖罪の気持ちがあったからだ。
 幸いと言うべきなのか、お客はこなかった。店をしめる時間がせまってきて、一本の電話がかかってきた。冬夜からだった。
「はい。GALATHAです」
『華さん、これからデートしませんか?』
 その電話は、始めて冬夜からの正式なデートの申し出だった。今は、とてもデートという気分ではなかった。
「ごめんなさい。今日はいけないわ」
 華はそういった後に、彼へむける言葉がかわっていることにきづいて、自傷気味に笑った。「今日はいけない」なんて、まるでタイミングさえよかったら、行ってもいいみたいな言い方だ。
 実際、冬夜にたいするベクトルは悪い方から良い方へと、伸びていっている。いまでは、可愛い弟ができたような、おなじ情熱(もの)をもった同士であるかのように、思うのだ。始めはただの唇マニア、キスフェチの痴漢だと思っていたのに。
『8時にOZU(オズ)で待ってるから』
 OZUは二人でみつけて、1回だけ飲みにいったバーで、ピアノがおかれた店だった。自由に演奏していいと聞いて、冬夜が演奏したのだ。冬夜が「意外だろ」といって、弾いた曲は聞いたこともない曲だった。
 何を聞いていたのか、そう言った冬夜に華は、念をおすように「行かないわ」といった。しかし、冬夜の声のトーンはかわらず、何でもないことのように言う。
「うん、いいんだ。ずっと待ってるから」
 ツー、ツー。華の返事を待たずに切られた受話器に、華は「行かないわ」といって、受話器をおろした。
 店をしめ、戸締りを確認して華は家に帰った。独り暮らしの部屋は静まりかえっていて、そして、なにより暗かった。
 華は真っ先に電気をつけると、カバンをベッドに投げ捨てて、そのまま風呂にいった。浴槽にお湯をためながら、頭を洗ったり体を洗ったりしてから、浴槽に体をしずめた。
 お湯は温かくてほっとするはずなのに、落ちつかなくて直ぐにあがった。濡れた髪にタオルを巻いたまま、ベッドに横になる。バスタオルだけを巻いたまま、瞳を閉じる。
 そして、そのまま時間がたった。ふと、目をあけて時計をみる。デジタルの時計は21:03と表示していた。
 21:03という表示に冬夜のことを思う。考えなければ、ならないことは他にもあるはずなのに「待っている」といった冬夜のことが、頭から離れなかった。
「ふぅ、仕事しなくちゃ」
 華はそういって起きあがると、服をきる。そして、机に紙をひろげる。デザインを考えなければならない。白い紙を前に華は何を描くか考える。頭の中のキャンパスに瞬間的に浮かんだ物が、華のすべてだ。
 しかし、何も浮かんでこない。モチーフにする物すら浮かんでこなくて、華は途方にくれた。頭の中に浮かんでくる物は冬夜だったのだ。
 24:52。時間だけがすぎていく。机の上の紙は白いまま。
「もう、何も浮かんでこない」
 華は苛立って、そういうと自分を落ち着けようと、音楽をつけ、本を読む。読みかけのその本には、しおりが挟まっていた。できるだけ集中するように、本に目を走らせていく。クッションを抱いて読んでいたかと思うと、今度はベッドに横になりながら本を読む。
 喉が渇いて、起きあがると冷蔵庫からペットボトルをとりだす。また、視界にデジタルの文字。
 01:48。
「もう、いないわ」
 華はそうつぶやいて、電気を消すと、ベッドの中にはいる。布団に包まって、目をつぶった。もう、眠るのだ。明日は新作のお披露目がある。忙しくなるのだ。
「はぁ、眠れない」
 華はそういうと、起き上がり電気をつける。そして、机にあるデッサンをいれているフェイルを開いた。ふと、手がとまる。
唯一、いい出来でありながら形にしたことのないデッサン。他の3つは切羽詰って形にしたが、どうしてもこれだけはできなかった。
 窓越しに外をみると、雨がふっていた。もう待っていない。と思うのに、きがついた時には携帯を握っていた。そして、そこで始めてきづくのだ。
「あ、番号しらない」
 連絡はいつも店に冬夜からかかってきていた。はじめの印象が悪かったせいで、携帯の番号も、アドレスも、きいていなかった。それでも、不住に思わなかったのは、こちらからの用事がなく、待ちあわせも何もかも、店にいる時間に冬夜がかけていてくれたから。
 冬夜のことで華が知っていることは、大学生でカメラマンであることと、家だけだった。
 華は携帯をにぎりしめる。そして、タンスから適当にワンピースをとりだすと、そのまま部屋をでていった。雨の中、傘をさしてかけていく。
 冬夜はずっと待っていた。時計をみると3:36をさしている。2時に店がしまり、追い出されてしまった。店の前につっ立ったまま、華がくるのを待っていた。
1時間ほど前から、雨がふってきて、もう来ないとわかっていたのに、ここから離れられなかった。足が地面に縫いつけられているのだ。
うつむいて「かっこわりぃ」とつぶやいた。すると雨がやんだ。不思議に思って、顔をあげると華がいた。
「何してるのよ。バカね」
 華はあきれたような、少し嬉しいような、そんな気持ちでいった。まさか、本当に待っているなんて、思わなかったのだ。
「オレ、華さんの素足みるのはじめて」
 華はその感想にあきれる。確かに冬夜と会う時に、スカートを穿いたことはなかった。いつもパンツ姿だ。
 冬夜がくしゃみをした。華はあわてて冬夜の手を引っ張って歩きはじめる。
「バカなこと言ってないで行くわよ」
 ここからなら、華の家の方が近い。冬夜が「どこに?」と聞いて来たので「家よ」とかえしてタクシーを捕まえると押しこんだ。
 華は家に帰ると、自分がきている男物のTシャツをわたした。タクシーの中で「さむい」とつぶやいていた冬夜の肌はすこし熱かった。
「彼氏の服は嫌です」
 冬夜はそういって、男物のTシャツを着ようとはしなかった。華は「私のTシャツよ」というと頭をタオルでふく。
「下着はないから、じかで穿いて」
 華はスエードをわたしながらいった。これも華の物だ。どうして男物の服が上下あるのかというと、女の独り暮らしは物騒だからだ。洗濯物に男物が混ざっていると、防犯にもなると聞いたことがあったので、部屋着がてら買ったのだ。
「はきました」
「ベッドに横になって。まだ、寒い?」
 そういって額に手をあてると熱かった。「体温計なった」と冬夜がいうので見てみると、8度あった。それなのに、冬夜は終始へらへら笑っているのだ。
「何、へらへらしてるのよ」
 心配して、部屋にまであげて、看病しているのだ。どうして、こんなにへらへらしているのか。華に鼻を摘まれたまま、冬夜はこたえる。
「だって、華さんが優しくしてくれるから」
「バカなこと言ってないで、寝なさい。熱でた時は、寝るのが一番なんだから」
 華はそういって背をむけた。仕事をしないといけないのだ。デッサンは15日までに5つあげなくてはならない。そこから具現化するのに15日くらいで、1日には店に並ぶ。この2年ずっとこれのくりかえしだった。
 今日は10日。デッサンはひとつもできていない。切羽詰った状態なのだ。プライベートが低下気味の時は、せめて仕事くらいスマートにいきたいものである。
 華は背中に冬夜の息づかいを感じていた。熱で浮かされて、すこし荒い。ちら、と冬夜をみると、だるそうに瞳を閉じている。寝ているのかな、と思って再び、机にむかった。
 華の頭のなかのキャンパスは先程と違い、どんどん描き始める。おもしろいほどデッサンが浮かんで、手がすらすら動いていく。5枚をあっとゆうまに書き上げた。
「ふう、おわった!」
 華はひかえめにそういうと、背筋をのばす。後はこの子たちを三次元の世界に産み落としてあげるだけだ。
「わあぁ!!?」
 華は急にまわされた腕に引き寄せられて、驚きの声をあげた。冬夜が眠っている、と思いこんでいた華は、真底、驚く。
「寝てなかったの。ビックリするじゃない」
 ふりかえってみると、冬夜は片手で自分の体を支えながら腕をまわしてきていた。でも、手は華の肩にも腕にも触れていない。ただ、腕だけが首にまわされているだけ。
「華さん、仕事してたから。シャー芯の音心地よくて」
 そういった冬夜から甘い雰囲気を感じて華は、とっさに冬夜のまわされた腕から逃げる。そして、「熱は?」と言い訳でもするように言った。
「華さん。オレ、華さんのこと好きだよ」
 何度もきいた言葉に、何度も心を揺るがされる。子供のまっすぐした言葉が、妥協しがちな大人の心を揺さぶるのかもしれない。
「バカなこといってないで、はやく寝なさい。まだ、熱も下がってないでしょ」
 華は平静をよそおう。しかし、冬夜はその揺らぎを、見透かすようにさらに言葉をかけてくる。
「華さん、バカにしてもいいから、今だけオレのこと男としてみてよ」
 子供じゃないんだ!と必死にすがりついてくる瞳に、華は黙りこむ。もう、子供なんて言えない雰囲気だった。
「寝なさい。一晩中、ついていてあげるから」
 華はそういって、冬夜に布団をかけると、手をにぎってやる。その手は驚くほど熱くて、まだ、熱が高いことを、華に教えてくれている。
華は汗で濡れる額を、タオルで拭いてあげた。弱りながらでも、必死に口説いてくる冬夜を、可愛いと思ってしまうのは、母性本能の仕業だ。
「華さん」
「うん、なに?」
 華はついつい優しい気持ちになる。誰だって、可愛い生き物をみると、ついつい、優しく撫でてみたくなるでしょ。きっと、華の気持ちはそれと同じなのだ。
「キスして」
 冬夜は華にいった。すがるような子犬の目に、華はつい言いなりになってしまいそうになる。しかし、それはダメだと思った。キスされるのと、するのでは、大きな違いがあるのだ。
「華さん」
 冬夜が再び、呼ぶ。手を伸ばそうともしないで、ただじっと見つめてくるだけだった。約束があるのだ。触らない、という約束。
どんな時でも守ろうとしてくれる冬夜の誠実さに、胸がきゅっとする。華は冬夜から逃げるために、残酷な逃げ道へとはいる。
「プロポーズされたから」
 自分でいって、自分が嫌になるようなその言葉に、華は目をそむけるように、冬夜を視界からけす。冬夜の傷ついた顔が、頭に浮かんだ。
「華さん、触ってもいい?」
 華は言葉にせず、それを否定する。何かを肯定すれば、何かが崩れ去ってしまうようなきがしていた。
「最後だから」
 その言葉に華はぴくっと反応する。自分がどうしたいのか、わからなくなってきた。名前をよばれ、目線があう。大人の恋にはない甘い感覚。きっと30歳の自分には、もう味わうことのなかった感覚と誘惑があった。
「キスして」
 終わりにするから、と言われたようなその言葉に、華はもう否定することはできなかった。身をのりだして、ゆっくりと冬夜に近づく。
 初めてキスをするように、数ミリ、数ミリが近づくごとに、ドキドキしていく。冬夜の熱い呼吸が、そっと唇に触れる。寸前の甘さと、唇が触れるその一瞬の緊張。
 ふわっとするその熱さに、華はゆっくりと目蓋を閉じる。ぷにっとしたやわらかな感覚に、華の体は色づいていく。しかし、華はすぐさま離れていった。きっと、5秒もなかった。でも、華の人生の中で、一番、長かったキスかもしれない。
「おやすみ」
 そういったのは華じゃない。冬夜のほうだ。華はにこっと微笑む。それは悲しい笑みだった。冬夜が目をつぶって、規則ただしい寝息をつきはじめた頃。華もベッドに、頬をおくようにして眠った。タオルケットを体にまいて、眠りについた。
 朝おきた冬夜は、眠っている華をみて、そっと額に触れた。髪をとかすように、どけてあげる。華にプロポーズしたのは、あの時の彼だ。「悠斗さん」と華が呼ぶ。そいつの背中だけが、冬夜の印象にのこっている。
 朝、華が起きると、冬夜の姿はなかった。机の上に一枚のメモがのこされている。最後の撮影の日だけが書かれていた。

 店が休みの日。最後の撮影があった。しかし、悠斗にデートに誘われてもいた。わざわざ、華にあわせて有休をとった悠斗を、断ることは華にはできなかった。
「5時までなら」
 と、悠斗に返事をかえした。撮影は冬夜に頼んで8時にしてもらった。5時に帰ってくれば、充分まにあう。3時間よぶんにとったのは、少し落ち着く時間がほしかったから。
プロポーズから2週間。答えを求められる時がきたのだ。
 普段薄っすらとしかしない化粧を、しっかりとメイクした。下地をぬり、ファンデーションをぬっていく。アイラインを引き、眉を整え、ビューラーでたたせた睫毛にマスカラをぬる。最後に唇を装うと、華の気持ちは落ち着いていく。
今日、一日。何があっても、答えをだす覚悟ができた。答えはもう決まっている。あとは、告げるための小さな勇気を持つだけ。
悠斗がつれていってくれた場所。それは美術館だった。アール・ヌーボーの代表的作家の作品が展示されている物。ガラス工芸のガレ、宝石デザインのラリック、画家のミュシャやクリムトなどの作品が置かれている。
とても、こんな気分じゃみられない。と思っていたのは始めだけで、時代をこえて愛されてきた作品たちには、魔力が宿っていた。2時間、たっぷりと堪能してしまった。
そして、その後、悠斗が予約しておいてくれたお店に食事にいった。個室風の少し落とした照明の中、料理がでてくる。
「あまり食べないね。美味しくなかった?」
 悠斗に言われて「そんなことないわよ」と言って、再び、口をつける。店にはいった時には、1時をまわっていたが、とても食べたいと思うような気分じゃなかった。それでも、悠斗にあわせて、料理に口をつけていった。
 昼食の時にワインも飲んだけど、やっぱり、ぜんぜん酔えなかった。店をでて歩きながら、むかったのは始めって会った場所。悠斗が、この場所を選んだのだ。
 悠斗と出会ったのは、川沿いの遊歩道。桜の季節だった。デザインに行きづまり、気分転換に夜桜を見にいった時、悠斗と出会ったのだ。
「華、時間は大丈夫?」
 葉桜になっている桜をみていた華に、悠斗はいった。華は決断の時がきたと、思いながら「ええ」と答える。一本の葉桜の前で、二人はむかいあった。
「最後のプロポーズをするよ。華、僕と一緒にいよう」
 そう言って渡された小さな箱。箱を開けると、そこにはシンプルなプラチナリングがあった。石も、何も、ついていない有名ブランドのプラチナリング。それは私を、残酷にさせた。
「悠斗さんとは結婚できない」
 指輪のデザインをする私のために、ありふれた物を。そして、それでも婚約指輪として負けない物を、選んでくれたのだろう。そう思いながらも、私はその小さな箱の中にはいっているリングを否定せずにはいられなかった。
では、どんな指輪なら納得したのか。悠斗が自分で気に入った、もっと凝ったデザインの物なのか。いや、それならば、この指輪でもいいじゃないか。
じゃあ、他の人に頼んで、GALATEA(自分の店)で指輪を買って渡してくれればよかったのか。うーん、これは絶対に嫌だった。自分でもわからない。
「やっぱりな」
 悠斗の意外な言葉に華は「え?」と悠斗の顔をみた。悠斗はわかっていたよ、と言うように微笑む。華には傷ついているように見えた。悠斗は華から目をそらさないで、話しはじめた。
「仕事と華をとりあっても勝てないって、わかっていたんだ」
「どうして、だって悠斗さんは」
 悠斗は一言も仕事を辞めてくれ、とは言わなかった。それなのにどうして、私の仕事と、自分を比べていたのだろう。
「華は仕事をしている時が、僕といる時より楽しそうだったから。仕事に集中できない環境は嫌だろうなと、思っていたんだ。もちろん、OKしてくれたら努力するけど、完璧なものは保障できないからさ」
 そのとおりだった。女の幸せと仕事を天秤にかけて、悩みながらも、究極のところはそれだったのだ。私の中で、始めから決定権をもっていた。唯一の存在。私は女の幸せを味わうことで、仕事に支障がでることが、死ぬほど嫌なのだ。
 結婚した当初はそれでもいい。夫の理解さえあれば店にでることはできる。でも、子供ができたらそうはいかない。
妊娠、出産、保育園にいくまでの子育て、いったいその間、店は誰がみてくれるのか。いったい誰が、私の書いたデザインを形にしてくれるのか。それがきがかりになる。
「悠斗さん、ごめんなさい」
 謝った私を、労わるように最後のキスをしてくれた。それはおでこに、チュ、と触れるだけの軽い、愛情のつまったキス。
「いいんだ。僕が欲張ろうとしただけだよ」
 最後まで優しい悠斗に、華は静かに別れを告げた。少女マンガのヒーローのような悠斗の手を、どうして、私は深く握りかえすことができないんだろう。
悠斗がそっと離れていく。華は涙も流さず去っていく背中をみつめた。もう、触れることも、包まれることも、ないその人の幸せを願いながら。

 冬夜はシャワーをあびて、ズボン一枚を穿いたまま、ソファでテレビを見ていた。華が来るまで、まだ、2時間ある。今日で最後だ、と思いながら、華が始めて泊まった時の写真をみていた。安らかに眠るこの瞬間は、たしかに自分の手の中にいたのだ。
家のチャイムが鳴る。冬夜は起きあがると、だるそうにドアを開けた。華がくるには、まだまだ、早い。しかし、扉のむこうにいたのは華だった。驚いたような、ほっとしたような複雑な表情を浮かべてしまう。
「早いんだけど、いい?」
「え、ああ。いいですよ。どうぞ」
 そう言って華を部屋にいれる。何度も華を招きいれた部屋なのに、今日が最後だ、と思うと、何だかいつもとは違った感じがした。
 華がすれ違った瞬間。ミントの爽やかな香りと大人の甘い香りが鼻腔に触れた。華は香水をつけないから、きっと、彼氏の移り香なのだろう。冬夜は急激に胸が苦しくなった。
「コーヒー飲むでしょう?紅茶きれてて、甘いカフェオレなら飲める?」
「ええ、カフェオレなら大丈夫」
 冬夜はそう言いながら、Tシャツを着ると台所にたった。華がコーヒーを飲まないことは知っている。いつも彼女は紅茶を飲んでいたから、台所には彼女用の紅茶がある。
コーヒーしかない、と言ったのは、あの香りを消すため。撮影の間だけ、最後だからこそ、自分と華以外の何者にも、存在して欲しくなかった。
華にコーヒーをいれて、撮影の準備を始めた。準備をしながら華をみる。華はいつも薄化粧なのに今日はしっかりとメイクをしていた。きっと、彼にOKの返事をしたのだろう。いつもリップしかぬっていない唇には、色づいた口紅がぬられている。
「華さん、準備できたよ」
 カップを持ってテレビをみていた華に、そういって、部屋の明かりを落とすかわりに間接照明を華にむける。赤めの淡い光が華をかこむ。
 手始めにコップについたままの唇を撮ってみた。華はカメラをきにすることなく、普通にしている。始めの頃とは違い、あまりカメラを意識しなくなったのだ。冬夜は特別なにも要求しなかった。
「華さん、唇に触ってもいい?」
 冬夜はレンズ越しにみる、色づいた唇に我慢できなくて言った。華に近づくと、コーヒーの香りに負けない香水の匂いがしてくる。それはまるで、所有権を誇示しているようだった。
 彼女は世間的にも、何もかも、自分の者になったのだと。もう、誰も手出しはできないのだと。
「だめ、触らない約束でしょ」
 華の言葉にめげず、「最後だから」と冬夜が言うと、少しだけ華の表情が曇ったきがした。いや、きのせいだろう。
「うっん」
 華の唇の口紅を親指でぬぐう。大幅にはみだした口紅と、自分の指を撮る。
「ちょっと、そんなことしたら唇が荒れるじゃない」
 華はそういって、強い指をどけると、カバンの中のクレンジングオイルをとりだした。そして、それで口紅を落とす。
「メイク全部おとしてよ」
 冬夜の言葉に「洗面所かしてね」といって、クレンジングオイルと共にきえていった。
「はあ、かっこわり」
 冬夜は溜息をつきながら呟いた。だって、そうだろう。最後の撮影なんて、口実もいいところだ。のせる写真は決まっている。もう、撮る必要なんてないのだ。プロポーズときいて、最後の悪足掻きのように、撮影といっただけ。
 コーヒーをいれたのも、メイクをとらせたのも、女々しい自分の気持ちからだ。これだってそうだ。手の平の小さな物。
「できたわよ」
 そう言って出てきた華は、当然のことだが素顔だった。いつも薄化粧だからそんなに、かわらない。
「華さんこれつけてくれる?」
 そう言って、渡されたのは小さな環だった。華がかいた男女のデザインと同じような物だったが、ブルーダイヤのところには青いバラが咲いていた。
「作ったの?かなり小さいけど」
 粘度を削って出来ている、それをみながら華はいった。丁寧に削られているそれは、綺麗な曲線をもっていた。ニスがぬってあるのか少し艶めいている。
「うん、華さんのデザインに惚れたからね。真似してみた。華さんの右手の薬指と唇にどうかなと思って」
 華は「ふ〜ん」と言いながら、その小さな指輪をはめた。指輪は薬指の第一関節までしかはいらない。きっと、狙ってやっているのだろう。撮影の小道具だから。それでも、華はその指輪をみて綻ぶ。あの時の答えは、これだったのかもしれない。
「華さん、指輪にキスしてあげて。そう、いいね」
 そういって1枚、2枚とると、手を止めた。そして、華をみつめる。
「どうしたの?」
「結婚しないで」
 華に浮かんだのは戸惑いと贖罪の表情だった。でも、それは冬夜への贖罪なのか、悠斗へのものなのか、わからない。
「オレやっぱりあきらめらんないよ。結婚しないでよ、華さんお願いだから」
 華をかこむようにソファに手をついた冬夜は、瞳を閉じて告げる。華は眉間にしわのよった冬夜の表情を、見上げながらその言葉を聞いていた。
「しないわよ」
 華はあっさりそう言って眉間に触れる。冬夜の顔が自虐的に歪んだ。しかし、華はつづけて言う。
「冗談じゃないわよ。私の一番は仕事だろうってふられたのよ」
 華はそう言って笑った。冬夜のいぶかしむ顔がおかしい。真実なのか、嘘なのか、見極めようとしているのだろう。
「じゃあ、オレを恋人にしてくれる?」
 プっ。華は思わず吹きだしてしまった。だって、中学生のような顔をして言うんだもの。そんな華を呆気にとられたような顔で冬夜はみた。
「2番目なら考えてあげる」
 そう、仕事の次に大切なモノが恋人でもいい。そう思いながら、華は冬夜の瞳をみて言った。きっと、何か誤解している。
「1番目は?」
GALATEA(ガラティア)
 華の言葉に冬夜はニヤっと笑うと「悔いなし」と言って、キスしてきた。そっと触れるキスをして離れる、と聞いてくる。
「約束解除?」
 華はくすくす笑いながら「許可しよう」と言った。冬夜は嬉しそうにキスしてきた。もちろん、解禁された手はしっかりと華を抱きしめている。今度は啄ばむようなキス。華も負けじと、冬夜の唇を啄ばんだ。啄ばみながら服を脱いでいく。
 冬夜の手が太腿を撫でる。優しくマッサージするように撫でている。手の平の感触に煽られて、体に電気が走っていく。
「ううんっ」
 声を殺すように喘ぐと、冬夜が目蓋を啄ばんできた。素直に声をだすほど、体は熱くなっていない。冬夜の手が太腿から上へとあがってきて、胸を包みこんでくる。首筋は冬夜の舌で遊ばれて、ぞく、ぞく、した物が走っていく。
「華さんって本当に体臭ないよね?」
「あっ、なに?」
 冬夜は綺麗にでた鎖骨に、かじ、かじ、と甘噛みしながらつづける。手は華の乳首を弄っている。クルクル回したり、先っぽを爪で弄ったり、華があげる甘い声に誘われるようにその愛撫は大胆にかわっていく。
「華さんってすぐに男の匂いが移るんだよ」
 冬夜が雄独特の支配欲を満たそうとしているのに気づいて、華はドキッとする。性的な甘い体の痺れと共に、女としての心が反応している。囚われるように強く支配されてみたいという欲求。
「ああっ」
 さんざん指で、爪で、弄られた乳首を、熱いヌメル舌で舐められて、華はのけぞった。
冬夜の舌は硬く突いてきたかと思うと、ねっとりと包みこんできて、きゅうぅ、と吸いあげてくる。華は自分から足をひろげて、欲しいモノを強請ったが、冬夜はそこに夢中のようで、中々、先には進んでくれない。
 華は冬夜に回していた腕を離すと、冬夜の胸につける。そして、そのまま押倒すと、今度は華が冬夜に跨った。今度は華の番だ。
「スケベな顔。でも、かわいい」
「華さんだってスケベな顔じゃん」
「なによぉ」
 華はじゃれるように首をしめる。冬夜は「ギブ、ギブ」といって軽く腕を叩いてきた。二人でしばらくそのまま遊んでいると、ふと、真面目な顔で冬夜はいった。
「でも、色っぽくて好きだよ」
 それが催促の合図。華は冬夜の胸に手をあてる。手の平には暖かな肌の感触。暖かで少し硬くて、そして、滑らかな肌。
顎をぺろっと舐めると、そのまま喉仏にしゃぶりつく。右手で耳たぶを弄りながら、下へと進んでいく。
 冬夜は「くっ」と声を押さえながら、華の首筋を撫で、髪に指をからめる。華はおかえし。とばかりに愛撫をしていった。うすい胸板に乳首がピンと硬くなっている。男も女も基本的に感じるところは同じなのだ。
「華さん降参。もうひとつになろうよ」
 冬夜の言葉に、華は微笑み体勢をかえる。このまま、跨ってもいいかな、と思ったけどやっぱり初めは冬夜に抱かれたい。
「華さんいい?」
 そういって、冬夜は華の足を自分の肩にかけてきた。華の体が甘く濡れているように、冬夜の体からも甘い香りがして、華を誘っている。華は年上の意地で最後の意地悪をする。
「キスしてくれたら」
 華の言葉に乱暴にキスをする。そして、そのまま、冬夜は体を繋げてきた。ゆっくりとしたものではなく。自分の想いをぶつけるような荒々しいものに、華は苦しそうに表情を歪める。でも、痛みはなくて、荒々しいことへの、ちょっとした抵抗感だけだ。
「はぁ、くうん」
 唇が離れて、酸素を吸いこむ余裕がないほど、冬夜が求めてくる。華は喘ぎながら、粘膜からうまれる圧倒的な快感に酔っていた。そして、冬夜をみつめる。
冬夜の額から首筋から汗が流れていて、セクシーだと思った。そして、何より華を煽ったのは冬夜の目だった。我武者羅に求めてくる瞳には余裕がなくて、華は怖いと思うよりも、魅力的だと思うのだ。
「っっ。あああっ、冬夜、冬夜」
 華はキスを求めて名前を呼ぶ。でも、冬夜の唇は耳たぶへと降りていって、ねっとりとした舌は外耳を舐める。
「華さん、かわいい。もっと呼んで」
 華は冬夜に揺らされながら、浮かされたように冬夜の名前を呼んだ。耳を弄んだ口は、今度は米神をキスして、目じりを舌が突いた。
「はあん、冬夜、キスして、キスがしたい」
「華さん。キス好きなの?」
 そういって、口角をカジカジと唇をつかって思わせぶりなことをする。華は素直に頷くと、冬夜の唇を追いかけて捕らえた。腕を首筋にまわして、逃げていかないように貪り始める。
 キスは濃厚なものになって、互いの舌の感覚がどちらの物なのか、わからなくなってくる。そして、二人の体もどろどろ、になった頃。ようやく、体は満たされて離れていった。
「なに?」
 情事がおわって抱きあっていたら、冬夜がくん、くん、と匂いを嗅いできたのだ。華は冬夜をみてきく。
「いや、華さん。いい香りだなって思ってさ」
「さっき匂いしないって言ったじゃない」
「だから、オレの匂いがしていい感じだなって話し」
 華は「ふ〜ん」と言って背中をむけた。冬夜のあまりにも充実した嬉しそうな顔に、恥ずかしくなったのだ。背中をむけ丸くなった華に、腕をまわして自分の中に閉じこめる。そうされるとなんだか安心して眠たくなってきた。
そして、冬夜はそのまま優しい寝息を聞いていた。華の寝息は最高の子守唄のように、冬夜の体を癒してくれる。そのまま、二人は朝まで眠りつづけた。
たくさんの恋をして、たくさんのセックスをして、肌を寄せ合うことの温かさと安らぎをわかっていても。それでも、仕事をとったのなら、仕事をする私を愛してくれる人を探さなくてはいけないのだろう。冬夜がそうであればいいな、と思いながら。華は15、16歳の少女のような夢をみていた。









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