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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第2章 もしサイバーパンク世界の住人がオカルトパンク世界に転生したら

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2-1 氷血のコルセスカ

 

 
 足りないのは、欲しい物を手繰り寄せるための腕。
 そして、踏みしめられる確かな足場。

 

 おわかりいただけると思うが、未知の言語を聞いて、その音の連なりを文章として認識することは非常に難しい。ある種の才能か技術が必要だ。
 だから俺が相手のまくし立てている言葉を表現できないのは仕方のないことで、そのニュアンスも含めて伝えることができないのは大変もどかしい限りである。

 が、はっきりしている事実が一つある。今、俺の目の前にいる相手が甚だ道理の通っていない事を言っているのは間違いない、ということだ。
 相手の呼吸の間隙を縫って胸ぐらを掴み、卓上に叩きつける。

 言語は通じない。贈与できる物品や感情はあいにく持ち合わせがないし、こいつにくれてやる気もない。
 そこで、俺とこのクズの共通言語が登場する。
 つまりは暴力だ。

「いいかげんにしろよ社会のダニが。足りねえっつってんだろ計算もまともにできねえのか。頭ん中にスポンジでも詰まってるのか? それとも言葉がわからなきゃばっくれてもてめえの懐が潤うだけだとでも勘違いしちまったのか? てめえが死んで困るのはてめえだけだ。交換可能な使いっ走りが欲の皮突っ張らせた挙げ句くたばるなんざ笑えねえぞおい」

 日本語でまくし立てたので一切意味が通じていない。が、勢いと右腕の力は伝わったはずだ。硬い質感の義肢はこういう時に威圧感を与える効果がある。

 頭をそり上げたその男は、慌てて部下に何かを指示し、俺に仕事(簡単な取引の護衛だ)の対価を支払った。
 俺は端末を持っていないから、情報貨幣での支払いは無い。

 というか、『上』と『下』とでは情報貨幣の規格が異なるので使いづらい。加えて、半年前に突然出来たこの第五階層の闇市場では、価格変動の振り幅が大きく、ヤクザな投資家の違法マネーゲームの対象になることで貨幣が一夜にしてゴミ同然になることもざらだ。

 価値の基準となるのは人だった。次に食料や医薬品などの生活必需品。そして呪術・情報産業。
 そして、それらを包括するもの。広い意味でのエネルギー。

「――よし、満タンだな。あとサプリだ。ああ? 錠剤でよこせっつったろうが! ああくそ言葉マジ通じねえな、つーかなんだよこのぼそぼそしたのは乾パンかよ!」

 義手を動かすためのエネルギーは俺の生命線だ。『ここ』で一番価値があるのは強さ、つまり暴力だ。それを生み出している俺の義手、その動力は電力と俺の体内から生み出される熱量のハイブリッドでまかなわれているわけだが、太陽の光がわずかしか届かず、専用の充電器を持たない今の俺はこのままだと動かない義手を引きずって路地裏で野垂れ死ぬしかない。

 だが、この世界の高度に発達した呪術テクノロジーは、俺の苦境を救った。
 ていうかコンバーターがあった。

 この半年でかろうじて数字が読めるようになっていた俺は、携帯バッテリーから伸びたプラグを義腕の差し込み口に挿入、変換器の電圧を100(手指の数に由来しているのか、ほとんど十進法が基準となっている)に合わせる。最初に試したときは冷や汗をかきながらだったが、今は慣れたものだ。
 転生技術の発展によって、多くの異世界で数学の体系や物理定数までがほとんど同一であることが判明している。異なる発展を遂げても、物理法則を形作る公式までは大きく違わないことがほとんどなのである。

 魔法や幻想が存在する異世界であっても数学だけは変わらない。
 大きく物理定数の異なる世界はお互いを認識出来ないことが理由ではないかというのが定説だが、真相は定かでない。

 ともあれ、歴史を重ね、必然的に電気工学が順当に発達した(もっとも俺の元いた世界とは方向性が違うようだ。呪術があるせいだろう)この世界で、俺は充電という生存に必須の行為を行うことができていた。前の世界では食事同然の日常だったので、転生した後も続けているというのは不思議な感覚がある。

 渡された食料と四角い携帯バッテリーを腰の収納に次々と放り込む。明らかに入れている物よりも収納のほうが小さいが、下の新技術によって空間を拡張している為、溢れることはない。身軽な格好の俺だが、これでもわりと大荷物を腰に提げているのだ。

 第五階層が解放されることで自由になったのは、商取引だけではない。
 いままで争いによって遅々として進まなかった世界槍内部の研究も大幅に進んでいるという。

 この空間を拡張するという技術も、研究者たちが世界槍の「空間を自由自在に構築・破棄する」「広い空間を折り畳む」などといった呪術を解析して生まれたものらしい。

 組織がいくつかの用途の為に借りているフラットの一室を後にして、追跡を警戒しつつ路地を何度も曲がり、大通りへと出る。まあ呪術的な発信器とかを付けられていたらどうしようもないので、無意味な用心ではある。しかし染みついた癖は中々抜けないもので、振り返ることはしなくても耳を澄ましながら歩くことが習慣になってしまっているのだ。

 半年。
 そう、半年も経過すれば、癖が身体に染みついてしまう。
 半年前。死闘を乗り越えた仲間――そう言っていいのかわからないが――と再会を約束した後。

 待てども待てども、俺の元に待ち人が現れることは無かった。
 そうして不意に訪れた意識の断絶。
 一瞬のようにも感じられた闇が晴れた時、俺はこの第五階層に一人で立っていた。

 ただ、ひとりきりで。
 そして、気がついた時には訳のわからない状況のただ中に取り残され、翻弄され、圧倒され、変動していく第五階層という混沌に飲み込まれてしまったのだ。
 そう――この世界は混沌そのものだ。

 

 第五階層は、暗い喧噪に満ちていた。
 空気はかすかな冷たさを湛えており、雑多な臭いが辺りに漂っている。
 ドーム上の天井からは照明光が降り注ぎ、正方形のブロック状に積み重なった建築物が積み木のように延々と連なり、街路を形成している。

 街の色彩は雑多である。原色が無造作に放り出され、個人が思うままに好きな色で建造物を染めている。壁面を極彩色に塗る目立ちたがりがいるかと思えば、周囲に埋没させるように彩度の低い色合いも目に入る。が、それも結局悪目立ちしていた。周りに合わせるという思考がとにかくこの場所には欠けている。

 頭上に並ぶ電光掲示板を無機質な宣伝文句が走り、頭上を電線が走る。日本めいた光景だが、別の電気会社によって地下にも配線されている。送電・配電だけでなく通信用ケーブルも支えている電柱には無数の商業広告。
 地震が無いにもかかわらず、空間を占有できるという理由で地上に架設されているのだ。

 道を行くのは無数の人、人、人。
 冷たい空気を、大量の体温が蠢いている。

 群衆を押しのけるようにして牛車が荷物を運んでいく。ただし牛は白骨でできており、頭蓋の内側に呪術の火を灯している。浮遊する絨毯が人々の上を通過したかと思えば、家屋の屋根に取り付けられた大型機械が魔導書の項を一枚ずつパンチングし、虹色の煙を噴き上げながらエネルギーを供給している。

 雑踏ゆえに必然的に生じる街路の汚れを、人々の足下を這い回る紙製の生き物たちが洗浄していく。呪符を折紙のように小動物の形にして、清掃用のロボットとして扱っているのだ。

 各所に配置された鴉は自警団への通報用。道脇の頭蓋骨がその日の交通量を測定し、カードの束が宙を踊りながら、人々が発する雑音や足音を無数の文字として採取し、吸い取っていく。

 無数の乱雑さがそこにはあった。
 その中でもとりわけ人目を引いているのは、檻の中に鶏を詰め込んで強引にプレス機で圧殺し、断末魔の絶叫と血液を生贄として呪術的エネルギーを採取する機構である。呪術の光が大量に発生し、効率よくエネルギーを生み出してはいるようだが、同時に吐き出される騒音と悪臭、飛び散る血など不快な精神汚染はこの世界特有の『公害』と言えた。道行く人々も迷惑そうに目を向けているが、構わず次の生贄が追加されていく。

 そして圧殺。
 半年間の異世界生活を経て、すっかり見慣れてしまった日常風景がそこにあった。

 

 何かのビラを配る小男がいる。鬱陶しく思って迂回すると、飛来したビラが俺の顔に張り付いて、そのまま視界に固定される。何が書いてあるのかは不明。実体が無い。ただ情報だけを視界に表示する呪術的な広告だ。

 遮られた視界の向こうで、串焼きを売る屋台の呼び声が聞こえてくる。
 日常的な第五階層の風景だが、常駐アプリが下した判断は警告アラート

 風切り音と共に飛んできた鋭利な飛び道具を右手で掴むと、そのまま投げ返す。そのままの勢いで背後から投げつけられた紙切れを防御する。右手に衝撃と熱。道具による呪術の発動で視界を妨げていたビラが消失。

 鋭利な串を眼球に突き立てて絶命する屋台の店主と、ビラの束に隠していた炸裂呪符を取り落として狼狽する小男の姿が目に映る。治安を乱した小男に、周囲から一斉に裁きが下される。無数の端末が掲げられ、小男に向けられる。カシャカシャと音が鳴り光が発せられ、犯罪者であることが露見した小男の身体から呪術的な、実体を持たない流体がふわりと浮き上がり、一番行動が速かった端末に吸い込まれていく。小男の、世界の終わりのような絶叫。

 下らない風景だ。襲撃も暗殺も、ここではありふれた日常でしかない。失敗すればああやって日常を過ごす人々によって食い物にされるのだ。
 様相を変えた第五階層は、今もなお迷宮だ。ここは命があっけなく消費される戦場のまま、変化していない。

 周囲に笑いものにされながら、泡を食って逃げていく小男。途端、数人の男らによって物陰に引き摺り込まれ、一瞬の間。くぐもった断末魔が響く。
 第五階層での暗殺稼業はリスキーだ。

 この場所の法はひとつ。公然たる戦闘行為には、誰でも、自由に、裁きを与えて良いとする法。
 残虐な、私刑の推奨。

 犯罪者、というよりも、犯罪が露見するような「へま」をやらかした者は「人狼」と呼ばれ、死者同然の無残な扱いを受ける。死にも匹敵するアウトローの宣告。

 つまらない幕切れである。冷ややかな感想を抱いてその場を離れようとすると、周囲の目が俺の方に集まっていることに気付く。
 正確に言えば、俺の右手に。
 呪術による爆発を防いだことで露わになったその腕は、硬質の金属製だった。

 どうやらこの世界では一般的では無いらしい、電子制御技術を用いた機械義肢。
 人々は何かを口々に呟いている。繰り返されるセンテンスは、言葉の分からない俺にとってもいいかげんお馴染みとなっていた。

 彼らはこういっている。『鎧の腕』と。

 さてこの翻訳は正しいのかどうか。この世界で最初に遭遇した相手が鎧を指し示したのでそうじゃないかというだけで、実際にはニュアンスが異なるかもしれない。同じ音を、誰かが建物の壁とか屋根に対して使っているのを耳にしたこともある。それと厚手の衣服にも似たような音の響きがあった。もしかすると、『覆うもの』とかその辺りの意味領域なのかもしれない。だがしかし、『覆われている腕』とかよくわからないし皮膚だけが人工物というわけでも無いので、『ぱっと見たところでは鎧のような質感の腕』くらいのつもりで俺は『鎧の腕』という翻訳を採用しているのであった。脳内でだけ。どうせ他人には通じない。

 なにしろ、半年経っても言葉がわからない。
 人々は揃ってコミュニケーションがとれない猛獣を見るかのように、じりじりと俺から距離をとりはじめる。多種多様な容貌に浮かんでいるのは、嫌悪か、それとも恐怖だろうか。

 どうでもいい。
 腕を外套の中に隠して、その場を後にする。

 

 第五階層の新たな掌握者が何を考えているのかは誰にもわからない。謎の掌握者はその権限を、第五階層に一定期間滞在した者に、『上』と『下』の区別無く一定量ずつ与えていた。

 第五階層の住人と認められた者は、任意の空間内で自由に物体を構築し、またそれを消去する能力を得る。

 人口に比例して拡大する第五階層には、人々がその能力を駆使して作った一戸建てや、複数人が協力して作り上げた大規模な建造物などが並んでいる。

 それらは今日できたかと思えば、創造主の都合やきまぐれによって明日には消え、あるいは暴力によってより強大なコミュニティに組み込まれたりと忙しない。

 無秩序な、自動生成じみた街並み。
 人が密集するゆえに縦に積み上げられることが多く、ピラミッドにも見える積層都市。
 あるいは地球の先進国でよく見られる、都心部の高層建築群のようだ(というには高さが足りないだろうか)。

 人口と面積が比例するシステムにも関わらず(あるいはそれゆえに)、中心ほど人口密度は高い。
 だれであっても、最低限の価値を保証された場所。
 そして、人間が交換可能な存在として競争や暴力に晒される場所。

 次第にこの社会で幅をきかせ始めたのはいわゆる暴力団、犯罪組織だ。
 呪術的情報網――もう開き直ってこう言おう、ネット経由で拡散された第五階層掌握者の『声明』を先んじて掴み、ここを真っ先に訪れていたのは商人、耳ざとい研究者や迷宮探索者、そしてメディア関係者たちだった。

 しかし彼らは、後から大挙して現れた複数の犯罪組織が、その数と組織力を活かして土地という利権を独占しようとするのを指をくわえて見ているしかなかった。

 そして奴らが何を始めるのかと言えば、商人や探索者たちに対する商売だ。奴ら自身が違法な物品の商人でもあったからである。
 それは暴力による情報と土地、そして物流の独占という形で行われる。

 物理的・情報的な、種類を問わない抗争と絶え間ない勢力争い。
 表向き中立地帯であるとされていること、他の階層のようにおおっぴらに上と下に分かれて戦争をすれば諸勢力の商機が潰されてしまう事、大小の勢力同士が牽制し合っている事、複数の要因が絡み合い、昼間の第五階層はかろうじて平穏を維持できている。無論、一歩でも人気の無い裏路地に足を踏み入れてしまえばそこは暗黙の法すら無い迷宮の中。人と異獣とが鈍器と爪で殺し合う修羅道だ。

 歪な都市。
 街の形をした迷宮、と言った方が良いのかもしれない。ここは半年前と変わらず、異種族が殺し合う地獄だ。
 いや、ここでは勢力が異なれば同族同士でも殺し合うのだから、より悪いのかもしれない。

 半年前から今に至るまで、上から下へ、あるいは下から上へ、この第五階層を通らなかった物も情報も無い。
 ただ、人だけはそうはいかなかった。

 上の勢力圏に属する者は第六階層、すなわち最前線までしか侵入を許されず、下の勢力圏に属する者は第四階層、すなわち最終防衛線までしか侵入を許されない。まあこれは上側に立った視点だが。

 最初に上側に味方をしたせいか、俺の思考は上に寄りがちだ。
 しかしそれは意味のない偏りである。
 なぜなら、俺はこの階層から一階層ぶんしか移動できない。何度も試したが結果は同じだった。

 各階層に存在する、上と下にそれぞれ通じている転送用ゲート。上の住人なら上に、下の住人なら下に、自由に行き来が可能なそれを、俺は使えない。

 そして第四階層、第六階層に侵入して自分の足で上か下に向かおうとすれば、俺は審判であるヲルヲーラによって敵味方識別用の呪的マーカーが付加され、両方の防衛側戦力から敵と見なされて排除されてしまう始末。

 それが何を意味するかというと、俺はいまだにこの世界から住人として認められていないということだ。
 上にも下にも居場所のないどっちつかず。

 生まれついての第五階層住人(転生して肉体が再構成されたのが第五階層なので)。
 俺の居場所は、本当にここでいいのだろうか。

 生まれ変わってもやることが変わらないってのは、割と頭の痛くなる展開である。
 探索者向けの店が建ち並ぶ通りに差し掛かる。目立つ客引きの声。
 先程とは違い、右の義手に好奇の視線を向けられることは無い。

 アズーリアから貰ったマントはこの半年ずっと使い続けている。
 さすがにどうにか服は調達して、今は下に簡素な構造のシャツを身につけている。

 武装や携帯呪具などには興味を惹かれるが、今は不要なので無視。昼夜の区別のないここでは街娼の媚態を含んだ誘いが耳に毒だ。幼い少年のものまで混じっていることに気付いて、改めてこの街の無法ぶりを実感する。

 そして物乞い。手足を欠損した者が多く見られる。
 これには複数のパターンがある。迷宮で手足を失った探索者が物乞いに落ちる場合。そして食い詰めた『無資格の』物乞いがここでならと最後の望みを託して来る場合。

 金銭的な事情、あるいは命を捨てて失った手足を寄生異獣で補い、肉体を浸食され続ける生涯を送ることを選べなかった者たちが、ここに辿り着く。
 しかしそうした者達のほとんどは、犯罪組織によって搾取され、奴隷同然の末路を辿る。

 ふと、故国の光景が記憶の隅でちらついた。
 ここで俺に出来ることは何も無い。
 生前の俺が、何も出来ていなかったように。

 

 この半年の間、俺がやってきたことと言えば警備から抗争の兵隊といった暴力がらみのものばかり。ある組織の使い走りで敵対組織と事を構えたかと思えば、次の日には飼い主の首を噛み切ったりしているので、界隈では殆ど狂犬扱いされている。

 決まった対価さえ差し出せば、その日の内は便利な傭兵。明日は導火線に火の付いた爆薬。いずれにしろ関わるのは狂気の沙汰。何しろ言葉が通じない。

 だがより強い力を求める一部の連中は俺をこぞって求めた。俺はその全てにそれなりの態度で応じた。

 一度、自分の値段を吊り上げすぎてある組織のトップに怒りを買ったのと、仲間同士の連帯が強く、家族的な形態を取っている組織の幹部の首を獲ってしまったことが重なり、今は二つの組織から刺客を差し向けられる日々だ。おかげで定住もできない。

 もっとも、瞬時に建造物を構築、解体することができる能力は俺にも平等に与えられている。宿に困った事は今のところ無い。
 睡眠中の自動警戒アプリ『夢枕Guard』が無ければ安心して眠れないのが玉に瑕ではある。

 本当は、ここまで考え無しというか、過激な事をするつもりはなかったのだ。
 幾度も陥った窮地の中で、俺は必死に相手との関係をこじらせないように交渉を試みた。
 そして、当然のように失敗した。

 言葉が喋れない、という欠点がことごとく悪い方向に作用し、殆どの場合暴力で決着がつくことになる。
 おそらく俺に多くの問題があるが、この世界のヤクザ連中の異様なまでの好戦性にも原因はあるように思う。

 半年も経過してろくに言語を習得できていないという状況にも、それなりの事情がある。
 第五階層の住人は、驚くべき事に、その全員が十以上の言語を操る多言語話者だったのだ。

 誰もがそれらを多種多様に混交させ、流動性の高いピジン言語めいたもので自在に意思疎通を行う。
 これがこの世界の常識的な語学力だというから驚異的だ。
 カインに教わった語彙が通じる相手もいたが、通じない相手もいた。

 バラバラに、好き勝手な言語をごちゃまぜに喋り、それでいて意思疎通が成立する。そうした独特の文化に適応しきれず、半年が経過した今でも俺はまともに言葉が話せないままだ。

 さらに、この世界特有の現象も俺を困惑させていた。
 書かれた文字が、覚えられないのだ。
 はじめの頃俺は、第五階層では大きく二種類の文字が使われている、と思っていた。

 それぞれ上と下で広く用いられている、アルファベットのような文字だ。
 もちろん話者によって文字の使用範囲が異なったり、表す音素そのものが異なったりと言うこともあるようだが、おおまかには二種類が並んでいる。
 はやくもピジン化が進んで文字が混ざったりもしているようだが、それは置く。

 問題は、俺がその文字を覚えようとしても、記憶や認識がぼやけるような妙な感覚に襲われ、できないということだった。そればかりではなく、こういう形だと思った瞬間、その文字がぐにゃりと歪んで別の形になってしまうことまであった。

 文字が呪術的な力を帯びる、ということらしい。あらゆる文字は物理的な実体としてそこにあるのではなく、なにか奇妙な力や法則によって常に変化してしまうようなのだ。これでは文字を習得するどころではない。

 文字を見ても何かの記号だということくらいしか認識できず、それゆえに筆談もままならない。

 これは中々に堪えた。思えば、いくらかコミュニケーションの成立していたカインや、『心話』によって会話のできたアズーリアと最初に巡り会えた俺は幸運だったのだろう。

 理由は不明だが、あれからずっと元世界との通信も繋がらず、孤立無援のまま、俺はこの第五階層の猥雑な通りをさまよい歩いている。

 あれからことある毎に、アズーリアやカインのことを思い出す。
 遠くに、六人一組の一党が、並んで歩いていくのが見えた。揃いの全身鎧を見て、浮き足立つ。彼らの視界から外れるようにして、建物の陰に身を隠した。

 隊列を作っているのは甲冑の集団『松明の騎士団』だ。
 どうやらあの集団はそんな感じの名前らしい。半年間でどうにか知り得た数少ない情報の一つだった。

 上も下も、探索者達は第五階層を拠点としているものが多いが、組織的に活動する松明の騎士団が帰って行くのは、拠点がある第四階層、あるいは地上にである。彼らは定期的にああして第六階層へ探索へ赴くが、大体その日の内に撤退する。おそらく本格的な攻略ではなく、偵察などの役目を担っているのだろう。

 一度彼らに話しかけ、アズーリアのことを尋ねようとしたことがある。しかしただでさえ言葉が通じない上、俺はそれ以前に第四階層に足を踏み入れていた為、彼らに敵として認識されてしまっていた。

 今では見つかった瞬間に戦闘になるほどの関係だ。俺に敵性マーカーを付けたヲルヲーラは死ねばいいのに。実際そう思って殺したことがあるのだが、この審判は複数いるらしく、次の瞬間には新しいヲルヲーラが現れて俺に対する一週間の第四階層立ち入り禁止ペナルティを科してきた。

 だからこうして彼らを見かける度にこそこそと隠れるしかない。彼らが立ち去ったのを確認して、深く嘆息した。

 

 今の俺の大まかな目的は四つだ。
 最初は五つだったが、この世界の技術水準を知ってからは諦めた。
 俺の左側は、ずっとがらんどうだった。装飾用の義肢すら調達できないのは、基本的に義肢というのはオーダーメイドで作成するためだ。

 採寸、採型を依頼できるような相手の心当たりなど皆無だった。
 だから四つ。
 一つ目は元世界との通信。これは原因不明のノイズによって不可能となってるので保留。あと諸事情によりまだ心の準備が出来ていない。

 二つ目は異世界を訪れた以上、避けては通れない道である、伝染病などに対する各種予防接種だ。
 体内のマイクロマシンでウィルスに対してはほぼ完全な免疫を持つ俺だが、そこは異世界、未知の病原菌や超自然的な病などが存在する可能性を考慮に入れねばならない。

 幸い、上と下とで人や物が行き交いする第五階層だけあって、そういう対策も講じられており、幾つかの組織がお抱えの闇医者を連れて来て、ワクチン接種を高額で請け負っている。

 つまり病院に行きたい。
 まずそのための資産を稼がなくては。これはできるだけ早いほうが良い。

 三つ目。幾人かの知り合いが俺にこれを勧めてきたので分かったのだが、どうやらこの世界には専用の機器によって言語を翻訳してネット経由で普及させるシステムがあるらしい。

 つまり、俺がこの世界の言語を習得するのではなく、この世界が日本語を習得するという技術。
 呪術という独自の技術体系、思考基盤が関係しているのか、この世界の人々は言語をネットから幾らでも参照し、習得することができるようだった。

 かなり大掛かりな演算装置が必要になるみたいだが、これは俺の世界では未だ発展途上の技術であり、正直心が躍った。そして予防接種と同様に可及的速やかに達成したい目的だ。

 しかし、専用の機器はここには無いらしい。高価で更に巨大という『設備』らしいので無理もない。上や下にはあるらしいので、何かの機会にここに持ち込まれないかと待ち望んでいる。

 四つ目は、アズーリアのこと。そしてカインたち死者の弔い。
 地上には行けない、と分かったときに半ば断念した思いではある。地上ではきっと葬儀も行われたことだろう。墓には参れなくとも、カインの、キールの、テールの、トッドの、マフスの、それぞれの冥福を祈ることはできる。だが、どこかで凝りが残っていることも確かなのだった。

 そして、今も地上のどこかで生きているであろうアズーリア。
 何故、あのとき時間を過ぎても来てくれなかったのかはわからない。何か事情があったのだろうとは思う。

 何らかのアクシデントがあって、その身に何かが起こったという確率は低いと予想している。地上はアズーリアにとって安全な領域の筈だ。そして代理ではなく、本来の掌握者であるアズーリアが死ねば、あの階層の掌握者権限は俺に移行するのだという。そうなった時はそれと分かるのだと、あの時審判であるヲルヲーラから聞いている。だとすればアズーリアは少なくとも生きてはいるはずなのだ。

 だがアズーリアは、逆に俺が死んだと思っているのではないだろうか。
 だとしたら、俺はアズーリアにとっての『背負わなくていい責任』になっているのではないだろうかと、そのことだけが不安で、心配で、仕方がなかった。

 アズーリアが俺のことなど一切気にも留めず、地上で生活しているのならそれでもいい。
 だがもしそうでないのなら。
 俺は生きてここにいると、そう伝えたかった。

 アズーリアが、俺に与えてくれたように。俺も出来る限りのものを返したい。
 これに関しては、三つ目を終えてからという条件付きで当てがあった。

 情報制御端末を使って、ネットに俺の存在を発信する。あるいは、アズーリアの存在を見つけ出してコンタクトを取る。インターネット誕生後の文明圏であるからこそ使える方法だ。

 これは俺が言語を習得するか、先述したように日本語を世界に習得させた後でないと使えない方法だ。

 そして端末を購入しなければならない。別に他人のを借りてもいいのだが、自分で持っていた方があらゆる面で便利だろう。市場に沢山出ているので買えないことも無いが、今の状態ではものの善し悪しも、使い方さえわからない。これは三つ目が達成された後だ。

 要約すると、当面の目的は医療福祉・言語コミュニケーション・情報インフラの三本柱である。地域社会で安全な生活を送るための標語みたいになってしまった。

 この三つの達成を目指して、毎日暴力によって資金を稼いでいるというわけである。
 今日も仕事を終え、その報告に向かっている所だった。
 街の中央からやや離れた位置に、その巨大な複合建造物は存在した。

 いくつものブロックが積み重なったような横に長い建物で、色は黒一色。
 建物の脇に並ぶのは簡易設営の便所だ。町中の至る所に同じものが設置されている。俺も後で利用させて貰おう。また生活用水などの必需品の販売所も設置されている。これらはタダではないが、どのような住人であっても建造物の構築能力や労働力としての価値は最低限見込めるため、利用できないほど追い詰められるものはそう多くはない。

 皆無でもないが。
 建物の中に入ると、いくつか椅子と机が並ぶ広間になっていた。複数人が協力して建造物を造ると、こうした広い場所を確保可能だ。

 幾人かの顔見知りに目礼だけして、真っ直ぐ奥へ進む。受付カウンターの脇に回って、奥の事務所に入ると、自分のデスクで端末をじっと眺めている人物を見付けた。

 でっぷりと腹が出て、頬も二の腕もふくよか、目が弓のようになった好々爺といった感じの初老の男性だ。
 俺は彼の前に立つと、声をかけ、軽く頭を下げる礼をする。

 要件は、仕事が完了したことの報告だ。
 この老人、その風体からは想像もつかないが、元世界では大陸における幇のような性質の組織における、第五階層支部の幹部なのだ。

 といっても扱うのは麻薬や賭博、売春といった定番の商品ではない。
 通信回線技術を中心とした情報インフラ、そして医療と衛生管理。上下水道の無いこの世界で必須となる生活用水の補給と簡易便所の設営、清掃業といった社会的基盤を一手に引き受けている。

 初期は複数の業者が競争していたようだが、どのような手段を用いたのか、現在はほぼ全てのシェアを独占している。

 また逃亡者を一時的にこの階層へと匿う、あるいはこの階層から追われる者を外へ送り出す密入国ブローカー、いわゆる蛇頭まがいのこともやっており、俺もその片棒を担がされたことが何度もある。

 というか、俺に斡旋される仕事の多くがこの老人を介してのものだ。
 それというのも、この老人の意思疎通能力の高さに依る。

 ジェスチャーというのは文化圏によって意味する所が異なり、必ずしも万能の共通言語になるとは限らない。しかし、この老人は指差しのセンスが絶妙で、更には『一度通じた仕草』を組み合わせて抽象的な概念を伝える、即席の手話めいた技術まで有している。

 俺のこの半年の情報源・生命線は、ほぼこの老人が担っているといっていい。
 階層内でも重鎮として認識されており、他の組織もおいそれとは手を出せない重要人物である。

 またその肥満体の下は筋肉質であり、凄まじい格闘術の達人でもある。
 俺は何度かその剛腕が振るわれるのを見たが、瞬く間に三人を叩き伏せるほどの力と技量の持ち主であり、うかつに敵には回したくないと思わされた(と同時に、矛盾しているが、いずれ手合わせ願いたいとも思う)。

 というかその時に彼が三人を倒した件が、何故か俺のせいになっているような気がするのも、油断ならないと思わされる原因となっている。
 おそらく、この第五階層でもっとも上手く俺を飼い慣らしているのが、この老人であった。

 この老人、名をロドウィ・フーシィ・インギィと言うらしい。どうも接尾辞『-y』にはなにか文法上の意味がありそうだが、それはともかく他にも複数の呼び名を持っているらしく、最初は覚えるのに手間取った。

 これは名を知られると呪殺される危険があるということを考えれば当然のことだが、現代では一般的では無いという。なぜなら名を知り、その相手を害することができるほどの呪術の使い手は滅多にいないから、ということらしい。

 前の第五階層掌握者、エスフェイルは相当ハイレベルな呪術師だったのだろうと思わされる。

 老人が幾つも名を持つのは、古い習慣が残っていたからというのと、万一強力な呪術師に命を狙われた場合を考えてのことらしい。組織の幹部ともなるとそういう警戒が必要になるのだろう。

 普段、俺や周囲の人間は『首領』とだけ呼んでいる。たぶん首領、みたいな意味であろうと思われる単語だ。
 首領は俺に気付くと常に笑っているような表情のまま、鷹揚に手を上げることで応じた。

 俺は斡旋された仕事を終えたこと、依頼主との意思疎通が上手くいかなかったことを報告する。
 といっても、ああいった報酬がらみでのトラブルは日常茶飯事で、大抵は首領を通して俺に対価が支払われることが多い。

 今回のは例外で、俺の暴力性を定期的に誇示しておきたいという首領の思惑に乗っただけである。つまりトラブルが起きることをあらかじめ期待していたわけだ。

 巻き込まれたあの禿頭の男が哀れだとは思わない。報酬でごねたのは事実だからだ。
 ただ、このまま言葉が通じない状況が続くのはやはり望ましく無い。

 頼んでおいた件が上手くいったかどうかを尋ねたいのをぐっとこらえる。自分から弱みを見せることは無い。 俺は基本的にあまり自分の表情を動かさない。相手への印象を考えて軽く表情を緩めたりすることはあるが、それ以外では無表情でいた方が良い顔のつくりなのだ。

 凄むことが効果的な顔、笑顔を作ることが効果的な顔というのが存在する。俺はそのどちらでもない。
 だから俺の表情から内心を読むことは難しいはずなのだが、首領は俺が望んだ話題を切り出してきた。

 首領は、常に変わることのない穏やかな笑みを浮かべながら、俺にメモ用紙(地球でよく見られる木材チップを原料にした紙とは微妙に質感が違っていた)を手渡してきた。見ると、地図が描かれている。

 俺は文字では意思疎通ができないが、絵や図は理解することができた。首領は絵心があり、両者のコミュニケーションでは頻繁にこうした絵図が利用される。

「では、ここに行けばやっと翻訳が可能になるということでいいんですね?」

 沸き上がる喜びに、思わず日本語で確認してしまった。歓喜や快楽といった精神に負担がかからない感情を、情動制御アプリ「E-E」は自動的には抑制してくれない。こういう時に動揺してしまうのは俺の弱みだ。

 首領はそれを(少なくとも表面上は)気にした様子もなく、身振り手振りで説明を付け加えてきた。
 しばらく前から、首領は俺の言葉を翻訳するための機器を探してくれていた。我々の友人、アキラのためなら、みたいな事を伝えられたが、本音はどうかわからない。

 どちらにせよありがたいことには変わりがない。厚意に甘えて、あとは首領の連絡待ちだったのだ。
 その結果が、ようやくもたらされたというわけだ。
 首領のジェスチャーから判断すると、地図の示す場所で人が待っており、その相手に任せればなんとかなるのだという。

 行き先は階層の東端にある、上下に移動するためのゲートの近くだ。そこには確か首領が直接管理する倉庫があったはず。
 そこに翻訳機器を持ち込んでいるということだろうか。

 いずれにせよ、行けばはっきりすることだ。
 俺は首領に対価を支払おうと、収納から複数の石を取り出す。
 それ自体が発光する、奇妙な材質の石。内部に呪術的エネルギーを蓄えたこれは、第五階層でも高い交換価値を持つ。

 強力な異獣の体内から出てくることがよくあるらしく、探索者たちが命をかけて迷宮に挑む理由の大半でもあるという。
 思えば、巨大狼やエスフェイルの体内からも宝石が出てきていた。

 これらの石は仕事の報酬として首領から渡されたものだが、今これを出したのは返す為ではない。翻訳と捜索の代金を支払うためだ。
 だが、首領はそれを受け取ろうとはしない。

 足りないのだろうか。それとも、向かった先で支払えということか? だとしても首領に捜索・仲介してもらったことの報酬は支払わねば、筋が通らない。

 しかし首領はかたくなに俺の差し出す石を拒否し、しきりに俺に何かを伝えようとしてくる。
 今回のことは私達にとっても利益のあることだから、報酬は不要だ。どうしても気になるのなら、今後も私達と友好的な関係を維持してくれればいい。

 どうも、こういうことを伝えたいらしい。
 首領の好意的ともとれる申し出を、しかし俺は素直に解釈したりはしない。
 どんなに地域社会に貢献している善人に見えても、この老人はインフラヤクザの幹部である。油断や隙を見せては骨までしゃぶりつくされるのがオチだ。

 こうやって俺に対して「目にかけてやって」「恩を着せて」おけばいざというときに俺を味方につけられるという思惑がある。
 俺があらゆる組織に付かず、基本的に全方位に敵対的なのはこういうことを警戒しているからというのも大きい。ヤクザは敵に回すと厄介だが味方にしても面倒なのだ。というか存在自体が害悪。

 既に足まで浸かっているという説もあるが、そこはそれ、精神衛生上の問題もある。
 強引に石を押しつけた。報酬として適正な価値かどうかの計算はわりと大雑把だが仕方ない。少ないかも知れないし多いかもしれないが、とにかくこれで押し通す。

 まだ何か言ってくるが意味が分からないので無視。お礼を言って反転し、俺は事務所を後にした。
 少しだけ、考えてしまう。

 いずれ俺はあの老人と敵対するだろう。他の組織ともそうなったように、必ず。それはあの老人が犯罪組織の幹部である以上、絶対だ。
 だが、複数のインフラを管理するあの老人を害するということは、この階層に住まう多くの人々を害するのと同じ事だ。それは正しくないことだ。それはわかっている。それでも俺はやるだろうということも。

 だが。
 『正しくなさ』だけで、俺がいつまで戦えるのか。それだけは、自分でもわからなかった。

 

 変わらない喧噪の中を、早足で進む。
 貯め込んできた財産を手放してしまったのでやや懐が寂しいが、言葉を喋れるという期待感がそれを上回る。

 視界の隅に、中古とおぼしき携帯端末が売られているのを見つけた。回線事業者は首領の所に頼むとして、端末は自分で選びたい。端末を購入する程度の手持ちはまだある。言葉が通じるようになったら、まず端末選びだ。こういう予定を立てるのは嫌いじゃない。浮ついた気分になっているのを自分でも感じる。

 喧噪をすり抜けて、歌が響いてきている。
 路上での弾き語りや芸の披露などはたまに見かけるが、俺の想像とは違い、そういった人種が歌っていたのではなかった。

 いつの間にこんな高い建物が建てられていたのだろうか、他より図抜けて高いビルディングの上に、大型のディスプレイがある。映し出されているのは動画だ。

 黒髪の女性が歌い、軽やかに踊っている。
 アイドル歌手のプロモーションビデオっぽい、と俺は思った。商業宣伝、娯楽の大量消費、そうしたものが成立する世界なのだ。異世界であるにも関わらずそうしたものを目にしているのは妙な気分だった。無数に世界がある以上、自分の世界と似た世界があるのは自然なことなのだが。

 歌の意味はわからなかったが、元の世界にもありそうなアイドルポップスで、若干テクノっぽい音も混ざっていた。電子楽器とかもあるんだろうか。嫌いな音楽では無かった。

 何より、歌手がいい。透き通るような声質のソプラノ。耳に心地よく、悪くない気分だ。

 ――油断したつもりはなかった。

 だがこのときの俺が些細な物音や気配へ注意を向けるのを疎かにし、結果として背後から密やかに尾行してくる存在に気づけなかったのは、やはり緊張感が足りていなかったせいだろう。

 

 倉庫や発電所が固まって並ぶ階層の外周部分。
 空間操作技術が普及しつつあるため、初期に建てられた倉庫は不要になりつつある。コストの問題で未だに使われ続けているものもあるが、この場所の景色もいずれ変化していくのだろう。

 町外れの倉庫は、第五階層外から持ち込まれた資材で作られている。
 住居や店舗は移転を容易にするため、ほとんどがインスタントに作られた簡易建造物で階層の中心部に多い。逆にこういった倉庫や安い賃貸住宅などといった建物は階層の周辺部に多く、俺の向かっている区画は倉庫街となっていた。

 首領の組織が管理する、上からの(密)輸入品を一時的に保管するための倉庫に入っていく。
 倉庫の中は複数の木箱が積み上げられているが、区分けが済んでいるためか乱雑な印象はなかった。箱が壁となり、ちょっとした迷路のようになっている内部を進む。

 待ち人はひとりきりでそこに立っていた。
 少しだけ驚いた。
 目立つ機材などは無い。言語翻訳装置は巨大な装置だという話だったが、ここにはないのだろうか?

 しかしそれよりも俺の目を惹いたのは、静かに佇むその女性(年頃からすると少女と言うべきかもしれない)の横顔だった。
 思わず、ため息が漏れる。

 氷を削りだしたかのような端正なつくりの横顔。青い瞳に、細い睫毛。ほっそりとした首筋にかかるくらいの短い白銀の髪。切れ長の目からは冷たい印象を受ける。

 膝下までの白いワンピースは広めの襟や短い袖に精巧なカットワークが施され、色合いはシンプルながら複雑な縫製のものだと知れた。礼装用にも見える高級そうなロンググローブが二の腕辺りまでをすっぽりと覆い隠している。迷宮を歩くのに不向きそうな黒いウェッジソールと肩から提げたポシェットだけが全体のシルエットから浮いていた。

 俺は、声をかけようとして、失敗した。
 ――び、美少女!
 美男美女との不用意な接触はまずい。不用意な動きをすれば逮捕まであるのだ。

 警察やセルフレーティング機構、異世界における人権問題に関するNPOなどなど各種団体による「異世界人に対する人権侵害!」「悪しき性の商品化!」「21世紀型の恋愛モデルを振りかざした性的搾取!」といった抗議が聞こえてきた。幻聴だ。

 それを言ったらもう異世界転生そのものがかなりアウトではある。
 異世界の歴史を歪めてしまうことの是非とかの議論は未だに続いている。
 現在の日本には転生後の難易度調整のため、文明レベルや当該世界の国家間の勢力調整など、異世界をデザインする職業まである。

 現在の異世界転生がビジネスとして成立するまでに、議論と法規制と法の目をかいくぐった強引なグレーゾーンな制度の成立とか政局の混乱で人質法案として通ったとか国際社会からの非難とか日本が異世界転生天国と化した経緯とか色々あり、うやむやのまま、なし崩しにこの異世界転生事業は発展し続けている。

 そのへんの歴史はここでは置く。
 死亡リスクのかつてない高まり、人々の不安、そういったものに時代が応えたと、誰かが言っていた。

 現代日本は国民の四人に一人が六十歳までに自殺し、貧困層にとって怪我や病気が即人生の終了に繋がる末法の世。来世への信仰――異世界転生でもなければ生きる気力すら湧いてこない。

 昔の日本は自殺が自己責任で健康保険も手厚かったと何かで読んでずいぶん驚いたことがある。
 ほとんどの人は壮年に差し掛かるより前に高額の医療費を支払えなかったり、過度の社会的ストレスによって死んでいく。

 俺のように豊かな家庭に生まれ、先端技術によるサイバネ手術を受けられる者は限られている。
 そして金があっても、自ら死を選ぶ者もいる。

 俺がそうだ。
 ――嫌なことを思い出しそうになったので、思考を切り替える。
 必ずしも美形の男女と接触してはいけない、というわけではない。

 制限があるのだ。普通は、プロの転生デザイナーが繊細なバランス感覚によって法規制を回避させている。作成された関係構築プランは転生後、脳に情報として送信される。情報的やりとりであれば異世界間でも許されているので、サーバーから自動送信されてくる指示・規則に背いた行動を取らなければ別に普通に接して良いのだ。

 規制の緩い初期は好き勝手にやっていたらしいが、最近は健全化ということで様々な規制がされている。なので不用意な行動は危険だ。
 だが、そうした俺の逡巡は更なる衝撃によって打ち消される。

 横顔を見て、「ため息を吐くほどの美人」だと判断した俺の目に狂いはなかった。だが正面を向いたことによって明らかになった彼女のもう片側の顔に、息が止まった。

 異相。
 あるいは、異形。
 異様さの原因は、彼女の右眼にある。

 顔の右半分を覆い尽くさんばかりに広がった、青く、氷のような質感の巨大な眼球。額や頬の皮膚を押しのけており、まるで無理矢理に楕円形のレンズを顔に埋め込んだかのようにも見える。

 過去の日本でも奇抜なインプラント・ファッションが流行した時期があったというが、その時代でもここまで大胆な風貌にするものは少数派だったのではないだろうか。

 彼女を見て連想してしまったのは、カマキリなどの昆虫だ。目はつるりとしたレンズで、複眼というわけではないのだが、意思や温度を感じさせない無機質な印象がどこか似ていた。

 思わず、一歩下がってしまう。
 そしてそのとき、ワンピースが目を見開いた。
 布地のスカート部分表面に、巨大な目のような模様が浮かび上がったのだ。いや、『ような』とか『模様』とかではなく、それは服の上に存在する平面の目だった。

 ぎょろりと動いて、こちらを見る。
 目があった。
 蛇に睨まれた蛙のような気分。ぞっとする。エスフェイルと対峙したときのような薄気味の悪さ。

 この少女は、呪術師なのか。
 女性としては平均的な体格、俺よりやや低い程度の背丈が、何故か目に見えるそれよりも大きく感じられる。

 服の目と同じく俺に気付いた本人が、俺を見た。
 巨大な右眼からは感情が窺えないが、左目からはわずかな関心と俺を観察しているかのような気配を感じる。

 何かを言おうと思ったが、うまく言葉が出てこない。
 魚のように口を開閉していると、相手の方から語りかけてきた。

「さんさのやり」

 フラットなアルト。その音の連なりは、何故だかはっきりとした意味のある単語に聞こえた。

「今、三叉の槍って言ったのか?」

 そんなはずは無い。相手は日本語を知らないはずだ。だが。

「――図像的意味群を抽出しました。模造と推定の試行を開始します。申し遅れました。私は貴方の使用する言語の解析を依頼された言語魔術師です。どうか、『コルセスカ』とお呼びください」

 息をのむ。今、日本語が聞こえた。アズーリアやヲルヲーラと『心話』で話して以来のことだった。

 いや、『心話』では意味が理解できるが聞こえてくるのは未知の言語だったから、音として日本語を耳にするのは自分のものを除けば本当に久しぶりとなる。

 一体どういうことだろう。
 この女性は、あのわずかなやりとりだけで、日本語会話を習得したというのだろうか。
 異様な翻訳技術――これが魔法、これが呪術だというのか?

「言語魔術師にとってこのくらいは造作も無いこと」

 俺の思考を見透かしたように、コルセスカと名乗った少女が言った。

「ああ、別に貴方の思考が分かるわけではありません。支障なく翻訳を完了するために、どうかもっと話していただけませんか」

「ええと、もう翻訳されてるのでは? なんか会話できてますけど」

「いいえ、貴方には会話が成立しているように感じられるのでしょうが、実際には会話は成立していません。私の、催眠効果を持つ特殊な発声によって、貴方自身に『自分と会話している私』を想像させているのです」

 そう聞かされてようやく意識できたが、彼女の声に重なるようにして複雑な旋律の歌が響いているのがぼんやりと感じられた。この声による催眠暗示? 彼女の声を採取した俺の脳が自動的に彼女の台詞を作ってしまっているということか。

 いや、しかし。

「なんか言語の意味を理解せずに箱から規則的な回答が出てくる的な無理があるような、ないような、チューリングテストみたいな」

「実際に貴方は人工無能と対話しているに等しいのです。あらかじめ用意された会話パターンへ、貴方によって貴方自身が誘導される。意味のある会話をしているような気がするだけ。その間、私は貴方の発話から単語や文法を解析し、推測し、日本語の習得を行っています。習得がある段階まで進んだ時点で催眠から実際の対話へと移行。貴方の発言は全て記憶しているので、私はそれに合わせて会話内容に対応した、意味のある発言へとシームレスに繋げる。これにより過去に遡って会話が成立した事になります」

 やはり翻訳するのは彼女なのか。では、装置ではなく個人でそれが行えるということになる。聞いていた話と随分と違う。
 確か『言語魔術師』とか言っていたが、呪術師とは別物なのか?

 それにしても『過去遡及的な言語の翻訳』とは正直理解を絶している。が、通じている(これから通じるようになる?)ならいいだろう。

 ――いやよくない。どう考えても論理破綻している。彼女の言うことが事実なら、この説明は全て俺の脳内妄想でしかない。つまりこの長々とした解説は事実ではない、という自己言及のパラドックスが起こっている。というか俺が発狂しているのなら何の矛盾も無いのだが、そんなことを結論にしても仕方がないだろう。

 どこかに破綻があるはずだ。
 ――あ、いいのか、論理破綻していて。
 論理的な整合性があったらそれは科学技術だ。

 破綻しているのに見た目上は破綻していない感じや雰囲気があるから魔術であり呪術なのであって、そこを踏まえれば彼女は正しく異世界の住人なのだ。
 我々の世界と似てはいるが異なる法則、異なる系に属する世界。

 ――これが、異世界。

「で、実際の所これは会話になってるんですか?」

「この会話や貴方の思考そのものが貴方自身によって事後的に生成された、『捏造された過去』であると解釈することによって、その矛盾は解消されますね。私のような言語魔術師はこれを『信用できない時制と語り手の解決』と呼んでいます」

「ああなるほど、ってあれ? じゃあ『今、ここにいる俺』は過去なの? 現在思考しているように感じられる俺自身は未来にいる俺が感じている記憶ってこと? なら俺はどこにいるの?」

「ハイデガーでも読んでればいいんじゃないですか(適当)」

「あっこれ俺の脳内妄想だ! 異世界人がハイデガーとか知ってるはず無い!」

「わかりませんよ、現世界でハイデガー的立ち位置にいる存在が提示され、それが翻訳された可能性があります。その際に翻訳している主体が未来の貴方なのか現在の私なのかは、この瞬間に知るすべはありませんが」

「ああもうわけわかんねえ!」

 

 

「――しかし妙ですね。貴方、注釈が付けられています。それも二回」

「はい? 何ですかそれ」

 唐突に、コルセスカがよくわからないことを言い出した。

「私に会う以前に、誰かから強力な呪術を受けたことはないですか」

 言われて、心当たりに思い至った。未だ記憶にこびりついて離れない、魔将エスフェイルとの戦いだ。それを説明すると、コルセスカはやや納得いかない様子で眉をひそめた。

「いえ、これは敵意のあるものではなく――あなたに友好的な呪術の使い手に覚えはありませんか?」

 彼女は何が言いたいのだろう。どうも呪術の使い手にしかわからない視野で、俺に何か呪術が用いられた形跡を発見したようだが。それが悪いものでは無いということだろうか。と、そこまで考えて思い出した。

 アズーリア。
 錯乱する俺に差し伸べられた、色のない左手。砕け散った金色の環。あの時、アズーリアは自らの不利益を省みずに、俺に何かをした。それが何かは俺自身よくわかっていないのだが、結果として俺は救われたのだ。

「ああ、そういうことですか。それでこの改変。納得しました」

 かつての成り行きを簡単に説明すると、一人で頷いて得心した様子だった。何を納得したのかわからない。

「しかしそれでも一回ですね。おそらく貴方は、自分でも知らないうちに致命的な相手に出逢ってしまっている」

「それは、どういう」

「二回目の改変は貴方にとって救いだったのでしょう。けれど最初の改変は、どうも不穏なもののようです。最初に出逢った呪術師に気をつけるといいでしょう」

 コルセスカが何を言いたいのか、このやりとりに何の意味があるのかがさっぱりわからない。意味ありげに俺の失った左手に視線を向けているようだが。それ以上説明する様子は無い。仕方なく話題を変えることにする。説明を求めて、俺にも分かるような答えが返ってくる気が全くしなかったのだ。

 それからしばらく、どうでもいいやりとりが続いた。日本語を俺が喋れば喋るほど解析が進んでいくというから、意味があるのか判断できなくとも話し続けるしかない。

「シナモリ・アキラですか。わかりました、アキラとお呼びすればいいですか」

「ええ、それでお願いします」

 原理はともかく、このまま言語がこの世界に翻訳されるのなら文句は無い。コルセスカは手で三角形の端末を操作していた。薄型で、宙にいくつもの窓が立体投射されていた。

「翻訳は随時続けていきます。アップロードにも時間がかかるので、一週間ほどはご一緒させていただくことになりますが、よろしくお願いします」

「これはどうもご丁寧に、こちらこそよろしくお願いします――え?」

 聞いてないんですが、どういうことですか首領。

「報酬の方は既にロドウィから振り込まれていますので心配はけっこうです。貴方の行動を特に制限することはありませんが、基本的にずっと側にいる必要があります。その間貴方はひたすら私に話しかけてください」

「えーと、その、お世話になる以上、俺に文句を言う権利なんて無いのは分かっているのですが、他に方法は」

「あることはあります。全人類が高度且つ高価な呪術である『心話』を使えるようになるか、法的にも大きさ的にもこの階層に持ち込むのが困難な翻訳設備を用意して、一週間そこで拘束されながらひたすら貴方が話し続ければいいのです」

「ひたすら話すのはどちらにしろ必要なんですね――」

 それでも一週間でいいのなら凄いことかも知れない。なにしろ適当に喋ってるだけで文法や語彙を解析してくれるというのだ。

「あれ、でもそれなら俺が日本語文法の規則とか解説したらもっと早く済みませんか?」

「そうしていただけるのなら大変助かりますが、母語の文法規則を正確に説明できますか」

「いや、ちょっと厳しいですね――」

 ちょっとどころかかなり怪しかった。たとえば俺は日本語学習者が受けるような日本語検定で一級をとれるだろうか?

 しかし、文字はどうすればいいのだろう。音声言語の翻訳はたしかに可能そうだが、漢字などはどうしようもないはずだ。訊いてみると、思わぬ答えが返ってきた。

「この世界においては認識が文字に先立ちます。文字は『書かれたもの』として確定しない。情報を媒介するだけの記号でなく流動する意味そのものだとご理解ください」

 俺がこの世界で文字を習得できない理由を説明しているのだと、直観的にわかった。より詳しく説明を求める。

「この世界では貴方の世界とは異なり、類推が物理的現象に作用します。文化と模倣子、模倣子と言語とが緊密な連関を持ちながら一つの構造を成しているのです。ゆえに、所属する共同体、思想的な基盤を置く文化圏特有の形態として、文字は書き手と読み手に認識される」

「何が『ゆえに』なのかが全然わかんなかったんですが」

「つまり、貴方が文字を読めないのは、貴方がこの世界のどこにも居場所を持っていないからです」

 胸を刺し貫くような一言だった。それは、俺の現状を的確に表していたからだ。

「あなたがどこか特定の文化圏に『根付く』ことができれば、あなたは自然に音声としての言語も、文字としての言語も習得できるはずです。もっとも、こうして世界にあなたの言語を定着させれば、自然と文字は『日本語』の形になって貴方の目の前に表れてくるはずですが」

 俺がこの階層から一階ぶんしか移動できないのも、きっと同じ理由だった。俺は一度『上』に味方し『下』と敵対したが、それは偶然でしかない。なにかの意思や信念によって自分の立ち位置を定めたわけではないのだ。

 だから俺はどちらの味方でもないと判断され。
 この世界そのものに、『どこにもいない』と見なされているのだ。

 このまま日本語を定着させれば、この世界に俺という存在が属する『日本という文化圏』の情報が定着する。それで、俺のちっぽけな居場所ができあがる。それをやめるつもりはない。いずれこの世界の言葉を覚えるとしても、それまで意思疎通ができることの利便性を優先すべきだ。

 だが、俺はいつまでも異邦人でいいのか。繋がらない、地球との通信。俺はいつまでここにいるのだろう。いずれ去るのか。ここに骨を埋めるのか。

「俺は、何処に行くべきなんだ――」

 孤独な独白に、答える者はいなかった。

「とりあえず、今夜の宿を確保しませんか。お宅はどちらでしょう」

 と思ったら、いた。そういや今はコルセスカがいたんだった。というかまさか俺の家に泊まるつもりなのか。

「いえ、隣に自分の宿を構築するつもりですが」

 既に建造物の構築能力を得ているらしい。変なこと考えてすみませんでした。
 定まった住所を持たず、その時々で適当な場所に家を構築して寝ていることを説明すると、コルセスカは「では夕食まで自由行動ということで」と言った。

 しばらく待っても動こうとしないので察したが、自由行動というのは俺に自由に行動しろ、ということらしい。コルセスカは本当に四六時中俺についてくるらしい。

「あの、頼んでおいてこういうこと言うのも何ですけど、苦痛じゃないですか?」

「仕事ですので」

 それはそうだ。報酬は既に支払われているらしいし、気にしてもしょうがないか。とにかく少しでも早く終わるように、ひたすら彼女と会話しなくてはならない。このまま倉庫内で立ち話もなんだし、外に出るか。

 まだ文字は読めないが、表通りを歩きつつ端末選びなどの相談をすれば、会話と目的を両方こなせていいのではないだろうか。提案してみると、異論はなかったようだ。

「わかりました、では早速」

 話が決まったので、そのまま外に向かう。倉庫の中は先程と変わらずに静かなままだ。
 いや、待て。

 何故、今まで気づけなかったのか。ごく近い場所に、俺とコルセスカ以外の誰かが潜んでいる。おそらくどこかの組織の刺客。なぜここまでの接近を許してしまったのか。自らの迂闊さを呪いつつ、『サイバーカラテ道場』と『弾道予報』を起動。サイバーカラテ道場無しでの戦闘もそれなりに重ねて来たが、やはりあるのとないのでは安定感が違う。

 今はすぐ後ろにコルセスカがいる。首領が紹介してきた人物とはいえ、迂闊に危険に巻き込むわけにも行かない。俺と行動を共にすると言うことは、こういった危険にも巻き込まれるということだ。

 俺はこれから、彼女を守りつつ生活していかなければならない。まあ、どうも呪術師っぽいので自分の身は自分で守れる可能性は高いのだが、それはそれ。俺の事情に付き合わせて良いという理由にはならない。本格的に身を隠す方法を考えるべきだろう。借りを作りたくはないが、首領に相談してみるか。

「コルセスカさん、少し待っててください」

 網膜に映し出されるデフォルメ人体の下半身が発光。床を踏み抜いて疾走し、木箱の陰に隠れている敵へ向かう。右の抜き手が槍のように伸びて、木箱を貫いて反対側に突き抜ける。

 遮蔽物に隠れた敵は遮蔽物ごとぶち抜く。サイバーカラテにおける打撃浸透技術のひとつ『通し』が炸裂する。
 木片が飛び散るが、手応えが軽い。即座に手を引き抜いて後退。

 人影が跳躍し、木箱の上を跳ねる。
 手には二メートルほどの長さの戦棍を持っている(ちなみに第五階層でよく使われている長さの単位は『上』の身体尺でありフィーテと言う。一般的な人差し指の長さである七センチメートルが基準だ)。特に目立つところのない、街並みに埋没するような服装。容姿もごく普通で、灰色で硬質な岩肌の一般的な『下』出身の男性だ。

 『上』からは異獣と呼ばれ敵意を向けられるが、この第五階層では表向きには戦いが行われることは無い。一定数以上の人目に付けばその両者はこの第五階層では価値の無い人間になる。つまりいつ殺されても文句が言えない状態になる。

 群衆はルールに反して戦っている者から『物体構築の権利』を奪うことができる。第五階層の住人は喧嘩が起きるとはやし立て、それがエスカレートして殺し合いになることを期待する。そして我先にと物体構築能力を奪おうとする。それがこの場所のルールだ。

 そのため弱者を捕らえ、脅迫して殺し合わせて集団で権利を奪い、二人とも殺害するという手口が複数の組織によって頻発し、暴力組織を益々勢いづかせているのだが、とにかく街中で戦いが起きることはまずない。だが、こういった人目につかない場所での暗闘、暗殺は日夜行われていた。

 岩肌の男は棍棒を振り回しながら木箱の上を次々に飛び回る。追撃はせず、あえて待ちの姿勢をとる。相手を追ってわざわざ不安定な足場で戦うこともない。

 敵は俺が誘いに乗ってこないことに業を煮やしたのか、高々と跳躍して俺に棍棒を振り下ろしてくる。高さを威力に変えての一撃だが、奇襲ならともかくこんなものは躱せない方がどうかしている。軽く横にずれて回避。横合いからの肘打ち。

 頭部に直撃したはずだが、沈まない。下段から跳ね上がってくる反撃を飛び退いて回避しつつ、相手の強さを見誤ったことを後悔した。攻撃は正確に命中したが、相手のタフさが想定を超えていたのだ。

 あのタイプの種族はたまに見るが、戦うのは初めてだ。見た目通り肌が岩のように硬い。初撃の抜き手も次の肘打ちも相手に与えたダメージは小さいようだ。攻撃は単調だが、基本スペックが高く攻めにくい。

 敵も学習するということだ。俺の攻撃手段が物理攻撃しかないため、物理的に硬い相手ならばと考えたのだろう。無論今までの刺客にも鎧で防備を固めてきた者はいたが、転がして首をへし折ってしまえばどうにかなった。だがあれは、首や頭蓋骨まで硬そうだ。

 次々と繰り出される棍棒の薙ぎ払いを後退しながら避ける。大振りゆえに見切りやすいが、長物で横方向に攻撃されると後ろに下がるしかなくなる。俺は徐々に追い詰められていった。攻めなければ負ける。

 戦棍が左から右へ抜けたタイミングで前へ踏み出す。肉体の防御力に秀でているといっても、眼球や口腔内まで硬いということはないだろう。床に倒してしまってもいい。

 サイバーカラテ道場が推奨する戦闘理論に従って、次々と攻撃のパターンが組み立てられていく。肘打ちでまず相手の体勢を崩そうとした瞬間、予想外に早く引き戻された棍が右から襲いかかる。想定されていた事態だったため、右腕で防御。体軸をずらしながら左肩からの体当たりに移行しようとした俺に、またしても予想外の衝撃。右の棍棒が、異様に重い。想定以上の衝撃が俺を襲い、前に出るどころではなく俺は思いきり体勢を崩す。危険だと判断して反射的に左に飛び、地面を転がる。

 即座に起き上がったが、直後、信じがたい光景が目に映った。
 細い棍棒の、俺に接触した部分だけが、一瞬だけ異様に巨大に膨れあがり、そして即座に元に戻ったのだ。ぶつかった瞬間だけ巨大化する武器。鈍器の中にさらに巨大な鈍器を格納する技術。

 それで気付いた。
 空間を折り畳む技術が普及し始めたということは、武器を外見通りの性能から逸脱させることが可能になったことを意味する。見た目よりも巨大な質量。衝撃を受けきれない。今までの俺の戦い方では通用しない。暗器が仕込まれていることを警戒する必要すらある。この敵は攻撃力、防御力共に俺を凌駕している。

 負ける気はしなかったが、立て続けに油断から未知の攻撃に遅れをとってしまっている。気が緩んでいるのかもしれない。自らに対する苛立ちは急速に萎んでいくが、不快な感覚はしばらく残った。

「あのー、まだ終わりませんか? いえ別に私は構わないのですが、できればなにか喋りながら戦っていただけると助かります」

 気の抜けたことを言うのは、無表情に俺と刺客との戦いを眺めているコルセスカだ。緊張感というか、危機感が無い。必要ないのかも知れない。

「すみませんコルセスカさん、もうちょっと待っていて下さいませんか。すぐに片付けますので」

「ええどうぞ。あと敬称は結構ですよ。丁寧語は敬語表現のサンプルを取りたいのでしばらく使っていて下さい。明日くらいには丁寧語を止めてくださると捗ります」

「はい、わかりました」

 変わらぬフラットな口調。調子が狂う。
 俺は再び敵に相対しようとしたが、今度は敵の方が俺から注意をそらしていた。敵意が、コルセスカにまで向いている。無関係の彼女だが、今のやりとりで俺の仲間として認識したのか。

 刺客は俺の機先を制してコルセスカの下へと走る。慌てて追いかけるが、男が懐から投げつけた小さな鉄球が巨大な砲弾となって襲いかかってきたためやむなく大きく横に回避。その間に距離が開いてしまう。振りかぶられる棍棒。助けが間に合わない。危ない、と叫ぼうとしたが、コルセスカが全く動揺せずに襲いかかる男を見ているのに気付いて止める。

「何ですかいきなり。私は貴方たちの邪魔をする気はありませんよ」

 棍棒が、空中で静止している。
 いや、正確には浮遊している透明な球体にぶつかり、動きを止められているのだ。あれは水晶だろうか。人の頭部ほどの大きさで、何の支えも無しに空中に静止している。

「依頼者であるアキラの命に危険が及んだ場合には、依頼が遂行できなくなるのでさすがに介入させていただくつもりですが。ロドウィがアキラは手練れだと保証していたので、傍観していた次第です。しかし」

 男は必死に球体から棍棒を引きはがそうとしているが、それは叶わない。強力な磁石に吸い付くように棒が球体に張り付いて動かないのだ。

 あの球体に似たものを、俺は街中や迷宮で何度か見たことがある。呪術を使う者は、ほとんどが何かの道具を使っていた。それは杖であったり、本であったり、巻物であったりと様々な形態だったが、その中には球形のものもあった。多くは十字の載った球体や頭蓋骨、果実の模型だったが、ああいう透明な水晶球もありうるのだろう。

 間違いない、コルセスカは呪術の使い手なのだ。まあ機械も無しに未知の言語を翻訳している時点で察しはついていたが。

「思っていたよりも苦戦しているようですね。手練れ、というのは私の聞き間違いだったのでしょうか」

 そう言われると少し悔しい。不甲斐ない限りだが、今のを見られては言い返しようがない。
 敵が棍棒に見切りをつけて、飛び退いて懐から鉄球を取り出そうとする。が、少しばかり遅すぎたようだった。

「まあもう面倒なので」

 男の手が、凍り付いていた。
 比喩ではない。どこから出現したのか、その指先から肩までが分厚い氷に覆われている。胴体や顔にはびっしりと白い霜が張り付き、吐く息の白さが体表面の温度を物語っていた。

 思わず息を呑む。コルセスカの至近で浮遊し、淡く白い光を放つあの球体は水晶ではない。
 氷だ。

「私が始末しましょう」

 棍棒が氷結し、床に落下する。同時に男が絶叫し、まだかろうじて動く右脚で蹴りを放つ。寒さのせいか、弱々しく鈍い動きだった。コルセスカは避ける素振りすら見せなかった。ただ左手を蹴りの進路に置いただけ。

「私はよく人から、冷たいとか、氷のようだとか言われるのですが」

 蹴り足が左手に触れる。防御と言うにはあまりに無造作だったが、それだけで足の動きが停止した。コルセスカは、身じろぎ一つせずに相手を見て続けた。

「貴方も、そう思われますか?」

 問いが発せられると共に、男の全身が音もなく氷に包まれた。皮膚の硬さなど関係無い。全身の血管、筋肉、骨、内臓に至るまで完全に壊死していることだろう。圧倒的なまでの威力。防御無視の即死攻撃。コルセスカの実力は俺の予想を遙かに超えていた。

「ああ、思っていることが素直に外見に出てしまう方ですね。そんな、態度で答えを示さなくても」

 冗談のような呟きも、耳を素通りしていく。
 ひょっとして、とてつもなく恐ろしい相手と関わり合いになってしまったのではないだろうか。エスフェイルと同じような薄気味の悪さ? 俺の見る目の無さもそろそろ深刻なレベルに達してきた。全くもって笑えない。

 確信する。コルセスカは、エスフェイルよりも更に得体が知れない。
 怪物だ。

「それにしても、人のことを冷たい、だなんて」

 立ち尽くす氷像にはもう目もくれず、こちらへ歩き出す氷の魔女。その周囲を、衛星のように氷球が周回する。俺は呆然と彼女を見つめることしかできなかった。

「心外な評価です」

 その背後で、氷結した人体が粉々に砕け散った。

 

 
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