2.5 林原郁美(はやしばらいくみ)
林原郁美は今日も暇を持て余していた。
10時に開店し、現在14時50分まで客が誰一人来ていない。唯のバイトである自分にとって忙しくないことは嬉しいことなのだが、それにしても暇すぎる。
携帯を弄り回したい衝動に駆られるが、バイト中は私用での携帯使用は禁止されている。飲食店のため、携帯だけじゃなく基本的に不衛生なものに触れることは禁止。だから、本等を読む等の暇つぶしもできない。時折、店長と話したりもするが、男性かつ年齢が離れすぎているため、話は長続きしない。
何もすることなく、ただただ来ない客を待ち続けるのは正直拷問に近い。規則を無視し、携帯を使用しても咎める者は誰も居ないのだが、林原は規則に忠実に従う性格のため、それを良しとしなかった。
バイトを辞めようと店長に相談したこともあったが、「俺をこの煉獄に1人置き去りにしないでくれと」と泣きつかれ、未だに辞められないでいる。まったく、我ながらお人よしだ。
だが、物事には限度というものがある。いい加減、この退屈さにはうんざりだ。もう一度店長に相談しよう。林原が決意したちょうどその時だった。
珍しく客がやって来た。それも3名。女が2人と男が1人。女2人は、恐らく自分と同じ大学生だろう。男の方は高校生だろうか。結構かわいい。客が来たことで退屈さから解放されたのだが、それはそれで面倒だと林原は感じていた。
「……いらっしゃいませ。何名様でしょうか」
「3名です。あ、済みません、一度店内を見て回らせて貰って宜しいですか? この店で待ち合わせをしているのですが」
貴様は何を言っている。店内に客が居ないのは一目瞭然だろう。それを態々聞くなんて、嫌がらせか何かか。先頭の女が美人なことがなおさら腹立たしい。
「待ち合わせ……ですか。本日ご来店されたお客様は、お客様達が初めてです」
林原は苛立ちを悟らせないように、事務的な口調で、でも少し意地悪な内容を客に告げる。
「あ、そうなんですか。じゃあ案内して貰っていいですか」
返答に困る内容を告げた筈なのに、目の前の美人は一切気にした素振りが無い。それが余計に林原を苛立たせた。
「喫煙席と禁煙席どちらが宜しいでしょうか」
「禁煙……いえ、喫煙席で」
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
腹いせに、店の奥の狭い席をご案内して差し上げた。案の定、美人の後ろにいた二人の男女が困惑気味な表情となった。ざまあ見ろ。これは私のことを理不尽に苛立たせた罰だ。林原は心の中で悪態を突きながら、美人の表情も覗う。
だが、当の美人は涼しい表情を保ったままだ。その表情が、林原の理不尽な怒りを助長する。林原は客に給仕する冷水の準備をしながら、次はどんな嫌がらせをしてやろうかと考えた。実行に移すことは無かったが。
冷水の給仕が終わり、それと同時にオーダーも済ませた。後は出来上がった料理を彼等の元へ運ぶだけ。それが終われば、再び退屈な時間が訪れる。
林原の中から美人への怒りはとうに消えており、今後続くであろう地獄のような退屈な時間をどう過ごすか、ということで頭の中が占められていた。先程の理不尽な怒りは、ただの暇つぶしに過ぎなかったのだ。
林原が退屈さに再び絶望し始めた頃、一人の男性客が来店した。
多分、この客があの3人の待ち人だろう。林原は、退屈さが紛らわされるのはいいが、やはり面倒だと思いながら、事務的な口調でいつもの言葉を述べる。
「……いらっしゃいませ。何名様でしょうか」
「なんめいさまぁ? 一人に決まってんだらう! 見て分かるぁねえのかボケが!」
男の罵声が店内に大きく木霊した。
「も、申し訳ありません」
「おう。謝らぇや」
「え、あの、申し訳ありません」
「だかあ、謝らぇや」
「いえ、その……」
「謝罪っつったら土下座だらぁ! そんなことも分かるぁんのかボケが!」
浴びせられる悪意ある声に、林原はたじろぐばかりだ。何故、客の数を確認しただけなのにここまで怒られているのか、皆目見当がつかない。
目の前の客は土下座だ土下座と喚き散らしている。本当に土下座しなければ収まりそうもない雰囲気だ。仮にそれが正しい対応だったとしても、林原には土下座する気はないし、する義務もない。
……警察を呼ぼうか。確か、正当な理由なしに土下座を強要するのは何らかの罪に問われたはず。ニュースで見た記憶がある。しかもここは多くの客が集まる――実際には伽藍洞だが――飲食店だ。警察を呼ぶに値する十分な理由がある。
だが……どうやって警察を呼べばいいだろう。目を盗んでの通報はできそうにない。警察呼びますよ、と相手に告げることも考えたが、逆上し殴ってくるかもしれない。
というかさっさと出て来いよ店長。いい加減異常事態に気付いてんだろう。腰抜け野郎。か弱い女一人に悪漢の相手させるんじゃねえ。
「おいこるぁ聞いてんのかぁ! こっち向けやああああ!」
男は一際大きい叫び声を上げ、裏返った声が店内の隅々まで反響した。林原は半ば反射的に顔を上げ、そこで初めて男の顔をしっかりと、真正面から捉えた。視認し、凝視した。そして、恐怖した。
男の目は、文字通り回っていた。顔は林原の方を向いているのだが、ぐるぐると視線が一向に定まらない。
罵声を発するたびに覗き見える口内からは十数本もの歯が抜けており、男が息をするたびにヒューヒューと不快な歯笛が鳴る。歯並びが悪く、その上、残っている歯も一目見て異常だと分かる位に汚かった。
恐ろしかったのは顔だけじゃない。腕を引っ切り無しにブラブラプラプラ、体をくねくねゆらゆら。人外染みた動きだった。
気味が悪かった。おぞましかった。ホームレスだってここまで酷くないと林原は思った。そしてこの些か差別的な考えを最後に、林原の思考は完全に停止し、済みません申し訳ありませんと、ただ謝罪を機械のように繰り返すことしかできなくなっていた。
「済みません……」
謝れ謝れ。とにかく謝れ。
「済みません!」
いや、これは自分の声じゃない。では誰かと思い、顔を上げると、あの美人が林原と男の間に割って入っていた。
美人は喚き散らす男を宥め、半ば強引に自分たちのいる席、正確には林原が案内した席ではなく、いつの間に席を移動したのか、6人席の方へと引っ張っていった。
……助けられた、のだろうか。
いやでも、やはり美人たちの待ち人はやはりあの男で間違いないようだ。
時折男から、「犬が」とか「とっとと探せ」とか「早く見つけねえと殺す」等の喚き散らす声が聞こえる。どんな罵声を浴びても、美人はひたすらに涼しい顔だったが、他の2人は眼に見て分かる位オロオロしていた。
何だか訳ありの話をしているらしい。少し興味を引かれたが、正直これ以上あの男と関わり合いになりたくなかっため、深入りするのは止めた。
男は散々喚き散らした後、オーダーを取る間もなく――取りに行くつもりは無かったが――逃げるように店を後にした。
男が立ち去った後、林原は美人たちが注文した料理をテーブルへと運ぶ。
美人は憎たらしいことに平然とした表情だったが、他の2人は可哀想なくらいグッタリとしていた。林原は一応の感謝と、労いの意味も含めて、3人にコーヒーをサービスした。
「あ、できたらコーヒーじゃなくて緑茶をお願いします」
やっぱこの美人憎たらしいわ。林原は心の中で何度も悪態を吐きながら、美味しい緑茶をサービスした。