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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第3章 特権者のヒロイック・シンドローム、さもなくばアズーリア・ヘレゼクシュの憂鬱

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3-7 言理の妖精語りて曰く

 月光は何色だろう。
 黄色、黄金、銀色、青ざめた色。時には血を思わせる赤や橙。
 夜空に浮かぶ四つの月は様々な表情を私に見せてくれる。

 第一衛星スキリシアはどんな場所にいても夜になればその姿を見せて皓々と輝くし、第二衛星(イヴァ=ダスト)はしょっちゅう隠れてしまう恥ずかしがり屋。気紛れな第三衛星アヴロニアは住人である妖精アールヴたちに似て見えたり見えなかったりと曖昧模糊としてつかみ所がない。第四衛星イルディアンサだけは兎たちの気質を反映するように生真面目に満ちたり欠けたり、このいいかげんな宇宙の中でもしっかりとした天体であろうとして時計のように運行する。

 千差万別。輝度も彩度もそれぞれ様々で、どこまでも広がる夜をどこか不自然なぎこちなさで照らし続ける、それは歪な天蓋だ。

 金色の花々が視界の脇で揺れている。仰向けで夜空を見上げながら、ぼんやりと思考を巡らせる。月の色など見る人の気持ち次第。ならば、今宵の月光はきっと白だと私は思った。この夜で最も力強く輝いている色彩は、目の醒めるような純白なのだから。

 白い光に照らされて、可憐な少女が金の花畑の中でくるくると舞い踊っている。フリルが踊り、白を基調とした色彩がゆらめいて、淡い軌跡を夜に描いた。

 まるで映画のワンシーンだ。あるいは、美術館の立体動画展か何かでこんな光景を見たことがあったかもしれない。
 けれど、見るだけの創作物とは決定的に異なる点がひとつだけ。

 嬌声。童女のような、甲高いはしゃぎ声が冷えた大気に響く。
 少女の血に濡れた中指から小瓶が現れ、回転するたびにそれが軽やかに投擲される。

「ぽーんっ」

 擬音を口にして、少女は楽しそうに笑った。中指からは小瓶が一つ、二つ、三つ、それからまとめて六つ。いくつもいくつも、毒々しい緑や紫色の液体が入った瓶を投擲し続ける。宙を舞う脆い小瓶はどのような仕組みか上昇の最高点で砕け散る。

「がしゃーん、ばりーん、どっかーん!」

 散らばった透明な硝子の破片――砂糖と澱粉を混ぜ合わせた飴のようなそれが、月光を反射してきらきらと光の幻像を描く。

 爆発、酸毒、幻覚作用。鮮烈な色とりどりの輝き、強烈な熱と衝撃、致命的な破壊をもたらす劇物に、精神を侵す無味無臭の気体。【安らぎ】で抑え込んでいても感じる強烈な頭痛。容赦のない物量攻撃が、まるで遊ぶような軽やかさで私を、私達を襲う。

 ――どうしてこんな事を?

 ――貴方と戦いたく無い。

 ――どうか話を聞いて。

 嘲笑と投擲がその答えだった。困惑の渦に叩き込まれながら、私はただ脅威から逃れようとするばかり。

 皆殺しの意思を快活な笑顔の中に示して、ミルーニャ――メートリアンは小瓶を投げる。放物線を描きながら、倒れた私に酸毒が迫る。跳ね起きて回避した私を襲う、小瓶とは別の脅威。

 重い、あまりにも重すぎる衝撃。圧倒的質量。槌矛を前に出して防御しなければ、そして今が夜でなければ確実に即死していたであろう打撃。

 途方もなく巨大な拳が、私を吹き飛ばした。槌矛の頑丈さと、それを作ってくれたラーゼフに感謝する。花畑を転がりながら、今度は無防備に倒れ込むことなくどうにか受け身を取ることに成功した。
 くるくると楽しそうに踊る少女の傍らに、守護者のように立つ巨大な影があった。

 それは言葉通りの巌だった。
 腕は私の胴体よりも太く、足を持ち上げればどのような人類であっても容易く踏みつぶされるであろう質量。たとえば私を圧倒してみせた修道騎士のペイルは平均的な霊長類男性の身長を優に超える巨漢だが、彼ですら見上げるほどにそれは大きかった。人に数倍する巨体を誇る、頑強な岩で出来た人形――杖使いが使役する人造の使い魔。

 錬金術師の中には、木や粘土、岩や金属などを素材にして人形を操るものがいるという。命令に忠実に動く感情と知性を持たない巨大な石像は、少女が戦闘の意思を露わにした瞬間、地中から出現した。

 金箒花は、パレルノ山に埋蔵された呪鉱石の影響を受けて多量の呪力を蓄える。そしてこの辺り一帯は呪鉱石が大量に埋蔵された呪波汚染帯だ。白い錬金術師は地下に眠る呪鉱石を素材にしてあの巨大な石像を作り出したのだろう。

 ただの石像ならば呪術で粉砕できる。しかし、呪鉱石の塊なら話は別だ。
 ハルベルトが遠くから放った【爆撃】が石像に直撃する。私の唱えるものよりも遙かに強力な爆圧は、しかし石像に傷一つ与えることができなかった。

 灰色の全身に埋もれるようにして見え隠れする、色とりどりの呪鉱石。赤、青、緑、茶、灰と様々な色彩が呪力を放ち、どのような呪術も石像に蓄積された高密度の呪力によって弾き返してしまうのだった。

 万全の態勢を整えた錬金術師ほど怖いものはない。杖使いは呪具がなければ何も出来ないが、呪具さえあれば物質的には比類無き強さを誇る。呪文使いの曖昧な力など、軽くねじ伏せられてしまうのだ。

「ああ、素敵、素敵、とっても気分が爽快です」

 彼女を何と呼ぶべきか、私は未だに迷っていた。メートリアンという名乗りを受け入れると、なんだか取り返しのつかないものが失われてしまうような気がしてならない。

 だから私は内心で悪足掻きをする。
 ミルーニャ。白い少女は、意地の悪そうな笑みを浮かべてこちらを見た。突然に流血して倒れたメイファーラを嘲笑う。

「面倒な三つ目の奴を先に潰せたのは僥倖でしたぁ。咄嗟の事とは言え、確認もせずに【自殺の黒槍スーサイダルブラック】なんて手に取るあのお気楽女は迂闊としか言いようがないですぅ。自作の模造品ですけど、良くできているでしょう? 私独自の改良によって、自傷効果を蓄積、遅延させて一気に解放するようになってるんですよー。自殺用オルゴーの滅びの呪文オルガンローデってとこですかねー。ぶっちゃけ本物より優れてる気しません? だって攻撃の度に自分が傷付く武器なんて欠陥品でしょう? 戦いが終わった後で用済みの道具を処分できる私の作品の方が、メクセトが作ったゴミクズなんかよりもずっと素敵♪」

 よくわからないことを良く回る口で軽やかに捲し立てていく。その意味が、彼女のしていることが、この期に及んでもまだわからない。

「どうして、こんな事を」

 その問いを口にしたのは私ではなかった。距離を置くことで攻撃をどうにか回避してのけたハルベルト。今はペイルたち三人の近くにいるようだ。
 彼女の疑問は私と同じものだったが、その質は少し違うようにも感じられた。私よりも、より多くの事に気付いていながらそれでも信じ切れないでいるような――。

「メートリアン。あなたは【杖の座】の予備候補。ハルたちの支援に回るはずのあなたが、どうして」

「はぁー? 白々しいんですよヴァージリア。私が【呪文の座】の候補でもあったこと、貴方ならよぉく知っているはずでしょう。この私を蹴落としてその座を勝ち取ったのは、他ならぬ貴方なんですから」

 憎々しげにミルーニャは口にした。彼女は、ハルベルトをどうしてか別の名で呼ぶ。いや、その理由は私にもなんとなく察することができる。ハルベルトは教えてくれた。彼女は【最後の魔女】の候補者なのだと。つまりこれは、【星見の塔】の勢力争いなのだろう。ハルベルト――言葉の意味はわからないけれど、それはつまり【呪文の座】の候補者が襲名する役割名なのだ。

「なにせ私たち【黒百合の子供たち】はみぃーんな『そう』なんですからね。誰も彼もが脱落して、最後まで残ったのはヴァージリアひとり。私は敗北を認められずに醜く足掻いて、予備候補の支援役なんて端役未満の座にどうにかしがみついた。要するに根暗で鬱陶しいあなたや苛つくトリシューラの雑用係。屈辱ですよ――なんて差でしょうね、ヴァージリア? 私、とっても惨めだと思いませんか?」

「こんなことをしても、九姉評議会はあなたを正式な候補者とは認めない。こんな争いは無意味」

「無意味、そうですねえ。確かにそうかもしれません。でも私思うんです。だからといって、何もかも諦めていいんだろうかってね。機会を逃して後悔するくらいなら、行動してみるべきだと思いません?」

 二人の会話は半分くらい意味が取れなかったけれど、大体の流れは想像で補完できた。ミルーニャの名前や探索者としての顔、道具屋としての立場が全て偽りだったのかどうかはわからない。直感だけど、それらも真実だったのではないかと思う。けれど、ミルーニャにはもう一つの裏の顔があったのだ。

 それが【星見の塔】の魔女、その末妹の候補者という顔。ミルーニャはかつてハルベルトと同じ立場だった。そして、競い合った結果ハルベルトに及ばなかった。

 それ故の叛逆。その為の追い落とし。
 だが、どうして今なのだろう。

 きっとこの探索はほとんど全て仕込みだったのだろうと思う。ハルベルトが使い魔候補である私を鍛え、見極める為の試練――茶番だ。ミルーニャはその協力のために駆り出されたのだろう。ひょっとしたら、メイファーラも。

 少なくとも、先程までハルベルトもミルーニャが裏切るとは微塵も思っていなかったに違いない。それがここにきて唐突に裏切って見せたから、動揺を隠せずにいるのだ。

「絶好の機会なんですよ。この場所なら余計な邪魔が入らず、誰の目にも届かない。私以外の予備候補も一網打尽にできて、最大の障害であるヴァージリアを排除できる。なにより念願のグロソラリアが手に入るじゃないですか」

「アズは、あなたのものじゃない」

「この世の全ては『もの』ですよ。少なくとも私たち杖使いにとってはそうです。この私自身がそうであるように、ねっ」

 言い終わると同時に投げ放たれた小瓶が砕けて、中の薬品が大気と反応して閃光と爆風を撒き散らす。だが何か不可視の壁にぶつかったかのように、ハルベルトの目の前で爆風は遮断された。

「うーん、どうにもこれだけだと、その防御結界を貫通できませんねえ。それ、正体がさっぱりわからないんですけど、【霧の防壁】三枚重ねとかなんです?」

「教えるわけない」

「でっすっよっねー。じゃあどうしよっかなー。とりあえず色々試してみますか。幸い物量だけはあるので。この日のためにあくせく働いて蓄えてきたんですよー」

 ミルーニャの攻撃は悉くハルベルトの眼前で阻まれる。

「じゃあこれは?」

 ならばとばかりに呪石弾が次々と投げ放たれ、

「ではこれでどうでしょう」

 爪の中から引き抜いた投げナイフが回転しながらハルベルトの目の前で弾かれる。柄に括り付けられていた呪符が起動して爆炎を撒き散らした。

「これで駄目となると――そうですね、こんなのだったら?」

 ミルーニャは指先から眼鏡を取り出した。ただし、イキューに切り刻まれた時に何処かに行ってしまった四角いフレームの眼鏡ではない。レンズは右側だけの、片眼鏡モノクルだった。
 より精密な視力を得た彼女は、続いて左手内部の倉庫から新たな道具を出現させた。

「それ、は」

 ハルベルトの声が、それまでとは異なる色合いを帯びる。恐怖、緊張、あるいは危機感。そういった危険の響き。
 杖使いの呪具を形容するのに当たり前の事を言うようだが――それは杖めいていた。

 片手で持てる程度の小さい木の筒に複雑な形状の鉄の部品を組み合わせていて、持ち手の部分が緩やかに湾曲していた。握りの部分は人差し指がかかる程度の金属の環と突起物。

 ミルーニャは右手でそれを握ると、上部に取り付けられた曲がりくねった金属を手前に引いた。その金属に何かが取り付けられている。あれは、呪石だろうか――?

 人差し指が金属の突起を引いた瞬間、何かが弾けるような音がしてハルベルトの眼前に極小の質量と巨大な呪力が激突する。

 目にも留まらぬ速度だった。恐ろしく小型の呪石弾が高速で射出され、凄まじい弾速と合わさって凄絶な破壊力を生み出していた。着弾と同時に発動した【炸撃】は、初級の呪術とは思えぬ程の勢いで一点に凝縮され、【爆撃】と同等の破壊力を生み出す。

大成功クリティカル! いい感じですぅ。アストラル属性で攻めるのは分が悪いですからね。マテリアル属性絡めて物量でゴリ押しするのが良さそうかなー?」

 快哉を上げるミルーニャは、杖の尖端にふうと息を吹きかけた。私の視線に気付いて、にこりと微笑む。

「いわゆる燧発フリントロック式という奴ですよ。銃の実物を見たのは初めてですか、アズーリア様?」

 銃――それは、杖の呪術が生み出した投射呪具の極致。投石器(スリングショット)、弓、弩などを扱う高位の杖使いが階梯を上り詰め、守護天使の加護を拒絶することによって扱えるようになる超高位呪術。

 傑出した杖の才覚と卓越した器用さが要求される呪具兵装。
 その代償として凄まじい呪波汚染に曝され、自らを蝕んでいく呪われた武器。

 ミルーニャの右手が、見る間に黒ずんでいく。大量死、工業的な精密さ、神秘の零落、戦場からの名誉の剥奪、英雄性の衰退――数々の杖的な、それでいて他のあらゆる呪術に反発する意味を背負わされた『銃』という形を、世界そのものが否定しようとして牙を剥く。

使い手のミルーニャは罰によって害されているのだった。この世界の摂理に対して叛逆するという大罪。あの呪具はこの世界にとっての敵、呪術にとっての異物だ。たとえ銃を撃てたとしても、世界そのものからの反動に耐えられるだけの強靱な杖体系への確信を有する者など数えるほどもいまい。

 ミルーニャの右手が炭化して崩れていく。銃を使った者の当然の末路といえたが、驚くべき事に肘の辺りから肉腫が膨れあがると、瞬時に無傷の右手が新生する。

「反動があるならその都度再生すればいいわけです。どうせ先込め式なので連発できませんしね。腕も銃も使い捨てで行きましょうか」

 ミルーニャは次から次へと左手から銃を取り出して、小型化した呪石弾を発射していった。鳴り響く銃声。防御結界を維持し続けるべく延々と続けられる詠唱。結界の再展開の間隙を縫うようにして撃ち込まれる銃弾。

「ばーんっ、ばーんっ! あっはは、ほらほらもっと頑張って維持しないと穴だらけになっちゃいますよー?」

 ミルーニャは笑う。楽しそうに、愉快そうにハルベルトに殺意を向ける。相手を損耗させる以上に、自らを損壊させながら。
 射撃の度に右手が崩れ、銃弾の狙いが逸れ、銃身が暴発して右手ごと吹き飛び、木片で顔が傷付き、不発に終わり――そんな、破滅的な攻撃を繰り返しながら。

「あらら、大失敗ファンブルでした。やっぱり第四階梯の私じゃこんなものですか。むー、負けたみたいでなんか腹立ちます。まあいいでしょう。結構削れたみたいですし」

 ひび割れた片眼鏡を放り捨てると、ミルーニャは血まみれの頬をぺろりと舐めた。傷はとうに再生して、綺麗な右手は次なる呪具を取り出している。
 対するハルベルトは、荒く息を吐きながら両手を前につきだして防御結界の構成を維持し続けている。不可視の障壁とそれを維持する精神は確実に摩耗している。

 銃という呪術は杖を体現したような呪力を内包している。いわば再現性の極致だ。先程までのミルーニャは、呪術を否定して崩壊させる因子を連続して叩きつけていたようなものだった。

 呪術を否定する呪術。再現性、体系化、工業化などの属性を有する杖の呪術は神秘を手繰る呪文の防御と極めて相性が悪い。ハルベルトは今や壊れかけの板――そこには『盾』とか『壁』とかの文字が記されている――で必死に身を守ろうとしているような状態だった。

 ハルベルトを助けなければならない。けれど、その為に私はミルーニャを傷つけることができるだろうか。たとえ再生すると分かっていても、この槌矛を彼女に叩きつけることが、私に。

 しなければならない。私はそういうふうに生きてきたし、これからもそうしていかなければならない。キール隊のみんなを、多くの人を切り捨てて生き残ってきた。人の命に順番を付けて、優先順位の高い方を選び続けてここまできたのだ。

 ここで躊躇うことは許されない。けれど、ミルーニャはまだ生きている。意思もしっかりとしている――あるいは今まで以上に――ように見える。ならば、まだどうにかなるのではないだろうか。

 甘え、あるいは逃避にも似た感情。
 動きを止めて、束縛すれば事を収めることができるのではないか。
 私は槌矛を杖状態に変形させてミルーニャを拘束しようと動くが、その前に立ちはだかる呪鉱石の巨像。

「拘束する、というのは正着です、アズーリア様。不死者にどうやって勝利するかを考えれば自然に行き着く答えですよね。でーもー、そう簡単には捕まえられてはあげませんよー?」

 迫り来る巨大な腕から走り回って逃げ続ける。こうして私が石像を相手にしていれば、少なくともこの巨大な質量がハルベルトに向かう心配はないわけだ。しかし対峙する黒と白の呪術師のうち、劣勢なのは黒の方。

 ハルベルトの詠唱と同時にミルーニャの全身が炎に包まれる。更に爆風で肉体が千切れ飛び、閃光が肉片を薙ぎ払う。

 その直後には、肉塊が蠢いて膨張し、瞬時に元の白い少女が再生してしまうのだった。幾ら攻撃しても効果が無いのに、向こうからの攻撃は確実にハルベルトの精神をすり減らし、防御結界に亀裂を入らせている。
 ハルベルトは攻め手を変えた。幻獣――仮想使い魔を呼び出したのだ。

「狂いて回り、乱れて踊り、惑いて解けてくるくる落ちる。機械仕掛けを裏返し、溢れて零れて歯車壊せ――言語魔術師ハルベルトの名に於いて命ず、【|計器の不調は妖精の悪戯グレムリン】よ、在れ!」

 出現した幻像はコウモリめいた翼を持つ小さな人型だ。しわくちゃの肌は滑らかで、灰色の身体はどこか滑稽だった。素早くミルーニャに近付いた使い魔が細かな粒子となって降り注ぐ。彼女が手に持った投石器スリングショットや銃、薬品などが燐光に包まれて、呪力を失っていく。

「へえ、対杖用の呪文ですか。これは困りましたね。使ったら必ず暴発するとか、大方そんな効果でしょうけど――」

 自らの天敵を前にしてもミルーニャの不敵な態度は揺るがない。深まる笑み。そして、次の瞬間、彼女の背中が裂けた。

 胸元、そして背中が大きく開いたドレス。その胸には幾何学模様、そして白く滑らかな肌を晒すその背中には緩やかに隆起する肩胛骨があるのみ。
 その肩胛骨が膨れあがり、肉腫あるいは骨腫となって膨張していく。

 そしてミルーニャは、羽ばたいた。
 純白の翼。
 遠目に見れば、それは鳥のように見えたかもしれない。

 異形の羽毛が夜に舞う。広がった翼は小さなミルーニャを覆い隠せるほどに大きい。本来は腕に相当する器官であるはずだが、そのような条理は骨格や総質量ごと無視して奇怪に蠢き、対の触腕として縦横無尽に金色の花と土を抉っていく。触れるもの全てを抉り砕く巨大な刃がミルーニャの背中から生えていた。

「やっぱり。効果範囲は呪具限定で、私の肉体は対象外みたいですね。あのぽんこつ女に使った場合どうなるのかちょっと気になります」

 ゆらり、とミルーニャの膨れあがった影が動いた。その足取りは、真っ直ぐにハルベルトを目指している。

「呪具が使えないなら直接手に掛けるまで。純粋な後衛の限界ってやつですね。護身術の一つも修めていなかった己の怠慢を呪いなさい、ヴァージリア」

「くっ、【独角兎アルミラージ】!」

 恐らく事前に詠唱を済ませて待機させておいたのだろう。呼び出された螺旋の角を持つ兎が、以前に見た時よりも濃い存在感を持って顕現する。呪文の構成が物質寄りになっているようだった。物理的な干渉によってミルーニャの接近を防ぐつもりだ。

 だが、それは悪手だった。宙を蹴って突進した兎を仰け反って躱したしたミルーニャは自在にうねる翼で交互に兎を打ち据えようとする。兎は軽やかに回避していくが、そこに叩き込まれるのは彼女が最も得意とする技――ミアスカ流脚撃術。つまりは上段蹴りだ。大地に満ちる豊富な呪力を纏わせた蹴りは、物質であろうと実体無き仮想使い魔であろうと容赦なく破砕するだろう。

 迫り来る脅威に対して、独角兎は真正面から立ち向かった。鋭利な螺旋状の角を真っ直ぐに構えて、足を突き刺す構えだった。硬度や鋭利さで勝れば、それがどれだけ重い一撃であろうと生身の足は耐えられない。イキューの時と同じ破壊が繰り返される。私の期待はあっけなく打ち砕かれた。

 硬質な衝突音。
 鋭利な角はミルーニャの剥き出しになった足と激突して、そこで停止していた。

 硬化した角質の層は分厚く堅牢そうに見える。翼と同じく純白のそれは、紛れもない鱗だ。更には足の形もまた通常の霊長類のそれとは異なり、前に三本、後ろに一本のつま先があるというものだった。

 三前趾足さんぜんしそくと呼ばれる鳥類に特有の足の形。吹き飛ばされた兎を追うようにして高らかに跳躍して飛び回し蹴りを放つミルーニャは、まさしく鳥と人とが完璧に調和して融合した存在に他ならない。跳躍しながら翼で姿勢を制御し、異形と化した両足で続けざまに蹴りを叩き込む。

 地面に落とされた兎を、更なる衝撃が襲った。
 ミルーニャの腰から衣服を突き抜けて生えている、尻尾のような何か。だがそれは断じて尻尾などではない。頭上を飛び越える、凄まじく長大な多関節の足。両足同様、全体的に鳥のものに似ているが、このような条理を外れた生き物は地獄にすらいるとは思えない。

 三本目の足が兎を捕らえ、高々と掲げる。ぐしゃりと握りつぶすと、仮想の使い魔は輪郭を失って消えた。
 白い翼、三本の足。そこから自然と思い浮かぶ名前があった。

 【ロディニオの三本足の民】――眷族種の序列第五位。守護天使ペレケテンヌルに加護を受けた、『鴉』と通称される者達。使い魔と杖の適性に秀でた彼ら彼女らには優れた呪術師が多い。当然、迷宮都市エルネトモランには数多く住んでいる。ミルーニャがそうであったとしても何の不思議もない。だがまさか、一日に二回もその眷族種と戦う事になるなんて、誰が思うだろうか?

「言っておきますが、私に下らないまやかしの類は通用しませんよ。幻術破りの眼鏡もありますし、それにどっちかっていうと霊長類寄りなんですよ私。そこの根暗女と同じ混血なので」

 白い翼と尾のような足を暴力的に蠢かせながら、ミルーニャが言った。
 白い鴉と黒い兎。
 対峙する二人は、奇しくも共に霊獣とされる鴉と兎に縁のあるものたち。格としては対等の筈だが、両者の均衡は一方に傾きつつある。

 じりじりと後ずさりするハルベルトだが、その前に立つべき前衛はいない。彼女の下へ走ろうとする私の前に巨像が立ち塞がる。私は石像の足に光の帯を巻き付けて転倒させようと試みるが、夜になって強化された身体能力をもってしてもその重量は如何ともしがたかった。

 物理攻撃ではどうやっても歯が立たないし、かといって呪術も無効化される。フィリスを使えば一撃で解体できるのだが、金鎖が残り一つとなった今、ここが使うべき時なのかどうかと言う迷いが私の手を止めていた。最後の一回を使ってしまえば、ミルーニャが更なる脅威を保有していた場合に打つ手が無くなってしまう。

 自問する。私は、そんなにも自分の命が惜しいのか。
 決まっている。迷宮の攻略。地獄にいる妹を取り戻す。それまで死ぬわけにはいかない。けれど、助けられる相手を見殺しにすることはなによりも耐え難い苦痛だ。

 だって私は、妹をそうやって失ったのだから。
 もしこれで私が死ぬ事になっても、このままハルベルトを見捨てるよりはいい。
 思えば、第五階層でシナモリ・アキラにフィリスを使った時もこんな気持ちだったような気がする。私は近視眼的で短絡的だ。情に流され、理を見失う。

 左手を前に突き出す。最後の一つとなった金鎖を砕いて石像を破壊しようとしたその時だった。

「何のつもりです?」

 冷淡なミルーニャの声は、私ではなくハルベルトの前に並ぶ男達に向けられていた。
 異形の白い鴉となった少女の前に立ちはだかるペイル、ナト、イルスの三人は、その顔に明確な戦意を漲らせていた。

「これまでの経緯はともあれ、命を救って貰った恩がある。このまま借りも返せずに死なせたんじゃあ男が廃るってもんだ」

「こっちは完敗して情けまでかけられたんだ。雪辱するまでは殺させないよ。同族相手に気が引けるけど、ちょっと痛い目を見てもらう」

 巨漢と優男が口々に己の戦う理由を述べながら拳と槍を構える。祭服の医術士は負傷したメイファーラとプリエステラを運び出し、治療して背後に庇っている。
 ミルーニャは冷え切った視線で男達を眺めて言った。

「もう貴方たちの出る幕はありません。しょせんは状況を設定するための舞台装置でしかないんですから。用済みだってことが理解できないんですか? 適当にその辺で黙って待機してればいいんです。そうしたら、まとめて痛くないように首を刎ねてあげますから」

「悪いが断るっ」

 ナトが放った二つの攻撃端末がミルーニャの左右上方に滞空すると、水滴状の尖端が広がって花弁の様な形態になる。内部に格納された呪石が輝いて、高位呪術を発動させる。

「肉体を破壊しても再生するというのなら、呼吸が出来なくなればどうかな?」

 攻撃端末はミルーニャの周囲を回りながら、彼女を球形の結界に閉じ込めた。ナトの言葉通りなら、あの内部からは大気が失われているのだろう。生物相手なら無類の強さを誇る呪術、【窒息】を維持する為の膨大な呪力がナトから放出されていた。昼に戦った時、私達に向けて使おうとしていた高位呪術はあれだろう。手加減すれば気絶程度で収められるとも聞くが、本気でこちらを殺す気があったとしか思えなかった。

 不敵な表情で呪術を維持するナトの表情が、次第に訝しげなものに変わっていく。ミルーニャが、一向に苦しそうな表情を見せないのだ。呪術は確実に発動しているはずなのに。
 左右の翼が振るわれ、攻撃端末が一瞬で打ち砕かれた。

 愕然とするナトを侮蔑の視線で見つめるミルーニャ。その中指から、皮膚内部を伝う管が手首から袖口に隠れ、胸から首筋にまで伸びている。盛り上がったその管はまるで、指の中の倉庫から何かを供給する生命線のようでもある。

「対策済みに決まっているでしょうそんなの。私の指の中には海底だろうと高山だろうと生存可能なだけの呪具が格納されています。呼吸用の耐圧容器くらい貯蔵してますよ、当たり前でしょう?」

 その顔面に拳が叩き込まれる。瞬時に間合いを詰めたペイルの、目にも留まらぬ猛攻。鈍器じみた両の拳は絶え間なく少女の全身を打ち据え、殴り、粉砕し、血を撒き散らす。

「おらおらおらぁっ! 再生を上回る速度でぶっ壊せば終わりだろうがっ」

 超高速の連打。言うのは単純だが、実行するのは並大抵の技量ではできない。屈強な筋力、並外れた神経反射、そして膨大な修練が必要だ。それを為し遂げるペイルの実力は、流石に並の修道騎士のものではない。連続で治癒呪術をかけつづけたとしても、あれではとても回復が追いつくまい。
 しかし。

「――下手くそ。ぜーんぜん感じないんですよね。独り善がりな男って最悪ですぅ。自分の思い通りにすることしか頭に無いんですから。やっぱり暴力的な男は一人残らず死ねばいいんですよ」

 尾のように伸びた三本目の足がペイルの腹部を掴み、そのまま持ち上げて地面に叩きつける。轟音と共に地面が陥没し、その中央で巨漢が血を吐く。巨体を軽々と持ち上げて扱う力は尋常のものではない。ミルーニャの外見は華奢な少女だが、その身体的強度は見た目以上だった。

「以前、この上なく性格の悪いぽんこつ魔女に掴まって同じような事をやられたんですけどね。私はそういうアプローチじゃ殺せません。極限の苦痛を与え続ける拷問とか、活火山の火口に放り込むとか、まーあの女もよくやりますけど。私にとって痛みは快楽であり喜び、生の実感そのものです。苦痛こそが私の呪力の源。不用意な攻撃は私の再生能力を増大させるだけです」

 ダメージを与えれば与えるほど再生速度が増していくというのなら、ペイルの試みは全くの無駄だということになる。
 原形を留めないほどに破壊されたミルーニャの肉体が蠢き、肉腫を膨れあがらせ、見る間に復元されていく。破れた衣服は肉体の一部から生み出しているのか、綺麗な状態に戻っていた。

「ま、流石にマグマにぶちこまれた時は脱出と再生に相当時間がかかりましたけどね。その間に【杖の座】があのがらくたに決定してるし――ああもう、嫌なこと思い出しました! どうしてくれるんですか!」

 憤慨するミルーニャの首に、ぷすりと鋭利な針が突き刺さる。正確な投擲と意識の間隙を突いた見事な不意打ち。押子が自動的に動いて、円筒から薬液が注射される。注射器を投げ放った黒檀の民系の男、イルスが言い放つ。

「ならば、自慢の再生能力に溺れて破れるがいい」

 そして発動する【修復】の術。強力な回復の呪力がミルーニャの全身を覆い、その肉体を過剰に再生させていく。蠢く肉腫の活動が活発化していき、見る間に膨張し、皮膚が新生していく。急激な新陳代謝が繰り返され、ミルーニャの肌が瘡蓋となり、垢が生まれ、見る間に汚れていく。

「やだ、不潔になっちゃいます。何ですかこれ、嫌がらせ?」

「馬鹿な――」

「あれ、もしかして膨張して破裂とかぁ、しわっしわに老化したりとかを期待してましたぁ? ざーんねん。無駄ですよー」

 その超再生能力を逆手にとって倒すという手段は、彼女には通じない。
 活発化した再生はイルスの意図したような結果をもたらさず、ミルーニャの新陳代謝を促しただけだ。彼女は幼子のような艶めいた肌を晒しながら笑った。

「私のテロメアはコピーをどれだけ繰り返しても劣化せず短縮しません。わかります? 細胞分裂回数の限界が無いんですよ。自己再生、自己分化、自己複製を繰り返す、完全自己制御型の恒久的良性腫瘍ビナインチューマー――いえ、霊体も同時に再生させる私の肉体は、呪的新生物ネオエクトプラズムとでも呼ぶのが適切でしょうか」

 アストラルの視界でミルーニャの再生過程を眺めると、その異常性が良く理解できる。肉腫と重なり合うようにして膨れあがる、半透明の霊体腫瘍。それらが半ば物質化することで、無尽蔵の質量が彼女に供給されているのだ。

 しかし三人が時間を稼いだお陰で、ハルベルトの呪文が完成していた。ミルーニャの足下と頭上を挟むようにして発光する幾何学的な図形が展開され、無数の文字列が上下を行き交う。
 ミルーニャは、これ見よがしにうんざりしたような溜息を吐いてみせた。

「貴方たち呪文使いは不死とみるとすぐにこれです。細胞の管理プログラムを改変して、プログラム細胞死を強制的に引き起こそうとする。えーと、この呪文式がアポトーシスの誘発で、こっちがテロメラーゼの不活性化ですか。まあ定石ですよね。定石って事は、こっちも想定してるってことです――おいで、マクロファージ」

 ミルーニャは言いながら、無造作に露わな胸元に手を突き入れた。飛び散る鮮血と、引き摺り出される半透明の物質エクトプラズム。胸に刻印された幾何学的な模様が白く輝いて、平面の世界から三次元的な厚みを得て実体化する。

 点と線が拡大し、体高がミルーニャと並ぶまでになる。それは立体映像のような、半透明の物体だった。三角錐の頂点から伸びる三本の手は枝のようで、三角錐の底面からは円筒状の尾が垂直に伸びている。最下部からは六本の脚が山なりに伸びて細長い全身を支えていた。

 およそ生物とは思えぬ、機械のような無機質な形状。にもかかわらず、棒きれのような手足は躍動的に蠢く。
 それはまさしく、神話に登場する第五位の天使ペレケテンヌルの姿そのものだった。
 ハルベルトは目を見開いてその奇怪な存在を凝視した。

「それは幻獣――仮想使い魔。でも、どうして。あなたにそれを使いこなせるだけの呪文適性は無いはず」

「はっ、私がいつまでも弱いままだと本気で思っていたんですか。私は負けず嫌いなんです。杖使いの技術にはね、たとえ才能が無くても他系統の呪術を再現するための方法が幾通りもあるんですよ。当然それなりの準備と対価は必要になりますが」

 ミルーニャが呼び出した仮想使い魔は、その三本の手を器用に動かして周囲を取り巻く呪文の群れを啄んでいく。引き千切られた図形と文字の群れ。それらは全て頭部の三角錐に取り込まれていった。

「この子はとってもお利口さんなんですよ。私に害を為す呪文マクロを受動的に検知して喰らう清掃屋。無駄になった余剰呪力や呪的廃棄物の処理なんかもできる万能の食細胞にして呪文喰らいマクロファージ。この【闇の静謐(ダーク・トランキュリティ)】の前ではあらゆる呪文は消え去るのみです」

 呪文の無効化。おそらくは、杖の原理によって私がフィリスの助けを借りて使う対抗呪文【静謐】と似た効果を引き起こしているのだろう。
 ミルーニャは、私とは別系統の【静謐】使いだったのだ。

 仮想使い魔はハルベルトの呪文を食い尽くすと、続いて老廃物で汚れたミルーニャの皮膚に手を伸ばしていく。見る間に清潔さを取り戻した彼女は、くすぐったそうにしながら円筒の身体を撫でた。

「いい子、いい子――この子はね、喰らった呪文を記憶して、私の呪的適応免疫系イミューンシステムを活性化させる。もう同じ呪文は私に通用しません」

 それは呪文を唱えれば唱えるほど選択肢が消えていくことを意味していた。
 あの仮想使い魔は、私やハルベルトのような呪文使いの天敵なのだ。

「一つの系の恒常性を維持する屍肉食いスカベンジャー――ふふ、そういえば鴉にもそういった習性がありますね。わりと雑食ですけど」

 ミルーニャにはありとあらゆる攻め手が通用しない。中には通用する攻撃もあるのだろうが、彼女はそれらを事前に想定して対策を練っていた。呪具を準備しておき、物量の力によって相手を圧倒する、杖使いらしい戦術と言えた。

 ミルーニャは白い翼と尾のような足、奇怪な呪文喰らいを傍らに置いて首を巡らせた。必殺の攻撃を立て続けに完封され、打つ手を見失った四人に呆れたような視線を送る。

「あのですね。今更説明するまでもないですが、【星見の塔】はキュトスの七十一姉妹の拠点であり世界最大の呪術結社です。死ざる女神の眷族である姉妹の拠点には、文字通り七十通り以上の不死が存在するわけです。当然それに関する膨大な知識もね。『不死対策の対策』なんて研究され尽くしているに決まっているでしょう。貴方たち大神院と修道騎士は邪神の裔を討伐するためにずうっと【塔】に挑み、敗れ、ついには諦めて擦り寄ることにした。その結果がそこの口先だけの根暗女や中身からっぽのきぐるみ女との協力態勢というわけです。まさか忘れた訳じゃないでしょう? 最初から、貴方たちに勝ち目なんてないんですよ」

 仮想使い魔が三手をがさがさと擦り合わせる。その尖端から複雑な呪文の構文が漏れ出ているのが見えた。ミルーニャに対して使用された呪具の使用を妨げる呪文が喰われてしまったのだ。機械に不調をもたらす小さな邪妖精グレムリンが甲高い鳴き声を上げてマクロファージの中に取り込まれていく。これでミルーニャはまた自由に呪具を使用できるようになってしまった。

 とにかく助けに入らないとまずい。ミルーニャはあまりにも強すぎる。不死の魔女、その末妹候補に相応しいだけの圧倒的な不死性。はっきり言って、ハルベルトよりもよほど不死の魔女らしかった。

「さて、無駄な抵抗はもういいですか? こっちはいい加減飽きてきた所です。そろそろ終わりにしましょう」

 ミルーニャはナトが突きだした槍を三本目の足で払いながら本人を蹴り飛ばし、せめて壁になろうとしたイルスを翼で吹き飛ばした。宙を舞う鮮血と呻き声。震えるハルベルトの目の前に歩み寄っていく。

「ようやく。ようやくです。貴方を倒し、私こそが最高の末妹候補――いいえ、真なる末妹であると証明する。手始めに不死とは名ばかりの貴方、その後は外部からリソースを持ってきているだけのコルセスカや存在そのものが不安定なトリシューラ、そしてそもそも生きた個体ですらないトライデントたちを全て排除して私が唯一無二の末妹となるんです。そう、私こそが真なる、そして完全なる不死の魔女! 四色の『三叉槍の魔女』を超越した存在――そうですね、白血のハルベルト、なんて名前はどうでしょう」

 恍惚とした口調で滔々と語るミルーニャは、遂にハルベルトの目の前に辿り着いた。もう翼か足を一振りすればハルベルトに攻撃が届いてしまう。防御結界があとどれだけ保つのかわからないが、猶予は既に無い。

 私は石像の拳を回避し続けながら思考の堂々巡りを繰り返す。フィリスの射程範囲にミルーニャを捉えることができれば、あの圧倒的な再生能力か仮想使い魔のどちらかを解体して突破口が開けるだろう。しかしその為には石像が邪魔で、石像にフィリスを使ってしまえばミルーニャに対抗する手段が無くなってしまう。

 呪術杖で拘束するにしても、あの翼と三本目の足が生み出す機動力は容易い拘束を許してくれそうにない。なにより、彼女は指先を体内の亜空間に広がる倉庫と接続しており、無尽蔵の物量を用意している。まだまだ大量の呪具を保有しているであろうことは想像に難くない。

 先程は感情に任せてフィリスを使いそうになってしまったが、あれは確実に悪手だった。ミルーニャの圧倒的な力を見てしまった後では、切り札であるフィリスを不用意に浪費することはできなかった。

 ミルーニャを助けようとしてフィリスを使ってしまった事が響いていた。今にして思えば、あれはパラドキシカルトリアージの発動に失敗したのではない。致命傷と軽傷の価値を逆転させるあの医術は、あのような凄惨な傷すら軽傷だと認識しているミルーニャに使っても最初から意味が無いのだ。

 私は魔導書を開き【煙幕】を発動して石像を漆黒の煙で包み込んだ。石像本体に直接的な呪術が通用しなくても、呪術で生み出された物質で間接的に妨害することはできるはずだ。その隙をついて駆け抜けようとするが、石像は全く動じた様子もなく私を正確に捕捉して拳を繰り出してくる。

「無駄ですよ。私の右手親指の全領域を使用して動くその【盲目の守護者像ブラインド・ガーディアン】は正確に呪力を感知して行動します。濃密な呪力の塊である【夜の民】をこの時間帯に捉え損ねることなど決してありえません」

 もはや打つ手は無い。何をどうしても、ここから状況を打開できるという可能性が見いだせなかった。
 全てを諦めかけた私は、奇妙なものが夜空を浮遊していることに気付いた。

 白い。それはミルーニャのような美しい純白ではなく、どこか不吉な色褪せた白。骨の白だった。大量の骨を無理矢理削りだし、奇怪な花に造型したような物体。

 かつて私を二度襲った、正体不明の骨花。花弁の中央で金眼が輝き、不気味な圧力をこちらに放射している。
 窮地に現れたのは更なる脅威だった。あの使い魔は、明確に私に対して敵意を向けている。

 邪視が発動し、私の全身に凄まじい呪力が叩きつけられる。アストラル界からの干渉に必死に抵抗するが、直前までミルーニャや石像に注意を向けていた私は不意打ちに対抗しきれない。衝撃によって弾き飛ばされ、体勢が崩れる。このまま石像の攻撃を受ければ間違い無く再起不能だった。

 ところが、ミルーニャは焦りを含んだ声で石像に命令する。それは私を攻撃しろというものではなかった。

「その人を守って! 絶対に渡しちゃ駄目ですっ!」

 巨大な石像が私を庇うようにして骨花の前に立ち塞がり、上空に向けて拳を振るった。回避しながら骨の破片と邪視を放って反撃する何者かの使い魔。

 そういえば、崖で襲撃を受けた時にも、ミルーニャはあの骨の花を知らないような素振りだった。両者の関係は不明だが、もしかすると敵対しているのだろうか。

 金眼がぎょろりと動いて、ミルーニャの動きを縫い止めようとする。既に眼鏡を指の中から取り出していた彼女は完全に停止させられることこそ無かったが、全身の重さが増したかのように動きから精彩が失われていく。

 その代わり石像は邪視の影響を受けないらしく、鈍重なようでいて広い歩幅で一気に間合いを詰めて骨花に拳を振るう。飛び上がって回避する骨花の真横を銃弾が走り抜けていく。石像の攻撃と銃撃の支援によって後退していく骨花は、しばし迷うようにして金眼をあちこちに向けていたが、やがて空中の一カ所で停止する。

「今です! 一気に叩き潰して下さい!」

 命令に従って石像が拳を振りかぶる。
 その正面で、金眼が強く輝いた。

「いぇつぃらぁ」

 骨と骨を擦り合わせて強引に作り出したような、軋むような音だった。その高低が、声とも雑音ともつかぬ奇怪極まりない何らかの単語を紡ぎ出した途端。

 骨花の至る所から、青い流体が噴出する。それはまるで血のようだった。流動する青々とした液体は凄まじく膨大な量となって石像を一気に飲み込んだ。更にそのままの勢いでミルーニャまでもを飲み込もうと空中を一直線に突き進んでいく。

 ミルーニャの全身が流体に飲み込まれる。流体はそのまま渦を巻いて彼女の全身を覆い尽くそうとしていた。
 翼をばたつかせ、顔をどうにか外に出すことに成功するミルーニャだったが、流動する青い液体はその身体を引き摺り込んでいく。そればかりか、その服や皮膚、全身を液状化させて取り込もうとしていた。

「くっ、何ですか、これっ」

 呪文喰らいが三手を動かすが、その縦長の身体ごと青い液体の内部に取り込まれてしまう。その上、同時に取り込まれた石像に引き寄せられ、融解するようにして同化を始めてしまう。あの青い流体には、取り込んだものの境界を無くし、あらゆるものを融合させてしまう力があるようだ。

「そうか、これが【融血呪】――トライデントの細胞ごときがっ」

 ミルーニャは鬼気迫る表情で液体を掻き分け、翼と三本目の足を振るって青い流体に抵抗する。融解する全身から肉腫が膨れあがり、その驚異的な再生能力と呪力でもって強制的な融合に抵抗する。三本目の足が伸びて、彼女の左手人差し指の爪を強引に剥ぎ取った。流体の浸食からどうにか逃れながら、人差し指を骨花に向ける。

「あまり私を舐めないで下さいよっ! 左手人差し指、解錠アンロック! 撃ち落とせ、【ブラストビート】!!」

 ミルーニャの指先から述べつ幕無しに射出されるのは情報体の弾丸だった。生物が生物であるがゆえに生得的に有する摸倣子を加工した弾丸。その正体は、遺伝子やタンパク質の構造を情報として記述した『生物学的な呪文』だ。

 核酸の配列などは離散的な情報であり、杖の分野のみならず呪文の分野でも情報処理のようにして扱うアプローチが可能となっている。遺伝子情報を有する全ての生物は、本来それだけで大量の情報、つまり呪力を有しているのだ。そもそも遺伝子というのは摸倣子のアナロジーから生まれた概念なので当然と言えば当然ではある。

 塩基配列シークエンスの弾幕。鎖のように連なった情報記述弾が、あらかじめ定められた手続きに従って自動的に宙にばらまかれていく。多数の小さな弾丸が散開して発射される。連射の間隔は逐次変化していき、弾幕は様々な波形を描きながら幻惑的な軌跡を虚空に描いていく。

 自らの生体情報を弾丸にして撃ち出すミルーニャの肉体は当然の結果として崩壊していくが、不死の身体を有する彼女はその度に強引に失われた部位を新生させて弾丸を撃ち続ける。流体の浸食に抵抗しながら身を削って攻撃するという状況に置かれ、さしものミルーニャからも余裕が失われていた。

「おいっ、何ぼけっとしてんだ! さっさとしろ!」

 唐突に背後から声をかけられる。見ると、ペイルがその両肩にメイファーラとプリエステラを担いでいた。二人ともイルスによって傷口は塞がれているものの、未だ意識は戻っていない。ナト、イルスも既に金箒花の群生地を抜けて森の中に向かっていた。ハルベルトがこちらに駆け寄ってきて、ぎゅっと黒衣を掴んだ。

「なんだか知らねえが、今のうちに逃げるんだよ! このままじゃどうしようもねえ!」

 正論だ。ミルーニャは私を狙って襲撃してきた骨花の使い魔と交戦しているために足が止まっている。ミルーニャに対抗する手立てが無い以上、まずは態勢を立て直さなければならない。そして漁夫の利を狙ってここに残るには、この場所で繰り広げられる死闘は危険に過ぎた。荒れ狂う銃弾と流体が嵐となって金色の花畑を蹂躙する。
 私はハルベルトの手をとると、ペイルに続いて鬱蒼と生い茂る木々の中に飛び込んだ。






 張り詰めた空気は今にも破裂してしまいそうだった。
 発光植物の淡い照明だけがその場所で唯一の光源で、横たわった重苦しい闇は静かな沈黙をその場所に強いている。
 洞窟の中、並んで横たえられたメイファーラとプリエステラの前で、黒い肌の医療修道士が額に汗を浮かべながら【修復】の術を行使していた。

 二人の状態は傷口を塞いで出血を一時的に止めただけであり、未だに予断を許さない状況らしい。特にプリエステラの胸を刺し貫いたナイフには毒が塗ってあり、極めて危険な容態であることが告げられていた。

 イルスという男が使う【修復】は極めて強力だったが、それでも二人を安全な状態に持ち直させる事は容易くはないようで、治療に取り掛かってからかなりの時間が経過している。こうしている間にもミルーニャか骨花、どちらかの追っ手が追撃を仕掛けてくる可能性がある以上、そう猶予はないと思っていた方がいいだろう。

 座り込んでいたペイルが、居心地悪そうに身動ぎをする。恐らく交代で哨戒にあたっているナトの所に行きたいのだろうが、無防備なイルスの身を守るためにこの場所を離れられないのだ。やはり、これ以上ここに居続けるのはどんなに剛胆な心の持ち主でも堪えるのだろう。

 周囲から放射される、強烈な敵意――いや、それすら超えた殺意。
 私は、ティリビナの民たちの集落に辿り着いた直後のことを回想する。
 ティリビナの民は先に私達が訪れた時とは打って変わって、極めて敵対的な態度になっていた。子供達はひとかたまりになって大人たちの後ろに隠れ、ひどく怯えてこちらを窺い見ていた。

 先程までは私がローブで素性を隠すことでどうにか誤魔化せていたが、必死に逃げてきた為にペイル達にそのような偽装をする暇がなかった。迂闊だったが、思い至った時にはもう遅く、松明の紋章を胸に刻んだペイル、破損しているとはいえ修道騎士の甲冑を身に纏ったナト、誤解のしようのない祭服を着たイルスはティリビナの民の前にその姿を晒してしまっていた。

 ティリビナの民にとって修道騎士とは自らの故郷を焼き払った最悪の仇であり、修道騎士にとってティリビナの民とは討伐すべき異獣である。一度出会えば戦いの他に道は無い。それが本来の両者の在り方である。

 しかし、昏睡し続けるプリエステラの存在が状況をややこしくしていた。
 現在、ティリビナの民の集落には医術士と呼べる存在がいなかったのだ。定期的に外部から運ばれてくる物資には高位の治癒符も含まれていたのだが、それではとても治せないほどプリエステラの状態は悪い。しばらく前までいた高齢の医術士は先日病没しており、その医術の全てを受け継いだのはよりにもよってティリビナの巫女たるプリエステラただ一人。彼女から少しずつ教えを受けていた者もいるのだが、その技量は到底長年の訓練を受けた専門家に及ぶべくもない。

 そして、この場にいる最も優れた医術の使い手はイルスなのだった。
 ティリビナの民達は反発した。仇敵たる修道騎士に大切なティリビナの巫女の命を預けることなどできないと口々に言い立て、さりとてプリエステラを救う代案もなく、場は荒れに荒れた。ティリビナの民たち同士で二派閥に分かれて激論を交わし、果ては殴り合いの騒動にまで発展しかけたその時、イルスが動いた。

「医術に携わる者として、目の前で失われようとしている命を見捨てることはできません。どうか、俺に彼女を治療させていただけませんか」

 それはティリビナの民も用いている亜大陸方言だった。イルスがそれを使えるのは、恐らく彼が黒檀の民系の人種だからだろう。かの黒い肌の人々は、かつては南方の亜大陸に住んでいた。ティリビナの民と共に。
 真摯に頼み込む男を幾つもの視線が貫いた。やがて、一人のティリビナの民が前に進み出て、イルスに声をかけた。

「その訛りからするとトゥルサ辺りの出身か」

「はい。生まれはハルムシオンでしたが、両親の改宗を期に北の境界域に移りました」

「なるほどな。まあそんなところだろう。若さからして、お前さんらは虐殺には参加していなかったんだろうが、だからといって我々がお前さんらを信用できるかどうかは話が別だ」

「承知しております」

「特にお前さんが一番信用できん。言っている意味はわかるな」

 黒檀の民はかつてティリビナの民と同様に亜大陸――地上の南方に位置する大きく突きだした半島に住んでいた。金色もしくは黒色の髪に黒色の肌という身体的特徴は、明らかに樹木系の種族よりも霊長類寄りではあったが、本大陸では迫害されていた。黒檀の民たちは辿り着いた亜大陸でティリビナの民をはじめとする諸部族と上手い具合に共生関係を築くことに成功した。黒檀の民が信仰する自然の精霊たちはティリビナの民が信仰する樹木神レルプレアと同じものであり、その文化や風習、呪術的な技術までも相互に補完し合うことができる特性があったのだ。ティリビナの民たちの姿は霊長類よりも樹木のそれに近かったが、彼らは黒檀の民と共存できていた。亜大陸は見た目や宗教、文化によって迫害されてきた者たちが行き着く地上最後の楽園だったのだ。

 だが、その平穏は大神院によって破壊された。
 亜大陸の教化と改宗が一向に進まないことに業を煮やした大神院は、ついに松明の騎士団に『聖絶』の命令を下したのである。

 聖絶――すなわち、亜大陸に住まう全ての異教徒を滅ぼし、その文化を破壊し、聖なる松明の火であらゆるものを灰燼に帰して槍神に捧げよという指示である。

 かつての亜大陸には広大な大森林が広がっており、緑の霊峰と呼ばれるミューブラン山が聳えていた。その美しくも雄大な自然、幽玄な光景は世界有数の秘宝とも言われていた。その麓には数多くのティリビナの民たちが住まい、自然と共に生きていたのだ。

 現在では、亜大陸と聞けば誰もがまず不毛の砂漠を思い浮かべる。ミューブラン山と言えば木の一本も生えていない三角錐を想起する。
 松明の騎士団は天使ピュクティエトの名の下に大森林を焼き払い不毛の砂漠とし、美しい深緑の霊峰を禿げた錐体に貶めた。そしてティリビナの民を文字通りに一人も残さずに絶滅させるべく徹底的な虐殺を行った。そこに老若男女の区別は無い。文字通り、生きたまま炎にくべていったと言われている。

 私達の世代はそれを歴史的な事実としてしか知らないが、しかしティリビナの民たちの中にはその凄惨な体験を生き延びた者が多くいるはずだった。子供達もその恐ろしさを聞かされて育ったのだと思われる。

 修道騎士が掲げる象徴たる松明は、大神院にとっては人間の未来を照らす希望の灯りだが、『人間以外である』と定められた者達にとってはあらゆる希望を焼き尽くす地獄の業火だ。いや、地獄に逃げた者達にとっては、それは地獄の業火などより余程忌まわしいものに違いない。

「その歳じゃあ自覚もなかろうが、お前さんら黒檀の民は私達を裏切った。我が身可愛さに私達を売ったんだ」

 黒檀の民は槍神教に改宗しており、現在でも地上で生きることを許されている。その結果が全てを物語っていた。皮肉にも、地上では黒檀の民といえば敬虔な信仰者のイメージと共に語られる存在だ。そう振る舞わなければ生きることすら許されない。地上ではあらゆる人種が監視され、管理される。

 黒檀の民の守護天使として設定されたのは、第八位の天使ピュクティエト。松明の騎士団の守護天使でもあり、亜大陸を焼き払った炎の化身でもある。それは大神院が用意した枷であった。

「我々の先祖は行き場の無い漂泊の民に同情して共に生きることを選んだ。それ以来お前さんらは樹木の名を冠する黒檀の民と名乗ることになった。そして霊峰ミューブランに誓ったのだ。共に大いなる自然、女神レルプレアの手に抱かれて生きていこうとな」

 黒檀の民たちはかつての文化や信仰、そして共に生きてきたティリビナの民を捨ててでも生き残る道を選んだ。私達と人狼のように。天眼の民と蜥蜴人のように。ティリビナの民の糾弾は、私達のような眷族種たち全てに当てはまる。

 生き残るために他者を切り捨てる。これは地上が抱えた呪いだ。そこから自由になるには、異獣となって地獄に堕ちるしか無いのだ。
 あの――自由と正義、平等と幸福に満ちた、清らかに狂い続けている異形の大地に。

 ティリビナの民はそこにも馴染めず――結果、どこにも行き場の無い漂泊の民となっている。奇しくも、かつての黒檀の民のように。

「俺は、子供の頃に死にかけたことがあります」

 イルスはそう言って、感情の見えぬ無表情で語り始めた。

「仰るとおり、俺は『聖絶』以前の時代を知りません。ですが、当時のハルムシオンの様子は知っています。あそこにあったのは行き詰まりだけでした。街路では統一主義者たちが本大陸の言語で槍神教の教えを叫び、国粋主義者たちが独立を訴えていました。デモ隊の衝突や暴動は日常で、呪符や端末での爆破テロがあちこちで起きていた。レルプレア神の守護天使認定を大神院に訴える改宗者を精霊原理主義者が公然と私刑にかける。彼らもその翌日には修道騎士たちに逮捕されて処刑される。あそこは今もそうです」

「全員が裏切ったわけではないと、そう言いたいのか。それとも生きるためには仕方無かったと?」

「いいえ。少なくとも俺は自ら望んで裏切りました」

「なんだと」

「国教が槍神教になると言われても、即座に人の意識が切り替わったりはしません。上の方で政治家や宗教家が勝手に決めた事。そう思っていた者は少なくなかった。俺の家は精霊呪術医の家系で、信仰を捨てる事が失業に繋がるという事情もありました。たびたび訪問してくる大神院の神官たちの目を盗んで、レルプレア神と精霊に祈りを捧げていました。ある時、治療時に唱える精霊への祈祷の文言を聞かれて患者に密告されました。幸か不幸か、知らされたのは松明の騎士団ではなく統一主義者の団体でした。密告先が松明の騎士団だったなら俺は生きてはいられなかったでしょう。家は爆破され、両親も兄弟達も、そして俺も瀕死の重傷を負いました」

「そのような境遇でありながら、何故槍神教に鞍替えした? 奴らが憎くはないのか」

「その時に俺と家族を救ってくれたのは、ある医療修道士でした。槍神教の病院修道会に所属していた彼は、亜大陸の医療環境を改善する為にハルムシオンを訪れていて、偶然その現場に居合わせたそうです。かろうじて意識のあった俺は治療を拒否しました。理由は、多分あなた方と同じです」

 必要だとわかっていても割り切れない感情がある。憎しみ、恨み、敵意。感情を排して合理的な判断をすることを、あえて選ばないという道もある。誰しもが、憎悪や怨恨を否定したくは無いからだ。私だって、仲間の仇であるエスフェイルへの怒りや憎しみを捨てろと言われたら否定するだろう。命を救われるなど更に耐え難い。
 それでも、イルスは言葉を続ける。必死に、それしかないというように。

「俺は異教徒であることを明かして殺せとまで言いましたが、彼はそれを関係無いと言い切りました。たとえそれがどのような主義主張や信仰の持ち主であったとしても救う。それが自分の為すべき事だからと。彼は五人の部下と共に、俺たち家族を救ってくれた。俺達が改宗して本大陸との境界付近に移住したのはその直後です。俺は自ら志願して槍神教の医療修道士になりました」

「お前さんはつまり、全ての槍神教徒が邪悪ではないと、そう主張したいわけかね」

「いいえ。槍神教徒である限り、俺達は常に誰かを踏みつけにし続けている。それでも、尊い行為とはそれを為す人物とは別に、確かに存在する。人を救うための技術や道具は使い手に関係無く尊いと、俺は思います。実を言えば、俺は槍神など碌なものではないと思っている。ですが、進んだ槍神教の医療神働術を学ぶために本大陸に渡りました。そうすればより多くの人を救えると信じたからです。俺が信じているのは槍神ではなく、医術そのものです。俺の神は医術だ。俺が憎いのなら憎めばいい。治療によって恩義を感じる必要も、憎い仇に救われたと感じる必要もない。救うのは技術であって俺じゃない。あなたたちは存分に俺を憎み、そして技術によって彼女を救わせればいいんです」

 一気呵成に捲し立てるイルスの勢いに、ティリビナの民たちは少しだけ息を飲んだようだった。当惑、ざわめき、ひそひそとした話し声。それでも隔意が消えることは決して無い。そこで、イルスは駄目押しとばかりに決定的な材料を投下した。

「俺は精霊祈祷による呪術医療の心得があります。家にある書物を読んだだけの独学ではありますが、ティリビナの民や樹妖精アルラウネの体構造に関しても把握しています。この技術を用いれば、きっと、いや必ず彼女を救えます」

 それが決定打だった。憎い仇の技術ではなく、あくまでも彼らの知る亜大陸の医術がティリビナの巫女を救うという事実。実際にはイルスは神働術も組み合わせて治療行為を行うのかも知れないが、それでも心理的な障壁は幾分低くなったようではあった。多分それが、ティリビナの民たちが自分たちに『仕方無い』と言い訳ができるぎりぎりの線だったのだと思う。

「もう一つ、ハルからも補足しておく。間もなくこの場所に、彼女を傷つけた敵がやってくる」

 そう言ってハルベルトが端末を操作すると、録音された音声が流れ出した。『殺すべきです』『またとない機会ですよ。枯れ木族の固有種――』ミルーニャの声だった。プリエステラに対しての『狩り』の提案――確かにそんなやり取りがあったが、ミルーニャはあの後その言葉を撤回していた。しかし録音は編集され、ミルーニャが探索者としての冷徹な顔を覗かせた場面だけが強調されていた。

「敵はまだ健在で、とても危険。敵が標的と定めている相手だけでなく、その他にも累が及ぶ可能性がある。力を合わせなければとても撃退できない。あなたたちの力が必要――そして、ティリビナの巫女の力が」

 ハルベルトはあからさまな嘘を使わなかった。微妙に真実を歪ませて、強引にティリビナの民を巻き込んで利用しようとする、まさしく邪悪な魔女の手管。

 ――結局、イルスはプリエステラの治療を行うことを許された。そして彼女と自分たちの身を守るため(と信じ込まされて)ティリビナの民も襲撃の警戒と妨害にあたってくれた。彼らが操る樹木を操る呪術はこの森林の中で効果的に作用する。鬱蒼と生い茂る草木が意思を持つようにうねり、近付いたものを捉えようと枝葉を伸ばす。空を飛ぶ鳥までもが捕らえられているのが見えた。追いかけてくるのがミルーニャか骨花かはわからないが、時間稼ぎにはなるだろう。

「多分、勝つのはトライデント――あの骨の使い魔の方」

「あの骨の花に、心当たりがあるの?」

 洞窟の中、イルスが必死に治療しているのを遠巻きに見ながら、ハルベルトは静かに呟いた。

「情けない話だけど、三回目になるまで気付けなかった。あの青い流体は【使い魔の座】を占める末妹の第三候補、トライデントの禁呪。あれは他の全ての候補を飲み込もうとする最悪の敵」

「じゃあ私を襲ってきたのはどうして? ミルーニャは、私を強引にでも手に入れるつもりだったみたいだけど。あの使い魔も私を攫うつもりだったってこと?」

 その割には――なんというか、あの使い魔からはもっとおぞましい悪意みたいなものを感じたような気がする。私の問いに対して、ハルベルトは少し思案して、

「確かに、グロソラリアであるあなたはトライデントの使い魔として目を付けられた可能性がある。捕獲されればトライデントに取り込まれてしまう。『細胞』になってトライデントの手足として働くのが望みなら、ハルは止めないけど」

「そんなの絶対に嫌。どうせ使い魔になるならハルがいい」

 最初はハルベルト、次はミルーニャ、そしてトライデント。必要としてくれるのは光栄だけれどこちらの都合も考えて欲しい。初対面の時は強引で自分勝手だと思ったけれど、こうして見ると、きちんと説明してこちらに考えさせてくれたハルベルトはまだまともな方だったのだなあと思う。
 何故かハルベルトは私が貸した黒衣のフードをぎゅっと握って目深にかぶり直した。顔が隠れるが、どうしたのだろうか。

「――っとにかく、敵はメートリアンを取り込んだトライデント。つまり融合体となって更に呪力が強化されていると考えた方がいい」

 どちらか片方が勝利して襲撃してくるのではなく、両者の力が合わさった存在が襲ってくるのだとハルベルトは言う。それは私の想定を上回る最悪の状況だったが、それよりも気にかかるのが、

「じゃあ、ミルーニャは取り込まれてしまうの? そうしたら、もう元には戻らないということ?」

「基本的にはそう。よほど強固な意思――それこそ四魔女の強大な呪力をねじ伏せられるだけの圧倒的な精神力をもっていなければ、トライデントの細胞となって『個』としての自我は押し潰される――まさかアズ、メートリアンの事を心配しているの」

 信じられない、という感情が声に表れていた。裏切った相手、明確に敵意を向けてくる相手に何を考えているのだと、自分でも思う。

 けれど、私はこうも考えてしまうのだ。
 ミルーニャは多分、一貫している。杖使いとして、探索者として、末妹の候補者として、純粋に自らの利益だけを追求し続ける。それは多分『悪』なのだろうけれど、地上にとっての『正しさ』でもある。地上にいる全ての者は加害者で特権者。誰かを犠牲にして生き延びようとする卑怯者だ。ティリビナの民が黒檀の民を裏切り者と言ったように。だから多分、私にはミルーニャを責める資格は無いのだと思う。

 それにミルーニャは、ただそれだけの渇いた心の持ち主ではないと思うのだ。それはこちらを油断させる為の演技かもしれない。それでも彼女は、ぶっきらぼうで毒舌家でありつつも、周囲に対して優しい気遣いが出来る人だった。直感でしかないのだけれど、あの優しさは多分彼女の『本当』なのだと思う。思いたいだけかも知れないけど。

 彼女とは敵対してしまっている。それは事実だ。けれど、完全に異質で共感ができない相手にまではなっていないように思えた。だとすれば、私には可能性が残されている。フィリスという、あと一回きりの切り札が。

「もし、異質なものと融け合ってしまった魂を元の形に戻せるのだとすれば、それはきっとフィリスにしかできない」

 残り一つとなった金鎖の環を眺めながら、私はハルベルトに己の胸の内を吐露した。

「ハル。貴方が自分の事を話してくれたのに私の事を話してないのは不公平だから、本当の事を言うね。私の妹は死んでない。それどころか、地獄の軍勢を統率する迷宮の主、セレクティフィレクティに魂を乗っ取られてしまった。私は妹を取り戻す為に迷宮の最下層を目指しているの」

 無言。ハルベルトからの反応は無い。突然こんな事を言い出されても困るだろう。それでも言葉はもう止まらなかった。

「このフィリスを使えば、一つになってしまった魂を解体して、元通りの妹を取り戻せるかも知れない。それが私の願いで、本当の目的。私は今、それが出来るかどうかを確かめてみたい」

「トライデントの手から、メートリアンを取り戻すということ」

「ミルーニャを取り戻す。私は、メートリアンという人の事は良く知らないから」

 ハルベルトは一瞬だけ考え込んだ。すぐに顔を上げて、まっすぐに私の顔を見つめて言う。

「セレクティフィレクティというのは十九の魔将を統括する魔元帥。そしてトライデントの最上位細胞の一人でもある。ハルにとっても、いずれ相対しなければならない相手」

 始めて聞く情報だった。ハルベルトの詳しい目的はまだ知らされていないが、トライデントと敵対しているのは間違いなさそうだ。だとすれば、私達は目的を近しくするものとして、敵対するか協力し合うかの選択を迫られる。

 妹とハルベルトが戦うだなんて、想像もしたくないけれど。
 もしハルベルトが妹を取り戻すのを手伝ってくれるのなら、私も彼女の戦いに手を貸せるかもしれない。

「一つに融け合ったものを解体し、別個のものに戻せるのなら、貴方の力は【融血呪】に対する最強の対抗手段になり得る。あなたの妹と古の魔女、そして使い魔の魔女を分離させることすら可能。ハルにとってもその試みは興味深い。賭けてみる価値はある」

 それからハルベルトは目線を下げて、少しだけ言いづらそうに口をもごつかせた。無口だったり言葉少なだったりするのはよくあるが、歯切れが悪いのは珍しい。

「本当は、ハルはアズはもっと酷いことを言おうとしていた。一体いつの間にトリシューラと出会っていたのかは知らないけど、アズはさっき【鮮血呪】を使おうとしていた。多分、ハルを助けた時もあの禁呪を使ったと推測している」

「トリシューラ? 鮮血呪? えっと、ちょっとよくわからないんだけど、もしかしてパラドキシカルトリアージのことかな」

「あの価値操作の原始呪術さえあれば、軽傷を致命傷に反転させて強制的に死という結果だけを押しつけることができる。ハルは、最初それを提案しようと思ってたの」

 確かに――致命傷すら軽傷だと認識してしまうミルーニャを倒すには、その価値を狂わせて『致命傷だということにしてしまう』のが効果的かもしれない。

「でもやめた。実行するのはアズだから、アズがしたいと思う事をするべきだと思う。でも、それだけじゃ勝てない。その後はどうするの」

「うん。融合してしまった存在を分離させるには、【静謐】で対象の構造を解析して解体、その後再構成っていう最低三つの工程が必要になってくるんだけど、その解体の過程でミルーニャの不死性とかの能力を取り除こうと思うの。そうすれば無力化できるかもしれない。その後は、何とか説得を試みて、出来なかったら捕縛。それも出来なかったら、殺すしかないと思う」

 殺す、と私はあえて明確に口に出した。そう決めておかなければ、救うという第一の選択が決断ではなく逃避になってしまう気がしたからだ。もしミルーニャとの和解に失敗した場合に彼女を殺すことができず、ずるずると最初の選択にしがみつき続けるなら、それは自分が現実から目を反らし続けているだけに思えて嫌だった。

「退路を断ったつもりでやる。絶対に失敗できないからこそ、必ず成功させる」

「その時はハルが手を下す。これはハルの戦いだから」

「私だって狙われてる。なら私達の戦いだ」

 お互い一歩も譲らない。睨み合っていると、横合いから声がかけられた。

「仲の宜しいトコ悪いが、そろそろ敵さんが来なさったみたいだぜ。あの木が動くまじないがありゃあしばらく保つだろうが、それもあっちの手札次第だ。策があるなら準備してくれや」

 ペイルの言葉に、ハルベルトは少し焦りの感じられる声で答える。

「――トライデントの融合体となったメートリアンを倒すためには、まずアズをフィリスの有効射程範囲にまで接近させなければならない。その為には、まずあの石像と呪文喰らいをどうにかしないと」

「ち、流石の俺もあのデカブツの相手するのはきついぜ。あんなもんと正面から殴り合える前衛は、噂に聞く【巨人殺し】か、松明の騎士団随一の勇士、守護の九槍第四位のカーズガンさんくらいのもんだろうよ」

「敬称呼びしてる――」

 思わず呟いてしまった。ぞっとするほど似合わない。というかこの傲岸不遜な男でも誰かに敬意を払ったりできるのか、と少し感心してしまった。

「おう、尊敬してんだ。あの雄々しい体躯と丸太みてえな上腕を見たことがあるか? 英雄ってのはああでなくちゃな」

「どうでもいい。とにかく、あの二つの障害をどうにかしないといけない。そして、その鍵になるのがあの二人」

 そう言ってハルベルトは、今もなお荒く息を吐きながら目を閉じて横たわる二人を見た。負傷したメイファーラとプリエステラ。この二人はミルーニャに真っ先に戦闘不能にされていた。それは裏を返せば、

「なるほどな。あいつらがあの白女にとって一番厄介な相手ってわけだ。つーことは何もかもイルス次第ってことかよ――おい、イルス! あとどんくらいかかりそうだ?!」

 治療に集中している相手に声をかけるなんて、と思ったけれど、イルスはそういった相手の事情に頓着しない仲間の性質には慣れているらしい。短く「600秒」とだけ答えて作業を続行する。

「ち、しゃーねえ、ちっと時間稼いでくるか」

「大丈夫なの?」

 思わず声をかけてしまったのはどうしてだろう。敵対していたはずの男といつの間にか共闘しているこの状況は、なんだかひどく落ち着かない。彼に対して信用を抱くこと、仲間意識を覚えることなど絶対に無理だと思える。そんな相手に命を預けることへの不安があるのかもしれなかった。

「てめえらには命を救われたからな。借りは返す」

 答えはあまりにも簡素で、それ故に有無を言わせない強い決意が感じられた。ペイルは頭をがりがりと掻きながら舌打ちをする。

「ったく、面倒な事に巻き込まれちまったもんだぜ。【塔】の内輪揉めだかなんだか知らんが、こういうのは余所でやってほしいもんだ」

 ぼやきながら、洞窟の外に出て行こうとする。時間稼ぎと彼は言った。向かう先は危地であり、生きて帰れるかどうかもわからない。それでも借りを返せないということは彼の誇りが許さないのだろう。それはあくまでも自分の内心にとっての利益を優先しているのであって、地上の論理に即した利他的行為だ。

 それでも、その行為は私達の命を繋ぐ。私が彼に対して感じている隔意やわだかまりとは関係無く。彼の内心とは独立して。

「あー。なんというかだな。前に口走った事は半分撤回しとくぜ。ありゃ言い過ぎた」

「え?」

 こちらに背を向けたまま、ペイルが信じがたい事を口にした。それは、私が彼に敗北した時の言葉だ。

「さっきよう、てめえは仲間が死んでキレてただろうが。ま、死んでなかったけどよ。あれ見てよ、仲間の手柄を横取りだの何だのと口走ったのは俺の間違いだって思い直したんだよ。てめえはそういう真似ができるようには見えねえ。どっちかってーとあの白い方だな、そういうのは」

「ミルーニャはそんな事しない!」

「しようとしてただろ」

「いやだから、私がさせない」

「は」

 ペイルは鼻で笑った。それから急に声を低くして、

「勘違いすんじゃねえぞ。俺は自分の間違いは認めたが、てめえのやったことは認めねえ。てめえがけしかけたせいでアホほど死人が出た。俺のダチも死んだ。それは揺るがねえ事実だ。俺はてめえを絶対に許さねえ。結果としててめえは魔将を倒したが、それは本当に最善の結果だったのか。もっと犠牲を少なくできたんじゃねえのかよ。そもそも何で命令無視して第五階層の攻略なんてしやがった?」

「それは――」

 私達はあの時、無意味に死ねと命じられたに等しかった。
 死守せよ。この場で戦って死ね。そういった命令も修道騎士として戦う限り覚悟せねばならない。けれど、その指示は明確に悪意と殺意によって下されていた。

 守護の九槍、その第七位。あの男は、地上人類の全て、霊長類と眷族種の全てを憎んでいる。そして、誰よりも大神院の論理を内面化し、徹底した人間の序列化によって万物の価値を定め、画定し、その間隙を縫って可能な限り戦力を摩耗させようとしている。

 彼は復讐者なのだ。松明の騎士団を内側から食い尽くそうとする自陣の敵であり、槍神教と大神院の歪みを体現した存在。
 亜大陸の全てを滅ぼした『聖絶』――その陣頭指揮を執っていた、黒檀の民ただ一人の大司教。不毛の砂漠と化した亜大陸の管区長を務める、引き摺り込まれそうな程に虚ろな目をした、自ら望んで無能を為す者。

 しかし彼は対外的には高潔な信仰者で通っており、黒檀の民の英雄として社会的に強固な地位を得ている。私が何を言ったところで彼の信用が揺らぐことはないだろう。
 私が黙っていると、ペイルはふんと鼻を鳴らして言った。

「はん、まあいい。てめえがどんだけふざけたクソチビでも、命の恩人には変わらねえ。仕方ねえから命張ってやるよ」

 それだけ言い残して、ペイルはその場を立ち去った。
 入れ替わるようにやって来たのは、哨戒に当たっていたナトだ。偵察のために邪魔な呪動装甲を脱いで、地味な色の衣服に木の葉や土で汚して現れると、急いで捲し立てる。

「遠くから様子を窺ってみたけど、石像と翼で木々を薙ぎ払いながら凄い勢いでこっちに向かってる。木々が勝手に動いて邪魔をするせいで少し手間取ってたみたいだけど、多分あまり時間が無い。ありったけ呪符を撒いて逃げてきたけど、時間稼ぎになってるかも怪しいな」

 もたらされた知らせに場の空気が暗くなる。ハルベルトは訝しげに石像とミルーニャが一体化していなかったかどうかを訊ねるが、そんな様子は無かったとナトが答えると首を傾げた。

「それで、伝えておかなければならないことがある。おそらく彼女は【祝福者】だ」

「えっと、それはどういう意味?」

「【ペレケテンヌルに祝福された者】という意味だよ。その名の通り、我らが守護天使様から格別の加護を賜った存在――突然変異とでもいうのかな。もしも俺たち三本足の民が異獣に堕ちたら固有種に認定されること間違い無しの超呪力の持ち主。そこの樹妖精のカラス版って言えばわかりやすいかな」

 ナトによれば、ミルーニャは三本足の民でも特殊な個体らしい。

「まあ厳密には、三本足の民じゃなくてもペレケテンヌルに気に入られればどんな種族でもなれるらしいけどね。祝福者たちは心からの願いと祈りを守護天使に聞き届けられることによって、その願いに応じた極めて強力な天恵ギフトを獲得する。例えば、誰も傷つけたくないという願いを持てば加虐を快楽と感じるようになり、誰かを傷つける事で苦痛を感じなくなる。誰かに傷つけられたくないと願えば、被虐を快楽と感じるようになり傷つく事で苦痛を感じなくなる。そして、それを繰り返し行えるように加虐によって発動する他者治癒能力、被虐によって発動する自己治癒能力などを獲得する」

 祝福と言うよりも呪いと言った方が的確な代物だった。悪意しか感じられないその天恵は、間違い無く神話に名高い最悪の守護天使、変容の司ペレケテンヌルの所業だと確信できる。

「俺達三本足の民は誰しもが『第三の足』として生き物か物品に執着を覚える。この呪物崇拝フェティシズムが呪力を生み出しているわけだけど、祝福者たちも同じだ。その強烈な渇望が歪み、邪視さながらに現実を変容させたいと願う余りに自分自身の本質を壊してしまう。俺達は邪視の才能に乏しいから、外側を変えるより自分を破壊する方が手っ取り早いわけだ。そうして潜在的に抑圧されていた精神が、極端な嗜好として発現したのが祝福者たちであり、彼らは皆その嗜好に関連した呪術を使う」

「つまり、ミルーニャのあの再生能力はその祝福者の力ってこと?」

「その可能性が高い。何か、彼女の性格傾向とか性癖とかを知らないかな。それが彼女を打ち破る鍵になるかもしれない」

 ミルーニャの性格と性癖――少し考えて、すぐに思い当たった。彼女は、爪を剥がす時に快楽を感じていた。そればかりかペイルに殴られている時にそれが快感だとも言っていた気がする。

「やっぱりそうか。彼女は一番典型的な祝福者だ。極めて強いストレス下に置かれた者――例えば虐待された子供なんかがなりやすいって言われてる」

 私は思わず口を押さえた。もしそれが本当なら、ミルーニャはどれだけ過酷な幼少期を送ってきたのだろう。彼女の容姿は少女そのものだ。二十六歳だという彼女は、おそらく少女期に祝福者となり、それ以来老化が止まってしまったのだろう。

「待って、それはおかしい。いくら祝福者でもあそこまでの不死性は発揮できない。ハルは呪術修行を始める前のメートリアンを知っているけど、彼女はそれ以前から異常な再生能力を有していた。その秘密までは知らなかったけど――」

 ハルベルトによると、ミルーニャは祝福者として覚醒したのは少女期だったが、星見の塔で学び始めたのはそれからかなり時間が経過してからだったという。それまでは杖の――つまり身体性を拡張する呪術で不死性を高めることはできなかったとのこと。事実、呪術医としての成績では常にライバルに負け続け、早々にその道を諦めて錬金術師に転向したそうだ。

「昔、黒百合宮に移る前だけど――星見の塔を訪れたばかりで勝手のわからないメートリアンはトラブルを起こした。よりにもよってラクルラール派きっての武闘派ミヒトネッセの不興を買って、質量操作された超重力踵落としをくらわされたの。地面に巨大なクレーターが出来て、メートリアンは潰れた挽肉になった。流石にあれは助からないと思ったのに、直後に何事もなく再生していた」

 つまり、呪術の腕とは関係無くその再生能力は存在する。そしてそれは祝福者というだけでは説明がつかない、ということだ。

「ミルーニャ、もの凄い変態だったのかな――」

「露出趣味の分も含まれてるのかも」

「どうかな。窃視症の祝福者は幻視能力を獲得するっていうし、露出狂は服を着ていても常に羞恥心に苛まされたり、自分の裸体を覗き見る何者かの視線を錯覚し続けるようになって半ば発狂すると聞くよ。再生系の能力には繋がらないと思う」

 ということは、あれは素か。
 ――うん、考えないようにしよう。

 ミルーニャの不死性には、祝福者の他にも何か種がある。それが何か判明すれば、フィリスによって彼女を正確に把握して解体できるのだけれど。
 シナモリ・アキラの場合は彼に呪術抵抗がほぼ皆無だったから上手く行ったし、エスフェイルの場合は同種ゆえにその本質を容易く看破できた。
 だが、ミルーニャは今日知り合ったばかりな上に全く異質な相手だ。フィリスを間違い無く発動させる為には、彼女の事をより深く知る必要がある。

「そういえば、あの子の第三の足は何なんだろう」

 ナトがふと思い出したように呟く。私はそれが今更疑問に思うような事なのかどうか今ひとつわからずに首を傾げた。

「三本目の足なら生えてたけど。尻尾みたいなのが」

「いや、ああいう身体変化の術じゃなくてさ。一番頼りにしている使い魔とか愛用の呪具とか、そういうのだよ」

 すこし寂しそうに言うナトを見て思い出す。彼の半身とも言える鴉は、イキューに食われてしまったのだ。あの時に見せた激しい感情の迸りや、私が挑発した時の怒りからすると、きっと三本足の民にとってそうしたものはこの上なく大切なものなのだろう。

投石器スリングショットや銃は恐らく違う。沢山ある道具の一つという感じだった。だとすると、まだ切り札を隠している可能性がある」

「あの石像じゃないか? かなり頼りにしているみたいだったし」

 ハルベルトとナトが口にする言葉は、何故か私にはしっくりとこない。ミルーニャがなによりも大切にする使い魔や道具。そうしたものがあるとは思えないのだ。

 彼女はきっと、肝心なところで自分以外の何かを頼りにしたりはしない。もちろん祝福者として守護天使に祈ったはずなのでこの直感は事実には反しているのだが、それは相当な過去の話だ。今の彼女の精神性が昔のままだとは言い切れない。

 戦闘中、極限状態でミルーニャは道具ではなく足技を使う。自ら鍛え上げた肉体をだ。そうしたメンタリティは第五位の眷族種である三本足の民というよりも、第九位の眷族種である霊長類に近いように思われた。恐らくペイルもそういうタイプだろう。

 ミルーニャは自分を混血だと言っていた。だとすれば彼女は三本足の民と霊長類の血が混じっているのだと思われる。
 記憶を遡る。ミルーニャの一挙一動を再生して、言動に答えの手がかりが含まれていなかったかどうかを精査する。ふと、その言葉が浮かび上がった。

 ――この世の全ては『もの』ですよ。少なくとも私たち杖使いにとってはそうです。この私自身がそうであるように――

 私が回答に辿り着きそうになったその時、凄まじい轟音が響き渡った。続いて、この世のものとは思えない雄叫びが上がる。そして断続的に木々が倒れる音と地響きがここまで届いてきた。

「ペイルのやつ、あれは多分超過駆動を使ったな――狂戦士状態をあれ以上使うのは危険だってわかってるだろうに。仕方無い、俺も行くよ。理性を失ったあいつを回収するのは俺の役目なんでね。時間稼ぎしてくるから、イルスを頼む」

 ナトは早口で言うと、長槍を手に素早く森へ走っていく。取り残された私達はじっとイルスの治療が終わるのを待つ。
 医療修道士の腕は確かだった。ほどなくしてプリエステラが目を開けたのだ。

 歓声を上げるティリビナの民たち。彼らや私から状況を聞くと、プリエステラはふらつきながらも立ち上がった。

「巫女様、無理をなさらないで下さい!」

「そういうわけにもいかないでしょ。自分が狙われてるってのに、戦わないわけにもいかない」

 イルスから自分の杖を受け取り、それを支えにしてどうにか歩こうとする。その身体ががくりとよろめくが、どうにか寸前で持ち直した。

「それに、ハルたちは私の仇討ちを手伝ってくれた。恩人を死なせるわけにはいかないし、恩を返すとしたら今なんだ。黙って仇討ちに行ったこともだけど、我が侭ばっかりでごめんね、みんな。でも、私はそうしなきゃならないんだ」

 プリエステラは真っ直ぐな瞳と声でティリビナの民たちに自分の意思を示した。
 ティリビナの民達はしばらく彼女を黙って見つめていた、樹皮のような彼ら彼女らの表情の変化はわかりづらいが、気遣わしげな雰囲気が漂っているように思われた。
 やがて一人のティリビナの民が前に進み出て、プリエステラに語りかけた。

「それが貴方の望みとあらば、我々もまた貴方に従いましょう。ティリビナの巫女は故郷を失った我らにとって、あの雄大な緑の霊峰と繋がる為の最後の架け橋なのです。貴方の決断はすなわち女神と精霊の御意思に他なりません。どうか我々に命じて下さい。己の手足となって動けと」

 プリエステラは厳かに頷いて、杖で地面を一度突いた。
 重々しい唸りが大地に広がって、闇夜に広がる木々が巫女の意思に応えるようにかさかさと震えだした。

「これより【大いなる接ぎ木】を行う。急ぎ祭りの用意を進めよ! 此度の祝祭で、我らが原初の姿を取り戻す!」

 おおおっ、と声が唱和して、幾つもの腕が振り上げられた。どんどんと硬い足で大地を踏みならす。
 プリエステラは私のほうを振り返って問いかけた。

「ミルーニャちゃんが敵だっていうのは正直まだ信じられないけど――説得、してくれるんだよね?」

 無言で、しっかりと頷いた。

「なら私は力を貸すよ。私にとってはミルーニャちゃんも仇討ちを手伝ってくれた恩人だし――それに、私はあの子と友達になりたいって思ったんだ。裏切られたのは正直堪えたけど、ちゃんと話して、できれば謝って欲しいし、仲直りだってしたい。あんなにいい子なんだもん、きっと何か事情があるんだよ」

 私も同じ気持ちだった。そうである限り、私達はきっと共に戦える。本来は敵対する者同士であったとしても。明日には殺し合っているかもしれなくても。
 プリエステラは厳しい目をイルスに向けて、大きく息を吸った。
 それから、頭の花を相手によく見えるようにして腰を曲げる。彼女たちにとっての、最上級の礼の尽くし方だ。

「命を救ってくれてありがとう。あなたがいなければどうなっていたかわからない」

「俺はただ癒すだけだ」

 イルスは未だに目を覚まさないメイファーラに【修復】を行使しながら、変わらぬ調子で応じた。

「あなたを救ったのは俺ではない。ティリビナの民たちが伝えてきた精霊たちの力を借りる技と、医療修道士たちが築き上げてきた医術の技術体系。そして――」

 イルスはどこか遠くを見つめるような表情をした。それから、その深い眼差しを現実に引き戻すと、目の前の治療に再び集中する。

「いつか俺を救ってくれた、とある一つの善行が、全てのきっかけだ。その使い手がどのような相手でも、その所属がどれだけおぞましくとも、生かすという結果だけは平等に人を救う。死が誰にとっても平等に訪れるようにな」

 それきりイルスは押し黙った。プリエステラも、それ以上何かを言うことなく慌ただしく駆け回るティリビナの民たちの所へ身を翻す。
 私とハルベルトもまた迫る決戦の気配を感じ取り、広場に向かおうとする。
 その時、イルスが鋭く声を上げた。

「待て! アズーリア・ヘレゼクシュ、こちらへ。意識が戻った。何か伝えたいことがあるようだ」

 私は弾かれたようにメイファーラに駆け寄って、その手をとった。
 いつも眠たげな両目がうっすらと開かれ、握った手に微かな反応がある。

「メイ、大丈夫? 痛いところは無い?」

 いらえは無かった。言葉を発する気力が残されていないのだ。
 もどかしく感じたその瞬間。私の掌のメイに触れている箇所に静電気が走ったような痛みが生まれて、思わず手を離してしまう。

「アズ、もう一度握って。多分、精神感応を試みてるんだと思う」

 ハルベルトの言葉にはっとなった。メイファーラは接触感応によって残留思念を読み取り、過去視を行うことができるのだ。読み取る能力を応用すれば、送信することも不可能ではない。

 だが天眼の民は受信系の邪視に特化した眷族種だ。本来できないことをしているメイファーラの精神には、強い負荷がかかっているはずだ。
 弱々しく開かれたメイファーラの瞳が、濡れたように揺れる。
 決意を固め、私は彼女の手を両手で覆うようにして握った。

 激痛。全身を走り、脳の奥深くに槍を突き入れられたかのような凄まじい異物感。
 あまりにも膨大な情報量、異質すぎて私が許容できる形式に変換することが耐え難い痛みにすら感じられる時間。

 それは多分、瞬きの間のことだった。
 私は一度強く目を瞑って、それからゆっくりと目を見開いた。

「ありがとう。メイのお陰で、全部分かったよ」

 メイファーラはそれを聞いて安心したように微笑み、そのまま気を失った。

「峠は越した。このまま安静にしておけば問題は無い」

「わかりました。イルスさんは、ここにいてください。メイを頼みます」

「了解した。怪我人が出たら呼べ」

 イルスにその場を任せて、私は立ち上がる。ハルベルトを伴って洞窟の外へ。
 言葉の通り、私には全てがわかっていた。
 フィリスをミルーニャに対してどう使えばいいかも。ミルーニャの不死のからくりも、全て。

 ミルーニャがメイファーラを一番に警戒していたのは、彼女に過去視の能力があったからだ。ミルーニャという少女の過去、その来歴を辿ることで、不死の根源となる渇望を知ることができてしまうから。

 そして、それが理解できれば、私のフィリスはその過去に遡ってありとあらゆる事象を語り直せる。呪文とは過去や死者の記憶を語り直す手法だ。過去視という能力を持つメイファーラは、まるで誰かが私のために用意してくれた人材にも思えた。



 洞窟の外、木々が生えていない円形の広場。
 中央の台座には蛇の王バジリスクの死体が生贄として捧げられ、周囲を取り囲むようにして発光植物が輝きを放つ。石を積み重ねた柱や木片を組み合わせた櫓の間に蔦が伸ばされ、数々の花飾りや小さな木彫りの細工物が垂れ下がっている。

 ティリビナの民たちの祭りの準備は完了していた。プリエステラを先頭に全てのティリビナの民たちが整列し、秩序ある軍隊のように静かに待機している。

 ずん、と大地が揺れた。木々がへし折れて倒れていく音が響く。
 やがて姿を現したのは、野太い腕、柱の如き足、見上げるような巨大な石像。
 その肩に、真っ白な少女が腰掛けていた。

「はーい皆さんお待たせしました。雑魚掃除にちょっと手こずりまして。申し訳無いですぅ。えへへー」

「ミルーニャちゃん」

「おや、誰かと思えばエストさんじゃないですか。生きてたんですか、びっくりですよ。樹妖精アルラウネってやっぱり毒耐性があったんですね」

「ええ。色々な人が助けてくれたお陰でね」

「そうですか。短い延命、ご苦労様です。それと私はメートリアンです。実を言えば、その名前で呼ばれるの吐き気がするほど嫌いなんですよね。やめてもらえます?」

「そうなの? ごめんね。でも親から貰った大事な名前を嫌いなんて言ったら駄目よ」

 狙い澄ました言葉の一撃。
 反応は劇的だった。
 プリエステラの言葉に、ミルーニャは涼しげな顔を不快そうに歪ませて舌打ちした。赤い瞳の中で怒りの感情が膨れあがる。それから目を眇めて眼下を睥睨する。

「――ふぅん、なるほど。三つ目のトカゲ女を殺し損ねてましたか。自殺の黒槍スーサイダルブラックには自傷を増幅する効果もあるんですけどね。きちんと頭と心臓を潰しておかなかった私の失態ですね、これは」

 そして、何がおかしいのか唐突にくすくすと笑い出す。

「ああ、ごめんなさい。これって私の悪癖なんですぅ。他人の苦しむ姿を見ると、自分がそうなっている所まで想像してしまってすっごく昂ぶるんですよね。自給自足の方が効率良いんですけど、外からも呪力を持ってこれる機会があると、つい遊んでしまうんです。こーんな風に♪」

 ミルーニャの尻尾――三本目の足が動き、何かを放り投げる。
 プリエステラが、口元を押さえて息を飲んだ。

 どさりと地に落ちたのは、最後に見た時に比べて余りに縮んでしまった修道騎士ナトの胴体だった――その身体には、胴体と頭部しか無かった。断端は焼け焦げたようになり、血は止まっているようだが、再生が絶望的なほどの重傷に見えた。余りの激痛のため意識を失っているのだろう。白目を剥いて口から涎を垂らすその姿は無惨の一言に尽きる。

「三本目の足を失うのって、手足をもがれるような痛みだって言うじゃないですか。実際に比較して貰ってそこの所がどうなのか聞いてみたかったんですけど、その様子だと四肢をもがれる方がきつかったみたいですねえ。あーあ、カラスさんも可哀想に。結局は自分の方が大切ってことが証明されてしまいました。世の中には明らかにしない方がいい真実ってありますねー」

 槌矛を握りしめて足を動かす。黒衣が翻って、私はプリエステラの前に立った。

「撤回しろ」

「わ、何ですか。声がこっわいですよーアズーリア様? なんか戦ってる時はそんな風になりますよねえ。そう言えば昼間にそこのボロクズを挑発してた時も、すっごく流暢に喋ってたし、口調もなんだかいつもと違いましたぁ。何ですか? キャラ作りですか? 戦闘時にだけ凛々しくなるワタシカッコイー、みたいな? きゃーんアズーリア様素敵!」

「ナトに対する侮辱を撤回しろと言ったぞ、ミルーニャ」

「過去の自分を棚に上げてよくもまあ――相変わらずの上から目線、吐き気がしますねー♪ さっすがは超天才の英雄アズーリアさ、ま♪」

 にこやかな表情とは裏腹に、その瞳は全く笑っていなかった。いつものような毒舌。そう切って捨てられないだけの何かがミルーニャの瞳から感じられる。

 睨み合っていると、だしぬけに石像がその巨大な拳を開いた。
 内側から出てきたのは、全身の骨を砕かれて通常の人体構造では決してとれるはずがない体勢になったペイルだ。その周囲をアストラル体の寄生異獣が保護しており、辛うじて生命活動を続けている状態だった。

「まったく、ちょこまかと動いてくれて。勝てそうな場面で乱入してくるトライデントの細胞といいこいつらといい、こっちの都合も考えて欲しいですぅ」

「トライデントの細胞――あの使い魔はどうしたの」

 問いかけたのはハルベルトだった。私やプリエステラの遙か後方、ティリビナの民たちよりも後ろに下がった広場の一番は端から反対側にいるミルーニャに声を張り上げている。

 見たところ、ミルーニャの周囲にあの骨花の姿は無い。融合され、取り込まれているとしたならあの取り憑かれた単眼巨人のように骨が全身に突き刺さっていそうなものだが、どういうことだろう。

 それとも、ハルベルトの予想は外れたのか。
 果たして答えは後者だった。

「喰ってやりました。融血呪というのも案外大した事はないですね。それとも使い手が低位の細胞だったためでしょうか。生意気にも取り込もうとしてくれたので、逆に私が取り込んでやりました。あの程度の脆弱な意思力でこの私を抑え込もうだなんて、ちゃんちゃらおかしいです」

 ミルーニャは口を開き、舌をぺろりと出して見せた。真っ赤な舌先に乗った、金色の眼球。前歯で挟んで噛み砕くと、そのまま吐き出した。

「もしかして、私が意思のない木偶人形になって襲いかかってくると思ってましたか? あの青い流体に取り込まれた融合体と戦う心構えとか固めてちゃってましたぁ? ざーんねんでしたー。あなた方の相手はこの私。私だけです」

 ミルーニャは石像の肩の上で立ち上がった。純白の翼が広がり、威圧的にこちらを睥睨する。その赤い瞳には、壮絶な戦意が漲っていた。

「そろそろ始めましょうか。全員ぶち殺して霊薬の素材にして差し上げます」

 巨大な石像が重々しく一歩を踏み出した。大地が揺れ、祭りの為に準備された飾りが音を立てて揺れる。

 ミルーニャは石像の肩から動かない。銃を手に構えてこちらに向けているのは、フィリスの有効射程に捕捉されない為だろう。このままでは、石像の一撃と銃撃によってこちらは無防備にやられてしまうだけだ。

 けれど、こちらも何の用意もしていなかったわけではない。
 事前に長大な詠唱を済ませて待機していたハルベルトが、起句のみを唱えて高位の呪文を発動させる。

解放リリース――【独角兎アルミラージ】! 【毛むくじゃらの亀ペルーダ】!! 【我が過去を燃やせ妖精ジル・バーント・テイル】!!!」

 ハルベルトの命令に従って、三種類の幻獣――仮想使い魔が顕現する。
 螺旋の角を持つ兎、ごわごわとした緑色の毛に覆われた身体と、重そうな甲羅を背負った巨大な亀。そしてハルベルトの背後で燃え立つ炎を纏った女性。

「高位の仮想使い魔を三体同時に維持ですか。相変わらず嫌味な真似してくれますね。いいでしょう。相手をしてあげますよ。私の【闇の静謐(ダーク・トランキュリティ)】でね!」

 ミルーニャは胸から紋様を引き剥がして奇怪な形状の幻獣を実体化させた。呪文喰らいマクロファージ。呪文の天敵。いかに高度で強力な仮想使い魔であっても、あの怪物の前では無力な餌でしかない。

 だが、それでも仮想使い魔たちは果敢にミルーニャに立ち向かっていく。
 ミルーニャが私に向けて放った銃弾は、私があらかじめ展開していた防御結界に跳ね返される。浮遊する魔導書が障壁を維持しているのだ。

 まず最初に突進をしたのは毛むくじゃらの亀ペルーダだった。鈍重そうな巨体は石像を遙かに上回る。しかし実体の無い仮想使い魔は音を立てず、大地を滑るようにして石像に接近、そのまま前足を高く持ち上げて石像に掴み掛かった。

「馬鹿な真似を! 盲目の守護者像ブラインド・ガーディアンの呪術抵抗力はいかなる呪力も弾き――返、す」

 嘲笑しようとしたミルーニャの言葉が途切れる。彼女の言葉は正しかったが、ならばそれ以外の手段で攻めればいいということになる。
 毛亀は独角兎のように複雑な呪文処理を得意とするわけではない。実行するのは極めて単純な命令のみ。

 足下から大地そのものを隆起させ、仮想の実体に重ね合わせるようにして成型していく。そうして瞬時に生まれたのは、ミルーニャの石像を上回る巨大質量。幻獣の形をしたもう一体の土と石の像だった。

「呪術が効かないなら、単純な質量勝負に持ち込めばいい。相手が重さと大きさで勝負してくるなら、更なる重さと大きさで対抗するだけ」

「なら、呪文喰らいマクロファージで維持を解除すればっ」

「のし掛かられてもいいのなら、どうぞ」

 ミルーニャがはっとなって状況の不利に気がつく。二足で直立する巨大な亀は、前足を石像の両腕とがっぷり組み合わせて押し合っている。互いの力が拮抗した状況だが、このまま仮想使い魔を喰ってしまえば大量の質量が上から石像とミルーニャにのし掛かってくる。土砂によって動きを止められてしまえば、捕縛される可能性がある。

 ミルーニャは素早く石像の肩から飛び降りた。翼をはためかせて落下速度を緩和させつつハルベルトに向けて射撃。間に割って入った私が維持した障壁でそれを弾く。二度の射撃に耐えられなくなった防御呪術が破壊されるが、続いて私自身が詠唱した防御呪術を展開することによって隙を無くす。

 魔導書を用いれば、防御呪術を交代で唱えて隙を無くす事ができる。
 着地の瞬間を狙って飛来した独角兎アルミラージ呪文喰らいマクロファージが迎え撃つ。素早く飛び回る仮想使い魔を捕らえようとしている間に、側面から回り込んだ炎の仮想使い魔がミルーニャ本体を襲う。

 一度に一つの呪文しか喰らうことができない。これがあの【闇の静謐ダーク・トランキュリティ】の弱点だった。そして恐らく、胸から紋様を引き剥がしていた所から見るに、あの仮想使い魔は一体しか維持できない。

 炎を纏った半透明の女性が無防備なミルーニャを襲う。銃から放った呪石弾で対抗するが、穴を空けられた炎の仮想使い魔は瞬時に再生してしまう。舌打ちした白い少女は銃を捨てて左手親指の爪を剥がした。

「左手親指、解錠アンロック! 【黎明稲妻トワイライトニング】!」

 ミルーニャの左手親指を焼き尽くしながら出現したのは、黄色く発光する球体だった。ばちばちと放電しながら残像を残して浮遊するそれは、【球電ボールライトニング】と呼ばれる呪術だった。【錬金術師の爆撃イラプション】とも呼ばれるそれは、素早く移動して炎の仮想使い魔と激突する。

 猛火と電撃が激しくぶつかり合う。
 正面からぶつかり合えば、より呪術として高度で強力な方が勝利する。
 果たして勝利したのは、勢いよく燃えさかる炎だった。消滅する球電。もはやミルーニャの身を守るものは何も無い。そして、炎の仮想使い魔はその真の力を解放した。

 その全身が視界全てを赤く染め上げていく。無制限に広がっていく炎の渦が、世界の全てを燃やし尽くさんばかりに勢いを増していく。
 だが、辺りには木々が溢れているというのに炎がそれらに燃え移る事は無い。仮想使い魔の炎であるそれは、実体の世界に影響を及ぼすことが無いのだ。

 【爆撃】の上位呪術【炎上フラッシュファイア】が焼き尽くすのは、非物質の世界である。
 物質的には一切の影響を与えないこの炎は、対象の精神を灼き、その精神世界を炎上させてしまう。心の中を炎一色に染め上げられた相手は思考を制限され、【炸撃】や【爆撃】、【炎上】などの炎を想起させる呪術しか使えなくなってしまう。元からそうした呪術を得意とする相手には全くの無意味だが、そうした呪術を使えない相手ならば事実上の完封すら可能な呪術である。

 石像の制御、仮想使い魔の維持、内的宇宙との接続ハイパーリンク、そして超再生。後半は肉体に備わった特性である可能性ある為に制限できないかもしれないが、それでも身を守るための双璧が失われればミルーニャは丸裸同然だ。
 実体の無い炎がミルーニャに迫り来る。

「くそっ、貴方はいつもいつも――ヴァージリアァァッ!!」

「ハルはもうジルじゃない。その名前は燃やして捨てた」

 仮想の炎がミルーニャの全身を包んでいく。燃え立つ業火がその肉体ではなく精神を灼いていく。彼女の霊体――アストラル体もまた実体同様に霊の肉腫によって再生するが、【炎上】はしつこくまとわりつき続ける妨害呪術だ。再生しても再生しても消えない炎――意識してしまえばもうその思考から炎のイメージが離れなくなる。

 兎と格闘する呪文喰らいの全身にラグが走り、亀と組み合う石像が押され始める。
 頭を押さえて呻くミルーニャがよろめいて膝を突きそうになる。
 私はその隙に接近してフィリスを解放しようとするが――直後、猛烈な悪寒を感じて飛び退った。悪寒というのは、呪術的な予感もあったけれど、それ以上に物理的な冷気によるものでもあった。

「これは未完成なので、なるべくなら使いたくなかったんですけどね。左手小指、解錠アンロック――【極寒奏鳴曲ソナタ・アークティカ】」

 精神が焼き尽くされる寸前、ミルーニャは体内倉庫から新たな呪具を呼び出していた。自動的に左手に装着されていくのは、月光を反射して美しく輝く氷の手袋だ。

 いつの間にか仮想の炎が全て消え去っていた。仮想使い魔は左手に掴まれて氷漬けになって制止している。

「まさか、それは」

 ハルベルトが慄然としてその呪具を凝視した。私もまた、その呪具から放たれる桁外れの呪力に気圧されていた。

「ええ、お察しの通りですよ。これこそはメクセトの神滅具が一つ、【氷血のコルセスカ】の模造品。ほぼ私が独力で再現したので、もはや神話のそれとは別物になっていますが――冬の魔女の【雪華掌】を擬似的とはいえ再現しているこれは、万象を凍結させる。呪文喰らいマクロファージで対処できない場合の切り札というわけですね」

 左手をぎりぎりと握りしめると、炎の使い魔は氷と共に砕け散った。石像が力を取り戻し、呪文喰らいの全身像が安定していく。
 そして、呪術を打ち消した代償なのか、ミルーニャの半身がじゅうじゅうと音を立てながら沸騰し、火膨れを起こしていた。高熱によって彼女の体細胞が焼き尽くされているのだ。

 氷炎術。原則として杖体系では、温めることよりも冷やすことの方が困難だとされている。ゆえに杖使いは熱量を移す術によって凍結現象を起こす。
 ある空間から熱、ないしはそれに類する呪的現象を奪い、どこか別の場所に加熱されるための空間を用意する。

 それは、超常現象の対価として物質的な生贄を要求する杖的呪術そのものであった。

「この通り、代償として私の肉体を破壊してしまいますが――まあ神滅具にはよくあることです。コストを踏み倒せる私には関係が無い。未完成ゆえに知覚加速や時間停止はできませんけど、その代わりに最速工程で対抗呪文と同じ効果を発動させることができる。【闇の静謐ダーク・トランキュリティ】と【極寒奏鳴曲ソナタ・アークティカ】の打ち消し呪術二段構え。誰も私の心を侵すことはできない」

 更にミルーニャは自ら剥いだ爪を背後に放り投げた。三本目の足がそれに触れた途端、かぎ爪の尖端が鋭く伸張し、長大な刃となる。赤、青、灰の刃から不吉な呪力が漏れ出ていた。

「【狂乱爪デリリウムクロウ】――さあて、随分好き勝手やってくれましたね。お仕置きの時間ですよ。ヴァージリア、そしてアズーリア様」

 巨大な石像が亀を蹴り飛ばして仰向けに倒し、兎がバラバラに解体されて喰われていく様を嗜虐的な瞳で見ながら、ミルーニャがこちらに歩み寄ってくる。恐らく切り札であろう氷の手袋を出した今、私のフィリスですら打ち消す自信があるのだろう。私の直感もあの呪具こそが最も危険だと告げていた。

 あの凍結による呪術の消去をかいくぐってフィリスを発動させられるだろうか?
 自問するが、かなり怪しかった。それでも、私はやらなければならない。
 石像と呪文喰らいの脅威もあるが、それは心配していない。

 呪文喰らいマクロファージはハルベルトがどうにかしてくれるし、石像の方はもう勝ちが決まっているからだ。
 毛むくじゃらの亀が稼いだ時間が勝利に繋がる。その背後で、プリエステラたちティリビナの民が『準備』を終えていた。

「今更何を――?」

 怪訝そうに呟くミルーニャの目の前で、塔――あるいは大樹が組み上がっていこうとしていた。
 最も体格の良い大人たちが土台となり、その身体の上に他の大人たちが乗る。二段目の上には三段目、上に行くにつれて年若い者が乗っていく、立体的な生体建築。脅威的な均衡と安定感は、樹木と共に生きるティリビナの民特有のものだった。地に根を張るような足腰の強靱さと、歩くように木登りや木から木への移動を行う平衡感覚。そんな彼らが得意とする、その身だけを使った集団芸術がこれだった。

 組み合わさることで大樹を摸倣する、ティリビナの民の祭りにおける最大の行事である。彼らは全体が大樹になりきる事で自然――樹木神レルプレアとその子供たちである精霊への感謝を表現するのだ。それは彼らにとっての演劇であり舞踏である。

 最後の一人、頂点となるプリエステラが子供たちに支えられてゆっくりと立ち上がった。その両足に震えは無い。足下の民たちを信じているからだ。
 石像の体高を上回る程の大樹を模したティリビナの民たちは、その儀礼の完成と同時に凄まじい量の呪力を放出し始めた。

「まさか――」

「さあ、祭りの時間よ! 私達の【大いなる接ぎ木】を目に焼き付けて帰りなさいな、お客人たち!!」

 プリエステラの叫びと共に、ティリビナの民は一つになった。
 樹皮のような全身が更に硬質で分厚い樹皮で覆われていき、それらが人が組み合わさった輪郭を包み込んでいく。巨大な大樹そのものとなったその両脇から長大な二本の枝が持ち上がり、腕のような形となる。放射状の根のように全体を支えていた大人たちが、複数の足となって巨体を運ぶ。その頂点、梢の位置で下半身全てを樹皮で包んだプリエステラが高らかに言い放つ。

「これこそは我らの秘儀。レルプレア様がしもべ、【大樹巨人エント】の力を思い知るがいい!!」

 異獣と蔑まれ、排除されても。
 血族、同胞、家族として結束し、助け合い、誰かが傷付けば一丸となって向けられた悪意に報復する。ティリビナの民は同胞を傷つける者を決して許さない。報復は種族全体で徹底的に行われる。

 彼らは向けられた敵意を絶対に忘れず、恨みをいつまでも抱え続ける。
 それは呪力すら宿す結束だった。その呪力を利用して発動するのは、ティリビナの民たちに伝わる一族の力を結集する秘術。生贄に捧げられた蛇の王の残骸が光の粒子となって消滅していく。

 集団を人体に喩えた場合、脳に等しいティリビナの巫女を守るため、彼らは大樹巨人エントに変身して敵に立ち向かうのだ。
 巨大な腕が一振りされて、石像の拳と激突した。
 轟音が夜の森を震撼させる。石と木という材質の違いなどものともしない圧倒的質量、圧倒的硬度、圧倒的呪力。

 それは人という枠を超えた戦いだった。二つの巨体が大地を踏みしめるたび、地震のような衝撃が走り、木々から鳥や虫たちが飛び立つ。小動物が慌てて逃げ出し、用意されていた祭りの飾りが踏みつぶされていく。その破壊と浪費こそが呪術的祭儀の目的だった。

 ティリビナの民たちが丹念に作り上げた木彫り細工や大掛かりな台座や櫓、豪華絢爛な花飾りの数々は、こうして消費されることによって呪力に変換される。彼ら特有の文化は摸倣子に媒介され、祭りという場を与えられたことによって空間に呪力として放出されていくのだ。豊富な意味量を巨大な拳に乗せて、破城槌のごとき一撃が石像を打ち据えた。豪快に吹っ飛び、木々を押しのけながら仰向けに倒れる石像。

「さあ、これで終わり?」

 得意げに言い放つプリエステラ。絶句するミルーニャ。
 やがて白い錬金術師は軋むような音を立てて歯を噛みしめた。

「あまり調子に乗らないで欲しいものですね、立て、盲目の守護者像ブラインド・ガーディアン!!」

 私は隙を突いて接近しようとしたが、失敗した。目の前を鋭い爪が通り過ぎる。
 ミルーニャは私を三本目の足で牽制しつつ、白い翼を羽ばたかせて高く跳躍する。右手の人差し指を口元に運んでいくと、そのまま爪を剥がした。吐き出した爪が呪術を発動。私に酸毒の奔流を浴びせかけていく。防御結界が悲鳴を上げて、私の足が止まる。私の呪術をいつでも打ち消せるように六本の節足を蠢かせて接近してくる呪文喰らいマクロファージ。背後でこちらを援護すべく呪文の詠唱を開始したハルベルト。状況が同時に進行していく。プリエステラの意思に従って振るわれた拳を身を翻して回避したミルーニャは、立ち上がった石像の肩に着地。そのまま右手の人差し指から新たな呪具を出現させる。

「左手人差し指、解錠アンロック! 【血色の戦場旗エンスレイブ・トゥ・ザ・マインド】!!」

 乾いた血のような、不吉な色の旗だった。その中央には獅子を象った紋章が方形盾と共に描かれている。その図像から発生する呪術の正体に気付いた私は、プリエステラに警戒を呼びかけた。

「気をつけてっ! それは精神支配系の呪術だっ!」

 紋章の図像に含まれた大量の暗示、ほのめかし、象徴、紋章学的な約束事――そうした諸要素が絡み合い、他者の精神に働きかける呪文を発動させる。咄嗟に心理防壁を張った私や高位の言語魔術師であるハルベルトは難を逃れたが、樹木巨人には直撃したはずだ。プリエステラは表情を歪めながらも辛うじて耐えきったようだった。しかし、直後に繰り出された石像の打撃を受けて、大きくよろめいてしまう。今までの殴り合いで、樹木巨人が力負けしたことは一度も無かったにも関わらずだ。

「くっ、なんで――」

「貴方が平気でも、他の雑魚にとってはそうではないということです」

 樹木巨人の全身から溢れんばかりだった呪力が、実際に漏出しつつあった。巨人の呪力そのものはむしろ強くなっているのだが、司令塔たる巫女の下、一つに纏まっていた力の総量が均衡を失って崩壊しかけている。全体としての調和が失われた樹木巨人は、結果として脆くなっていた。ミルーニャの言うとおり、精神干渉は巨人の肉体を構成するティリビナの民たちの精神に干渉しているようだ。

「この神滅具は大衆を扇動して死ぬまで突撃させる――要するに大規模な催眠暗示ですが、『個我』が弱い者ほどよく引っかかる。貴方たちのように、他者の力に頼る類の人種には効果覿面というわけです」

 ティリビナの民たちは暴走していた。怒り、憎しみ、敵意、悪意、恨み、そうしたあらゆる負の感情を溢れさせ、ミルーニャに我先にぶつけようとしている。全てはプリエステラを守るため。だがそうした感情の波を、ミルーニャは鼻で笑って石像で迎え撃つ。

「雑魚がどれだけ群れた所で! そんなのは個々の力が弱いと白状しているようなものです! 救いがたい程に愚かしい! 自分への確信を失った相手などに、私は負けない! そうだ、自分を信じることすらできないあんながらくたに、私が劣るはずが無いっ! 私は最後の魔女になって、正しい運命を取り戻すっ! 私がっ、私がっ、この、私がっ!!」

 鋭さを失った樹木の拳をかいくぐり、岩石の一撃が大樹の胴を打ち据える。衝撃にプリエステラが悲鳴を上げて仰け反る。後ずさりした樹木巨人に、更なる打撃。打撃。そして打撃。

「恨みと憎しみ、抑圧と鬱屈、『いつか必ず』という怨念、そして大切なものを奪われるという恐怖と嘆き、怒りと悲しみ――弱者を奮い立たせるそうした力はね、何も貴方たちの専売特許じゃないんですよ。そして同じ性質の力でぶつかり合えば、勝つのはよりその力の御し方が巧みな方です」

 相手の悪意を暴走させて利用したミルーニャは、旗を石像の肩に突き立てて告げた。よろめきながらプリエステラが言い返す。

「私達は信じてるだけ! 仲間を、同胞を、家族を!」

「何が家族ですか、笑わせてくれますね! 融合だの合体だの、そんなものは弱さのあらわれだ! 足りない者、欠けた者、持たざる者が他者に寄生しているだけに過ぎない! 傷を舐め合うような惨めさです!! そんな弱さは無駄でしかないっ」

「でも、父親は父親だって! 仇を討ちたい気持ちはわかるって、言ってくれたじゃないっ!!」

 石像の動きが止まる。その隙を狙って、樹木巨人は体勢を立て直した。プリエステラは必死になって声を張り上げる。

「ミルーニャちゃんは、私が幸せだって言ってくれたよね? みんなのおかげで、私は仇を討てたよ。あの人は決して完璧な人格者じゃなかった。それでも、あの怪物をこの手で倒したことで、胸の中にかかっていた雲が去って、良く晴れた日みたいな気持ちになったの。全て、復讐を為し遂げられたからだよ。ミルーニャちゃんはどう?」

「どう、って――」

「仇への恨み、お父さんへの恨み、そういうの全部。色んな曇った気持ち、抱えたままになってるんじゃないの?」

「だったら何だって言うんですかっ、一体何の関係がっ」

「貴方の狙いは私でもハルでもない――そこにいるアズーリアなんでしょう。違う?」

 今度こそ、ミルーニャと石像の動きが完全に停止する。
 その白い顔はさらに蒼白になっていた。赤い瞳は凍り付き、決定的な指摘をしてしまったプリエステラを呆然と見ている。

 共に巨大な人型の上。より近くなった夜空の下で、二人の少女が正面から相対する。
 花のようなプリエステラと鳥のようなミルーニャにはまるで似たところがないけれど、どうしてかその時だけ、私の瞳には二人の姿が相似形に映った。

 静寂の後、ミルーニャの顔からあらゆる感情が抜け落ちた。色のない声で告げる。

「もういい、耳障りです。消えて下さい」

 石像が拳を振り上げ、樹木巨人の身体を打ち据える。衝撃でよろめく巨体の頂点から、高く飛び上がる影があった。捨て身の奇襲。月光を背にしながら、プリエステラは袖口から蔦を伸ばして血色の旗を巻き取った。プリエステラが落下するのに引きずられて、そのまま石像の肩から引きずり下ろされていく扇動の呪具。地面に落下していくプリエステラと旗を見ながら、ミルーニャが呟く。

「無駄なことを」

 司令塔であるプリエステラを失えば樹木巨人は瓦解するしかない。脳も無しに動く生物はいないのだ。
 しかし、落下してきたプリエステラを受け止めようとして下敷きになっていた私は確かにそれを目の当たりにした。

 樹皮に覆われた拳を握りしめ、渾身の打撃を石像の胸に叩き込む樹木巨人の姿を。崩壊し、全身の至る所から内部の人と人が繋がった神経繊維を覗かせながらも、総員が必死になって与えられた役割を果たそうと最後の一撃を放つのを。

 予想外の攻撃に驚愕するミルーニャが、体勢を崩して石像の肩から転落する。樹木巨人が拳に乗せた呪力と衝撃はついに呪鉱石の巨像に亀裂を走らせ、やがてそれは致命的な決壊をもたらす。

 樹木巨人が崩れ落ち、横倒しの倒木となって気絶したティリビナの民たちを吐き出していくのと同時に、石像もまた粉々に粉砕されていった。色とりどりの呪鉱石が、光のプリズムとなって辺りに降り注ぐ。翼をはためかせながら落下するミルーニャは、愕然とその顛末を眺めた。

「だから言ったでしょ。私は、私達は信じ合ってる――少しでも共感しあえるのなら、そこから繋がることができるんだ」

 プリエステラはそう言って、ミルーニャの赤い瞳を真っ直ぐに見つめた。
 その目が揺れ動く。白い少女の表情が強張って、何かを口にしようとする。

 私の上で、花のように軽いその身体が力を失った。重傷の状態から回復してすぐに力を使いすぎたのだろう。気を失った彼女を横たえて、私は立ち上がり、ミルーニャに向き直った。
 ミルーニャは既に平静を取り戻していた。冷笑と共に、こちらを見据える。

「まさか盲目の守護者像ブラインド・ガーディアンが壊されるなんて――流石の私もびっくりですぅ。でーもー、これで残っているのは後衛寄りの呪文使い二人だけ。対抗呪文を二つ構えている私にとっては恐るるに足りません」

「なら、実際に試してみればいい!」

 私は槌矛を構えて疾走する。今の状態では打ち消されるかも知れないフィリスを迂闊には使えない。けれど、石像がいなくなった今、ミルーニャを物理的に守るものは無い。この状態なら彼女を打ち倒して捕縛し、武装を解除した後にフィリスを使う事も可能なはずだ。

「種族適性が純粋な後衛寄りの癖に近接戦闘で勝つ気なんですか? 相変わらず何でも出来るつもりなんですね、この英雄気取りっ!」

「それが必要なことなら、英雄にでも煽動者にでもなってやる」

 私は右手に槌矛、左手に拾っておいた血色の旗を握りしめ、自らその旗の図像を直視する。網膜に侵入してくる形の無い異物に、私はあえて抵抗しなかった。身体の奧を改変していくおぞましい呪力。感情が沸き立ち、気分が高揚する。

 熱に浮かされたような感覚。私は激情に身を委ねた。
 血色の戦場旗。この呪具が心身がすり切れるまで奮い立たせて戦わせる扇動の呪具だというのなら、自分に対して使えばそれは一時的な自己強化呪術にも応用できる。
 勿論、その代償はミルーニャのように踏み倒せないのだけれど。

「自分で自分を扇動するって、ただの自己暗示じゃないですかっ」

 眉をひそめる白い少女に向かって駆けた。身体が軽く、心が熱い。地を蹴る力は今までにないほど強く、風を切る鋭さは足を踏み出す度に増していく。振るった槌矛がミルーニャの翼と激突する。硬質な音。接触部分の細胞を変異させて硬化させたのだろう。がりがりと表面を削りながら槌矛を引き離し、左手で握った旗を鈍器のようにして振るう。私は両手の打撃武器を縦横無尽に振り回し、激情をそのまま叩きつけていく。

 両腕に武器を握って戦った事なんて無い。筋力や体格で劣り、持久力も不足しがちな私にとって高速で重量物を振り回すという行為は徒に疲労を増やすだけだ。それでも、感情を乗せた打撃には呪力が宿る。気勢を迸らせながら渾身の連撃を撃ち込んだ。後の事など考えない。技術とか攻撃の組み立てとかはどうでもいい。私の近接戦闘技術なんて程度が知れている。細かい事を考えるよりまずひたすらに殴り続けていればいい。

「通用しませんよ、そんなもの」

 左手の旗を弾き飛ばされて、一気に懐に潜り込まれた。不意に視界が傾く。ぐらりと揺れる身体、こちらの膝に直撃していた下段蹴り、追い打ちをかけるようにして三本目の足から生えた鋭利な爪が私の胴に突き込まれる。

 激痛。悲鳴を上げて逃れようとするが、原色の爪は更に強く押し込まれていく。濃密な呪力が溢れ出し、倒れた私の身体を侵していく。
 高位呪術【狂乱爪デリリウムクロウ】は貫いた対象に三つの凶悪な呪術を発動させる。幻覚を見せて錯乱させる呪術。呪的な毒を与えて心身を摩耗させる呪術。束縛の呪いをかけて動きを止める呪術。三つ全てが全身に浸透すれば相手は確実に行動不能になる。

 種族的な呪術抵抗の高さに救われて錯乱状態にこそならなかったが、凄まじい倦怠感とひどい頭痛、そして肉体の制御が失われつつあるのを感じた。

「はいおしまい。それで、英雄さんはこの後どうするんですか?」

 遠距離から放たれた仮想使い魔による攻撃が呪文喰らいによって打ち消されていく。ハルベルトの援護射撃は時間稼ぎにすらならない。絶体絶命の状況。ミルーニャは更に爪に呪力を注ぎ込み、私の精神を汚染して譫妄状態にしようとしていた。

「まあ所詮は名ばかりの張りぼてということですよ。内実の無い、空っぽでがらんどうな見せかけの存在――どこかのきぐるみ女みたいですね」

「どういう、こと」

 震える声で、かろうじて疑問の声を絞り出す。左手はまだ動く。けれど、まだミルーニャの左手には氷の手袋がある。どうにかして、隙を見つけないと――

「エストさんの言うとおり、私の目的はヴァージリアの抹殺だけではありません。可能ならば貴方を『こちら』に引き込むか捕獲すること。それが適わなければ消してしまえ――そういう命令が【公社】から出ているのです」

「こう、しゃ――?」

 彼女が口にしたのは公的な法人や複合企業体を意味する単語だったが、そのニュアンスはもっと特定の組織を指し示している。この文脈だと、どの【公社】を指すのだろうか――?

「アズーリア様にはこう言った方がわかりやすいでしょうか。巨大企業群メガコーポを構成するペリグランティア製薬、ご存じでしょう? 私はですね、実を言えばあそこの社員なんですよ。顧問錬金術師をやらせていただいてます。迷宮事業が軌道に乗り始めてからというもの黒字続き、破竹の勢いで成長を続けている彼らとしては、自分の所の迷宮探索部門に所属している探索者以外が成果を上げてしまうのは望ましくないんです。可能ならこちらに引き込み、不可能なら始末、というのが彼らにとっての理想なわけです」

「どうして、味方同士で足の引っ張り合いなんて」

「適度な速度で迷宮を攻略してもらわないと困る、ということです。だらだらと戦いを引き延ばして、探索者や修道騎士が消耗して上方勢力が疲弊してくれないと儲からないでしょう? 勿論新しい資源や勝利ムードを崩されても困りますから、定期的な成果も欲しい。更に言えば、そうやって華々しく英雄として祭り上げられるのは、自社に所属している探索者であって欲しい。例えば四英雄のグレンデルヒとかですね」

 ニュースや各種の広告媒体などでよく取り上げられる四英雄たち。彼ら彼女らの背後では、そんな欲望が渦巻いているのか。朝に出会ったあの華やかで圧倒的な印象を残していった三人。彼女たちも、そうした思惑からは逃れられないのだろうか。

「大神院、そして松明の騎士団上層部と大企業は事前に話し合いの場を設け、調整を繰り返しながら迷宮攻略のスケジュールを決定しています。その為に先読みの聖女を利用し、最も利益が出る道を選ぶ。まあ談合みたいなものですね。迷宮攻略とか英雄とか、所詮は茶番なわけです」

「そんな――じゃあ四英雄っていうのは」

「巨大企業群が大衆の目を誤魔化すための広告塔ですよ。企業専属のグレンデルヒも、国家公務員であるユガーシャも、非正規探索者たちの旗頭であるゼドすらも大神院と巨大企業の意向には逆らえません。彼らは許された範囲でのみ偉業を為し遂げられる――まあ約一名、そうした事情を無視して好き勝手にやってる人もいるみたいですが」

 ミルーニャは憎々しげに呟いたが、すぐに表情に余裕を取り戻す。

「貴方は四英雄に対抗する為、そして予定外の魔将討伐という不測の事態を取り繕うために生み出された即席の英雄。大神院や巨大企業も一枚岩ではありません。そしてその利害の均衡はふとした拍子に容易く崩れ去るほど脆いのです。貴方の存在を利用しようとする者がいる一方で、他方では疎ましく思っている者もいるということです」

 だから、私を捕らえようとしているのか。一度捕縛して相応の設備のある場所まで連れて行ってしまえれば、洗脳技術である順正化処理によって都合のいい手駒にしてしまえる。

 そして、今の言葉でわかったことがある。おそらくミルーニャは、ある段階までは私を懐柔できないかどうかを見定めていたのだと思う。初対面からやけに親密な態度で接してきたのは全てその為。あの出会いも偶然では無かったのだろう。星見の塔の魔女としてハルベルトに協力する一方で、もう一つの顔である巨大企業の呪術師として私を手に入れようとしていた。そして、ある段階でそれを諦め、現在の凶行を決意したのだ。

 これは私の推測だが――単眼巨人に襲われて私とハルベルトだけ崖から転落した時が分岐点だったのだろう。あの後、私達の距離感は傍目から見てもわかりやすいほどに縮まった――と思う。それを見て、ミルーニャは平和的に私を懐柔する事を止めたのだ。単眼巨人の襲撃や、骨花の存在はミルーニャの想定外だったであろうこともそれを裏付ける。

「貴方に付けられた英雄なんてラベルは、空虚な幻想に過ぎないってことですよ。意味の付随しない音素と記号。そこに呪力は宿っていない。でも安心して下さい。私なら、アズーリア様を正しく利用してあげられます。そこの口先女なんかよりもずっと」

 ミルーニャは言いながら、同時に飛来してくる仮想使い魔たちを迎え撃っていく。ハルベルトの援護はしかし二段構えの消去によって無為に終わってしまう。呪文によって間接的に発生した土塊の攻撃も私が巻き添えを食らうことを恐れてか小規模なものとなり、容易く翼で弾き返された。

「鬱陶しいですねえ。今、私はアズーリア様とお話してるんですぅ。邪魔するならえいえいってしちゃいますよー?」

 ミルーニャが爪をぐりぐりと回して私の傷を抉る。苦痛に呻く身体をばたつかせるが、爪と足で踏みつけられた身体は地面に縫い止められて動かない。遠くで、ハルベルトの絶え間ない詠唱が止んだ。

「お利口さんですね。お馬鹿さんでもありますけど。ああそれにしても綺麗な呪文構成ですねえ。原初の魔将フィリス。古の言語支配者たちの嗣子。世界を語り直すための鍵。それが今、私の手の中にあるなんて」

 ミルーニャの視線は私の左手に注がれていた。この謎の多い寄生異獣について、彼女は何かを知っているのだろうか。私の疑問に答えるかのように、ミルーニャは朗々と語り出した。

「私の家系を遡っていくと言語支配者たちの一人、覇王メクセトに行き当たるらしいんですよ。眉唾ですが、彼の作り出した神滅具の製造法が伝わっているということは全くの無関係というわけではないのでしょう。伝わっているのはそれだけじゃありません。遠い遠い神話の時代、言語魔術師たちの頂点にして王たる存在、言語支配者たちがその叡智を結集して作り上げた世界最初の神秘。それが【エル・ア・フィリス】だそうですよ。深淵のゾート、並ぶ者なき大魔術師ミアスカ、覇王メクセト、呪祖レストロオセ、そして獅子王キャカラノート――その左手には呪文の全てがある。その力さえ手に入れれば、私の目的も達成できる」

「目的――?」

「私は融血呪を凌駕した。氷血呪もあと少しで再現できる。フィリスなら黒血呪を再現できる。そしてこの私が生み出した新たな鮮血呪が完成すれば、私は四つの禁呪全てを掌握した最高の魔女になる! 全ての禁忌を統合した至高の呪術。万色を合わせた眩い光輝――白血呪が発動するんですよ」

 ミルーニャは指先を虚空に踊らせて、複雑な呪文の構成を描き出した。その式の全容は理解できなかったけれど、私にはそれが杖に関わる――生体系の呪術に見えた。

「メクセトの神滅具、命脈の呪石。宿主に擬似的な不死性を与える呪具ですが、私がフィリスを併用して改良すれば、これは私の不死を再現可能になる。そして私は、これを量産します」

 それは――悪いこと、なのだろうか。
 話が大きすぎて即座に判断できないが、それによって人が死ぬ事が無くなれば――どうなるんだろう? 途方もない混乱が起きるような気もするし、それすら些細な事に思える世界そのものの激変が起きるような気もする。
 ふと、ミルーニャが言っていた事を思い出した。

 ――ミルーニャは駆け出しですけど、気持ち的にはいっぱしの呪具製作者エンチャンターなのです。必要な人に必要な呪具を提供できればいいなあって思ってます。

 ――『呪具というのは、それを必要としている人の手に渡ってはじめて意味を持つものだ』って父が口癖みたいに言ってまして。小さい頃からそれを聞かされたからでしょうか。ミルーニャもそんなふうに――

 ――そもそも全部巨大企業が悪いんですよ! 前線では毎日人が怪我したり死んだりしてるのに自社の利益ばっかり追求して流通量絞ってるんですから。本当は幾らでも増産できるくせに、プロテクト料とかを無駄に間に挟むからどんどん高額化して必要な人の手に渡らないわけです。

 気を抜くと、意識が闇の中に持って行かれそうになる。爪から注ぎ込まれる呪力は既に私の全身を完全に麻痺させていた。もう口を開くことすらままならない。
 そんな私を優越感に満ちた目で見下ろしながら、ミルーニャは言った。

「不死という神秘の零落。星見の塔の連中が後生大事に抱え込んでいる不死資源を世界中にばらまいて、その価値を紙きれと同じになるまで貶めてやるんです――そして実現する、全生命の不死! 溢れる生命力によってあらゆる既存の価値を崩壊させ、有史以来最大最悪の災厄をこの世にもたらすのです。その後で私はこの世全てを呪う邪神、死ざる女神キュトスとして君臨してやるんですよ。世界中の人間が生の苦しみに喘ぐ様を眺めながらね」

 露悪的な口調。スケールの大きさ。幼気な外見にはどこかつり合うような気もする、荒唐無稽な野望。
 けれど、私にはそれがミルーニャの本当だとは思えなかった。

「ま、それはあくまでも最終目的です。その前段階で邪魔な方には消えていただきます。貴方の自我とかこの場にいる全員とかですね」

 私にはミルーニャの目的の善し悪しは判断できなかった。けれど、その手段は否定する。そんなことはさせない。そう言おうとして、口がもう動かないことに気付いた。

 最後の意思力を振り絞って、地に落ちていた魔導書を再起動させる。ぱらぱらとめくられる項から文字列が浮かび上がり、せめてもの抵抗を使用とするが、瞬時に呪文喰らいが魔導書そのものを捕獲し、呪文を無効化してしまう。

 ミルーニャは力を失った魔導書を手に取って、どこか愛おしげに胸にかき抱いた。
 けれど、そんな表情も一瞬の事。
 赤い視線が悪意となって私を貫いた。

「ずっと、こうしたかったんですよ」

 憎悪。爪をねじるように動かして、呪力を苦痛に変換して私の身体を蝕んでいく。悲鳴。視界が白くなる。息が出来なくなって、涙と涎が溢れ出して止まらない。

 今まで向けられたことの無い、暗い感情が強烈に放射されて、私は胸が締め付けられるような気がしていた。それは、ずっと秘め隠されてきた、彼女から私に対しての本心だった。明け透けにぶつけられる好意。それらは全て、この途方もなく巨大な憎しみを隠すための仮面だったのだ。

「ああ忌々しい、汚らわしい、吐き気がする。演技とはいえ貴方みたいな人にべたべたしなきゃならないなんて、最悪の気分でした」

 息も出来ない。
 私は、ミルーニャに憎まれていた。嫌われていた。
 そのことが、こんなにも苦しい。

「もうすっかり書き換えられてますね。当たり前か。どれくらい復元できるかな――」

「聞いてメートリアン。アズはメイファーラから事情を知って、それをあなたに渡すつもりでいた」

 ハルベルトが声を張り上げるのが聞こえた。ミルーニャは冷淡な表情で言葉を返す。

「知りませんよ。だからなんだって言うんですか」

「あなたのお父様のことは――」

「黙れ」

 かつてなく低い声でミルーニャの恫喝が響いた。刃の如き眼光が荒れ狂う殺意を宿してハルベルトを刺していた。

「下らない。下らないですよ。私がこの【死人の森の断章】にそんなに執着しているように見えましたか? だとすればそれは、命脈の呪石を完成させる為に必要だからです。これは失われた眷族種、【再生者オルクス】を世界に復活させる鍵なんです。それ以外の意味なんてない」

 一息に言い切って、それから自分の中の感情を振り切るように、強く言葉を発していく。まるで何かに急き立てられるかのように。

「そもそも私には恨むような気持ちは皆無なのです。そんなのは筋違いでしょう? ええ、私は感謝していますよ、勿論です。今は敵対していますが、利害関係とは別に、お礼を言わなくてはなりませんよね」

 ミルーニャは、少しだけ爪から注がれる呪力を弱めた。喉元から麻痺が引いていく。曖昧になりつつあった視界が鮮明になっていき、白い少女の見下ろす顔が見えた。

「遅くなってしまいましたが、仇を討ってくれてありがとうございます。あんなのでも父親ではありますし、とりあえず形だけでも。ああそうだ、あれはどんな風に死んだんでしょうか? 私、松明の騎士団に問い合わせてみたんですけど詳しい事は機密だからって追い返されちゃって。ねえ、どうせ無様にやられて、みっともなく犬死にしたんでしょう? 自分の力量も弁えずに上位魔将に挑む、あの救いようのない三流呪術師は――」

「立派だったよ」

 私がどうにか絞り出した言葉を聞いて、ミルーニャの嘲笑が止まる。
 その幼い表情が、石のように硬くこわばっていた。
 私は構わずに、あの時の事を思い出す。
 第五階層。魔将エスフェイルとの戦いを。

「重傷なのに、エスフェイルに立ち向かって時間を稼いでくれた。目を斬りつけて、一番最初に戦果を上げたのもあの人。あそこで魔導書を私に託す決断をしてくれなかったら、エスフェイルを食い止めてくれなかったら。きっと私はあそこで死んでた」

 だから、と繋げて、ミルーニャを見る。
 無表情のまま、泣き出しそうな瞳をした白い少女に。

「お礼、直接言えなかったから、代わりに言うね。貴方のお父さんのお陰で、私は魔将を倒せた。本当にありがとう――」

「違います」

 ミルーニャは、私が提示した過去を否定し、拒絶した。

「違いますよ。話を作らないで下さい。呪文使いが過去を捏造して嘘を並べ立てるのが仕事ってことはわかりますけどね。でも余りに現実感が無い虚構は時に人を不快にさせますよ。だって、そんなあり得ない話は信じられません。あの男は最低のクズです。無能だし度胸も無い。命を捨てて誰かに後を託すなんて真似、するわけないでしょう? どうせ最後の瞬間まで使いこなせもしない魔導書を浅ましく抱えこんで、惨めったらしく死んだに決まってます。ああ、もしかして私が責めると思ったんですか? 死人が落としたものを拾うのは探索者にとっては恥ずべき事ではありません。ねえ、責めたりしませんから、本当の事を――」

「全部、本当の事。とても立派な最期だった」

「やめて! あいつを肯定しないで! ちゃんと最後までクズだったって言って下さいよ! 家族に暴力を振るう父親なんてクズです。死んで正解でした。私はあの父親から解放されて自由になりました。幸せになったんです。だから、最後まで軽蔑していたいんです、わかるでしょう?!」

「それは、本当にミルーニャが望んでいることなの?」

「私の名前はメートリアンだと言っているっ!」

 爪ではなく、足が振り下ろされた。腹部に鳥の足が食い込み、私は唾液と息を吐き出した。そのまま何度も何度も足が振り下ろされる。
 その執拗な動きから、何かを連想する。

 イキューを何度も打ち据えるプリエステラ。
 舌の残骸を砕いた私。
 それは恨みだ。

 憎しみ、悲しみ、怒り、鬱屈、怨念、そうしたあらゆる負の念を身体の中に貯め込んで、どうにかして吐き出さなければどうにかなってしまいそうな苦しみ。

 失われた者への嘆き。
 そうだ。
 あの暗い夜の森で、シナモリ・アキラはカインを手にかけたことを嘆いていた。
 それはきっと、こんな黒々とした恨みの色をしていたのだろう。

「もういいですっ、貴方と話すことは何もありません! ヴァージリアを殺して、貴方を連れて帰る。それで全部終わりです」

「そう。これで全部終わり」

 ハルベルトが、ミルーニャと私が会話している間に詠唱を完了させていた。音声によるものではない。彼女の背に隠れるようにして、黒革の魔導書が浮いている。

 今まで必要性が無かったためにずっと未使用だったが、ハルベルトは初対面時からずっと魔導書を所持していた。思念によって項を手繰り、目的の呪文を構成したハルベルトが状況を打ち破る一手を打つ。

「今更何をしたって、呪文使いである貴方に勝ち目なんてっ」

「レトロウイルス」

「は?」

「【闇の静謐ダーク・トランキュリティ】は普通の【静謐】とは違って一度打ち消した呪文への免疫を獲得する。そこから思いついた対策手段。あなたの呪文喰らいマクロファージの主要構成プランは五つ。まず呪文を食べる記述。これは各種の摸倣子を信号として発する基本機能を持つ。各種の命令を出す記述、呪文を破壊する記述、抗体を生み出す記述、そして次の侵入に備えて呪文を記憶しておく記述の四つが『食事』を察知して活性化する。つまり、司令塔となる記述を書き換えて機能不全に陥らせてしまえばマクロファージは定められた役割を果たせなくなる。もたらされる結果は、免疫力の低下」

「そんな極微ミクロな制御をどうやって」

「摸倣子を逆転写して音韻学的解釈に従って書き換えた。ハルの【異界の黙示録グーテンベルクギャラクシー】にならそれが可能」

 ハルベルトの手に収まった漆黒の魔導書が妖しく呪力光を放射した。大判の本はひとりでに動いてぱらぱらと項をめくっていく。

「そして、司令塔から命令が届かなければ対抗呪文として攻撃を破壊することも止めることも記憶することもできなくなる――【独角兎アルミラージ】」

 項から飛び出した半透明の兎が勢いよく呪文喰らいに飛びかかり、一気呵成に螺旋の角でその全身を引き裂き、刺し貫き、その奇怪な全身を破壊していく。

「ちっ、それでもまだ私には【極寒奏鳴曲ソナタ・アークティカ】が――」

「呪力を奪って別の空間に排出するというその構造には致命的な欠陥がある」

「え?」

「熱量や呪力は奪えても、同じ『奪う』系統の呪術は防げないということ」

 いつの間にか、ミルーニャの周囲から呪力が消えていた。大気に満ち、大地を流れる、自然に満ちる呪力が。月光から供給される呪力すら遮断されて、私の身体から力が抜けていく。

 周囲の極めて広範囲を覆い尽くす球形の結界。ナトが作り出した【窒息】にも似た術だが、違うのはその規模と高度さ、そして内部から失わせるのが大気ではなく呪力だけであるということ。

 呪力を遮断することで、呪文だけでなくありとあらゆる呪術を無効化するこれは、紛れもなく【静謐】の呪文だ。未熟な私や杖使いであるミルーニャが使える対抗呪文を、専門の呪文使いであるハルベルトが使えないはずも無かったのだ。

 独角兎は地面に角を突き刺すと、土をその螺旋の内部に充填して引き抜いた。高速回転する質量が、弾体となって射出される。正確無比に撃ち出された螺旋の角は【静謐】の効果範囲に入ると消え去るが、内部の質量体は慣性に従って矢の勢いでミルーニャの左手を正確に撃ち抜いた。
 氷の手袋に亀裂が入り、そのまま音を立てて砕け散る。

「しまっ――」

 その瞬間、【静謐】の結界が解除された。
 私は渾身の力で左手に動けと念じた。金鎖が震え、その最後の一環が音を立てて砕け散る。

 無彩色の左手が純白と漆黒の輝きを同時に放ち、底無しの暗闇、世界の深層へと落下していく。暗闇から私はアストラル体の手を――触手を伸ばしてミルーニャの無防備なアストラル体を拘束する。

「嫌っ、なんですかこれ、気持ち悪いっ」

 こちらの意識に引き摺り込まれて、私とミルーニャの二人は常闇の中に落ちていく。
 向かう先は影の中。

 第一衛星である夜月スキリシアが照らす私達の影は、余りにも近付きすぎたせいで重なり合っていた。共有する認識と共感する意識とを同調させて、私はミルーニャを束縛し、拘束し、緊縛し――そして参照する。

「遡って、フィリス」

 過去の記憶へと没入し、語られるべき死者の記憶を語り直す。
 入り組んだ想いの集積を、今と関連付けて結びつける。

「そうか、拘束バインド使い! このっ、解除できないっ」

 アストラルの触手を振り解こうとするミルーニャの行動は無駄だ。あれらは実体無き影でしかない。その束縛を抜け出すには、個々に割り当てられた意味を捉えて正確に解体していかなければならないのだ。

 これから私は夜闇に沈み、そしてミルーニャを暴き立てる。
 それは傲慢で非情で、とてもとても卑劣な行為だ。
 けれど私はそれをしなければならない。

 メイファーラに託された記憶を想起する。彼女は、ミルーニャに呪具を渡された瞬間にその狙いに気付いた。けれど、裏切られると分かっていてあの黒槍を使い続けた。短い間でも仲間として共に戦った少女のことを信じたかったからだ。

 私は、メイファーラの想いを肯定したかった。
 メイファーラが接触感応によって知った、ミルーニャという少女の過去。
 それは【道具屋】ミルーニャの物語。
 死んだ父親――家族という神話語り。

 苦痛。祈り。非業。
 恐怖、権威、そして憐憫。
 負の記憶を語り直す。
 そして、深淵に落ちていった。



 ごめんなさい。
 いい子にします。
 だからぶたないで下さい。

「親に向かってなんだその態度はっ!」

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 許して、許して、許して、許して。
 ――――。

 お父さんは立派な人だ。
 三本足は杖の象徴。呪具製作者としての下積みを経て独立し、個人経営の呪具店で呪具を商うのが仕事。店頭よりも通信販売が基本で、システムの構築を外注せずに自分でやってしまうという、見方によってはちょっとけちな人。お母さんによると、スキルもないのに専門書を読みながらうんうん唸っていたらしい。当然お母さんも手伝わされたとか。

 白髪はもうずっと若い時からのもので、苦労の証明だと皆が褒め称える。立派な人。尊敬される人。誰もがお父さんを褒めて尊敬する。お父さんは立派な人で、それが私にとっても誇らしくて、ちょっとだけ自慢だった。

 若くして独立して家族を支えて、お父さんは凄い人なんだと、お父さんの下で働く人が言っていた。覚えてないけれど、その人の採用を決めたのは私らしい。お父さんは家に持ち帰った応募書類を並べて、まだ這って歩くことしかできなかった私に選ばせたのだ。まだ、無邪気に抱き上げられていた頃。お髭を押しつけられるのが嫌で泣き出して、高く持ち上げられるとすぐに笑い出していた、穏やかな日々。

 忙しい人だった。お父さんの仕事への専心は豊かな暮らしを与えてくれていた。何度も高級な料理店で外食をして、家でもお母さんの美味しい手料理が味わえた。そうした生活が豊かなのだと知ったのは、後になってからのことだったけれど。

 そう、豊かだった。幸福だった。
 杖使いの両親は大神院によって情報規制されている呪術メディアだけではなく、杖の技術を用いて色々な情報を仕入れていた。当然、私もそういったものに触れて育った。電波を捉えて音を流す無線電信機。地脈を『避けて』秘密裏に敷設されたケーブルが送る信号。そうやって貧しくて不幸で悲惨な世界があることを知った。綺麗で華やかなエルネトモラン、その中央に存在する迷宮で行われているのが刺激的で胸躍るような冒険活劇ではなく、難攻不落の第一階層で無惨な屍を積み重ねるだけの消耗戦でしかないのだと知ったのもその頃。無邪気に探索者への憧れを口にする回りの子供たちと隔たりを感じ始めたのも、その頃。

 それでも幸せだった。それゆえに恵まれているとより一層感じていた。
 だから、少しの不満があったとしても、そのことを表に出してはいけない。
 そんなことは、許されないのだと思った。

 冬も近いその夜、私とお母さんは露台から夜空を眺めていた。四つの月と星々が漆黒を彩っている。三階建ての自宅の露台は高い。もう冬も深まって、第二巡節も半ば以上過ぎていたその季節、外はよく冷えた。

 室内に入るための扉の鍵は閉まっていた。
 内側から閉ざされていた。
 泣き腫らした顔をお母さんに見せるのがなんだか嫌で、唇を強く噛む。

 ざらざらとした露台の床を踏むお母さんの足は角質がひび割れてぼろぼろに見えた。私とは違ってお母さんは泣かない。ただぼんやりと露台の縁にある柵を掴んで、眼下の街並みを見た。

「ね、ここから落ちちゃおうか」

 死んでしまうという意味だと、もう私にはわかっていた。人はいつか死ぬ。そのことを小さかった私は急に理解して、恐怖に襲われた。誰しもが通り過ぎるその時が早かったのか遅かったのかはわからない。最初にそれを理解した時に私はお母さんに泣きついた。怖い怖いと無く私を、お母さんは優しく抱きしめて「大丈夫、ずっと一緒だからね」と安心させてくれた。少し前のことだった。

 ずっと一緒。それは、死んでも一緒ということ?
 夜も更けて、鍵は内側から開けられた。時間にしてみるとそれはそんなに長い間ではなかったのかもしれないけれど、私には永遠に牢獄に閉じ込められたのかと思うほどの暗闇だった。お母さんは、足を拭いて何事もなかったかのように私に寝るように言った。

 お母さんはよく本を読む。小さい私には難しいものばかりだったけれど、ずらりと並んだ本棚の高いところにあるそれらが私には空の上で輝く宝石箱のようにも見えた。端末から読む形式のものだって素敵だけれど、手に重さを感じながら項をめくるのも素敵だとお母さんは言う。正直なところ私にその違いはよくわからない。けれど、お母さんの感じていることをなぞれば、共感できれば、一緒にいられるような気がして、私はそういう物理書籍の質感を好んだ。お父さんもまた、お母さんのそういう所に共感しているようだった。私たちは一つの想いで繋がっている。本の重み。紙の匂い。項をめくる手。軽く柔らかな紐の栞。美しい装丁。

 離婚。
 という文字を母の書斎、父の目には決して入らないであろう深い位置に見つけて、静かに息を飲んだ。心臓を握りつぶされるかと思ったのを覚えている。がさがさの足。お母さんは泣かなかった。飛び降りようかなんて言ったのは一度きり。

 こっそりと端末を覗く。情報的な本棚。ずらりと並ぶ法律や社会科学の本。家庭とか、暴力とか、自立とか、そういう文字列が沢山踊っていた。難しそう――そう感じるような時期は通り越していたはずなのに。小さいのにこんなに難しいご本を読めるなんて偉いねえ。それがささやかな自尊心の礎だった。なのに、私は逃げた。

 ずっと一緒。
 ずっと、幸福な日々が続けばいい。同じ思いを家族三人で抱えて、同じようにいられれば、それでいいのだと。私はそう頑なに信じ込んだ。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 ぶたないで。




「誰が喰わせてやってると思ってるんだ、ええ?!」

 お父さんです。

「朝から晩まで! ひたすら働いてんのは一体誰の為だ? ああ?!」

 私たちのためです。
 思ったことを口にしてはならないと、そろそろ理解してきた頃だった。
 お父さんはずるいと、心の中だけでずっと思っていた。

 だってそう言われたら何も言えなくなる。お父さんは食費などの生活費よりも、三階建ての立派な家を持っていることを何度も強調する。この家を建てたのはお父さんだ。努力して持ち家を手に入れた。だから、文句があれば叩き出すといつも言われた。本当に閉め出された事も何度もあった。一階の玄関から庭へ。二階や三階の露台へ。靴を履くことすら許されずに。

 答えは一つしか許さない。それは会話じゃなくて、とてもとても高い場所から下される命令だった。三階建てという高み。お金を稼いでいるという権威。
 お父さんは立派な人だ。
 立派な人だから。

 ――その言葉を否定したら、私は死ぬのだろうか。

 選択肢は与えられていない。それでも意思を示してしまったなら?
 食べ物も、住むところも取り上げられて、生きるなと言われてしまうのだろうか。

 お父さんは立派な人。
 お父さんはずるい人。
 一人で生きていくなんてそんなの無理だ。なら、どうしてお父さんは私を生んだりしたんだろう。
 違うんだと気付く。生んだのはお母さん。でも、生ませたのはお父さん?

 どうしてなんだろう。
 その問いだけがぐるぐると幼い私の胸を回っていた。
 愚かな私は、軽率に口を滑らせた。

 試してみたのだ。私は本当に、死ぬのだろうか。食べ物も家も無く、貧しい子供になってあても無く彷徨う生活に陥る――そんな、知識でしか知らない『不幸』に。
 わたしは、そうなってしまうのか。

 そうはならなかった。そんな心配は全くの不要だったのだ。お父さんは私を家から追い出したり食事を与えないなんてことはしなかった。私の育児を放棄するような、世間で言われるような悪い親などではなかった。私は不幸になどならず、裕福に、立派な家と豪勢な食事を与えられた幸福のままだった。私は恵まれていた。

 ただちょっとだけ、
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ぶたないで。ぶたないで。許して下さい。すみませんでした。私が悪かったです。ごめんなさい。お願いします。ごめんなさい。ぶたないで。痛い。痛いよ。お母さん。助け――。



 第五位の守護天使ペレケテンヌルは才無き者には非情であり、才有る者にもまた非情だと言われている。何も願わず何も求めないこと。それこそがその眷族種に求められる最大の美徳であり、かの守護天使が寛容を示してくれる唯一の素養である。

 その点では、第九位の守護天使セルラテリスにも近しいのかもしれない。天使に何も祈らないこと。何も期待しないこと。それが最大の美徳であり加護でもある。

 恵まれた資質を持つ典型的な三本足の民であるお父さんと、不可知論者であり槍神について常に中立的な立場をとろうとするお母さんは、そうした面でも気があったのだろう。私は眷族種の混血がみなそうであるように、十三歳の時に守護天使の選択を迫られた。

 私はセルラテリスが良いと思っていた。鉄願のセルラテリス。かの少女神はこう唱える。

「力は虚ろ、強さなど虚しい。敵のいないこの世界はただただ空虚。虚無に満ちたこの荒野で、我らに遺された道は祈らぬという祈りのみ」

 加護を求めず、ただありのまま生きる。それは酷薄でありながらも、どこか優しい世界の捉え方だと私には感じられた。それに、やっぱり私はお母さんと同じ守護天使が良かった。

 そのはずだった。
 どうして私は、祈りなんて捧げてしまったのだろう。
 一人で、独りで、この世にひとりきりで何もかもに立ち向かおうとさえしていれば。

 杖使いかくあらんと、強く足の下を踏みしめて己の居場所を定めてさえいれば。
 あんなことには。
 こんなことにはならなかったはずなのに。

「お願いです、どうか私に、理不尽な困難を乗り越えられる強さを下さい」

「では、苦痛を快楽だと感じるようにしてやろう」

 その声は。私にしか聞こえないものだったという。
 空から三角錐が降ってきた。そう思った次の瞬間、もう『幼い』から抜け出そうとしていた私の身体は見知らぬ部屋に横たわっていた。少しだけ高くなった寝台。固定された身体。ああ、思い出すのも恐ろしい。

 無数の機械腕。異形のマニピュレータが蠢いて、複雑な形状の機器が理解を絶した数字を示す。光る刃。細く鋭く回転する螺旋状の穿孔錐。甲高くて不安をかき立てる音。注射針が刺さって身体の感覚が麻痺していく。それでも意識は途切れない。無数の腕が素早くそれでいて正確に私の身体を引き裂いていく。切開して切除して付与して薬品を注射してよくわからない何かと交換して、私は私でない何かに変質していく。円形の刃。回転。頭の、頭の上に。意識があることは恐怖でしかなかった。眠っている間に終わってくれていたらどんなに楽か。それでも知識はあった。これはペレケテンヌルの試練なのだ。このまま耐えることができなければ自分は終わる。祝福に失敗した者の末路は――。

 頭が開き、杖使いにとっての最後の神秘がさらけ出された。守護天使ペレケテンヌルにとってその神秘は掌で弄ぶような単純な真理でしかない。私は弄ばれる。玩弄され、解体され、細かく刻まれて弄くり回されて何かに変質させられてしまう。

 意識がばらばらになって、気がついた時には病院の寝台の上だった。
 お母さんそっくりだった髪と瞳の色が白と赤に変わっている事を知って、私は静かに泣いた。染め直し、瞳に色の付いたレンズを入れ、紫外線を遮る呪文を身体に刻み込んでも、喪失感は消えなかった。


 異常に最初に気がついたのはお父さんだった。
 そんなにお父さんと一緒の髪の色は嫌か。いつまでもめそめそ泣いて。そんな言葉が途切れて、私が条件反射のように上げる声の色合いが奇妙なことに気付いてしまったのだ。それは私にとっても理解不能な感覚だった。それが何なのか、私はまだ知らなかった。その日から、お父さんは私に対していつものように振る舞うことは無くなった。

 代わりに、お母さんに対するそれが激しさを増した。
 私の居場所は無くなっていった。本来の色彩を隠しても、いつまで経っても変化しない私の容姿は成長していく同年代の友人たちには異様に思えたのだろう。お父さんから、私が祝福者であることを隠すように言いつけられていた。それは恥ずかしいことなのだからと。どこかの公的な機関が私を迎えに来たことが何回かあったけれど、お父さんはそれを追い返した。私の娘が異常だとでも仰りたいのですか。不愉快です。お引き取り下さい。私はずっと、周囲と壁を感じながら生活した。

 それに、私は自分の言動が鼻持ちならないと思われていることをなんとなく察していた。自分の性格は多分悪いのだろう。不思議と、直すべきだとは思えなかった。今の自分の性格を変えたら、何かが折れてしまう気がした。必然的に、私の周囲からは誰もいなくなっていた。お母さんも、また。

 私は少女の姿のまま歳を重ねた。成長をしているという実感はまるでわかなかった。ただ時間が経過していくだけ。なにもかも、あの時のままで留められている。密かに、自分の異常を確認し続けた。

 爪を剥がすと気持ちがいい――それが気持ちがいいことなのだと、当たり前の様に繰り返して習慣のようになったある時、突然理解できた。きっかけがなんだったのかは思い出せない。ただそれが、とてもはしたないことなのだとわかってしまって、けれどその羞恥にすら身体が熱くなっていて、私はただ自分の身体のおぞましさに震えた。お父さんにばれたらどうしよう。その恐怖だけが頭にあった。けれど、その行為は止められず、それどころかエスカレートしていった。

 流血を伴う自慰――余りにも浅ましい、私の倒錯した欲求。お父さんは私を恥ずかしい物のように扱った。あれはこういうことだったんだ。私は恥ずかしい生き物だ。惨めさに、ひとりきりで泣いた。爪を噛む幼い頃からの癖は、それを少しずつ剥がす癖に変化していた。肉体は成長せず変化せず、しかしそれを壊していく行為は少しずつ激しさを増していった。

 私はそうして変わらない姿のまま大学へ進学し、お母さんは密かに格闘技を習い始め、お父さんのお店の経営が上手く行かなくなり、人脈を活かして大企業で働くようになった。乾いていく家に、新しい職場で知り合った同僚たちがやってくる。それはお父さんなりの崩壊への抵抗だったのだと、今になって思う。

 その女の人とお母さんはとても気があった。お父さんの同僚。不思議と回りと調和できる人で、色々なものをこじらせて既にまともに人と話せなくなっていた私ともすぐに打ち解けるような人。私もお母さんも好感を抱いた。私達は頭が悪かったのだ。

 そうだろうか。頭がどうかしていたのはお父さん――父ではなかったか。
 丁度、私が守護天使を選んだのと同じくらいの歳ごろの少女。実際にはそれより二つ下だった。十一歳。七歳も年下だと言われた。

 父とその女は一人の少女を連れてきた。私よりずっと年下なのに私よりも背がすらりとしていて、意思がしっかりとしてそうな顔立ち。どこか気品のある雰囲気。

「リーナ、挨拶なさい」

「えっと、はじめまして、リーナ・ゾラ・クロウサーです。お姉ちゃんの妹です。来年になったら大神院で正式に空の民を選ぶつもりですけど、半分はお姉ちゃんと一緒の――」

 皆まで言わせず、上段蹴りをその顔に叩き込んだ。お母さん――母の通信教材を盗み見て学んだミアスカ流脚撃術。ペレケテンヌルの加護なんかより、本当はセルラテリスの武技が欲しかった。未練でしかない。

 最悪の出会い。それでも姉と呼ばれる事は耐え難かった。父はもう暴力は振るわない。それでも怒声に身体は自動的に反応してしまう。萎縮して、恐怖して、縮こまって泣き喚く。ごめんなさい、ごめんなさい、ぶたないで。

 七歳年下。つまり、私が七つの時には、もう。
 終わっていたのだ。耐える意味なんて無かった。一緒だったと思っていたはずのものは幻だった。維持なんてできてない。そのままでいたいなんて嘘。

 母の心は折れた。そして、私の心も。
 家には暖かい家庭があった。父と母と子、三人家族の団欒。
 部屋に閉じこもって、ずっと目と耳を塞いで寝台の中で蹲る。

 母は心療内科への通院を繰り返しながら、新しい家族を受け入れていた。空の民――すなわち雲上人たる貴族の二人の傍らで粛々と家事をこなす母の姿は、使用人かなにかに見えた。沢山の物語でそういう光景に出会った。使用人、側室、妾腹の子。私は家族の外側だった。本当の家族の。父は籍をクロウサー家に入れて、姓を改めた。私と母はアルタネイフのままだった。強い権力が、私達を過去に遡って不義の存在に仕立て上げた。小さくなって生きた。先に生まれた不倫の子。

 一人暮らしを始めることに誰も反対をしなかった。それは誰にとっても望ましいことだったからだ。母は現実を拒絶するかのように眠りがちになり、そのまま目覚めなくなった。私はひとりきりで大学とアパートを行き来する。お金には不自由しなかった。私は豊かで恵まれておりそして幸福だった。

 大学には行かなくなっていた。講義の回数を数えて、五回まで休んで大丈夫だと確認して、六回目だから行かなきゃと寝台の上で寝返りをうつと日が暮れていた。杖学部錬金術アルケミー学科生物専攻生命情報バイオインフォマティクスコース第一課程。実験もゼミもどうでもよくなった。それでも卒論らしきものはどうにかでっち上げて提出したが、当然のように受理されなかった。当たり前だ。

「内容と努力は認めますがね、卒論演習というのは論文をゼミで他人の目に晒し、きちんと精査され、鍛え上げられていくことが重要なのですよ。その過程、思索と研究の在り方を学んでいく為にあるのです。昨今の学生には提出さえすればいいと考えている人も多いですが、卒業論文で大切なのは結果よりも過程だと私は思いますよ。大学で学んだ事は社会で活用できないかもしれない。けれど獲得した思考の枠組みは人生を規定するのです。あなたが杖使いであればなおさらね。そこを疎かにはできないのですよ」

 担当教官は白い髭に手をやりながらそう言った。知性豊かで穏やかな人。私が大学で話せるのは教務課や学食や購買を除けばカウンセラーの先生とこの人だけだ。

「それに、きちんとゼミに出席している他の学生の手前、一人だけを特別扱いするわけにもいきませんからね。残念ながら、単位は差し上げられません」

 ごもっともです。私が浅薄でした。
 甘えがあったのだ。私は子供に過ぎた。
 深く傷付いて家に帰った。

 それから買い物の時だけ外に出るようになった。心療内科や大学のカウンセリングもずっと行っていない。何もかもがどうでも良くなって、あるとき第六区の外れから飛び降りた。世界槍の周囲を枝のように伸びる多層区画は余りにも高い。当然転落防止用の対策が物理的にも呪術的にも張り巡らされている。だが、その抜け穴を私はたまたま発見していた。

 呪石弾を大量に抱えて、そのまま爆発。無数の肉片になって、ただの物でしかない私は落ちていく。空中で肉腫を蠢かせ、一つになっていく私。
 ああ、もっと早くこうしていればよかったのだろうか。

 落ちて落ちて、そのまま闇の中に放り出されてしまえば。
 幸せな家族のままで。
 ずっと一緒だったのだろうか。

 知っている。落ちても意味は無い。ただ壊れて戻る。それだけ。
 何もかも、手遅れなんだ。
 不意に、落下の速度がゆるやかになり、やがて制止する。
 私は、誰かの手の中に包まれていた。

 落下地点で大量のノートを撒き散らしながら重力を制御する、三角帽子の女の子。私の小柄な身体は、地上から僅かに浮いている彼女の両腕の中に収まった。
 相手の正体に気付いて、私は頭の中がかっと熱くなる。

「離して下さい」

「あのね、お姉ちゃん」

「その呼び方はやめて下さい」

「うん、ごめん。えっとさ、知らなかったんだけど――今のって、何?」

 仕方なしに、私はリーナ・ゾラ・クロウサーに自分が祝福者であることを明かした。ペレケテンヌルの祝福――呪いを受けた半不死者。その忌まわしい、恥ずべき性質を。

「半不死? それにしては、なんか今のは」

 リーナは眉根を寄せてしばらく考え込んでいたが、ややあっておずおずとこんなことを提案してきた。それは思いもよらないものだった。

「あのさ――私、今度留学することになってるんだ」

「そうですか」

「良かったら、一緒に来ない?」

「え?」

 どうしてその誘いに応じたのか、自分でもよくわからない。
 でも、『外側』にならこのどうしようもない行き場の無さをどうにかする方法があるのではないかと思えて、私はリーナの言葉に頷きを返したのだった。

 結論から言えば、私とリーナは最初は別々の場所に行くことになった。
 私は西に。リーナは東に。
 星見の塔。峻厳にして幽玄なる妖精アールヴ山脈の向こう、幻想が息づいている森の奥深くにある、魔女の館。

 事前の適性。資質の検査。心理的傾向。そうした結果から、私は西方の星見の塔に、リーナは東方の黒百合宮に向かわされる事になったのだ。
 そうして、私の運命はそこからようやく動き出した。

 出会い――師であるベル・ペリグランティアお姉様。一回りも違うのに自分の遙か先を行く天才ヴァージリア。

 目的――それは夢であり渇望でもあった。己の本当の渇望を知り、絶望し、希望を得た。そして知った。自分が何をすべき『魔女』であるのかを。

 選抜――選び出された大勢の候補者たち。学び、競い、予備選考を繰り返す。
 更なる環境の激変。黒百合宮へ。過去最大の予備選考。そこで出会った、七人の子供たち。子供と言うには最年長の自分はすこし歳を重ねすぎていたけれど、見た目だけなら私はどこまでも子供だった。もしかしたら、心も。

 それが今から四年前のことだ。
 黒百合の子供たち。
 永遠のような、激しく幸福なひととき。
 そして、全ての可能性が打ち砕かれる、ささやかな猶予の時間。

 私は最後の選抜に挑み、そして無様に敗れた。
 地を這い、焼けただれた身体を蠢かせ、全身を覆い尽くす激痛とそれが生み出す快楽に溺れて、緩やかに闇の中に沈んでいく。
 暗転。





 闇の中を、嗚咽する声が響いた。
 私、アズーリア・ヘレゼクシュはミルーニャの過去を追体験しながらその語りを続けていく。メイファーラが黒槍から読み取ったミルーニャの過去。その情報から私は再構成した。内面を忖度した一人称。想いを想像した騙り。物語を捏造して突きつける。

「やめて、やめて下さい――見ないで、それ以上私を暴かないでっ。お願いだから、もうやめてよぅ」

 ぽろぽろと、赤い瞳から雫がこぼれ落ちていく。
 無防備な裸の手足を闇色の触手に拘束され、貼り付けにされた白い少女は涙を流して懇願し続ける。私は黒衣から伸ばした無数の触手をきつく締め上げて、まだ足りないとばかりに過去への参照を繰り返す。ミルーニャという現在とその過去を関連付けて語る。バインドする。

 肉体への攻撃が意味を為さないミルーニャに対して有効な攻撃は一つだけ。
 その精神を傷つけること。
 その心を暴き立て、徹底的に打ちのめすこと。
 ばらばらに解体して変質させる。

 切り分けて分解して零落させて貶める。それがあらゆる呪術の反対呪文【静謐】の、その名とは裏腹に雄弁な悪意の解釈。本来、ただあるがままの過去という事象。それを一人称という一面的な個人の世界観で歪曲させる、語りによる邪視の再現。呪文使いは物語るという行為によって邪視者の事象改変と同等の効果を引き起こす。

 けれど、私がするべきことはエスフェイルの時のような相手の否定ではない。
 その次の段階。破壊の後には再生がある。事象の再構成。再解釈。
 ミルーニャは宣名によってまことの名を明かした。魔女としての名、メートリアンという名前を。私が彼女を打倒するのなら、彼女が己の本質と定めたこの名前を解体する必要がある。

 けれど私はそれはしない。私が掌握し、束縛するのはミルーニャという名前。ミルーニャ・アルタネイフ。たとえ僅かな時間でも仲間だった、あの毒舌で優しい年上の少女。その言葉と優しさを、私は信じているから。

 必要な言葉を口にすることを、もう私は惜しんだりしない。躊躇ったりしない。恐れたりはしない。私には言葉がある。私はもう喋ることができる。闇色に輝いて失われた声を張り上げる、心の装具が。

「言理の妖精語りて曰く」

 発動の起句と共に、超常の神秘が舞い降りた。色のない光が暗闇を照らしていく。
 それは死人の森の断章に記録された、一人の探索者の遺言だった。
 影の世界、その外側で魔導書がひとりでに開く。そして音声が流れ出していく。

「――後の事は君に任せた。そして、できたらでいい。生き延びて地上にいる私の娘と出会うことがあったら伝えて欲しい」

 すまなかった、許して欲しい、と。
 ミルーニャは涙に溢れた目をかっと見開いて、痛みに耐えるようだった表情を怒りで一杯にした。それは決壊した堤防から溢れ出す怨恨の奔流だった。

「ふざけるな、ふざけるなっ、ふざけるなあっ!! 何ですかそれっ、私はそんな答えは求めてないっ。帰ってきたら勝手に落ちぶれてて、勝手に見捨てられて、その挙げ句身勝手に縋り付いてきて、勝手に死んで、その上最後の言葉がそれですかっ! 私が、私がこんなになったのは、元はと言えばっ」

 それ以上を口にすることは、彼女の矜持が許せなかったのか。ミルーニャは唇を強く噛んで言葉を抑え付けた。それでも溢れる激情が血となって顎を伝う。

 ペレケテンヌルの祝福者にも関わらず、彼女が信じるのはセルラテリスだ。己のみを信じる求道者めいた精神。運命を誰かのせいにするということが、メートリアンとなったミルーニャにはできないでいた。それは彼女にとって抵抗し、切り開くものだから。得体の知れない何かに縋ってもどうにもならない。それどころかより最悪な結果を生むだけだと身をもって知ってしまったから。

「『もし可能であれば、この魔導書を形見として娘に渡して欲しい』――そう彼は言っていた。肝心の娘の名前を、私は聞きそびれてしまっていたけれど」

 ――嘘だ。そんなこと、あの男は言っていなかった。
 私が聞いた言葉はこうだ。

『呪具というのは、それを必要としている人の手に渡ってはじめて意味を持つものだ。この魔導書は、私よりも貴方に使われたがっている』

 ミルーニャの父親が同じような言葉を口にしたと聞いて、もしやと思った。珍しい考え方というわけではない。たまたま同じ事を言っていただけかも知れない。けれど、理屈ではなく直感で、私はそうだと確信していた。
 第五階層の戦い。魔将エスフェイルと私達よりも先に対決し、敗れ去った三人の探索者たち。その中にいた杖使い。杖と弩、魔導書という呪具構成。第六階梯以上の高位杖使い。

「ひどい人だったのかもしれない。憎まれて、恨まれて当然の人だったのかもしれない。それでも、それだけが全てというわけでもなかった――」

「だから何だって言うんですかっ! それで、私のこの今が、あの過去が、今も眠り続けている母が、変わるとでも言うんですか? いいところもあるから許せって? 冗談はやめて下さいよ、私は過去をいちいち振り返ったりはしないんだ! 私はただ今を肯定したいだけ、前を向いて進みたいだけです! だから私は不死であることを肯定するんだ、私は私自身を肯定することでしか前に進めないんですっ!」

「ミルーニャが世界中を不死にしたいのは、それだけが理由なの?」

「ええそうですよ。私は、私にはもう自分しかないんですからっ」

 そう言って、自嘲するように――そして諦めるようにして続けた。

「もう気付いているんでしょう? 私の不死性の秘密に。祝福者というだけでは説明が付かない、この超常の再生能力の由来――」

 そう、私は理解している。彼女には二つの血が混じっている。第九位の霊長類である母親と、第五位の三本足の民である父親の。どちらの性質が強く発現するのかは様々な要因に左右される。遺伝、環境、そして守護天使の選択――。

 恐らく、幼少期の彼女には三本足は無かった。特定の何かに執着するようなことは無かったため、母親の性質が強く遺伝したのだと誰もが思っただろう。そしてそれは正しかった。

 けれども、守護天使がペレケテンヌルになってしまったことにより、彼女には三本足が生まれてしまう。その時、その環境下で執着していたもの。そうせざるを得なかったもの。境遇がそれを決定付けた。

「私の三本足は、『私』です。あはは、『家族』とか『関係』とか『幸福』とかだったらまだ救いがあって綺麗な話だったかもしれないですけどね。けど違った。結局私が大切に思っていたのは、そのままであって欲しいと願ったのは、誰かの為とかそういう立派なものじゃなかった。私は私だけしか大事じゃなかった! それを、あの天使は突きつけて証明してくれたんですよ、この身体を弄くり回してね! 天罰って、こういうことなんでしょうか。ねえ、アズーリア様? 利己的で保身しか考えていなかったから、だからこんなことになったのかな――?」

 肉体の部位やごく身近な他者が三本足になることは良くあるという。
 けれど自己そのもの――それも強固に自分の総体に執着し、更に祝福者であるという例はとても稀有なものだった。そして、三本足の民は誰もがその執着によって三本目の足に呪力を宿す。

 祝福者の強烈な呪力と、自分自身への強迫観念オブセッション。かくあらねばならないという自己規定。それはこのようにも言い換えられる。
 それはどうしようもない悪意の解釈だ。

「私は自己愛の怪物なんです。自分が好き。自分が大切。自分さえよければそれでいい。他人への関心は自分を保つ為の手段でしかない。私の行動に何か優しさや利他的なものを感じたのなら、それは全て私が私を保つ為です。私は他者への共感が全く出来ない人でなしなんですよ。それをこの身体が証明している」

 ミルーニャは赤い虹彩を暗い絶望に染めて震える声を吐き出し続けた。それが、その絶望が彼女を突き動かすものなのだと私は理解した。

「それが貴方の不死の呪いなんだね、ミルーニャ・アルタネイフ。けど――それだけじゃないって、私はそう信じてる」

 見据えるのは不死の呪いじゃない。
 それを願った、最初の祈り。
 アキラに対してそうしたように、ミルーニャの心を暴き立てて異なる視野で塗りつぶす。それは呪いの上書き。それは過去の再解釈。

 人の心を規定する呪術的思考――神話という枷を揺るがし、否定し、新たな物語で書き換える特権者の傲慢だ。
 ラーゼフは、それをこう形容していた。
 神話揺動者ミュトスフリッカーと。

「その不死を成り立たせている要因はもう一つある! 三本足の民は環境の変化で執着の対象を変えていく。道具の破損、ペットの死。そして新たな家族の誕生。娘が出来た父親が一番に執着するのは、一体何だと思う?!」

 あるいは、その執着は悪しきものだったかもしれない。
 三本足――すなわち自分の一部だと捉えて思い通りにならないことに苛立ったり。
 『他者』ではなく『もの』として扱うからその内側の悲鳴が届かなかったり。
 激務や家族とのすれ違い。そうした積み重ねが、彼を陰惨な行為に走らせた。

 だとしても、その行為は邪悪だ。褒められた人物ではない。ミルーニャの恨みは正しい。
 それでも、怨恨や憎悪とは切り離された所で『善きこと』は存在する。

 対立する宗教、思想、民族が助け合うこともあり得る。同胞同士での殺し合いもまた同様に。極悪人の殺人鬼が命がけで人を救うかも知れない。誰からも賞賛される聖人が虐殺を行うかもしれない。その人格とは関係無く救いはもたらされる。

 ミルーニャの父親がどんな人物であれ、彼は私の命を救ってくれた。その事実は揺るがないのだ。
 ミルーニャはふるふると首を振って、子供のように嫌がった。

「嘘です、嘘、そんなの嘘っ」

「自己愛だけじゃない。お父さんの思いが、その不死の根源なんだ」

「だから何だって言うんですか、そんなのっ」

「ミルーニャは一人じゃないっ」

 左手が輝く。闇色に、更に色濃く影に沈んでいく。
 ミルーニャは捕らわれて私と話しながらも打開策を練っていた。密かに蓄積させた呪力で翼から大量の羽を射出し、私を遠ざける。翼が変形した刃で拘束ではなく自分の肉体を切り裂いて脱出する。闇の中で純白の少女が羽ばたいた。

「私は一人ですっ! 誰も頼らない、誰もいらない!」

 白い羽の弾丸を、私は闇と同化して回避していく。広大無辺な影の世界、その中で二つのアストラル体が激突する。

 弾き飛ばされたのは白い少女。この世界では、杖使いの彼女は呪文使いの私に及ばない。ましてや今は夜でここは影だ。
 ミルーニャは衝撃に呻きながらも体勢を立て直して再び向かってくる。きっとこちらを睨み付けた。私も真正面から向かい合う。

「全ての人をあなたと同じにしなくても、違うままでも、ちゃんとわかりあえる。私はそう思うから」

「下らない、貴方は結局それだ! 要するに私を無力化したいだけでしょう?」

 交錯する。三本足のような尻尾が鋭利な爪を閃かせ、私の触手を切り裂いていく。だが即座に再生、その数を増してミルーニャに襲いかかる。影の如き感応力。触手の数は無尽蔵。参照先はエスフェイル。あの影の棘を雨のように降り注がせる絶技を再現する。ほとんど同じ種族である私には、それが可能なのだ。

「そうだよ! ミルーニャとどちらかが死ぬまで戦うのなんて嫌だからそうしてるの! それにミルーニャが優しいのを私は知ってる! 嫌いなはずのハルを気遣っていたことも、迷宮で人が傷つく事を悲しいって思ってたことも! だから、もう誰も傷付いて死ぬ事がないように、全ての人を不死にしようとしてるんだ!」

「違う、違います、勝手に私を代弁するなっ! 貴方は何様ですかっ、偽物の英雄のくせにっ! 私はいつだって自分の為だけに生きてる! そういう生き物で、そういう存在だって、もう決まってるんです! そうやって私は自分の運命を切り開く!」

 両翼が白い弾丸を撃ち放つ。それはさながら土砂降りの雨のよう。
 黒衣が黒い触手を解き放つ。それはさながら繁茂する樹木のよう。
 白と黒が激突して、影の世界が悲鳴を上げた。

「自分は自分の為にしか生きられない、自己愛の怪物だって――? その運命を受け入れるの?! 性格の悪い天使なんかに与えられた、下らない運命に屈していいの?! 違うでしょう、貴方はそんなに弱くないはずだ! 運命に抵抗してみせるんでしょう! メートリアン!!」

 私はメートリアンという名前を、そこでようやく口にした。私はその名前を否定しない。ミルーニャ・アルタネイフという名前も否定しない。それは多分、両方とも彼女だと思うから。

 メートリアンは幼い顔をくしゃりと歪ませて、激怒と共に突撃した。その肉体が異形のものに変貌していく。膨張し、肉腫を蠢かせ、無数の足と翼、嘴を身体の至る所から生やして暴虐の化身となる。全て私を排除するために。

 衝撃。そして破壊。
 斬撃、打撃、刺突。引き裂き、抉り出し、啄んで喰らう。
 黒衣が引き裂かれて、影の中を布の残骸が舞った。

 しかしメートリアンは愕然と目を見開いた。手応えが無いことに気付いたのだろう。何かの直感に導かれるようにして、頭上に視線を巡らせる。
 影の世界に浮かぶ月はひとつだけだ。現実世界の足下に広がる影。その出口のように天上で輝く、第一衛星。その名は夜月スキリシア

 空に輝く月は、この虚無の世界に最後に残った天蓋なのか。それともただ一つだけの出入り口なのか。
 皓々と輝く満月は、この世界ゼオーティアと重なり合うもう一つの世界の存在を誰の目にもはっきりと知らしめている。

 月光を背に、黒衣を脱ぎ捨てた私は飛翔する。
 『翼』を広げて。

「正体を見せましたね、【スキリシア=エフェクの夜の民】!! 世界内部の異世界人――異形の諸部族グロソラリアッ!!」

 世界は一つじゃない。
 この世界ゼオーティアと平行して存在する様々な同一レベル、同一レイヤーの平行世界に、下位の世界。そして上位にも世界は存在する。

 当然のことながら、外部に世界が存在するのなら内部にも世界は存在する。
 世界内部の異世界。それは長大な構造体の内部に無数の世界を内包する【世界槍】がそうであるように。また邪視者たちがその奥義【浄界】によって独自の世界を具現化するように。この世界でありながら異世界でもある、重なり合う異界。それはこの世界の理に従いながらもずれた摂理を有する、近くに寄り添い続ける異境である。

 夜月スキリシアはそうした内世界のひとつで、私たち夜の民は二つの世界を行き来する異世界人にして現世界人。余所から来た先住民だ。
 世界の外側にある異世界からの来訪者達を外世界人と呼ぶなら、さしずめ私達は『内世界人』とでも言ったところか。この世界の住人でありながら、僅かにずれた世界観を有するものたち。

 様々な歴史や政治的な思惑、宗教的戒律や慣習に従って――そして神秘や呪術の常として隠匿することを重んじる私達はその姿を黒衣に包んでいる。私が黒衣の内側を認識妨害呪術で窺わせないのも、修道騎士として戦う時に全身甲冑で姿を隠すのはこのためだ。

 その性質を確定させず、隠し続けることで呪力を増大させる。隠されたものオカルト――それゆえの呪術生命体。影の世界に生きる影の生命。その物理的な実体は、本体であるアストラル体の影のようなものだ。私にとって物質的な肉体は影のように輪郭が曖昧で、それゆえに変幻自在である。

 メートリアンの目にさらけ出したその姿を、より自由に、影の世界を飛翔するのに適したものに変えていく。霊長類の姿も私。けれど、この私だって私には違いない。

 私の姿は一つだけじゃない。誰かから見られる姿。私自身が確信する自分。両方とも私だ。それはきっと、メートリアンだって、ミルーニャだって同じ。

 羽ばたく。
 青い羽根が影の空を舞い、私はただ一つの月光を背に夜を駆けた。
 追撃する白い翼。異形のシルエットを横目に、私は青々とした翼を力強く闇に叩きつける。呪力を纏わせて高速で飛翔。その軌跡はこの夜には存在しないはずの蒼穹の青だった。それが青だということを、私はフィリスの力を得てはじめて知った。

 世界の色彩が夜に存在するものばかりではないのだと、私は生まれ変わってようやく理解できた。世界は一つじゃない。ただ一つの視点では、こぼれ落ちてしまうものだってあるのだと。

「堕ちろぉぉぉぉっ!!」

 異形の烏が絶叫する。
 白い弾丸を回避し、反転して正面から突撃。無数の爪と嘴が襲いかかる。
 硬質な音が響く。激突したのは、私の頭部から長大に伸びた角だ。

 複雑に枝分かれした巨大な角。前足の位置には青々とした巨大な翼。その全身もまた真昼の空のように青い。今の私の姿は、まるでこの夜の世界に無いものを補完するかのようだった。

 かつてこの世界には四つの氏族が共生していた。しかし吸血鬼ヴァンパイアたちは散り散りになり、人狼ウェアウルフたちは凄惨な運命を辿ったのちに地獄へ下り、幻姿霊スペクターたちは姿を隠してしまった。残された最後の氏族である私達は、その姿からこう呼ばれている。

 青い鳥ペリュトン。鹿と鳥の特徴を併せ持つ、影の世界の住人。
 頭を振って、角でメートリアンを弾き返す。
 枝角。その特徴は雄のもので、そして夜の民はみなこの特徴を有する。突然変異である妹のような存在を除けば、私達はみな男だ。

 そして同時に女でもある。
 牡鹿。男の性。暴力と殺戮をもたらすもの。雄々しき戦士の相を体現するこの姿を露わにした今、夜月の光によって影の世界に生まれた私の影はその性質を対照的なものに変えていく。

 影の世界に生じるのは、もうひとつの形有る影。呪的空間に広がる私のもう一つの本体は純粋な女のそれになっている。女の性。命を生み育むもの。未分化状態の呪的性質を分化させ、特化させ、半ば独立させて最大の成果を得る。私の影は魔女になる。

 戦士であり魔女でもある私はその後ろ肢の蹄から影の触手を伸ばした。純粋な魔女として感応力を発揮した私の拘束は、たとえそれが上位の魔将であっても決して逃がさない。白い翼と肉腫を雁字搦めに縛り上げる。

「またこんなっ! しつこいんですよっ」

 メートリアンの肉腫は触手の隙間から這いだし、肉の触手となってこちらを襲う。交錯する白と黒の触手。闇夜を切り裂いて、鞭のように槍のように弾き合う。

 私は停滞した状況を打破すべく、自らの枝角に呪力を込めた。
 枝分かれした複数の尖端が、下から順番に青い輝きを灯していく。
 戦闘の為というよりも権威を示す役割を持った牡鹿の角は、物質的強度はさほどではないが、呪的強度においては並ぶものはあれど超えるものはそう多くない。

 複雑に伸張するそれらは皮膚が変化した触角だ。
 感覚器が多く集う頭部に生えた角というのはつまり呪的な感覚器である。
 私は角で第六感を知覚する。

 アストラル界における目であり耳であり鼻であり舌であり手でもある枝角を、意思の力によってより長く複雑に伸ばしていく。それは触角というより既に触手だった。

 闇色の脚エスフェイルがそうしていたように、私もまた【夜の民】特有の能力として呪的な触手を伸ばす。その精度、確度共に並の【夜の民】の比では無い。

 普通、こうまで確かに実体化するような触手の使い手はそうはいない。村でもこれほど長く複雑にそして確かに触手を操れたのは長老くらいだった。夜になったこと、そしてエスフェイルという強大な相手を倒し、その卓越した技術の一端に触れ、触手の操り方を理解した成果だった。

 雄々しく伸び上がる頭部の触手は足下のそれらよりも遙かに高い呪力を有する。それはあたかも大樹のごとく白い肉腫を押しのけ、引き裂いていく。

「負けないっ、私はこんな所では諦めないっ! 私の過去は私だけのものだっ! 誰にも否定なんかさせない。私の痛みを奪おうとしないでっ!!」

 涙声の白い鴉の全身から爪が、そして嘴が鋭利に生える。異形の針鼠と化して触手を引き千切り、硬質な枝角を削り取って破壊する。
 私は角を瞬時に切り離した。迫り来る白い破壊を翼をはためかせて回避する。すれすれの所で回避が間に合った。

 生え替わる角は生命の流転、新生、時の経過を象徴する。私達【夜の民】は枝角が生え替わる周期が短い。それは季節が巡る一巡節ごとに起きる。以前はエスフェイルと戦う直前に起きた。

 まだ生え替わりの時期まで少しある。けれど今、それを強引に引き起こす。呪的象徴となる肉体の部位はアストラル体としての性質が強い。強く念ずれば、急速に肉体を成長させることだって不可能ではない。枝角が必要なのは、今なのだから。

 そして、新生する。
 暴力的な威圧と共に、猛然とメートリアンが迫る。私はそれを、新たな枝角、感応の触手を伸ばして迎え撃った――迎え入れた。

「え――?」

 全身を貫く激痛。意識が飛びそうなほどの衝撃に耐えながら、私は広げた両手で白い異形を抱きしめた。霊長類の姿に変身して、その大きく膨れあがった身体を強く、そして柔らかく包み込もうとした。私の身体は少女のまま成長が止まってしまったメートリアンよりも小さい。だからそれは滑稽な光景であったかも知れない。
 けれど、そうしたかった。

「私は、たぶんどうしようもなく傲慢な英雄気取りなんだと思う。加害者のくせに、善人の顔をして人に手を差し伸べようとしてる。それでも、大切な仲間を諦めたくないから」

「大切って――そんな、仲間として行動したのは今日一日で」

「関係無い。たった一日だけでも、仲間だと思えたら仲間だよ。一瞬だけの共闘だったけれど、貴方のお父さんも仲間だと私は思ってる」

 そして、きっとまだどこかで生きている彼のことも。
 沢山の人を犠牲にして生き残ってきた。
 でも、だからこそ間に合う限り、救える人は救いたい。諦めたくない。

「あのね、諦めの悪さなら、私だって負けてないんだよ。一度諦めて、手放して、失ったものを、今でもしつこく求めてる。だからメートリアン――ミルーニャだって、一方を捨ててもう片方を求めるだけじゃなくて、両方手に入れてもいいと思う」

「そんな、こと」

「貴方の優しさを信じてる。本当は仲間だって想ってくれてるって、押しつけがましくても信じるよ。ねえ、それでも私を、ハルを、みんなを傷つけたい?」

 白い少女の身体は異形のまま震えた。その至る所から除く赤い瞳が、静かに涙を流した。

「嫌――嫌です。痛いのは嫌。誰かが痛いのも、それを見て私も怖くなるのも嫌。誰かが死んだりするのも嫌です。悲しい気持ちになりたくない。誰もそうならなければいいのにって、そう思う、思うのに」

「じゃあ――」

「でもそれも結局は自分本意の自己愛なんですよ! 私は誰かに共感したり他者の心を想像したりできない最低の人間です! だって、父の苦しみとか内面とか、そういうものを考えて許すなんて事がどうしてもできないんです。私の願いを達成するためならその過程で誰が傷付いてもいい。手段が目的にすり替わっても何とも思わない。これが、この醜く膨れあがった肉の塊が私の本性なんですよ!!」

 増殖し続ける肉腫。無数の眼球から流される血の涙は、赤と白が入り交じって私の身体を濡らしていく。
 やっぱり、彼女は優しい。自分が理想的な優しさを持っていないこと。その理想と現実との隔絶に苦しんで、自分を醜いのだと規定してしまう。

 彼女を縛る呪いはどうしようもなく強固だ。
 だから私はその呪いを破壊せずに、別のものに繋げていく。議論をすり替えて認知にバイアスをかける。係留アンカリングし、異なる事象に焦点化フォーカサイズする。視点と距離を絞り、望まれてある語りを形にしていく。
 再解釈。神話を語り直し、物語を書き換える。

「貴方が自己愛だけの怪物でも構わない。貴方がどんな心を持っていても、貴方の優しさを私は好ましいと思ったの。貴方が心の中でどんなふうに感じていたかはわからない。それでも貴方の振る舞いは心とは別のものだよ。貴方のお父さんが酷い人であっても私を救ってくれたように」

 白い身体を抱きしめながら、私はミルーニャを肯定した。涙はひどく冷たくて、私は彼女の身体を温めたいと強く身体を寄せていく。戸惑い、怯えるような動きがあった。

「貴方がそう在ろうとしている意思、強気な態度、その綺麗で澄んだ瞳、私みたいに小さい身体なのにしっかりと両足で立っている姿、強くてしっかりしているところ。そういう貴方の全部が素敵だと思う。私はもっとどうしようもないから、貴方を尊敬するよ。自己愛と後悔と肥大化した英雄願望の怪物。それが私だから。それでも、私はもっと立派でありたい。こんなの口にするのも恥ずかしいけれど、英雄でありたいってそう思うの」

 押しつけられたレッテルでも、偽りの役割でしかなくても、本質が邪悪そのものであっても、その行いが英雄のそれであるならば。
 きっと、私たちのような醜悪な存在が英雄になれるとしたら、そこにしか道は無い。
 意思すること。本質に、そのさがに、その起源に抗うこと。

「貴方の本質じゃない。貴方が意思するその姿が私は好き」

 そっと、白い羽毛に顔を寄せた。囁くように、私は静かにその言葉を告げた。
 肉腫の膨張が、ゆっくりと停止していく。
 縮小していく白い異形。やがて私より少しだけ背が高い、幼いままの少女が私の両腕に抱かれていた。

「私――わたしっ」

 言葉にならずに、こちらの胸に顔を埋める。そっと左手でその白い髪を撫でた。
 原因でも結果でもなくて、私は過程こそが最も美しいとそう思う。陳腐で使い古された結論でも、力強い在り方は私の目を魅了する。

「願うこと、意思を持つ事が間違いだなんて、私は思わない」

 そして、そんな人の願いを嘲笑うものがいる。
 私はそれが許せない。
 高みから人を身勝手に裁き、その運命を弄ぶ。人の業を、限界を定めて可能性と神秘を零落させる最低最悪の外道。

 人の本質はつまらないのかもしれない。醜く欲望にまみれ、そこには悪性しかないのかもしれない。
 でも、それを断定する権利なんて、神や天使にだってありはしない。
 無くたって信じる。あり得ないなんて言わせない。

 私は呪文使い。幻想の紡ぎ手だ。杖使いが言う『科学的』で『再現性のある』ような真実なんて否定して、この身が尽き果てるまで――尽き果ててもなお嘘を吐き続けてやる。たとえ一回でも『そう見えた』のなら、私はそこから類推して現実に変えてやる。

 それが呪術というものの本質だ。
 残酷な現実を美しい神秘へと昇華させる、呪いという名の頌歌オード

「ミルーニャは優しくて素敵なひとだよ。私がそれを、現実にする」

「何を――」

「見ていて――ハル、お願い!」

 天上の孔、夜月の光を背にして、魔導書を手にしたハルベルトが舞い降りてくる。絶えず紡ぎ出される詠唱は流麗な旋律を響かせ、静謐な夜に楽想の秩序をもたらした。動的に歌い、静的に語る。それは歌だ。書き言葉だけではない。旋律という意味を付与された、文脈や構造と連関して意味を重ね合わせる音楽の呪力。私同様にアストラル体となってその存在感を増したハルベルトは、長大な詠唱を終え、最大の神秘を解放した。

「殲滅せよ、【オルゴーの滅びの呪文オルガンローデ】」

 具現化したそれは、これまでの仮想使い魔の枠を超えていた。至高の幻獣――その名は竜。九体の竜のうち、唯一架空の存在だとされる九番目。威力竜オルゴーを摸倣して作り上げられた人造竜。その名はオルガンローデ。

 膨大な呪文、緻密な構成、自律的に生命を模す意味の総体。
 半透明の文字列と数式、譜面と音楽記号、その他にもこの世界に存在するありとあらゆる『記号』が集合して長大な流れを創造していく。

 それはどんな生き物にも似ていない。流動する姿はあらゆる姿に変幻していく。ありとあらゆる架空の幻獣が次々と変化し、移り変わり、具現化する。捉えようとしてもその全容を定義できない。何故ならそれは定義できないことが定義だから――。

 秩序無き秩序が高らかに咆哮した。
 幻想的な竜はそのまま彼方へと突き進んでいく。影の世界はひどく曖昧で壊れやすい幻想だ。その境界を突き破り、アストラルの彼方、こことは違う世界の扉を強引にこじ開ける。

「まさか――」

 メートリアン=ミルーニャが呆然としてその光景を見た。ひび割れて砕け散った空間。世界すら破壊するハルベルトの呪文もだが、それによって引き起こされた現象に驚愕しているのだ。

 ひび割れた空間の孔。その向こうには、名状しがたい混沌が広がっていた。それは根茎だった。上から下へと広がり続ける地下茎リゾーム状の何かとしか言いようがないもの。複雑に入り乱れる、始まりもなく終わりも無い知の体系。構造そのもの。

「ロディニオ――滅亡したはずの旧世界の入り口が、スキリシアから開くなんて」

 彼方より、細い枝のようなものが伸びてくる。
 複雑系の向こう側から、巨大な存在感を発するものが這い出してきていた。
 それは古い時代には神と呼ばれていたもの。
 現代では天使と呼ばれる超越的な存在。

 非情なる三角錐。変容の司。その名はペレケテンヌル。
 幾何学的な、どのような材質かも不明な奇怪な金属によって構成された異形の巨体をゆっくりとこちら側に出現させたペレケテンヌルが、その機械的な目――いや、光学素子を巡らせた。焦点を合わせる音と共に、私の手の中にいるミルーニャを捕捉する。

 来た。
 凄まじいまでの異質な意思と悪意、まるで昆虫に見られているかのような感覚。
 これは人に理解できるようなものではない。絶対的な共感の不可能性。それがこの金属神の本質なのだと私は直観した。
 私は湧き上がる恐れをねじ伏せながら、声も枯れよとばかりに叫んだ。 

「聞け、変容の司よ! ここにいるのはお前が祝福したミルーニャ・アルタネイフだ! だがメートリアンである彼女はお前の加護など欲していない! 己の意思を信じるセルラテリスの信徒にはお前の加護など不要! 潔く彼女から手を引き、この忌まわしい祝福から彼女を解放するがいい!!」

 無謀、としか言いようのない愚挙だった。
 ペレケテンヌルは非情にして残忍。苦しみから発せられる望みに対して、最も望ましくない解釈をして叶えようとする悪意の化身。

 こんなことを口にすれば、私や周囲の人にどんな災いが降りかかるかわかったものではない。それでも、私はそれをやらなければならなかった。
 メートリアンが望むのはセルラテリスの加護。
 枷にしかならない加護など、解体して否定する。

 私が打ち消すのは、天の意思そのものだ。
 そして、もし祝福者にして三本足の民でなくなった後にも彼女に強い再生能力が残されていたなら、それはきっと、ある一つの救いをもたらしてくれるから。

 私は左手を前に突きだして、影の触手を屹立させた。上から下へこちらを浸食してくる地下茎に対抗するように、こちらは下から上へと枝を伸ばす。
 機械の異形の思考は全く読めない。
 人の身で高次元の存在に抗うなど不可能もいいところだ。

 けれど、こちらも同じ天使の権威を借りればその限りではない。第九位の天使セルラテリスはその座を捨てたとはいえ、かつては最強の神格と呼ばれた武神である。機械的な判断をするからこそ、セルラテリスを敵に回す事を恐れて退いてくれるのではないか――そんな、希望的な観測は、しかし非情にも打ち砕かれた。

 幻惑的な光沢を宿す金属の節足が蠢いて、三角錐の巨体がこちら側に接近する。
 その光学素子には、矮小な虫けらを踏みつぶそうとする悪意。

「オルガンローデよ、走れ」

 空間を穿孔した後は待機していた呪文の竜が動き出す。機械の天使と激突し、巨大な質量と呪力が激突する。流麗な蛇の如き姿に転じたオルガンローデが歌いながら金属神ペレケテンヌルに巻き付いた。圧倒的呪力。最強の呪文は私がこれまでに目にしてきたどんな呪術よりも強大だった。おそらくこの呪文があれば、不死身の魔将エスフェイルであっても一撃で存在ごと消し飛ばせるだろう。いや、完全に掌握して支配することすら可能かもしれない。

 しかし、天使と呼ばれかつては神だったその三角錐は次元が違った。
 ぎりぎりと、軋むような音を立てて三角錐が展開する。変形し、露出した内部構造が恐るべき暴力を突きだしていく。

 砲身、砲身、砲身、そして砲身。複雑なディティールの無数の砲が一斉に閃光を放つ。それらは一瞬でオルガンローデの身体を構成する呪文を崩壊させていった。

「荷電粒子砲! 駄目、逃げて!」

 ミルーニャが悲痛な叫びを上げた。オルガンローデは無惨に引き裂かれていた。続いて発射された夥しい数の弾体が着弾して、虚空に壮絶な爆発を引き起こす。多関節の腕先から光の刃が出現し、竜の残骸を引き裂いていった。

 その威容はまさしく神というに相応しい。
 宇宙的規模の暴力。世界そのものを滅ぼしかねない破滅の兵器群。
 だとしても。
 それでも私はやらなければならない。不可能でも、無謀でも、矮小な人の身には過ぎた願いでも、それをやり遂げるのが英雄というものなんだから。

「ミルーニャには、メートリアンには、もう手出しさせないっ」

 影の触手を伸ばす。左手のフィリスに力を注ぐ。限界を超えた呪術の行使に精神が悲鳴を上げる。それでもまだ足りないと触手を増大させ、膨れあがった闇は広大な森となって機械神の巨体を突き上げる。

「従え、敗れろ、服従しろ! お前なんかに、運命を決められてたまるかっ!!」

 放たれる巨大な光、膨大な熱量を際限なく膨れあがる闇の森で押し返す。破壊されても焼き尽くされてもなお増大し続ける闇は、確実に光と拮抗していた。

 そう、光が生まれれば、必ず影が生まれる。それは表裏一体のもの。だから相手がどんなに強くとも、可能性がある限りこの影の世界において私が負けることは無い。

 相手の力は膨大で堅牢で硬質だ。杖の化身、科学技術と叡智の結晶。それでも、その裏側には必ず未知なる神秘が生まれ出ずる。
 震える左手に、横から差し出された手がそっと重なり合った。

 見ると、ハルベルトがまっすぐに神を見据え、挑むようにその呪力を注ぎ込んでくれていた。心強い、だれよりも頼もしい私のお師様。
 そして、もう一つ。私の右手に抱きしめられたミルーニャが、その爪が剥がれた痛々しい手を私の色のない左手に重ね合わせる。

「わたしも――わたしも、負けたくないっ! 私は、あなたの加護を拒絶します!」

 純白の澄み切った心で、メートリアンが抵抗の意思を高らかに叫ぶ。
 三人分の呪力が調和して、黒と白、そして何色でもなくあらゆる色でもある、意味の連関そのものである万色が影の世界を光で満たす。
 それは虹。それは光輝。それは全にして一なる無限の輝き。

万色彩星ミレノプリズム!!!」

 煌めく星の輝きが、奔流となって機械神を貫いた。
 荷電粒子の光を押し返し、赤熱する刃を砕き、無数の弾体を消滅させ、その輝きは金属の神に到達する。無数の亀裂が走り、押し返された巨体が異界の向こう側へと押し返されていく。私は輝きの奔流の周囲から無数の触手を枝のように伸ばして金属神に接続させ、その呪力の流れを捉えると、幼い頃のミルーニャに与えられたおぞましい仕打ちを探り出す。過去を遡り、事実を参照し、幻想によって塗りつぶす。

「旧世界に消えろ、残骸の神!!」

 星のような輝きが夜を埋め尽くし、異界へと押し込まれた巨体が巨大な地下茎に激突、そのまま無数の構造を巻き添えにして壮絶な破壊と共に彼方へと放逐されていく。異なる宇宙に万色の煌めきを送り込み、闇の触手で空間の孔を埋めて塞ぐ。

 静謐。
 夜の無音が、その世界に残された。

「終わったんですか――?」

 実感が湧かないように、メートリアン=ミルーニャが呟く。
 私は彼女の手をとって、さりげなく、そしてすばやく剥がれた爪の後を抑え付けた。

「い、いたたたたたた! 痛いっ痛いですぅ! やめて、やめて下さい――あれ?」

 呆然と、ミルーニャはその光景を見た。その現実を受け止めた。
 痛み。ただそれだけがある。
 単純な苦痛に、ただぽろぽろと涙がこぼれていく。
 そして――

「それだけじゃない。痛みだけじゃ、ないんだよ」

 ミルーニャの爪が、ゆっくりと生えつつあった。以前ほどではない。けれど、普通の霊長類よりその治癒速度は上だった。その現象を引き起こす呪力が、どこからもたらされているのか。それは存在しないはずのものだった。失われた、あり得ない現象。

 かつてのような不死の再生ではなかったけれど。
 もうここにはいない誰かが遺した、想いの証。それを確かめて、彼女は赤い瞳を潤ませて、静かに嗚咽した。

 流された血と刻まれた傷。
 痛みの後に、再生が始まる。
 幻想の闇に包まれて、私はそっと白い少女に寄り添い続けた。
 夜月が皓々と私達を照らす。

 月光は何色だろう。
 それはまばゆいほどの白々とした光に違いない。この夜で最も力強く輝いている色彩は、目の醒めるような純白なのだから。

 私は信じた。
 涙の後に、きっと力強い笑顔を見せてくれると。
 それが幻想であったとしても。
 幻想だからこそ、信じたかった。





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