挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第3章 特権者のヒロイック・シンドローム、さもなくばアズーリア・ヘレゼクシュの憂鬱

しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

74/183

幕間 『特権者の英雄症候群、さもなくば――』


「最初におかしいと思ったのは、殺害された人数」

 ハルベルトは静かに呟いた。
 左右非対称の耳は晒したまま。
 今回の戦いで、その正体は万人が知るところとなってしまった。

 けれど――過去の歌を響かせた今ならば、もうその耳を隠し続ける必要も無い。
 困難は果てしなく、地上の秩序は未だ歪んだままだ。
 槍神教を相手にした戦いは終わらない。

 それでも、世界を変える下準備にはなったはずだった。
 ハルベルトを、そしてアズーリアを世界に認めさせること。
 それが最初の一歩だ。

「ガルズによる十三人の殺害――その最初の一人であった夜の民の群青司教は確かに食用奉仕種族を触手で黒衣の中に引き摺り込んでいた。そして、体内から溢れ出た骨の槍で分裂した三つの体を貫かれて死んだ」

 そう。これは最初の一歩に過ぎない。
 道のりはまだ長く、煉獄と地獄には過酷な戦いが待っているだろう。
 同様に、この天獄でも。

「――リーナもメイファーラも、この事件はあまり調べることが出来なかったと言っていた。爆発物の持ち込みも人を挟んで場所を迂回して、念入りな過去視対策をしていたと。けど体内から骨を操作するのなら爆破なんて最初から必要無い。目立たせたかったんだとしても、足がつく危険性は高くなってしまう」

 アズーリア・ヘレゼクシュは疑似細菌によって肉体を構成している変身者――夜の民だ。その夜の民が体内の骨を操作されて殺害されるのはおかしいという理屈で呪文を構築し、更にハルベルトと認識を重ねてガルズとマリーの攻撃を凌いだ。

 だとすれば、明らかに奇妙な点がある。
 群青司教は夜の民。強力なマロゾロンドの加護を受けた神働術使いだ。
 そんな人物が、容易く体内の骨を操作されて殺されるだろうか。されたとしても、即座に変身すれば済むことではないのか。

「もう一つ。あの昼食会で、群青司教はフォークに『引き裂かれて』四体に分裂していた。そして、死亡したのは三叉の槍に『貫かれて』屍をさらしていた三体」

 ハルベルトの記憶力は極めて優れている。
 上位の言語魔術師には、膨大な量の呪文を瞬時に組み上げる能力だけでなく、古代の叡智という膨大な情報量を参照する能力も求められる。
 その彼女は些細な違和感を決して見逃さない。

「残りの一体はどこに消えたのか。あなたはどう思う。群青ウルトラマリン司教――影の海を越えて来たるもの。元キャカール十二賢者第二位にして第十一魔将、ユネクティア=ヌーナ=ウルトラマリン」

「夜の民の数なんて、気がついたら増えたり減ったりしているものだよ。あまり気にしても仕方が無い」

 そこは暗がりだった。
 聖女によって瞬時に修復された時の尖塔内部。その一画に存在する、不自然なまでに薄暗い場所。

 設えられた調度品――その影から、小さな黒衣がのそりと姿を現した。
 年老いて小さくなった――あるいは、分裂によって矮小化した姿。
 己の存在を『影』として世界に拡散させ、偏在させている魔将。

 ユネクティアは確かに敗北し、死亡した。
 それはかつても今回も同じだ。
 しかし、分裂した別個体は密かに地上に侵入し、潜伏していたのだ。

「黒衣の中は正体不明――変身能力に優れた高位の幻姿霊スペクターならば、別氏族の真似をするくらいは造作も無いということ」

 誰にも気付かれないほどに脆弱な存在の強度。
 衰えた呪力と知性、情緒と実体。
 脅威とは呼べないそれを、しかしハルベルトは最大の怨敵に相対したかのような険呑な視線で睨み付ける。

「怖いな。僕は無害だよ。こんなに弱体化した状態じゃ戦えもしない。ただ静かに槍神教の中に入り込んでいるだけ。地上で青い鳥ペリュトンの振りをしながら隠れている他の氏族たちの支援をしているだけさ」

 魔将ユネクティアの言葉には、明らかに知性が感じられた。
 弱体化したはずの小さな存在。だというのに言葉とは裏腹に黒衣はその布面積を広げていく。
 復活したユネクティアは、間違い無く完全に滅ぼされたはずだ。

 【闇夜の希望】はミルーニャが対邪視者戦闘を想定して作り上げた傑作である。
 斧槍の幻想神滅具は間違い無くユネクティアを完璧に殺し直していた。
 だとすれば、ここにいるのは過去に逃れていた分身の一体。
 その存在強度が、如何なる理由によるものか、増大し続けている。

「――貴方は巨人。つまり神。ただ邪視を極めただけでも強力な呪力は得られるけど、貴方には信者たちが――信心によって支えられ、加護を与える民がいるのではないの。地上の夜の民はもちろん、たとえば食用奉仕種族とか」

 地上から排除されている『夜の民ではなくなったものたち』やトントロポロロンズたちにとっての神、あるいは救世主。
 そんな存在であるとすれば、信仰心は弱体化したユネクティアに再び力を与えるだろう。

 ユネクティアは年老い、小さくなり、知性と振る舞いが幼く退行していた。
 矮小化した情緒と知性。
 ゆえにこそ、同様にささやかで制限された情緒と知性しか持たない食用奉仕種族たちはユネクティアを神と崇めたのではないか。

 低い目線で。狭まっていく視座で。
 それは、同じ事だと。 
 名目上は槍神の敬虔な信徒たる聖人を尊敬するというような間接的な槍神崇拝であっても――それは事実上、ユネクティアへの信仰なのである。

 一度魔将として滅ぼされ、弱体化しつつも地上に潜り込んだユネクティア。
 だが、下方勢力としてのラベルはどうしたというのか。審判たるヲルヲーラの力によって本来ならば地上へと侵入することはできないはずだ。

「ガルズたちは本命を隠す為の目眩まし。その裏で動いていたトライデントの細胞は、おそらく【神経】のヲルヲーラだけじゃない」

「もう全部わかっているんだね。まさにその通り。十四番目の細胞【神経】のヲルヲーラは僕の手足みたいなものなんだよ。この十五番目である【脊髄】ユネクティアのね。ちなみにお師様は七番目――【右足】のセレクティだ。十六番目が【右目】のガルズで十七番目が【左目】のマリーだそうだよ」

「察するに、全部で十九人。様々な終末の予言や伝承に記されている十九の獣たちになぞらえているというわけ」

 ジャッフハリムの十九魔将。あるいは、フォービットデーモン。
 そして、トライデントの細胞。

「貴方は、地獄の――ジャッフハリムの為に戦っているのではなかったの」

「少し誤解があるな。まず僕はセレクティ様の派閥でもあるが、それ以前にトライデントの細胞であり、また更にそれ以上にユネクティアという個人でもある。エスフェイルの手前、望まれたからには『立派な師兄』を演じるのが僕の神としての生態だからそれらしくはしていたけれどね。実を言えば僕は複数の目的と理念と人格の統合体だったんだ。今の僕はその一つが独自に発展を遂げた結果。ユネクティアの一面を拡張した存在だよ」

 黒い魔導書【異界の黙示録】を広げて、ハルベルトは攻撃の準備を行う。
 地獄の魔将というだけならばハルベルトにとっては必ずしも敵ではない。だが、トライデントの細胞なら話は別だ。

「あなたの望みは何」

「さあ、何だと思う? 考えてみよう。鍵は食用奉仕種族の特性だ。彼らは意思ある『人』になり得る可能性を秘めているが、彼らが『人』になるということは『食べられるために生まれてきた』という存在の根源を否定する事に等しい。知性と情緒を向上させ、被食欲求を抑制すれば『人』らしくはなるだろうが、それはもう食用奉仕種族ではありえない――彼らそのものの否定だ。多様な在り方を認め、肯定し、祝福するやり方では救えない――」

「それは詭弁」

「だが詭弁も一面の真実になりうるのが呪術というものの力だ」

 小さな黒衣が膨れあがり、中身が空洞となった黒衣がハルベルトの前でゆらゆらとはためく。
 空虚の中で、影が輝く。

「さて、行き止まりの地上が生み出した退廃文化――その結晶たる食用奉仕種族だが、決定的に足りないものがある。今の君たちならわかるよね? それはアストラル体だ。地上が『彼らは人だ』と認識する手続きだ」

 そう。
 ガルズが彼らを操って殺害を実行した可能性がある以上――彼らもまた死人、つまりはゾンビであるはずなのだ。

「ありがとうハルベルト。君たちのお陰で彼らは『人』になれた。実体としては今までのままだが、君がもたらしてくれた世界観の影響で、これからはアストラル体を纏う個体も生まれるようになるだろう。つまりは――霊的な味わいが、魂の美食が可能になったわけだ。素晴らしいじゃないか? 美食、それは食文化のミーム! 地上人類には邪悪な独創性があって素敵だよね。だから嫌いになれないんだ」

「もう一度訊ねる。望みは、何」

 無数の文字列が浮遊し、黒いインクが黒衣を包囲する。
 魔将は静謐な空気を湛えたまま。
 ハルベルトは、怒りに歯を軋らせた。
 身体など無いというのに、相手が嘲笑した事が理解できたからだ。

「退廃文化が作り出す呪力を肉体に取り込むことで、人類は新たな段階に移行するんだ。【生命吸収】の秘儀。【命脈の呪石】の神滅具。ゾートやメクセトといった言語支配者たちが試みた『不死』――すなわち次世代の人類を作り出し、過酷な環境に適応できる『人類』を創造するための様々なアプローチ。僕もそれに倣おうと思っただけのこと」

 それは、火竜を復活させた後――あるいは世界を更新した後の事を考えているという点では、ジャッフハリムの利益に繋がる目的なのだろう。
 更には呪術師としての階梯を昇ろうとする行為でもあり、ハルベルトにとってもある程度までは理解可能だ。

 トライデントの細胞としての目的は不明だが――それでも、ハルベルトとは絶対に相容れることは無い。
 そもそも、ユネクティアの言葉は余りに地獄の理念に反している。
 地上に甘く、共感を寄せる魔将。その思考は、まるで。

「僕の才能では黒の色号によって不死の食物アンブロシアを完成させることはできなかった。ダエモデクは己の存在を他者に分け与えることで擬似的な他者の不死を再現していたけれど、肉体を使い切れば後は痩せた身体が残るだけ。結局は有限の中での足掻きでしかない。彼は素晴らしきジャッフハリムの理想、共生と再分配の体現者だが、やはり有限性が彼らの限界なんだよね。悲しいことだ」

 その口ぶりは、密かに地上に入り込んでいた魔将と言うよりも。
 正しく槍神教の司教であるかのようだった。
 このような人物だからこそ地上で司教の座にまで上り詰めることができたのか。それとも、別の要因があるのか。

「有限性が問題となるのなら、『無いところ』から資源を持ってくるしかない。それは君たちが操る幻想――言理の妖精というやつだよ。あの方の気紛れには困らされたけれど、機会を待ち続けた甲斐はあった。これで僕の民たちは『完成』した。特に羊少女はこの為だけに僕が作ったと言っても過言じゃないからね」

 いずれにせよ、ハルベルトは目の前の存在を看過できない。
 ユネクティア=ヌーナ=ウルトラマリンは、神でありながら庇護すべき民の犠牲を前提として築き上げられる世界を目指している。
 それが人類の進歩だとすれば、それは邪悪な適応だ。

 神に、そして人を超えた新人類に捧げられる為に存在する生贄の羊。
 消費されるためだけに『人』の下位に序列化される。
 黒衣の神は、紛れもなく地上秩序の体現者だ。
 そして――彼女は、神であろうと天使であろうと『それ』を許さない。

「お前が、この世界の歪みか」

 黒玉の瞳に燃えるような怒りを宿して、ハルベルトは鋭く問いかけた。
 同時に、途方もなく巨大な『影』が膨れあがる。
 それが答えであり、戦いの幕開けを告げる合図だった。

「これこそ正しさ、これこそ秩序、これこそ平和に他ならない。僕が最小の犠牲で世界を救済してあげよう。あらゆる存在が異獣から『人』になるというのなら、その『人』の中から『犠牲にして良い人』と『犠牲にしてはいけない人』が生まれるのは必然だ。僕は君の先に立っている。君は――幼い」

 魔導書から文字が、紙片が溢れて世界が白と黒に染め上げられる。
 左右非対称の耳に呪力を纏わせて、彼女は音ならざる音を聴く。
 速やかで確実な【審問】。対象の世界観を解析。
 ハルベルトの持つもう一つの『顔』が襲い来る『影』を弾き飛ばす。

「第六騎士修道会【智神の盾】所属、魔女術異端審問官ウィッチクラフト・インクィジター黒血インクジェットのハルベルトは、対象を秩序内部の歪みと判断し、これを異端として断罪する」

 口上が終わるのを待たず、極大の閃光がハルベルトに放たれる。
 融血呪の青い流体が、闇色の触手と眩い光線を一つに融け合わせていた。
 横殴りに吹き付けてくる雨のような圧倒的な光線の束。
 だが、それらの目に見える脅威はすべて囮にすぎない。

 必殺の呪術を全て防ぎきったハルベルトを、窓から入り込んだ日差しが貫く。
 ありふれた太陽光線――灼熱の日影。
 それは、魔女を焼き尽くす火刑の裁きだった。
 炎が大量の紙片を燃やしていく。

「正統は僕だ。下らない宗教観で勝手な異端認定はやめてもらおう」

「なら、その正統ごと歪んだ神と天使を裁いてみせる」

 黒衣の背後で、魔導書を真横に構えた魔女が呟いた。
 燃やされたのは、ただの紙片。
 灰になって散っていく偽物を見て、ユネクティアが愕然とする。

「何っ」

 愕然と振り返るユネクティアだが、魔女の姿は捉えられない。
 勢いを増す炎の中で、舞い散る紙片は燃え尽きることがなかった。
 焚書など無意味、検閲など妄言。
 なぜならばそれは情報化の象徴だ。拡散と複製を続ける自律的な情報を滅ぼす事など到底不可能。

 炎が一瞬にして消し飛び、それが姿を現した。
 紙片が翼の形をとっていく。
 左右に五翼ずつ。紙片とインクで出来た黒と白。
 十の翼を広げて捉えがたい存在が出現する。

「天使の加護――神働術?! だがこれは、アエルガ=ミクニーでもラヴァエヤナでも無い! 何だこれは、十枚の翼? こんな天使は、こんな古き神は僕でも聞いたことが――」

「誰でも知ってる。この天使は偏在しているから。この【異界の黙示録】はその性質を最も効率的に表現するだけ。魔導書の形をした人工霊媒」

 一次資料が存在せず、当事者が証言することもまたあり得ない。
 引用と又聞きのみがその輪郭を浮かび上がらせる、それは噂の天使。
 翼だけが呪力を宿し、形の無いその天使を認識することは決して出来ない。

 それは知識として、言葉として、言い伝えとして、間接的にのみ認識可能な存在である。
 ユネクティアは、息を飲んだ。

「そうか――『噂』でだけ聞いたことがある」

「そう。噂、情報、つまりは『ミーム』。その単語は、古き神にして形無き天使、囁きのエーラマーンを語源としている。この魔導書はかの天使を間接的に参照して、情報操作系の神働術を発動させる」

 文字が流動し、形を変える。
 この世界では、文字情報はその姿を絶えず変化させていく。
 『情報』に対して加護を与える天使エーラマーンは、あらゆる記述を少しずつ変質させてしまう。『噂』や『風説』、あるいは『誇張』や『誤報』。

 その力は時に念写にまで及び、時に世界すら揺さぶり災厄を引き起こす。
 言震ワードクェイクの被害を時に深刻化させ、時に軽減する。
 情報の性質を拡張するという、言理の妖精とは別の意味で呪文を体現する存在。

「さて――ここに、魔将ユネクティアという存在に関する様々な俗説、風説、噂がある。高名な人物だけあって逸話や言及は膨大」

「や、やめろ、よせ!」

「もっともらしい情報圧の嵐に、あなたはどれくらい耐えることができるのか、確かめさせてもらう」

 【風説】が現実を惑わして、世界が紙片と文字で塗りつぶされた。
 圧倒的な速度と確かさの『影』を上回る『噂』の嵐。
 一定の整合性に従って成立していた存在が、無数の可能性を詰め込まれて内部から崩壊していく。

 神としての秩序だった構造は乱雑さに耐えきれない。
 ユネクティアとしての存在を維持出来なくなった何かは混沌の中に放逐された。
 十枚の羽の中心で、姿無き声、幽かな囁きがアストラル界に響く。

「人は己の本質に抗える――それを証明してくれた人がいるの。だから、あなたの加護なんて、彼らにはもういらない」

 ユネクティアは死んでいなかった。
 それどころか、かつてよりも遙かに巨大な情報量と存在強度を獲得している。
 そして、無秩序で矛盾だらけの自己を維持出来ず自己崩壊を繰り返す。
 だが死ぬ事は無い。できないのだ。膨大な情報量や推測、『生存説』がその命を終わり無く繋ぎ続ける。完全な不死の牢獄に囚われて、永劫に混沌を彷徨うのみ。

 囁きの天使に導かれた先で、ユネクティアだったものはそれに遭遇した。
 昼間でも浮かぶ第四衛星。
 そこから、途方もなく巨大で小さな存在が舞い降りてきた。

 その輝きの彼方から飛来してくる兎の名は、耳長のロワス。
 第六の創生竜、論理と秩序の体現者。
 矛盾竜ロワスカーグは、世界の歪みを発見すると、その習性に従って自動的にユネクティアだった混沌を捕まえて、一口に丸呑みした。

 天使と竜は役目を終えてどこでもないどこかへと去っていく。
 あとには、静かに佇むハルベルトが残るだけ。
 その時、彼女は弾かれたように振り向いた。

「誰」

 拍手の音がする。
 暗がりで壁に背を預けていたのは一人の女性。
 音叉のような二叉の槍と巨大なヘッドフォンが特徴的な姿。
 守護の九槍、その第五位。

 大魔将との戦いで負傷した身体はあちこちが焼け焦げ、軽鎧はぼろぼろだったが、表情はうっすらと笑みを浮かべている。
 楽しそうにハルベルトに喝采を送りながら、彼女よりは幾らか年上に見える修道騎士が口を開く。

「お仕事、お疲れ様。あ、今のお仕事もだけど、さっきのステージもね。素敵なパフォーマンスだったんじゃない? わたしが前座になっちゃってちょっと悲しかったけど、まあ神様を讃える曲なんてみんなつまらないかー」

「消えて」

 如何なる思考を経た判断なのか、ハルベルトはその相手を瞬時に敵と見定めた。
 放たれた紙片と文字列が無言の歌、黙読の物語を呪文として解き放つ。
 だが。

「それはきらーい。わたしが好きなのはあなたの歌だよ」

 音叉の槍が一閃して、魔将を圧殺した攻撃が吹き散らされる。
 同じ呪文使い――それも、音を操る事に特化した言語魔術師。
 その実力はどこか底が知れない。

 呪術儀式を終え、更に強力なエーラマーンの神働術を使用して消耗しきったハルベルトには、この難敵を打倒するだけの余力が無かった。
 風のように軽やかに間合いを詰めると、第五位はハルベルトの眼前に立つ。

 槍を持っていない方の腕が鋭く動くと、ハルベルトを壁際に押しつけた。
 高い目線。女性としては長身なメイファーラを超える高さから、冷たい黒の瞳がハルベルトを見据えていた。
 獲物を前に舌なめずりをする獣のような、獰猛な欲望と好奇心を隠しもしない。

「ずっと、お話したいと思ってた。けど中々時間がとれなくて――あなたはあなたで、あの小さい子とばっかり一緒にいるから」

「だから、何」

「嫉妬しちゃうなって話」

「離してっ」

 力では叶わないと悟って、ハルベルトは声を拡大して呪文として放つ。
 発生した斥力が破損したヘッドフォンを吹き飛ばし、その両耳が露わになった。
 ハルベルトは愕然と目を見開く。

「びっくりした? 嬉しいな。わたしのことを知って貰えて。できれば、もっと深いところまで知って欲しいけどね」

 その両耳は、左右非対称だった。
 右側が兎の垂れ耳で、左側が妖精の尖った耳。
 ハルベルトとは丁度正反対。
 しかし、より決定的な違いはそこではない。

「自己紹介するね。わたしはトライデントの細胞が五番目――【右耳】のテッシトゥーラ。丁度、守護の九槍としても第五位だからわかりやすいでしょ?」

 長い左右の耳が、無惨にも半ばで断ち切られていた事。
 痛々しい断面には火傷の痕跡。
 半透明の長い耳の輪郭は、アストラルの幻肢。
 ハルベルトの瞳が一瞬悲しげに揺れるのを見て、第五位――テッシトゥーラは笑顔を作った。

「思った通り、あなたって素敵。優しいし可愛いし、なにより声が綺麗。うん、やっぱり、欲しいな」

「どういう、こと」

「あなたはわたしの対となる存在ってこと」

 テッシトゥーラは壁に手を突いて、ハルベルトにゆっくりと顔を近づけていく。
 逃れようとするハルベルトだが、退路は無い。
 短く息を吸って、抗えないという恐怖に表情が僅かに歪む。

「その反応。傷付くなあ。あのね、六番目の【左耳】は空席なの。あなたのためにとってあるから。ああ、九番目と十番目の両腕も残り二人の末妹候補の為に空席にしているらしいよ」

 トライデントの目的、その全容は不明だが、他の末妹候補を取り込もうとしている事はわかっていた。
 四魔女全員が末妹となること。
 それは、四魔女全てをトライデントにするということだ。

「断る」

「ならわたしも、それを断る」

 次の瞬間、テッシトゥーラは信じがたい暴挙に出た。
 抵抗する暇など与えない。ハルベルトの神経反射を超えた動き。
 額に、唇が触れた。

「いやっ」

 悲鳴のような拒絶。
 ハルベルトは自らの錯乱ぶりに自分自身が一番驚愕しているかのように目を見開き、それでも動揺を抑えきれずに滅茶苦茶に暴れる。
 テッシトゥーラは苦笑しながら一歩、二歩と後退った。

「傷付くー。血の気引いてるけど大丈夫?」

「何、を」

 震える声で不躾な相手を睨もうとするハルベルトの瞳に、力はない。
 膝が折れて、その場にへたり込む。
 テッシトゥーラは嗜虐的な光を黒い目に宿して、囁いた。

「予約。あなたは、いつかわたしのものにするから」

 ヘッドフォンを付け直して、修道騎士が立ち去っていく。
 ハルベルトは呆然として座り込んだまま動けない。
 その頬を、静かに涙が流れ落ちた。







 菱形の貨幣を弄び、呪術商人としてありとあらゆる呪術を売買する呪術師。
 空間に満ちる摸倣子を『買い占める』ことで、他者の呪術使用を妨害しつつ絶大な力を振るう極めて厄介な能力。

 だが、王としての圧倒的経済力で敵対者を圧殺するクエスドレムの物量攻撃は敵対者には通用していなかった。
 資本主義ミームを操作し、朱色の貨幣にてありとあらゆる『夢』を支配する万能の呪術を、探索者の集団は統制のとれた動きで凌ぎ続けている。

 無傷とは行かないが、互いに不足を補い合い、致命の一撃を協力して打ち破り続けているのだ。
 彼らの戦闘能力を支えているのは、背後から聞こえてくる竪琴の奏でる音。
 歌姫の呪文が響く中であっても優美に力強く響き続ける詩。
 その空間だけ、外界とは物語の主役が違うかのよう。

 『彼』は竪琴を奏でながら、戦いの光景を見て満足げに頷く。
 勇壮なる戦士たちの奮闘。
 挑むは強大な敵。
 あとは手に汗握る窮地が欲しい。さてどうしようか。

 そんなことを考えていたのかどうかはともかく、戦いは不自然な膠着状態に陥っていた。探索者集団が圧倒的有利にも関わらず、誰も止めを刺そうとしない。
 そのように命じられているのだとしても、命がかかった場面で理不尽な指示を受け入れ続ける探索者たちはどれほどの信頼を主に向けているのだろうか。

 と、都合良くその場に小さな子供が現れる。
 逃げ遅れたのだろうか。
 追い詰められたクエスドレムは子供を捕まえると、人質にして取引を持ちかける。契約と交渉の呪文が状況を支配した。

 竪琴が軽やかな音色を奏でる。
 卑劣で邪悪なる行為。
 危機的状況、乗り越えるべき苦難。
 実に良い、と音が喜びを伝え、それが探索者たちに伝播する。

 義憤と正義とが戦士たちの瞳に宿る。
 守るべき者、か弱き者を得て、探索者たちが奮い立った。
 目に見えて動きが良くなった探索者たちは人質が傷つけられるよりも前に、風のような素早さで魔将の命を刈り取っていた。

「ありえぬ、この朱の王、最強のクエスドレムが、このような――」

 四つに分岐した平行存在たるクエスドレムの一人は、弄ばれ続けていたという事実に気付くことすら出来ず、ただ無惨に蹂躙され、殺戮された。
 竪琴を鳴らし、朗々とその死を詠う。
 低く通る男の声。どこか艶を感じさせる耳に心地良い詩吟。

 艶やかな青い長髪が頬に垂れ、切れ長の目が、彫像のような顔立ちが、勝利の余韻よりも物語が終わる詠嘆を想って揺れた。
 絶世の美女――そう見紛うほどの美男子。
 両性的な色香を有した男の名は、ユガーシャ・ランディバイス。

 四英雄の一人【吟遊詩人ミンストレル】は、戦いのあっけない幕切れに溜息を吐くと、ゆっくりと視線を巡らせて、それからよく通る声で呼びかけた。

「センジュ。もう終わらせていいですよ」

「待ちくたびれましたよ、全く」

 最後の一人となった黒いクエスドレムの相手をさせられていた青年――まだ、どこか少年の面影を残す若者は心底からうんざりした口調でぼやいた。
 クエスドレムが振るう漆黒の長剣を正面から受け止める。
 その手に握られているのは、反りのある片刃の長剣。

 だが、漆黒の刃を受け止めるのは鞘。
 刃を抜かずに戦うという行為に、クエスドレムは激怒を露わにして斬撃を繰り出す。黒い軌跡に呪文が残留し、破壊の呪力となって炸裂。
 青年は飛び退って鞘を握ると、眼光鋭く相手を見据えた。

「異世界における文明段階超過域オプションの執行許可――申請完了。受理がおせえよ、ったく――【幾断】、抜刀」

 毒を吐きながら、鞘から刃を抜き放つ。
 輝く銀色の刃――幽玄なる光が、魔将から放たれる暗黒の呪文を浄化して霧散させていく。
 珍しい作りのその武器を見て、名称を言い当てられる者は極めて少数だろう。

 そも、槍が主流であるこの世界においては短剣ならともかく、長剣は珍しい武器である。片刃で反りのある長刀となれば猶更だ。
 だが、それ以上に。

「それじゃいきますか――イクタチ、起きろこのボケ刀」

『ヒャハハ! オメーに言われたかねえよ、ボケセンジュ!』

 声と共に壮絶な呪力を発したのは、センジュと呼ばれた男が手にする長剣――刀である。
 得体の知れない悪寒に、クエスドレムが後退する。

「戦場では、臆した奴から死んでいく――」

『ビビリ野郎が良く言うねえ。オメエ、キロンとか言う奴にぶっ殺されかけた時ガクガク震えてたじゃねーかよ』

「うるせえ折るぞ」

 センジュは喧しく喋り倒す刀をじろりと睨み付けて、倒すべき敵を見据えた。
 気迫が膨れあがり、険しく皺が寄せられていく顔は獰猛な獣じみたものに変化していく。鋭い眼光が重さを持って魔将を貫いた。

「ごちゃごちゃした手数だの、こまけえまじないだの、くっだらねえな。全部まとめて、叩き斬ってやらあ」

 鞘を空高く放り投げる。くるくると回転しながら天へと昇る鞘。
 その術理の理念とは、手数ではなく一撃がすべて。
 千手の攻め手を一つに束ねるその様は、枝葉を伸ばす武芸の系統樹を閃光と化して解き放つかのよう。

 ゆえに千手であり閃樹。いずれの意味にも通じるが、それらを貫く一振りの刃。
 センジュは他の全ての手段を捨ててただ一刀に全てをかける。
 構えは刀を持った右手を耳のあたりに上げ、左手を軽く添えた八相に近い。
 クエスドレムが、漆黒の剣を手に走り出す。

「我が呪文剣で首を刎ねてくれる!」

 繰り出されるのは右上方からの袈裟斬りである。
 軌道は明白。
 渾身の奇声は理解不能。
 横隔膜を裂かんばかりの絶叫。
 神速の踏み込み。
 男は袈裟斬りの鬼だ。
 その斬撃、ブシドー三段。
 閃くはタイ捨の心。

「チェェェェェェェェェェストォォォッ!!」

 硬い音。
 鞘が、地上に落下したのだ。
 そして、左右二つに分かれた胴体も。

 ただの一撃で、魔将クエスドレムは両断されていた。
 呪術によって作り出された黒き剣が、粉々になって吹き飛んでいく。
 センジュはさほど恵まれた体格というわけではない。
 だというのに、この圧倒的膂力はいかなる理由か。

「見事です、センジュ。相変わらず信じがたい身体能力ですね」

「遺伝子操作されてますから――人権とか自己同一性の保持がどうたらで、俺みたいなデザイナーズチャイルドは転生の時、遺伝子情報をそのまんま再構成されるんです。そうしないと別人が生まれちまいますからね」

『ギャハハ! その上俺様みてーな最強オプションが付いてくるんだからなー! センジュってば生まれながらの勝ち組じゃねーの! あっさり負けてたけどな!』

「うっせ」

 男と喋る刀のやり取りを見ながら、吟遊詩人がくすりと笑う。
 愉快そうにしながら、宥めるように言葉をかけた。

「いいじゃないですか。そのお陰で、私は貴方たちに出会うことができた」

「力尽き、死にかけていた俺たちを拾い上げてくれたご恩は忘れていません。俺の忠義は貴方に捧げるためのものだ。もう誰にも遅れはとりません」

 センジュは膝を付き、ユガーシャの前で臣下の礼をとった。
 ブシドー。
 それは、異世界で生まれた異形の戦士たち。
 生誕する前から遺伝子を操作され、あらゆる能力を強化された生まれついての戦闘種族。その踏み込みは大地を割り、その一刀は鋼を両断する。

「いい心構えです。ですが、その忠義は私個人ではなく、国家の安寧と秩序に捧げなさい。我ら【憂国士戦線】はその為にある」

 言葉と同時に、ユガーシャの前に並んでいく探索者たち。
 九人で構成される分隊が十あまり。
 『本隊』が合流すればその数は更に十倍以上に膨れあがる。
 【憂国士戦線】こそは国内最大規模の探索者集団である。

「我々は護国の爪牙。忌まわしき怨敵、人類を脅かす侵略者たちから罪無き人々を守る義務があるのです。知っての通り、敵国ジャッフハリムは我らが同胞を言葉巧みにそそのかし、地上に反旗を翻させました。これこそが卑劣なるジャッフハリム人のやり口なのです」

 吟遊詩人の語りに、憤りの声が上がる。
 ユガーシャは暫くの間探索者たちが義憤のままにジャッフハリムを、その国民を罵倒するのを聞いていたが、やがて窘めるようにこう言った。

「――ですがそれらの卑劣は、彼らにも守るべき国家、守るべき家、守るべき大地があるがゆえに起きてしまう悲劇。ああ、何と嘆かわしいことか。ですが勇士たちよ、躊躇ってはなりません。迷ってはいけません。貴方たちの背後にもまた、守るべき民が、郷土が、我らの誇るべき世界があるのですから」

 各々が頷き、声を上げ、誇らしく拳を握り掲げていく。
 大切な者の為に。
 守るべき世界の為に。
 血塗られた戦いは、それゆえに肯定される。

「地上の行く末を憂う勇士たちよ。先程の歌を聴き、心を動かされた者もいるかもしれません。平和と共存を望む心はいつだって尊い。ですが! 忘れてはなりません。そのような純粋な心を、隣人を愛する心を! 冷たく硬質な策謀が絡め取らんとしていることを! ジャッフハリムの工作員は虎視眈々と罠を仕掛ける機会を狙っているでしょう。今こそ我らが気を引き締め、一丸となって敵国に対抗しなければならないのです」

 ユガーシャの声は切々と情動に訴えかける。その声といい表情と言いどこまでも『本物』にしか見えない――本気に見える以上、それは本気なのだ。

「多世界連合の夷人による次元侵略、ジャッフハリムの傀儡である国内のテロリスト。今、地上は乱れに乱れ、恐るべき外敵に脅かされています。更には槍神教は腐敗し、槍神から民の心は離れ、クロウサー家や王族への信頼は地に落ちつつあり、政府への批判は高まるばかり。ですが、地上の未来を憂う勇士たちよ。だからこそ、我々が奮起すべきなのです」

 探索者たちは同意の声を唱和させて、ユガーシャの下で団結する。
 満足げに頷いたユガーシャは、混乱した市街地に探索者の部隊を派遣していき、復旧や救護に当たらせた。

「全ては弱き人のために。守るべき国家のために。血にまみれ、傷を負うことを誇りなさい、勇士たち。それこそが貴方たちの善なる心の表れなのですから。弱き人々を救う貴方たち一人一人が、真の英雄だと私は信じています」

 周囲に残ったのは直属の部下――といえば聞こえがいいが、要するに戦闘しか能が無い者たちだ。
 ユガーシャの親衛隊として周囲を固めている彼らは皆、刀を腰に下げていた。
 その中の一人、センジュがぽつりと呟いた。

「増えましたね。あれ」

 その言葉は、どうやら眼鏡をかけたり、幻像を目の前に表示させたりしている人々を指しているようだった。

「うん? ああ、サイバーカラテとやらですか。そういえば、あれは貴方の元いた世界にも――」

「ええ。ありましたよ。あの馬鹿げた代物がね」

 不機嫌さと嫌悪を剥き出しにしてセンジュは吐き捨てた。
 意外そうにユガーシャは問うた。

「あの武術に何か問題でも? 確か、戦闘の経験を集積して最適な動きを提示する、とか――」

「最適な動き? は、馬鹿馬鹿しい」

 サイバーカラテはユーザーの戦闘経験をフィードバックし、それらを反映してより効率的な戦術を構築し続ける自己改良・最適化をし続ける体系である。
 集合知に基づいた最適解の武術ヒューリスティクス
 最も尤もらしい仮説を導き出す為の推論アブダクション

 それはある意味で、類推を重んじるこのゼオーティアに馴染みやすい方法論だと言うことができるかもしれない。
 センジュはそれを、

「オカルトですよ、あんなもん」

 と、奇妙な批判の仕方をした。
 ユガーシャは部下の言わんとする所が理解できずに首を傾げた。
 それの何がいけないのか、本気でわからなかったのだ。
 事実、それはこの世界では何一つとして問題にならない。

「最適解? そんなもんは存在しない。ごちゃごちゃと技だの手数だのばっか増やすのは阿呆のやることだ。サイバーカラテなんてのは武術とは呼べない。誰が広めやがったのか知らないですがね、そいつを見つけたらぶった斬ってやりますよ」

 武術とは体系だ。センジュはそう確信を述べる。
 一貫した思想と哲学に基づいて心技体を鍛え上げていく、一つの世界観、宇宙観とも言うべき実践の学術であり信仰でもある。

 それぞれの武術を身に修めたブシドーにとって、誇り無く思想無く、ただ無節操に拳を『操作する』だけのサイバーカラテは侮蔑の対象だった。
 それは武術ではない。
 信念が無い拳など恐るるに足らずと、センジュは切って捨てた。

「ただで食える飯なんてありゃしない。都合のいい汎用最適化戦略メタヒューリスティクスなんてのは馬鹿の妄想ですよ。どいつもこいつもほいほい扇動されやがって。武術の強みってもんをまるで理解してねえんです」

 怒りを吐き出す若者を優しい目で見ながら、ユガーシャは曖昧な微笑みを浮かべて、言葉を紡いだ。 

「でもね、センジュ」

 膨大な戦闘の記録――つまりは有り合わせのものを組み合わせて、有り合わせの方法論でそれらしい正解を探り出す。
 それは例えば、このようにも表現できる。
 寄せ集めブリコラージュの武術。

「武術ではなくとも――呪術ではあるのかもしれません」





 第四階層で、いつものように悲鳴が上がる。
 人が死ぬ。
 人が殺し、人が殺される。
 異獣を殺し、異獣に殺されるのではない。

 第四階層では、そしてその場所の掌握者たる守護の九槍第七位が支配する戦場では、人が人を殺すのだ。それは以前から、何も変わらずに。
 その場所の侵攻に参加したジャッフハリムの兵士と義勇兵として参加した探索者たちは、その異様な光景に目を見開いた。

 銀色の装甲に身を包んだ修道騎士の部隊が、交戦状態にあった。
 戦っているのは、同じ修道騎士の部隊である。
 鈍器を振りかざし、槍を持って突撃し、兜がかち割られて装甲ごと肉体が圧壊していく。

 血みどろの仲間割れ。
 兜が剥ぎ取られ、鎧が砕けても死にものぐるいで相手に飛びかかり、素手での殺し合いが続く。
 恐るべき形相で争い合う二集団は、それぞれ人種が異なるようだった。

 それも、眷族種としての違いではない。
 同じ霊長類――多数派たるキャカール系と少数派のエネアーダ系という、肌色の濃淡くらいしか違いの無い『民族』の差異。
 どうやらそれが二つの集団が殺し合いをしている理由らしい。

 ジャッフハリムの混成軍は状況を好機と見て一気に攻撃を仕掛けようとした。
 だが、その時。

「邪魔をしてはいけません。彼らは己の俗情に従って、欲望を解放している最中なのですから」

 いつの間にそこにいたのだろう。
 誰も気づけなかった。
 圧倒的な存在感を誇る巨体。黒い僧服がはち切れんばかりの太い腕。巌の如き体躯の上に、黒い肌の頭部が乗っている。

 縮れ毛の豊かな金髪が背に流れる、ティシムガンド系の黒檀の民。
 ジャッフハリムの岩肌種に引けをとらない巨漢は、気づいてみれば圧倒的な存在の密度を有していた。
 だがこの男は部隊の中心に誰にも気付かれずに立っている。

 更に異常なのは、ここに至っても誰も男を攻撃しようと考えさえできなかった事である。攻撃できない、ではなく、攻撃するという発想そのものが浮かばない。
 男の、虚ろな闇ばかりが広がる瞳が不気味に発光する。
 虚無の色に。色無き輝きが空間を伝播していく。

「【レイシズム変数ヴァリアブル】――代入・『われわれ』ジャッフハリム正規軍の職分を不当に奪い荒らしていく『かれら』探索者の無法者共」

 不可解な呟き。
 直後、ジャッフハリムを守る為に結成された混成軍は、互いに罵り合い、侮蔑を口にして、敵意を剥き出しにしながら仲間同士で相争う。
 それを眺めながら、男は呟いた。

「人間の本性とは、実に典型的な振る舞いに表れます。器質的傾向、社会的傾向、歴史的傾向、そして心的傾向――任意の社会的関係性が任意の差異を参照し、自他の世界観を規定する。人が人を排除し序列化する思考とは極めて類型的です。だからこそパターンを掴む事で技術として体系化が可能。このように」

 黒檀の民の男は、掌に数式と文字列を展開した。
 決まり切った公式、決まり切った構文に、任意の値――言葉を代入するだけの簡素な呪文である。

 『われわれ』と『かれら』というたった二つの変数。
 それが、男が操る呪文の本質である。
 指示内容が異なるだけで、基本的な効果は単純だ。

 身体的特徴、科学的な種族差、出身、文化、宗教、振る舞い、来歴、趣味嗜好、性差、年齢――その他、数え切れないほどの差異に基づいた排除と序列化。
 差異――それは言語じゅもんであり文化じゅりょくである。
 人の心に予め備わった機能を祝福し増幅する支援の業。

 それが第七位の神働術。
 槍神教の教えを正しく実践させる為の、最善の神への信仰。
 ゆえにその男は、最も敬虔な守護の九槍と言われていた。

 最も多く味方を殺し、望んで無能な上官を演じる彼を、戦況を遅滞させ、戦いを長引かせたい上層部や巨大企業は最も優秀な大司教と呼ぶ。
 敵対派閥の修道騎士を戦場で圧殺する『公然たる暗殺』をこの上なく得意とする彼は、松明の騎士団において最も有能な修道騎士とも言われている。

 今日もまた、彼は自軍を全滅させた。
 抗戦虚しく、一人生き恥を晒して生き残ってしまった、なんとお詫びをすれば――などと自動生成メールが報告書を作成していく。
 それを見ながら、彼は無慈悲に神働術で修道騎士を殺していく。

 地獄――ジャッフハリムの侵攻など、彼一人でどうとでもなるのだ。
 だがここを通すわけにはいかない。そうなれば彼は死んでしまうし、死んでしまったら地上の人間を殺す事ができなくなってしまう。

 彼はただ、無駄に、意味も無く、だらだらと地上の人間を虐殺し続ける為だけにそこにいる。
 大樹の『うろ』のような瞳に闇を湛えて、男は地上の理によって地上の人間を殺し続ける。殺し合いを促して自滅の断末魔を聞き続ける。

「憎め、唾を吐け、蔑め、見下せ、嗤え、優れた自己と『われわれ』を確信するがいい。そして死ね。無意味に殺し合って命を散らせ。そのありふれた死、古代より蔓延し続けてきた憎悪と絶望こそ我が糧――糧、糧、か?」

 男が言葉の途中で首を傾げる。
 やがて動く者がだれもいなくなったその場所で「ふむ」と納得したような声。

「何も感じぬ。というかどうでも良いな。特に殺し合わせる意味は無かった。別に必要というわけでもない」

 屍を踏み越え、金髪を揺らしながら黒檀の民の男は独りごちた。
 だが。
 虚ろな瞳が、かすかにゆらめいた。

「だが殺す。特に意味は無いが殺す。生きている限り殺す。私の部下になった地上人類は皆殺しにする。なぜならば、それが主の望みであるからだ。それが教義であり正義であり大義であるからだ。私はその手助けをしているに過ぎぬ」

 地上の望み、人の望み。
 誰よりも地上の人間らしく。
 人の本性とは何かを断定して、守護の九槍第七位は掠れた声で呟き続ける。
 誰も彼の言葉に耳を傾けたりはしない。

 その言葉はどうしようもなくありふれていて、意味も価値も存在しないからだ。
 ただ当たり前の事実を、当たり前の事として再確認するだけの男。

「機械のように憎しみ合い、自動的に排除し合い、反射的に優劣をつけて他者を踏みつけろ。それが、『人』というものなのだから」

 陰鬱な呟きが、第四階層に響いた。
 そしてまた、仲間同士が殺し合う。
 男が信じるありのままの人間らしさが、そこには表現されていた。

「私は、ただ殺し合わせるだけだ」




 クロウサー家が手配した自動鎧は速やかにガルズを拘束し、ゾラの血族が管理する一室に彼を幽閉した。
 本来ならば槍神教に引き渡される所を、クロウサー家がその強権で一時的に手元に留め置いたのである。

 リーナの言葉が通るのなら、自分はこのままずっと拘束され続けるのだろうな、とガルズはぼんやりと考えた。
 目の前はどこまでも暗く、先行きは途絶えてしまっている。
 いや――もうずっと道を見失っていたのかもしれない。

 マリーを救うだなんて、とんだ思い上がりだった。
 逆に救われ、守られていた。
 いや――実態はそれよりもう少し双方向的だった。
 マリーが守ったのはガルズの世界観で、その世界観はマリーの在り方を肯定するものだった。なら、それはマリーを守る事に繋がっていたのだ。

 救いの向きは容易く変化する。
 どちらが先だったのか、なんて考える事に、意味はないのだろう。
 ただ、どうしようもなく彼女が愛おしいとそう思った。
 そして同時に、無力な自分を呪う。

 マリーを失いかけて、自分では救うことができなかった。
 だがアズーリア・ヘレゼクシュはマリーを救って見せた。それを救いと呼んでいいのか、ガルズにははっきりとわからなかったけれど。
 ガルズには、何も出来なかった。
 またしても、何一つとして意味のあることが出来なかったのだ。

 英雄になり損ねた男。
 惨めな負け犬。それがガルズ・マウザ・クロウサーという男だ。
 悄然と項垂れていると、厳重に外界から隔離された一室に誰かが入ってくる。
 三角帽子の少女――もうそろそろ、その形容も似つかわしくない年頃だろうか。

「リーナ」

 ガルズはその名前を呼ぶと、少しだけ心が軽くなるのを感じた。
 明るく朗らかな親戚の少女。妹のように思っていた。
 窮屈なクロウサー家の中にあって、彼女の存在はガルズにとって救いだった。
 目の前は暗いと思っていた。あらゆる道は途切れたと。

 けれど、唯一残された道が彼女が用意したものであるのなら。
 それは、もしかしたら救いなのかもしれない。
 口を開く。
 ガルズは自分でも疑いに満ちた心を言葉にすることで強引に方向付けた。

「地上は、クロウサーは邪悪だ。それでも、誰もが力を合わせて困難を乗り越えようとするあの光景には希望があった気がする。だとすれば、人の意思を――君を信じて、任せていいかもしれないと、少しだけ思ったよ」

 今更こんな事を言って、リーナはどんな顔をするだろう。
 呆れるだろうか。それともわかってくれたと喜ぶだろうか。
 座り込んでいたガルズは立ち尽くすリーナを見上げて、そして。

「頭が高い。頭を垂れよ地虫」

 絶句して、頭上からのし掛かってくる凄まじい呪力によって平伏させられた。
 信じがたかった。
 一瞬だけ見えたリーナの瞳。
 それは、虫を見るような冷酷な色をしていた。

「人に自由意思など無い。あれらは神の奴隷。地を這う虫けらよ。地上の地虫どもを見よ。絶対的な権威に頭を垂れる事しか知らぬ。己の意思で立っているように見えて、その実態は英雄や偶像という高みに縋り付くばかりの塵芥でしかない」

「リ、リーナ――?」

 その言葉を発したのは、本当にあのリーナ・ゾラ・クロウサーなのか。
 ありえない、とガルズは確信した。
 だが同時に、彼の優れた邪視はリーナが物質的にも霊的にも完全に今までと同一であることを教えてくれている。

 だとすればこれはどういうことなのか。
 まさか、脳髄洗いや順正化処理で洗脳されてしまったのか。
 一体誰がそんなことを。

「だが、トリアイナ様の救世はそのような閉塞した世界から人類を解放する。あの方こそは末世に来たる唯一の光。すなわち救世主である」

「トリ、アイナ――?」

「知らぬか。貴様らごとき木っ端の細胞では無理も無かろう。覚えておくがいい【右目】よ。あの方こそは第一の細胞にして我らが主と仰ぐべき頂。【心臓】のトリアイナ様こそ真の未知なる末妹」

「トライデントの細胞――そんな、リーナ、君は」

 クロウサー家の人間は、確かに始祖が転生者であったと伝えられているために末妹候補の使い魔となる資格を有する。
 だがまさか、リーナがそうだというのか。

「貴様らはそれなりに努力した方だが――所詮は本来不要な器官に過ぎぬ。細胞にとって真に有用な『目』は別にある。使い捨ての道具、いやゴミか――貴様は常に役に立たぬな、思えばマウザの者どもは常にそうであった」

「待て――それは」

「マウザの木っ端どもは貴様が生まれた時、十年に一度の才を持つ神童が生まれたと大騒ぎをしてな。名付け親にと私に擦り寄ってきおったが――十年に一度では精々小間使いが関の山よ。凡俗に価値は無い」

 ガルズが生まれた時の記憶が、リーナにあるはずがない。
 直観した。確信があった。憎悪を込めて、ガルズは叫ぶ。

「貴様か、貴様がリーナの中にいるのか、サイリウス!」

「それは正解であり正解でない。サイリウスは私の教えを完璧に内面化した優れた器であった――乗り捨てるのが惜しいくらいにな。だがリーナは歴代の誰よりも霊媒として優れていたが故に無意識下で我が支配を拒み、我が力と反発し合っていた。私が顕在化できるようになったのはつい先程のことよ」

 リーナはゾラの血族にあって落ちこぼれと呼ばれていた。
 だが、『このリーナ』の言う事が正しければ、実際は彼女の才覚は傑出しており――その呪術の適性ゆえに肉体を完全に支配されずにいたということらしい。

 霊媒は、常に高次存在に心身を奪われる危険を背負っている。
 リーナはその強大な力で己の自由を奪う『何か』に無意識のうちに抵抗をし続け――しかしある切っ掛けでその抵抗が出来なくなってしまった。

 恐らくその切っ掛けとは、命を脅かすような危機的状況。
 霊媒として、より強い力を求めた結果として、リーナは『何か』の力を使って危機を乗り越え――その結果として、心身の支配権を奪われたのだ。

「そんな、それじゃあ、僕のせいで」

「然様。大儀であったガルズ。貴様はこの為に生まれてきたと言っても過言ではあるまい。貴様が招いた危機のお陰でリーナは正しく【空使い】として覚醒した」

「リーナを、リーナを解放しろ!」

「子を孕むまではそれは出来ぬ約束だな。安心せい。可愛い孫娘――我が血を受け継ぎし正統なる子孫の心を塗りつぶしたりはせぬ。主導権は我にあるが、リーナは普段通りに生活できる。少々お転婆が過ぎるが、これも愛嬌というもの」

「貴様、貴様はっ」

 歪んだ笑みを浮かべるリーナの瞳に、藍色の光が宿る。
 ガルズの頭を不可視の力が踏みつける。
 重力制御。浮遊するリーナの足が、靴裏に斥力を発生させてガルズを床に押しつけていく。

「我が『藍』の記憶は融血呪として一族の血に偏在し、脈々と受け継がれる。そして、私を受け入れられるだけの才ある者が【空使い】の名を引き継ぎ、『私』を引き継ぐのだよ。リーナも、サイリウスも、ミブリナも、ダウザールも、だれもが私の可愛い『本当の孫』たちだ」

「霊媒の資質、混沌派の血――そうか、そういうことなのか」

 リーナの周囲に、いつしか青い流体が溢れていた。
 融血呪。だがその総量はガルズが操っていたものを遙かに超える。
 加えて言えば、色味も暗い青というよりは明るい藍。

「お前が、クロウサーか!」

 それは、ガルズが滅ぼすべき怨敵と定めた巨悪の名前。
 血族そのもの。
 連綿と受け継がれる呪いの根源。

 始まりの呪祖が一人にして異界から来訪せし転生者。
 子孫の肉体に転生し続ける古き魂。
 翼持つ者クロウサー。

「第四細胞、【血脈】のクロウサー。トリアイナ様の側近中の側近にして、融血呪の循環を司る細胞の要。クク、羨ましかろうがガルズ。私は全ての細胞の中で、ただ一人、拝謁の栄に浴したことがあるのだ」

「なら、そいつは――トライデントの頂点は、本当にいたのか」

「いいや、いない。いるはずがない――今は、まだ」

「何?」

 不可解な言葉だった。
 そもそも、初代のクロウサーは大断絶以前――それこそ散らばった大地の時代を生きたという数千年以上も前の人物だ。

 クロウサーの血が融血呪の影響下にあるのだとすれば、トライデントの細胞というのはその時代から存在したことになる。
 首魁たるトリアイナと会ったことがあるという言葉と、クロウサーが既にトライデントの細胞だったこと、そして今はまだいないという言葉――何もかもが矛盾に満ちており、到底理解できない。

「理解する必要などないよ。ガルズ、貴様はここで役目を終えるのだから」

 リーナの口で、酷薄な殺意を露わにするクロウサー。
 ガルズはぞっとした。
 この怪物は本気だ。あのリーナの決意――人を殺さないという選択をあっけなく無視して、ガルズを始末する気なのだ。

 可愛い孫娘などと言っていたが、そこにあるのは情愛というよりも道具への愛着なのではないか。
 あくまでも利用する為の器。
 クロウサーという巨大な邪悪に利用されるだけの家畜。
 それが、クロウサー家という血族の本質だった。

「殺してやる! クロウサーッ!」

「ふむ。死体を再利用して生きている事にするか。リーナ自身の意識なぞどうとでも誤魔化せるが、外部から指摘されれば違和感が蓄積し、どこかで破綻するやもしれぬ――死霊術が欲しいな。ガルズよ、上を向け」

 クロウサーの言葉は呪文だった。強制力のある命令で強制的に顔を上げさせられ、更には不可視の力で持ち上げられる。
 金眼の邪視は全く意味を為さずに無視される。
 まるで、サイリウスに対峙した時のように――あるいはそれ以上に強大な力がリーナの中に渦巻いていた。

「イェツィラー」

 あらゆる細胞の中で最も膨大で、速く、鋭く、繊細で、呪わしい融血呪の流体が藍色の光を放ちながらガルズの金眼に突き刺さった。
 低く鈍い絶叫が迸る。
 眼球だけを正確に吸い取った融血呪が、リーナの鳶色の両目に融け合う。

 眼窩を空洞にしたガルズが両手で顔を押さえる。
 それを冷ややかに見下ろすクロウサーの両目が、金色に輝いた。
 やがてその光は収束していき、元の焦げ茶色に戻る。
 だが、眼球の内部に宿った邪視の能力は確かにリーナ・ゾラ・クロウサーのものとなっていた。

「ふむ、中々ではないか。エジーメの小倅が遺した付与の呪いと合わせれば、これでリーナは三つの血族の力を有することになったわけだ。こうなるとガレニスを断絶させたのが惜しくなってくるな」

「あ、ああ、リーナ、リーナ――」

「何だ、まだ生きておったか。ほれ」

 不可視の衝撃がガルズを打ち据えた。
 背骨が折れ、内臓が潰される。
 浮遊するリーナの足がガルズを踏みつけ、発生した斥力が骨肉を押し潰して腹部から胴を両断していった。

 臓物を撒き散らしながら、ガルズは惨めに死んでいく。
 立ち上る臭気に顔を顰めながら、リーナの顔がにたりと笑みを形作った。

「死体は適当に修繕してやる。リーナの『お人形遊び』に必要であろうからな。私が糸を繰り、リーナは私が作った『ガルズ人形』とお話して激務で疲れ果てた心を慰めるのよ。当主の役目は過酷であるからな。まあ大学くらいは出て貰わねば話にならんが」

 途絶えていく意識の中で、ガルズは一つの事だけを考えていた。
 何もできなかった。無様に敗北し続け、英雄にはなれず、愛したマリーすら救えなかった。

 それでも、リーナは。
 リーナだけは。
 どんなことがあっても、自分の事を諦めないでいてくれた彼女の自由を、ただ守りたいと、そう強く願った。

 なにか、リーナのために出来ることを。
 せめて。
 なにか。
 一つでいいから。

 自らの霊魂を知覚する。
 リーナが霊媒として優れているというのなら。
 この『空虚』な瞳が死を見ることができるというのなら。

 空虚な眼窩に一瞬だけ金色の光が瞬き、消えた。
 ガルズ・マウザ・クロウサーの命はそうして途絶えた。
 何度も甦った彼の命運は、今度こそ尽き果てたのだ。

 リーナ・ゾラ・クロウサーの姿をした者は自動人形に片付けを命じさせると、その場を立ち去っていく。
 酷薄な瞳、人を人とも思わぬ神の視座。

「子孫たちが成長し、クロウサー家当主としての自覚を持つ瞬間はいつもたまらなく嬉しいものよなあ。良いぞリーナ。望み通り、私とお前とで矮小な地虫どもを導いてやろうではないか。全ての虫けらどもは、トリアイナ様とその手足たる我らクロウサーに救われる為に存在しているのだからな」

 独白――というよりも『自分自身リーナ』に言い聞かせるかのような言葉。
 と、その鳶色の瞳が、一瞬だけ金色に輝く。
 浮遊しながら移動する足が、止まった。

 訝しげに眉を顰めるが、異常は何も無い。
 クロウサーはそのまま水平に宙を滑っていき、その場を立ち去った。
 鳶色の瞳には、もう何も映ってはいなかった。
 その場には、空虚な死が残るのみ。






 そこは時の尖塔の最上階。
 低く唸る紫槍歯虎を侍らせて十字の瞳を輝かせているのは、聖女クナータ。
 修繕された大聖堂の採光窓の真下に立つ彼女は、まるで光の柱を受け止めているかのようだった。

 その背後から、声がかかる。

「ティエポロス」

「あら、ユディーア。最近良く会うわね」

「――久しぶり。相変わらずだね」

 ぼろぼろの軽鎧姿で現れたメイファーラは、気安い様子で聖女に話しかける。
 答える方も旧知の間柄である相手に対して気兼ねは無い様子だった。彼女の言葉が正しいのなら、これから頻繁に会うことになるらしい。

「今回の事、思い出してたの? あたし、聞いてないんだけど」

「言わないもの。敵対勢力に情報を漏らすほど迂闊じゃないのよ、わたし。幾らあなたが将来は虹のホルケナウで仲良くなる予定のお友達だからって、そのくらいの分別はあるもの。子供じゃないんだから」

 頬を膨らませて、腰に手を当てるクナータ。
 それこそ子供のようだったが、メイファーラはそれを指摘することはしなかった。幼馴染みとしての経験上、『子供っぽい』は子供時代からの禁句である。

 クナータは小さな身体でメイファーラに駆け寄った。
 並ぶと年の離れた姉妹のように見えないこともない。
 かつては机を並べて同じ『お姉様』の教えを受けたこともあるし、正面から技を競い合ったこともある。

 だが、どうにもこの相手が苦手だとメイファーラは思った。
 反対に、クナータのほうはメイファーラに好意を抱いているようなのだが。
 それは互いの性質にも理由があるのかもしれない。

 片や未来を回想するという未来視の能力。
 片や過去に遡るという過去視の能力。
 真逆の性質を持つ二人。
 自分にない何かを相手に見出す時、人は相手を求めるのか、拒絶するのか。

 メイファーラとしては、どちらでもない、と思いたい所だったが、どうにもこの相手との縁は切れることが無いらしい。
 それは、もう既に決まっていることなのだ。

「アズーリアもフィリスも、順調だよ。そっちはどう?」

「うーん、もうちょっとで思い出せそうなんだけど――多分、順調だと思うわ。季節が、どのくらい巡るのかしら?」

「しっかりしてよー」

「えーとね。多分、お母様が生まれるのはそんなに前じゃないわ。受胎はまだだけど――しるしはもう出てるのよ。ほら」

 クナータは服をめくり上げて、肌を露わにした。
 滑らかな白磁のような腹部が胸元まで見えそうになり、メイファーラは慌てて聖女の手を止める。

「だめだめ、はしたないよー」

「あなたがそれを言うの――? あんなに色々していたのに?」

「あたしこれから何するの?!」

 言いながら、メイファーラはクナータの下腹部を見て、納得が胸に落ちるのを感じた。丁度それは、女性が子供を宿す位置――【子宮】の位置。
 徴として青く輝く、三叉槍の紋章。
 その場所を、クナータは愛おしげに撫でる。

「お母様――懐かしいわ、あの偉大なる救世の瞬間。ユディーアが取り上げて、今までに見聞きした全てを伝え、トリアイナお母様は真にトライデントを完成させるの――母胎たるわたしは、その為に『振り返る力』を授かった」

「教育係か――正直ぴんとこないけど。生誕の為に必要なティエポロスが二番目なのは理解できるけど、実際の重要度から言ったら【血脈】の方が席次が上に思えるんだけどなあ」

「あら。あなたには『見る』という役目だってあるのよ。全ての『鍵』を監視し、守り、最後の救世を見届ける――だからこそ真の瞳、【天眼】という三番目の細胞の座を与えられているのだから」

 形無き魔女であるトライデントには本来二つの眼など不要である。
 『ほんとう』に物事を見るための瞳は心の中に。
 それは天眼。
 常人には見ることの出来ない事象を自由自在に見通す力である。

 【天眼】のメイファーラ・リト=ユディーア。号は灰。
 【子宮】のクナータ=ティエポロス・ノーグ。号は紫。
 共に、【心臓】に次ぐ地位を与えられたトライデントの最も重要な細胞である。

 その時、無数の粒子が収束してその場に翼の生えた猫が出現した。
 群体の大半を喪失して弱体化した翼猫ヲルヲーラである。

『うう、皆さんが私の言う事を聞いてくれない。良かれと思って導いてあげているのに。どうしてこんなに愚かなのでしょう。まったく度し難い――』

 小さく丸まって愚痴を垂れている。
 残存個体の大半を喪失した以上、もう絶対的な力を振るうことはできないだろう。審判として、また細胞の連絡係として役に立ってきた存在だが、その役目がこれからもこなせるかどうかは怪しい。

「だあれ?」

 クナータが、首を傾げた。
 それを聞いて、メイファーラはああ、と納得する。

「そっか、ここまでか――ごめんね」

 手刀が一閃され、灰色の軌跡が宙を走った。
 ヲルヲーラの首が軽々と飛んで、床に落下する。

『え――なぜ、私は』

「ティエポロスが覚えてないってことは、そういうことだよ。お疲れ様」

 踏みつぶされた胴が塵となって飛散する。
 狼狽する猫の頭部は、ゆっくりと歩み寄るメイファーラに底知れない恐ろしさを感じて震え上がった。

『わ、私がいなくなれば迷宮の争いは激化し――』

「多分、後任が来るんじゃないかな。さっきの勝手な独断専行もあるしね。一部の強硬派が指示した結果ってことで処理されるとは思うけど、多世界連合との関係悪化は避けられないし――まあ処分が妥当ではあるのかな。悲しいけど」

『私は、【脳】と【脊髄】の指示で動いていただけで――』

「下位細胞より上位細胞の決定が優先されるのは、あなただって知っているでしょう? あたしたちにとって、中枢神経系なんて何の意味も持たない――」

『い、嫌! まだ消えたく――』

「大丈夫。あなたの死もまた、トリアイナ様生誕の礎となるから。全て滞りなく、計画通りに進んでる。打ち倒されるべき試練、乗り越えられるべき障害としての役目、ご苦労様」

 灰色の光を纏った掌が猫の頭部を押し潰し、翼猫ヲルヲーラは消滅した。
 静かになったその場所で、メイファーラは小さく呟いた。

「連絡係がいなくなるとビーチェとラズに報告するのが大変になるなあ。今頃二人とも、どうしてるだろ」

「【両足】なら、このあいだは第五階層にいたわよ。アズーリアがそう言ってた」

「アズが? そっか。じゃあ半年後かな――そっかそっか。いよいよかぁ」

 クナータは低く唸る紫色の虎を撫でながら、くすりと笑った。
 メイファーラは何がおかしいと幼馴染みを睨み付ける。

「笑い事じゃないよー。あたし板挟みなんだよー」

「ふふ、大変ね。でも大丈夫よ。最後にはみんなみんな、お母様が救ってくださるのだから。アズーリアも、あなたの幼馴染みたちも、みんなが青い海に包まれて、幸福な未来に導かれるの」

 二人は、未だ存在しない何かを幻視するかのように遠い目をした。
 クナータは懐かしむように。
 メイファーラは少しだけ怖れ、しかし待ち焦がれるように。

 救世は遠く、天から降り注ぐ光はまだ淡い。
 彼らが主と仰ぐ【心臓】トリアイナ――未知なる末妹の第三候補、使い魔の座を占める最後の魔女はこの世のどこにもいない。
 今はまだ。






 世界槍。
 屹立する長槍の遙か先端、鋭い穂先の頂点に、その少年は立っていた。
 傍らには、侍女の格好をした幼い魔女。

「あるじ様。無意味に高いところに昇りたがるのはお止め下さい。落下してまた死にます」

「いいじゃないか、少しくらい。ほら、人々の営みがよく見えるよ。素敵だと思わないか、フー」

 松明の騎士ソルダ・アーニスタとその従者フラベウファ。
 二人は、地上で最も高い場所から人々を睥睨する。
 足下の刃は、凄まじく鋭利であるにも関わらず二人の足を傷つける事は無い。

「この世界には至る所に争いの火種が燻り、悲劇が口を開けて人が落ちてくるのを待ち構えている――だというのに、必死に未来を向いて人々は生きようとする。それはなんて愛おしいんだろう。それはなんて素晴らしいんだろう」

 両手を広げてソルダは語る。
 フラベウファは呆れたような溜息を吐くばかりで相手にしない。
 不満げな主に、侍女ははいはい、と形ばかり追従した。

「そうですね。人は素晴らしいですね――それで、あるじ様はその素晴らしき人をどうされるおつもりなのですか? わざわざこのような場所にまで降りてきて」

 フラベウファは奇妙な言い回しをした。
 誰よりも高みにありながら、『昇ってきた』ではなく『降りてきた』という表現を用いるのは、単純な間違いか、あるいは。

 ソルダは――ソルダ=ルセス・アルスタ=アーニスタは、透明に笑った。
 それから、澄み切った声で宣言する。

「もちろん、救ってあげるのさ。無限に試行錯誤を重ね、幾多の試練を乗り越え、異形の悪魔を打ち倒し、可憐な花嫁の手をとって――そうして待つのは、とても素敵な最高のハッピーエンドだ。目に浮かぶだろう? 物語はいつだって結婚で幕を閉じるのさ。いずれ必ず来たる、聖婚の日。そして世界は華やかに完結する」

 聖婚。
 それは、神話における男女二神の交合。
 神と人との婚姻。
 豊穣の約束。

 あるいは、天の神と地母神が結びつき天地創造をもたらす大いなる儀礼。
 春と冬の交代劇にして始まりと終わりの再演。
 死と再生の儀式。

「楽しみだよ、コルセスカ。僕の冬。終わりの花嫁。世界の最果て――ああ、どうか待っていて欲しい。終端をしいする者すら討ち滅ぼして、きっと君に会いに行くから。そうして、二人で人類を救済してあげよう」

 涙を流しながら陶然と虚空へと声をかける主を見ながら、フラベウファは処置無し、といったふうに肩をすくめた。



 特権者たちが高みから地上と人類を見下ろし、救済を語っていた。
 その果てに待つのは、どのような種類の救いなのか。
 無数に並立する『答え』に唯一絶対のものは無く。

 静かに青空を見上げるアズーリア・ヘレゼクシュは、定かならぬ未来の厳しさを想って、瞳を憂鬱さに曇らせた。





 ディスペータお姉様による『あとでテストに出ますからね』コーナー

「すっかりタイミングを見失っちゃったけれど一応やっておかないと残りの魔将さんが余りにも可哀想なので消化試合的に魔将紹介をしますよ~」

「というわけで第十二魔将、網膜を灼く稲妻ズタークスターク。
 大魔将、という他の魔将よりも格上の存在ですね。更には北方にある地底都市ザドーナという場所から遣わされた客将でもあります。
 冥王アリス――フォービットデーモンナンバーサーティーン・ライムの作り出した仮想使い魔。容姿は術者の姿を摸倣したもののようですね。ちなみにライムグリーンは緑の輝度が高く見やすい黄緑ですが、エレクトリックライムは赤の輝度がより高く、明るく眩しい、まさに雷光のような色合いになっています。
 稲妻の呪文で構成された仮想使い魔で実体は存在しませんが、その気になれば任意の物質を分解、再構成して人体を作り出すこともできるみたいですね。そのようにして再現された人間を『哲学的ゾンビ』あるいは『沼男/女』と呼びます。
 守護の九槍の元第三位を殺害した最強の魔将であり、現第三位が倒さなければ被害は更に拡大していただろうと言われています。
 今回は主にコルセスカの仲間二人が倒したみたいですが、丁度タイミング良くズタークスタークを受け入れる為の『器』が用意されていたことで転生が可能になったみたいですわ。ひどい偶然もあったものですね。
 現在はマリーと同化しており、彼女の人格と共に大魔将としての機能をアズーリアの能力、【燦然たる珠】の幻想韻雷ペリドットという形式に置き換えることで一応生存(?)しています。
 現在アズーリアが参照できる能力の中で最大の火力を誇りますが、消耗が激しく制御も難しいという厄介な代物で、下手をすればアズーリアを構成する呪文を崩壊させかねません。取り扱い注意です」
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ