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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第2章 もしサイバーパンク世界の住人がオカルトパンク世界に転生したら

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2-2 転生者(ゼノグラシア)



 

「では出過ぎたことを言いますが、アキラは少々実力不足なのでは」

 中央通りを歩きながら話していると、コルセスカがこんなことを言ってきた。
 常に丁寧な姿勢を崩さないコルセスカに、あまり気を遣わなくてもいいと言った直後の発言である。この女性には容赦というものが希薄だった。

 しかし直前に醜態を晒した手前、反論しづらいことも確かだ。より強くなる必要があることも事実。

「そう簡単に強くなれと言われましても」

「装備を充実させる、強い仲間を雇う、などが比較的簡単ですが」

「ああ、そういうことですか」

 それなら考えなかったわけではない。
 だが、言葉が分からないから誰かを護衛として雇おうにも上手くコミュニケーションがとれないし、相手が信用に足るかどうか判断できない。

 武具に関してもどのような性能のものか買うときに分からないと不安だし、それに手足を用いて戦うのが身体に染みついてしまっている。もちろん今から武器を使った戦い方を身につけるのもありといえばありだろう。

 そういったことを説明すると、彼女は少し考えてこう言ってくる。

「では私が作業を完了すれば問題は解決するわけですね。なるほど――」

 ちょっとした躊躇い。なんだろうと訝しんでいると、コルセスカはやや遠慮がちにこう申し出てきた。

「よろしければ、買い物に付き合いましょうか? アドバイスくらいはできると思います」

 はて。これは厚意、なのだろうか。
 何かしら話すのがお互いにとって望ましいわけで、話題や目的があったほうがいいのは間違いない。それに自分の身も守れない相手と一緒にいる、というのは彼女にとってはやはり面倒なのかもしれない。断る理由は見付けられなかった。

「わかりました、じゃあ、お願いしていいですか」

「ええ、微力ながら協力させて頂きます」

 

 

「そのマントはいいですね」

 と、コルセスカが言う。女性にファッションを褒められたのは生まれて初めてである。少し嬉しかったが、直後にオチがついた。

「耐久性に優れた上物ですよ。【スキリシア=エフェクの夜の民】が用いる抗呪繊維で織られた逸品。それに、装備を隠しやすいでしょう」

 勿論、そういう意味だってことは言われた瞬間気付いていましたけどね。ただ、その意見には頷けなかった。

「どうでしょうか。少し前までならともかく、今はストレージに――亜空間に物をしまう技術を勝手にそう呼んでいるんですけど、それがあるから見た目から相手がどんな装備を持っているか判断する時代は終わったんじゃないかと思います」

「武器はそうかもしれないですね。しかし防具はどうでしょう」

「というと、鎧とか」

「ええ。今のところ、隠していた防具を瞬時に取り出してその場で着替える技術が存在するとは聞きません。防御力が隠されているというのは、少なくとも最初の一撃が当たるまでは有利に働くことが多いです」

 一理ある。事実、先程の一戦でも俺は相手の防御力を見誤り、不利な状況に陥った。もっとも、どんなに防御力が高くても、それを上回るほど強力な呪術の前では無意味なのだが。実際のところ、この世界には彼女レベルの使い手というのはどのくらいいるのだろう。

「私はそれほどのものではありませんよ。魔女としては、上に七十人はいますし」

「なんか具体的な数字ですね」

 世界ランクでもあるんだろうか。世界で七十番目くらいってどのへんの位置なのかも母数がわからないので何とも言えない。

「具体的な心当たりがそれくらいだと言うことです。もっと多いかも知れないですね――私のことはともかく、強力な防具を用意すべきなのは確かです。予算、どのくらいですか」

 そんなやり取りをしつつ、しばらく二人であちこちの商店を回った。防具だけではなく端末や様々な小物など、関係の無さそうな店も冷やかして回ったりして、それなりに話の種には困らない。

 なにしろ上と下から雑多に物が持ち込まれ無秩序に販売されている。お互いに未知の品なども多く、買わずとも見て回るだけでも大分時間が潰せる。巨大な目の女と隻腕の男の二人組はそれなりに目立つが、あくまでそれなりだった。この街にはさらなる異形が溢れている。

 すれ違う人々の半分は俺と似たような『上』系の人種で差異は肌の色や顔立ち、体格程度のものだ。だが『下』系の人種はその形態からして多種多様である。

 頭部が甲虫のような者から鱗に覆われた魚とも蜥蜴ともつかない者。あるいは下半身が蛇のような者(この中でも、滑るように移動するタイプとばねのように身体を撓めて一気に前進するタイプとに分かれる)。

 いわゆる獣人は数えればきりがないほど種類が豊富だし、肌が石だったり金属だったりする者は手に武器を携えており戦闘職なのだろうと推測できる。背中に鳥や蝶の羽が生えている者は見目麗しいものが多く、路地の奥まったところで街娼として客を誘っている。

 数は少ないが、枯れ木のような肉体の者やどう見ても大きめの花としか思えない者までもが服を着て端末を覗き込みながら歩いているので、最初の頃はちょっとした現実感の喪失を感じたものだった。

 今ではもう慣れたものだ。ごく自然に、雑踏の中に埋没していく。

「これは下側の衣類でしょうか。身体構造が多様なぶん、つくりも複雑なようですね」「この木彫りの人形、ちょっとこけしっぽい。あ、こけしっていうのは日本の伝統工芸品で」「ああ、あれは【Spear】という、いわゆるアイドル歌手ですよ。上だけでなく最近は下でも人気だとか」「近接戦闘は手足を使うのに慣れてるんであまり変えたくないんです。できれば飛び道具がいいんですけど」「弓、銃、砲といった投射武器は法で厳重に規制されています。資格を持っていないと、単純所持であっても禁固刑は確実です。器用さが足りないとそもそも扱えませんし」「だとすると投げナイフとかになるのか――」「呪術系はいかがでしょう。杖、魔導書、オーブなどは資格や適性が必要ですが、使い捨ての巻物スクロール呪符シールならアキラにも使えるのでは」「この呪符の効果って?」「それは減速符ですね。対象にSlowを付加する補助系呪符でコストパフォーマンスに優れています。ちなみにSlowは累積します」「呪術の専門用語がよくわからないんですが」

 そんなふうに買い物と会話を半々でこなしていると、いつしか時間が過ぎて時刻は夕方になっていた。

 この世界の時間や天体の運行はどうも俺の世界とほぼ同じらしく、内蔵の時計を調整する必要すらなかった。数ある異世界の中には惑星の公転軌道が違ったり衛星が複数あったりして一日の時間が二十四時間ではないことも多いそうだが、なぜかこの世界はそうした点で元の世界とそっくりなのだった。

 偶然の一致なのか、それともなにか理由があるのか。わからないことだらけだが、時間はそんな事情とは関係無く流れていく。

「この懐中時計、中々いいですね。私はこれを買おうと思いますが、アキラもいかがです? 見たところ時計を持っていないようですが」

「ああ、俺は内蔵のがあるので」

 言いかけて、脳内に機械を埋め込んでいるという説明をしていいものかどうか迷う。

 俺が異世界人であるということは特に隠していない。アズーリアの態度から、一般的にその存在が受け入れられていることが分かっていたからだ。首領も俺を異世界人だとわかっているし、コルセスカも承知しているという。

 彼ら彼女らにとって俺は遠い外国からやってきた異邦人、というような存在のようだ。
 だが言語や習慣はともかく、義体化されている俺の右腕には皆が強い関心を示す。肉体の機械化技術はこの世界では一般的では無いらしい。

 そんな違った常識を持つ人々に、脳の中に機械を埋め込んでいますという説明をして受け入れてもらえるだろうか。そんな俺の一瞬のためらいは、だが続くコルセスカの反応でかき消された。

「ああ、拡張現実というものですか。視界に時計を表示できるのですよね? 侵襲型機器の技術には明るくないので推測ですが」

「ええと、そういうの、分かるんですか?」

「いいえ、全く分かりません。私達の世界では人間の五感を器質的に操作する技術は様々な理由から発達しませんでした。ですから拡張現実や仮想現実の技術はその存在のみが示唆されていましたが、実現には至っていません。脳へ情報を即時にフィードバックする技術がないので、同様に電子制御義肢といったものもありません」

「でも、ネットはあるみたいですし、端末から立体映像を立ち上げたりはしてますよね。あと街中にも、こうやって」

 と、すぐそばの空間に投影されている広告映像を指で示す。下には設置型の呪符装置。麦酒らしき飲料を飲んでポーズをとる露出度の高い衣装を着た女性の動画だった。実体がないので、肌に指が埋まる。

「こういうのって、俺の感覚だと拡張現実なんですけど」

「それらは呪術によって作り出された光学立体映像であって、人間の感覚に直接働きかけているわけではありません。あくまで文字や映像、音声を外から感覚するのと技術的には変わらないのです」

 この世界は、元世界とよく似ている。文明の発達度合いもそう変わらないようでもある。
 しかしその技術的な基盤は大きく異なっていた。呪術という、未知の力が働いているからだ。

 ふと思う。彼女は呪術師のようだ。呪術について詳しく尋ねてみてもいいかもしれない。だがその前に、コルセスカは時計を見てこう言った。

「そろそろ夕食にしましょうか。普段、食事はどうされているのですか?」

「その辺の露天とかで売っている軽食とか、あとは仕事の報酬として保存食や携行食を現物支給されるので、そういったものを」

「彩りのない食生活ですね」

「自覚はあります」

 この世界の食糧事情は、恐らく地域にもよるだろうが俺の世界とそう変わらない。ご馳走もあるところにはあるのだろう。首領の食生活は豊かなんじゃないだろうか。あの老人には何度か食事に誘われたが、毒を警戒して断った。

「では、どこかのお店に入ります?」

「いえ、水と携行食だけしときます。それと、食事の間は別行動をとっても構わないでしょうか?」

 コルセスカの提案を即座に蹴ったのは、最低限の警戒心が働いているからだ。首領が呼び寄せたこのコルセスカという人物は正直なところ得体が知れない。首領が俺に害意を抱いているとは思っていないが、隙あらば薬を盛られて洗脳されかねない、くらいのことは思っている。

 この少女はその気になれば俺を氷漬けにできるほどの呪術の使い手だ。気がついたら意思を奪われて奴隷にされてしまう、というようなことも充分あり得る。打てる手は打っておきたかった。

「少し、個人的な用事があって、そちらを済ませたいんです。一時間後にこの場所で落ち合うということで」

 コルセスカは思案するように左目を伏せ、しばし沈黙した。ややあって。

「わかりました。では、そのように」

 また3600秒後に、とこの世界での決まり文句を言って別れた。細身の後ろ姿は雑踏に隠れてすぐに見えなくなる。その姿が消える直前、衣服の背面に一瞬だけ目玉が浮かび上がったのが見えた気がした。

 警戒心剥き出しの俺の態度に何かしら思うところがあるようだったが、その思考までは読めない。自分のとるべき態度はもっと別にあったのではないかと思うものの、代案がすぐに思いつかない。俺に可能な行動はこれだけだったという事だろう。余分な思考を切り捨てて、俺は目的地に向かう。

 

 建物の陰に隠れて携行食と水を口の中に流し込む。十秒で食事を済ませ、向かうのは階層の北端だ。俺は地上に繋がるゲートを使えないので、その隣の床面に口を開いている階段へ足を伸ばす。第六階層に直接繋がる階段だ。
 この階層には上と下に通じるゲートと階段が東西南北の四カ所に存在する。高層建築にエレベーターと階段が備え付けられているようなものだ。北側の階段から下へ向かう。

 先の見えない途方もなく長大な階段。転げ落ちたらどうなるのか考えたくもない。四方に広がるのはいつか見た外の景色だ。無数の槍が鉄の天蓋と広大な大地とを繋いでいる、この世界の有り様。ただ無限に伸びる階段だけがその中に浮かんでいる。階段の両側には見えない壁のようなものがあり、外に出ることはできない。

 階層間を繋ぐこの『階段』は異なる空間同士を繋ぐ異空間であり、世界槍のど真ん中であるこの高度に視点が合わされているのだという。
 このような知識は、首領からもたらされたものではない。もうひとつ、俺には情報源が存在した。できればあまり頼りたくないのだが、贅沢も言ってられない。

 しばらく階段を下りると、視界が光に包まれ、気がついたときには第六階層に辿り着いていた。
 ある意味で、そこは第五階層よりも混沌とした空間だった。

 無機質な灰色の石で構成されている第五階層とは異なり、青や象牙色などを基調として、緑や赤色などが入り交じり、いささか毒々しいまでの色彩豊かさがまず目に入る。上とのギャップに目眩がしそうだ。

 だがそれよりもぎょっとさせられるのは色彩よりも内装や内観である。複雑な線、楕円を中心とした細密な装飾。渦巻くような模様や彫刻が、圧倒されるほどの立体感を演出している。徹底されているのは非対称性のねじれで、右と左、上と下で同じ形をしているものが何一つとしてない。偏執的なこだわりすら感じる。

 さらにはどこかから荘厳に響く音楽。パイプオルガンらしい高音は、どこか教会音楽を思わせる。
 とどめに壁の各所から伸びる、生身の腕。それらはこちらを引きずり込もうとするかのように蠢き、かすかな呻き声を上げている。この迷宮で斃れていった者達のなれの果てとも聞くが、真相は定かでない。

 いずれにせよ手の込んだ演出だ。第六階層の掌握者がどんな顔をしてここを構築したのかは知りたくもない。できれば一生関わり合いになりたくない趣味の持ち主だ。幸いなことに、今の目的は第六階層の制覇ではない。

「聞いてるか、ヲルヲーラ。いるなら出てきてくれ」

『さっきからいますよ、私の敵』

「自分から敵対した覚えは無いんだけどな」

『私の定めた秩序に反するものは全て敵です。覚えておくと良いでしょう』

 中空に出現した浮遊する角と翼を持つ猫は、敵対的な言葉を放つものの、それ以上の行動はとってこない。ただ、その目から放射された光が一瞬だけ俺を照らしただけだ。見た目上は何の変化もないが、これで俺は第六階層にとっての『敵』として認識された。この階層の守り手たちにとって、俺は排除すべき侵入者として映るようになったのだ。

 ヲルヲーラは直接手を下すことはしないが、こうして俺を排除しようとする。本人に言わせれば審判としての公正な行動らしいが、俺にとって不利な判定であることは間違いが無い。なにしろここだけでなく第四階層に赴いても俺は地上の敵になってしまうのだ。

「聞きたいことがある。答えてくれ」

『お断りします。敵である貴方の質問に答える理由がありません』

「審判として参加者の質問には答える義務があるんじゃないのか?」

『貴方は上方勢力には属していません』

「お前は俺を第六階層防衛側の『敵』として位置づけた。ルール上、俺は下側勢力と競い合う参加者ということになる」

『それは便宜的措置であり、審判である私が手を下すこと無く貴方を排除するために仕方なく』

「便宜的だろうが暫定的だろうがルールはルールなんじゃないのか。自分で定めたルールを審判が破るのか?」

 強引だが、この理屈を押し通すことで、今まで俺は何度もヲルヲーラから断片的な情報を引き出してきた。今度こそ苦しいかと思いつつも毎回成功しているので、この猫案外ちょろいのかもしれないとだんだん思い始めていた。

『質問の内容によります』

 しばらく悩んだ挙げ句の行動がこれだったので、やはりちょろい。
 ――というよりも、あまり柔軟な思考が出来ないようにも思える。それが何を意味しているのかまでは今は不明だが、この単純さが必ずしも俺に有利な要素なのかどうか、未だに確信が持てずにいた。

「前にお前から聞いた言語の翻訳装置についての質問だ。あれは、個人レベルで可能なものなのか」

『ほぼ不可能です。前にも言ったはずですが』

「ほぼってことは絶対に不可能ってわけではないんだな?」

『言語魔術師と呼ばれる『呪文』の扱いに秀でた一部の高位呪術師になら可能と聞いています。ですが、現存する言語魔術師はごく少数で、会うことすら困難でしょう。ところでこれはルールに関する質問なのですか?』

「まあ待て。これは前置きで、話していればそのうちルール関係の質問に繋がるんだ」

 適当に返しながらしばし考えにふける。
 言語魔術師というのはコルセスカ本人がそう名乗っていた肩書きと一致する。あの恐るべき氷の呪術を思い返すに、高位の呪術師というのも納得できる話だ。コルセスカの能力に関しては疑う理由が無い(しかしなんで言語呪術師じゃないんだろう。細かい違いでもあるのだろうか)。

 だが、首領があんな人目につかない倉庫を待ち合わせ場所に指定したこと、そしてその後の狙ったようなタイミングでの襲撃が気になっていた。
 大きい設備などが必要ないのなら、何もあんな場所に呼び出す必要は無かった。

 コルセスカの特異な容姿が人目につかないようにしているのかとも思ったが、俺と共に人目を気にすることなく街中を歩いている時点でそれも無い。
 俺は、あの刺客は首領が放ったのではないかと疑っていた。俺と意思疎通ができるようにと、数が少ない言語魔術師を探し出してまでそんなことをするのは矛盾しているようにも思えるし、何よりあの刺客は下出身だ。一応は上に属する首領の部下とは思えない。

 しかし俺のように報酬次第で上にも下にも付く雇われの兵隊はそれなりにいるし、一見ありえそうもない事が真相というのはよくあることだ。
 何故こんなにも首領とコルセスカを信用できないのかは俺にもわからない。

 ただの直感。
 全く持って論理性を欠くが、俺の中の何かが警戒を促しているのだ。それはひょっとしたら自分より強い相手への怖れに起因しているのかもしれなかったが、この世界で孤立無援の俺にとっては必要な恐怖心だ。

「もうひとつ質問だが、たとえば呪術で俺の意思を奪い、どちらかの勢力の操り人形にした場合、俺はどういう扱いになるんだ?」

『その呪術を行使した側の勢力に組み込まれることになりますね。場合によっては、貴方に付けた敵性マーカーを付け直す事もありえます』

「俺はどちらの階層に行ってもその階層の敵になるみたいだけど、これってつまり全部の掌握者を倒していけば上か下に出ることが可能なんだよな」

『ルール上は。現実には不可能だと思いますが』

「特定勢力の敵ばかりを俺と戦わせて、敵意や憎しみを煽り、思想的にどちらかに寄らせた場合、俺がどちらかの勢力に組み込まれることはあるのか?」

 この質問に、ヲルヲーラは沈黙を返した。こんな事を聞いたのは、最近差し向けられてくる刺客が下側の種族ばかりであることが原因だ。俺を明確に付け狙ってくる組織は二つで、それぞれ上と下が一つずつ。片方が俺の始末に躍起になっていると見ることも出来るが、そうではない推測も成り立つ。

「ヲルヲーラ。お前は俺の内心をジャッジできるのか」

『私は行動によって審判を下します。貴方の行動が、私を納得させることができるのならば、あるいは』

「俺が、両方の敵ではなく、どちらか一方の味方で、もう一方の敵になることもあるのか」

 ヲルヲーラはまたしても沈黙を返す。
 だが、この思考はそう的外れでないと思って良いだろう。
 第五階層は中立を謳っている。正体不明の掌握者は半年前、そういう声明を内外に公表した。だがそれは表向きのものでしかない。

 無数の犯罪組織は繁栄の裏で暗闘を繰り広げており、その中には利権や利潤を追求するポーズだけとりながら、敵地侵略の橋頭堡を築こうとする下の尖兵、上の工作員たちが紛れ込んでいる。上の互助・営利組織だと主張する首領の言葉は、半分以上嘘ではないかと俺は疑っている。手際の良いインフラの設備と、それによる事実上の第五階層内での地盤確立。今や第五階層で最大規模となったその勢力規模は、誰にとっても無視できないものだ。

 どれだけ中立や上と下との共存繁栄を叫ぼうとも、ここの生命線が上の組織に牛耳られていることは誰の目にも明らかだ。このまま首領がその勢力を拡大していった場合、この第五階層は実質的には上の勢力圏に置かれるのではないだろうか。

 ――だからどうしたというのだろう。
 勝手に戦い合わせておけばいい。どちらが有利になろうとも知ったことか。そもそもお前は成り行きとはいえ一度は上に味方したではないか。そんな声が聞こえてくるような気がした。そう、俺が気にするようなことは何も無い。俺のあずかり知らぬところに大きな流れがあり、それが世界を動かしている。一個人が関与できるようなことではないし、なるようにしかならない。

 だが、何も分からないままに操り人形になって踊るのは嫌だった。
 第五階層で独り彷徨う俺に仕事を与え、多くの便宜を図り、積極的なコミュニケーションをとってくれる首領という得難い相手を、俺は敵と見定めていた。

 あの老人の行動は、実のところカインが俺に対してしてくれていたものとあまり変わりがない。つきあいの長さともたらしてくれた物の多さでは首領のほうが上だ。だが俺の理性は恩人を敵だと告げていた。

 たまにこう思う。
 あのままカインやキール、アズーリアたちと行動を共にしていたら、俺はあの六人と『松明の騎士団』を敵に回していたのではないだろうか。何も知らぬまま、右も左もわからぬ異世界で最初にあった勢力に利用されていく不快感に耐えられず、たとえカイン個人の意思がどうであったとしても、その手を最後には振り払っていたような気がする。

 カインの命を奪ったあの瞬間はその罪悪感とエスフェイルへの怒りで俺の感情は『上』寄りだった。
 しかしアズーリアに許され、エスフェイルを倒してしまった今、俺は自分の身の置くべき場所を定められずにいる。もう一度アズーリアに会えれば、何か変わるのだろうか。

「質問は以上だ。呼びつけて悪かったな」

『そうですか。では私はこれで』

 猫は翼を一度羽ばたかせると、数枚の羽根を残してその場から消失した。きっとまだどこかに隠れて俺を監視しているのだろうが、気にしても仕方がない。意思疎通ができるようになれば、俺は否応なくこの世界の現実に直面することになるだろう。一週間後、俺の意思がこの世界に伝わるようになったときが決断の時だ。

 どう在るべきか、どこに立つべきかを、それまでに決めなくてはならない。
 第五階層に戻ると、階段の側にコルセスカが立っていた。俺は動揺を打ち消しながら、平然と尋ねる。

「待ち合わせはここじゃないはずだし、時間もまだですが」

 その言葉には返事をせず、少女はこちらに左目だけを向けてきた。何もかもを見透かすような目だ。背筋が冷えた。

「どうしてなんでしょうね、貴方から目を離せない。昔の私を見ているようで、放っておけないからかもしれません」

 反応に困る言葉だった。彼女がどういうつもりなのか見当もつかない。下手くそな口説き文句にも聞こえないこともない。ハニートラップだとしたら失笑ものだが。

「外世界人である貴方がこの世界に対して警戒心を持つのは理解できます。ですが、そうやって殺意を剥き出しにしていては、見えなくなる物も多いのでは」

 見られていたのか。何故、いつのまに。疑問が思考の中を駆け巡る。かろうじて出てきたのは一言だけ。

「殺意なんて」

「私の力を見て怖れを抱くものは大勢いました。それゆえに離れていく者も、逆に利用しようと近付いてくる者もいました。そして、気にせずに近付いてくる物好きもごくわずかに。貴方は、そのどれでもない。私の力を脅威と判断しつつ、それを踏まえてどうすれば私を殺せるのか冷静に考えている」

 俺が相手を観察している以上に、この少女は俺を観察しているようだった。そして俺とは違って、そのことを隠しもしない。それは、悪意がないことを証明しようとしての行動だろうか。判断が出来ない。

「そこまで深く考えてませんよ」

「――余計なことを言いましたね。貴方の精神の有り様は安定しています。本来私が口を出す必要はないのでしょう。ですが」

 ――きっとあなたは、そのままではこの世界に独りです。
 どこか寂しげにそういって、先に階段を昇っていく。彼女の思考は相変わらず不明なまま。だが不思議と、そこに悪意は感じられなかった。

 俺が他人を信用しきれないのは意思の疎通が上手くできないから。身を守るために警戒心が必要だから。
 しかし、コルセスカとなら意思疎通が出来ている事実が、その言い訳を、稚拙な欺瞞を暴いてしまっていた。

 あるはずの居場所すら自分で切り捨てているのだとしたら、俺は愚かな選択をし続けているのかもしれない。自分のいるべき場所とはどこなのか。答えのでない問いに、幾度となく責め苛まれる。

 結論まで、あと一週間。

 

 二日目。
 前日の夜にあまり眠れなかったせいかあくびが出る。こんな状況でも髪を整えたり髭を剃ったり洗顔したりといったことはできる。生活用水にコストがかかることを気にしないようになりつつある俺は、この世界に少しずつ馴染んでいるのだろうか。

 正六面体の自宅のドアを開けて外に出る。大理石のような壁に触れると確かな質感を返してくる。しかしこれも即席の家であり、念じると幻であったかのように消失した。

 朝の街はまだ動き出す前だ。
 俺が寝床に定めたのは街の中央部に構えている大衆食堂の真上だった。普段は襲撃を警戒して、階層の周辺部ではなく中心部で寝るようにしている。
 空いている土地などないので、どこか大きい建造物の上を借りる事になるわけだ。同じ事を考える者はそれなりに多く、朝は一時の借宿が街を一段高くする。場合によっては下の住人に宿代場所代を請求されたりするのだが、この飲食店で何度か揉め事を解決したことがあり、それ以来ここで寝て文句を言われたことは無い。

 店舗はそれなりに広く、俺の小さな宿なら十は乗るほどはある。俺の宿から少し離れた位置に、コルセスカの家がある。俺の無機質な『箱』とは違って、コルセスカの構築した建造物は個性溢れる独特なものだった。

 氷の家。
 壁は分厚い氷のブロックで構成され、天井には雨除けの(それとも雪だろうか)傾斜があり、尖塔が高く伸びている。透明であるはずだが、内部は光が複雑に屈折しているからか窺い知れない。

 構築された建造物は個人の想像力によっていかようにでも変化する。俺の住居の簡素さとつまらなさと比較すると、彼女の住居はとても独創的と言えた。

 夕べ眠れなかったのは隣にコルセスカがこのような住居を構築したからだ。
 俺は聴覚補助を利用し、夜を徹して内部の音を拾おうと壁に耳をあてていた。それも全て、コルセスカが首領、あるいはどこかの勢力に連絡することを期待してのことだ。

 実際には意味のある言葉は聞こえず、ちょっとした生活音が聞こえただけだったが。途中でシャワーらしき水音がしてきたときは焦った。設備は創造すれば幾らでも用意できるし、貯水タンクを亜空間ストレージ内に保存していれば可能な行為ではあるが、全く想定していなかったので驚いてしまった。

 考えても見ればコルセスカは女性であるため、身を綺麗な状態に保とうとするのは自然なのかもしれない。

 ちなみに妙な気分になったりは一切しなかったことを明言しておく。なにしろそういう気持ちが生じる度に衝動を感覚・感情制御アプリ『E-E』で抑制していたので、そういう気分にはなりようがないのだ。俺はアプリケーションをフル活用して何も感じない夜を過ごした。自分の思考に何か矛盾を感じるが気のせいだろう。

 彼女が俺を監視しているとして、報告は通話でなくともメールで済むことに気がついて俺は寝た。
 昨日の夜は全く無駄な時間を過ごしてしまったと思う。ため息をついていると、隣の家の扉が開いた。

 現れたコルセスカの装いは昨日とは違い、白のツーピースだった。袖のないブラウスに目玉模様が特徴的な長いスカート。縁のフリルは青く、昨日と変わらない白いドレスグローブが腕を覆い隠す。衣装持ちなのだろうか。同じ服を着たままの俺とは大違いだ。

「おはようございます、アキラ。朝食がまだでしたら、ご一緒にどうですか」

「おはようございます。一応まだですけど――」

 昨日の夜のことがあるからか、後ろめたくてまともに顔を見ることが出来ない。そこには変わらずに無機質な右の顔と無表情な左の顔があるだけなのだが。

 氷のような巨大な右眼は寝起きに見るには少々ショッキングではある。一週間も顔をつきあわせていたらそのうちに慣れるのだろうか。返事を躊躇っていると、コルセスカがその前に言葉を続けてくる。

「昨日の夕食、下の食堂で摂ったのですが、中々良い味でしたよ」

「申し訳ないんですが、俺は」

「食事の誘いを断られてしまう場合、どうすればいいのかを昨日の夜から考えていたのですが」

 俺の言葉にかぶせるように、コルセスカが言う。しまったな、露骨に嫌がりすぎたか。

「支払いは私がする、と言えば一緒に食事をしていただけますか?」

「いえ、普通それは余計に警戒されます」

「そうですか」

 思わず真顔で答えてしまった。何をやっているんだ。コルセスカは表情をあまり変えないが、心なしか落ち込んでいるようにも見える。そもそも俺はどうしてこんなに必死になっているのだろうという気になってきた。

「あの、そんなに私と食卓を共にするのが嫌ですか」

「別にそういうわけではないのですが」

「それとも私のこの顔を見ながら食事をすることは耐え難いでしょうか」

「違います」

 即答する。コルセスカが自分の容貌について言及したのはこれが初めてのことだったように思う。昨日街を行く俺たちはごくたまに人目を引いていた。主に、コルセスカのその美貌と異相のために。下の住人を見慣れたこの階層の人々にとっても、その美しさと異形の混在は珍しいものだったのかもしれない。彼女は半分だけ微笑んで言った。

「すみません、これは少し意地の悪い質問でした。昨日の貴方の態度からは、そういった意思は感じられませんでした」

「――正直に言いますが、食事の瞬間を他人に晒したくないんです。見ての通り片腕が無いので、食事中は最大の武器が封じられます。また他人の前で座ることにも抵抗があります。俺には敵が多いので、無防備な瞬間を狙って襲撃を仕掛けられることがよくあるんです」

 警戒の対象にはコルセスカも含まれているのだが、それをあえて口に出すことは無い。
 この世界に転生したはじまりの日、俺は六人の仲間達にそれなりに無防備な姿を晒していた。だがそれはあの頃の第五階層が安全だったからだ。人が多く流入し、一つの街にまでなった今の第五階層は、あの頃とは比較にならないほど危険な場所になっている。

 多分俺は、この場所に敵を作りすぎた。
 だがどうすればこうならずにいられたのか、俺には全くわからない。言葉が分からない俺はただこの拳に頼るしか道が無かったし、暴力を振るわなければ何度でも死んでいただろう。そして俺は必然的に孤立していった。

 これから俺は言葉が通じる世界で生きることになる。だとすれば、暴力によらずに自分の居場所を勝ち取る手段を模索すべきなのだろう。頭では理解できている。だが、一度染みついた習慣はなかなか矯正することが難しい。

「では、こんなのはいかがでしょう」

 コルセスカの掌の上にいつのまにか氷の球体が出現していた。ふわりと浮き上がり、彼女の背後を回って前に出て行く。いつもならばそのまま彼女の周りを回る所だが、今回は違った。周回の軌道は大きく楕円を描き、俺を内側に入れて回り始めたのだ。俺とコルセスカの周囲を、氷が回り続ける。

「このオーブには自動的に攻撃を防御し、反撃する機能があります。今、貴方も防御の対象に含めるという命令を書き込みました。これで、安心して食事できませんか」

「俺は」

 これは多分チャンスなんだろう。コルセスカの行動に危険性は一切感じられない。だからこそ警戒すべきだという理性の声を強引に無視する。

 感情制御は厚意に対する感謝や嬉しさに対してその脆弱性を露呈してしまう。本当に俺が恐れるべきは深夜に俺の家に爆薬を投げつけてくる荒事屋でも、建物の陰からナイフを投擲してくる暗殺者でも、人払いをして集団で襲いかかってくる刺客でもない。そうした襲撃に疲れた頃にやってくる、頼りになる仲間の振りをした詐欺師だ。

 だが間違っていると分かっていても、俺はその誘惑に屈さずにはいられなかった。多分、それが俺の限界だったのだと思う。

「あと六日間、作業が完了するまでは貴方をこうして守りましょう。一度引き受けた依頼は必ず遂行する。社会的な信用をかけて約束します。私という人格ではなく、言語魔術師という肩書きを信用していただけませんか」

 ここまで言われてしまえば、俺に返せる答えなど一つしか残っていない。俺は死を覚悟した。

「わかりました。ご一緒します」

 その答えに、コルセスカはそれと分かるほどはっきりと笑みを作った。氷に喩えていた自分に違和感を覚えるほど、それは明るく朗らかに見えた。

「ちなみにこの家は外側から内側を見ることはできませんが、内側からは外側が見えます」

「えっ」

「次にやったらその耳が壊死することでしょう」

 安い死の覚悟など、真の恐怖の前では何の意味もなさないことを俺は改めて思い知った。

 

 
「スープなんて食べるの久しぶりです、俺」

 一瞬、飲むというべきだろうかと迷ったが、スープだし食べるでいいだろうとそのままにした。味噌汁が出てきたら飲むと表現したかも知れない。

「アキラ、丁寧語はいいですよ。そろそろ砕けた表現も集めたいので」

「いえ、ですが」

「別にもう怒っていませんから」

「わかりまし――わかった」

 根菜や豆などを煮込んだ塩味の簡素なスープに硬い黒パン、豚肉の腸詰めという朝食は、それなりに美味しかった。誰かと食事をするというのも随分と久しぶりだ。

 この世界の動植物はほぼ俺の世界と同じらしく、料理や肉の加工方法なども似通っている。ただ俺は実際にこの世界で家畜として飼われている豚を見たことがあるわけではないので、今口にしている腸詰めはもしかしたら豚という翻訳をされているだけの、俺の世界での豚に相当する何かよくわからない生き物を原料にしているのかもしれない。それを考えると怖くて食事が進まないのでやめておいた。

「こんなのですよ、豚って」

 と、端末から映像を立体化させるコルセスカ。食卓上に黒い豚の映像が映し出される。ずんぐりとした丸い体型と特徴的な鼻。紛れもない豚で安心した。

 続けて、人参や玉葱などの映像。細部は多少違うようにも見えるが、家畜化や栽培は長い年月を必要とする。その過程での誤差と考えると、驚くほどにそっくりである。やはりこの世界は、俺の元いた世界とほとんど変わらないのではないだろうか。

「はぁ。それにしても、女性と食事をするだけのことにこれだけ面倒な段取りが必要な男の人って」

「あの、俺がもの凄くコミュニケーション能力に障害がある人みたいに言わないでくれませんか」

「違うんですか」

「まあ、それはその」

 否定できる材料に乏しいことは確かだ。あと揶揄の仕方に若干の苛立ちを感じたが、大体俺が悪いので反論はしなかった。人間と会話をするのは基本的に困難な作業だ。

「アキラは、今日はどのようにして過ごされるつもりですか」

「いつもなら、日雇い仕事。倉庫でピッキングと運搬を延々やってると元世界で一番無気力に生きてた頃を思い出して精神に悪いから最近はもっぱら警備とかをやっているんだけど――」

 あのころの俺は少しでも前向きになるべくフォークリフトの資格取得を真剣に考え始めていたものの、行き帰りのバス代が日給の七千円を六千円台にしてしまうという事実に耐えられずに嘔吐するような精神状態だった。家に帰ったらパスタを茹で、ケチャップと炒めた玉葱を組み合わせてパスタソースを作り、それを加えた夕食を口にする毎日。たまにジャガイモが増える。
 食欲が失せてきた。

「塩パスタをやらなかったのは最後のプライドだよなあ」

「よく分かりませんが、警備というといわゆる用心棒的な?」

「そう。碌でもない品物の運びとか、受け渡しとかだな。大体揉めるけど、俺がいると収まる、こともある」

 どちらにしろ暴力だ。片腕でできる仕事もそれなりにはあるが、見た段階で断られる事も結構ある。そうすると、名が売れている暴力の世界のほうが仕事がしやすい。悪循環というか、再生産というか、とにかく不毛だった。

「思うのですが、しばらく労働を休んではいかがでしょう」

「それはまあ、しばらく食べられる程度の蓄えはあるけど、どうして?」

 ちなみにその蓄えというのは真っ当な手段で稼いだものではない。

「貴方はいま、休んだり、知識を蓄えたりすることが必要に思えます。それに、私が付いていって会話し続けてもいい職場なんてそうそう無いと思いますし」

 彼女の言うとおり、できるだけ一緒にいて話し続けなければならないのだから、しばらく労働はできない。しかし休暇とか知識を蓄えるといってもどうすべきか。まだ文字は読めないわけだし、言葉が通じるらしいのもコルセスカだけだ。

「だから、私とひたすら話しましょう。それに専念していれば、一週間なんてすぐですよ」

 

 意識してひたすら話し続けるというのは、かなり大変な作業だ。
 会話が途切れそうになるたびに新たな話題を見付けて、強引に話を繋げたり、相手の次の反応を予想して発言を組み立てたりしなくてはならない。禿げそうだ。

 幸い、俺がこの世界のことについて質問し、コルセスカがそれに答え、たまに脱線して雑談、再び質問、という流れが出来上がったので、話題が尽きる心配はなくなった。なにしろ知りたいことは山とある。今まで知りたくても読めなかった、通じなかったたくさんの知識が一気に流れ込んでくる。

 『保留』フォルダにしまい込んでいた大量の情報や、物や人、集団や概念に付けていたタグが次々と整理されていく。今まではわからない言葉は一時的に音声・映像記録として『保留』フォルダに保管、拡張現実タグを付けて識別しようとしていたが、そもそも未知の言語に使うためのアプリではないので、すぐに管理しきれなくなってしまった。

 更には多言語が入り交じるこの空間では一つの単語に複数の呼び名があるわけで、俺はタグによる管理は逆に混乱を招くだけだと考えてこの方法を放棄していたのだ。

「この世界に日本語が定着すると、他の人たちが俺に対して日本語を使ってくれる、ってことでいいんだよな? 周囲の人は俺を見てすぐに日本語を使おうって判断できる?」

「ええ、貴方は『日本語話者』として既に私がラベリングしていますから」

「ラベリング?」

「貴方を日本語クラスタに分類したんです。これによって、人々は貴方に向かって話そうとする際に『日本語が通じる』ことを端末を介して知ることができます。作業が完了すれば、ネット上のデータベースから日本語をいつでも利用できます」

「言語を道具みたいに言うんだな」

「実際、道具ですよ。効率よく呪術を走らせることが可能な人工言語などは競争入札にかけられたり取引の対象になったりもします。管理団体と権利者に使用料払わないといけませんし」

 面倒そうに言う。この世界にもそういうルールは色々とあるらしい。ここがほとんど無法地帯だからそういうことを忘れそうになるが、俺はそういう基本的なルールなども知っておかなければならない。そういう細かい常識なども質問していこう、学んでいこうと決意する。

 それにしてもラベリングか。
 ヲルヲーラが俺に対して付けた目に見えない『敵性マーカー』もそれに類するものなのだろう。自分では確認できないというのが、少々危険な感じがする。

「そのラベリングとか分類とかって、自分では確認できないのか」

「端末があれば可能です。文字が読めるようになったら購入するといいでしょう。それとも、先に手に入れてしまいますか?」

「いや、今はやめとく。もう少しよく考えたい」

 二人とも食事は終わっていた。そろそろ店内に居座るのも問題だろう。店の回転率を下げる。少し外を歩かないかと提案すると、快諾された。行き先を漠然と考え始める。

 階層の南側はモロレクや三報会、魔教といった俺に敵対的な組織の勢力範囲であり、あまり近寄りたくない。こういう組織名なんかは意味不明のカタカナ音でしか覚えていなかったが、徐々にその意味も判明しつつある。

 それ以外の場所ならば日中はさほど危険ではない。
 外に出て、あてもなく街中を歩いていくというのは初日にすでにやってしまったわけで、二日連続というのも芸が無い。といってもここの娯楽なんて賭場とか碌でもないものばかりだ。

 話題に乏しい。
 ふと思いつく。この階層を訪れる大部分の人間は、『探索』を目的としている。迷宮に挑み、敵を殺して略奪、運が良ければ一財産ができあがる。最前線で『掌握者』に設定されている対象を殺せば、報奨金も出るという。

「コルセスカって、どっちの出身なんだ?」

 ぱっと見たところ『上』でよく見られる、俺に似た人型だ。が、巨大な右眼の異相から『下』出身である可能性もある。

「私は『上』側ですよ。このような外見なので、地上では顔を隠していますが」

「そうか。変なことを訊いて悪い」

 失礼な尋ね方だったかもしれない。気を悪くさせてしまったなら申し訳無い。わざわざ謝るのも余計に失礼な気がして、黙ってしまう。コルセスカは何かを察したようだった。言葉を繋いでくれる。

「迷宮探索のお誘いでしょうか」

「ああ。といっても、俺はあまりやらないんだけど。ここに来る奴は大体それが目的だったりするから、コルセスカはどうなんだろうと思って」

「私は協会に登録された正規の探索者ですよ。言語魔術師と兼業ですが、最近はずっと迷宮に潜ってますね」

「じゃあ、普段は探索で稼いでるんだな。今の翻訳作業はその言語魔術師? の仕事なんだよな?」

「ええ。ロドウィから私の所属する組織、『星見の塔』へ依頼がありまして、折良く近くにいた私にお鉢が回ってきたというわけです」

「なんか、迷宮探索とかの邪魔をしてしまったみたいで申し訳無いな」

「こちらが本職なので貴方が引け目を感じる必要はありません。仲間たちも、休暇のつもりで私を待っていてくれるそうですし」

「探索者の仲間がいるんだな」

「ええ。頼りになる二人です」

 そう話すコルセスカはいつになく誇らしげで、その仲間達が彼女にとってどのような存在なのかが察せられた。

 彼女にも、個人的な交友関係や日常が存在するのだろう。あるいは、アズーリアも同様に、地上でそうした日々を送っているのかも知れない。

「もし探索に行くというのでしたら私は問題ありませんが、しかし人数的に多少心許ないですね」

「そうなのか?」

「ええ。普通、迷宮探索の最小単位は三人。個々の実力に自信があればこれで充分ですが、一般の探索者や騎士団の大半は六人で挑むようですね。狭い迷宮の特性上、多くても九人編成です」

 初めて知る事実だ。そういえば、キールたちは六人で行動していたし、途中で遭遇した探索者たちも三人組だった。

「そうか、ならあと一人いれば三人パーティが出来上がるわけだ」

 俺がそう言った時、前方で大きなざわめきが聞こえた。何かが倒れるような物音と、耳障りな罵声。トラブルめいた嫌な雰囲気を感じる。

 騒ぎがあった方へと視線を向けると、案の定の光景が広がっていた。美しい蝶の翅を背から生やした十代前半ほどの年頃の少女が倒れており、威圧的にそれを取り囲む五人の男。いずれも明らかに堅気ではない。

 右頬に同じ意匠の入れ墨。あれは確か三報会のものだ。過去に面倒な揉め事を起こしてしまい、以来ずっと俺に対して敵対的な『上』の組織である。つい最近になってようやく名前の意味が判明した。

 関わり合いになると面倒だ。三報会は暴力の行使に躊躇が無い。朝から、それもこんな往来で殺されることは無いだろうが、どこかに連れ込まれてしまえばその後はどうなるか知れたものではない。どのような理由で揉めているのか、五人はそれぞれが威圧的なスラングを並べて、倒れた少女に唾を吐きかけている。酷く凄惨な、それでいてありふれた光景だ。

 と、顰めていた眉が上がる。意外な展開になったからだ。
 新しい人物が登場したのである。男達の輪から素早く少女を連れ出すと、何かを叫んで街路の向こう側に逃がす。男達が一斉に助けに入った無謀な人物を取り囲み、周囲からの視線を遮る。直後、突き飛ばされたと思われるその人物が路上に投げ出される。助けられた少女が思わず立ち止まるが、倒れた人物が強く何かを叫んだことで、思い直したのか足早にその場から離れていく。

 そんな心温まる一幕を眺めながら俺が考えていたのは、かなりぎりぎりの行為だったな、というような事だった。あの男達が狩る側から狩られる側に転じる、紙一重の一線。だが、まだ超えてはいない。やくざ者らしく、暴力を抑制させながらちらつかせる術に長けているのだろう。

 ところが、俺にとっても男達にとっても意外な事が起きた。倒れた人物はやられっぱなしではなかったのである。立ち上がって、威勢良く何事かの反論を叫ぶ。

 年若い青年、いや少年だった。俺よりも大分若いだろう。コルセスカと同年代だろうか。日本であれば学生をやっているような年頃だ。少し震えた声ではあったが、単調な罵倒を口にするだけの五人よりもよっぽど迫力がある。言っている意味はわからないが、発音が明瞭で、おそらく理路整然とした内容なのだろうと思わされる。五人も何かを言い返すのだが、それに対して即座に反応し、言葉で相手を黙らせていく。弁が立つのだろう。感心するが、それはこの場においては悪手だった。

 逆上した入れ墨が、喋り続ける相手の胸ぐらを掴み上げる。暴力で正しさをねじ伏せるのが、俺やああいった連中のやり方だ。当然の結果ではある。当然だが、不快だ。

「――あそこは首領の組織が管理してる店の前だ。三報会の連中がいつまでもたむろしているのを許すとは思えないし、しばらくしたら誰か来るだろう」

「誰に向かって言っているのでしょう。私はまだ何も言っていませんが」

 言い訳めいた俺の発言に、冷ややかな視線。
 しかし、俺の希望的観測とは反対に、誰も往来で繰り広げられる諍いに介入しようとはしない。この階層では戦闘が禁止されてはいるが、あの程度では戦闘だと見なされることは無い。

 あのまま彼がどこか人目につかないところに浚われてしまえばこの階層の法は何の意味もなさないのだ。警察組織だってここには存在しない。自警団と称する集団がいることはいるが、そいつらも実質的には暴力団である。期待するとしたらそういった別の組織の助けなのだが、そういった連中が現れる気配は無い。

 何故だろうと考えたが、すぐに気付いた。出自の問題だ。
 ここは『上』の勢力が強い区画で、あの五人も『上』の人間だ。対して、今窮地に立たされているあの少年は、『下』出身であることがわかる。一目瞭然だった。

 その黒い頭髪から飛び出す、丸みを帯びた二つの三角形。漆黒の毛並みをしたそれは、猫耳だった。側頭部にも耳があるので、四つ耳があることになる。『下』の住人には目や鼻や口が複数、なんてのもいるので、大して驚くようなことではない。

 だが今はその明白な外見的特徴がマイナスに働いているようだ。
 表向き共存が成り立っているとはいえ、この階層から一歩出れば敵同士。『上』と『下』の人間が互いに良い感情を持っていないことは明らかだ。

 この区画で多数派なのは『上』である。彼らは『下』の出身者がどうなろうと知ったことではないだろうし、同郷の者たちはここで揉め事を起こして『上』の組織に目を付けられることを恐れているのだろう。

 特にあの入れ墨の特徴的な集団『三報会』は敵対した者に対して容赦が無いことで有名である。そのことを知らないのか、あるいは知っていてなおも毅然とした態度を崩さないのか。少年はなおも抵抗を続けていた。線が細く、穏和そうなのだが、意思が挫ける様子は微塵もない。

 不意に俺の脳裏に、『あの人に似ている』という言葉がよぎった。どうしてそんなことを思ったのかはわからない。年齢も容姿も全く違うというのに。

 原因はすぐにわかった。仕草だ。
 癖なのだろう、右手が大きく開かれ、指がぴんと張りつめて、大きく反っている。あの緊張しているかのような動作が、俺はどうにも気になってしまって、何度か指摘したが、身体に染みついた癖であるため、無意識にやってしまうようだった。他人の癖を矯正しようなどと、大きなお世話だと、今でも後悔している。それでも俺はあの癖が好きではなかった。

 今、同じように手を緊張させる人物を眺めている俺は、未だにお節介な人間のままなのだろうか。ただ、あの手の様子が、気分をささくれ立たせる。
 見捨てるべきだろう。関わり合いになっても俺に利益は無い。

 そもそも俺はこういうときに他人を見捨てる人間だ。今までだってそうしてきた。この世界を訪れた最初の日、俺は巨大狼に見つからなければそのままキールたち六人を見捨てるつもりだったのだ。その意味で、俺が自分から望んで誰かの味方になったことは一度もない。

 そんなことを考える俺の耳に、理解不能な声が入り込む。遠巻きに事態を眺める野次馬連中だ。つまり俺の同類だが、彼らが口々に何かを言っている。見た目は『上』の出身者で、それを聞いて三報会が何らかの反応を返すことは無い。つまり。

「コルセスカ。あれ、なんて言ってるんだ?」

「さあ。耳が腐るので良く聞いていませんでしたが、なにか外見に関する罵倒や侮蔑、煽りのようでしたね」

「そうか」

 見るに堪えない上に、聞くに堪えないときた。つまり存在する価値が無いということだ。そもそも、こんな風に悩む必要など無かった。どうせみんな敵だ。ここは迷宮だ。まさか死ぬ覚悟も無しに暴力を振りかざしているわけじゃあないだろう。

 ――『サイバーカラテ道場』起動。
 視界隅にデフォルメされた人体が浮かび上がり、各種バイタルデータが次々と表示され上から下へ流れていく。 更に敵と認識した集団に一から五までの番号が割り振られる。

「コルセスカ、耳を塞いで目を瞑ってこの通りから離れてくれ。合流は初めて会った倉庫」

「何をする気ですか」

 答えずに、懐から表面処理された札とゴーグルを取り出す。昨日購入したばかりのものだ。勧めた当人は顔に理解の色を浮かべ、顔を背ける。札の上の模様をなぞって安全装置を解除、起動印を押さえてから投擲する。直後、中空で札が凄まじい閃光を発生させ、備えの無かった周囲の人々の視覚を奪う。

 閃光符。
 呪符と呼ばれるこの世界特有の技術の産物で、今投げたものは激しい光で相手を無力化することを目的としている。

「なるほど、確かに便利だ」

 内心でコルセスカに礼を言いながら、一人だけ光を無視して走り出す。セットで購入した対閃光ゴーグルを事前に付けていた俺だけがこの状況で自由に動けていた。少年を取り囲んでいる五人全てを相手にする必要は無い。

 二人もどかせば隙間ができる。三番のラベルを貼った真ん中の一人に狙いを定める。軽く肩を押さえるのと同時に逆方向からの足払いを放つと、視界に光が乱舞。「Good!」が上下に輝くと共に男が転倒。身体をスライドさせるようにしてその隣の二番に掌底打ちを喰らわせる。脇腹を襲う痛みに反射的にうずくまる相手の頭部を上から叩いて落とす。後頭部を直撃したが多分死んではいないだろう。

 集団の中心で、やはり行動不能に陥っている少年の手を強引に掴み、そのまま駆け出す。強い抵抗にあったのでやむなく肩に担いで走る。重い。アズーリアの時は体格差があったから楽に感じたが、少年とはいえそれなりに身体のできている男性を運ぶのはすさまじく骨が折れる。幾度か落としそうになりつつも、なんとかその場を離れることに成功した。

 

 
「遅かったですね」

「悪い。少し手間取った」

 郊外の倉庫前には既にコルセスカが待っていた。退屈そうに端末をいじる彼女に声をかけると、やはり退屈そうな応答が返ってくる。こちらに視線を向けて、すこし驚いたように左目を見開く。

「――貴方、先程までマントを羽織っていませんでしたか?」

「あれなら人にやった」

「人というと、彼に?」

「彼というのが俺があの場から連れ去った少年の事を指しているのなら、その通りだ」

 あの後、彼の目が回復するのを待ちながら、ひたすら街中を走り回った。集団に後を付けられないように裏道を通り抜け、三報会の勢力圏から充分に離れた場所に辿り着いた頃には彼の意識もかなりしっかりしていた。

 状況が理解できず呆然とする相手にマントを強引に着せ、フードを上げて顔を隠し、その場を立ち去って待ち合わせの場所まで来たというわけだ。

 あのマントはアズーリアに貰って以来、この半年間ずっと使い続けてきたものだ。惜しむ気持ちが無いと言えば嘘になるが、ここまで関わっておいてただ放り出すというのもすっきりしない。

 しばらくは追われる事になるであろう彼が顔を隠すものを持っていなさそうだったので、仕方なく手持ちのマントを使わせることにしたのである。

「そこまでやるなら、いっそ最後まで守って差し上げれば良かったのでは? 言葉もなく放り出すなんて、きっと困ってますよ」

 そもそも言葉が通じないのだから、何も言わないのは仕方がない。というか相手は何か喋っていたが、全く分からなかったのだ。

「そこまでの義理は無い。俺の目の届かない所で彼が死んでいたら、そういうものだと納得するよ」

 なんだったら、明日になったら俺が彼を殺している事態まであり得る。この街ではそうしたことが日常的に発生している。人間が生活しているせいで勘違いしそうになるが、ここは迷宮の一部だ。本来は、殺し合っているのが正常なのである。

「貴方の倫理観はよくわかりません。よくそのような行動がとれますね」

「善行なんてものに大した理由や意味は必要無いよ。気まぐれだ」

「自分が善行をしたという自覚はあるのですね」

「悪人が他者の命を救うこともある。同様に善人が他者の命を奪うことも。さっきの行動で俺の本質が定まったりはしないし、明日には殺人や略奪、放火や強姦をしているかもしれない」

 善行も悪行も、特別なことではない。誰でもやっていることで、そこには大した価値は無いのだと俺は語った。矛盾するようではあるが、善行とは善ではない。

「韜晦というか、照れ隠しにしか聞こえませんけど。本気で言っているなら大したものです」

「だいたい迷宮の中で善も悪もあるか。殺人と略奪に関しては、それがここのルールだろうが」

「ええ、そうですね。私もそれについて異論を差し挟むつもりはありません。ただ――」

 彼女はじっと俺を見て、何かを思案しているようだった。というか、俺の露わになった右腕を見ているようだ。そういえば、はっきりと見せたことは無かっただろうか。一応義手であることは隠していないので、知っている筈だ。ロドウィからも隻腕で義手という特徴は聞かされていただろう。

 コルセスカが肩にかけた鞄から何かを取り出す。毛糸で編んだ筒状の衣料だ。最初は靴下かと思ったが、それにしては形状が真っ直ぐだ。

「ええと、アームカバーか。腕用の防寒具?」

「手袋はあるようですので、腕を覆い隠すものがあればと思いまして」

「ありがたくお借りするが、何故そんなものを持っている」

 そういえばコルセスカは最初に出会ったときも今日も腕を完全に手袋で隠している。肌を見せない主義の人なのだろうか。あるいは紫外線対策か。

 口を使って着けようとしたら「止めてください」と窘められたので、コルセスカに任せる。黒いニット素材が伸びて、俺の義手を完全に覆い隠していく。それを静かなまなざしでみつめながら、コルセスカは呟く。

「貴方の、行動の基準がよくわかりません」

「強いて言えば、気紛れ、運、乱数。なにか一本筋の通った意思とか信念とか、そういう特別なものは俺には無いよ。大体、理由があれば誰かを助けるなんて、人間に値札を付けてるみたいで傲慢だろ。善人を助けて悪人を暴力で退けるって行為は、本質的には優良と劣等を峻別して序列化や排除を行うのと変わらないと思うね」

「それは極論です。ただ、どういう意図でそういう韜晦を口にしているのかは少しわかりました。貴方は当事者になりたくないのですね」

 コルセスカの言葉には飛躍があった。にもかかわらず、鋭く俺の本質を突いている。当て推量にしても正確に見透かされ過ぎていた。彼女には、人の心を見通せるなんらかの神秘的な力があるのだろうか。言いようのない冷たさを背筋に感じた。コルセスカの氷のような右眼が、妖しい輝きを放っていた。

「そうだよ。他人と関わったせいで発生する責任なんて糞喰らえだ。そんなもの背負い込むくらいなら暴力に頼り切った犯罪者でいい」

 俺は社会と関わりたくないし人間と接したくない。接するとしたらどこまでも利己的な目的でなければ耐えられない。でなければ無意味な遊びや気紛れであって欲しい。自分以外の意思を持った存在なんていうのは、関わり合いになるには重すぎて耐えられない。情動を制御していてもなお苦痛を感じる。

 半年前も、アズーリアの言葉が無ければきっと苦しさでおかしくなっていた。苦痛を耐えるのは俺のやり方ではない。俺に出来ることでもない。ツールで痛みを回避し、無視するのが最適な生き方だ。このままずっと、誰とも深く関わらずに、一人で気楽に生きていきたかった。

「ああなるほど、貴方はこの世界にとっての異獣なのですね」

 得心がいったという感じだった。異獣? それは、『下』の住人を指して言う侮蔑の言葉だったはずだ。
 俺がこの世界にとっての異獣だというのは、どういう意味なのだろう。

「異獣とは、現代では端的に敵対する異種族を示す言葉となっていますが、古くはグロソラリアあるいはゼノグラシアを包括する概念でした。つまり、異言の民ということです」

「異言?」

「異なる言語に神秘性を見出す、バベルの塔神話の裏返し。前世の記憶や超越者、霊的な存在の関わりの他、文脈次第では意味の消失した構造のみの言語なども示すことがあります」

「待った。バベルの塔って」

 関係無いのは分かっているが、思わず聞き返してしまう。これもこの世界で相当するものに置換して翻訳しているだけか?

「世界のはじまりには言葉は単一であった。これに類似する神話は、この世界でも複数の文明で確認されています。我々は『絶対言語』というものの存在を仮定しており、『心話』の術は音声だけを再現した不完全な『絶対言語』だと考えられています」

 元型論みたいな感じだろうか。いや、そんなことは今はどうでもよかった。自分から話を逸らしてどうする。

「俺が、日本語を話すから異獣だって?」

「貴方がこの世界にとって他者であるということです」

 俺はこの世界に居場所がない。そう言われたことを思い出す。この会話は、きっとその続きだ。

「それは、当たり前のことじゃないのか?」

 言わんとすることがわかるようでわからない。コルセスカは滔々と述べる。

「貴方はこの世界とは異なる文脈で生きています。言語、思考、世界観、文化様式、人格、技術体系。それらは非呪術的な世界においてはただの異質性でしかありませんが、ここはアナロジーの誤謬が物理法則を屈服させる呪術の世界。貴方のそうしたあり方は、それ自体が神秘を有している、ということです」

 んん――途中から分かんなくなったぞ?
 郷に入っては郷に従え、と皮肉まじりに非難されているのだろうか。その理屈には一定の正当性を認めるが、しかし俺にも言い分はある。

「他人の都合に首を突っ込む事の愚かしさは認める。俺も普段なら見捨てていた。ただ、俺はさっき気まぐれと反射で衝動的に動いた。そこには理性とか知性は働いていない。利己的な、自己防衛の為の行動だ」

「利他的な行動に見えましたが」

「生き物は本質的に脳内でしか活動してないんだ。利他的な行動は俺の脳内で完結して脳内に帰ってくる」

「意味がよく分かりません」

 珍しいケースだ。俺以外の人間に分からないことがあるとは。とはいえこちらの説明も悪い。言葉を付け足していく。

「貴方が良く言ってるアナロジーだよ。というかシンパシーか。誰かが傷つけられていると、それが自分には関係無くても、似た記憶を呼び起こされたり自分にそれが降りかかった時のことを想像してしまう。その時脳には負荷がかかる。ストレスって言うのは脳内で起きてる物理的な現象だ。つまり俺の目に見える範囲で誰かが傷つけられている時、その加害者は見ているだけの俺の脳細胞にも危害を加えているに等しい」

「飛躍してませんか?」

「言葉や表現によるストレスでも人は死ぬ。人間は『自己』を感覚・想像できる範囲まで拡張してしまう生き物だ。例えばこの右腕は機械義肢だが、これが破損すれば俺は強いストレスを感じるだろう。これを俺は『自己』だと強く認識しているからだ」

 右腕を軽く上げて相手に見せる。長年使い続けてきたツールは、使用者にとって己の手足に等しい。俺の場合は文字通り手なわけだが。これは例えば、ペットや盲導犬なんかでも同じだ。さらに拡張して、身近な他者がそうである場合もある。話を続けていく。

「そういった『自己』は肉体と完全に同一ではなく、曖昧なぶれがあるから、ストレスから逃れるために苦痛の発生源である自分の肉体を破壊して原因を解決しよう、なんてことを考える。つまり自殺だ。言ってしまえば肉体の誤動作だが、機能に由来する仕様でもある。この人間の脆弱性を突いて間接的に脳をクラッキングする方法がある」

「それがストレスを与える、という行為だと?」

「そうだ。つまりあいつらは俺を殺そうとしたんだ。さっきのはただの自衛だよ。人食いの習慣のある文化圏に迷い込んだとき、相手の文化を尊重しておとなしく食われてやれ、なんて理屈は誰も受け入れない。自己の保全の為なら俺はこの世界を蔑ろにする」

「――やはり、異獣的です」

「だから普段はこんなことしないんだって」

 あれは本当にどうかしていた。見なかったことにしてストレスを忘れるのが普通だ。それができなかったのは、何故だろうか。この半年間、俺はずっとおかしいままだ。

 カイン。そしてアズーリア。
 未だに整理できない記憶が、頭の中にわだかまっていた。纏まらない思考を続けても仕方がない。息を吐いて、気を取り直す。だが、持論を吐き出してすっきりした俺とは対照的に、コルセスカは何事かを思案していた。

「どうかしていた、ですか。確かにその可能性もありますね」

「どういう意味だ?」

 コルセスカは言いながら考えをまとめているのか、一語一語を確認するようにゆっくりと話し始めた。

「こんな仮説が立てられます。この世界は呪術、アナロジーが貴方の認識している以上に力を持っている。それゆえに貴方はより強く他人に対して共感してしまうのです。先程の話に出てきた、自己だと認識している範囲の拡張、同情によるストレスの誤認が、この世界では発生しやすくなっている可能性があります」

「それならもっと共感性の高い、平和で互助的な社会になりそうなもんだけど」

「逆です。世界が共感をかきたてるからこそ、人間はそれを切断処理によって他人事にしてしまうことに慣れている。共感しやすい社会だからこそ人はより冷淡になる」

「ここよりも共感しにくい世界から来た俺は、そのギャップに対応しきれず、共感してしまった?」

「ええ。貴方が普段想定している、『これは他人事』と切り捨てられる基準が、この世界とずれていたのでしょう。いつもなら無視できる事態でも、想定していたより共感の幅が広がってしまっていたため、貴方は反射的に動いてしまった」

 だとすれば、感情抑制レベルをもう一段階引き上げなければいけないのかもしれない。自己の同一性が保てなくなるほどに他人に共感してしまうのなら、感情を制御する意味など無いからだ。俺は少し迷った。感情制御アプリは変わらずに作動し続けている。拡張現実のシークバーを少しだけ上げればいい。そうだと分かっていても、何故かためらいがあった。

 いや、それがどうしてなのか、俺はとっくにわかっているのかもしれない。コルセスカに対してどうしてあんなに必死に、長々とした言い訳をしてみせたのか。内心を明確に言語化する事への怖れが、それ以上の思考を停止させていた。

 

 夜半。互いに明日の予定を話し合って別れ、おのおの自分の宿へと入った後。四方の全てが氷の結晶という異様な空間で、異相の少女が思案にふけっていた。巨大な右眼と怜悧な左目。それらが見据えているのは、氷を透かして見える、義腕の男の住居である。釘を刺した甲斐があってか、夕べのようにこちらの家に張り付いて聞き耳を立てると言うことはしていない。おとなしく眠っている様子だ。

 大理石めいた壁で構築された箱。その中を透かし見てでもいるかのように、温度のない凝視が無音のまま続く。ややあって、誰に聞かせるでもない呟きが氷の室中に響いた。

「暴力への依存。人間に値札を付けることへの忌避。義理や借りなどといった特定傾向に偏った社会性。そして贈与への無批判な信仰。ああ、これは確かに『獣』と言うほか無い」

 無機質な氷の瞳がどこを見ているのかを知るものはいない。だが誰であっても感じずにはいられない事が一つ。

 冷気。
 およそ親しみを持っている相手には向けることが無いであろう、冷えた感情。声に、表情に、そんな色を乗せた彼女を形容する言葉はただ一つだ。
 氷のような。

「躾けて馴らして――調教してあげなくては」

 独白を聞いたものはいなかった。その真意は、氷の中に閉じ込められて誰にも明かされることは無い。

 

 世界に日本語を定着させるというのは、世界に俺という存在を定着させるということなのだと、三日目にして実感し始めていた。俺に対しての客引きの声などに日本語が混じるようになっているのだ。片言ではあるが、「安い」とか「美味しい」とかいった文句だけで充分意図は伝わってくる。

 というか、妙に注目されているのは気のせいだろうか。
 義肢は昨日もらったアームカバーで隠しているので、そこまで目立つわけでは無いはずだ。手袋を付け忘れたということもない。片腕が無いことも、ここではそれほど珍しいことではない。迷宮探索の過程で負傷し、四肢を失う者も一定数いるからだ。ほとんど万能の治癒符も、失われた手足を復元させることはできない。

 優秀な呪術医であれば切断された四肢の神経を縫合して元通りにすることもできるらしいが、莫大な治療費がかかる。どちらにしろ、俺の左腕は半年前から行方不明なのでもう再生の望みは無いのだろう。その辺はこの半年で納得し、受け入れた事だ。

「注目されているのは、貴方が外世界人であることがネットメディアで発表されたからでしょう。じき取材なども来ると思いますよ」

 事も無げに隣を歩くコルセスカは言う。今日は白い長袖のブラウスに白手袋、オフホワイトのロングスカートという装いだ。スカート上の平面の目玉がぎょろりと視線を巡らせている。

「どういう意味だそれ」

「昨日の夜に済ませておいたんです。私が」

「聞いてないんだが」

「事後報告でいいかと思いまして」

 よくない。
 というか元世界の常識に照らし合わせると、トラブルや訴訟リスクがあるので考えられない行為だ。まあ異世界だからそんな意見は通用しない、のか?

 え? ていうか何? なんでそんなことしたの?

「いずれしなければならないことだったんですよ。共有スペースに日本語を登録する場合に色々手続きが必要ですし、外世界人が来訪した時にはどこかの段階でその存在を公表しなければなりません。まあしばらくすればそんなに騒がれなくなると思いますから、最初だけ我慢してください」

「ああそうか、いきなりこの世界のどこにも使用者のいない新言語を登録して、俺に対してだけ使ってくれっていうんだもんな。目立つのは当然か」

 考えて見れば贅沢な技術と制度である。この世界を外世界人が訪れるのは初めてではないらしい。きっと今までの経験から構築されてきた制度なのだろう。というか俺はこの世界では法的にどういう扱いになるんだろうか。

「そこは曖昧ですね。基本的には『外世界人』として入国手続きとか必要だったりするんですが、なにせここはどこの勢力下でもないので」

 第五階層にいることが、立場の不確かさをより高めてしまっているらしい。俺の存在が周知されれば、そんな状況は変化していくのかもしれない。まあ、アズーリアと接触するために、いずれネットを使って俺の存在を発信していくつもりだったし、それが早まったと思えばいいのか。

 というか、いっそコルセスカに頼むべきだろうか。俺は端末を操れないが、操れる誰かに頼む、というのは今までも考えたことはあった。が、そこまで複雑な意図を伝える方法がわからず断念したのである。

「なあ、俺はどんな風に扱われているんだ?」

「こんな風ですね」

 と、コルセスカがこちらにも見えるように端末を傾けて立体窓を見せてくれた。いくつかの窓が開かれていき、記事が表示される。読めない。

「ごく端的な事実が並んでいるだけですよ。外世界人が第五階層にいること、使用言語である日本語をこの世界に定着させようとしていることなどです」

「ていうか顔写真はいつの間に撮られたんだ。正面から撮影された覚えなんて無いんだけど」

「ああ、私が撮影しました。この目で」

「それ撮影機能あるんだ!?」

 コルセスカが自分の巨大な右眼を示すので、思わず凝視してしまう。ていうか顔写真を勝手に撮影してネットにアップするとか――いや普通の事か。俺の世界でも頻繁に行われていた。勿論褒められた行為ではない。

「『念写』の呪術を使いました。私の記憶から再構成したものなので、呪的権利は私に帰属します」

「そういうもんなのか――」

 異世界の常識や法は俺の想像を超えていた。なんでもかんでもそれらしい形に収斂進化するわけじゃないらしい。この世界には呪術という大きな差異があるので当然ではあるが。

「光学映像でしたら問題ですけどね。この記事にある貴方の映像はあくまでも私の記憶と認識に基づいたものです。誰かがこの映像に呪いをかけたとしても、その対象は貴方ではなく私になるのです」

「いや、そういう心配をしてたんじゃないけど」

「基本的に自分の記憶を元にした念写以外の方法で人間を撮影することは法律で禁止されています。呪殺を容易にしたり、場合によっては意識を感光材料に閉じ込めたりできるので」

「呪術がある世界ではそれが常識なのか――」

 普通に視界スクリーンショットとか撮影しまくってた。知らないうちに犯罪者になっていた。ばれてないと思うけど、念のためこれからは控えよう。

「普通の撮影機械には人間を写せないように安全装置が付いています。この階層にはそれが付いていない禁制品も売ってるようですが」

「あ、本当だ」

 今まで気にも留めていなかったが、確かに彼女が指差した先にはカメラが販売されていた。ごく普通の光景だと思って気に留めていなかったが、実はヤバイ品を堂々と売っていたわけか――。

 写真を撮られないように警戒が必要だな。知らなかった場合、命取りになりそうな情報だった。それはそれとして、意識を端末に戻す。

「これって俺の方からメッセージを発信したり、誰かを捜したりとかってできるかな」

「誰か、接触したい相手でも?」

 俺は簡単にアズーリアのことを説明した。この世界に来てしまった日の出来事を。特に隠すようなことでもない。大まかな流れは首領にも説明した事がある(ちゃんと伝わったのかどうかは不明だが)。

「――で、誰かに襲われて意識が飛んで、目が覚めたら誰もいない第五階層のど真ん中に突っ立ってた」

「何故そうなったのか、直前の記憶が全く無いと?」

「ああ。その後調査に来た上や下の連中と一戦どころか二戦三戦交えたり、わらわらやって来た探索者や学者や報道関係者と意思疎通を図ろうとして失敗して揉めたり――」

 あれは大変だった。今ではネット上に『声明』が発表されたからだと分かるが、当時はわけも分からずに翻弄されるだけで最終的に排除されそうになり、戦闘と逃走の繰り返しだったのだ。

 人や建物が少ない頃の第五階層では逃げ回るのにも限界があり、第六階層や第四階層で生活していたこともある。寝ても覚めても周りが敵だらけで感情制御アプリが無かったら心身ともすり切れて死んでいたと思う。生き延びようと思えたのは、アズーリアという引っ掛かりがあったからだ。もちろん、今もそれは同じだ。

「だから、どうにかして連絡を取りたいんだ」

「貴方を見捨てたかも知れない相手を?」

「ああ」

 いまだにアズーリアとの再会が叶わなかった理由が、俺にはわからない。だがどんな事情であれ、俺はもう一度会って、礼を言いたかった。

「救われた恩には報いるべきだ」

「救われた、ですか。貴方がそう感じ、そう行動したいのであれば、私からは何も言うことがありませんね」

 コルセスカがそれ以上俺の内心に踏み込むことは無かった。ただ、端末の操作を続けながら何事か思案してこう続けた。

「その人物を探す、というのでしたら、可能な範囲でやってみましょう。ただ、ひとつ確認しておきたいことがあります」

「確認しておきたいこと?」

「貴方からそのアズーリアという人物に呼びかける、接触を持つということは、つまり上の勢力である『松明の騎士団』に近付くということです。周囲はこの事を、貴方が『上』に接近する意図があると捉えるでしょう。貴方の意思を確認しておきたいのですが」

 言われて初めて気付く。そのつもりが無くとも、世界中に『上』に近付くつもりだと公言しているようなものだ。どのような手段をとるにせよ、その時点で下からは敵と見なされるだろう。更に言えば、上からも敵と見なされている現状、下手をすれば上に赴いた途端捕まって殺されることすらあり得る。迂闊な行動は身を滅ぼしかねない。

「ちょっと待ってくれ、考えたい」

「その方がいいでしょうね」

 異論は無いようで、その話は一旦保留となった。アズーリアと連絡をとるといっても、その具体的な方法が思いつかなければ意味が無いのだ。ヲルヲーラの敵性マーカーをなんとかしなければ、上に向かうことすらままならない。

 その日は、記者だとかライターだとか名乗る人物が幾人か訪れ、取材行為をしようとしてきたのだが、ほとんど言葉が通じないのだから身のある内容にはなるはずもない。俺も協力的な態度だったとは言い難かった。それならばと矛先を向けた先のコルセスカが、通訳によって発生する料金について解説し始めたあたりで記者達は舌打ちしながら帰って行った。おそらく何かしらの記事はできあがるのだろう。

「翻訳や通訳に対価が発生するのは当然でしょう。アキラから話を聞きたければ、自分で日本語を解析すればいいのです」

 彼女には、首領から対価が支払われているという。どの位の値段なのかを訊いてみたが、俺が首領に押しつけた魔石で充分に足りていた。だからこういう発言を後ろめたく思う必要は無いはずなのだが、直接の支払いではないせいだろうか、何故かもやもやとした気持ちが広がっていく。

 記者からの質問攻めに困惑している俺に、助け船を出してくれたからだろうか。彼女に施しを受けているような、親身に接してもらっているような感覚があるのだ。

 勿論錯覚だ。彼女は仕事のために俺と共に行動しているだけ。ただ、ずっと同じ時間を過ごしていると、理性とは関係無く情のようなものが生まれてしまうのも確かだった。それに、対価とは別に相手への感謝の念が生じること自体はそうおかしなことでもない。それが礼儀正しく、配慮や親切を欠かさないような相手なら猶更だ。

 それなりの好感を抱かされてしまうのは、もはや避けられないようだった。

 

 その日の夜、速報性の高いニュースサイトに、取るに足らない記事がいくつか掲載された。第五階層に現れた外世界人からの詳細なインタビュー。綿密な取材に基づいた新情報の数々。

 記者達が得られた情報は当人の容姿と声だけであったのだが、そんなことは彼らには関係が無いし、そもそも彼らを縛る法など無い。それらは転載と拡散を繰り返し、第五階層を、そして『上』や『下』にまで浸透していった。会話と散策、食事に買い物。他愛のなさで彩られた日常が、そうして終わりを告げる。

 

 打撃。
 乱舞する「Good」と共に掌底が黒い肌に埋まっていく。そのまま脇腹を握りしめ、肉ごと引き千切る。鮮血の中に沈んでいく身体を横目に、肉塊を放り捨てて次の敵に狙いを定める。

 義手の握力を前提としているため、手による攻撃は拳打ではなく掌打が基本だ。身体が脆い相手なら打撃と掴みはこの上なく有効になる。その意味で、この悪鬼どもは与しやすい相手だった。

 悪鬼。『モロレク』という音で呼ばれる彼らは、黒い肌と矮躯、鋭い牙などを特徴とする種族であり、同時に血族集団でもある。血の絆で繋がった同胞団。第五階層に巣くう『下』の犯罪組織。三報会と同様、俺を執拗に付け狙う敵。

 俺は今、その集団と交戦している。別にそれはいい。よくあることだ。コルセスカと出会うまでは日常的にこいつらと殺し合いを重ねていた。しかし。

「冗談だろ、くそっ」

 見定めた次の敵に打ち込んだ一撃が、大振りなナイフで防がれる。『サイバーカラテ道場』が導き出した最適な位置に移動。ナイフを上に持ち上げながら左下に滑り込み、反転して左下段からの蹴り。相手が体勢を崩しているうちに間合いをとる。横から繰り出された一撃を躱して、もうひとりの襲撃者へと反撃を繰り出す。

 衝撃によって転倒したその相手は、悪鬼ではない。白い肌と色素の薄い髪。典型的な『上』の特徴に加え、頬には目立つ刺青。暴力組織である三報会の刺客だった。

 この二つの組織は共に俺を不倶戴天の敵と見定めているものの、それぞれ『上』と『下』ということもあって互いに敵対していた筈だ。協力して俺を襲撃してきたことは一度もない。

 だが今に限っては、両勢力が同時に攻めてきていた。示し合わせたのか、偶然なのか。俺を殺す為に一時的にでも休戦したのだろうか。

 悪鬼の振り下ろしてきた鈍器を回避しつつ、相手の懐に潜り込む。相手の腕に手を添えて力の方向を化かし、背後から俺を狙っていた刺青男へと誘導した。異音を立てつつ悪鬼の腕が本来あり得ない方向へと捻れる。真横に薙ぎ払われた鈍器が刺青に直撃し、モロレクが三報会を攻撃したという事実を強引に作り出す。

「やっぱり協力関係にあるのか――? 本来敵同士なんだから潰し合えってんだよ!」

 残って消耗した方を倒すのが楽でいいのだが、そう都合の良いようには行かないらしい。倒れた男に悪鬼が手を伸ばして立ち上がらせている。共通の敵を得て友情でも芽生えたのだろうか。決裂すればいいのに。

 敵は目の前の二人だけではない。周囲をぐるりと取り囲まれている。十数人はいるだろう。

 これだけの騒ぎを起こしているというのに、襲撃者たちが制裁を加えられることは無い。ここは街路のど真ん中だというのに遠慮など欠片もなかった。人が集まってくれば戦っている所を見られてしまう。そうすればこの階層唯一にして絶対の価値である創造能力を奪われるというのに。

 敵集団は問題を強引な手段で解決していた。
 道路の真ん中に巨大な壁を作って周囲の視線を遮っているのだ。十数人はいるであろう刺客たちが全員で壁を構築すれば可能だが、こんな目立つ場所に壁なんか作ったら邪魔だし、じきに首領あたりが撤去命令を出すだろう。

 道路は誰のものでもないが、街の体裁を整えるために不可侵であることが暗黙の了解である。往来の妨げだと判断されれば集団で排除される。つまりこれは、俺を短時間で仕留める算段があるからこその荒技だ。

 白昼堂々、不意打ちで襲われたのは何もこれが初めてではない。しかし、今回は過去の襲撃よりも深刻であるとみていいだろう。敵は本気だ。そのことは、二つの敵対的な集団が手を組んだことや十人を超える襲撃者の数、そしてその中に別格の強敵が混じっていることからも分かる。

 恐ろしいことに、そいつはコルセスカと互角に渡り合っていた。
 顔の刺青は三報会に所属していることを示しているが、その実力は他と一線を画している。

 外見には目立つ特徴が刺青以外は無いものの、その周囲を火の玉が周回し、猛火をまき散らしている。対するコルセスカは同じように周回する氷の球体から氷柱を出現させては射出し続ける。氷と炎はぶつかるたび、軋むような音と共に消えて無くなる。

 半年前に見た呪術使い同士の戦いはかなり地味だったが、今目の前で繰り広げられているものはまるでフィクション上の光景のようで、視覚的にわかりやすい。物理法則を無視しているとしか思えない、非現実的な戦闘。どうやら互角の状況で推移しているらしい。つまり助けは期待できない。

 一人で複数の相手を倒さなければならないというわけだ。
 この状況で、敵が飛び道具を使ってこないことが唯一の救いだった。これまで俺に投擲武器を使った相手は一度目は躱され、二度目は防がれ、三度目には投げ返されて返り討ちに合ってきた。例外は無い。

 『弾道予報』は飛び道具を持たない俺にとっての最強の盾であり矛でもある。投げ返されることを恐れて、奴らは投擲武器を使いたくても使えない。『弾道予報』の影が敵集団を威圧して、俺に優勢な状況を作り出す。

 半年間の蓄積があってこそだ。
 まあその蓄積のせいでこんなピンチに陥っているわけでもあるのだが。この集団に『弾道予報』は必要ないと判断して、全タスクを終了させて待機させる。代わりに、呪術による攻撃を警戒して別のアプリを起動。気休め程度にしかならないが、コルセスカ相手に呪術で張り合える相手が出てきているのだ。他にも呪術師がいないと判断するのは楽観的過ぎる。

 逃げ場が無いため、いよいよ覚悟を決めなくてはならないかと思ったが、周囲の刺客たちの様子がおかしい。最初に襲いかかってきた数人を倒してから、こちらを取り囲んだまま様子を伺っている。

 警戒しているのだろうが、いくらなんでも一斉に全方向から襲いかかられれば無事では済まない。必要以上に警戒されているのは、俺が全く動揺していないのに加え、実力を本来のものより高く見積もられているからだろう。
 互いに攻めあぐね、停滞した状況に変化が加わる。

 刺客たちがその場から一歩退き、ひとりの男が前に進み出た。
 褐色の肌にモンゴロイドに近い顔立ち。日本人である俺の美的感覚から言って美形といっていいだろう。精悍な顔立ちと鋭いまなざし。長くつややかな黒髪が肩よりも下に流れている。

 道衣とも和服ともつかない白い着衣。前を左右交互に重ね合わせて帯で結んでおり、下は赤いスカート状の衣裳が足下まで覆っている。この世界ではスカートは男女関係無く着用するようだが、戦闘時にあえてあのような動きづらい格好をしてくるとは、足の動きを読みづらくすることを狙っているのだろうか。

 一見しただけで、他の有象無象とは格が違うとわかる。
 他の連中はなんだか「先生、お願いします!」みたいな感じだし、反対側でコルセスカと戦っている刺青の呪術師が三報会の所属だというのなら、こちらはモロレクの雇った用心棒か何かだろうか。

 今までの経験上、モロレクたちが血族以外を頼ったことは一度もない。他の組織や用心棒などを使ってでも俺を始末したいのか、彼らの事情が変化したのか。いずれにせよ、敵は本気なのだということが予想できる。

 何事か、口上めいたものを並べ立てる用心棒。耳の奧まで響く美しいバリトンだが、意味は不明だ。腰を低く落とし、相手の口を観察する。
 言葉の切れ目、呼吸の間隙を狙って踏み込む。

 相手の事情など斟酌してやる余裕は無い。一番強そうな相手を最速で潰して敵の意気を挫く。疾走しつつ『サイバーカラテ道場』が提示する戦術パターンを選択、誘導光に従って右足を前へ。後方の左足を前方の右脚に引きつけるようにして前進し、曲げられた膝から爆発するように力を解放、踏みしめた足から腰へ、終わりには右腕の掌底へと威力が伝達されていく。足裏から伝わるエネルギーを過不足無く打撃力に変化させるため、俺の初撃は肘であることが多い。しかし今回は速度とリーチを優先した。

 相手を間合いに捉え、最速の掌底。打撃は狙い違わず用心棒の腹部に吸い込まれていく。相手の力量が分からない場合、先手を取るべきか後手に回るべきかは流派や個人によって意見が分かれる。だが相手が対処不可能な呪術などを使ってくる可能性を考慮した場合、相手に攻撃の機会を与えず一撃で倒してしまうのが最善だ。これはルールの決められた試合では無いのだから。

 攻撃は最適なタイミングで放たれていた。言葉の切れ目、気息を整える瞬間というのは最も攻めやすい機会のひとつである。
 しかし。
 敵手は見事な体捌きで左方へわずかにずれ、初撃を回避してみせた。奇襲にも動じた様子が無い。冷静な相手であることがわかる。

 別に構わない、予想の範囲内だ。左腕があればすかさず次の一撃を叩き込む所だが、あいにく持ち合わせが無い。右脚を軸に身体を回転させながら、左足を下段へ打ち込、もうとして急静止。右腕を身体に寄せて防御姿勢をとる。相手の身体の微細な変化から反撃の気配を読み取った『サイバーカラテ道場』がしきりに警戒を呼びかけてくる。耳にさわるアラート音と共に、視界に文字が表示される。左から中段蹴りが来る。反撃確率は七割超。

 直後、衣服をすり抜けて長い脚が飛び出し、勢いよく打ち出される。辛うじて右腕での防御が間に合ったが、重い衝撃が全身を打ち据え、後退を余儀なくされる。

 というか、吹っ飛ばされた。
 狙いの精確さ、速度、重さ、全てにおいて申し分のない一撃。こちらの掌底が銃弾ならあちらは砲弾だ。チタン製の義手は耐衝撃性能が極めて高い。にも関わらず、今の蹴りで深くダメージが浸透するのを感じた。痛みは遮断されていくが、一方で驚愕が広がっていく。

 蹴りだと?!
 長いスカート状の衣服であるために下からの攻撃は無いだろうという油断。服自体がそれを誘うための罠だったのだ。そもそも、そのように見えるだけでこれはそういう衣裳ではない。

 高く持ち上げられた右脚が、衣服をすり抜けている。透過する衣裳。端末が空中に映像を投影する技術と同質のものだろう。立体映像を着るという発想が、この世界に無いというのが既に先入観だった。

 拡張現実が一般的ではない世界というのは、立体映像が一般的でないということとイコールでは無いのだ。逆説的に、情報的な同期が行われているのでなければ、立体映像は一般的な技術であるということが言える。下半身の衣服が規則的に、一定のパターンに従って揺れ動いている事に気付くべきだった。

 続けて、砲弾のごとき蹴りが次々と放たれていく。中段から上段を主とした、派手な蹴り技が多い。威力に反して隙が多いかと思えば、足捌きが異様に速く回避に入るのが素早い。そして下半身が見えないために、攻撃の起こりが見極めにくいことが回避を難しくしていた。軌道が読みづらい上に防御のタイミングが遅れてしまっている。

 相手の攻撃を知らせる『サイバーカラテ道場』の予測機能が、普段に比べ精度を下げていた。
 こちらの反撃はことごとく回避され、相手の重い打撃は確実に命中してくる。体軸をずらしたり右腕で防御したりと辛うじて致命的なダメージを避けてはいるものの、腕に比べ足での攻撃は完全に威力を殺しきれない。

 左腕がない俺は、文字通り手数が少なく、防戦一方になっていく。このままダメージが蓄積していけばいずれ肉体にも限界が来てしまうだろう。攻めないと負ける。

 俺の攻め気を関知した『サイバーカラテ道場』が消極案と積極案の双方を提示。連動して、感情制御アプリがクールダウンを実行する。冷静な思考で、再び問い直す。答えは変わらない。

 積極案を選択。攻撃手順が一斉に展開されていくのと共に、肉を切らせて骨を断つ覚悟で、間合いを詰める。蹴りが無効化される超近距離で、最も得意とする肘からの打撃を叩き込んで一気に終わらせる。

 右方向から迫る脚の根本に飛び込み、肘を打ち込む。いままで回避と防御に使っていた余裕を全て攻撃に転じさせ、相手の不意を突く。命中を確信したその時、予想を超えた衝撃が襲う。肘が精確な打撃によって弾かれたのだ。懐に飛び込んだ以上、蹴り足はもう俺には届かない。だが、脚は曲がるものだ。足が届かずとも膝がある。

 膝と肘が激突し、渾身の一撃が無為に終わる。
 『あ、死ぬな』という確信が、とても静かに身体の深いところへ飲み込まれていった。視界を踊るニアデス表示。最上級の危険信号。恐慌をきたし始める肉体を感情制御アプリが強制的に抑え込んでいく。

 一発目はかろうじて身体をずらしてダメージを軽減できた。
 続く二発目はここにきて初めての下段への攻撃。重心を低くしていたため体勢を崩すことは無かったが、対処はできず、足が悲鳴を上げる。

 三発目で、防御の困難な左脇腹にクリーンヒット。
 せめて右方向へ飛ぶことで衝撃を和らげようとした所に、とどめの一撃。左手。これまで俺の攻撃を捌くためにしか使っていなかった腕による攻撃が解禁される。驚くべき事にそれは拳でも掌底でも手刀でも無い。

 貫手。それも四本の指を使ったものではなく、親指一本だけ、さらに第一関節を折り曲げた、リーチよりも打撃力を優先したものだ。立て続けの強烈な攻撃によって体勢が崩れているため、危険性が分かっていても回避ができない。狙われているのは顔だ。眼球かこめかみか。首の動きだけでは回避もままならない。せめてもの抵抗とばかりにわずかに頭を仰け反らせる。無意味だった。打点は予想外の箇所。

 額のほぼ中央。一点に集約された打撃力が頭部に浸透するが、頭蓋骨に守られてそこまでのダメージは無い。これならまだ何とかなるかと思い、一度後退して距離を取ろうとした瞬間、視界が大きく揺れる。身体がぐらつく。思うように動かない。何故、と感じるより速く、視界が赤く染まる。

 何かのアラートか?
 いやそうではない。目が熱い。そして濡れている。頬を伝い、滴り落ちていくのは赤い鮮血。血涙が流れていた。

「が――ふっ――」

 目ばかりではない。口から吐きだしたのは血痰。耳からも、鼻からも熱いものがこぼれ落ちていく。身体の自由が全くきかない。痛みが完全にゼロであることが、完全に痛覚を遮断しなければならない状況であることを示していて、かえって深刻さを伝えてくる。砲弾のような威力の蹴りとは反対に、親指の一撃にはそれほどの脅威度を感じなかった。にも関わらず、より危険だったのは後者だ。

 どのような技なのか皆目見当も付かないが、あの額への一撃は致命打となったらしい。身体から、あらゆる熱量が消えていくのを感じる。
 鳴り響くアラート音。消失していく体感覚。脳からの命令が完全に遮断されているかのように、全身が言うことを聞かない。身動き一つとれないまま、死に体となった俺にゆっくりと近付いてくる敵手の姿。

 詰んだ。
 ここからはもう俺の意思ではどうにもならない領域だ。足が全く動かない。力が抜けているわけではないようで、その場から動けないという感じだった。立ちっぱなしでは回避も攻撃も不可能だ。為す術無く敵に殺されるしかない。

 万事休す――。
 再び迫り来る貫手の風切り音と、けたたましいアラート音が合わさり、ついに俺の命運が尽きようとしていた。

 こめかみを痛打する、強烈な一撃。
 愕然とした表情で真横に吹き飛んで、倒れ伏したのは、しかし俺ではない。

 何の前触れもなく跳ね上がった俺の右腕が、無防備な頭部に一撃をくらわせたのである。勝利を確信した瞬間こそ最大の隙が生まれる。加えて予備動作の一切無い、敵を上回る奇襲性の高さが相手の油断を完璧に突き、痛撃を与えることに成功した。肉体は相変わらず一切言うことを聞いていない。しかし、右の義手だけは別だ。

 遅延動作設定アプリ『残心プリセット』。

 特定条件下に置かれたとき、事前にプログラムされた行動を、脳や脊髄を介さずに自律的に義肢にとらせるアプリケーションである。

 義肢そのものにマイクロコンピュータを搭載して自律制御させる、脳侵襲型情報機器技術が未発達だった頃の前時代的な発想のアプリケーションだが、緊急時にはこうして役に立つ。

 右腕の義肢は見た目上では肘までしかないが、その制御・神経系と動力部は腕の内部、肩や脊髄にまで及ぶ。そもそも、重量のある義肢を制御する都合上、俺の上腕や肩の筋肉は人工筋肉に置き換えられている。

 外見だけならば義腕の部分は少ないが、内部にまで目を向ければ俺の肉体は右半身と首から上の殆どが人工物である。よって、脊髄反射すら出来ない状況であっても、このような反撃が可能になる。極端な話、『残心プリセット』を使用すれば頭部や心臓が破壊されても右腕の動作が可能である。一定時間のみ、という条件付きだが。

 武術の鍛錬時、残心を忘れず強制的に身体に覚え込ませる為の訓練用アプリであり、肉体が動かせないほどの大怪我を負った際、救助を要請したり簡単な応急処置をしたりといった用途にも応用できる。

 半年前、エスフェイルに行動を封じられた経験から、呪術を使いそうな相手にはこのアプリケーションを準備しておくようにしていたのだ。意味があるかどうかは不明で、気休め程度の対策ではあったが、今回は有効に働いたようだ。

 不意を突いた急所への攻撃は相手にそれなりのダメージを与えたらしい。膝を付いてふらつく体を支えながら、側頭部を押さえている。
 が、逆に言えばそれだけだった。

 奴はすぐにでも立ち上がるだろう。右腕の動きは警戒されてしまっているだろうし、そうすれば動けない俺は今度こそ打つ手が無くなる。今の攻撃で相手が施した行動不能にする術を解除できれば良かったのだが、そう都合の良い展開にはなってくれないようだ。

 よってこれは死を先延ばしにするだけの悪あがきに過ぎず、こうなってしまった時点で俺の敗北は確定。一矢報いたものの、力及ばず斃れる。そうなるのが本来の結果だった。

 その当然の帰結を、涼やかな声があっさりと覆す。

「撤退します。手荒になりますが、我慢してください」

 尽きるはずだった命運は、俺の意思が介在しない所で左右される。
 至極当然のことではあるが、何故か俺はそのことに激しい抵抗を感じた。せっかく助けて貰ったのに、だ。

 いつの間にか傍にいたコルセスカが、俺の体を後ろから引き寄せる。小柄だが意外にも力が強い。手袋ごしの腕の感触も硬く、か細く繊細なイメージとは裏腹だ。

 飛来する火の玉を地面からせり上がった氷の壁が遮り、氷の宝珠が反撃の氷柱を射出していく。炎を操る呪術師が追撃を仕掛けてきているのだ。これに加えて俺を倒した男、更に十人以上の刺客を相手にしては、さすがのコルセスカもどうしようもないのではないか。そんなふうに危ぶみつつも、意識が急激に薄れていく。血を流しすぎた為か、それとも頭部への打撃がより深刻な事態をもたらしたのか。それすら分析できないままに、視界が暗転する。

 遠く、コルセスカの声が聞こえてくるのを最後に、思考がぷっつりと途絶えた。
 この世界に来て以来、初めて体験する、それは敗北だった。

 

 
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