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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第2章 もしサイバーパンク世界の住人がオカルトパンク世界に転生したら

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2-3 魔女と狂犬

 

 

 

「おはようアキラくん。気分はどう?」

 知らない声だった。
 発音のひとつひとつが明瞭ではっきりとした、活気のあるソプラノだ。
 一瞬だけ少年の声かとも錯覚したが、上から俺を覗き込むその顔は女性のものだった。

 そして気付いた。俺は今、寝台の上で仰向けに寝そべっている。
 左の上腕から点滴の管が伸びているのに気付く。この状況は、まるで――。

「うん、意識ははっきりしてるみたいだね。返事はできる?」

「ああ。だけど、これは」

「まだ動いちゃだめ」

 身を起こそうと体に力を込めようとして、静止される。
 というより、それ以前の問題だった。まるで力が入らない。全身が脱力して、倦怠感に包まれている。

 一体どうなっている?

「俺は、確か負けて」

「セスカがね、貴方を私のところに連れてきたんだよ。全身ボロボロだったけど、その様子だと後遺症もなさそうだし、大丈夫かな。良かった良かった」

 思考が乱れる。何を言われているのか、情報を即時に整理することができない。
 朗らかで心地よい響きの声が、流れるように耳に入り込んでくる。

 美しい声だというのに、どこか違和感を覚えてしまうのは何故だろうか。スピーカーを通して喋っているかのような、奇妙にアーティフィシャルな感じのする声。

 そうだ。この声には、息づかいが感じられない。
 目の前にある女性の顔には整った形の鼻も口もあるのだが、それらが呼吸しているように見えないのだ。

 遅れて認識する。相手の相貌はぞっとするほど整っている。美術品の彫像というか、人形めいていた。緑色の目は大きく、肌の白さも相まってビスクドールのようだった。

 髪色は赤い。生来の赤毛であるのか、それとも染めているのか。判断の付きにくいほどにその色は深く、にも関わらず透き通るようなきめ細かい髪質。

 左右に流れた毛束が黒いシュシュによって肩の所で二つに結ばれており、毛先は緩やかに巻かれていた。
 いわゆるおさげの髪型、口調や声、容貌から判断すると、コルセスカと同年代くらいだろうか。かなり若い、少女と言ってもいいくらいの年頃だと思われた。

「ちょっと無許可で開頭しちゃったけど許してね」

「解凍?」

「まあ展開するって意味ならそうかも」

 その会話で二つのことに気付いた。額から上を、広がった布のような何かが覆っている。頭部の上半分が隠されている状態だ。

 そしてもう一つ。俺も相手も日本語で会話をしている。『心話』とかコルセスカとの特殊な意思疎通とも違う、日本語と日本語の応答になっている。

「手術、したのか」

「そう。貴方の意思とか確認せずにやっちゃったけど、放置してたら意識不明のまま死んでたし、許してね。宗教上の理由で訴訟とかされると困っちゃうなー」

 冗談めいているが、患者によってはあり得る事態なのだろう。助けて貰った恩を仇で返すつもりはないが、医療費がどれくらいになるのか少々怖い。
 彼女は医者か看護士か、とにかく医療従事者であるようだ。

 壁や天井は乳白色。匂いの感じられない空気。
 ここは病室なのだろうか。

「まだ混乱してるみたいだね。セスカと話したいと思うけど、いまあの子、外に出てるんだ。しばらくすれば帰ってくると思うから、まあそれまで私とお話でもしようよ。質問があれば答えるよ」

 そう言って少女は寝台の側に置かれていた椅子に腰をかけた。かろうじて顔を傾けて視線を向けることは出来そうだったが、それ以上の動作は無理だった。

 どうやらできることはひとつしかないようだ。
 自分の思考を整理するつもりで、最初の質問を口に出す。

「まずひとつ、訊きたいことが。ここは何処で、貴方は誰ですか」

「あはは、ふたつじゃん。まあ当然の疑問だよね。まずここは病室。更に詳しく言うと、私の家」

「貴方の?」

「そう。私の構築した第五階層最高の呪術医院。それがこの場所だよ」

 呪術医院。耳慣れない言葉だが意味は理解できた。呪術がある世界なのだから、それが医療に活用されるのもごく当然のことだ。

 そして『構築した』という言葉に独特の含みを感じた。つまりこの建造物は第五階層特有のインスタントなものであって、彼女もまた第五階層の住人と言うことだろう。

「私は呪術医のトリシューラ。社会的に独立した孤高のウィッチドクター」

 それはつまり開業医ということだろうか。

「ちなみに呪術師としては『星見の塔』の所属だけど、医師としては無資格だよ」

 闇医者じゃねーか。
 ぞっとする。無資格のモグリ医師に体をいじり回されたのかと思うと急に恐怖が襲ってきた。

 トリシューラと名乗った少女は見た限り相当に若い。見た目で判断するのもどうかと思うが、しかしもし手術ミスなどしていたら俺はどうなってしまうのだろう。

「物事に絶対はありえないから断言はしないけど、まあ多分ミスはしてないよ。だから安心して」

「全く安心はできませんでしたが、とにかくありがとうございます。おかげで助かりました」

 寒気は続いていたが、とにかく言うべきことを言っておく。この闇医者がいなければ死んでいたのは確からしい。それに、意識を失う前の窮地から俺を救い出してくれたもう一人の恩人にも礼を言わなければならない。

「どういたしまして。礼儀正しいね、貴方は」

 快活に微笑みながらトリシューラは言った。
 改めて相手を観察する。医者とは言うが、今のトリシューラはとてもそうは見えない。

 細身で背はすこし高め。おそらく俺とほぼ目線が同じくらいのはずだ。
 私服なのだろう、服装は黒い長袖のワンピース。丈が短く、すらりとした脚がよく映えていた。黒いタイツがショートブーツまでの脚部を完全に覆っているので、全体のシルエットは細く、そして非常に暗い。

 まるで影のようだった。
 見るものに鮮烈な印象を残す赤い髪とは相反する衣装。いや、逆に服装が暗色系だからこそ燃えるような髪色が際立つのか。

「ん? 私の格好、何か変かな?」

「いや、他人のファッションにケチつける趣味はありません。ただ、その、良さそうな服だなあと思ったら気後れしちゃって。なにしろ、こっちの格好がこれなものですから」

 そういう俺の服装は前で合わせただけの単純な患者衣だ。外でこれだと少々どころでなく肌寒いが、この部屋の中は暖かい。空調設備でもあるのだろうか。

 またしても違和感を覚える。
 そこまで奇抜な格好というわけではない。医者というイメージではないが、手術中というわけでもあるまいし、今このときにどんな服装でいたとしても不自然ということはない。俺の考える常識が通じるとは限らないのだし。

 だが何故だろう。どこかが引っかかるのだ。
 思考の隅に留まり続ける、わずかな既視感。
 俺はこの少女と会ったことがある。

 そんなはずはない。記憶を辿っても彼女に該当する人物はいないはずだ。第五階層のどこかですれ違ったのだろうか。これほど色鮮やかな赤毛ならば記憶に残っていてもよさそうなものだが。

 そこまで考えて、ようやく何が気にかかっていたのかに気付いた。
 トリシューラの服装の中で、髪色の次に目立つポイント。
 冬らしさを感じさせる、灰色のファーストール。
 既視感はこれだ。俺は半年前にこれと同じ色を大量に目にしている。

 おそらく彼女の肩にかかっているファーストールは人狼のものだ。エスフェイルの死から流通量が減り、一月ほど価値が跳ね上がったこともあったが、既に十分な数が探索者たちによって確保されており、ほぼ同じ材質の狼毛皮がより安価に手に入るため、そこまでの高級品というわけではない。
 だが、それを身につけるということはこの第五階層においてはそれなりの意味を持つ。『下』の人間から剥いだ毛皮を身に纏うという行為は、ある特定の人種の神経を逆撫でする。

 もちろん分かっていてやっているのだろう。ファッションは人間のスタイルだから、身の危険がどうとかお節介な事を言うつもりは無かったが、それでも危険を顧みない人物なのだということが窺える。

 美学に殉ずる命知らずの愚者か、あるいは――。

「そんなに特別なことでもないよ? 顔の皮をなめして表紙にした魔導書とか、人骨の呪具とか、頭蓋骨の首飾りとか、第五階層に限らず普通に売ってるんだよ。貴方の世界にもそういうの、なかった?」

「髑髏の意匠そのものはかなりポピュラーでしたけど」

 趣味の善し悪しはともかく、彼女は俺が異世界人だということを知っているらしい。
 別におかしくはない。コルセスカから説明があっただろうし、俺のことはネット上のメディアで記事になった筈だ。もしかすると先程の襲撃はそれがきっかけだったかもしれない。

 いま『先程』と表現したが、そういえば俺はどのくらい意識を失っていたんだろうか。
 尋ねて得られた答えは、多少の驚きをもたらした。

「丸三日は眠ってたよ。それはもうぐっすり」

 本来ならばコルセスカの作業も終わっている頃だった。
 しかし、トリシューラが流暢な日本語を喋っているのはどういう事だろう。俺は延々と寝言でも呟いていて、それをずっとコルセスカが聞いていたとかだろうか。

「え? なにそれどういう事? 翻訳するために一週間一緒にいて会話し続ける? どうしてそんなことする必要があるの?」

「は?」

「日本語をこの世界に定着させるのに、そんな作業は必要ないよ?」

 疑問を投げたら疑問で投げ返された。困惑しているのはこっちなのだが、相手もそれは同じようだった。
 トリシューラの話しぶりだと、まるで俺が聞かされていた事が嘘であるかのようなのだが。

 じゃあ、何のためにコルセスカは俺と一緒にいたんだ?

「貴方の言うような面倒な翻訳作業なんてしなくても、辞書やコーパスなんかの電子データをそっちの世界から送ってもらえばいいわけでしょう。言語資源は非常に価値が高い上に権利関係が複雑だから、こっちの一般人が手に入れようとしても難しいけれど。『塔』はそちらの世界との繋がりがあるからね。手続きに時間がかかったとしても、不可能ではないはず。だからずっと一緒にいる意味なんて無いよ?」

 ちなみに英語のデータは既にこの世界に定着してるよ、などと補足された。
 じゃあなにか。俺は半年前、たとえ片言でも英語を使っていればもっと円滑にコミュニケーションができていたというのか。

 というか、待って欲しい。
 ますます意味が分からない。コルセスカは一体何がしたくてあんな嘘を?

「貴方と一緒にいたかったから、とか?」

「まさか。理由がありませんよ」

「貴方は、誰かと一緒にいることに理由を求めるタイプなんだね」

「理由もなく誰かと一緒にいたいなんてあり得ません。それでは一緒に居続ける理由も無いということになる」

 彼女の行動は意味不明だが、そこには必ず何かしらの理由がある。
 問題はそれが何かということだ。

「そっか。それが貴方の世界観なんだね」

 妙なことを言われた。
 トリシューラの表情は曖昧な微笑みのまま少しも動かない。物静かなコルセスカも表情が読みづらかったが、この相手もいまいちよく分からない。

 快活で朗らかな、変化のない明るさ。
 ある意味では無表情よりも内心が見えない。

「じゃあセスカもいないことだし、今のうちにちょっとだけ私の推測を話しちゃおうかな。あ、私が言ってたことはセスカには内緒ね」

 セスカというのはコルセスカの愛称だろうか。仲いいのか。両者の関係が気になるところだったが、それよりもトリシューラの話のほうが俺の関心を引きつけた。

「多分だけど、セスカは貴方を利用したいんだと思う」

 それは、想定していた範囲内の答えだった。
 問題は俺がどう利用されようとしているのかだ。

「コルセスカは『星見の塔』なる組織に所属していると聞きました。その組織が、俺を監視下に置きたいとか、そういうことなんでしょうか」

 呪術師の組織だということぐらいしかわかっていないが、俺は勘だけでそう推測した。

 警戒心もある。トリシューラは呪術医、つまり呪術師である。加えてコルセスカの知り合いだというのなら、彼女もまた俺を利用しようとしているのではないかと考えられるからだ。
 疑念はほぼ正解だった。

「んー、『塔』の所属なのは私も同じだけど。そういう命令は下ってきてないかなあ。そもそも、上意下達で命令や任務をしっかりかっちり、みたいな組織じゃないんだよ。基本ゆるいっていうか。それにセスカとは同期の腐れ縁でそれなりに話はするけど配属は違う、的な感じだから、セスカの所が何を考えてるかまではよくわかんない」

 トリシューラをどこまで信用すべきかはまだ判断できていないが、この発言に関しては嘘はついていないように思えた。どちらにせよ「よくわからない」しか言っていないので、情報としての価値は無いに等しい。

「っていうか、今のセスカは『星見の塔』の魔女というより、迷宮探索者としてこの場所にいるんだよ。セスカはこの迷宮を攻略しなければならない切実な理由があるの。だからセスカに理由があるとすれば、この迷宮を攻略する為だよ」

 その言葉が本当なら、俺はまんまとコルセスカに騙されていた事になる。
 翻訳するための言語魔術師として、という彼女の態度は、全て偽りだった。
 俺と共に過ごした数日間は、嘘の上に成立していたものだったのだ。

「少し前からね、こんな噂が流れてるんだよ。『第五階層の掌握者は外世界人のシナモリ・アキラだ』っていう噂がね」

「第五階層の掌握者は不明じゃないんですか」

 そう言いつつも、俺はその可能性は否定しきれないことに気付いていた。
 階層掌握者としての権限は相手の殺害か、本人による譲渡によってのみ移動する(とヲルヲーラに聞いた)。

 半年前俺はアズーリアによってその権限を一時的に預かった。その後、何者かの襲撃によって意識を失い、気がついたら他の誰かに掌握者としての権限を奪い取られていた。

 その何者かは掌握者としての能力、すなわち建造物の創造能力を第五階層の住人全てに分け与え、姿を隠したままなのだが、問題はそいつの正体がいまだにわからないということだ。

 俺は殺されていない上に誰かに権限を譲渡した覚えがない。
 だとすれば考えられる可能性は三つ。

 俺は半年前に殺されていて、今の俺は同一の記憶と人格を保有するクローンかアンドロイドである可能性。
 もしくは意識のない内に強制的に権限を譲渡させられた、もしくは譲渡後に記憶を消されたという可能性。
 最後に、正体不明の第五階層掌握者とは俺である可能性だ。

 三番目の可能性が無いことは俺がよく分かっているが、それも脳内に潜むもうひとつの人格とか無意識とか知らないうちに操られているとか荒唐無稽なことを考えれば否定は出来ない。そしてこの呪術がある世界では俺にとっての荒唐無稽は常識であるのかもしれない。

 より重要なのは、外側から見れば一番怪しいのはどう考えても俺だということだ。
 いきなり現れた得体の知れない外世界人。
 いかに今の第五階層が魔窟とはいえ、怪しい人物の筆頭に挙がるのは間違いない。

「噂のきっかけは、ネットに流れた俺の記事か」

「そういうこと。で、こう考える人がいっぱい。『そいつを殺せば自分が掌握者になれる』ってね」

「間違ってても俺が死ぬだけで誰も困らないですしね」

「そういう反応に困ることを言わないで欲しいなあ。私も一応お医者さんなので、人が殺されるのはあんまり好きじゃないから」

 言葉の割に、トリシューラの表情は明るいままだ。苦笑すらしないのはいっそ徹底している。どこまで本気なのだろうか。

「話は単純なんだよ。結局は『上』と『下』の勢力争い。どちらの勢力が第五階層を掌握するかの競争。貴方という景品の争奪戦」

「だとするとおかしな事があるんです。あの時、俺を襲ってきたのは両方の勢力でした。普段仲の悪い『上』と『下』の組織が徒党を組むなんて普通じゃあり得ないし、まして掌握者になりたいんならなおさらあり得ないんじゃないですか」

「ああ、そのことだけど。『上』の組織の大半は『下』に味方することにしたみたい。言ってみれば寝返りだけど、犯罪組織だし利害関係によっては普通にあることだね」

 それは驚くべき事実だった。地上の種族が、普段異獣と蔑んでいる地獄の種族側に付くなど、可能性としてすら考えたことがなかった。
 普段の両者は、それほど険悪な関係なのだ。

「正確に言えば、第五階層で最も強大な勢力である『公社』――あなたもよく知るロドウィの組織とその傘下にある組織以外はみんな『下』に味方してるみたいだよ。この数日で第五階層の勢力図は大きく塗り変わった。私はこの動きを、大きくなりすぎた公社に対抗する為のものだと思っているけど――脱線するから、ここで話をセスカに戻そうか」

 首領の組織が巨大になりすぎた事が、同郷の組織から反発を生んだということだろう。
 そういった背景事情を踏まえると、首領の紹介で俺の前に現れたコルセスカという存在の不審さが露わになっていく。

「貴方の争奪戦っていうけどね、事実上この階層が公社、つまり『上』側の支配下に置かれている今、無理に貴方を殺す必要は、『上』側には無いんだ。だって貴方は公社と、ロドウィさんと適度に良好な関係を築いている。個人としての戦闘能力も高いということだし、むしろ懐柔して味方にしておいた方がいいよね?」

「コルセスカは、俺を釣るための餌であり護衛でもあるということですか」

 コルセスカと親密になれば俺は『上』と離れがたくなり、守られれば『上』に恩ができる。彼女と共に過ごすことで、心情が『上』寄りになっていたことは否定できない事実だ。

「更に、『下』の勢力が四六時中貴方の命を狙ってくるようになれば、貴方は『上』の勢力に縋らざるを得ないよね。実際、集団で襲われて死にかけてもいるわけだし」

「気がついたら選択肢が無くなっていた、と。まさか、『公社』以外の『上』の組織が軒並み裏切ったのは、俺の頼る相手を限定するための首領の工作ってことは」

「さあ。そこまではわからないよ。けどセスカならそういうこともやりかねないかな」

 会話にズレを感じた。
 俺が意識を向けているのは『上』や『公社』、首領といった対象だが、トリシューラは明確にコルセスカに意識を向けているような気がする。

 今のやりとりを経ても、コルセスカという少女がどのような立ち位置なのか今ひとつ見えてこない。

 『上』の探索者で、迷宮攻略を目的としていて、首領と協力関係にあり、俺を懐柔しようとしている。それはなんとなく分かるのだが、列挙した要素は全て表面的なものだ。その奧にある、コルセスカの意思が――彼女が何を動機にして行動しているのかが、まるで見えない。

「さっき、コルセスカには迷宮を攻略しなければならない理由があるって言ってましたよね、それってどんな」

「本人のいない間に噂話ですか。趣味のいいことですね」

 俺の質問にかぶせるようにしてかけられた声は、ひどく冷ややかに病室に響き渡った。トリシューラとは違い、抑揚に乏しい割に内側に秘められた感情がかすかに漏れ出ているような声音。氷のような言葉は、いつの間にかトリシューラの背後に立っていた少女が発したものだ。

「おかえりセスカ。思ったより早かったね」

「変な愛称は止めてください、トリシューラ。留守中にずいぶんと好き勝手なことを喋ってくれたようですね」

「間違ったことは言ってないつもりだけど」

「そうかもしれませんね。けどそれを言うならトリシューラ。貴方だって、私に協力しているからには『上』側なのでは?」

 コルセスカの口ぶりからすると、俺たちの会話をある程度聞いていたのだろうか。その上、トリシューラの推測を否定するそぶりを見せない。つまりあれで正解だったと言うことだろう。

「私は『上』でも『下』でも無いよ。今回助けてあげたのは、セスカが友達だからだよ?」

「心にも無いことを、よくもまあ」

 あくまでもにこやかに対応するトリシューラと、冷ややかなコルセスカ。どうも険悪な雰囲気だ。同じ呪術師で仲がいいのかと思っていたが、どうもそうとは限らないようだ。

「言っておきますが、借りを作った、などと思わないことです。彼の重要性は貴方も理解しているでしょう」

 そこで言葉を切って、コルセスカはこちらを真っ直ぐに見据えた。旧知の間柄らしき二人の会話に入れなかったので助かるが、何を言っていいのかわからない。騙していたことに対して怒りをぶつけるべきだろうか。

 しかしこうも思う。それに対して、俺は怒るべきなのか?
 俺を懐柔して味方につけようとする。自らの立ち位置を決められずにいた俺にとって、それはむしろ感謝すべきことではないのか。俺が決断する必要は無い。選択を肩代わりしてくれるのは周囲の状況であって、流されるまま、選択肢の無い状況で動けばいい。生きるか死ぬか。敵か味方か。極端な選択肢に絞ってしまえば、そんなものは選べないのと同じだ。思えば、俺は半年前もそうではなかったか。

 一つだけ例外があるとすれば、それは他者の生死を選択したあの時のこと。カインを手にかけた瞬間と、その直後のアズーリアとの時間。極限状況での選択ではあった。けれど、それでもあの時間に俺の本心があるような――否、あって欲しい気がして、だから半年も経って未だに――。

「アキラ。きっと私への不信感が募っていると思いますが、あえて否定はしません。ですが、どうかトリシューラがそれを私のいない間に話したということの意味を考えて下さい」

 コルセスカの指摘で、思考が現在に戻ってきた。
 当然、それには気付いている。

 トリシューラもまた、俺を利用したいと考えている可能性は充分にある。身近な首領やコルセスカへの不信感を煽れば、次に信用できるのは命を救ってくれたトリシューラということになるだろう。それは大前提で、今更気をつけるようなことでもない。だが、それよりもコルセスカが『否定しない』と言ったことの方が気になった。

「コルセスカ。お前の目的は何なんだ?」

 嘘を吐かれれば意味のない質問だったが、それでも訊かずにはいられなかった。それは本質的な問いかけだった。そしてこのタイミングでの問いは今後の関係性を左右する。たとえ嘘であったとしても、この答えは決定的なものになるだろう。果たして、コルセスカはどう返してくるだろうか。
 しばしの間を置いて、彼女は毅然と答えた。

「私の目的は、この迷宮『世界槍』を攻略すること。最深部である第九階層――地獄に辿り着き、そこに封印された異獣たちの帝王、火竜メルトバーズを倒す事です」

 どこか、元の世界で夢想していた、異世界への憧憬を思い起こさせる『物語』だった。おとぎ話めいたそれを、まるで短期的で現実的な目標のように語るコルセスカの表情は、あくまでも氷のそれ。言うなれば、地に足の付いた英雄譚。

「それさえ達成できれば、上方勢力の有象無象がどうなろうと構いません。ロドウィなんて利用するだけ利用して出し抜いてやればいい。きっとこのままだと、貴方はあの老人に飼い殺しにされる」

 気付けば、コルセスカはトリシューラよりも前に出て、俺に近付いていた。覗き込むように俺に顔を寄せる。巨大な右眼のレンズに、俺の顔が映っているのが見えた。言いようのない迫力を感じて、思わず息を飲んでしまう。呼吸が止まる。

 決定的な言葉が、発せられようとしている。

「この数日、貴方を観察して思いました。他に類を見ないゼノグラシア。貴方のような人が、私は欲しい」

 俺を品定めしていたのだと告白して、彼女は俺に値札を付けた。きっと、それはとても高い値段なのだろう。
 だから、俺は――。

「私は氷血のコルセスカ。火竜を殺す冬の魔女。アキラ、私の使い魔になって下さい」

「保留で」

 決断を、また先送りにするのだった。

 

 
「あんな熱烈な求愛を棚上げするとかすごいねー、アキラくんって」

「トリシューラさん、さっきから笑いすぎでは」

「あははは。いいよう別に、さんとか丁寧語とか。もっと楽にして。私も気を遣わないからー」

「ほんとに気を遣ってないな――いや別にいいけど」

 憤慨したのか気勢を削がれたのか、コルセスカは病室を立ち去ってしまった。
 で、俺を見ながら爆笑するトリシューラさん改めトリシューラ。命の恩人とは言えこれだけ気安く接してくる相手だ、呼び捨てでも構わないだろう。本人からの承諾も出たことだし。それにしたって笑いすぎである。

「いきなり火竜を殺すのに協力しろって言われても。前にいた世界だと竜なんて実在しなかったから想像しかできないけど、簡単に決められる事じゃない」

 ていうか、地獄の火竜ってなんだそれ。初めて耳にする情報だ。地獄にはエスフェイルのような魔将の他にもそんな強そうな異獣がいるのだろうか。正直ぞっとしないが、少しだけ心惹かれるものがあった。

 竜殺しとは、英雄譚の定番ではなかったか。
 異世界転生においても、竜を退治して財宝を得るというライフプランを組んでいる人は多いと聞く。つまりそれだけ普遍的な娯楽であるということだ。

 どのような事情があってコルセスカが火竜を殺そうとしているのかまではまだ分からないが、どんな理由が付くにしろ竜を殺すというだけでそれが俺の目的になり得るのは間違いない。なぜならそれは乗り越えるべき困難だからだ。

 ――出来るだけキツイ異世界がいい。とびっきり悲惨で、とびっきりハードなやつが。

 望まれてある試練。それこそが、俺の願いではなかったか。
 俺は迷っていた。
 コルセスカは俺を利用したいのだとしても、俺はそれが必ずしも嫌だというわけではない。

 引っかかっているアズーリアとの再会にしても、コルセスカと協力すれば叶えられるのではないか? あるいは、それを条件に協力してもいいのだ。

 彼女の提案は俺に選択肢を与えていた。『下』と敵対して『上』に協力する、という一択から、首領に協力するか、コルセスカに協力するかの二択へと。あとはアズーリアと会うのを手伝ってくれないと首領に付くということを仄めかして、コルセスカに手伝ってもらってアズーリアと再会。その後でコルセスカと共に迷宮攻略、竜退治という流れになるのが理想的な気がする。

「選ぶべき答えは分かってるけど、何かが引っかかってるんだね」

 トリシューラの指摘は核心を突いていた。漠然とした不安。答えは出ているのだ。コルセスカと協力すればいい。使い魔というのが何かは分からないが、要するに彼女に従って戦えばいいということだろう。

 俺にはこの世界で生きるための理由が無い。軸足が存在しない。なら、俺の理由は他者に求めるしかないのだ。それがコルセスカであってはいけないということは無い。生きて戦うその理由を、彼女に預けてしまえばいい。どうせ大して選択肢は残されていないのだ。

 俺は主体的に選択することに向いていない。だからこそ、精神を機械に預けている。

「ま、動けるようになるまでは居てくれていいから。その間、じっくり悩んだら」

 トリシューラはどこか淡泊に言うと、その場を離れていった。いずれにせよ、俺はろくに動けないのだ。肉体が回復するまでは決断を保留してもいいだろう。
 その時は、そう思っていた。

 

 動画の画質はかなり粗い。それでも何が映っているのかくらいは分かるし、音質はさほど悪くないから何を言っているかも分かる。日本語が用いられているということは、配信された映像が俺に向けてのものだということを示していた。

『私の言葉は届いているだろうか。そして私を覚えているだろうか、シナモリ・アキラ』

 忘れるはずもない。意味の通じる言葉を耳にするのはこれが初めてだが、その男の顔には見覚えがある。褐色の肌。美しい黒髪。鋭い眼差しに不遜な表情。数日前、俺が敗北を喫した男だ。

『あれから八方手を尽くして君を捜してみたが、未だに行方が分からない。そこで我々は発想を変えた。見つけられないのなら見つけて貰えばいいのだとね』

 端末から立体投影される映像の中で、男は滔々と話し続ける。場所には見覚えがある。楕円が組み合わさった毒々しい色彩の通路。

「第六階層だねここ。背景からするとわりと浅いフロアかな。多分モロレクたちのテリトリーだと思うけど」

 端末をのぞき込みながら、トリシューラが呟く。
 この映像を俺たちに見せているのはコルセスカだ。ようやく体調が回復してきた矢先、彼女がいきなり端末を見せつけてきて、これだ。男の背後に、椅子に縛り付けられた何者かがぐったりと座り込んでいる。その姿にも、俺は見覚えがあった。

『ご覧の通り、ここにいるのは数日前、君が助けた少年だ。そして明朝、今より86,400秒後に我々は彼を公開処刑する』

 ぴんと立った猫耳。身に纏っているのは確かに俺が渡したマント。数日前、三報会の集団から助けた『下』出身の少年だった。俺が彼を助けてしまったせいで、彼は俺にとって価値ある存在、仲間だと思われてしまったようだ。彼が餌として囚われているのは、俺の余計な行為の所為だと言えるだろう。

『君が義や情を省みぬ卑劣漢でないのなら、それまでに我々の目の前に姿を現すがいいだろう。それまでは彼の身の安全は保証しよう』

「素朴な疑問なんだけど、あの場面で他人を卑劣漢呼ばわりするのってどういう神経してたらできるんだろうな」

 大体、俺がこの動画を見るという保証すら無い。それだけ彼の命が安く見積もられているということだろうか。

 動画の下には大量のコメント。名指しされた外世界人が来るか来ないか、凄惨な光景への期待、人道的な見地からの非難、特に中身のない短文などが並ぶ。閲覧者たちの中で最も評価が高いコメントはこれだ。

『罪無き少年を見捨てるシナモリ・アキラは卑劣漢だと思いますか?』

 『同意する』をチェックした閲覧者が圧倒的多数。自演じゃねーのか、このコメント。

「教えてくれてありがとう、コルセスカ。しかしそうか、このままだと彼は死ぬな」

「アキラは、動画信仰がある人ですか?」

 耳慣れない言葉だが、言わんとするところはわかる。コルセスカはこう言いたいのだろう。動画だからと言って正しい情報であるとは限らない。偽装や編集で情報を偏向させている可能性は当然考えておくべきだ。これは明らかに俺をおびき出すための罠なのだから。

「この際、情報の真偽はどうでもいいよ。誤情報だったら行く意味は無い。だが行かなければ無関係な人が死ぬ可能性がある。天秤にかけられてるのは俺の安全と彼の安全だ。要するにどっちが重いかって話だよ」

 考えるまでもない、と即決する。今更迷うような事ではない。俺という人格の一貫性を考慮すれば、これは選択肢ですらないのだから。

「彼の命は、俺にとって大して価値が無い。当たり前の事だろう?」

 かつて、俺は一度彼を助けた。それは安全にその場を切り抜けられるという自信があったからだ。あの場所には大量の敵と、俺が一度は敗北した男が待ち構えている。行けば今度こそ俺は死ぬかも知れない。結論など最初から決まっている。

「コルセスカ、要件はそれだけか?」

「ええ。貴方の反応が見たかったのですが。予想通りの反応です、アキラ」

 しばらく観察した甲斐がありました、などと不穏なことを言って、コルセスカはその場を立ち去った。
 寝台に体を倒して、しばしの時が無言のまま流れた。ややあって、トリシューラが口を開く。

「コルセスカとは違って、私は貴方の事はよく知らないんだけど」

 いつも朗らかな微笑みを浮かべている彼女にしては珍しい、真剣な表情だった。色のないその顔は、コルセスカよりも人形じみていて不気味ですらある。

「アキラくんって、そういう人なの?」

「ああ、ご覧の通りだ」

 他人が見て、聞いて、判断したものがそのまま俺自身の性質だ。トリシューラの判断はそれがどんなものであれ正しい。俺がどんな人間かなんて、一見すれば簡単にわかるのだから。

 ご覧の通り。俺は屑だ。

「この半年間、大量に奴らを殺してきた。こういう状況に陥るのも時間の問題だった。自業自得――そしてとばっちりを喰らった彼にとってはこの上ない災難だ」

 自嘲気味に呟く俺に、トリシューラは表情を変えないままに再び問いを重ねてくる。

「でも、先に仕掛けて来たのはあっちなんでしょう? 貴方はそれを返り討ちにしただけなんじゃないの?」

「それでも殺しは殺しだ。それに、俺は自ら望んでそういう命のやり取りがある場所を選んだ」

 生きるための糧を得る手段が、言葉すら満足に扱えない俺にとっては暴力しか無かったというのもある。最初の頃に出会って世話になった首領に暴力の適性を見込まれて、そういう仕事を積極的に請け負ってきたという要因も、言葉の問題をなんとかするために急いで金を作らなければならなかったという切迫した理由もある。しかし、最終的には俺自身が決めたことだ。

 望んで血で血を洗う闘争の場に身を投じたのだ。今更後悔などできるはずも無い。誰かを殺せば報復される。それがこの世界の理だ。

「結局、何もかも我が身可愛さってことだよ。生きるために誰かを殺すのも、目の前で誰かの命を見捨てるのも、根っこは同じだ」

 誰も、俺を責めることはできない。
 あの少年の命を俺の命で購うことはできない。それは無駄死にだからだ。俺が彼らに殺された後、少年も殺される。殺される者の数が多くなるか少なくなるか、その違いしかない。

「随分と」

「うん?」

 トリシューラが平坦な声音で呟く。余りに抑揚が無い為、一瞬だけそれが彼女の声であると理解できなかったほどだ。その声はどこか機械のようだった。

「随分と、許されたそうな顔で言うんだね」

 心臓が、大きく拍動する音が響いた。錯覚だ。しかし、その言葉は俺の中の核心を突いていた。

「貴方は自分のしたことが邪悪だっていう認識があるんだ。でも、徹底して悪人として振る舞うまでには至っていない。だからそんな風に、自分が本当は善人であるような素振りをしてしまう」

「それは」

「『俺は悪くない』『これは本意じゃない』って」

「黙れ」

「いっそ黙っていればいいのに。ああ、これまでは言葉が通じないからそれで済んだのか。誰ともコミュニケーションできなければ、言い訳を並べることもできないもの」

 そういって、トリシューラはにこやかに微笑んで見せた。
 反論をする気力は失せていた。彼女の言い分を正しいと認めてしまったからだ。

 俺は心のどこかで免罪符を欲している。半年前、カインを殺したことをアズーリアに許して貰ったあの時のように。今になっても俺がアズーリアを求め続けているその理由はつまりそういうことなのだろう。

 心の中の欠乏。誰かの庇護を求めるような弱さ。
 自らの行為を認め、許容してくれる存在への渇望。
 俺はあの時、たまらなく嬉しかったのだ。明らかな失敗、最善の結果を得られなかったことを、それでもいいと許してくれたこと。

 死者の言葉という優しい嘘を用いてまで、俺を救い出そうとしてくれたこと。その言葉に、その行為に、心を繋ぎ止められた。確かに俺は救われた。
 失敗しても次が無いだなんて、そんなのは耐えられない。だからあの時に決めたのだ。共に戦い、必ずアズーリアを守り抜くと。俺は決して殺人を後悔しない。どんな理屈を援用しても、アズーリアの言葉を守り抜くために間違った殺しを正当化してみせる。

 俺は絶対に死ぬわけにはいかない。再びアズーリアに出会うまでは、どんなことをしても生き抜かなければならない。
 それはどこか呪いに似ていた。それでも、この呪いは今日まで俺を守ってきてくれた。歪でも、間違っていても、俺はそういう存在としてこの第五階層に固定されてしまっている。

 一つ迷いがあるとすれば、きっとアズーリアならばあの少年を助けに行くであろうということ。ここで生き残ったとして、少年を見捨てた俺にアズーリアと合わせる顔があるのかどうかは疑問だった。
 それでも俺が最も優先する目標がアズーリアとの再会であることは変わらない。

 誰に何を言われても、それだけが俺の足場なのだった。

「窮屈そうに生きるんだね」

 憐れむように言い残して、トリシューラはその場を去っていった。

 

 座禅を組んで静かに目を瞑ると、光と共にあらゆる雑音が意識から遮断されていく。
 正確には目蓋を閉じても光を感じることはできるし、耳を塞いでも音は耳に入ってきてしまうものだ。しかし、人間は感覚した情報を選り分けて、一つのことに専心することができる。

 安静にしているように、とトリシューラからは言いつけられていたにもかかわらず、俺は寝台から抜け出して、こうして独り座禅を組んでいる。手術の際に邪魔な頭髪は剃り上げられてしまっているので、傍目には修行中の僧侶のようにも見えるかもしれない。

 とはいっても、何も床に座り込んでいるわけではない。俺は今、浮遊する正方形の上に、その全体重を乗せている。

 第五階層の住人が獲得した物質を創造する能力を、これまでの俺は即席の建造物を造る為の能力だと認識していた。しかし先だっての襲撃で、敵は周囲の目を遮るための障壁としてこの能力を使ってきた。もしかしたら、この力にはもっと広い応用性があるのではないか?

 そう思った俺は、先程から『家を建てる』以外のイメージで力を行使していたのだ。
 その結果がこれだ。最も基本的な簡易建造物を構成する板。壁や床の役割を為すそれのみを、俺は空中に固定させている。

 現状ではこれが精一杯だった。複雑な構造の物を創るには俺の想像力は足りていないらしい。より精度の高いイメージが可能なら、盾や鈍器くらいは創れるだろう。今のところ特筆すべきは空中に固定できるという点くらいか。これを利用すれば、左腕が無い分の不利を補えるかもしれない。そうすれば、一度敗れたあの男に勝つことも不可能ではなくなる(どうにかして第五階層におびき寄せなくてはならないが)。

 一人になると、どうしてもこういうことを考えてしまう。あの人質の少年を見捨てるならば、俺とあの男が再戦することはない。だが、それでも考えずにはいられない。俺があいつを殺す為にはどうすればよかったのか。再び戦うとしたらどのような手で攻めるべきか。

 サイバーカラテの修練は肉体による実践を伴う必要が無い。閉じた目蓋の裏に投影される仮想道場の中、俺の姿を模したアバターが俺同様に座禅を組んでいる。記録から再現された敵手が出現し、砲弾の蹴り技と致命的な貫手を織り交ぜた攻撃を再現してみせる。シミュレーターによって再現されたあの男の技は、極めて凶暴で一撃が重い。俺のアバターは何度も挑みかかるが、その度に打ち負かされてしまう。想定される敵手の実力は俺よりも数段上だ。勝つためには実力差を埋めるだけの要因が必要になる。ではそれをどのようにして用意するか。

 そこまで考えて、馬鹿馬鹿しくなってきた。そもそも俺は何故こんなことをしているのだろう。
 コルセスカにも言ったが、俺は他人の命なんかに責任を持ちたくない。だがあの少年を助けた結果、その責任を負わされているのははっきり言えば俺の自業自得だ。

 なぜあんな、らしくない事をしてしまったのか。不快だったから。ストレスを感じたから。ならばそれすら感じなければ何事も起きなかったのだ。俺はそういうのが嫌だったから、機械で感情を制御しているというのに。

 そのときふと、記憶の中に違和感を覚えた。
 三報会の連中を出し抜いて、少年を助け、外套を渡して去っただけ。ただそれだけの、つまらない一幕であった筈だ。そう記憶している。だがどうしてだろう。俺の感覚が、その記憶がそれだけではない、それ以外にも重要な情報があったと、そう主張しているような気がした。

 予感に突き動かされるまま、俺は記憶を遡り、詳しく精査する。仮想道場が消失し、過去の場面が再現されていく。少年を担いでの疾走。追っ手を振り切るために何度も曲がりながら、時に投擲や曲がり角からの反撃を駆使して、第五階層を逃げ回る。その後、人気のない倉庫で彼を解放し、その際に三報会から顔を隠せるようにと外套を与える。少年は何かを俺に向けて言ったが、その時の俺には彼の言葉が理解できず、礼かなにかだろうと判断してその場を去ったのだが。

 違う。
 違和感は、そのシーンにあった。再生していた映像を停止、巻き戻して再び再生。外套を受け取った少年が、口を開く。

『ありがとう。貴方は、尊敬に値する』

 言葉の意味が理解できている。
 そして同時に、その言葉の意味が、俺には理解できなかった。

 単語、文法、そうした知識が俺には無いのにも関わらず、過去の記憶に遡って、言葉が日本語に置き換えられていく。少年が異世界の言語を喋っていたという事実が過去に遡って改変されているかのような錯覚。そんなはずがない。だが何故か俺は彼の言葉を理解できる。超常の現象は、コルセスカの言っていたよくわからない理屈の、言語に関する呪術を思い起こさせる。

 だがあれは結局俺を利用するための嘘ではなかったのだろうか。それとも、トリシューラの言葉すら嘘なのか。何が本当で何が嘘なのかもわからない。

 一番わからないのは、この少年の意図だった。どうして彼はこんな事を言ったのか。まるで理解できない。俺は尊敬になど値しない。利己的に保身を第一に考え、彼を見捨てるべきだと理性で判断している俺のような人間は、軽蔑されこそすれど尊敬されることなどあってはならない。

 間違っている。
 だが、記憶の中での他者の発言を非難したところで何になるだろう。彼は今、囚われの身なのだ。
 そうして乱れていく俺の思考は、更なる一言により決定的に砕かれる。去り行く俺の背に向けて投げかけられた最後の言葉。それは、衝撃すら伴って俺の思考を白く染めた。

『貴方は僕にとって、アズーリアの次に大切な人だ。縁があれば、また逢おう』

 どうして、この言葉を聞き逃してしまったのだろう。意識を既に向けていなかったからか。最初から意味が理解できないと諦めて、ただの音の羅列として認識してしまっていたからか。当時の俺の耳と脳はどうかしていたに違いない。トリシューラが耳鼻科医なら診てもらっていた所だ。

 アズーリア。
 少年は、確かにその名を口にした。同名の別人かも知れない。関係が無いかもしれない。

 それでも俺はそれを無視することができない。ようやく見つけた、再会への手がかり。よりにもよって、都合の良いことに。俺にとっての動機が出来てしまった。彼を助けに行くことは、アズーリアとの再会という最優先目標に矛盾しない。ならば後は、それらしい大義名分とかを付け加えれば行動が設定できる。

 俺は、少年の『ありがとう』という言葉と共に、その表情までも思い出してしまった。少女のように繊細で美しい顔立ち。意志の強そうな瞳に宿っているのは、純然たる他者への好意。それは、花のような微笑みだった。

「決めた」

 目を見開き、組んでいた足を床に下ろす。
 再び自分の内心を確認する。殺す殺さないの極端さに自分の選択を委ねることへの忌避感。暴力を振るうのに、きっと俺は向いていないし、力を制御できない俺に武道を修める資格はない。

 ゆえに俺はサイバーカラテを選んだ。暴力を飼い慣らすためのふさわしい精神と身体。それらをアウトソーシングすることを前提とした武術がサイバーカラテだったからだ。

「格闘動作制御アプリ『サイバーカラテ道場』起動」

 感覚・感情制御アプリ『E-E』は常駐アプリだ。残り一枠をどう使うか。多対一の集団戦闘を想定するなら索敵能力に優れた『Doppler』だが『弾道予報』も悪くはない。『残心プリセット』は二度目の奇襲が通じる可能性が低い為に優先度が下がる。少し考えて、『Doppler』に決めた。

「行くか」

 聞こえるか聞こえないかという声で呟いて、病室を後にする。
 服装を患者衣から、ここに運び込まれてくる前のものに着替えていく。服は下着も含めて洗濯済みで、綺麗に畳まれていた。やってくれたのがトリシューラかコルセスカは知らないが、心の中で感謝しておく。

 人命を高く見積もるならば、何の罪もない、巻き込まれただけの少年は助けざるを得ない。それはごく普通の感性だろう。話を俺の名誉とか義理とか、そういう方向に持って行ってもいい。

 そんなのは選択肢が無いのと同じだと、俺は思う。命が高いという前提。殺人は許しがたいという前提。暴力の持つ責任とその重みという共通認識。人間社会に生きていれば、誰でもそういうことに意識を向けずにはいられない。

 そんなものは糞だ。
 行かなければ人道にもとる、行けば命に関わる、そうとわかっていても行くしかない、なんてのは御免被る。俺がハードで野蛮な異世界を望んだのはそういうのにいい加減うんざりしていたからだ。

 だから命は軽くなければいけない。俺はあの少年の命を軽く見積もる。俺を害しようとする連中は彼の命が重いと考え、それ故に俺が彼を助けに来ることを期待している。そんな期待は裏切ってやろう。悪いが一度縁があっただけの他人の命を高く見積もれるほど俺は情の深い人間じゃないし義理堅いわけでもない。

 だから、この行為には大した意味があるわけじゃない。助けるのも助けないのも、そこらの露天で軽食を買うか買わないかの選択と同程度。そのくらいの意味合いでなくてはならない。

 だから俺は殺人鬼になりたいと願うのだ。
 安い命をその日の気分で食い散らかすような、暴力が退屈な日常そのものであるような、ごく普通の殺人鬼に。

 命は安い。ゆえに大量に消費し、気軽に使い潰す。命を、暴力を、殺人を娯楽として享受する無邪気な消費者でありたい。そうでなければ、一度縁を結んだだけの他人の為に命を張ることなど出来はしない。俺は邪悪でありたい。善良さとか正義とか、そういう人を圧迫するような規範に、生まれ変わってまで縛られたくはない。

 右腕の指を端から順番に折り曲げて、動作確認。問題は無し。戦闘も充分に行えるだろう。

「マントを返して貰わないとな」

 ついでに胸躍る闘争と略奪が出来れば完璧だ。負けた雪辱を晴らすというのもいいだろう。俺のプライドを回復し、敵を駆逐する。俺にはメリットしかない。理由なんてそれでいい。最初にこういう世界を望んだのは俺だ。今更選ぶまでもない。俺は既に、この世界に転生する前に選んでいる。

「葛藤をしないのですね、貴方は」

 部屋を出てすぐに、真横から声がかけられる。壁に寄りかかるようにしてコルセスカが立っていた。非難めいた口調に、思わず足を止める。確かに、およそ真っ当な行動とは言い難い。決断を追認し続けると言う行為は、まさしく思考を放棄した獣そのものだろう。

 けれどそれでいい。正しさとか、葛藤とか、決断とか、そういうものから俺は距離を置きたい。成熟した人格に成長なんてしてやるものか。

「行くべき場所が、ちゃんとわかっているのですか?」

 無視したまま通り過ぎようとすると、背後から再度の声。今度の沈黙は、意図的なものではなかった。図星を突かれて、今の俺は多分苦い顔になっている。嘆息する気配。呆れられてしまった。

「脳があるのですから考えてから行動してください。わずかな間だけですが、貴方と話していてよくわかりました。貴方の周囲が敵だらけなのはその考え無しな行動のせいです。つまり貴方が馬鹿だからです」

 いや、思考と行動の順番が逆なだけで、ちゃんと考えてはいるんだ。という妄言が喉まで出かかったが、冷ややかな視線と共に侮蔑されそうだったので抑えた。

 振り返ってみると、案の定呆れ顔のコルセスカが立っていた。思惑が不透明で得体の知れない女だが、今の服装はいつもにまして得体が知れない。
 身に纏う色彩が白なのは普段通りだが、絹を思わせる滑らかな生地が形作るのは豪奢な夜会服である。緩やかなドレープ使いの比較的おとなしいデザインで、異彩を放つ眼球の模様は相変わらず。アームロングが両腕を覆い隠しているのも既に見慣れた光景だが、今日はその表面に蚯蚓がのたくったような模様がびっしりと浮かび上がっている。ヒールの高い靴は硝子製かと思ったが、よく見ればそれは氷でできていた。

「パーティーにでも行くつもりか?」

「ええ。男性が頼りないので、エスコートして差し上げようかと思って」

 タキシードの持ち合わせは無いんだけどな。まあこの世界の服飾文化をよく知らないので、案外これで構わないのかもしれないけど。気にしない方向で行こう。

「貴方はこのままだと、真の意味で異獣になる。第六階層で『上』の人間を含んだ集団と戦う意味を、分かっていますか」

 ヲルヲーラ、つまり多世界連合が設定しているルール上、第六階層での俺は『探索者』と同じ扱いだ。『下』の敵ではあるが、『上』は一応そうではない、ということになる。が、その場所で『上』の勢力と矛を交えればどうなるか。コルセスカは今のどっちつかずの立場がより悪化する可能性を示唆している。

「なるようになるだろう。どうにもならなかったらそこで終わりというだけだ」

 コルセスカはひどい生き方、と小さく呟いて、大きく溜息を吐いた。顔の右半分がほぼ動かないことと表情が動かないことで感情が分かりづらい彼女だが、仕草や言葉はそれに反比例するかのように雄弁である。コルセスカが俺に向けている感情は呆れ五割と、驚くべき事に好感が五割。俺を従えたいという打算が根底にあることは疑いようもないが、それだけではないと、その態度で表明していた。

「三報会をはじめとする『上』の組織の相手は私がしましょう。貴方は『下』を相手にしてください」

「助かる。この恩は必ず返す」

 コルセスカの「共に戦って欲しい」という要求に応えるかどうかは、あえて明示しなかった。彼女はその答えを期待していると分かっている。卑怯だという思いは自分の中にもある。

 それでも、この期に及んで俺は、他人に自分の全てを預けてしまうことを躊躇してしまう。何故なら、その道は生前に通って、失敗した道だから。目を合わせていられずに、彼女から目をそらす。

 と、つるりとした頭部に何かがぺたりと貼り付けられる。見ると、コルセスカが何らかの呪符を投げつけてきていた。呪符の発光と作動。見る間に頭髪が伸びてきて、気を失う前と同程度の長さになると呪符がはらりと剥がれ落ちた。なにこれ、育毛符とかそういうのがあるの?

「復元符です。右目で念写した貴方の肖像写真を元に再現しました」

 髪型のバックアップがとってあったらしい。いやまあ邪魔にならない程度に適当に自分で切ってただけだから髪型も何も無いのだが、コルセスカなりの気遣いなのだろう。ありがたく受け取っておこう。

「悪いな。盗撮されたことが役に立つなんて考えたことも無かった」

 ――あれ? なんか棘のある言い回しになったか?
 しばしの間、気まずい沈黙が通路を満たした。

 病室の印象とは異なり、通路は雑然としている。天井は低く、上下左右に管や導線が走っている。更に用途の知れない箱が置いてあったり、得体の知れにない突起などが壁から突き出ていることで本来よりも狭く感じられる。全体的に閉塞感が漂っており、とても病院と言った雰囲気ではない。

 その時、奥の方の扉が横にスライドして開いた。現れたのはトリシューラだ。
 お互いに立って目線を合わせるのは初めてだった。最初に思ったとおり背丈はほぼ、というか完全に俺と同じ高さのようだ。そのため、彼女のはっきりと開いた緑の目が真正面からこちらを捉えてくる。視線が平行に、そして強く交わった。

「安静にしてもらわないと困るんだけど、どこ行くの? トイレならさっき済ませてあげたよね?」

「いや、それはちょっと忘れたいので――」

「冗談だよ。でも意外だな。あの子には大して価値が無いって言ってたのに」

 呪術医は常と変わらない笑顔を浮かべている。が、その瞳は油断無く俺の所作を観察していた。見定められようとしている。俺の言動、俺の思考、その奧にある本質を。返答次第で、何かを決めようとしているのだ、このトリシューラという少女は。

「ああ。彼の命は俺にとって安い。俺の命を二だとすると、彼は一くらいだな」

 既に明言したことだ。そして安物であるならば、扱いは容易かつ粗雑で構わない。トリシューラはまばたきのないままに頷いて、続けて問いを投げた。

「成る程。ところで貴方は彼に倍する価値を持っているというけれど、それって市場価値だとどのくらい?」

「このあいだコルセスカと食堂に行ったんだけど、そこの一食分くらいかな」

 隣でコルセスカが妙な顔をしているが、口を挟んでくることは無かった。トリシューラの方は面白がっているようで、その笑みを深くしている。

「安いね」

「そうだ。命は安い」

 だから気軽に賭けていい。俺が死ぬのも彼が生き延びるのも些末な事だ。第五階層で日々消費される大量の命のひとつに過ぎない。

「緊張感も真剣味も感じられない――なんだか機械みたいだね、アキラくんて」

 トリシューラ朗らかに微笑むと、弾んだ声でそう言った。コルセスカが俺を獣と評したように、トリシューラは俺を機械と形容した。特に異論は無い。今の俺は、彼女たちにとってさぞ退屈でつまらない人間に映っているのではないだろうか。何も背負わず、何も感じず、ただ自動的に、神経反射で動くだけ。生きているだけの物。だからこそ、直後のトリシューラの言葉は意外だった。

「できればちゃんと帰ってきてね」

 トリシューラはコルセスカと違い、俺を生かしておく理由が無いはずだ。医者などの社会にとって重要な立場を有するものは、利益を度外視して役職を果たさねばならない信認義務を負う。が、それは地球上の話である。その上彼女はもぐりの医者だ。利益が優先されるに決まっている。そこまで考えて気付いた。ああ、つまり。

「だって治療費、まだ払ってもらってないし。まさか踏み倒さないよね?」

 死ねば俺は恩人に盗人として扱われるというわけだ。正直そんな不名誉は被りたくないので、とりあえず頷いておく。いずれにせよ、死ぬつもりは無い。

「私はちょっと事情があって外には出られないんだけど、成功を祈ってる。代わりと言っては何だけど、真上から投下してあげるから、あとは頑張ってね」

 どういう意味か分からず、首をひねっていると、手招きされる。先導するトリシューラに付いていくと、やや手狭な一室に出た。彼女が壁面に取り付けられた操作盤をいじると同時に、部屋の床面がゆっくりと左右に割れていく。スライド式のドア、いやハッチと言うのかこれは? 慌てて飛び退いたから良かったようなものの、落とし穴にもなりかねない仕掛けだった。

「今、真上だから。飛び降りれば奇襲できるよ」

「真上? どこの?」

「第六階層のだよ、もちろん。座標は動画から解析できたから、あとは簡単。あのね、動画の情報ソースとしての確度って再生回数によって変動するの。『動画の価値は再生回数に依存する』という動画信仰が、その呪力によって動画そのものの情報量を拡張する。逆説的に、正確な動画は爆発的に再生回数が伸びるんだよ。あの動画、さっき投稿されたばかりなのに不自然に再生回数が伸びていたでしょう? ああいうのは探知が楽」

 何を言われたのだか、全く意味がわからない。異世界の言語か何か?
 そういやここは異世界だったな。

 開いた穴の先は底がないかと思うほどに暗い闇だ。地面が広がっているでもない、ただ光がないというだけの空洞。はっきりいって異常だ。なぜなら、ここが第五階層であるなら床の下には階層の地面が広がっていなくてはおかしい。穴でも掘っていたのだとしても、それがここまで深い穴だということがあるのだろうか。

「ここは厳密には第五階層じゃない――ううん、違うかな。第五階層だとかろうじて言える領域である、とした方が実態を表している。ここはね、アキラくん。第五階層と第六階層の境界にある空間なんだよ」

「っていうと、階層を繋いでる階段みたいな場所か?」

 以前、階層間を移動した時に見た異質な空間を思い出す。世界槍内部の各階層は、物理的な構造として繋がっているわけではない。位相の異なる亜空間が、掌握者の意思によって階段で繋げられているのだという。これもまた呪術的な力であるようだが、詳細な仕組みは俺にもよく分からない。どうやらこの建物は、階層を繋げている階段があるのと同じ、階層間の狭間に位置しているらしい。

「この建物は呪術医院であり、同時に私の工房であり船でもある。特性は、第五階層を自由に移動できること。欠点は第五階層から離れると自壊しちゃうことかな。なにしろ第五階層の創造力で存在しているからね」

 つまり、第五階層にある他のインスタントな建造物と同じというわけだ。だがその高度さは比類がないと言っていいほどに思える。俺などは建造物というのもおこがましいレベルの箱しか創造できないが、トリシューラは一体どういう図面を頭の中で引いているのか、移動する機構を持った建物を創造しているらしい。しかもその移動範囲は空間の狭間にまで及ぶという。コルセスカが宿にしている氷の家にも度肝を抜かれたが、これはそれ以上だ。創造される建造物の質はその作り手がどれだけ精緻なイメージを頭の中で描けるかに依存する。トリシューラには一流の建築家、ないしは技術者や画家といったたぐいの才能があるとしか思えない。

「そういうわけで、こっから落ちてけば最短で目的地にたどり着けるよ。まあ墜落死の心配はセスカがいればないでしょ。私も手伝ってあげたいけど、諸事情あって今は身を潜めていたいんだ。だから協力はここまで。ごめんね」

「いや、充分助かる。貴方は俺に何の義理も無いはずなのに、ここまでしてくれてるんだ。むしろ礼をしてもし足りないくらいだ」

「わあ殊勝な態度。セスカー、ちょっとアキラ君を見習って私にお礼とか言ったらー?」

「お断りします。今回の事で貴方に貸しを作ったつもりはありません。そもそもなれ合うような間柄では無いでしょう」

 コルセスカの冷ややかな反応。二人は同じ組織に属している呪術師だというが、その間柄は単純に親しい同僚とかそういうものではないようだ。トリシューラの方が一方的に気安く愛称で呼んでいるだけで、コルセスカの方にはそういった親密な感情は存在しないのだろうか。

「ひどいなあ。怪我したアキラくんを治療してあげたのは私なのにねー」

「自分から申し出ておいて、恩着せがましい。貴方がアキラを助けようとするのは徹頭徹尾、己の為でしょう」

「それは、セスカも同じだよね」

 空気が張り詰める。冷気じみた敵意を発散するコルセスカと、その威圧を不変の笑顔で受け流すトリシューラ。両者共に常人を超越した呪術師であることを考えれば、気の弱いものなら卒倒してもおかしくないほどの修羅場である。これから赴こうとしている戦場よりこの場所のほうが危険なんじゃないだろうか。

 しかし、トリシューラが自分から俺を助けにきたというのは意外な事実だ。てっきり俺は、コルセスカが俺の治療のために知己の医者を頼ったのだとばかり思っていたが、事実は異なっているようだった。

 やはりトリシューラもまた、油断できる人物ではない。当たり前の前提だが、これではっきりとした。しかし同時に、この二人の魔女は今の俺にとって必要な力でもあった。

 いいだろう。彼女たちが俺を利用したいというのならせいぜい値段をつり上げてやろうじゃないか。俺の方でも存分に使い倒してやる。

「ま、いいんじゃないのか。俺も利他的な人間とは言い難い。他人を助けようとする行為も、突き詰めれば自分の利益の為。大抵の人間っていうのはそういうものだろう。今だってそうだ」

 懐から呪符を取り出して、落下の準備を始める。既に意識は下界に向いている。というかあと一秒だってこんな空間に居たくない。俺はむしろ、この魔女たちが怖いのだ。

「人質を助けるのなんざついででいいだろ。俺の目的はリターンマッチだ。俺を負かしたあいつをぶちのめす。俺を敵と見なした奴らを残らず肉塊に変えてやる。俺の敵を俺が潰す」

 俺、俺、俺と、やかましいほどに主語の全てが俺だ。動機は俺の為、ただそれだけでいい。静かに気炎を上げる俺を見て、二人は何を思っただろうか。知ったことではないと、この身を闇の中に躍らせる。いまはただ、何も考えずに暴力の中に身を埋めたい。迷宮は利己主義者たちの醜悪な欲望が渦巻く世界だ。血の臭いと暴力の音の波に飲まれれば、この場所の醜さを一時だけであっても忘れることができる。それはきっと、最上の気晴らしであり現実逃避になる。重力に身を任せ、無明のただ中を落下するその最中、ふと思い出した。
 アズーリア。
 脳裏に響き渡る言葉。糧食の贈与。放り投げられたマント。あれはいったい、どのような意図の下に行われたのだろうか。それが知りたくて、俺は未だにアズーリアを求めているのかも知れなかった。

 

 

 
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