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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第3章 特権者のヒロイック・シンドローム、さもなくばアズーリア・ヘレゼクシュの憂鬱

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幕間 『言震(ワードクェイク)』

 この上なく嫌な予感に急き立てられて、サリアは蛇の王を可能な限りの速さで解体してアズーリアの仲間二人を救出。無事を確認して即座に反転する。呼び止める声は無視。風のように疾走し、アズーリアのいる方へと向かう。
 アズーリアたちを侮っているわけではない。
 ガルズ・マウザ・クロウサーはけっして弱くはないが、単体では必ずしも恐るべき相手というほどでもない。
 彼の実力は後衛であるからこそ輝くものだ。頼みの邪視と死人の召喚を封じられて何かができるとは思えない。
 ――自分は判断を間違えただろうか。
 否、二人を助けることができるだけの実力と速度を兼ね備えていたのはあの場では自分だけだ。リーナの箒に二人も乗せることはできないし、箒に跨ったところで飛行の術は専門的過ぎて扱いが難しい。空の民でもない者が免許も無しに空を飛ぶのは自殺行為だ。
 だが。
 黒い魔導書を手に、裸の上半身に無数の金眼を輝かせているガルズと傍らのマリー、そしてその前でわだかまる黒い泥のような何かとそれに取り縋って泣き叫ぶハルベルト、呆然とした様子のプリエステラたち。
 そうした光景を目にしたサリアは、即座に首筋でたなびく封印呪布をはぎ取った。露わになった首筋に、二つの穿孔痕。凍結したその箇所から、目に見えぬ繋がりが虚空へと伸びて――いない。
 【氷弓】を使おうとしたサリアはそこで気付く。
 駄目だ、使えない。
 今は主との繋がりが切れている。だから呪力供給はアズーリアに頼る他に無く、そのアズーリアが倒れた以上、過去への遡行は恐らく不可能。
 無理をすればあと一回くらいはできるかもしれない。
 己の内側からあらゆるものを剥ぎ取って、衝動の赴くままに全てを解放すれば。
 ――けれど、そうしたら最後、この精神は。
 サリアは、主の使い魔である自分と共に戦った戦友とを秤にかけ、瞬間的に迷い――その逡巡をすぐに捨てた。
 首筋に滞留し、己の心を侵し続ける『それ』は、許容閾値を超えれば容易く己の精神を食らいつくし『個我』を喪失せしめるだろう。
 それは容認できない。
 そうなれば、自分が自分ではなくなってしまう。
 コルセスカの使い魔としての自分を規定できなくなる。
 それだけは耐えられない。
 ち、と舌打ちして走る。
 苛立ちは、自分へのものか、それともその他の何かに対するものか。
 サリアは足を止める。
 その場に見慣れない何かがいることに気がついたのだ。
 白黒の兎。なぜか片眼鏡をかけて小さな帽子をかぶっている。
 闇色の泥の陰に隠れるようにして存在しているその兎に気がついているのは、不思議と自分とハルベルトだけのようだった。
 認識されないようなまじないでもかけているのか。
 耳を澄ませば、コルセスカと契約したことによって飛躍的に上昇したサリアの邪視感覚にもその本質が聞こえるようだった。
 白黒兎の魔女。
 手を叩く度に砂糖菓子が弾けるように現れる、不可思議で無害な使い魔。
 覚えがある。影の世界(スキリシア)で何度かアズーリアが菓子を出現させていた時に見た呪力の響きと全く同じ。
 ではあればアズーリアの使い魔か。戦闘には向かない、純粋にお菓子を出して体力や呪力を回復させる為だけの支援役。
 だがそれにしては――。
 いや、今はそれはいい。
 それよりも、ハルベルトの動向が問題だった。
 呪文の座の候補者――コルセスカに次ぐ、第二の末妹候補。
 繰り返しの中でアズーリアに明かされるまでもなく、サリアはその正体に気付いていた。もちろんアルマもだ。
 だが基本的に呪文の座を占めるハルベルトは無害であり、コルセスカの陣営に対しては敵対的ではない。お互いに苦手ではあるらしいが、トライデントのように積極的に敵対するほどでもない。
 それどころか、ハルベルトの目的――地上、世界の中心、そして地獄の三界で大規模呪術儀式を行うという、最後の一つが極めて困難なそれ――を達成する為には、同じく地獄を目指しているコルセスカとの共闘が必須とも言えた。
 迷宮の攻略も後半戦に入り、熾烈を極めることが予想される。コルセスカ陣営としても戦力は欲しい所であった。
 地獄に到達した後、コルセスカが火竜を討伐するのが先か、地獄で最後の呪術儀式を執り行うのが先か。
 最終的には競争することになるだろうが、その瞬間までは手を結ぶことも充分選択肢の内に入る。
 少なくとも、あの信用ならないトリシューラよりはよほど。
 サリアはそう考えている。
 だが――問題が一つ。
 それが、ハルベルトの持つ禁呪である。
 涙の色が黒く染まる。
 滴り落ちる漆黒の雫が影のような泥に落ちて、黒と黒が混ざって区別がつかなくなっていく。
 その身体の内側を流れる黒い血が、膨大な呪力を内包しながら解き放たれようとしている。
 禁呪――それを使用することで、致命的な事態を回避しようとしているのだ。
 決して受け入れられない運命を、最悪の代償を支払うことによって拒絶しようとする悲壮な覚悟。
 この光景には、見覚えがある。
 そう、自分の時もそうだった。
 サリアの脳裏をよぎる、過去の記憶。膨大な想いの奔流。
 決して逃れられない死の繰り返し。
 天に広がる三つの災い。
 影の鎧と無数の神滅具、そして希薄化する無敵の肉体を有する始祖吸血鬼。
 最悪の真祖、エルネトモランの吸血雲との終わらない死闘。
 つい先程までアズーリアとしていたのと同じように――共に同じ円環に囚われ、運命を乗り越える為――そして互いの為に戦い続けた。
 『トライアンドエラーはゲームの基本です』『ループものは百戦錬磨ですから、私に任せて下さい』――馬鹿じゃないのこいつ、と思った。
 あまりにも馬鹿みたいだったから、自分が守ってやらないと駄目だと感じた。
 気が触れるほどの終わらない繰り返し。
 狂気の中で終わっていく自らの首筋に突き立てられる、冷たい牙。
 救おうとして救われた、情けないけれどなにより大切なあの瞬間。
 自分にそれが、止められるのか。
 フードの内側、認識妨害の呪術を影の鎧に込められた呪力が打ち破る。
 黒い涙を流すその表情が、一瞬だけ血も凍り付く氷の右目の誰かと重なった。
 その代償が、たとえ世界を滅ぼすものだとしても。
 それを、サリアは。

「何をしようとしているのか知らないが、やらせない。次は君の番だハルベルト」

 ガルズの金眼が輝きを放ち、マリーが槌を構える。
 掌握されつつある魔導書の項が黒い光を放ってハルベルトを撃ち抜こうとする、その寸前。

「いいや、次はお前の番だ」

 魔導書ごと腕が飛んだ。
 その場にいる誰もが、サリアの動きを捉えられなかった。
 腕を振った瞬間も、刃の軌跡も。
 ただその場に現れて、ガルズの腕が切断されたという結果だけが示される。
 ガルズは呻き、後退し、即座に邪視を発動する。
 その金眼に死角は無い。
 サリアが超人的な体術によって視線をかいくぐっても、その先で別の眼球から邪視が放たれる。
 綿密に計算された、隙が一切無い完璧な邪視。
 回避不能の攻撃――だが、どのような理屈によるものか、全方位への邪視をサリアは完璧に無視している。

「ありえない、もう既に呪力はほとんど枯渇しているはずだ! 全力を出したこの僕の邪視が、こうも容易く――」

 その言葉を言い終える頃には、ガルズ・マウザ・クロウサーの解体は終了していた。血よりも先に肉片が舞う。
 『ありえない』と口にした時には既に二振りの刃が腕と胴体に埋め込まれた全ての金眼の表面を撫で、残りの腕もまた切断し終えていた。
 『もう既に』と言おうとした時には肋骨を正確に避けた刃先が体内を蹂躙し、心臓とその後ろにある予備の副心臓までもを正確に切り裂き、閃光の様に閃いた銀の斬撃は腹部のありとあらゆる主要臓器を破壊し尽くして分散された補助脳を全て機能停止させる。これでガルズの退路は無くなり、偽装死からの復活という手段は閉ざされた。
 『全力を』と言っている間に背後に回り、背面の眼球群を全て切断。更には両足をも断ち切り、切り刻み、胴体を蹴り上げる。
 『こうも容易く』という言葉は実のところ潰れてほとんど声にならなかった。首を切断され、顎下、耳、鼻、眼球、口というありとあらゆる弱所に刃を突き入れられ脳をかき回されたガルズはそもそも自分が何をされたかも理解できなかっただろう。一連の流れるような殺戮は、余りにも鮮やか過ぎて正確な認識すら通り抜けてしまう。
 高らかに持ち上げられたサリアの長い脚が、音を置き去りにした。
 ミアスカ流脚撃術奥義【空破】――目視すら叶わぬ神速の蹴撃が空中の胴体を粉々に粉砕する。
 瞬きをする間にガルズは死んだ。
 一切の容赦が無く、あらゆる抵抗を許さず、圧倒的な暴力によって完膚無きまでに惨殺された。
 殺戮者は間を置かずマリーに対してもその刃を向ける。ようやく瞳に状況に対する理解の色が浮かび始めたばかりの幼い少女。
 サリアの鳶色の瞳に浮かぶのは全き無である。
 ただ目の前の全てを切り刻む。意思ですらない反射で暴力を振るおうとしたその時だった。
 背後で、そして足下で、途方もない濃度の呪力が膨れあがる。
 振り返ると、へたり込んだハルベルトの目の前で、不定形の泥が再び蠢き始めていた。
 完全に死んだはずのその肉体が再び動き出すという異常。
 禁呪が使われた?
 いいや違う、恐らくまだだ。その証拠にハルベルトもまた予想外の事態に対して呆然としている。
 盛り上がった闇がゆっくりと無数の触手を伸ばしていく。その形状は、以前アズーリアが使っていた感応の触手や束縛の光などよりも遙かに高密度な呪力を帯びていた。
 何かが、影の底から目覚めようとしている。
 直感的な理解。サリアは起こりつつある致命的な事態に気が付き、そして同時にその状況に対処出来るのが自分一人だということを認識した。
 誰もそのことを知らないのだ。
 アズーリアは、自分は、手を出してはならないものに手を出してしまった。
 ガルズは恐らくこの最悪の展開を予想せず、ただ己の目的を達成する為にアズーリアを殺したのだろうが――その結果がこれだ。
 あれは自らがどれほど致命的な事態を引き起こしたのか理解していないだろう。
 サリアはまたしても逡巡する。
 もはや一刻の猶予もない。すぐに対処しなければ世界が終わりかねない。
 だが、マリーを仕留め損ねた事が気がかりでもある。
 ここで二人とも倒しておかなければ、もっと最悪な事態に繋がるような気がしてならないのだ。
 サリアは双方の危機を脳裏に思い浮かべ、その脅威度を比較し――馬鹿馬鹿しくなって止めた。
 どちらにせよ、これは私の責任だ。
 膨れあがる闇――かつてアズーリアだったもの、アズーリアではなくなろうとしているものに向かって駆け出す。
 自らの精神を足下の影に潜り込ませて行きながら、サリアは遠ざかる肉体に最後の命令を下す。

「迷うな!」

 ただ一言。ハルベルトの瞳が、かすかに見開かれる。
 それを確認して、サリアの意識は肉体を離れていった。



 一面の影。
 一面の闇。
 実世界との境界たる月を背にしながら、サリアはやはり、と漆黒の全身鎧の中で歯噛みした。
 もうこんな浅い層にまでその触手を伸ばしてきている。
 この世界の深淵から這い上がりつつある、途方もなく巨大でおぞましい何か。
 それは、今まさに境界を乗り越えて実世界へと乗り出そうとしていた。
 夜月を通り抜けた先に待つのは、『それ』の顕現。
 『それ』とはすなわち――。

「マロゾロンド。貴様、アズーリアを誘導したな」

 視線の先で、不定形の闇が蠢く。
 危険な敵――ガルズを頼るという奇策。
 それに乗ってしまった自分を過去に遡って殺してやりたい。
 状況を打開するための、都合のいい助言。
 選択肢の提示は、他の選択肢を隠し、切り捨てることでもある。
 もし、味方の顔をした支援者が意図的にアズーリアを破滅に導いたのだとしたら――サリアはぎり、と歯ぎしりした。

「己の意思を伝える事を誘導というのならそうだね。けれど、そんなのは誰だってしていることだよ。言葉を用いる者ならば誰だって」

 声は幼い。高く、少年とも少女ともつかぬ子供のそれだ。
 巨大な闇の中に、ぽつりと小さな黒衣の矮躯が浮かび上がっていた。
 まるで、典型的な『それ』の端末のように。

「黙れ。一体何が目的――いや、お前ら古き神の目的は常に一つだったな」

「そうだね。今の僕たちは天使にまでその存在を零落させてしまっている。実世界への干渉も端末を介して限定的に神託を下すのがせいぜいだ。もっとも、干渉しやすいように調整した個体ならばその限りではないけれど」

 大神院が天使と規定し、古くは神と呼ばれていたもの。
 その一柱と対峙しながら、サリアには微塵も臆する様子が無い。

「やっぱアズーリアは神の霊媒か。アズーリアを乗っ取って実世界に降臨して、次は世界を乗っ取るつもり? そんなに槍神に取って代わりたいの?」

「紀元槍を掌握すればその槍神は僕になる。実際かつてはそうだった。『あれ』に座を奪われて久しいけれどね」

「貴様ら古き神はどいつもこいつもそればかりだ――権力闘争なら自分たちだけでやればいいだろう!」

 憎しみを込めて絶叫する。溢れ出した怒りが殺意となって形になっていく。
 サリアはもうほとんど残っていない呪力をかき集め、両手に刃を形成した。
 握る二振りの得物は、湾曲した刃を持つ氷の短剣である。

「神というのは人の信仰がないと存在できないんだ。残念ながら神々だけの争いというのは成立不可能だよ。それにこれは、己の存在を賭けた切実な闘争なんだよ――何もしなくとも実体という存在が保証されている霊長類にはわからないだろう。不確かな輪郭でしかない僕たちの危うさが。己の全存在を賭けて戦っている末妹候補たちにならわかって貰えると思うけどね」

「コアと貴様を一緒にするな」

「一緒だよ。紀元槍に至り、紀神となって不安定な自己を世界に確定させる。過程や動機に差はあれど、目指す場所は全く同じだ。そして目的が同じだからこそ、僕はちゃんとアズーリアの役割を引き継ぐつもりだよ。ハルベルトの使い魔として紀元槍に到達する。これまでより遙かに効率的だ。なにしろ僕が直々に実世界に顕現するのだから」

 ――話にならない。
 これは会話ではなく、超越的な存在からの宣告なのだ。
 古き神――天使と呼ばれる上位存在たちは全知全能ではないにせよ、その脅威的な演算能力で短期的な未来予測を可能とする。
 それは絶対では無いが、条件を絞り込み、『端末』に命令を与えることで実現に近付くことはできる。
 恣意的な助言によってアズーリアの行動を誘導。
 最悪の敵を懐に招き入れたアズーリアは当然の成り行きとして破滅する。
 個我を失って中身が空になったアズーリア――霊媒の身体に降臨することで、超越的な存在は実世界に自在に干渉できるようになるのだ。
 霊媒、巫女、聖女――超越的存在との感応能力を持った個体は、そもそも神々が実世界に干渉しやすいように調整した端末なのだ。
 それが地上の敵であれば固有種と呼ばれ、槍神教の内側であれば聖人や英雄と呼ばれるだけのこと。

「アズーリアはこのために用意した特別な端末のひとつ。同じく僕の端末であるエスフェイルを打ち破ったことでその存在の格は飛躍的に向上した。そして今までの繰り返しの中で何度も僕から力を引き出したアズーリアの身体は、僕を降ろす為に最適化されている」

「最低。形状が崩れていったのはそのせいか」

「崩れた? 違うよ。あれが本来の僕の――そして僕の端末たちの姿なんだよ」

 目の前の黒衣が、どろどろになって崩れていく。
 そして広がる翼と角、無数の触手。
 そればかりではない。
 無数の蝙蝠となって散らばったかと思えばそれは気体となって、次の瞬間には凝縮して狼となる。その輪郭が揺らいだかと思うと満月の形となり、さらには不可思議な光を放つ亡霊のごとき存在が現れ、姿を隠す。
 残されたのは一面の闇。
 変幻自在の姿を持っていても、その本質は一つだけだ。
 全ての夜の民は、この深淵に繋がっている。

「古き神の力を引き出し過ぎれば当然それだけ神に近付く――あの白い女の子、ミルーニャだったっけ? ペレケテンヌルは後一歩で降臨するところだった。危ない所だったよ。介入できる端末が近くにあって本当に良かった。先を越されてはたまらないからね」

 意味の分からない戯れ言を無視して、サリアは鋭く言い放つ。

「私たちは神々の代理戦争用の手駒じゃない」

「いいや違うよ。夜の民は僕の手足であり手駒だ。そのように僕が作った僕の創造物であり道具であり身体の一部。本来は君たち霊長類だって、僕の端末を育てるための奉仕種族なんだよ?」

「――ふざけた世界観。そんな世界に『更新』されてたまるものですか」

「その拒絶と反抗心が君の世界観なのかな。なるほどこれが天然のグロソラリアか。異世界の因子も神々の加護も持たない、真に純粋なる突然変異というわけだ。けれどそれは、君が特別な運命を持たない凡人であることも意味する。ただの人が、神に刃を向けるというのかい?」

 言葉に対して、サリアは両手の【氷刃】を逆手に握り、一歩を踏み出した。
 踏みしめる架空の足場、掻き分ける影世界の大気、その全てが敵そのもの。
 自分が立っている影の世界スキリシアそのものが流動する不定形の神であるのだと、その余りにも絶望的な事実を理解しつつ、サリアは黒兜の中で笑った。

「いいことを教えてやる。私の信仰は『無神論』だ。というわけで回答はこうだ――『お前は、存在しない』」

 そして、結果の分かりきった戦いが幕を開ける。



 ミルーニャ・アルタネイフはその場所に辿り着くと、最悪の事態が起きてしまったことを完璧に理解した。
 隣のメイファーラが息を飲んでその場にへたり込む。
 自分もそうやって、絶望して悲嘆に暮れることができればどんなにいいか。
 黒く蠢く泥に覆い被さるように――あるいは抑え付けるようにしてサリアが倒れている。地の底から何か得体の知れない呪力が溢れ出そうとしているかのようにも見えた。
 更には丸い何か――原形を留めていないが、あれは生首だろうか――を抱えたマリーがペイルやプリエステラの追撃を振り切って転移門へと消えたのが見える。その背を追って浮遊していく黒い魔導書。所有権を奪われたらしい。
 舌打ちをしたい気分を抑え込んで、今はそれよりも優先すべきことがある、とひたすらに走る。
 そして、より最悪の事態を引き起こすべく行動を開始した。
 左手の中指、生爪を一気に引き剥がす。
 常人よりも高い治癒力を持つ彼女であっても、その痛みは耐え難かった。
 激痛、泣き叫びたい、ぎゅっと瞑った目から零れる涙。
 もう痛みしか無い。苦しさしかない。こんな苦痛は二度と味わいたくない。
 けれど、その苦しみがなによりも愛おしい。
 強く、ただ一人の事を想った。

「左手中指、解錠アンロック――自殺の黒槍スーサイダルブラック

 内的宇宙の倉庫から模造品の神滅具を取り出すと、そのまま穂先をハルベルトの頭部に突きつけ、鋭く低く声を発した。

「禁戒を破って下さい。さもなくば貴方を殺します、ヴァージリア」

 本物に迫る防御無視の貫通力。その力をもってすれば、強固なハルベルトの防御障壁を突破することも可能だろう。
 泣き濡れるハルベルト、倒れ込み意識を喪失させているサリア。
 混迷した状況が、ミルーニャの行動で切り裂かれていく。

「そんなことしたら、あなたも死ぬ」

「ええ。構いませんよ。アズーリア様のいない世界で生きていたいとは思いませんからね。ですからやりなさいハルベルト。貴方にしかできないことです」

 ミルーニャはあえてヴァージリアではなく、ハルベルトという呼び方を選んだ。
 それがこの場において最も適切な言葉だと信じたからだ。
 絶対に負けたくはない相手に対して負けを認め、正規の末妹候補として認めると宣言したミルーニャは、己の全てを擲ってアズーリアを救おうとしていた。
 杖的な治癒と再生しか使えない自分にはその力が無いと知っていたから。
 アズーリアを救う手段を有するのは、この場ではもはやハルベルトだけ。
 禁呪――星見の塔に存在する四つの大呪術を用いれば、この致命的な事態は回避できる。それでアズーリアの死は覆せる。
 だが、それしかないとわかっていても。
 ハルベルトはその一歩を踏み出せない。
 それは恐怖によるものか、それとも。

「私はアズーリア様と一緒に普通に歳をとって、一緒に生きて一緒に死ぬと決めました。運命というのならこの人が私の運命だと思った。生まれて初めて、抗いたくないと思える運命に出会えたんです」

 それはメートリアンとしての言葉ではなく、ミルーニャとしてのものだったのか。彼女は透明な視線で黒い涙を流す幼馴染みを見つめた。

「だから私はこんな運命は受け入れません。受け入れろと言われたなら世界中の全人類を生贄に捧げてでもアズーリア様を復活させます。きっと怒られるでしょうけど、私はあの人に許されないでしょうけど、それでもやります」

 世界の全てを敵に回しても――そんな陳腐な台詞であっても、ミルーニャにとってはそれだけが『ほんとう』の気持ちだった。
 自分にとって大切な人は、自分の為に神さえ敵に回してみせた。
 ならば、と思う。
 ミルーニャ・アルタネイフがそれを躊躇う理由は何一つとして無い。

「貴方は違うんですか。貴方とアズーリア様の、マリーとの関係は、世界と天秤にかけて、世界の方に傾くほど軽いものだったんですか」

「違うっ」

 強い否定。滅多に叫ぶと言うことをしない、激情を表に出さないハルベルトの、それは切実な意思だった。
 大切な何かを守ろうとするように、彼女は泣きながら否定する。

「違う、だって、それは、同じで――だから、約束、したのに――」

 嗚咽に混じる言葉は途切れがちで意味が通らない。
 禁呪の代償。奇跡の対価。
 致命的な反動と引き替えにあらゆる理不尽をはね除ける万能の力。
 その行使を躊躇うハルベルトは、かけがえのないものを二つ並べて懊悩しているのだろう。揺れる天秤。その軽重。
 彼女にとって、その心に抱いた二つの価値はどれほどのものなのか。
 祈りの価値とはいかほどか。
 その問いが、苦痛を伴って突きつけられる。
 ハルベルトは黒玉の瞳で黒槍の穂先を見て、わだかまる闇と倒れたサリアを見て、それから盛り上がる闇の陰になった部分をぼんやりと見た。
 目を瞑る。
 目蓋の裏に現れたのは誰なのだろう。
 幼い日のマリーか。それとも、別離を経て再び巡り会ったアズーリアか。
 ミルーニャは静かにハルベルトの苦痛を見届けた。
 その果てに、決断が下される。
 黒玉の瞳に、もう迷いは無かった。



 おやめなさい、と兎は言った。
 おそらくは四魔女とその使い魔にしか見えない白黒の兎。
 意味の間隙に潜む超越者。
 キュトスの姉妹が三十四番――あの懐かしい黒百合宮で、ハルベルトたちは彼女を先生と呼んでいた。
 親しみを込めて――その理由はほとんどが『お菓子をくれるから』という即物的なものだったにしても、彼女は黒百合の子供たちにとって素敵な先生だった。
 普段は道化じみた戯れ言と砂糖菓子を振りまくだけの無力な言語魔術師が、ただ警告だけを口にするのは極めて珍しいことだ。
 それはきっと、『先生』としての責任と優しさによるもので。
 だからハルベルトは、心の中だけでごめんなさいと呟いた。
 言葉にすれば、決意が揺らぐような気がしたから。
 ハルベルトは、静かに禁戒を破る。

創造の光よブリアー

 【心話】による言葉が響く。
 異界の神秘を参照した、知らぬ者には意味が通らぬ幻想のアリュージョン。
 禁じられた最古の呪い――四つに分かたれた奇跡の一つが、呪わしい全身を駆け巡り、外界に溢れ出す。
 それは禁忌。
 それは大罪。
 それは愚行。
 ハルベルトの全身から流れ出した漆黒の血が彼女の周囲を取り巻き、複雑に絡み合って立体的な幾何学模様を作り出す。
 あらゆる輝きを飲み込む闇。
 その内側を暴き立てんとする無遠慮な光を拒絶する隠匿の力がハルベルトの周囲を覆い尽くし、不定形の泥と化したアズーリア、更には倒れたサリア、槍を手にしたミルーニャと全てを諦めて瞑目する白黒兎までもを飲み込んでいく。
 ハルベルトは落涙する。
 黒い血を黒玉の瞳から滝のように零していく。
 命そのものを削り取って、世界を構成する緻密な秩序――その背後に存在する硬質な基本法則を見つけ出す。
 それはまるで扉だった。
 開けてはならない、封じられた大扉。
 ハルベルトは迷うことなく錠を破壊して、更なる禁忌へと踏み込んでいく。
 そして改変する。
 書き換える。
 運命を――そして事実を。
 過去に遡り歴史を塗り替えて事象を語り直す。
 堅固ハードで無機質な杖の理を、柔らか(ソフト)で流動的な呪文の理で再解釈し、再構築し、再帰的な連関の中で一つの幻想として紡ぎ出す。
 交換可能な現実を、交換不可能な神秘へと。
 あらゆる価値から隔絶した、唯一無二の『ほんとう』を――けっして確かには存在できない、有り得ざる幻想を創造する。
 ハルベルトの表情が、苦痛に歪む。
 運命に抗った反動。その結果だった。
 この世界には、『その現象』に抗う為の修正力が存在する。
 その現象の切っ掛けとなりかねない大量死の引き金である銃を抑制する力。
 悪運を積み重ね、その現象を呼び起こす可能性のある人物を抹消する力。
 そして、代償としてその現象を呼び起こすような禁呪を失敗させようとする力。
 運命の修正力。
 世界の免疫系。
 今まさにその禁じられた呪文を使おうとしているハルベルトの全身には、かつてミルーニャ=メートリアンが銃を用いた時のような苦痛が、あるいは可能性の彼方に消えたプリエステラの無数の死のような災厄の波が降りかかっている。
 それだけは絶対に起こしてはならないと、世界がそれを阻止しようと動き出す。
 それは免疫だった。
 世界に記憶された致命的な痛み――天と地を二つに分かつほどの極大の痛みを繰り返してはならないと、呪波汚染が黒い少女を灼いて苛む。
 それでも――。

「アズーリアを、マリーを、取り戻す――絶対にっ」

 己を奮い立たせるように、ハルベルトはその意思を言葉にした。
 自分たちには言葉しかない。
 そうすることでしか届かない瞬間がある。
 あの避けがたい別離の時――失われた尊い日々の終わりに、奇跡はハルベルトに舞い降りた。その結果としてマリーという少女は永遠に失われた。
 今のハルベルトにはもどかしいやりとりよりも速い音声としての言葉がある。
 あの時、自分は届かなかった。
 その後悔、その喪失。
 もう二度と、言うべき言葉を間違えたりしたくない。
 もう二度と、発すべき言葉が紡げないなんて苦しみは味わいたくない。
 だから、彼女に貰ったこの奇跡で、ハルベルトは呪文を唱える。

「言理の妖精――語りて、曰くっ」

 瞬間、ハルベルトの左右非対称の耳に宿っていたフィリスが無彩色の光を放ち、なによりも速く、音や光すら置き去りにして意味だけを世界に届けていく。
 世界が塗り変わっていく絶望的な音を聴きながら、ハルベルトの脳裏に幾つかの言葉がよぎる。刹那の中に流れていく過去の光景。

『これは取引です』

 目の前に三角の耳をした猫の取り替え子が立っている。
 呪文の座、その正規候補を巡る最後の戦い。
 黒百合の子供たちの中で、『ハルベルト』の名を巡って最後まで残ったのは黒と黄、そして緑だけ。
 対峙するセリアック=ニアは、希薄になった姉を背後に庇いながら掌をヴァージリアに向けている。
 その首筋に独角兎が鋭い先端を突きつけていた。
 両者はお互いの命を握ったまま、静かに睨み合う。

『ドラトリアの運命を背負う私たちは、ここで死ぬ危険を踏み越えてまで勝利を目指すことはできない。姉様はそう仰っています。セリアもそう思います』

 だから、と荒く息を吐きながら少女は言った。全てを賭けてある一つの目的のために戦う異形の姉妹たち。
 極限の中で提示した取引材料、それは途方もなく重い。命よりも。
 命すら、より重い価値の為に必要な道具でしかないのだと、迷いのない瞳が告げていた。

『こちらも命を超える対価を差し出します。もし、それを使わざるを得ない時が来たならば――』

 忌まわしい契約――その果てに、ヴァージリアはハルベルトとなった。
 利害の一致からとある小国の王族たちと手を組み――そしてお互いの目的の為に共闘し合う関係を築き上げてきた。
 禁呪を発動したハルベルトは、約束通りに遠く離れた場所にいる二人に連絡を行った。即時に空間を渡っていく呪術信号。
 受け取った彼女たちは、何を思うだろう。
 憎悪か。
 それとも、歓喜か。
 なにもかもわからぬまま、それは引き起こされた。
 世界が揺れる。
 引き裂かれ、断裂し、秩序が失われ――ありふれた、つまらない現象が引き起こされる。
 それはあり得ざる奇跡の代償としてはあまりにも軽い、言葉にしてしまえばどうということのない日常茶飯事。
 幾らでも交換可能で、僅かに気を回せば解決するような、そんな些末な事。
 その日、第四衛星太陰イルディアンサのグラマー界に位置する『神々の図書館』で、珍しくエラーが検出された。
 絶対の秩序によって全世界の言語を正しく管理し、混乱を引き起こさないように、平穏を維持し続けられるように絶えず機能し続けているその働きが、一瞬だけ停滞したのである。
 それは自動的に検知され、即座に修正されたが――その一瞬の間に、全てが終わり、そして始まってしまっていた。
 迷宮都市エルネトモランを擁するアルセミット国。
 その東方、ヘレゼクシュ地方の大国アロイ=ワリバーヤ。
 その更に隣にある東方の小国家群の一つドラトリア。
 『図書館』によって使用言語が管理されている地上にあって、ドラトリアもまた古くから連綿と受け継がれ、緩やかな変化を続けてきたドラトリア語と、大陸共通語の二言語の併用制を敷いていた。
 端末による言語機能の切り替え、微調整、それによって変動する摸倣子量――そうした諸問題を一手に管理していた『図書館』の機能停止。それが、ドラトリアに小さな波紋を発生させる。
 ドラトリア北部では長年にわたる北の隣国との占領合戦、高山と河川に囲まれた特有の地形などの要因によって、隣国語、北部方言、ドラトリア語、大陸共通語の四つの言語が入り交じる状態となっていた。
 『図書館』が正常に機能している限り、その地の秩序は正常に保たれる。
 住人は状況に応じて適切に言語を使い分け、意思疎通の齟齬や遅延が発生することもほとんど無い。
 教育においても生徒たちに過度な負担がのし掛かることは無い。
 言語文化の摸倣子量を保持するために民族別に母語を規定する言語血統制が敷かれており、言語と民族は等号で結ばれていたが、『図書館』の秩序が差別や排除の上に重なり、不和を低減させていた。
 そこは表面上平和に見えた。だからそれは――とてつもない不運が重なった結果として起こってしまった出来事だ。
 槍神教によって覆い尽くされたその地域にあっても、土着の宗教というのは根強く存在している。
 東部諸国の例に漏れず、北ドラトリアではマロゾロンド信仰が盛んだった。
 神を天使とすることで形ばかりの『移行』が行われたが、実質的にドラトリアは黒衣の神に祈るマロゾロンド教の国である。
 その日、北ドラトリアのとある小都市を練り歩いていた集団は、槍神教の支配ではなくマロゾロンドの正しい教えに回帰すべきである、という毒にも薬にもならない平凡な主張を唱えながら行進していた。
 向こう側の通りでは北の隣国から流れてきた移民たちが差別撤廃だったか賃上げだったかのデモ行進をやっているはずだ――と、その通りの警備を担当している警官は呪術杖を手にぼんやりと考えた。
 槍神教のお膝元、アルセミット辺りならばこのようなことをしただけで拘束され、脳髄洗いの上で順正化処理だろうが、この片田舎では罪のない定例行事に過ぎない。きちんと申請されたデモ行進であるから、こうして警官が適切に配備されて異常が無いか見ているだけで問題は何も起こらない。
 そう考えていた彼は、隣にいる同僚の様子が妙な事に気がついた。
 何か気がかりがあるように、手元の呪術杖をいじり回しているのだ。
 どうしたと声をかけると、少し違和感があるとのこと。誤作動して暴発したら洒落にならない。後で点検しておけと声をかけようとしたその時。
 世界が揺れた。
 奇妙な錯覚。次の瞬間には何事も無く世界は動き出している。
 だが――その時、突如として街路に男が飛び出した。
 興奮しているのか何事かを早口で捲し立て、整然と行進している集団に今にも飛びかかりそうな勢いだ。
 制止すべく声を上げようとして、気付く。
 男が何を喋っているのか理解できない。
 端末機の異常かなと思い、太陰との接続状態を確認しようとして、隣の同僚が先んじて動いてしまう。
 何を言っているのかわからなかった。
 いや、言葉の抑揚、幾つか聞き覚えのある単語から、それが北ドラトリアの方言と共通語が混淆した奇妙な言語であることは理解できる。できるのだが、それで何を伝えたいのか理解できない。
 異常に気付き始めたのだろう、周囲でもざわめきが広がっていく。
 興奮して街路の中心に躍り出た男は停車していた呪動貨物車の上に立って何かを必死に世間に訴えようとしているのだが、それは全く意味を為さずただ音の羅列として吐き出されるだけ。
 同僚は杖を握りしめて男を呼び戻そうとする。威嚇のためだろう、カン、と道路を叩いた杖が異音を立てる。
 杖の不具合を忘れているであろう同僚に注意を促そうとするが、言葉が意味を為さない状況ではどうにもならず、仕方無く強引に肩を掴んで制止しようとして――全てが狂った。
 体勢を崩した同僚、角度のずれた杖、まさにその瞬間に暴発した内臓呪石、そして何事かと様子を窺っていたデモ集団に呪術が炸裂する。
 無防備な一般市民たちを襲ったのは暴徒鎮圧用の【投石】であり殺傷能力は低いが、集団には老人や子連れなども混じっていた。
 鋭く発射された石の弾丸は腰の曲がった老人の首、子供の手を引いていた親の腕と小さな子供の頭蓋に命中し、一名の死者とその他二十人余りに及ぶ重軽傷者を生み出した。
 騒然となった道路を誰かが念写し、ネットワーク上に拡散する。
 ドラトリア上のアストラル・ネットでもその頃すでに言語翻訳の異常が確認されており、文字化けのようになった情報の中で視覚的な映像だけは確かなものとして受け止められた。
 実際には念写という当人の印象と記憶に依存したその光景は過度に凄惨なものになっており――さらに『やはりこうだった気がする』という記憶の事後改変や『念写によって事実が歪んでいることを加味すれば事実はこうだろう』という予断と偏見に基づいた他者からの改変が付け加えられた結果、警官がデモ行進している集団に呪術攻撃を加え二十人余りを殺害したという風説が流布していくことになる。
 時を同じくして、自らの権利を求めて集まった移民と呼ばれる人々は混乱する状況を受け止め、不安を抱いていた。
 実のところ彼らはほとんどが第二世代以降のドラトリア生まれである。
 限定的な出生地主義をとるドラトリアにおいては、納税義務を果たし成人時の国籍選択を済ませた彼らは紛れもないドラトリア国民だ。しかし、長年の遺恨や衝突の歴史、居住空間から排除されたことにより選択の余地も無く集住せざるをえなかったことから『ドラトリア人ども』に対して抑圧された隔意を抱いていた。
 また固有の言語文化を保存して呪力資源を確保したいドラトリア政府の意向によって母語として隣国の言語を選択させられていたことも、彼らのアイデンティティを独特なものにしてしまっていた。
 普段ならば、その固有のアイデンティティこそが呪力を生み出し、空間や地脈に流れ出す事により国家の基盤を安定させる。
 端末の使用によって基礎言語以外の習得コストは極めて低いため、それが問題になることは無かった。少なくとも表面上は。
 拡散し、変動し続ける情報は容易く人を間違わせる。
 この呪術的な世界においては、誤情報は余りにも急速に伝播し、浸透し、事実として現実を浸食する。
 それは、この世界において情報というものがあまりにも容易に実世界を書き換えてしまうがゆえに不可避的に発生する天災である。
 言語が揺れ、情報が歪曲し、空間に満ちる呪力が蠢き、地脈が悲鳴を上げる。
 そして『ドラトリア』が――国家という使い魔の呪術に命名という古き呪文で蓋をしたその巨大な構造体が――割れる。
 『ドラトリア』という一つの呪術構造が、『本国』と『北部』の間に亀裂を生み出し、大地を走る境界線を挟んで無数の文字列が嵐となって荒れ狂う。
 整然と行き交っていた言語と意味――それらが雑然とした大渦に叩き込まれる。
 秩序が崩壊し、混沌が到来する。
 形の無い誤情報――広がっていくそれは既に世界にとって『正しい』情報なのだが――に踊らされ、北ドラトリアに混乱が満ちあふれていく。
 それは今まで顕在化してこなかった火種だ。
 武装した警官から自らの身を守るため、『移民』と呼ばれたドラトリア人たちが暴動を起こす――まるで理路が通らないが、数十人が白昼堂々と呪殺されたという映像は彼らを凶行に駆り立てた。
 暴徒と化した集団が警備に当たっていた警官と激突し、双方に死傷者を出して情報は更に拡散していく。
 事態を受け、ドラトリア議会において第一党であった中道左派政党に変わって移民排斥を主張する極右政党が急速に支持を伸ばしていく。
 このような事態を引き起こした遠因は槍神教への隷属と押しつけられた太陰の秩序に依存し、国内の問題を放置していた事にある。
 言語秩序が復旧した後、とある王族議員がそう発言した事により事態は更に混迷を極めていく。
 これを事実上の槍神教への叛逆と受け取った大神院は第七修道騎士団を北ドラトリアの治安回復と混乱の解決の為に派兵。
 それを受けてマロゾロンド教の回帰主義者、国粋主義者、更には現主流派貴族たちに追い落とされた貴族たちが結託し、独自に私兵団・義勇軍を結成し迎撃に向かう。民間警備会社や非正規探索者らを加えた混成軍は北ドラトリアの国境付近で衝突した。
 血が流れ。
 憎悪が吹き上がり。
 怨恨が積み重なり。
 断絶は埋まらず。
 ――そして。
 その後、ドラトリアは槍神教圏から脱退を宣言。
 『図書館』の秩序ではなく自ら築き上げた国家としての秩序のみによって国内の言語を管理することを宣言。
 言語文化保存法に基づき、移民とされたドラトリア国民には母語として他言語の習得を義務としながら、就労、居住、その他各種の面においてドラトリア語の習得を要求し、独自に定めた統一規格試験の受験が義務づけられた。
 事実上、明確に移民に対する言語コストの負担を強制する法律であり――集住地域に固まって住む高齢の外国人労働者たちは言語管理機能を失った端末を破壊し、自ら非国民であると主張して抗議の意を示す。
 かくして火種は燻り続け、北ドラトリアは独立州として本国から半ば切り離されつつ宗教的、文化的、言語的な混乱を抱えることになる。
 街路の上、死者や怪我人を見下ろしながら、訳のわからないことを叫びながら男が狂乱している。
 男の主張は誰にも理解できなかった。
 彼はこんなことを言っていた。
 押しつけられた秩序に叛逆せよ。
 誇りある北ドラトリアは本国から独立すべきである。
 槍神教、太陰、下らない異国文化を排斥し均質な民族だけの純粋な国家を確立し、劣等民族たる移民どもを強制隔離し、二等国民として管理すべし。
 言葉は混沌の中に消えていく。
 それが半ば以上事実になってしまったことなど、誰も気にしない。
 だってそれは、ほんとうはひどくありふれたことだから。
 この地上が大神院の定めた強固な秩序によって支配される前。
 地上はこのように、混沌に満ちていた。
 なんということのない、他愛ない日常だ。
 世界そのものの終焉、唯一絶対たる個の喪失、交換不可能なものを生贄に――それらの恐ろしい対価と比較して、なんと安上がりなことだろうか。
 それが、他愛ない祈りの価値。
 四つの中で一番ささやかな、禁じるほどの価値も無い、ちっぽけな反動のおまじないの正体だった。
 言震ワードクェイク
 北ドラトリアで『引き起こされた』取り返しのつかない災厄。
 大量の死、無数の嘆き、夥しい数の怨嗟。
 確定した歴史に黒い血の記述が書き加えられていく。
 それ以降、北ドラトリアに残された災禍は燻り続け、長く国内の不安要素となってかの国を苦しめ続ける。更には諸外国までもを巻き込んだ緊張状態が外交、軍事、交易、さらには文化コストまでもを引き上げ、長期的に見た場合極めて巨大な損失が世界中に波及していくことになる。
 子供が死に、大人が死に、老人が死に。
 男が苦しみ、女が食い物にされ、あらゆる種族、民族が憎しみを向け合う。
 その事実が、確定する。
 遠く離れた、世界すらも隔てた古代の鉱山に寒々とした風が吹き、白い炎が終焉を告げている。
 ごめんなさい、と掠れた声が響いた。
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――許される事など無いと知っていても、口に出さずにはいられないというように。
 何度も何度も、終わりのない謝罪が繰り返される。
 黒い血の涙を流しながら、虚ろな黒玉を見開いて、ただひたすらに。

「私が強制した事です――逆らえば、貴方は死んでいた」

 黒い槍の穂先が、ゆっくりと降ろされる。

「貴方に責任はありません。咎があるとすれば、それを無理強いした方」

 そう言ったミルーニャの言葉にも、どこか力がない。
 荒れ狂う黒き泥は静謐にその形を安定させていった。
 黒衣に収まった霊長類の身体――未だ目覚めぬアズーリアの声を聞きたいと、罪科を背負った二人は強く願う。
 取り返しのつかないことなど、何も無かったかのように。
 迫り来る白い炎の終焉を感じながら、無限にも思える謝罪の声が延々と続く。

 ――世界が平和になって、みんながこうして手を取り合えればいい。

 祈る言葉は余りに遠く。
 裏返った価値は、脆く零落して、塵となって消えた。






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