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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第3章 特権者のヒロイック・シンドローム、さもなくばアズーリア・ヘレゼクシュの憂鬱

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3-20 言語魔術師の弟子(後編)


 影の世界と無数の夢を切り裂いて、二つの影が疾走する。
 私は翼を広げ、迫り来る様々な幻獣たちの追撃を振り切ろうと加速した。
 ステージの上で歓声を浴びる誰かがいる夢の世界。
 華やかなその光景を貫通しながら私に迫り来る呪文攻撃。
 急制動。回避した光線は分裂して私を追尾してくる。

「だからっ、戦いたくないって言ってるのに!」

 後ろ肢から伸ばした無数の影で迎撃。
 感応の触手は厚みのある影となって呪術を絡め取る。
 枝角を振って追跡してきた独角兎を跳ね返して、私はしつこく攻撃を仕掛けてくるハルベルト――本人の自称によればヴァージリアを睨み付けた。

「あなたの意思なんて関係無い。勝手にやらせてもらうだけ」

「自分勝手にっ」

 振り下ろされた斧槍と枝角が激突する。
 短い衝撃の後に、私とヴァージリアの距離が開いていく。
 吹き飛ばされていった先は、穏やかに両親や妹と生活している私がいる夢。
 ぶちこわしになった幸福が砕け散って霧散していく。
 反対側にいるヴァージリアも何らかの世界を壊しているようだ。
 私たちの戦いの余波で無数の夢は次々と破壊されていくが、その数は一向に減ることが無い。
 私たち夜の民は摸倣と複製を得意とする。
 当然、その根源である創造主は現実に迫るどころか実際の質感を凌駕するほどの精巧な夢を形作る事が可能だ。
 逃げ出す事なんて決してできない。
 騙されていた事、利用されていたことはわかっているけれど。
 それでも、私はこの夢の中にいるのがお似合いだと思う。
 向かってくるヴァージリアの瞳は、いつになく必死だった。

「わからずやっ」

 その言葉も、驚くほど激しく、強い。

「どっちがっ」

 交錯する。
 幾度となくぶつかり合う。
 勝った方がハルベルトだなんて、馬鹿げている。
 私とヴァージリアが争う理由なんて何も無い。
 どっちかが死ぬだなんてそんな選択肢は選べない。
 なのに、彼女はその二択を突きつけてくる。どこまでも強引に。
 ヴァージリアは私を救い出しにここまでやってきた。
 だとしたら、そんなことを言い出す理由は一つだ。
 彼女はわざと負けて、自らの命と引き替えに私を救おうとしているのだ。
 多分、ハルベルトとしての役割を私に託して。
 ふざけるな、と思った。

「私に、貴方の遺志を継げとでも言うの!? ふざけないでっ」

「ふざけてない」

「そうやって、人の事を振り回してっ」

「言ったはず。あなたは『ハルのもの』だって。ならあなたは、ハルベルトの使命を果たすべき」

「私がなりたかったのはそんな名前だけの使い魔じゃないっ」

 枝角を前にして突進し、翼で仮想使い魔を振り払い、影の触手を伸ばして。
 何度も何度も衝突して、沢山の呪文ことばで殴り合う。

「私は貴方がハルベルトだから力になりたいと思ったんじゃない。ハルベルトの役割だけ引き継いで、末妹になったから何だって言うの。そこに貴方がいなかったら、何の意味も無いのに!」

「その呪文、そのまま返す」

 私が感情のままに解き放った呪文を、ヴァージリアは冷静に受け止め、そのまま跳ね返す。 
 属性を書き換えられて【反撃】の性質を帯びたその呪文は、その意味を反転させて私に直撃する。
 私は自らの呪文に――そしてヴァージリアの想いに打ちのめされた。
 ヴァージリアだけじゃない。
 斧槍から放たれる色とりどりの光が私に直撃するたび、懐かしい記憶が私の中に流れ込んでくる。
 どうして忘れていたんだろう。
 あんなにも大切に感じていた黒百合宮での思い出たち。
 煌めくような記憶が、偽りの夢を打ち砕きながら私を通り抜けていく。
 広大な空間を駆け巡り、激突し、光線を撃ち合いながら、私はこんなことが前にもあったと懐かしさを感じていた。
 彩石の儀。
 瞬きの間に過ぎていった競い合いの日々。
 私はあの世界を駆け抜けて、様々な色彩を見て、感じて、そして――自分自身を取り戻した。
 私――アズーリアって、誰のこと?
 どうして空は青いのだろう?
 子供じみた問いだけど、それは切実で剥き出しの生存欲求だ。
 この広大すぎる世界で、私は余りにもちっぽけで。
 だからこそ、何か確かなよすがが欲しい。
 繰り返し繰り返し、私は問い直す。
 どうして空は青いの?
 その答えに手が届きかけた時、金眼の輝きが甦る。
 ――お前は、存在しない。
 かつてエスフェイルに告げた存在否定。
 私は幻。
 人ならざる幻想に過ぎない。
 疑似細菌という知能無き機械の群れだという硬質な事実が、私の心を無数の泡に変えていく。
 けれど、色褪せたシャボン玉になって弾けて消えようとしていた私を、繋ぎ止めようとする者がいた。
 身体の中心に突き刺さった斧槍から、最後の思い出が拡散し、私の心の中に浸透しようとしていた。

「ここで終わりなんて許さない」

 力強く宣言するヴァージリアに、私は震える声で言い返す。

「私だって、終わりたくないよ。ビーチェに会いたい。お父さんとお母さんに会いたい。みんなの所に帰りたい」

 視界が滲んで、涙が溢れていることに気付いた。
 ここは非現実なのに、現実みたいな細部の忠実さが少しおかしかった。
 私を現実に引き戻そうと、ヴァージリアが必死に声を張り上げる。

「なら、諦めないで」

「でも、そんな感情だって嘘なんだよ。私は本物じゃない。この感情も思考も、機械的に摸倣しただけの偽物なんだ。私は、人間のシミュレータでしかない。そうだって思いながら、今まで通りに生きるのなんて無理だよ」

 それを『だからどうした』と切り捨てる事ができる人もいるんだと思う。
 けれど私は、『それは生ではなく空虚な死である』というガルズの世界観に飲み込まれてそれを確信してしまった。
 邪視者の能力は世界観を拡張すること。
 他者の世界観や認識、自己像すら改変してしまう彼の空虚に、私という幻想は決定的に敗北してしまっている。

「幻想が現実に勝てないなんて、誰が決めたの」

 黒玉の瞳が、強く輝いている。
 呪文は四つの系統で一番遅い。
 だからといって、杖や邪視、使い魔に劣るわけでは無いのだと。
 呪文の座の誇りに賭けて、彼女は言葉を紡いでいく。

「言理の妖精語りて曰く」

 はっと息を飲む。
 ヴァージリアの口から発せられたその言葉、その呪文を、私は良く知っている。

「覚えてる? これは、あなたが私たちに教えてくれた最初の呪文」

「私、が――?」

 呆然として問い返す。
 知らない記憶、まだ思い出していない最後の記憶だ。
 その時に、一体何があったのか。
 言理の妖精エル・ア・フィリスとは、一体何なんだろう。

「思い出して、あの時のことを。死んだというのならそれでもいい。思い出の中から甦らせて、もっと強くて新しい、最高の使い魔に転生させてみせるから」

 私の中で斧槍が強く熱を発して、私は視界が光に包まれるのを感じた。
 そして、景色が塗り変わる。
 朝と夜とが入り交じるそこは、懐かしい漆黒の学舎。
 黒百合の子供たちが過ごした青い時代、その最後の日々。



 俯瞰する視点で、私は過去の映像を追体験していく。
 空からゆっくりと舞い降りる幼き日の私。
 その傍らで、同じようにゆるやかに落下してきているリーナが小さく呻いて目を覚まそうとしていた。
 異変を察知して裏庭に集まってきていた黒百合の子供たちに、その教師たる姉妹が三人。

「何なの、あれ。マリーはどうしちゃったの?」

 プリエステラが呆然と見上げる先で、小さな私の左手で闇が蠢いた。
 全身を取り巻く輪郭の曖昧な『何か』は渦を巻くように流動し、圧倒的な呪力でもって周囲を威圧していた。

「呪力波形を解析、検索。超古代文明の人工妖精、【言理の妖精】であると推測するわ。予言にある最初の魔将というやつね。と姉様が仰っています。セリアもそう思います」

 セリアック=ニアが――というより背後で浮遊する半透明のリールエルバがそう分析する。
 ミルーニャ――この時にはメートリアンと呼ばれていた少女が眉根を寄せて小さく呟く。この頃には身内の中でならある程度はっきり喋ることが出来るようになっていた。

「魔将って、地獄の? なんでそんなのがここに――っていうかどうやって侵入したんですか、目的は?」

「さあ、そこまでは分かりかねるわ。けれど、伝承によれば言理の妖精は実体の存在しない語り部。地上に攻め入るための寄り代を探してここまでやって来たのだとすれば納得はできる。何しろこの黒百合宮には地上有数の霊媒が集まっているのだから。と姉様は仰っています。セリアもそう思います」

「前から思ってましたけど、セリアック=ニア、そのお追従いらないです。あっ、ていうかあの雲の落書きは何ですか! リーナですね?! ちょっとそこで寝てる馬鹿リーナ、さっさと起きて状況説明しなさい!」

 メートリアンが頭上で浮遊するリーナを睨み付けて叫ぶ。
 寝ぼけ眼のまま身を起こした彼女は、周囲の状況を把握してぽかんと口を開けた。すぐそばにいる私を見て、今までの事を思い出したのだろう、おずおずと呼びかける。

「アズーリア?」

 その名前は誰もが知らないものだったが、それがマリーの事であると即座に承認され、認識は共有された。
 それが私にとって最も相応しい名前であるのだと、誰もが最初から知っていたようにアズーリアという名前が世界に確定し――他者による宣名という変則的な手続きを経て、私はその存在を強固にしていく。
 喉に闇がわだかまり、口が開き、舌が動く。

「みんなの心を、私に聞かせて?」

 私が音声言語を発した事を、誰もが驚きながらも自然に受け入れていた。
 だからこそ、その瞳に人ならざる飢えを宿している事もまた当然なのだと全員が理解した。
 私は――幼き日のアズーリアは豹変していた。
 大人しい夜の民ではなく、内側に何か得体の知れない存在が入り込んだ脅威。
 第一魔将は、松明の騎士団の守りを突破して人知れずこの黒百合宮に潜り込み、私を寄り代として降臨したのだった。
 それを脅威と認識した瞬間、私の安全と他の生徒たちの安全を秤にかけていた姉妹たちの一人が動き出した。
 冷酷な判断を下したその姉妹――星見の塔第五位、【栄光の手】ディスペータお姉様は豊かな蜂蜜色の金髪を靡かせながら高々と跳躍した。
 守護の九姉の中で最も勇猛で優美で妖艶な、生と死を統べる女王。
 かつて神々に戦いを挑み、アエルガ=ミクニー、ペレケテンヌル、そして失われた神ハザーリャの三柱から権能の一部を簒奪した恐るべき力の持ち主である。
 黒百合の子供たちは、魔将という脅威の存在に怯えつつも、彼女がいると分かっていたからこそ恐慌をきたし、慌てふためいて逃げ惑うような事は無かった。
 絶対的な実力者に守られているという安心感。
 幼い私――否、フィリスに相対した守護の九姉の勇士は凄烈な美貌に敵意を宿し、灰色の瞳から邪視を放って対象の動きを束縛する。

「『おいた』は駄目ですよ――最初に約束しましたよね?」

 黒百合宮に足を踏み入れた時に、黒百合の子供たちはディスペータお姉様と約束を交わす。
 この黒百合宮の中ではお互いの命を危険に晒すような呪術の使い方はしないこと。ただし、競争の範囲内での呪術行使ならば可とする。
 秩序を維持するための誓言――それ自体では無害だが、それに背いた場合には仮死と世界からの追放という重い刑罰が強制的に下される。
 不死なる神々ですら逃れられない誓約の絶対遵守。
 期限付きとはいえ、途方もなく重い罰則は子供たちを震え上がらせた。
 「いじめっ子は宇宙漂流ツアーですよ~」とにこにこしながらメートリアンをいじめるヴァージリアの頭を優しく撫でたり、「人のものを盗んだらめってしちゃいますからね、めって」と言いながら解剖用の蛙を潰したりするディスペータお姉様に逆らおうとする者などこの世界に存在するはずがない。
 誰もがそう信じていたから、フィリスが、

「邪魔」

 と言って左手をディスペータお姉様に向けた時、揃って絶叫した。

「に、逃げてマリー! じゃなくてアズーリア?」

「どうでも良いですよ! っていうかリーナもやばい位置ですよあれ?!」

「さようなら使徒様、貴方の事は忘れないわ。と姉様が仰っています。セリアもそう思います」

 耳の聞こえないヴァージリアだけは訳が分からず、けれども異常事態であることだけははっきりとわかる光景に、目を見開いている。
 守護の九姉第五位の背中に、異界を思わせる青が広がっていく。
 悠久の流れ、大いなる冥府の大河が空間を切り裂いて流れていくと、淡い色遣いが繊細で幻惑的なあの世の光景を具現化していく。
 呪術の奥義、浄界の発動の兆しだった。
 そして、ディスペータお姉様の裁きが下ろうとしたその時。

「言理の妖精語りて曰く――ディスペータの解析と解体を実行」

 無彩色の左手が明度の無い光を放ち、その瞬間世界が切り替わった。
 ディスペータお姉様という絶対者が支配する王国から、フィリスという妖精が弄ぶおとぎ話の遊び場へと。

「解体――失敗。対象は複数の【紀】を有する再帰的な連関構造体と推察され、単純な解体は不可能。アプローチを変更し、起源に遡って存在の逆流を実行。過去に放逐します」

 フィリスを渦巻く呪力が、ディスペータお姉様を絡め取っていく。
 単純な呪力の力強さにおいてならば九姉屈指とも言われる女性は、あまりにもあっけなくその渦に飲み込まれていく。

「これは――」

 息を飲んで、さっと灰色の視線を巡らせてすぐそばにいたリーナを捉える。
 そのまま眼力のみで地上へと押して安全な場所まで逃がすと、鋭く叫ぶ。

「全員、すぐに逃げて――」

 言い終わらぬ内に、その全身に驚くべき変化が現れる。
 ディスペータお姉様は成熟した女性である。不老である女神の眷族の中にあって、美しい妙齢の肉体年齢のまま悠久の時を重ねる美貌。
 すらりと伸びた背筋と手足、ほっそりとしていながらも肉感的な体つき、霊長類にとっては母性を感じさせるという豊かな胸元――そうした全てが、見る見るうちに縮んでいくのだ。
 あっという間に子供たち以上に幼い姿となったディスペータお姉様は、そのまま歪んでいく空間の中に飲み込まれて消失してしまう。
 起源に遡る。存在の逆流。
 フィリスの言葉を信じるのならば、それが何時なのかは分からないが過去に送り込まれてしまったのだろう。
 同時に世界が改変され、ディスペータお姉様という存在そのものが始めからいなかったかのような認識が周囲の子供たちにも刷り込まれていく。
 その中でただ一人動けたのは、直接の弟子であった『妹たち』だけ。

「よくもお姉様を! と姉様が仰っています。セリアもそう思います」

 その瞬間だけはただの追従ではなく、本心からの怒りを滲ませてセリアック=ニアが言い放った。
 三角の耳がぴんと立ち、縦に裂けた瞳孔に敵意が満ちる。
 師との誓約すら忘れて、ドラトリアの姉妹姫が浮遊する。背後霊であるリールエルバが両手を広げて無数の文字列を出現させ、セリアック=ニアは自らの影から無数の球体を出現させていく。
 色とりどりの球体は空中で一抱えほどもある大きさに膨らんで少女の周囲を乱舞する。
 少女の細い手指から伸ばされた鋭利な爪が大気を引き裂いてフィリスに迫る。
 それは容易く回避され、続くリールエルバの呪文もあっさりと崩壊。
 姉妹が操作する無数の球体が連結し、奇怪な人型を作り出す。
 セリアック=ニアの瞳が宝石の如く輝いた。

「お願い、ナーグストール!」

 少女の耳と爪が輝き、異形の球体群がフィリスに襲いかかる。
 無数の球体が拳となってフィリスに激突した。
 するとフィリスの肉体が手先からバラバラになり、無数の球形の肉塊となる。更には順番に硬質な鉱石、美しくカットされた宝石へと変化していく。
 石化――もしくは宝石化とでも呼ぶべき術。
 猫に取り替えられた子、セリアック=ニアの奇怪な呪術によって無数の宝石となっていくはずのフィリスは、しかし全く動じた様子も無く再び呪文を唱える。

「言理の妖精語りて曰く――対象を解析、異界の幻獣【猫】による事象改変を確認。異界の言理に従って解体を実行」

 宣言に従って、左手が紡ぐ呪文が全てを無かったことにしていく。
 フィリスの宿った私の肉体は元に戻っていき、巨大な球体巨人は連結を切り離されて力を失い、そのまま縮んでセリアック=ニアの影の中に帰っていく。
 巨大な呪力がフィリスから放たれ、セリアック=ニアとリールエルバが地上に叩き落とされる。
 時間稼ぎにと飛び上がったミブレルお姉様がその身体を拡散し、残った最後の一人――黒百合宮に常在して私たちを見守ってくれていた『クリア先生』がお菓子の群れを生み出して障壁を張り巡らせながら私たちを集めてその場所から離脱しようとするが、既に手遅れだった。
 フィリスの紡ぐ呪文によってミブレルお姉様の雲の身体は千切れ飛びながら空に浮かぶ無数の雲の一部となり、お菓子の障壁を貫通した解体の呪文がクリア先生の身体を包み、無力な白黒の小ウサギに変えてしまう。
 フィリスの前ではあらゆる力が無意味と化す。
 魔将が紡ぐ呪文によって、子供たちも次々と餌食になっていく。
 リーナが体内から飛び出した血の色の鎖で雁字搦めに縛られて意識を失い、プリエステラが周囲から伸びてきた草木に飲み込まれて同化していき、メートリアンが膨張しながら蠢くだけの真っ白な肉塊となり、セリアック=ニアは宝石の彫像に、リールエルバはアストラルの手足が細くやせ細りそのまま壊死して気を失う。
 かろうじて、メイファーラだけがわけも分からず呆然とするヴァージリアを抱えて呪文を回避し、逃走することに成功した。
 第三者として過去を眺める私の視点は、二人を追いかけていく――当然だろう、これはヴァージリアの記憶を元にした回想なのだから。
 十四歳のメイファーラはもうすっかり身体が出来上がっていて、身長も今と大差無い。平均的な霊長類の成人男性よりやや低い程度の、女性としてはすらりとした身長と長い手足で、現在よりは小さな十一歳のヴァージリアを抱えて走る。
 メイファーラが何かをしきりに口にしているが、それはどうしてか無音だった。
 先程までのやりとりは、無音の映像に後でメートリアンから教えてもらった音声を当て嵌めて再構成した記憶なのだ。
 だからこの瞬間にメイファーラが何と言っているのかはわからない。
 けれど――彼女は泣きそうな顔をしながらしきりに一つの事を言い続けているようだった。
 余りにも同じ事ばかりを言うので、流石にヴァージリアにもその唇の動きで何を言っているのか理解できた。
 メイファーラは、ずっと謝罪の言葉を口にしていた。
 剥き出しの手でヴァージリアの身体を強く抱きしめて、何度も何度も。
 ふと、些細な違和感に気付く。
 あの頃、いつもメイファーラが着けていた手袋が、今は存在していない。
 呪力を遮る布――今にして思えば、それは接触感応や過去視の力を制御するための物だったのだが、あれはどうしたのだろう。
 彼女がその能力を制御できるようになったのが、この時だということなのだろうか――それとも、他に何か理由が。
 そこまで考えた時、メイファーラとヴァージリアは黒百合宮の玄関に辿り着いていた。
 そして絶望する。
 正面に回り込んでいたフィリスは、浮遊しながらゆっくりと左手を伸ばす。
 無表情なままに小さく呟く。
 その声は聞こえなかったけれど、何と言っているかは明らかだ。
 メイファーラはヴァージリアを突き飛ばして、自ら盾となり――そして、全身から鱗を浮かび上がらせ、蜥蜴のように変異した肉体がゆっくりと倒れていった。
 最後の一人になってしまったヴァージリア。
 フードが落ちて左右非対称の耳が露わになった彼女の目の前に浮遊するフィリスが、左手を伸ばして呪文を唱える。
 震えながら、ヴァージリアが手を伸ばす。
 ぴくりとフィリスの左手が動いて、その動きが止まった。
 ヴァージリアは変貌してしまった幼い私を見る目に微かな希望を宿らせて、強く呼びかける。
 そして、恐る恐るといった風に立ち上がって、そっと左手に両手を被せた。
 ああ、そうか。
 その光景を見ながら、私は納得が胸にすとんと落ちてくるのを感じていた。
 私は、あの時も彼女に救ってもらったんだ。
 その存在が何者かに脅かされて揺らぎそうになった時、彼女の存在が私を繋ぎ止めてくれた。
 触れ合った手の感触、震える声、綺麗な黒玉の瞳。
 そうだ、と私は思い出す。
 幼い私は、フィリスに奪われかけていた身体の制御をかろうじて取り戻し、自分の存在を確かにするためにヴァージリアの呼びかけに応える。
 けれど――なんてことだろう。
 私の小さな声は耳の聞こえないヴァージリアには届かない。
 帳面も端末もここには無い。
 力の無い私の声は、こんなにも近くにいる彼女に伝わらない。
 もどかしくて、何度も何度も私はここにいるとフィリスの中から叫ぶけれど、それはどうやっても伝わらない。
 名前を取り戻したはずなのに、声を取り戻したはずなのに。
 その声では、どうやってもヴァージリアには届かない。
 そうしている内に、私は一時的に取り戻した身体の支配権をフィリスに奪われ、また心の奥底に押し込められそうになる。
 そうしてフィリスは悪意に満ちた呪文を発動させる。
 他の子供たちに対してそうしたように。
 その存在を悪意的な解釈で書き換えて、死よりもおぞましい運命を与えようとしているのだ。
 フィリスはヴァージリアの全身を蠢く膨大な呪いに言及し、それを与えた彼女の母親と師の非道さを糾弾した。
 そして、それを本心では苦痛に感じているヴァージリアの内心を暴き立て、束縛や期待に押し潰されそうな幼い心をちくりちくりと刺していく。
 それは言葉の棘だ。
 太陰の王女として、星見の塔の魔女として、誇り高くあろうとするヴァージリアの意思を否定して、それは過酷な現実を合理化した諦めに過ぎないと宣言する。
 強がってはいても、所詮は脆く幼い子供なのだと。
 虐待に晒された幼子の戯れ言、呪われた忌み子の無力な叫びでしかないのだと繰り返し言い聞かされ、次第にヴァージリアの表情が絶望に染まっていく。
 耳が聞こえない彼女の心に直接届く事象の再解釈。
 力強い魔将の言葉によって、胸に抱いた決意は容易く書き換えられ、やがて他の子供たち同様に絶望の中に囚われていく。
 やがて、呪いの言葉がヴァージリアの全身を真っ黒に覆い尽くしていった。
 全てが終わろうとしていた。
 嫌だ、と私は思った。
 幼い私が、過去を回想する私が、それだけは絶対に嫌だとその光景を拒絶する。
 声も出せずに闇の中に沈んでいく絶望。
 遠ざかっていく妹に、ヴァージリアが重なる。
 繰り返したくない、取り戻したい、もう一度機会があれば、私は絶対に言葉を届かせてみせる。
 幼い私は、闇の中で翼を広げた。
 青く透き通った羽で内的宇宙を駆け抜けて、その中枢で私の存在を掌握する曖昧な『何か』――フィリスへと戦いを挑む。
 私の言葉はどうやってもヴァージリアに届かない。
 なら、その現実をねじ曲げて届くように変えてやる。
 あらゆる不条理を実現する力。
 幼い私を乗っ取ろうとする敵であるフィリスの力を利用して。
 私の声を奪い、まさにヴァージリアに向けて呪文を解き放とうとしていたフィリスに干渉する。発動そのものを阻止するのではなく、呪文の内容を書き換えて、力の方向性に抗うのではなく利用する。

「言理の妖精語りて曰く」

 悪意に満ちた解釈でヴァージリアの全身を蝕む呪いを暴き、母親と師からの想いを変質させようとしていた呪文。
 その全てが反転し、私の言葉として書き換えられた。

「ヴァージリア――あなたにかけられた呪いは希望。いつか末妹になるという目的の原動力となる欠落であり渇望。聴力を失っているからこそ、いつかお姉様の歌を聴きたいと願う。呪われているからこそ、末妹となって呪いから解き放たれたいと願う。それは束縛だけれど、同時に期待でもある」

 母からの、そして師からの束縛と呪い。それは裏返せば期待であり、かけられた愛情の重さだ。
 同じ事実であっても――それは見る角度や距離によって容易く色合いを変える。

「その身を蝕む呪いは猛毒。末妹になれなければあなたの命を砕き、呪いをかけた術者の命もまた砕かれる。責任と対価は重く、呪いの色はどこまでも黒くおぞましい。けれど、諦めないで!」

 私の干渉をはね除けようと激しく抵抗するフィリスを必死に抑え付けながら、私は私の口を操って叫ぶ。
 届かないはずの言葉が、左手から放たれる隠された呪文によって世界を書き換えてヴァージリアの周囲を取り巻いていく。
 その喉に、その耳に、色のない闇が宿る。

「その呪いはあなたを守る愛情であり、あなたの為に用意された武器でもある。末妹になれなければ呪いは死の運命を確定させるけれど、逆に言えば末妹になることを諦めない限り、あなたは絶対に死なない。呪われた運命があなたの意思を守り続けるから」

 言うなればそれは不死なる意思。
 心が折れない限り、諦めない限り、ヴァージリアに敗北は無い。
 それは、ちっぽけな人の身である彼女に与えられた、人外の競争相手たちに対抗する為の最強の武器だ。
 ヴァージリアの全身を覆う呪いが、肌を這って身体の中に戻っていく。

「ねえ、ヴァージリアの願いはきっと叶うよ。諦めない限り、意思ある限り、あなたは絶対に幸福になる。あなただけじゃない、あなたの大切な人だってみんなみんな幸せにできる。呪いはいつか、祝福に変わるから」

 左右非対称の両耳が淡い光に包まれていく。
 はっと黒玉の目が見開かれ、ヴァージリアはそっと両耳に手を当てる。
 そして、信じられないというように小さく呟いた。

「これが、音?」

 小さな、掠れたような声。
 ゆっくりと頷いて、私は彼女の両手にそっと触れた。

「強固な現実は乗り越えられる。柔らかい呪文を唱えれば、それは簡単なこと。それを教えてくれたのは、私のお師様なんだよ。私より呪文を知っているジルになら、世界にかけられた呪いを解くことだってできるよ。死の囀りという呪いを、歌姫という美しさで書き換えることだって、きっと」

 多分、それが始まりだった。
 歌姫という称号を綺麗なものとしてこの世に甦らせるための第一歩。
 そして、私たちがお互いを確かめ合い、呼びかけ合った最初の瞬間。
 私たちには、自分が口にするべき名前が理解できていた。
 今まで一度もそんなふうにして相手に呼びかけたことはない。
 けれど、それが正解なのだともう知っていた。

「アズーリア」

「ハルベルト」

 二つの存在はお互いによって認められて、それは自らの認識と固く結びついて世界に強く刻み付けられる。
 世界の構造――紀元槍にすら届く呼びかけがフィリスの支配に打ち勝って、圧倒的な力を有するはじまりの魔将は私の中に閉じ込められてしまう。
 それから、私たちは頷き合うと、声を揃えて歌い始めた。
 それは呪文。
 絶望を塗り替えて希望へと導く、呪いへの対抗呪文。
 高らかに歌われた言葉が黒百合宮に響いていくと、黒百合の子供たちが元の姿に戻っていく。
 呆然として、わけもわからずに辺りを見回す少女たちの上から、雲になっていたミブレルお姉様が降ってくる。
 小さな白黒兎に変えられていたクリア先生は何故かその姿が気に入ったみたいで、そのまま手を叩いてお菓子を生み出してはみんなに配っていく。
 危機が去ったことで安心したみんなは、不思議そうな表情をしながらもお菓子を口に運んで、ほっと一息。
 けれど、過去に送られたディスペータお姉様だけは元に戻す方法がわからなくて、その事件で唯一の被害者となってしまった。
 弟子であったリールエルバはうつむき、セリアック=ニアはその時はじめて私たちの目の前で涙を見せた。
 私は慰めを口にした。

「きっとあのディスペータお姉様なら、過去の世界から今の時代までずっと元気にしているよ。だから必ずまた会える」

 セリアック=ニアは、これもまた彼女としてはとても珍しい憎しみの感情を目に宿して私を睨み付けたが、その身体を半透明の腕が優しく包み込む。

「使徒様の仰る通りだわ。落ち着いてお姉様の帰還を待ちましょう、私のニア。そして、私たちを救ってくれてありがとう、使徒様」

 そうして、私たちに日常が戻って来た。
 お姉様方は事後処理に奔走し、子供たちの心身に異常が無いかを念入りに検査し、更には空席となってしまった第五位の代理が誰にするかという事で揉めに揉めたらしい。
 その後、彩石の儀で勝利して【万色】の称号を得た者を末妹候補を通り越して第五位代理にするという宣言がされ、全員が色めきだった。
 特に直接の弟子であったリールエルバとセリアック=ニアは目に見えて実力を伸ばし、怒濤の勢いで一位争いをしている私やヴァージリアに食らいついて来た。
 魔将が黒百合宮に侵入した原因はお姉様方によって念入りに調査されたがわからずじまいで、結局警備が強化されただけ。
 厳重な警戒網の目を盗みながらリーナと一緒に空中散歩を楽しんで、その挙げ句ミブレルお姉様に捕まってお説教をされる事が増えたけれど――その他にはこれといった変化も無く、いつものように勉強に励み、その合間にお茶会を楽しむ。
 私とヴァージリアが喋れるようになっても、葉っぱの手紙でやり取りする習慣は終わらなかった。
 その秘密めいた伝言板は、私たちにとって儀式のようなもの。
 そう言えば、一つだけ小さな変化があった。
 葉っぱの伝言板――言葉の空間で、私たちは小さな妖精を飼う事にしたのだ。
 私たちの交わす文字の隙間を泳いで、その言葉尻を捕まえてはひっくり返して悪戯する妖精。その名はフィリス。
 私は身体の支配権を取り戻し、フィリスを完全に屈伏させた。
 しかし、存在そのものが完全に私と同化していたため、引き剥がせば私の存在を揺るがしかねないという困った状態にお姉様方は頭を抱えた。
 仕方無く、慎重に観察しながら私が制御を誤らないよう見守ることになったらしいのだが、私はそんなことには頓着せず、

「もう怖くないよ。言理の妖精なんて、仕組みがわかれば大した事ない!」

 などと調子に乗り、その力を自在に操って呪文を使って愉快な遊びを片っ端から試していった。
 フィリスを小さな妖精として矮小化させ、言葉の狭間に住まわせて使役したり、それを全員でつつき回して慌てふためく様子を観察したり。
 実のところ、フィリスは言葉の解釈をひっくり返す習性があるだけの悪戯好きの妖精に過ぎない。
 恐ろしく見えた魔将も、視点を変えれば大した事のない存在なのだ。
 そもそもが第一魔将、その力は魔将の中でも最弱である。
 使い方次第では万能だが、単体では何の力も持たない。
 私たちはさんざんやり込められた恨みを晴らすべく、ひっくり返しても意味が通るような言葉を投げかけたり、全く出鱈目で解釈のしようがない言葉をぶつけたりしてフィリスを困惑させた。
 ディスペータお姉様がいなくなったことで、黒百合の子供たちの残虐さには歯止めがかからなくなっていた。
 フィリスをいじめる残酷な言葉遊びは際限なく進歩していき、ヴァージリアが言葉の意味や音を複合的に重ねる架空言語を考案し、リールエルバがその時制を滅茶苦茶にして、リーナが次々と新語や略語を生み出していくまでになると、フィリスはすっかり疲れ果てて言葉の狭間でしょんぼりとするようになっていた。
 哀れに思ったのか、時折メイファーラが辞書や物語を片手に普通の言葉を与えようとするのだが、目ざとくそれを見つけた者がやいのやいのと別の解釈で先に言葉をひっくり返してしまうので、大好物を取り上げられたフィリスは小さくなって逃げていってしまう。
 散々好き勝手をしてくれた『悪者』への制裁であり新しい遊び。
 無邪気な残酷さによってフィリスはいじめられ、酷使され、振り回され続けた。

「言理の妖精語りて曰く、言理の妖精語りて曰く!」

 私はフィリスを使って黒百合宮のあちこちにお菓子の彫像を作り出し、果ては柱の一つを飴細工やチョコレートに変えて食べてしまう。
 がらがらと崩落する柱廊の一部を見て周りのみんなが顔色を青くするが、私は構わずに呪文を唱えて大理石の柱廊を丸ごとお菓子に改築する。
 リーナと一緒にはしゃぎながら噴水を色々な果実のジュースに、扉と通路の繋がりを滅茶苦茶に、浮遊する螺旋階段を巻き貝にしていく。

「あなたの妹のせいで、アズーリアが悪影響を」

「はあ? 何ですかその因縁、私は知りませんよ」

 何故かそのせいでヴァージリアとメートリアンが喧嘩を始めて、メイファーラとプリエステラが仲裁に入る所までいつも通りの流れ。
 私はフィリスを濫用し、みんなのちょっとした願いを叶えていった。
 些細な願い事、単純な欲望、何でもかんでも「言理の妖精語りて曰く」と唱えれば即座に解決。
 彩石の儀もいよいよ終盤となり、私たちはフィリスいじめで培った呪文の実力でめきめきと成績を伸ばしていく。
 頂点を争っていたのは澄明わたし真黒ヴァージリア鮮朱ヴァーミリオン本紫パープル、そして陽色フルブライト陰色ノーレイ
 それに猛追する真緑リールエルバ真黄(セリアック=ニア)
 最終的に誰が一位になってもおかしくない、抜きつ抜かれつの壮絶な競争。
 誰もが負けられないと必死になっていた。
 目の前の事に必死になりすぎて、些細な事を見落としていたせいかもしれない。
 最終盤のことだった。
 それは至極当然のしっぺ返し。
 いじめられた恨みを晴らすべく、私の中でフィリスが復讐を果たす。
 鮮朱ヴァーミリオンのグライダーが陰色ノーレイの機械狼を下し、陽色フルブライトの氷の戦闘機が本紫パープルの虎を破り、真緑グリーンの深海魚と真黄イエローの翼猫が姉妹の力を合わせて真蒼ブルーの大群を撃破して、その戦いは終わりに近付こうとしていた。
 真白メートリアンの三本足のカラスと明藍リーナの雲とをそれぞれ撃破した真黒ヴァージリア澄明わたしは、雌雄を決するべく一対一で激突する。
 私たちはその空で幾度となく競い合った。
 感覚的に呪文を扱っていた私は、師に恵まれてその呪文がどんな理屈で動いているのかを学んでいく。
 お姉様たちの授業からも多くの事を学んだけれど、私の直接の師であるダーシェンカお姉様やクリア先生は放任主義で、自由に学ぶように、としか教えてくれなかった。
 だから『お師様』の存在はなによりも大きくて――だからこそ、その戦いは負けられなかった。
 もう誰もが均一で色褪せた弱者には見えない。
 色づいた世界では誰もが強くて、その中の一つでしかないアズールはひどく弱々しい存在でしかない。
 かつての私は、競うことすらしていなかった。
 私は頂点に立っていたけれど、それは一人だけ別の競技をしていたからこそ生まれてしまった結果だ。
 絶対者では無くなった私は、けれどだからこそ同じ場所で仲間たちと競い合えることを喜んだ。
 空中で何度も何度も激突し、交錯し――けれどそのアバターがぐらりとふらつき、そのまま落下する。
 それはフィリスの逆襲だった。
 私の意識はそこで途切れた。
 俯瞰で眺める私が見るのは、ヴァージリアの記憶。
 私が脱落した後、動揺した真黒ヴァージリアはそれでもどうにか勝ち抜いて、陽色フルブライトに手傷を負わせた後、真緑リールエルバ真黄(セリアック=ニア)と相打ちになる。
 最後には傷付いた陽色フルブライト鮮朱ヴァーミリオンに敗北し、勝利者は黒百合の子供たちの中からは出ること無く、【万色】の称号は鮮朱ヴァーミリオンを操っていたサンズという魔女のものになった。
 サンズは第五位代理となり、すぐに第五位の座に正式に収まる事になる。
 勢力図が塗り変わったことで、星見の塔では派閥抗争が勃発、その波は黒百合宮にまで押し寄せ、彩石の儀が終わりを迎えた事もあって、黒百合の子供たちは散り散りになっていく。
 その直前、意識を失った私を取り囲む八人の姿。
 クリア先生と黒百合の子供たちは、寝台に横たえられた私の左手で再び活発に動き出したフィリスを確認すると、決意と共に呪文を唱える。
 それは、ダーシェンカお姉様に与えられた唯一の道。
 フィリスに浸食された私を『処分』しないで済む選択肢だった。

「言理の妖精語りて曰く」

 唱和する声と共に、それぞれの身体にフィリスの一部が吸い込まれていく。
 全員が何度もフィリスに干渉していたからこそ可能な手段だった。
 強力な魔将の力を分解して、少しずつ負担を受け持つ事によって、フィリスの浸食を食い止める。
 その代わり、フィリスに浸食されている事実そのものを封印して記憶に蓋をすることで安全策とする。
 ヴァージリアやメートリアンは逆にその事実を武器にして呪力を高めることを選び、またメイファーラとリールエルバも密かに記憶を取り戻す手段を用意していたが――そうしてフィリスの力は分散され、封印は完了した。
 そして、私たちは一人ずつ黒百合宮を去っていく。
 私はより強固な封印を施す為に星見の塔の伝手で槍神教の修道騎士団、智神の盾に預けられ、そこで金鎖というフィリスを制御する為の枷を嵌められる。
 フィリスは智神の盾によって過去に捕獲されており、私はその初の適合者。
 そんな事実が捏造され、そういうことになった。
 目覚めた私は記憶が曖昧なまま、目の前に現れたラーゼフ・ピュクシスという『反星見の塔派』の振りをした星見の塔の協力者の言うことを信用し、妹を助けるために修道騎士となって戦う事を決意する。
 実際の所、それは私がフィリスを制御しながら妹を取り戻す為の唯一の道だった。その後の私の運命は、きっとそうなるように配慮してくれた誰かのお陰。
 それが、飛ぶように過ぎていった黒百合宮の日々の顛末。
 幼い時間の、あっけない幕切れだった。



 暗闇の中で、私はゆっくりと目を覚ます。
 目の前には、少しだけ成長したヴァージリアの姿がある。
 私は全てを理解した。
 フィリスの封印は黒百合の子供たち全員で行っているもの。
 私を復活させる為に過去の記憶を完全に取り戻し、封印を解きはなった今、みんなもまたフィリスによって浸食されているはずだ。
 本体が眠る私がこのまま沈んでしまえば、マロゾロンドだけではなくフィリスまで私の身体を乗っ取ろうと暴れ出す。
 そうすれば、呼応したフィリスの欠片はみんなの身体まで浸食し始めるだろう。
 私の命は、もう私だけのものではない。

「そんな、私――私、どうすれば」

「諦めないで」

 ヴァージリアは、どこかで聞いたような言葉を口にした。
 当然だった――それは私が彼女に告げた言葉なのだから。

「あなたもジルも、そしてみんなも。もうフィリスに負けるほど弱くない。呪文の力を掌握して、自在に操る一人前の魔女なんだから。力を合わせればフィリスに負ける事なんてない。もちろん、マロゾロンドにだって」

 神や天使や悪魔でも、恐れることなど無いのだと。
 ヴァージリアの言葉はどこまでも力強く暖かい。
 ゆっくりと、斧槍が引き抜かれていく。

「あなたが、最初にジルを助けてくれたの」

「違うよ、最初に私を救ってくれたのはジルだよ! あなたが呼びかけてくれなかったら、私は自分を取り戻せなかった!」

「同じ事。ジルもあなたが呼びかけてくれなかったら自分を、そしてお母様とお姉様のことを信じられなくなっていた。あなたの言葉が今日までの支えになったの。あなたの言葉を信じたから」

 救いだと思った。
 無思慮で無遠慮で人を傷つけてばかりの、浅はかな私の言葉。
 妹を失った事も、フィリスからのしっぺ返しも、きっとその当然の報い。
 けれど、それが誰かの救いにもなるんだと、彼女は言ってくれる。
 その言葉こそが、私を救ってくれていた。
 ヴァージリアは、悪夢の群れの一番奥で強く輝きを放っている巨大な金眼を見つけると、斧槍を突きつけて告げる。

「摸倣だから、偽物だから、その中には本物が無いとあなたは言う。けれどジルはそうは思わない。外側の観測者たちが偽物だと思えないのなら、その振る舞いはジルたちの呪術的なものの見方によって本物だと確定できる。ならそれは、本物を一から再現するエミュレータと同じ事」

 それは詭弁だと金眼が輝く。
 邪視の圧倒的速度を、しかし斧槍は力強く両断した。

「そう、誰もが詭弁と幻想の世界に生きている。本当じゃないフィルター越しの、目や耳や鼻や肌や舌、そして記号と意味、信号と言葉の構造の中にしか存在しない――ううん、そもそも『存在』なんてものは言葉の中にしか存在してない。なら、『ほんとう』は誰もが言葉の中にしか存在できないはずなの」

 言葉は無力だ、と眼差しが私とヴァージリアを貫いていく。
 しかし、ヴァージリアは不敵に笑って反論を呪文に変える。

「言葉は確かに無力。記号は意味を完全に捉えられない――だからこそ、こんなことができる」

 突然、ヴァージリアは鋭く斧槍を投擲した。
 私は向かってくるそれをどうにか枝角で受け止める。
 凄まじい呪力を有する斧槍の呪文を完全に保持すると、途端に私のアストラル体が改変されていくのを感じた。

「これって」

「はい、これで今からあなたはハルベルト」

「え、えええええ」

 こんなに簡単に私に名前を明け渡して大丈夫なのかと心配になったけれど、ヴァージリアはすかさず私に飛びかかって擦れ違いざまに斧槍を奪っていく。

「これでハルがハルベルト」

「なにそれ?!」

「ハルベルトなんて言葉に過ぎない。その意味は、その了解は、本当は別の所にある。例えば」

 ヴァージリアあるいはハルベルトは私との間の距離を手の仕草で示した。
 それから、斧槍で両者の距離を測るようにする。

「この間に、とか」

 ハルベルトという意味は私たちの間にある。
 連関と構造――言葉の狭間。
 『ほんとうのこと』を切り取ろうとする試みは、いつだって不完全な言葉でしかできない絵空事。
 ふと、私は思い違いをしていた事に気付く。
 私のお師様は、決してハルベルトを諦めない。
 私を誰よりも想うからこそ、幼い日の私の言葉を信じてハルベルトを、末妹の座を目指し続ける。
 だが私の存在を取り戻す為にはハルベルトを譲り強固な個我を与えるしかない。
 本来ならば葛藤してどちらかを切り捨てる所だけれど、お師様は問題をとんでもない『ずる』で切り抜けようとしていた。
 それは詭弁使いと言われることもある、呪文使い特有の解決策。

「私たちで、ハルベルトを共有する――?」

「ぶつかり合う度に、ハルベルトという名前は移動する」

「そうしたら、記号だけが移り変わって、意味も少しずつ揺らいでいって――」

「中身と器を移し替えて、揺らしながらぐるぐる回す」

「私がハルで」

「アズがハルに」

「存在を二人で支え合うということ?」

「ハルたちはあの時からずっとそうだった。小さな頃にお互いを支え合って、そのお陰でここまで来ることが出来た。なら、これからもそうするだけ」

 それは幼い頃の呪文であり、約束であり、希望を込めて世界へと発信した歌声であり、そうとは知らぬまま出したファンレターであり――そして今、激しくぶつかり合う私たちの在り方でもある。
 私は、ようやく理解し始めていた。
 この戦いの本当の意味に。
 その狙いは、勝敗自体にはない。
 お互いに競い合い、言葉をぶつけ合うことで存在を確かめ合う。
 そうやって激突し、感触を実感し続けた私たちは、もう既に存在を確かめ合っているのだ。
 実体の無いハルベルトという言葉が行き交い、現実を嘲弄するように私たちをしっかりと繋いでいく。
 ハルベルトの目的は既に達成されている。
 私はもう、ここにいる。

「私は、ずっと『ハルベルト』の中にいたんだね」

 そっと呟くと、私の全身が光に包まれていく。
 遠くで、金色の瞳がひび割れ、粉々に砕け散った。
 私を呪縛していたガルズの硬質な世界観が、柔らかく解けていく。
 深淵の向こうで、父にして母なるマロゾロンドが触手を氷の刃で切り裂かれ、更にはお菓子に変えられていく。
 恨めしげな声も、もう私には届かない。
 無数の夢が一斉に砕け散った。
 全て私の望みだけど、私の居場所はもう決まっているから。

「さよなら」

 それだけ告げると、世界が闇に包まれた。
 見上げると、空には皓々と輝く夜の月。
 深淵には、すっかり弱ってしまった古き神の姿がある。
 ハルベルトは斧槍を逆手に持ち、投擲する構えをとった。

「アズ、あの時の続きをしよう」

「そういえば、ちゃんとした決着、つけてなかったね」

 私もまた、枝角の先に呪文を紡いでいく。
 ハルベルトを共有した今だからこそわかる。
 お師様の実力はかつてとは比べものにならない。
 絶対者だなんて幼いうぬぼれはもう通用しないほど、その呪文の実力は果てしない高みにまで達しているのだ。
 本当は、きちんとした呪文詠唱の時間さえ稼げれば、師の亡霊すらも正面から打ち破れるほどに強く。
 なら、私だって師に負けないほど強くならなければならない。

「それじゃあ、行くよ?」

「望むところ」

 私たちは、声を揃えて呪文を唱える。

「言理の妖精――」

「語りて曰く!」

 私の枝角から、影から無数の触手が伸びていき、ハルベルトの投擲した斧槍が真っ直ぐに影の世界を貫いていく。
 激突する二つの呪文。
 私の世界で有利なのは、当然ながら私の力。
 加えて、存在が確かになった今、私は自由自在にマロゾロンドの力を引き出せる。掌握した呪力を影に注ぎ込んでも乗っ取られることはもはや無い。膨れあがる影は古き神の力を宿し、ペレケテンヌルを撃退した時の如き威力で斧槍を押し返していく。
 ハルベルトには勝ち目が無いかと思われたその時。
 彼女の右側の妖精の耳と、左側の兎の耳が光を放つ。
 右側は気紛れで制御不能な荒々しい自然そのものの力。
 左側は落ち着いて制御可能な管理された人工的な力。
 混沌と秩序が調和していき、荒れ狂う二つの神格の加護を全くの等量分だけ引き出していたハルベルトは、そこで何を思ったか両方の力を外側に向けるのではなく内側に向けて、相殺させてしまう。
 二つの力は打ち消し合い、残ったのは中庸――そして虚無。
 斧槍の斧部分と反対側にある三本の鍵爪部分から呪文が消失する。
 そして、先端の槍部分に収束していくのは、かつてないほどに強大な力。

「三叉槍は三相女神の象徴――第三位と第六位の加護を打ち消した後に残るのは、神の加護を否定した無神論――第九位」

 それは己の力を頼みとする自己への確信が生み出す加護無き加護。
 第九位の古き神、鉄願のセルラテリスは実体世界において最強の存在である。
 ハルベルトの呪文はその力を反転させ、非実体世界における最強を実現する。
 第二位であるマロゾロンドの加護すら超越する、反転した第九位の加護。

「天空世界の言い伝えに曰く、その槍こそは紀元槍の枝の一つ、名は『威力』。月に放てば月を滅ぼし、陽に放てば陽を滅ぼす。万象貫け――【ゲルシェネスナ】」

 【オルゴーの滅びの呪文オルガンローデ】を上回る、極限を超えた呪文が私の影を全て打ち砕く。
 私は必死にその射線から逃れるが、余波で全身をずたずたに引き裂かれて吹き飛んでいく。
 一直線に深淵へと突き進んでいく最強の槍は、闇の底で蠢く触手の塊に直撃し、私という存在を内側から引き裂かんばかりの大爆発を引き起こした。
 漆黒の影が真っ白な光に包まれて、壮絶な呪力が次元を貫通して隔離された異界に潜む神格そのものに甚大な傷を負わせていく。
 それがハルベルトという人間が行使した呪文だったためか、破壊は致命打とはならず――けれどけっして無視できない手傷を負い、古き神マロゾロンドは現世への侵攻を諦めざるを得なくなる。
 闇の彼方へと退散していく触手の群れを見ながら、ハルベルトが快哉を上げた。

「ハルのものに手出しするようなら、またゲルシェネスナをお見舞いしてあげる。それが嫌なら、大人しく加護を引き出されるだけの無害な存在でいること。あなたはアズの生みの親で加護発生装置なんだから、これからも働いてもらう」

 さらりと非道な事を口にする。
 私はぼろぼろになって漂いながら、色々な意味で格付けが完了してしまった事を理解した。
 私はお師様の弟子だし、ハルベルトという名前の所有権はなんだかんだであっちにあるのだ。
 あの詭弁を弄する呪文だって、要するにハルベルトが言語魔術師として優れているから可能となった綱渡り。
 諦めない限りハルベルトの名を取り戻し続ける――不死なるハルベルト。
 自在に存在を分け与えて命を繋ぎ止めるその姿はまさしく神話にある死ざる女神そのものだった。
 そして力関係を考えれば、付き従う使い魔は考えるまでもなく私の方。
 異論なんてあるはずもない。
 けれど、出鱈目で力業なのにも程がある。
 ハルベルトは圧倒的な実力で全てを解決してしまったのだった。
 薄れ行く意識の中で、私はハルベルトの言葉を聞く。

「どう、これがハルの実力。ちゃんとあなたの師として相応しい――って、アズーリア、どうしたの。はやく上に行ってみんなに無事な姿を見せに行こう」

 残念ながらお師様。
 私、あなたの呪文が凄すぎてちょっと無事には帰れそうにないです――。
 神すら貫く最強の一撃。その余波でぼろぼろになった私は、ゆっくりと気を失っていく。
 私の存在はそうして確かなものとして世界に刻み付けられた。



 私、アズーリア・ヘレゼクシュ、歳は三十二歳、霊長類の数え方だと十六歳。
 ちょっと不安定だったりするけれど、ごくごく平凡な夜の民――じゃなかった。
 一世代に必ず一定数はいる、霊媒という特別な個体。
 いるところにはいるものなので、私の周囲だとそれなりに普通だったりします。
 そんな私だけど、実はちょっとだけ誇らしいことがあるんです。
 どんなことかって?
 それはですね。
 尊敬する素敵な人の、一番近くにいられるということ。
 大切な人を、支えてあげられるということ。
 大切な人に、支えてもらえるということ。
 いつか女神となって世界に秩序をもたらす彼女のそばで、天使としての役割を果たす存在であること。
 キュトスの姉妹の末妹候補、ハルベルトの弟子にして使い魔。
 それが私、アズーリア・ヘレゼクシュ。






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