7 「だから、言わない」
『二美花へ
おまえにこうやって手紙を書くのは、これがはじめてだな。
俺はあんまり文章がうまくないからさ。どんな言葉を選べばいいのかさっぱりわからない。だからいつも絵はがきになっちまう。
おまえはたくさん手紙を書いてくれたのにな。おまえのこと、親父のこと、おふくろのこと。学校のこと、友達のこと、先生のこと。いろんなことを書いてくれたよな。一生懸命書いてくれたんだろう?
嬉しかった。
おまえが俺を忘れずにいてくれて。おまえの成長を知ることができて。本当に本当に、嬉しかった。
なぁ、二美花。
俺はどんなにおまえに救われたんだろう。どんなに癒されたんだろう。言葉じゃ言い尽くせないくらい、俺はおまえの存在に助けられて、支えられて、生きてるんだ。
……何を勝手なことを言ってるんだと、おまえは怒るかもしれない。
それでもかまわない。この手紙は俺の自己満足な懺悔だ。破り捨ててもいい。燃やしたっていい。だけど、わがままを言ってもいいなら、どうか最後まで読んでほしい。
二美花。
おまえが生まれたときのこと、今でもよく憶えてるよ。その年はいつもよりあったかくて、まだ三月なのに桜の花が満開だった。おまえの生まれた病院に大きな桜の木があってな。病室の窓からきれいなピンク色がよく見えたんだ。「まるでお祝いしてくれてるみたいですね」って、看護師さんが笑ってた。
俺は、生まれたばっかりのおまえが、憎くてしょうがなかった。
小さなおまえを抱いて幸せそうな親父とおふくろが、恨めしくてたまらなかった。
二美花、俺はな。俺は、おまえの本当の兄貴じゃ、ないんだよ。
とっくに知ってるかもしれないな。おまえももう十六なんだから。
俺は養子なんだよ。六つのとき、親父とおふくろに引き取られたんだ。
本当の両親は、俺が三つのときに交通事故で亡くなった。顔は――ぼんやりとしか思い出せない。でも優しい人たちだったような気がする。
両親には身寄りがなかったみたいだった。引き取ってくれる親戚もなくて、杉村の家にもらわれるまで俺は施設で育ったんだ。
施設にいたのはたった三年間だけど、あんまり思い出したくないな。周りになじめなくて、いつも寂しくて泣いてばっかりだった。
……杉村の家に養子に行っても、それは変わらなかった。
親父とおふくろには本当に感謝してる。血のつながらない俺を育ててくれて。なんにも恩返しできないまま勝手にくたばっちまって、本当に申し訳ないって思ってる。
俺は親父とおふくろのことを『両親』だって、ずっと認められなかった。
俺にとっての『両親』は本当の父さんと母さんだけなんだ。朧げにしか憶えてなくても、俺の心のなかには確かにふたりがいるんだよ。
だから――いつもどこかが噛み合わなかった。
お互いに家族になろうとしても、完全にはなりきれなかった。俺が最初から一線を引いてたせいで、親父たちも踏みこむことができなかった。
失敗してたんだ、俺たちは。
それでも、おまえが生まれるまでの四年間はまだなんとかなった。ぎこちなくても『家族』っていう形を取り繕うことができた。親父とおふくろの優しさや愛に、甘えたり、応えたりすることができた。
だけど、おまえが生まれて。
状況は変わった。親父とおふくろは俺もおまえも同じくらいかわいがってくれたけど、でもやっぱり違うんだ。目に見えるような、形のはっきりしたものじゃなくて、何げない態度とかかける言葉とか、そんな小さなことから伝わってくるんだ。養子の俺よりもあきらめてた矢先に生まれたおまえのほうが、何倍も大事にされてるんだって。
俺はおまえを妬んだ。俺から仮初めの家族すら奪うやつだって憎んだ。
本当に勝手だろう? 自分から与えられた居場所を捨てておいて、居場所を奪っただなんて考えて。本当に、呆れるくらい自分勝手なやつだ。
そして卑怯だ。
俺は子どもが欲しくてもできないから、親父とおふくろに引き取られたんだ。それなのにおまえが生まれちまった。もう必要ないって捨てられるかもしれない。そんな不安や恐怖が頭から離れなかった。
俺は本心を親父たちに悟られないよう、今まで以上に『いい子』を演じた。賢くて素直な、理想を絵に描いたような『いい子』をな。赤ん坊だったおまえの面倒も、自分から進んで見たよ。それこそ、おむつ替えからミルクを飲ませてやることまで、なんでもやった。小学生で離乳食が作れたやつなんて、俺以外にはそうそういないと思うぞ?
そんな俺をおふくろはすっかり信頼して、おまえのことを任せっきりにするようになった。俺もいつの間にか、この世で一番憎い『妹』の世話をすることが当たり前になってた。
そう、当たり前になってたんだ。
面倒を見るようになったばかりの頃、そのふにゃふにゃした首をへし折りたいぐらいだったのに――気づいたら、おまえのことがかわいくてしょうがなくなってた。
どうしてなんだろうな。
憎くて妬ましくて殺してやりたい、そんなどろどろした醜い感情を抱いてた俺に、なんの屈託もなく笑いかけてくれたからだろうか。薄汚れた俺の指を、小さな手でぎゅっと握ってくれたからだろうか。おふくろでも親父でもなく、一番最初に俺を呼んでくれたからだろうか。
……いや、そうじゃない。もっと根本的な部分で、俺は、浅はかな期待を抱いてたんだ。
おまえは何も知らない。何も知らないからこそ、俺を……必要としてくれるんじゃないか、って。
血のつながりがないことを知らない、俺を本当の兄だって信じてるおまえになら『家族』として愛してもらえるんじゃないかって……遠い昔に失っちまった居場所を、手にすることができるんじゃないかって、思ったんだ。
おまえの目に真実は映らない。そうすれば、俺は真実を忘れられた。おまえの兄貴として、おまえのそばにいつまでもいることができた。
幸せだった。
とても、とても幸せだった。おまえに頼られて、甘えられて、必要とされて。「お兄ちゃん」って呼んでもらえて。『ここ』にいてもいいんだって感じることができた。
おまえが俺のすべてだった。おまえが俺の存在理由だった。
二美花。
おまえはどうして俺が家を飛び出したのかって思ってるだろう。こんなにもおまえに依存しておきながら離れたのか、疑問に感じてるだろう。
美術系の大学に行くか行かないかで親父と揉めたことも、もちろんあった。だけど、何よりも、俺は。
――怖かったんだ。
大きくなってくおまえを見て、俺はいつしか気づいちまった。おまえはいつまでも子どものままじゃいられない。いつかは大人になって、俺を必要としなくなる。俺の知らない世界に飛びこんでって、手の届かない場所へ行っちまう。俺はそれを追いかけることはできない。
なぜなら、俺はおまえの『兄貴』だから。
やがておまえはだれかに恋をするだろう。結婚して、子どもを産むかもしれない。それはつまり、俺じゃない他の男を愛するっていうことだ。
……そんなこと、考えるだけでも耐えられなかった。
おまえが俺以外のやつを愛するなんて、絶対に許せなかった。腸が煮え返るぐらい腹立たしくて、まだいもしないおまえの恋人が、夫が、八つ裂きにしてぶっ殺してやりたいくらい、憎くて妬ましかった。きっと赤ん坊のおまえに感じた憎悪や嫉妬よりも、何倍も激しくて深い感情だった。
そして、そんな自分に愕然とした。
こんなにもおまえに執着してたなんて、これっぽっちも自覚してなかった。当然のようにおまえは俺のものだって考えてる自分が、おそろしかった。
だから逃げた。
このままそばに居続ければ、俺はいつかおまえを壊しちまう。兄妹なんてことにはかまわずに、ただ自分のためだけにおまえを傷つけて、おまえだけには知られたくなかった真実を最悪の形でおまえに突きつけちまう。いや、真実さえも利用して。
そう思ったから――だから、逃げ出した。
おまえを守るためだなんて、そんなのは詭弁だ。俺はただひたすら自分のために逃げたんだ。おまえに嫌われたくなくて、憎まれたくなくて、拒まれたくなくて。もう二度と修復できない破綻を迎えるくらいなら、優しい兄貴のまま、おまえから離れるほうがマシだった。
その、はずだったのに。
二美花……。俺はどうしようもないくらい利己的で欲深い、醜い男だ。欲望に負けて他人を利用するような、最低野郎だ。
綾羽は、おまえじゃないのに。
俺は彼女の気持ちを利用したんだ。おまえの代わりでもいいっていう彼女の願いを聞き入れるフリをして、本当は、彼女の想いをだしにしてたんだ。
おまえの代わりなんて、だれにもできないって、最初からわかってたのに。
俺は、馬鹿だ。
ごめんな、二美花。
俺は本当に悪い兄貴だ。いや、もうおまえの兄貴なんて名乗る資格はないのかもしれない。俺は、おまえにとっていい兄貴として在りたかったけど……本当は俺のように、おまえのすべてであってほしかったのかもしれない。
だけど、二美花。
おまえには、俺なんかに囚われずに広い世界を見てほしい。ちっぽけな箱庭なんかじゃなくて、見渡す限りの風景をいつもその目に映しててほしい。押しつけられた愛情や幸せなんかじゃなくて、おまえ自身の手で勝ち取ったもので満たされて幸せになってほしい。
だから、この言葉は言わない。もうわかっちまうかもしれないけど、言わない。それはきっとおまえにとって、余計な足枷にしかならないから。
代わりに、こう言おう。
幸せになれ。
世界中の人間が羨むくらい幸せになれ。俺のことなんか忘れちまうくらい、いい男を愛して、家庭を築いて、幸せになれ。
おまえが笑っててくれることが、今の俺のたったひとつの願いだ。
だいぶ長くなっちまったな。こんなに文章を書いたのは、たぶん生まれてはじめてだ。
この手紙と一緒に綾羽に預けた絵、わかったか?
約束したからな。
気に入らなければ、燃やすなり捨てるなりしてかまわない。それはおまえの自由だ。
最後に。
ここまで読んでくれてありがとな。親父やおふくろのこと、頼む。
それから。
俺は――おまえに出会えて、本当によかった。
じゃあ、元気でな。
さよなら。
一至より』