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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第3章 特権者のヒロイック・シンドローム、さもなくばアズーリア・ヘレゼクシュの憂鬱

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3-17 無造作な死


「さて」

 出し抜けに、サリアは短剣を鞘から引き抜いてガルズの首に押し当てた。

「話も終わったところで、今度は私からも訊ねたいことがある。アンタ個人の事情はよくわかった。けど、アンタは同時にトライデントの細胞なんだったな? 使い魔の魔女に関して知っている事を吐け」

「――そう言われて、僕が答えるとでも?」

「悪いけど脳髄洗いだの読心術だのは得意じゃないの。ご自慢の眼球をくり抜いて口の中で咀嚼させるのと、はぎ取った爪を歯の隙間にねじ込むの、どっちを先にやりたい?」

 寒気のするような拷問をさらりと口にしながら、サリアは刃先をそっと首筋に押し込んでいく。
 ぷつりと赤い雫が溢れ、一筋の赤色が流れ落ちた。

「怖い怖い――だが、それでも」

「そこのマリーって子を切り刻む」

「やめろ」

 ガルズの穏やかな口調が一転して鋭くなる。
 先程の話で、彼女がガルズにとって大切な相手であることが明らかになったばかりだった。
 彼は迂闊にも自ら弱点を露呈させてしまったのだ――卑劣な行為ではあっても、敵の情報を得る機会を逃すわけにはいかないサリアの事情はよく分かる。
 それに、トライデントの情報が欲しいのは私とハルベルトも同じだ。

「わかった。わかったよ。話す。けど、僕らは一番の新参者なんだ。細胞を全員知っているわけじゃないし、トライデントの全容も知らない。君たちが望む情報を提供できるかどうかは知らない」

「それでもいい」

「了解だ――第六階層で命からがらイェレイドから逃げ出して、マリーが自害したことは話したね。僕が奴と出会ったのはその直後だ。といっても初対面じゃない。以前にも会ったことがあるし、多分君たちも知っている相手だ」

「それは、どういう意味?」

「探索者にはお馴染みのあいつだよ――【翼猫ヲルヲーラ】、迷宮の審判気取りの外世界人。奴はトライデントの【神経】と名乗った」

 意外な情報だった。
 翼猫はあくまでも中立を謳う存在だ。にもかかわらず、トライデントの使い魔でもあるというのか。
 確かにあれもまた外世界の存在だから、使い魔としての資格はあるのだろうけれど、それにしても。

「実を言えば僕たちが出会ったことのある細胞はヲルヲーラだけだ。その他の細胞が何人いるのかとか、どんな人物なのかとか、詳しい事は知らないんだ。だが、復讐の為の力を得られれば僕はなんだって良かった。あの翼猫に誘われるがまま、僕たちはあの青い血をその身に受け入れた。そして、次の瞬間にはトライデントの細胞だという自覚が生まれていた。なんというか、急にそう確信するんだ。自分はトライデントの一部として生まれ変わったんだ、ってね。こうして僕はトライデントに所属することになったんだ」

 んん?
 私は首を傾げた。
 さっきから、なんだか言い回しがおかしい気がする。
 私の疑問には構わず、サリアが言葉を繋いでいく。

「【融血呪】ってやつか――詳しい事は知らないって、まさか目的まで知らないってわけ? 少なくとも、アンタたちにこんなことをやらせるメリットが『組織』にはあるはず」

 あ、やっぱりなんか変だ。

「あの、確認しておきたいことがあるんですけど」

「何かな?」

「トライデントって、個人名、ですよね?」

「いや、僕は組織名のつもりで使っている」

 え、どういうこと?
 トライデントっていう魔女がいて、それが全ての黒幕なんじゃないの?
 私の疑問にサリアが答える。

「トライデントなんて魔女を、誰も見たことが無いのよ。ずっと星見の塔に引きこもってたコルセスカですら、その存在を知らないっていうんだから相当なもの。キュトスの姉妹には異空間に隠れ潜んだり存在そのものを希薄化させたりする魔女もいるらしいけれど、それだって言い伝えくらいは残っている。それこそ【未知なる末妹】並に情報が皆無な魔女、それがトライデントってわけ」

「僕はトライデントというのは複数の使い魔たちで構成されるネットワークのようなものだと勝手に解釈している。実際、ヲルヲーラもその認識だった。あの翼猫はトライデントの連絡係のような役割を担っているらしい。地獄と地上に浸透しているトライデントの細胞たちに情報を伝えるのに、審判という役目はうってつけだからね」

 ガルズが引き継いだ説明に、私は呆然としてしまう。
 というか、それはおかしくないだろうか。
 じゃあトライデントが勝利したら、誰が末妹になるのだろう。
 使い魔全員が末妹ということ?
 組織や集団をひとくくりにした総体がトライデントという魔女?
 確かにそれは使い魔の魔女というのに相応しい在り方かもしれないけれど――。
 そもそも、それだと腑に落ちないことが一つある。

「なら、はじまりは? 末妹候補は選定にあたって使い魔を選ぶんでしょう? 誰が最初の一人を選んだの? というか、最初に活動を開始した細胞こそが、トライデント本人なんじゃないの?」

「僕も良くは知らない。ただ、ヲルヲーラは司令塔のような存在がいることを仄めかしていた。確か、器官名は【脳】だったかな。名前までは知らない」

「じゃあ、それがトライデント本人ってことも」

「だが、一番重要なのは【脳】よりも【心臓】と【子宮】だと言っていた。【脳】は未だ不在の【心臓】――中枢細胞の代理に過ぎないと」

 ええと、ちょっと整理しよう。
 使い魔の座を占める末妹候補トライデントは細胞達を含め誰も姿を見たことが無いらしい(ということは、いないとも断定できないわけだ)。
 ゆえに細胞と呼ばれる使い魔たちで構成される組織名なのではないかと推測されている。
 現在指揮を執っているのは【脳】で、連絡係が【神経】のヲルヲーラ。新参者のガルズとマリーが【右目】と【左目】らしい。

「他に知ってる細胞はいないの?」

「【両足】なら知ってる。迷宮の主セレクティフィレクティがそうだ」

「ち、私もそれは知ってるよ――ていうか、あいつが最上位の細胞だとばっかり思ってた。足ってことはそれなりに主要な器官ではあるんだろうけど、この調子だと左右の【腕】とかもいそうだな」

 サリアとガルズの会話に、聞き逃せない箇所があった。
 以前、ハルベルトに教えて貰った事実だったけれど。
 魂だけの存在となって古代から生き続ける憑依転生者――セレクティフィレクティ。私から妹の身体を奪った仇。
 地獄の魔将を率いる元帥。
 奴もまた、トライデントの細胞なのだ。

「で、話を戻すけど、アンタは地上で十三人も生贄に捧げて何をやらかすつもりなの? その結果がトライデントの目的に利するってことよね? そもそもトライデントの勝利条件って正確にはなんなの? 他の魔女全員を取り込むってことぐらいしか知らないけど、それでどうやって女神に至るわけ?」

「質問が多いな。最初の質問はひたすら巨大な大量殺戮呪術による地上の浄化。つまり僕の目的だ。それ以外はわからないとしか言えないな。そもそも理解している細胞がどれだけいるかも怪しいと僕は睨んでる」

「どういう意味?」

「トライデントの細胞は【神経】たるヲルヲーラを介して【脳】からの命令を受け取り、実行する。けれど、組織だった動きというのはほとんど無い。個人としての立場や自由意思の方が尊重されるくらいだ。それでいて自分の目的に見合った命令を下されるから、誰かに使われているという感覚は実際の所ほとんど無い。一度細胞になってしまえば、どこかから湧き上がってくる青い血のような呪力を思うがままに使うだけでいい。それはトライデントの意に適うことなのだという実感があるんだよ。これには根拠が無いが確信できる。僕たちが自然に振る舞うことがトライデントにとっての最善なんだ。どう最善なのかはわからないけれど」

 まるでガルズは、自分がトライデントという魔女の身体の一部になってしまったかのように語る。
 もしかしたら、それが細胞になるということなのかもしれない。

「結局ほとんど何もわからないってこと――じゃあ最後に一つ。細胞の誰か有する【制御盤】に心当たりは無い? ていうか、アンタは【制御盤】を持ってる?」

 【制御盤】――確かそれは、紀元槍にアクセスするための端末、だったっけ。
 ハルベルトはフィリスのことをそう呼んでいたけれど、他にもあるようなことを言っていた。
 サリアの問いに対して、ガルズは首を振った。

「残念ながら。ヲルヲーラから概要は説明されたけれどね。四魔女の目的は紀元槍に到達する事――そして僕たちのような使い魔は言わばその場所に至る為に存在する【鍵の基本原型】だ。実際に紀元槍にアクセスするためには幾通りかのプロセスが必要になる。まず四魔女と契約し、調整を受け、【制御盤】と適合することではじめて【真の鍵】として完成する。少なくとも僕は【真の鍵】ではないことは確かだね。【制御盤】など持っていないから」

 つまり、使い魔と【制御盤】の二つを揃えないと意味が無いということだ。
 ミルーニャが私とフィリスを欲していたのもそれが理由だった。
 私の左手はあらゆる呪術を解析、解体し、更には摸倣まで可能とする。
 そしてサリアの【氷弓】は時間すら遡れる。
 繰り返す時間の中で、私はサリアに説明を受けていた。
 冬の魔女コルセスカは自らが持つ【制御盤】、【雪華掌】の能力を欠片として使い魔に分け与えることができると。
 欠片は全部で九つ。
 【氷弓】【氷刃】【氷筍】の三つがサリアの欠片。
 【氷盾】【氷燭】の二つがアルマの欠片。
 【氷槍】だけは何故か使用できず、【氷球】は主にコルセスカ本人が使っている能力らしい。
 残る【氷鏡】と【氷腕】の使い手は不在で、適性のある人物を捜しているのだとか。
 使えそうな奴の心当たりがあったら教えて欲しいと頼まれたが、鏡とか腕なんてどうやって使うんだろう――腕?
 あれ、今なにか頭に引っかかるものがあったような。何だっけ。
 考え込んでいたので、いきなり話しかけられてびくりとしてしまう。

「そしてアズーリア・ヘレゼクシュ。君はフィリスの他にも【制御盤】を持っているね」

 どこかじっとりとした口調――粘り気のある言葉に、嫌な感じを覚えた。
 ガルズの目隠しの下で、金眼が爛々と輝いているような気がする。

「【死人の森の断章】――失われた眷族種【再生者オルクス】の秘宝。この時空に一つしか存在できない紀元槍の端末。ヲルヲーラからその存在を聞いた時に思ったよ。それは死霊使いたる僕にこそ相応しい魔導書だ。それさえあれば、僕は仲間たちをもう一度呼び戻し、壊れたマリーの魂を現世に甦らせる事だって不可能じゃない。僕が君を狙っていたのはね、それが欲しかったからなんだよ。そしてそれはトライデントの細胞としても理に適った行動なんだ」

 私は思わず、隣で浮遊しながら照明の呪術を作動させている黒い魔導書を見た。
 ミルーニャの父親から預かった大切な遺品。
 第五階層で手に入れたという秘宝らしいが、そんなに重要なものだったとは今の今まで思いもしなかった。
 確かに優れた魔導書だとは思っていたけれど、てっきり違法改造された禁制品とかちょっとした年代物だとばかり。 

「断言するが、それは生と死、そして魂というものを深く理解したものでなければ扱う事はできない。君が持っていても宝の持ち腐れだよ」

「だからって、貴方に渡したりしない。そもそもこれはミルーニャのものだ。お父さんの形見だから、リーナにとっても大事なもの。使いこなせるかどうかだけで持ち主に相応しいかどうかが決まるわけじゃないでしょう」

「感傷だな。死者の内面を勝手に忖度する――それは愚かで傲慢な思考だよ。聞こえの良い言葉を弄して死者を都合のいいように扱うのが君のやり方かい、アズーリア・ヘレゼクシュ」

 私は言い返そうとして、言葉に詰まった。
 ガルズの言葉は、私の卑劣さを――死者の想いを身勝手な生者の都合で操作するやり口を痛烈に批判するものだったからだ。
 そしてそれは、過去のガルズ自身をも打ち据える言葉なのだ。
 彼と私の差とはなんだろう。
 それはたまたま上手く行ったかどうか。
 アキラの時はなんとかなった。
 ミルーニャの時もどうにかなった。
 傲慢にも死者の言葉を代弁することで、私は苦境を乗り越えてきた。
 けれど、その立場から失敗したガルズを見下ろして『違う』というのは、なんだかひどく卑劣な気がする。
 ガルズの言葉を肯定したくはない。
 けれど、一面の真実を突いていることは認めざるを得ないのだった。



 ガルズから引き出せる情報も無くなり、ハルベルトの体調も良くなったため、私たちは再び坑道を進んでいった。
 途中怪物に襲われたりもしたものの、サリアが素早く察知してくれた為に私とハルベルトとリーナだけで切り抜けることができた。
 サリアはガルズたちに目を光らせてくれていて、戦闘に参加できないことを申し訳ないと謝っていたが、多分彼女が戦っていたら逆に私たちの出番が一切無くなっていたと思う。
 そうしてしばらく歩いて、私たちはどうにか暗い坑道を抜けた。
 眩い陽光。
 ここからしばらく歩けばもう転移門はすぐそこだ。
 パレルノ山に滅びをもたらした悪魔の九姉を撃破したことで、この世界が終端に向かう速度はゆっくりしたものになっている。
 ただ、火元が消えても世界に燃え移ってしまった白焔は消えないままだ。
 緩やかに燃えさかりつつ世界を着実に滅ぼしている。
 とはいえ、この勢いだと完全にパレルノ山が更新されるのは真夜中だろう。脱出は充分可能だと思われた。
 私たちは足取りも軽く(ガルズとマリーはそうでもなかったが)転移門への道を進んでいった。
 やがて、探索者協会が設置している使い捨ての誘導灯が並ぶ道の先に転移門が見えてくる。
 大きな呪石製の柱と、その間で穏やかに発光する空間の揺らめき――泡と喩える人もいれば、レンズと形容する人もいる。
 そこでは【扉】の上位呪術である【門】が常時起動している。
 転移門の周囲だけは元の世界から持ってきた『異界』であるため、この世界が一度終わりを迎えても消滅することなく残り続ける。
 その安全地帯の手前にあるものを見て、私の思考が凍り付く。
 周りにいるハルベルトたちもそれに気がついてそれぞれ息を飲んでいた。
 目隠しをされたガルズたちは事情がわからず、周囲の緊迫した雰囲気を不審に思っているようだが――今の私にはそんなことに構っているだけの余裕が無い。
 早足で近付いていき、我慢しきれなくて走り出す。
 嘘だ。
 あり得ない。
 だってちゃんと、ちゃんとカタルマリーナを倒した。ビークレットも。
 それなのに、それなのに。

「嘘、嘘でしょ、エスト――?」

 転移門の手前、後一歩で脱出できるというその場所で。
 プリエステラは、冷たい石像と化していた。
 そう、石化だ。
 パレルノ山に存在する最大の脅威である悪魔の九姉の亡霊と、その次に危険なイキューは倒した。
 だが、三番目に危険な存在がまだ残っていることを、私は忘れていた。
 蛇の王バジリスク
 迂闊だった。イキューは更新まで現れないし、悪魔の九姉がいない今、このパレルノ山には脅威は無いものだとばかり思って油断していた。
 でも、それでもプリエステラの傍には邪視耐性のあるメイファーラに優れた錬金術師であるミルーニャ、私より序列が上のペイルに医療修道士のイルスがいたはずだ。プリエステラ本人だって強力な呪術師のはず。
 だというのに、一体どうして。
 それに、他の皆は一体どこにいったのだろう。

「す――すまねえ」

 涸れてしまった喉から無理矢理絞り出したような、ひどい声だった。
 それがペイルの声だとわかったのは、プリエステラの近くにあった巨大な岩が微かに動いている事に気がついたからだ。
 よく見ればそれは全身のほとんどを石化させてしまったペイル。
 無事なのは頭部だけで、喉の半ばまでが石に浸食されている。彼に取り憑いている憑依型の寄生異獣が必死に石化現象を食い止めているのが見えた。

「何があったの? みんなはどうしたの?!」

「ティリビナの民は、イルスが全員無事に連れてったよ――あと一歩ってとこで、あのデカヘビ野郎に襲われてな。多分更新のせいで巣を追われてこんな浅い所まで出てきやがったんだ、畜生め。俺ら四人が残って食い止めようとしたが、力及ばずこのザマだ」

「四人――メイとミルーニャは?」

「どっかでまだ戦ってるはずだ。無事かどうかはわからねえが、そう遠くには行ってないだろうよ」

 私は素早く周囲の気配を探った。
 そうしているとハルベルトたちが追いついてくる。
 ハルベルトは既に梟の仮想使い魔を飛ばしていた。上空から周囲の様子を捉え、端末上に鳥瞰映像を立体表示する。

「いた! 良かった、二人ともまだ無事だ」

 仮想使い魔から送られてくる映像の中で、メイファーラとミルーニャが激しい戦いを繰り広げている。
 だが明らかに劣勢だった。私は目を見開く。

「何、あれ」

 蛇の王の巨大で恐ろしい姿はつい最近見たばかりだ。
 けれど、映像の中の怪物はそれと比べて明らかに異常だ。
 全長は標準的なものを遙かに超えており、鎌首をもたげただけなのに頭の位置がメイファーラの遙か上にある。
 その太さも常軌を逸しており、一呑みでメイファーラとミルーニャを丸ごと口の中に放り込んでしまえる――どころか、ここにいる私たちを全員同時に放り込めるくらいに大きい。さっき通過してきた坑道並の巨大さでは無いかと思わされる。
 そして、通常は毒々しい緑であるはずの鱗は真っ白で、爛々と輝く両の眼も同じく白い。まるで周囲で燃えさかる白焔に染め上げられてしまったかのようだ。
 ハルベルトが冷静な分析を口にする。

「恐らく、白焔による異常成長。本来なら白焔に触れれば老化か崩壊は免れないけれど、私たちがビークレットお姉様の亡霊を倒したことで火勢が弱まって、僅かに触れた火の粉が蛇の王を急激に成長させてしまったんだと思う。運の悪いことに、その蛇の王はとりわけ可能性のある個体だった」

 運の悪いことに。
 私は影の底で出会った守護天使の言葉を思い出す。
 プリエステラを消す為に働いた世界の修正力。
 大抵の不運というものは、運命の帳尻合わせが露骨過ぎて可視化されてしまった結果だと言っていた。
 でも、どうにかなるって。
 このやり方なら抜け出せるって、そう言っていたはずなのに、どうして。
 駄目だ、そんなことを考えている場合じゃない。今とるべき行動は――。

「サリアッ」

「こっちは呪力がほとんど空よ。呪力供給が無いと【氷弓】は使えない」

「わかった。なら私が。遡って、フィリ――」

 私は黒衣の袖を捲り、左手のフィリスを発動させようとして――

「あ、レ――?」

 ぐらり、と視界が揺れるのを感じた。
 おかしいな。まだ金鎖は残ってる。昼間とはいえ、呪力だって底を突いたわけでもない。だというのに、なんで私、こんなふうに倒れそうになってるの?

「ちょっとアズーリア、アンタ本当に大丈夫なの?!」

「エ?」

 私はぼんやりとした思考のまま問い返す。
 何だろう。サリアはどうしてこんなに怒っているんだろう。

「アズ、その、あの――」

 ハルベルトがなにか言いづらそうにして、言葉を舌先で押し止めてしまう。
 リーナが口を押さえて後ずさりし、サリアが小さく嘆息する。

「下。漏れてる。あと背中と頭。出てる」

 あ、ほんとうだ。
 フィリスに送り込む呪力を、勢い余って別の場所に使ってしまったらしい。勝手に変身してしまい、黒衣のフードを突き破って角が生え、背中からは翼、足下からはにょろにょろと触手が沢山はみ出している。
 いけないいけない。
 さっきサリアに窘められたばっかりなのに。
 動揺していたからだろうか。しっかりしないと。

「アンタ、やっぱしばらくここで大人しくしてなさい。石化されて間も無いならまだ助かる方法だってある。私はあの二人に加勢に行ってくるから、残りはここでガルズとマリーを見張ってて」

「デも、サリあダって呪力ほトんど残っテなイって」

 んん、なんだか声の感じもおかしいぞ。
 気を抜くと鳴き声とか出そうになる。
 それに、なんだか舌をちゅるちゅると伸ばしたい気分だ。
 ちゅるちゅる。にゅるにゅる。うねうね。
 ええっと。
 舌ってどんなのだっけ。霊長類とかに付いてる触手の一種だよね、確か。

「無くても余裕。要するに視界に入らないように仕留めればいいだけ。いいから私に任せて休んでなさい。それ以上無理すると、本当に戻れなくなるよ?」

 戻る?
 言い回しに違和感があった。
 私が『戻る』って言った時、それはどんな形態のことなんだろう。
 むずかしいことはよくわからない。
 あたまがぐるぐるしてきた。
 ふあんでしかたがないから、ビーチェのことをかんがえよう。
 ビーチェ。やさしいビーチェ。
 そう、あのきれいな妹だけをずっと想ってきた。
 だから、私が戻るべき姿、帰るべき場所はいつだって一つだけ。
 そうだ。
 戻れなくなったら駄目。
 それは誰よりも大切な妹、ビーチェのことを忘れるということだ。
 深く息を吐く。

「ごめん。ちょっと、休むね。後を任せていい?」

「任された。落ち着いたら石化治療のできる呪術医探すか【静謐】で石化を解呪できないかどうか試してみて。まずはそっち試すのが先」

「あ、そっか。だよね」

 そうだ、冷静に考えればその通りだ。
 いつの間にか、何かあるとすぐに過去遡行をしてやり直そうとする癖が付いてしまっていた。
 これがサリアの言った『過去遡行に溺れる』ということなのかもしれない。
 この万能にも思える力の罠。
 その力無しで切り抜けられる事態であっても遡行してしまい、貴重な『正しい道』を見逃してしまう。無駄に過去に遡行する事は避けなければならない。
 大きな力には相応の反動がつきものだ。
 『戻れなくなる』――膨大な呪力を守護天使から引き出す夜の民の神働術、世界を浸食するフィリス、依存を促す時間遡行系呪術。
 『私』という在り方を変質させかねない危険な切り札。
 使うべき時に躊躇うことは命取りだが、慎重な扱いが求められることも確かだ。
 風のように疾走するサリアを見送って、私は肉体を安定させながら魔導書をガルズたちに向けた。
 僅かに呪力を放射して、いつでも呪術が発動できることを示す。

「ハル、解呪できそう? 私がやった方がいいかな?」

「いいからアズは待ってて。今解析してるけど、多分大丈夫。ハルの【静謐】で石化現象は解呪できる。ただ――」

 ハルベルトはプリエステラの傍でしばし言い淀んだ。
 それから少し声を小さくして、

「ハルの【静謐】は呪力を遮断して呪術による現象を強制的に終了させる力業。だから、石化が解除される際に対象の心身が損壊する可能性がある」

「そんな――それって治癒呪術で治せる?」

「体内から呪力が失われているから、下手をすると壊死したり、最悪アストラル体が石化したことによって手遅れになってるかも。そうしたら」

 ハルベルトがちらりとマリーの方を見た。
 アストラル体の損壊。単純な治癒呪術では実体の無いそれを修復することは難しい。下手に干渉して、哲学的ゾンビになってしまったら――。

「やっぱり、私が――」

「僕がやろうか?」

 思いも寄らない申し出。
 ガルズは私に魔導書を突きつけられたまま、感情が見えない声でそう提案した。

「僕も【静謐】が使える。それも君たちみたいな呪文によるものじゃなくて、邪視による打ち消しだ。蛇の王の世界観を同じ邪視の論理で中和すれば、肉体への負荷も最小限で済むんじゃないかな」

「馬鹿な事を」

 ガルズの言うとおり、邪視による石化は邪視によって打ち消すのが一番無理がない。だからといって彼の最大の武器を自由にさせてしまうわけにはいかない。

「この両の目で君たちを害したりはしないと誓おう。呪文で誓約してもらっても構わないよ。ついでに僕の目が届かない背後から呪術で攻撃の準備をしておけばいい。リーナ、僕の目隠しを持ち上げてくれ。解呪が終わったらすぐに下ろせばいいだけの話だ」

「貴方にそんなことをする理由が無い」

「君はマリーを救ってくれた。ここで借りを返しておかないと、僕はずっと惨めなままだ。何もかも君に負けて、劣った存在として死んでいくのは流石につらいんだ。英雄になることができなかった男に、最後の慰めを与えると思って、どうか機会をくれないかな」

 考えるまでもない。
 拒否すべきだ。
 だというのに、私は一瞬考えてしまった。
 マリーを助けた借りを返したい。惨めなままで終わりたくない。
 ガルズの口調はとても真剣だ。
 確信した。彼の言葉に嘘はない。
 だとしても拒否すべきだ。
 けれど同時に、私の中には彼の言葉を聞き届けてあげたいという気持ちが生まれていた。
 当然のようにハルベルトは首を横に振るが、リーナが眉尻を少しだけ下げて、

「あの、やらせてあげてくれないかな。もし何かしたら、私が間に入って壁になるからさ。それに、なるべくならエストが傷付かない方法がいいよ」

 私は迷う。
 静かな沈黙。信用が置けるはずもない。理性は既に答えを出している。
 けれど。
 ガルズの過去。私とは正反対の結末。思い知らされた私の愚かしさ。
 言葉だけで強く伝わってきた、深い苦しみと悲しみ。
 大切な仲間たちを失って、全てに復讐しようと怒りと恨みを燃やす。
 ガルズは敵だけれど、リーナの従兄弟で、大切に思う人だ。
 愚行だ。
 愚行、だけれど。

「――妙な動きをすれば背中から撃つ」

「アズ、駄目」

「ハルもすぐに攻撃できるように準備をしていてくれる? 私は、エストが苦しんだり傷付いたりするのはもう見たくないの。もちろんみんなのことも守りたい――だから、お願い」

 ハルベルトもまた、プリエステラを傷つけてしまうことを危ぶんでいた。
 一瞬だけ目を瞑って、すぐに迷いを振り切って決断する。

「隊長はあなた。何か不測の事態が起こったら師であるハルがなんとかする」

「ありがとう、ハル」

 揺るぎない信頼を感じて、胸が熱くなる。
 良かった。この気持ちがあれば、私はまだ大丈夫だ。
 私たちはガルズの目が届かない背中側に立ち、呪文を発動の起句を除いて詠唱し終えた。もちろん周囲を巻き添えにしないように、範囲を絞った高威力の呪文だ。
 待機状態で合図すると、リーナがガルズの目隠しを持ち上げる。
 邪視者の呪術行使は一瞬だ。
 ガルズの周囲に金色のアストラル光が放射されたかと思うと、次の瞬間には石像と化していたプリエステラの全身がゆっくりと正常な状態に戻っていく。ついでとばかりにペイルの首から下も解呪されていく。
 ガルズはそのまま素早く振り向いて私たちに金眼を向ける――というようなことはしなかった。
 宣言通り、邪視による【静謐】で石化を解呪しただけ。
 リーナが目隠しを戻し、ガルズは再び無力な状態に戻る。

「あれ、私、どうして――」

「エスト! よかったー! 心配したよー!」

 リーナが勢いよくプリエステラに抱きついて喜びの声を上げる。
 戸惑いの表情を浮かべているプリエステラには傷一つ無い。頭部の花は相変わらず艶やかに咲き誇っている。
 良かった、いつも通りのプリエステラだ。
 遅れて実感が湧いてくる。 
 ようやく、彼女を救えた。
 全員無事に、このパレルノ山を乗り越えられたんだ。
 正確にはまだサリアとミルーニャとメイファーラが残っているが、呪力無しでもあのサリアが負けるとは思えない。
 私はもうすっかり安心していた。
 これにて万事解決。
 あとは帰ってみんなで祝杯を上げるだけだ。
 プリエステラとの約束。
 ようやく果たせるんだと、私はほっと一息吐いて、

「目にも留まらない【小鬼殺し】の短剣は怖いけど」

 目も眩むような金色の眼光が、私とハルベルト、リーナとプリエステラ、そしてペイルを貫いた。
 もちろん、呪布製の目隠しは彼の両目を塞いだままだ。
 彼の、頭部にある両目は。

「呪文使いの遅い詠唱はまるで怖くないな。たとえ起句の一言であろうとも、僕の一睨みの方が遙かに速い」

 ガルズ・マウザ・クロウサーの延髄部で、金色の眼球が壮絶な呪力を放出して私の動きを束縛していた。
 それだけではない。彼の束縛された両手を見れば、その掌でも目蓋が開き、頭髪が一部盛り上がったかと思うと後頭部でも金色の瞳が輝き出す。
 衣服が盛り上がり、内側から溢れ出そうとしている呪力に耐えきれず弾け飛ぶ。
 露わになったのは、見た目通り線の細い裸の上半身。
 そして、そのいたる場所で瞬きする、無数の目、目、目。
 金色の眼球が、ガルズの全身に埋め込まれているのだ。

「さっき話したじゃないか。歴代当主たちの金眼を使用した、マウザの眼球コンピュータだよ。マウザの血族は僕の代で断絶するから、当然あれも廃棄するわけだけど――折角だから部品を有効活用しようと思ってね。ほら、骨花の使い魔たちが金眼を持っていただろう?」

 隠していた呪力を迸らせ、ガルズは容易く拘束を引き千切ると、目隠しをはぎ取る。全方位への邪視。その場にいる全員を釘付けにしながら、ゆっくりとガルズが振り返る。
 もちろん、彼には本来そんな動作は必要ないのだ。
 ガルズにとって、頭部の眼球は無数にある内の二つに過ぎない。

「そして僕の身体にも埋め込んでいたというわけだ。邪視者の弱点は死角――なら死角を無くせば弱点は消えるという理屈だよ」

「目隠しは、意味が無かったってこと――?」

「まあそういうことだ。実を言えばいつでも抜け出せたんだけどね。流石に【小鬼殺し】には勝てないから機会を窺ってたんだ」

 束縛バインド系の呪術――【静謐】に続いて、またしても私の得意呪術。
 金色の拘束帯が全員を雁字搦めに縛り上げていく。
 苦痛に呻く声が上がる。
 リーナがガルズに何かを言おうとするが、その口元にも光の帯が巻き付いて言葉を封じ込めてしまう。
 ガルズはマリーの束縛を解き、余裕に満ちあふれた態度で私に向き直った。
 金眼を無数に埋め込まれた腕が、浮遊する黒い魔導書に伸びる。

「ようやく本来の目的が達成できる。十三階段の贄を殺し、【制御盤】をこの手に――ああ、これで僕は真の鍵、真のグロソラリアになれるんだ!!」

 ガルズの左手が、【死人の森の断章】を掴んだ。
 膨大な呪力で、強引に防壁を突破する。
 邪視者特有の強引な世界観の改変が空間を歪曲させ、光をねじ曲げていく。
 ガルズは急速に魔導書を掌握しつつあった。
 かつて私はあの魔導書を掌握するために長い時間を有したけれど――それよりも圧倒的に速い。
 それはお互いの相性がいいのか、それとも呪術師としての力量の差なのか。
 おそらくは、両方だった。

「ようやくだ――ようやくだよ、マリー」

「わーい珍しくダメダメじゃないですー喜ばしいので死にましょう」

 ガルズは穏やかな口調で傍らの少女に語りかける。
 金眼を埋め込んだ掌が、そっと小さな頭を撫でた。 

「さて。【小鬼殺し】が戻ってくる前に、儀式の生贄を捧げるとしよう。まずは君からだ、アズーリア・ヘレゼクシュ」

「くっ、遡って――」

 フィリスを活性化させようとするが、次の瞬間には眩暈が襲い、意識が一瞬断絶する。
 今のはガルズの妨害――?
 違う。
 左手が泡立ってきている。足が崩れ、霊長類どころか鹿の足さえ摸倣できなくなってしまっている。
 フィリスの使用には代償が伴う。
 それは、ラーゼフに言い聞かされていたはずだ。それなのに、私は。
 金色の視線が、倒れ込んだ私を冷ややかに見下ろしていた。

「さすがに夜の民の固有種――それも覚醒済みの個体とあっては完全に殺しきるのは骨が折れる。だから少し工夫をしてみたんだ。例えば、僕と君との間に関係性を構築して、類似に基づいて呪力の経路を作る、とかね」

「それって、私の前で事情を聞かせたのは――」

「君に共感して、同情してもらう為だよ。上手く行ったみたいだね。君たち夜の民は摸倣が得意なゆえに共感能力に優れる――これで僕の世界観を受け入れる準備ができたというわけだ。おめでとう。君は君自身の優しさゆえに死ぬ」

 ぞくり、と私の背筋が粟立つ――泡立つのを感じた。
 背筋――背筋とは、何だっただろう。
 背中とは何か。私にそんなものがあっただろうか。

「それでは、君の起源を解き明かそう。これよりアズーリア・ヘレゼクシュの解体作業を開始する」

 金眼が妖しく輝いて、馴染み深い呪力の波動が私の全身に浸透していく。
 私そのものに使われるのは初めてだ。
 けれど考えてもみればこの上なく効果的な攻撃手段。
 大神院が定めた眷族種序列は、呪的性質が強いほど位階が高くなる。
 第二位の夜の民はほとんど呪術生命体だ。
 そう――エスフェイルと同じように。
 かつて私は第五階層で、あの魔将に【静謐】を使う事で存在ごと解体した。
 ならば、同じ理屈で私そのものに【静謐】を使ったなら。

「ガルズ・マウザ・クロウサーが語りて曰く」

 当然の結果として、私は死ぬ。
 そして、ガルズは解体する。
 私という存在の構成要素を解明し、自らに都合のいいように再解釈していく。その邪視――世界観を拡張することで自分の認識で私を否定しようとしている。

「アズーリア・ヘレゼクシュの本質は『人類』ではない。『人類』とは知能を有することが条件である。だが、アズーリアにまっとうな知能というものは存在しない。その有り様、その生態、その構成要素――そもそも、夜の民というのは『人類』ではないのだから」

 それは、大神院の恣意的な分類方法を真っ向から否定する言葉だった。
 地上の秩序など迷妄である。
 合理的ではない。狂信者の間違った思考であると蒙を啓いていく。
 ハルベルトの悲鳴が、拘束呪術によって途切れて消えた。

「全眷族種は生物分類学においては哺乳類――霊長類から分岐したものだ。しかし夜の民は違う。見ただけでわかるだろう、そのおぞましき異形の身体!」

 無数の金眼から光が放たれた。
 呪力によって黒衣が引き裂かれて、私の全身が白日の下に晒された。
 周囲の仲間たちが、思わず息を飲んだ。

「蠕動する黒い触手、異形の翼、奇形の足、硬化した複雑な形状の角。そして泡立つ体表は繊維質でありながら粘性を帯びている。これは果たして『人類』か? いいや違う。そしてその頭部は三つある。霊長類を模した崩れかけの頭部。溶けかけた牡鹿と牝鹿の頭部もある。この中のどれにアズーリアという人格を司る脳が収められているのか――答えは『どれでもない』だ」

 暴かれる。晒される。解かれる。
 そして、私は私ですらなくなっていく。

「呪力によって変質する万能細胞――夜の民を構成するそれは自在に形状を変化させ、影の触手や複数の形態を成立させる。夜の民に脳は無い。思考を偽装してはいるがそれは知能ではない。霊長類を始めとした他の生物の摸倣――その性質ゆえに似たような振る舞いができるだけであって、けっして同じではありえない」

 違う、そんなことない。
 私はみんなと同じように考えてる。
 私にもちゃんと感情があるし、思考だってしている。
 私は――――。

「『あと、3600秒。それまで逃げ切れば、私の、私たちの勝利となる。その時の『私たち』というのが何人になっているかはわからないけれど。私、アズーリア・ヘレゼクシュは夜の森を疾走していた』――なるほど、それらしい個人的視座いちにんしょうだ。まるで本物の人類が書いたようだね」

 ガルズが、黒い魔導書を開いて何かを言っている。
 それは、どこかで聞いたことのある文章。
 魔導書の記憶領域に保存されていた、私の主観視点の、

「君の『物語』だ。魔導書に焼き付けられた君の記憶――『ただでさえ兜のおかげで視界が狭いから、森の暗闇は私の走る速度を制限してしまっている。転ばないように慎重に走ると、一定時間逃げ回るということが絶望的に思えてくる』――なるほどそれらしい描写だ。これを読んでしまえば誰もが思うだろうね。これを書いているのは知能を持った人間に違いないと。けれど本当にそうだろうか。動物が適当に筆を滑らせたり、端末を叩いたりしてそれらしい物語ができることだってあるのではないかな。高性能な機械なら人を欺くことだって可能なのでは?」

「やめて――お願いだから、もうやめて」

 自分の口から、こんなに弱々しい声が出るなんて信じられなかった。
 鹿の頭は疾うに溶けて無くなっていて、私は霊長類の頭部だけでどろどろの黒い肉体に沈んでいく。解体されていく私の存在は、もう既に滅びていく寸前だった。

「人は目に見えるもので世界を把握する。観測されたものだけが確定して世界に固定される。君たち夜の民は巧妙に自らを偽装し、摸倣することでその本質を隠蔽してきた。黒衣で自らを覆い、言葉を弄することでね。君たちは普段隠れているがゆえに、かろうじて存在強度を維持できているに過ぎない」

 記述。
 そうだ。記述をしないと。
 参照先を探して摸倣して既存の情報と関連付けて組み合わせを考えてひたすらに記述をして情報を絶えず上書きして更新しないと存在の強度が保てなくなる。

「生物分類学における領域ドメインを四分する古典的な種。すなわち真核生物、真性細菌、古細菌、そして疑似細菌。摸倣子の働きによって細胞の構造を成り立たせているこの呪術生命は、極微な呪力の運動によって機能するいわゆる天然の呪術微細機械マイクロマシン――君たち夜の民はその集合体だ」

 わかっている。
 ガルズの目論見は正確に理解できている。私だって【静謐】使いだ。相手が私の存在をどう破壊しようとしているかぐらい見当がつく。
 私の『個我』を解体して否定することで、マリーのように――哲学的ゾンビにするつもりなのだ。
 そうすれば私は魂を失い、アストラル体で維持されている実体細胞群は形状崩壊して死んでしまうだろう。
 けれど、私は動けない。フィリスを使おうとすると、身体の奥底から何か致命的なものが剥がれ落ちていく気がする。
 誰かが、私の存在しない足を引いて影の底に連れて行こうとしているかのような恐怖が私の身体を束縛している。
 動けない。動かないと死ぬのに、動いても死ぬ確信がある。
 何もできないまま、私は解体され続ける。
 私を私たらしめる神秘。
 魂というものの不可侵性。
 それが破壊され、陵辱されていく。

「そんな、そんな検索すれば出てくるような知識で」

「だが――それが事実だ。誰もが下らない迷信を、意味のない狂信者の秩序を無意味と、無価値と知りながら信じる振りをしているだけ。地上とは虚ろな楽園だ。内実のない空虚。『そういうことにしておこう』といって都合のいいことだけを見続ける。ほんものの事実から目を背ける、弱いものたち」

 ガルズは己の世界観を拡張し続ける。
 無数の瞳から放たれているのは彼にとっての事実。
 彼が認識している世界そのものだ。
 ガルズにとっての『正しさ』が、私に貼り付けられていた『人類』のラベルを引き剥がしている。
 私は、地上の秩序によって『人類』であると認められていた。
 その秩序に、ガルズは叛逆する。

「それが事実だ。それだけが事実。アズーリア・ヘレゼクシュの事実。知能無き疑似細菌に心は宿らない。魂などない。外側から見ればそれらしく見えるだけの、仮構された人格だ。一人称の記述? 人間味のある言動? それは『人類』の証明にはならない」

 人の心は神聖不可侵などではない。
 脳という臓器の活動、それを解体して精査すればいかようにでも説明が可能。
 ガルズは死霊使い――邪視によって実体の無い霊魂を知覚し、杖によって物質的な死体を操作する複合呪術師だ。
 そんな彼が内面化しているのは、無機質で杖的な思考。
 ガルズ・マウザ・クロウサーは空虚なる杖の世界観であらゆる呪文を否定する。
 心などない。魂など無い。
 あるとすればそれは脳という複雑な系の内側に生起されるだけのもの。
 それを摸倣しただけの代物には心は宿らない。
 ゆえにそれは『人類』ではないのだと断定する。
 ――だが、奇妙だ。
 そのような杖の世界観を有するにも関わらず、ガルズは霊魂という架空の存在を認識できている。
 矛盾している。これは一体、どのような理屈なのだろう。

「簡単なことだ。僕が見る霊魂とはまやかしなんだ。死を恐れるがゆえに人は死後を仮構し、宗教を作り出す。恐怖というのは生物学的な感覚だ。ゆえに杖の世界観でも説明が可能なんだよ」

 死に対する恐怖もまた人間の自然なふるまい。
 死後を仮構してしまう人の弱さ。
 脆弱さをあるがままに受け止め、己の妄想と逃避を形にする。
 ガルズの見る霊魂とは、その恐怖が具現したもの。
 そして恐怖とは、生物が持つ最も根源的で強い感情だ。

「僕は弱い。ひどく恐がりで、仲間よりも自分の命が大切な卑劣漢だ。ゆえに僕は死霊使いなんだ。僕は弱いから、自らの弱さや愚かさを肯定してでも力が欲しい」

 杖的な――合理的な世界観を有しながらも、自らの弱さゆえにそれを棚上げして霊魂を知覚するという非合理的な世界観と使い分けることができる。
 矛盾を内包した、弱者の狡猾さ。
 でも――と私は思う。
 私は言葉を紡いで死者を今に呼び起こす。
 それは卑劣な行為だけど――だからこそ、ガルズの世界観を肯定できない。
 感情の赴くまま、強く叫ぶ。

「違う! それは、弱さなんかじゃ――弱さだけじゃない!」 

「死とはおぞましい恐怖に満ちた残酷な空虚だ。これが事実だよ、アズーリア」

「そんなことない――貴方は、仲間を、マリーのことを」

「黙れ」

 金眼が閃光を放つ。
 衝撃。
 私は低く呻いて地に這いつくばる。もう全身が崩れている。
 今の衝撃で首が曲がり頭も半ばまで融解して、声を出すこともできなくなってしまった。駄目だ、もう何もできない。
 伝えたいことも、伝えられない。
 私には、私は、言葉を紡ぐことでしか自分の存在を証明できないのに。
 ああ、もう喉も舌も口も無い。
 それがどんなものだったのかも思い出せない。
 私は、私は――。

「これが事実だ――『お前は、存在しない』」

 遠ざかる。
 感覚していた光、音、空気、土の硬さ、その全てが消えていく。
 私――それは何だったのだろう。
 黒いのか白いのかあるいはそれは色ですらないのか。
 空虚。
 ただそれだけが無限に広がっていく。
 その彼方から、途方もなく巨大な何かが迫ってくるのを感じながら。
 どこか遠くで、泣きながら誰かの名前を呼ぶ声を聞いたような気がした。
 その声が、あんまり悲しそうだったから。
 なんだか、悲しいということを摸倣して再現できるような気さえしてくる。
 お願いだから、そんなに泣かないで。
 ああ、それにしても。
 そんなふうに死を悲しんでもらえる誰かは、幸せだ。
 アズーリア。
 意味の分からない、摸倣のしようがない音の羅列。
 その記号が何なのか、まるでわからないけれど。
 理由も無く、泣いている誰かの涙が止まればいいと、そう感じた。









 時に、眷族種は植物に喩えられる。
 元々はティリビナの民たちが他種族と融和するべく始めた習慣で、黒い肌の民を『黒檀』、白い肌の民を『白樺』といった具合に名付けることで、余りに異質な互いの溝をわずかでも埋めようという命名の呪術であった。
 結果としてその歩み寄りは失敗したものの――その習慣と名前は今でも地上に根付いている。
 ゆえに夜の民たちはその原形態の有り様から、影の海の黒花翁草アネモネという異名を持っている。黒いアネモネが影の世界スキリシアにしか咲かないということもその理由の一つだった。
 そして、眷族種を植物に喩える以上、ごく自然な発想で眷族種と花言葉とを結びつけるという文化が生まれていく。
 花と言葉を関連付け象徴的な意味を担わせる慣習は古くから言語魔術師たちの間で流行してきた。
 それらは時代や地域によって異なる色合いを見せるが、単一の地域にしか存在しない珍しい植物ならばその意味のゆらぎは余り起こらない。
 黒いアネモネの花言葉も、そうした意味が固定されたものの一つである。
 異世界学者であるリーデ・ヘルサルが著した『影世界の植物大全』によれば。
 残酷な真実。
 あるいは、絶望。













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