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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第3章 特権者のヒロイック・シンドローム、さもなくばアズーリア・ヘレゼクシュの憂鬱

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3-6 魔女と英雄

 



「殺すべきです」

 灰色のローブの中で、ミルーニャの目が冷淡に光った。
 鬱蒼と茂る暗色の広葉樹が、月明かりに照らされて微かな緑色を照らし出している。呪力を多量に含んだ風がかさかさと枝葉を揺らし、私達の間に横たわっていた重苦しい雰囲気をより一層引き立てた。

 その場にいるのは漆黒の衣を身に纏った私と、同じ黒衣で破れた服を隠したハルベルト。そしてメイファーラが茶色の衣、ミルーニャが灰色の衣を、それぞれ私から借りている。

「またと無い機会ですよ。枯れ木族の固有種ユニーク――それも樹妖精アルラウネなんて、これを逃したら二度とお目にかかれないでしょう。全身丸ごと素材になりますし、討伐の成功で得られる名声と呪力はその辺の精鋭種エリートを地道に倒していたら何年かかっても手に入らないほど莫大です。金箒花の採取も重要ですが、得られる収入を考えればあの固有種の討伐を優先した方がずっといい筈です。自己の強化というアズーリア様の目的にも合致しますよね?」

 ミルーニャの思考は、地上の探索者として至極当然の発想だった。
 ただ合理的に自己の利益を追求する。
 呪具を売る道具屋として、信用の重要性は理解しているだろう。それでも危険性と見返りの天秤の傾き具合によっては信義を裏切る――古代の商人じみた奸計を弄することだって躊躇わないのが地上の摂理だ。

 そもそもの大原則として。異獣は狩られ、収獲されるべき資源であり、それを生かさず殺さず収奪することこそが迷宮経済の基本原理。
 それがこの地上という場所の正しさだ。

「急進的な人達みたいに絶滅させようなんて思ってませんよ。一番美味しいところを頂きましょう。気にすることはありません。固有種とはいえ、しばらくすればまた湧くでしょう」

 それは、他者を食らい尽くす巨大企業メガコーポの論理。資本主義キャピタリズムを媒介する、商人マーチャント職の呪術師が操る摸倣子ミームに他ならなかった。

 複合職――呪具製作者エンチャンターであり錬金術師アルケミストであり商人マーチャントであり射手シューターでもあるミルーニャ・アルタネイフは眼鏡の端を指先で押さえた。単眼巨人との戦いで破壊されたものとは異なり、フレームが四角い。レンズが怜悧な光を反射する。

「私は――それはしたくないと思ってる」

 自分は間違った事を言っている――その自覚はあったけれど、ミルーニャを真っ直ぐに見つめて、私ははっきりと反対意見を口にした。どの口で? それを私が言うのか。その資格は一体何処に?

「――ま、アズーリア様なら何となくそう言うんじゃないかとは思ってましたけど」

 予定調和の結果を見せられたようにミルーニャは呟いた。つまらない。それだけが幼げな表情に浮かんでいた。

 少し離れた場所では、樹木のような身体のティリビナの民たちが忙しなく行き交っている。発光する苔や呪力の光を灯す植物といった独自の照明が開けた空間を照らしている。大きな台座の上に載せられた収穫物を中心にして、彼らはある準備をしていた。

 それは祭りだった。
 彼ら独自の宗教文化――大神院のそれとは一風変わった、私にとってはとても物珍しい様式の祭儀。精巧な木彫りの道具や石や草木を組み合わせて櫓めいたもの、そして木々の間にかけられた紐とそこに吊り下げられた色とりどりの花飾り。

 ティリビナの民は基本的に建造物の形では住居を持たず、木々に寄り添ったりうろの中に住んだりしている。古代の猛獣が出没するこの場所では、女子供は安全を確保した坑道内に住まわせているようだが、独特の生活様式を持つ彼らはとにかく物を所有すると言うことをあまりしない。そんな彼らの祭儀は、その場その場で即席の呪具を作って執り行うというものだった。手先の器用なもの、不器用なものの別無く、誰もが祭りの準備で大忙しといった風情である。

「何だ、あんた達そんなところにいたの? 調整とやらは終わった?」

 私達四人が声のした方に一斉に視線を向けた。頭部に咲き誇る大輪の花が目にも鮮やかな、樹妖精アルラウネの少女プリエステラがそこにいた。
 ミルーニャが気配を透明にして一歩下がる。少なくとも、即座に殺意を露わにする様子は無い。少し安心して、私は口を開いた。

「今、終わったところです。これで問題なく話せますね」

 私の言葉と平行して、ハルベルトが手に持った端末機から無数の文字列が虚空に展開されていく。それらは彼女が保有する膨大な言語――その中でもティリビナの民が使用する亜大陸の方言ディアレクトを構造化した情報集積体――のコーパスだった。言語魔術師のスキルによってそれを私達四人に定着させ、ティリビナの民との意思疎通を円滑に行えるようにしたのだ。

「手間かけさせて悪いね。私、共通語はちょっとしか話せなくて。日常会話くらいならなんとかなるんだけど、込み入った話とかは無理でさ」

「私達も、端末さえ使えれば太陰イルディアンサの【神々の図書館ライブラリー】と通信して普通に話せたんですけど。マニュアル参照だと定着にどうしても時間がかかってしまうんです」

 空高くに浮かぶ月は大きく欠けながらも、幻惑的な光と呪力を地上に放射している――しかし、パレルノ山の一帯に満ちる強い呪力のせいで、通信可能な情報量は著しく制限されてしまっていた。単純な性質の呪力ならともかく、言語という大規模な構造体を逐次に参照し、運用するということはできないのだ。

「そっちに兎の言語魔術師がいたのは運が良かったね。ハルベルトだっけ? ねえハルって呼んでもいい? 私もエストでいいからさ」

 親しげにハルベルトに近寄ってにこやかな表情を見せるプリエステラ。人懐っこい笑みだ。瞬く間に初対面の膜を取り払って、彼女は混じりけのない好意をハルベルトに向ける。

「え、あ――その」

 困惑して、弱ったような声を出すハルベルト。何故か私の方を見る。助けを求められても。

「こっちおいでよ。お茶とか出すから。ちゃんとお茶の葉っぱとかあるんだよ。意外かな、これでも文明的な生活っぽいこともしてるんだ。ロクゼンとマイスどっちがいい?」

 私達がこの小規模な集落――ティリビナの民の隠れ里に迎え入れられているのは、このプリエステラからハルベルトへの好意のお陰だ。無碍にすることも出来ず、返答に難儀しながらハルベルトはしどろもどろに言葉を繋いでいく。高圧的だったり上からものを言うのは得意なのだが、そうではない場面だとああなってしまうようだった。仲良く連れ立っていく二人の後に着いていく。

 岩壁に開いた大きな空洞。その中に広がるのは、特殊な採掘技術によって掘られた居住空間だった。パレルノ山に複雑に広がる坑道の一部を利用して、彼らはこの場所で生活していた。少し離れた場所には守護機械の残骸がうずたかく積み上げられていた。

 それを見ながら私は思い返す。プリエステラと遭遇した時の事を。 
 私とハルベルトが転落した岩棚は、ティリビナの民の居住空間に通じていた。どうやら呪的廃棄物の投棄口だったらしく、下に到着した二人が積み上げられた『儀式ごみ』に当惑させられるという一幕があったとか。

 現れたプリエステラはゴミ捨てではなく、一人で星見をしようとしていたらしい。あの場所で夜空を見上げるのが彼女の日課で、たまたまあの場所に落ちてきた私達と鉢合わせてしまったのだ。

 ティリビナの民は異獣である。【松明の騎士団】に所属する私達と出会ってしまった以上、本来ならすぐにでも争いに発展してもおかしくないのだが、そうはならなかった。私が松明の紋章を刻んだ鎧を黒衣の中にしまっていたこと、そしてハルベルトがその左右非対称の両耳を露わにしていたことがその理由だ。ティリビナの巫女だというプリエステラは、特異な身体的特徴を抱えたハルベルトに興味を抱いたのである。

 突然変異。その共通点が、プリエステラからの友好的な歓待を引き出した。私とハルベルトは彼女に案内されるまま集落へと赴いた。
 残る二人との合流は比較的簡単に成功した。私達はプリエステラに自分たちが探索者であると説明した後、単眼巨人に襲われて分断された経緯と二人と合流したい旨を伝えた。

 彼女はハルベルトの頼みを快諾し、下までの案内を引き受けてくれた。先導に従って坑道へ入る直前、私は二着のローブをハルベルトの仮想使い魔に持たせて真下にいる二人の下へ届けた。使い魔に託された伝言を受け取った二人は、私と同様に【夜の民】の振りをしてプリエステラを加えた私達と合流する。勿論、プリエステラが衣の中を改めようとすることなど無い。【夜の民】に対してその内側を覗き込もうとする行為は、最大限の非礼に当たるという常識があるからだ。眷族種の守護天使に対する信仰的理由や特有の生態に関するタブーはそれぞれに存在する。それを尊重し合わなければ、とても複数の眷族種が同じ場所で共存することなどできはしないのだ。

 ――だが【松明の騎士団】はかつて【ティリビナの民】に対してその最大の禁忌を犯し、眷族種としての権利を剥奪した。彼らの最も尊い信仰対象であり故郷であり命そのものでもあった大森林を焼き払い、不毛の砂漠に変えるという暴挙によって。

 ミルーニャはともかく、修道騎士である私達はその身分を隠さなければ戦いが避けられなかっただろう。
 私、そしてハルベルトもこの場での戦いを望んではいなかった。できれば【ティリビナの民】を異獣と見なして倒すことすらしたくはない。

 何故なら、それは私達すべての眷族種が明日には転落しているかもしれない未来だからだ。厳正な序列化。徹底した監視社会。大神院に、槍神教に刃向かえば待っているのは『人ではない』というラベルとあらゆる権利の剥奪だ。地上世界そのものを敵に回すという恐怖には誰も逆らえず、さりとて情報化が進んだこの世界で『人ではない』異獣たちを単純に憎み殺すことも難しい。

 回想を終えて現在に意識を戻すと、私は並んで歩くメイファーラに視線を向けた。過酷な環境下でも営みを続けるティリビナの民たちは、彼女の天眼にはどう映っているのだろう。

「あたしもね、防衛戦で蜥蜴人と結構戦うんだけど。最初の頃は結構しんどかったな、やっぱり。周りの霊長類ノローアーの人達が屍体を蹴りながら『化け物』とか『トカゲ野郎』とか言うんだよね――もう慣れたけど」

 メイファーラは、どこか寂しげな響きを滲ませて口にした。そっと前髪に隠された額のあたりに手をやり、外側からは見えない『天眼』の輪郭をなぞる。頭頂眼という器官を有する彼女のような【天眼の民】と地獄の異獣である蜥蜴人との間に、実際の種族的差異は殆ど無い。霊長類で言えば肌色の違い程度でしかない人種の差。外見が霊長類に近いかどうかで異獣かそうでないかが決定される。それが序列第七位である【ジャスマリシュの天眼の民】の現実だ。

「第八位のボロブ人は【騎士団】の主戦力だから転落の心配は無いし、第九位は不動の霊長類だからね。正直、ティリビナの人たちを見ていると怖いなって思う。第七位のあたしたちからすると、明日は我が身っていうか、他人事じゃ無さ過ぎて身につまされるっていうか」

「――わかるよ」

 静かに口にして、すぐに軽率な言葉だったと後悔する。けれど、紛れもない本心だった。メイファーラはフードの内側から穏やかな視線を送りながら、そっと問いかけた。

「人狼種をほとんど滅ぼしちゃったこと、後悔してる?」

「してない。生き残るためにはあの道しか無かったと今でも思ってる。戦って勝ち取らないと――勝ち続けて最下層に到達しないと、私の望みは叶わないから。たとえ同じ夜と月の加護を受けた眷族でも、彼らを滅ぼす事は避けられなかった」

 私が実力において圧倒的な隔たりがある魔将エスフェイルを倒せたのは、種族的な特性とフィリスという切り札があったからだ。【天眼の民】と蜥蜴人。【夜の民】と人狼。かつて同じように地上で生き、大神院の切り分けによって眷族種と異獣とに分かたれた同属。

 本質的に同じ種族であったからこそ、私はかの高位呪術師の本質を捉えることができたし、あの恐るべき影の呪術を無効化できたのである。
 吸血鬼ヴァンパイア人狼ウェアウルフ、そして幻姿霊スペクター。かつて夜と月の加護を受け、闇と影の中に生きた【夜の民】の四氏族の殆どが、その姿を忌まれて地獄に追いやられてしまった。残された私達だけが古き神マロゾロンドを天使と言い換え、大神院に隷属することで地上での生活を許されている。

 それを否定することは、残された私達全員の生活を否定するということだ。だから私は、異獣として目の前に現れた敵を打ち倒さなくてはならない。たとえそれが吸血鬼ヴァンパイアであっても、人狼ウェアウルフであっても、幻姿霊スペクターであっても。

「エスフェイルは仲間の仇でもあったし、躊躇いは無かったよ。殺した時には晴れ晴れとした気持ちにすらなった。だから、きっと私は天の御殿には行けないだろうなって思う。私の行き着く先は、地獄なんだ」

 それならばそれでいいと、私は思う。迷宮を踏破して最下層に辿り着き、妹ベアトリーチェの魂を救うことさえできれば、その後は世界を滅ぼす火竜メルトバーズの業火に焼かれて永劫の苦痛に囚われることになっても構わない。

「そっか――ねえアズ」

「ん?」

「怖いね。地上は」

「そうだね」

 修道騎士である私達は、命じられればその通りに異獣を倒さなければならない。
 私達は特権者だ。地上の誰もが、被害者意識を抱えた加害者であることから逃れられない。病的なまでの保身主義と利己主義。それが呪わしいこの地上世界の掟だ。

 逃れられぬ罪業を抱えながら、修道騎士たちは誰もが一つの結論を胸に戦っている。大神院は殉教者たちの魂は天の御殿に召されるであろう、と美辞麗句と共に謳う。私もまた、マロゾロンドの使徒として市井の人々にそれを保証する。

 嘘っぱちだ。修道騎士は死ねば地獄に堕ちる。同族を殺し、裏切り、保身に走る。その魂は迷宮の闇に飲み込まれて消滅する。それが末路。
 ティリビナの民たちの祭儀が、間もなく始まろうとしていた。俄に活気づく広場を、私達はどこか遠い距離感で眺め続けた。



 闇を喰らうねじくれた大樹が坑道内の床や天井を這い回り、浸食された場所が仄かな燐光を放つ。呪鉱石の影響下にあるこの場所の植生は異常発達した特有の種を生み出す。『暗い』という事象から呪力を引き出す特殊な植物はその呪力を光に変換して放出していた。うっすらと緑色を帯びた光が樹木の民たちの仮宿を照らしている。

 子供と思われる小さなティリビナの民が手に木の枝を持って走り回っていた。武器に見立てて打ち合いでもしているのかと思えばそういうわけでもないらしく、枝先で相手を突いたり、かと思えば蹴り飛ばしたり、その後で岩陰や樹の陰に隠れたりと、傍目からはその遊びのルールは判然としなかった。

「ごめんね、騒がしくって。みんな元気が有り余ってるんだよ。なにせ日光浴が最大の娯楽で贅沢って状況だからさ。それでどうにか生きて行けてるわけだから、私達はまだ恵まれてるんだろうけどね」

 プリエステラは、岩を円形に削りだした卓に陶器の湯飲みを並べた。お茶を注ぐ様子を見ながら、疑問を口にする。

「こういう、陶器とかお茶とかって、自給自足なんですか? この、使わせて貰っているクッションもですけど、なんだか結構物がありそうな」

「ああ、それね。定期的に運び屋さんが来てくれて、色々持ってきてくれるんだ。友好的な探索者の人とか、私達のこと研究したい大学の研究員の人とかがこっそりとね。木彫りの呪具とか祝福祈祷とかと物々交換したり呪術交換したり――あ、これ内緒ね。ばれたらあの人達も大変な事になっちゃう。ただでさえこんな奥地にまで危険を承知で来て貰ってるのに、迷惑はかけらんない」

 口を覆うような仕草をして、プリエステラはそう言った。私だってそれは本意ではなかったから、絶対に口外しないと約束する。他の皆も同様だった。

 唯一その反応が気になったミルーニャもその場では一応同意してくれたのだが――どうしてか、ミルーニャは得心のいったように「そういうことか、あの馬鹿」と呟いて、忌々しげに舌打ちをしていた。
 お茶を飲みつつ、話は私達の事に移っていった。

「金箒花なら、近くに群生地があるのを知ってるけど」

「本当ですか」

「うん。辺り一面ずーっと金色って凄い綺麗な場所。採取にはもってこいじゃないかな。きっとすぐに必要な分が集まるよ」

「本当でしょうか。そんな場所があるなんて、聞いたことがないんですけど」

 ミルーニャが疑わしげに呟く。とはいえ、探索者たちが有する情報のネットワークにも漏れはある。パレルノ山や第四階層以降の危険度の高い場所では特に。

「私達しか知らない、森を分け入った先にある場所だから。それにしても、ミルーニャちゃんだっけ? お父さんの遺志を継いで錬金術師として頑張ってるなんて、立派だね」

 プリエステラからの純真な目を向けられて、ミルーニャが少したじろいだように見えた。直前まで殺すべきだと言っていた相手に好意を向けられるというのは、どんな気持ちなのだろうか。私は二人の様子を慎重に注視した。

「別に――そんなに立派なものじゃないですよ。ただ遺産を有効活用しただけで。自分が生活していく為です」

「それでも、依頼の為にわざわざこんな危険な場所まで来るのは志が高いからなんじゃないの? 普通の探索者はここまで深まった所には来ないよ? まあ、【騎士団】の連中も来ないからこそ私達も暮らせてるんだけど」

 その言葉に内心ぎくりとしてしまった。ミルーニャは一見して表情が変化していないようだったが、ぼんやりと緑色に照らされる暗色のお茶の水面を見つめながら、どこか虚ろな声で、

「志なんて――理想や夢想に意味が無いとまでは思いませんけど、あまり口にしたい言葉じゃないですね。お金と力、そして名声。それが全てではないにせよ、それが無いと理想を口にすることすらできない。別に、露悪とかそう言う事じゃなくて」

「うんうん。わかる、わかるよー! ちっちゃいのにしっかりしてて素敵だなー! ミルーニャちゃん、抱っこしてあげる、抱っこ」

「や、止めて下さい、何ですかあなた!」

 ミルーニャの外見は小さな女の子にしか見えない。ぎゅっと抱きしめようとするプリエステラと、必死に抵抗するミルーニャ。殺意や敵意が入り込む余地が無さそうなその様子に、ほっと溜息を吐く。気がつくと、左右でハルベルトとメイファーラが似たような思いを抱いていた様で、なんだかおかしくなって笑ってしまった。

「あーもう、何なんですか! みんなして、訳がわからないですよ! ちょっとそこの口先根暗女、この人あなたの担当でしょうが! 早く引き取って下さい!」

 意地の悪いハルベルトはひとしきりミルーニャの弱った姿を堪能すると、ようやくプリエステラに話しかけた。解放されたミルーニャの恨めしげな視線。どうやら殺意に関してはミルーニャからハルベルトへのものを警戒した方が良さそうだ。

 ハルベルトとプリエステラは金箒花の群生地の情報や、周辺の地形などについて詳しく話し始めていた。そこにメイファーラが加わって、その辺りの怪物たちの生態や数などについても質問し、群生地までの侵入経路を組み立てていく。
 私はぐったりとしているミルーニャに近付いて、そっと声をかけた。

「大丈夫?」

「ええ、まあ。人にべたべたされるの、あんまり好きじゃないんです。露骨に嫌がると空気壊すから我慢はしましたけど、正直しんどいですね」

 その割には、私には所構わずひっついてきていたような気がするのだけれど。
 疑問が態度に出たのか、ミルーニャは途端にいつもの調子に戻って。

「やだもうアズーリア様ったら! 勿論、触れても平気だと思える人なら大丈夫なんですよ? 許せるって自分で思えるなら、もうどんなことだって!」

「どんなことってどんなこと?!」

「えっ、知りたいんですかそれとも言わせたいんですか、やだもーこんな大勢の前で恥ずかしい! アズーリア様の変態さん!」

 変態と言われてしまった。
 何となく分かってきたのだけれど、ミルーニャのこうした態度は彼女の本来の顔ではないのだろう。人と接する為の仮面。誰しもが持つ、外面とか建前とかいった、自ら演出する人物像。媚態を含んだ明るさの裏側は、多分私が想像していたものよりもずっと乾いているのかもしれなかった。
 お茶を飲み終えたあたりで、プリエステラが切り出した。

「私の父は今の長老の甥でね。それなりに有力者で力もあったけど、突然変異で生まれた私を持てあまして、最初は余所に預けたの。だから私、小さい頃はみんなと一緒には生活できなかった。ずーっと呪術の勉強して、レルプレア様と交信する巫女の修行に明け暮れてた。ここに戻ってきたのはつい最近なんだ」

 意外――というわけでもなかった。プリエステラはこの集落で、非常に敬われているようだったが、同時にどこか距離のある接し方をされていたように思う。口々に挨拶を口にするティリビナの民たちは、ただ一人の巫女という存在を扱いかねているのではないかと思えた。

「正直、あんまり馴染めなかったよ。今もあんまり馴染めてる気がしないんだ。地上を追い出されて、地獄にも居着けなくて、色んな場所を行ったり来たりする放浪生活。私達は家屋を作って生活しない。だから『自分が立っているここが居場所だ』っていう強い確信があるんだ。そのおかげであの翼猫のラベリングを無効化できるから、自由に地上と地獄を行き来できる。まあ、居場所が無いってことでもあるんだけど」

 それが漂泊の民、ティリビナ人の特殊な呪的性質だった。このために敵側の間者ではないかと双方から疑われ、居場所を失っていくという救いのない連鎖が生まれる。それは、どこでも生き抜くことができる逞しさの反映でもあったけれど。

「どうしてお前はそうなんだって父親には怒られたよ。巫女としての仕事はちゃんとやったのにって思った。祭儀をこなして、樹液から呪力を抽出したり雨雲を呼んだり、日照りを弱くしたり虫にお願いして土を軟らかくしたり、あとは枯れちゃった人の弔いとか、お母さんになった人から株分けしたりね。でも、お前はそうやって周りを見下してるんだ、だからいつまで経ってもなじめないんだって殴られた」

 ひどい話だと思った。私にとって、家族とは優しく暖かいもので――そういう家庭もあるということは知識としては知っていても、実感としては受け入れがたい。プリエステラは苦笑いしながら続ける。

「で、この前あっけなく死んじゃった。不用意に怪物の縄張りに踏み込んで、ぺろり。死体が原型留めて無くてさ、私があげたお守りを握りしめた手だけが見つかったの。効果、無かったみたいだけど」

 明るく笑うプリエステラの表情に、陰は無い。その事が、かえって彼女の内心を表している様な気がして、私は静かに深く息を吸い込んだ。

「家族に暴力を振るう父親なんてクズですよ。死んで正解でしたね。良かったじゃないですか。あなたは幸福になったんですよ」

 ミルーニャの毒舌はこの場で口にするにはあまりにも無神経なものだったが、不思議とその声に悪意の棘が感じられない。むしろ、彼女はその言葉を心の底から口にしているようにも聞こえた。ミルーニャは、誰かの家族が死んだ事を心から祝福しているのだ。プリエステラは気分を害した様子も無く、むしろ同意するかのように頷いて、

「うん。私も、正直胸がすっとした部分があったよ。やった、これであのクソ親父から解放されるってね。ずっとほったらかしにしてた癖にいまさら父親面してあれこれ口を挟んだ挙げ句、貴重な祭儀用のお酒を持ち出して昼間から飲んだくれて、それを咎めると暴力振るうような人だったし――」

「最低のクズですね。縋るものが男親としての権威と暴力しか無いんでしょう」

「でしょ? そう思うよね?!」

 何故かミルーニャとプリエステラは意気投合している。何か響き合うものがあったようだ。ふと、ミルーニャの親子関係も絵に描いたようなものではなかったのかもしれないと思った。
 プリエステラはひとしきり父親を罵倒した後、晴れやかな表情のままで言葉を繋ぐ。

「でもね――それでも父親なんだ、やっぱり」

 それから、彼女は坑道の外に私達を連れ出した。皆が騒がしく祭りの準備をしている光景が広がる。広場の中央に、巨大な捧げ物が鎮座しているのが見えた。

「その日暮らしの私達はこういう幸運があるとその場の思いつきで祭りを始めちゃうの。森の精霊たちと樹木神レルプレア様からの贈り物だってね。これは、今日の昼に見つかって、そのままみんなで運んで来たんだ」

 プリエステラが指差す先には、途方もなく大きな神への奉納物――死体があった。
 長大な体躯、緑色の硬質な鱗、半ば融解した頭部は失われ、その恐るべき両の目は存在しない。
 蛇の王バジリスク。熟練の探索者ですら戦闘を回避するパレルノ山の怪物が、無残な屍を晒していた。

 そこに呪物としての意味を見出すティリビナの民にとってそれは天からの――森からの贈り物というわけだろう。しかし、見たものを石にしてしまうような怪物をあのように屠る存在がこの近くにいるというのはぞっとしない話だった。

 蛇の王バジリスクは、パレルノ山において三番目に出会ってはならない怪物。この地における生態系の頂点では無いのだ。

「あんな風に、頭部だけを狙って一撃。その他の全身は食べるでもなく放置。そして溶けたような痕――まあ、こんなやり方をする化け物はこの山には一種類しかいませんよ。一種類っていうか、一体だけですけど」

 ミルーニャの断定を聞いた私の胸に、冷たいものが去来する。
 パレルノ山で遭遇してはならない怪物。その第二位。
 固有種、舌獣イキュー。その長大な舌であらゆるものを舐め、溶かし、食らい尽くす味覚の怪物。高い呪力を宿した存在を『甘い』と認識し、どこまでも心震わせる甘味を追求する獰猛な美食家。

 食べ物の好みに関しては気が合いそうだが、間違っても遭遇したくはない相手だった。蛇の王バジリスクは、その高い邪視能力と情報が詰め込まれた脳と体内呪石を丸ごと食い尽くされたのだろう。

「父はその化け物に殺されたの」

 プリエステラの言葉に、その瞬間だけ激しい感情が込められた。それは怒りだったのか悲しみだったのか、それとも憎しみだったのか。その正体が何であれ、プリエステラは一つの意思を胸に抱いていた。遺された者は、それをせずにはいられない。エスフェイルに殺されていった仲間達の事を、少しだけ思い出した。

「金箒花の群生地、その場所を教えてあげる。その対価として、あんた達には私の復讐に手を貸して欲しい。倒して得られるものは全部渡す。だから、あたしにイキューを倒す機会を頂戴」

 プリエステラはそう言って、頭の花弁が私達によく見えるように、深々と腰を曲げた。それが樹妖精にとって最上級の礼の尽くし方なのだと、ハルベルトによって定着させられた言語データに含まれていた『仕草』に関する知識が私達に教えてくれた。




「なるほどね。まあ、部外者を簡単に招くなんて何か裏があるとは思ってたんですよ。要するに手っ取り早く戦力を確保したかったわけですね」

 準備をしてくると言い残してプリエステラが坑道奧に消えた直後、ミルーニャはそう言って岩壁に背を預けた。
 私はプリエステラの頼みを引き受けることにした。それは修行という目的にも適うことだったし、なにより彼女をこのまま放ってはおけないと思ったから。

 それに、きっと『英雄』という存在に求められているのは、ここで困難に立ち向かい人の助けになるような振る舞いだと思うのだ。

「ま、いいんじゃないですか。素材も欲しいですし、別個体とはいえ固有種を倒せることには違いないわけですし。危険性を考慮に入れなければまたとない機会です」

 ミルーニャは、意外にも私の決定に納得しているようだった。正直拍子抜けというか、わざわざ付き合わなくてもいいと言ったのだが。

「良質な金箒花の在処に、固有種イキューの討伐によって得られる名声と素材、それと枯れ木族に恨みを買う危険性――ま、アズーリア様への気持ちを乗っけてどうにか天秤が拮抗するかどうかって所ですね。いいでしょう。貴方たちと要らぬ軋轢を生み、遺恨を残すのも面白くない。言うとおりにしますよ」

「いや、でもイキューと戦うんだよ? 死ぬかも知れないって、当然ミルーニャならわかってると思うんだけど」

「それはアズーリア様だって同じでしょう? まあ、【騎士団】の方々が仇討ちに呪術的な意味を見出す怖い人達だっていうのは有名ですからね。彼女に感情移入して協力するだろうなっていうのは仕方無いですよ。ミルーニャだって感情が無いわけではありませんから、彼女の話を聞いて共感する所が無くもなかったのです。手伝ってあげてもいいかな、と少し思いました」

 ミルーニャはそれよりも、と口にして、私の後ろに佇むハルベルトの方に視線を向けた。

「むしろそちらの根暗女の方が意外でした。こんな危険な事、アズーリア様にさせていいのですか?」

「これも修行。それに、危なくなったらハルがどうにかする」

「あんな醜態を晒した後で、よくもまあ自信満々な態度を崩さずにいられますね」

「接近さえされなければ、前衛が時間を稼いでいる間にオルゴーの滅びの呪文オルガンローデで片を付けられる。どんな敵でもこれで一撃」

 ハルベルトの発言に、その場にいる全員がぎょっとした。彼女が口にしたのはそれほど途方もない大呪術だったからだ。

「竜級の極大呪文?! そんなの使えるの?!」

「嘘は吐かない。詠唱時間さえ確保できれば、ハルに滅ぼせないものは無い」

 確かに、【星見の塔】の言語魔術師ともなればその呪文を使いこなせたとしてもおかしくはない。私は改めて、自分と彼女の間に横たわる途方もない実力の隔たりを感じておののくような気持ちになった。

「――ふうん。まあ、その最強の攻撃呪文も詠唱する前に潰されたら意味無いんですが」

「大丈夫」

「何を根拠に」

「ちゃんと守ってくれるって、アズが約束してくれたから」

 揺るぎない信頼の眼差しが向けられて、少し照れくさくなる。黒玉の瞳を見返すと、その表情が少しだけ柔らかくなったような気がした。微笑み未満の感情を受け取って、私は胸がぎゅっと締め付けられるような感覚を味わった。この気持ちに、なんて名前を付けたらいいのかわからないけれど。彼女の信頼が、今は重圧以上に心地良いと思えた。

 横合いから伸びたミルーニャの手が、ハルベルトのやわらかそうな頬をぐいと引っ張る。伸びた頬を押さえながらハルベルトの表情が不快そうに歪んだ。

「何するの」

「いいえ別にー? むかつく口先女の良く伸びる頬があったのでつい」

 お返しとばかりに頬を摘み返すハルベルトと更にその報復を行うミルーニャとの間で、終わりのない不毛な復讐の連鎖が始まった。メイファーラがこちらに寄ってきて、顔を寄せてこそこそと訊ねる。

「ね、ね。二人の時に何かあった?」

「いや、別になにも。ただちょっと喧嘩して――その後ちゃんと和解したけど、そのくらい」

「おおー」

 何がそんなに面白いのか、メイファーラはぎゅっと手を握って「そこの所をもうちょっと詳しく」などと詰め寄ってくる。正直止めて欲しい。
 しばらくとるに足らないやり取りが続いた。壮絶な殴り合いに発展しそうだった二人を引き離したり、何故か私がメイファーラとミルーニャから質問攻めにされたり。
 どうにかやりすごして話の方向を軌道修正する。

「えっと、じゃあミルーニャも一緒に来てくれるってことでいい?」

 ミルーニャは頬をさすりながら頷いた。何故か、私の方を恨めしそうに一睨みしてから口を開く。

「全部終わった後で裏切って総取り――なーんて、全然考えてませんよ? きっとそれをすれば、ミルーニャは皆さんから『許容不可能なほどに異質なもの』だと見なされてしまうでしょうから。ミルーニャは異獣になりたくありません。今はまだ、ね」

 ちらりとティリビナの民たちに視線を向けて、彼女は皮肉めいた事を言う。そして、先程からのほほんとした風情で佇んでいるメイファーラを見た。

「それに、ミルーニャが険呑な事を言う度にそこのお気楽修道騎士が険呑な殺気をぶつけてくれちゃってましたからね。流石の私も、ハイレベルな天眼の戦乙女を敵に回したいとは思いません」

「あたし、別に殺気なんて――」

「ミルーニャに誤魔化しは通じませんよ。これでも暴力の気配にはとっても敏感なんです。貴方は笑って敵意を隠すのが達者みたいですけどね。それって裏を返せば隠している事が見えやすいってことでもあるんですよ」

 メイファーラは困ったような笑顔を浮かべて、ミルーニャの指摘に曖昧な反応をした。どうとでも取れる答えだが、不思議と裏を感じ取ってしまうような凄味があった。

「うーん、普通にしてるだけなんだけどなあ」

 私達の方針と意思が固まった所で、ティリビナの民のひとりがこちらに近付いて来た。私は彼らの外見を見分けることができないけれど、ごく平均的な外見のようだ。

「あんた達、巫女様を知らないか」

「エストなら、さっき準備するとか言って坑道の奧に」

 ハルベルトが穴の奧を示すと、彼は私達に言伝を頼んできた。

「そうかい。なら、巫女様に伝えてくんねえかな。今晩の祭儀はこっちで準備から終わりまでやっとくから、重要な最後の祈祷と舞以外のとこでは巫女様は休んでて欲しいってよ」

「構わない。けどいいの。あなたたちの宗教儀式はあらゆる場面で巫女を必要とすると聞いている。呪力抽出の効率が落ちるのではないの」

「ああ、構わねえよ。ここんとこ、ずっと巫女様に頼りっぱなしだったからな。たまには楽してもらわねえと、俺らの方が女神様に怒られちまうよ。親父さんの事があって辛い時期だろうに、泣き言一つ言わねえんだ、立派なもんさ」

 ティリビナの民の口調には敬意だけではなく親しみが感じられた。立場の違いゆえに、どこか距離のある接し方ではあるのだが、それでも仲間に対する気遣いや思い遣りは確かに存在しているのだ。

「親父さんが亡くなって、巫女様も大層寂しい思いをされてるだろうからなあ。あの方ばっかに負担かけさせちゃいけねえってみんなで相談したんだ。何、今までは自分たちだけでやってきたんだ、どうということもねえよ。辛い時くらい休んどかねえと身が持たねえってな」

 彼の言葉に同意する声が周囲からも上がった。一所に集まった子供達が、女性を模したと思われる木彫り細工を削っていた。樹木の女神レルプレアを象っているのだろうが、子供達が口にするのは揃ってプリエステラの事だ。エストはもっと細いとか、エストの頭の花はもっと大きいとか、喧しく言い合いながら木片を削っていく。子供達にとっては、巫女を介して感じられる女神や精霊も媒介者たるプリエステラ本人も同じものに見えるのかもしれなかった。

「ここの子供たちはみんな俺らの子供みてえなもんだからよ。これからは俺らが巫女様の家族になってやらねえとな」

 そう言って、ティリビナの民は祭りの準備に戻っていった。
 ミルーニャが顎に人差し指を当てて呟く。

「部外者にあんな話をするなんて、そこの根暗女はよっぽどあの巫女さんに気に入られているように見えたんでしょうね。多分、あんなに元気な顔をするのは久しぶりとか、そういう話なんでしょう。良かったですね、生まれて初めての友達ができて」

「――まるでハルに友達がいたことないみたいな言い草」

「いるんですか?」

「友達がいるから何だって言うの」

「はっ」

 ミルーニャが鼻で笑うと、ハルベルトの目が据わってそのまま取っ組み合いが始まる。そして一瞬で終わった。身長では勝るが筋力で劣るハルベルトはあっという間にねじ伏せられて壁に押しつけられてしまう。フードの中で何かがもぞもぞと動き、黒玉の瞳が揺れる。あ、泣きそう。

「ハルベルト! 私も友達はネット上にしかいないから安心して!」

「アズ、あたしは友達じゃないのー?」

 騒がしくする私達に、何かの遊びをしているのだと思った子供達が寄ってきてしきりに話しかけてくる。どうやら恐怖よりも外の人間に対する好奇心が勝ったらしい。私達を取り囲んで質問をしたり服を引っ張ったりしてくる。

「なーなーその服の中どーなってんのー」「あんたらって【夜の民】だろ。知ってるよ、満月だと狼に変身できんだろ」「ばーか、ちげえよコウモリとか霧になんだよ。そんで血を吸って呪術使うって」「俺は幻みたいな亡霊だって聞いたけど」「外から来たんだろ、なんか土産とかねえの土産」「箒のねーちゃんはいっぱい持ってきてくれたぞー」「そうだそうだ」「よこせよこせ」

 普段は甘いものを捧げられる立場なので、よこせと言われるのはなんだか新鮮な経験だった。黒衣の中の使い魔に命じてお菓子を出現させると、子供達に配っていく。

「すげえ、めっちゃ美味いぞこれ」「やるな一番ちびのくせに」「できる【夜の民】だな俺より背ぇちっせーけど」「よしちびすけ今日から子分にしてやる」

 大好評だったが、なんか釈然としない。
 わいわいがやがやとやっていると、絹を裂くような悲鳴が響いた。
 見ると、子供達の一人がメイファーラのローブの前に潜り込み、スカートをめくりあげていた。一瞬、ぞっとした。あの内側の呪動装甲、形状が特殊なので一見して修道騎士だとはわからないはずだが、松明の紋章を見られたらまずい。

 しかし、心配は不要だった。その子供は一点を凝視していた。何をとは言わないが、最悪だと思った。
 メイファーラは素早く飛び退って前を隠し、そのまま座り込んでしまった。顔は羞恥に染まり、目には涙が浮かぶ。

 たちまち平和にハルベルトと話していた少女たちが集まり、狼藉を働いた少年に殴る蹴るの暴行を加えていく。「男子サイテー」「変態は死ね」「去勢しようよ去勢」「今日のお祭りでコイツも生贄にしない?」「賛成の人ーはい賛成が過半数を超えたので死刑執行でーす」などと正義の制裁が加えられるのを横目に、私はメイファーラに駆け寄って手を差し伸べる。

「大丈夫? 平気?」

「うう――恥ずかしかったよう。死んじゃうかと思った」

「昼間は平気そうだったのに――」

「自分でやるのとは訳が違うよー」

 涙目のメイファーラが力無く反論する。確かにこんな公衆の面前でスカートめくりなんてされるのは精神的に苦痛だろう。というか、あんなことをする少年が実在するとは。創作物の中だけの存在かと思っていた。

「むう――やはり圧倒的あざとさ。高度に発達した計算は天然と区別がつかない」

「なんでハルはちょっと感心してるの?」

「うえええん、あたし計算とかしてないし天然でもないよう。あざとくないもん」

「既に発言そのものが矛盾を内包してますよね。ちょっと感心ですぅ」

「その点、あなたはわかりやすい」

「はぁー? 喧嘩売ってるんですかいいですよ買いますよっていうか貴方がそれを言いますか口調の作り方と媚び方がガキっぽくて鬱陶しいんですよ」 

 私達の口喧しいやりとりは、大体こうしてハルベルトとミルーニャが険悪な雰囲気になって、それを私とメイファーラが仲裁するというお決まりの様式をなぞるようになりつつあった。今回もそうなろうとしていたのだが、そこにいつもとは違う声がかけられて、場が中断される。

「随分と騒がしいけど、何があったの?」

 巨大な木の杖を手にしたプリエステラが、呆れたように私達に声をかける。
 すっと気持ちが引き締まる。彼女の準備が整ったということは、これから戦いに向かうということだからだ。

「ちょっとこの人達に、このへん案内してくるね。祭りまでには必ず帰るから」

 周囲に声をかけて、プリエステラは私達に向き直った。そして、決然とした表情で告げた。

「それじゃあ最後に確認するけど、本当に協力してくれる?」

「必ず帰るっていう約束を破らせるのも悪いし、さっさと終わらせよう」

 聞かれるまでもないと、私は先を促した。彼女の先導が無ければ標的の下へは向かえないのだ。プリエステラはひとつ頷いて、それから深く腰を折って礼を尽くした。

「ありがとう。この恩は忘れない――必ず報いるから」




 周囲の地形を知り尽くした巫女の先導があってさえ、呪波汚染に曝されて異常な様相を呈している森の中を歩むのは困難を極めた。
 崖の近く、集落のあたりはまだしも木々の密度が低く歩きやすかったのだが、そこから離れていくにつれて生い茂る大量の植物群はこちらの行く手を阻もうとするかのようにその数と強靱さを増していく。

 辺りには得体の知れない虫が飛び交い、鳥や小動物、虫たちの大合唱が響く。がさがさと何かが動く度に目が虚ろになっているハルベルトの身体がびくりと跳ね、メイファーラが大した事のない小動物だから気にしなくて良いと保証するやりとりの繰り返し。プリエステラの案内と合わせて行軍に不安は無い筈なのだが、月明かりさえ遮る森の高さと巨大さにはさしもの私も心細さを覚えずにはいられなかった。

「それにしても、巫女姫様もしたたかですよねー。イキューの巣が金箒花の群生地で、倒さないと手に入らないだなんて」

「合理的でわかりやすいでしょ? 杖使いの人ってそういうの好きなんじゃないの?」

「ま、その通りですけどー。にしたって、この道は結構きっついですぅ。今まで誰にも発見されなかったのも納得するほどの険しさでミルーニャちょっと疲れてきました」

 愚痴をこぼしながら目の前に垂れ下がった木の枝をナイフで切断していく。言葉とは裏腹に、太い木の根が張り出したような場所を避けて、頑丈なブーツで着実に確かな土を踏みしめて進む。か弱そうな外見に反してかなり逞しい彼女が疲労感を覚えているという事実が、状況の困難さを端的に表していた。

 ミルーニャは私に手を引かれてほとんど目を開けているのか眠っているのかもわからないハルベルトを一瞥して、深々と溜息を吐いた。鞄から呪符を取り出して、ハルベルトの額に貼り付けて、更に透明な液体の入った瓶の蓋を開けて強引に口にねじ込む。

「あの、ミルーニャ? それは一体」

「【安らぎ】をいじって疲労回復効果を加えた治癒符もどきと、うちの主力商品である【命の水】――を薄めたやつです。これでちょっとはマシになるでしょう」

 全くこれだからヘボ後衛は、などと毒づいて振り返る。メイファーラとプリエステラが生温かい視線を向けているのに気付いたようだが、そこで過剰反応せずに無言で歩みを再開する。正直私も二人と同じ気持ちだった。何だかんだと文句を言いつつ、ミルーニャは世話焼きでお人好しだ。それを口にしたら、絶対に本人は否定するだろうけれど。

 ハルベルトは少し楽になったのか、おぼつかなかった足取りがいくらかしっかりとしたものになる。ミルーニャの方を向いて、小さく何事かを呟いたが、とても聞こえるように言っているとは思えなかった。

「あーあ、勿体ない呪具の使い方しちゃいました。これがアズーリア様だったらむしろ喜んで飲ませて差し上げるんですけどねーっていうかむしろ口移しの機会到来ですぅ」

「ごめんね、ありがとうミルーニャ。でも口移しはやめて」

「いえいえ、お気になさらず。ただ、ちょっと治癒符の数が不足気味なので、あまり大きな怪我をするとやばいかもしれません」

「そうなの?」

 意外だった。ミルーニャの道具屋で錬金術師という肩書きからして、大量に保有しているものだとばかり思っていたのだが。

「なんといいますか、最近どーも高位治癒符の流通が滞ってるっていうか、偏ってる気がするんですよねー。基本的には最前線の人たちに優先して回されるんで当然と言えば当然なんですが。第五階層の解放以来その傾向に拍車がかかってる気がします」

 消費される量が供給される量を上回っている、ということだろうか。もしくはその状況を見越して大量に治癒符を抱え込んでいる人が増えているとか。それ以外の理由もあり得るけれど、迷宮の経済は命がかかった極限状態で回っているから、必ずしも合理的な論理では動かないと聞く。原因の予想が私などにできるはずもない。

「そもそも全部巨大企業が悪いんですよ! 前線では毎日人が怪我したり死んだりしてるのに自社の利益ばっかり追求して流通量絞ってるんですから。本当は幾らでも増産できるくせに、プロテクト料とかを無駄に間に挟むからどんどん高額化して必要な人の手に渡らないわけです」

「巨大企業っていうと、ペリグランティア製薬とか? 生命の水とかの」

 私が訊くと、何故かミルーニャは気まずそうに呻いた。言葉を探すような間を置いて言葉を続ける。

「零細探索者はあいつらに恨み骨髄ですからね。迷宮需要で大儲けした癖に、戦いが長期化すると見た途端に全体の量を絞って探索者から利益を吸い上げる方向性に切り替えた――まあ利潤を追求する企業としては当然なんですが、こういう公益に資する商売には国とかがお金を出してくれればいいのにって思います。医療の分野は特に」

 ミルーニャは随分と理性的に怒りを抱く性格の様だ。私も怒りっぽい方だけど、その性質は全くと言っていいほど異なる。

「優しいよね、ミルーニャは」

「え? ええっと、それはどうも――じゃなくて、きゃー光栄ですぅアズーリア様!」

 一瞬だけ素の反応を引き出せた気がして、理由のわからない達成感を得る私だった。今まで自覚がなかったけれど、私は意地が悪いのかもしれない。
 道行く中、プリエステラは亡くなったという父親の話をしてくれた。共に生活していたのは短い期間で、あまり仲は良くなかったようだけど、何かを吐き出すようにして欠点を並べて不満を吐き出していく。

「ねえ、みんなはどうだった? 家族ってどんな感じなの?」

 プリエステラが問いかけると、まずメイファーラが答えた。

「うーん、あたしの所は田舎士族の家柄だったから、お父さんからもお母さんからもビシバシしごかれたなあ。『天眼を使いこなせるようになるまで帰ってくるな』って言われて修行に出された事もあるし、そのへんエストと境遇が似てるかも」

 それに私が続く。

「私は親よりも妹にべったりだったから、家族って言われるとどうしても妹を思い出しちゃうな。小さい頃から面倒みて貰ってたし。村が異獣に襲われてからは私も一時期村から離れた施設に預けられて、そこで勉強とかしたなあ」

「ハルはずっと【星見の塔】や各地を転々としていて、言語魔術師になるための勉強で忙しかった。だから、あんまり両親との思い出は多くない。けど、月にいるお母様に送る手紙には必ず白く美しいガーデニアを添えるようにしているの。お母様の好きな地上の花だから」

 おや、と私は内心で首を傾げた。ハルベルトの言う梔子の花ガーデニアという言葉に思うところがあったからだ。後で詳しく聞いてみようと決意しつつ、私達の奇妙な符号に気付く。プリエステラもメイファーラもハルベルトも、私と同じく幼い頃にどこかに預けられて修行や勉学に励んでいる。今時珍しくもないけれど、ちょっとした偶然だった。

 これでミルーニャまでどこかに預けられていたことがあったら凄いことだなと思いつつ、私は彼女に声をかけようとした。けれども、斜め後ろから見えた彼女の表情はどこか暗鬱としていた。

「家族なんて下らないですよ」

 その声の低さに、踏み抜いてはならないものを踏んだと確信する。足下で嫌な音がして視線を向けると、暗色の長虫が体液を流しながら踏みつぶされて死んでいた。

「あの、ごめんねミルーニャ、なんだか私たち、不用意な事を」

「アズーリア様は、二股をかける人ってどう思われますか」

 私の動揺には構わず、ミルーニャは温度の低い声で問いを発した。それはあくまでも常識的でごく普通の質問だったから、私達は特に迷うことなく答えた。

「まあ個人的な意見だけど――二股かけるような人って、人格に問題があると思う。はっきり言って最低の屑。私は嫌いだな。絶対に関わり合いになりたくない」

「ハルも不実な人は嫌い――まるで移り気な子供のよう」

「あたしもお断りだなあ」

「うちの里でも、そういう奴は嫌われるよ」

「やっぱり、そうですよね」

 それぞれの答えを聞いて、ミルーニャは納得したように頷いた。その声に怒りが込められているのを感じて、私はこの質問が先程の話題にどう繋がるのかが見えてきた。つまりは、

「ミルーニャの父は、最低でした。お母さんがいるのに、他の女の人のところに行ったり、それを隠そうともしなかったり――」

「堂々と二股かけて恥じないような人って最低だ。隠してても最低だけど」

「お父様はお母様に百年以上も求婚してその間ずっと独身を貫いてた。そのくらいの一途さこそが美徳」

「そういう奴は見つけ次第ちょん切っちゃえば」

「みんな父親で嫌な思いしてるんだねー。私だけじゃないんだ」

「最後には『二人とも俺の女だ』とか言い出して家に連れてきて住まわせようとするし、お母さんはそれを黙って受け入れちゃうし、その後は心労で倒れてそのまま目が醒めなくて――」

「たとえどんな恩義があったとしても許しちゃ駄目。他にどんないいことしててもその最低さの前では霞んで見える」

「下劣な浮気者には限界までチャージしたオルガンローデぶっぱなしてやるべき」

「うっわークソハーレム野郎だ。最低だね」

「ていうかそれを娘の前で言うとか無いわー」

 ミルーニャの話を聞いていたらなんだか二股をかけるような人物に対する怒りが湧き上がってきた。もし今度そんな奴に出会う機会があったら、ミルーニャに代わって私が裁きを下してやろう。具体的には出会い頭に一発打撃をぶち込む。

 それからも続くミルーニャの家族語りは、ある種の怨念すら感じられるほどに暗く、恨みや鬱屈が込められたもので、家庭での抑圧を感じたことが無い私にはどこか恐ろしく聞こえた。

「人格が最低な上に、父は無能でした。家業の呪具店と工房の経営が立ち行かなくなって、大きな製薬会社の契約呪術師として就職して――杖使いとしての実力はあったけれど、現代の薬学って呪文の知識や技術が必須なんです。だから重要な仕事は任されず、現場に出て迷宮での採取や調査ばかりさせられていました。余剰分の素材も申告しないといけないので、まだ無所属でやってた方が収入がマシだったんじゃないかと思います。あれでそれなりに腕は立つから。それでも、お偉い呪文使い様たちに手品師だなんだと蔑まれて――でも文句一つ言わずに、毎日遅くなってから帰ってくるんです。いえ、間違えました。文句と愚痴は酒を飲みながらひたすら零してました。そのうち新しい方のお母さんも愛想を尽かして出て行ってしまいました」

 ぶつぶつと呟きながら前方の枝を手際よく切り裂き、後続の私とハルベルトの為に安全な足の踏み場を示していくミルーニャ。ブーツで草木をぐりぐりと踏みしだいて、絶えず背後に目を配る。手を引くのは私に任せているものの、遅れがちなハルベルトが脱落しないように気を遣っているのだった。
 こういう、辛辣でいて優しい彼女の気風は、そうした家庭環境で育まれたものなのかもしれない。

「契約を切られた時には随分と荒れてました。ずっと酒浸りで、周囲に当たり散らして。その後は在野の探索者として協会で仕事を探したり、空求人の依頼を掴まされたことに憤慨して協会に殴り込んで留置場に放り込まれたりと、まあ酷いものでした」

 その瞬間、木の枝を伝って巨大な蛇が牙を剥いてミルーニャに襲いかかった。慌てず騒がず、ナイフを一閃して木に縫い止める。正確に一撃で仕留めた手際は鮮やかの一言だった。

「ある時、『探索中に凄いものを見つけた。古代の貴重な魔導書だ。これさえあれば人生の一発逆転も狙える』って息巻いて、そのまま迷宮にすっ飛んでいきました。馬鹿じゃないのって思いましたね。貴重な遺産を見つけたら売れば良いんですよ売れば。そこで更に全額賭けての大博打って完全に頭がイっちゃってると思いません? 案の定、そのまま帰らぬ人ですよ」

 先頭のプリエステラが足を止め、ミルーニャの方に振り向いて何かを言おうとするが、上手く言葉にならないようだった。

「馬鹿で無能。どうしようもない人。無謀な探索に挑んで勝手に死んで、挙げ句に狙った獲物は他人に掻っ攫われて、手に入れた秘宝まで持って行かれて――」

「あの、ごめん、ごめんねミルーニャちゃん。私、そんなこと知らなくて、父親の仇が取りたいから協力してなんて――」

「いいですよ、エストさん。大嫌いでしたけど、それでも父親は父親。仇を討ちたいって気持ち。私も良くわかります」

 私の覚えている限り、ミルーニャが一人称を代名詞で口にしたのはそれが初めてだったように思う。その瞬間だけ彼女の隠された心の内側が見えたような気がして、私は。

「恨みをぶつける対象がいる貴方は幸せです。仇すら奪われてしまったら、どうすることもできない恨みをずっと抱え込まなくてはならないんですから。それすらできなければ――きっと膨れあがった恨みは、行き場を無くして自分ごと周りを引き裂いてしまうことでしょう」

 ――透明な表情を浮かべるミルーニャを見て、どうしてか背後を冷たい気配が通り過ぎていくような感覚に囚われた。
 きっと気のせいだ。呪力をはらんだ夜風は、時に禍々しい錯覚を運んでくる。戦いが始まれば、きっとそんなことを気にしている余裕は無くなるだろう。そう自分に言い聞かせて、私は先へと進む足取りを強く、確かなものにしようとした。

 ぎゅっと、土を踏みつける。何かを踏み殺した感触があったけど、私はもうそれが何かを気にすることは無かった。



 そろそろ到着するというプリエステラの知らせで、皆の空気が引き締まっていく。真剣になるのはいいが、緊張しすぎるのも良くないと思った私は、空気を和ませる為に話題を探し出す。

「私が聞いたことのある昔話だと、イキューってカッサリオのやられ役だった記憶がある。実際には大した事なかったりしてね」

「あたしもそれ知ってる。甘い蜂蜜につられて出てきた所をカッサリオに見つかって必死で逃げたんだよね」

「兎も好物だって聞きますね。確かどこかの根暗女、初対面で兎の混血とか言ってませんでしたっけ。ちょっとでも呪的な因子があると集中攻撃されるらしいので、まあ精々死なないように気をつけることですねー」

「――アズが守ってくれるから大丈夫」

 ミルーニャの手当が効果を発揮して、ハルベルトは軽口に言い返せるくらいには回復していた。後衛として待機している分には大丈夫だろう。約束通り、彼女には指一本触れさせないという決意を新たにする。

 やがて私達五人はその場所に辿り着いた。
 鬱蒼と生い茂る木々を掻き分けた先に、広大な空間が広がっていた。
 月光に照らされて風にそよぐ、一面の金色。
 その名の通り箒のような花々が、遙か彼方までずっと続いていく。

 幻想的といって差し支えの無い光景だ。私は感嘆の溜息を吐こうとして、それに気がついた。
 花に埋もれるようにして膝を着く、三つの人影。身体の各所に深い手傷を負い、皆それぞれ満身創痍の状態だった。ペイル、ナト、イルスの三人の修道騎士たちだ。おそらく鴉の使い魔で上空からこの金箒花の群生地を発見してやってきたのだろう。

 その正面に、異形の怪物が立ちはだかっている。
 長い舌を垂らし、強酸の涎が金色の花を溶解させ、貪婪な食欲だけを周囲に放射している。あの怪物にとって、周囲の全ては捕食対象でしかない。
 激しい既視感を覚える。なんだかこれと似た光景を前にも見たことがあるような気がしてならない。

 戦慄する私達の目の前で、舌獣イキューが全身を震わせて甲高い鳴き声を上げた。
 それが戦いの幕開けを告げる合図となった。



 舌獣イキューが邪視を使う怪物であると言われても、直感的には納得しづらい。
 この怪物には、目が存在しないからだ。
 代わりにその異形を特徴付けるのは、途方もなく長大な赤い舌である。

 邪視というのは知覚によって発動する呪術であり、イキューは味覚を引き金として邪視を発動させる。全身は滑らかな白で、尾は両生類、下半身は霊長類の赤子、馬の前足と胴体、たるんだ首の皮から長い舌を生やしている。頭部はなく、感覚器官は胃袋から直接生えた舌。既存の生物に喩えるなら、ひどく痩せた白いモルゾワーネスと言ったところか。

 舌獣、あるいは舐舌獣イキュー。イキューというのはリクシャマーの言葉で『舌』を意味する。奴の舌は目であり手でありそして脳でもある。イキューは舌で知覚し舌で思考する。脳は退化し、殆ど舌と同化しているのだ。胃袋に直接繋がっているというが、実のところ消化というプロセスさえ味を感じるという欲求の前には些事でしかない。あれは味覚の化け物だ。甘いものを求めるということしかしない。思考などと言う上等な活動はイキューにはできない。生きた機械もしくは昆虫。それがイキューだ。

 小動物、とくに霊獣である兎を好んで食べるが、基本的に雑食。舐めて感覚しただけで【生命吸収】を発動させるため、呪術に対する抵抗力が低いものならば舌に触れた瞬間にその箇所を溶かされて消化吸収されてしまう。

 恒常的に呪術を『構えている』ためか、アストラルの視界で見ればだらしなく垂れ下がった長大な舌の周囲に高密度の呪力が凝縮しているのがわかる。かの魔将エスフェイルもその足下、影の中に広がる本体は途方もなく巨大だった。イキューの舌は物質的にはいかにも柔らかそうだが、呪術としては極めて高い優先度を誇っている。あまりにも強烈に呪力が集中しているので、金色に光って見えるほどだ。もっともあの怪物には色などわからないだろうけれど。

 金色。一面の金箒花に埋もれるようにして蹲っていた一人が、全身から金色の闘気を立ち上らせていた。武闘家の鍛え上げられた肉体に宿る呪力、闘気。黄金に輝く流体と同化するようにして、不定形のなにかおぞましいものが揺らめき、男の筋骨隆々とした体躯にまとわりついた。

「うおおおぉぉぉぉぉぉ!!」

 人のものとは思えぬような大絶叫と共に、男がイキューに突進する。修道騎士ペイルの全身が光に包まれている。その突進に理性は無く、その絶叫に思考は無い。憑依型の寄生異獣――亡霊を肉体に取り憑かせてがむしゃらに敵に突撃する狂戦士となっているようだった。憑依された肉体は限界を超えて駆動し、霊的な攻防力は飛躍的に向上している。

 だが、それも無駄な足掻きでしかない。
 白く滑らかな胴体に拳が叩きつけられる。一撃、二撃、三撃と、凄まじい威力と速度の連撃がその馬ほどの全身を打つ。修道騎士であれば見上げるような巨体の異獣と戦う事もある。長身のペイルにとってイキューは恐れるような体躯の相手ではない。その筈だった。

 動かない。打撃が通用していなかった。イキューが地面に着いているのは前足のみであり、極端な前傾姿勢だ。後肢は赤子のように小さく未熟で、強烈な打撃に耐えられるようには見えない。そもそもあんなバランスの悪い体型でどうやって動くのか。

 ペイルの拳が、初めて空を切った。
 イキューの姿がかき消えたかと思うと、一瞬のうちにその背後に回り込んだのだ。凄まじい勢いの体当たり。ペイルの体勢が崩れ、その全身に長く巨大な舌が巻き付く。

 締め上げた。唾液が全身にまとわりつき、屈強な皮膚をどろどろと溶かそうとする。憑依した寄生異獣の亡霊が悲鳴を上げていた。憑依型の寄生異獣と特殊な皮膚型の生体呪動装甲があるため、頭部を一撃で溶かされた蛇の王の如く即死することはないようだが、このままではペイルの命は間もなく絶えるだろう。

「やらせるかっ」

 ナトが叫ぶ。高速で飛行する攻撃端末が伸び上がった舌に直撃する。
 そして、一瞬にして融解――いや、消滅した。
 呪的防御の低い攻撃端末は舌が発動した邪視によって塵にまで分解されてしまったのだ。

 ナトは舌打ちして、自らの手足たる鴉に命令する。金鎖を砕きながら、より小さな烏を出現させて二羽が螺旋の軌道をとりながらイキューの本体に突進する。旋風が巻き起こり、金色の花びらを巻き込みながら高密度の呪力が怪物の身体に激突した。

 たまらず舌がゆるみ、ペイルが拘束から解放される。腕や胸の皮膚が爛れ、赤い筋繊維や骨までもが露出していた。白目を剥いて倒れ伏すペイル。
 舌を震わせながら、イキューが奇怪な鳴き声を上げた。赤子の後肢をばたつかせて、風のように疾走する。それは翼を持つ者の飛行速度を軽々と超えていた。二羽のカラスたちに追いついたイキューは、そのまま真っ赤な舌をべろりと伸ばして一口で飲み込む。

「貴様ぁぁぁぁっ」

 ナトが槍を手に立ち向かうが、渾身の刺突は軽々と回避され、背後に回り込んだイキューに舌で一撫でされる。呪動装甲の表面で呪力が放電し、舌が弾かれる。だが衝撃で鎧は破壊され、ナトはそのまま花畑を転がってそのまま動かなくなった。

 残るイルスは片腕を負傷しながらもペイルを治療しようとしているが、イキューに立ち向かうだけの気力が無いのは明白だった。
 三人の修道騎士たちに、戦う力はもはや残されていない。待つのは死のみ。
 この場に、誰も介入しなければ。

 飛来した呪石弾が増幅効果の呪文式を展開し、そこに赤い文字列と赤い呪石弾が突入する。拡大、膨張した【爆撃】の呪文が二重に炸裂し、イキューの全身に爆圧と熱を浴びせていった。

 私とミルーニャによる先制攻撃は成功した。続いて、メイファーラとプリエステラが勢いよく前に出て行く。
 甲高い叫びを上げて、舌先を巡らせるイキュー。その奇怪な超知覚でようやくこちらを認識したのか、断続的な叫びで威嚇しながらこちらに向き直った。

「気をつけて。イキューの後肢は洗礼を受けずに命を落とした赤子のもの。冥府と直接繋がったあの脚は呪力を蹴って自在な移動を可能とする」

 ハルベルトの助言。基本的に手出ししないという姿勢は徹底しているが、仮想の使い魔を呼び出して負傷した三人の修道騎士たちを離れた場所に避難させようとしていた。

 イキューは俊敏に動いて攻撃を躱す。躱しながら、舌を伸ばして反撃する。呪術に対する抵抗力が無ければ致命的な攻撃、たとえあったとしても大きなダメージは避けられない攻撃だ。

 その全てを見切り、回避し、時に払いのけ、完璧に防御してのける。メイファーラの『天眼』は凄まじい回避能力と邪視に対する抵抗力を与えてくれていた。邪視攻撃を完璧に見切って受け流すことで、その被害を最小限に抑える技術。【天眼の民】の特性が可能とする高速の攻防。まさしくイキューと相対するのに最も適した人材と言えた。

 メイファーラが盾となってイキューの攻撃を凌いでいる間に、プリエステラは攻撃の準備を整えていた。長大な木の杖を手にしながらイキューの背後に回り込む。

 袖口から放った蔦と茨が鞭となってしたたかに白い身体を打ち据えた。痛みに呻くイキューをメイファーラの追撃が退かせ、再び隙を作り出す。
 プリエステラは、杖先を足下に向けた。蔦が杖に巻き付いて、細腕では充分に扱いきれぬであろう重量の杖をしっかりと支えた。繁茂する花々を掬うように、大地すれすれを滑らせていく。杖の先に収束していくのは金箒花が地脈からたっぷりと吸い上げ、蓄えていた呪力だった。

「くらえ、父の仇っ」

 旋回する杖先が、十分な加速をつけてイキューの胴体に叩きつけられる。杖は打撃武器であり、同時に呪術を発動させる端末でもある。衝撃と同時に解放された呪力が炸裂し、白い身体を吹き飛ばす。

 宙を流れるその身体が、突如として上空に逃れる。そのまま空中で反転、直角の方向転換を繰り返し、大きく距離を取る。虚空を蹴る赤子の脚から生み出される機動力は全く侮れない。メイファーラが前に出て短槍を構え、プリエステラが杖を突き出す。私もまた呪文を唱え、ミルーニャが投石器スリングショットに呪石弾を装填した。

 いける、と思った。敵は素早く、攻撃は強力だが手も足も出ないと言うほどではない。なにより、メイファーラの前衛としての相性の良さが効いている。このままあの舌での攻撃を受け流してくれれば呪文攻撃で仕留められる。

 その長い舌が再びメイファーラを襲った時も、私は楽観的な思考から落ち着いて呪文を唱えることができていた。メイファーラが正確な短槍捌きで舌を突く。呪術によって加工された鋭利な尖端から逃れる舌。逸れた軌道の先には円形盾が待ち受けており、メイファーラの右側頭部で髪束を結わえている天眼石が輝くと同時に対邪視の障壁が展開される。舌は完全に弾かれ、無防備になった瞬間を狙ってプリエステラが懐に飛び込んで一撃を加えようとする。その瞬間だった。

 舌が裂けた。
 最初はメイファーラが切り裂いたのかと思ったが違う。あれは分裂したのだ。根本から無数の触手に枝分かれして、細く長い肉の束となって空中をうねる。プリエステラが咄嗟に杖を払って防御し、メイファーラが短槍を旋回させながら攻撃を捌いていく。

 だがあまりにも数が多い。小さくなってその速度まで増したのか、無数の舌が二人の防御を貫通し、手足に裂傷を刻んでいく。呪術に対する防御は共に高かったのか、致命傷は負っていないようだ。

 大気を切り裂いて呪石弾が呪術を発動させる。青く清浄な光がメイファーラとプリエステラを照らし、【安らぎ】の呪術が鎮痛効果をもたらして前衛二人の途切れかけた集中力を回復させる。更にミルーニャは矢継ぎ早に次なる呪具を解き放つ。今度は呪石弾ではなく小瓶で、それはくるくると回転しながら飛んでいったかと思うと、メイファーラに直撃して透明な液体を浴びせかけた。

「だ、大丈夫なの?!」

「感覚を鋭敏にする薬で、お気楽修道騎士の邪視能力を高めてくれます。あと瓶は割れやすい砂糖と澱粉の加工品なので怪我もしませんよ」

 ミルーニャは冷静に答えつつ、呪石弾を複数手に取って吟味する。前方で戦っている二人を見ながら私の方を向いて続ける。

「敵は素早い上に防御もかなり硬いようです。呪石弾もあまり残っていないですし、無駄に撃って注意を惹き付けるだけの結果にしてしまうのも避けたい。攻撃は二人同時に、最大威力のものをぶつけましょう、アズーリア様」

「うん、わかった」

 ミルーニャの冷静な言葉が、私の乱れかけていた心を落ち着かせていく。理性を重んじる杖使いの錬金術師アルケミストは時に冷酷で機械のようだと言われがちだけれど、こうして戦場で肩を並べるとこの上なく頼もしい。

 イキューの攻撃は絶えることのない波濤のようだった。だが終わりのない舌の嵐が不意に途切れる。引っ込められた舌に代わって口から飛び出してきたのは大量の液体。触れるものを溶かす強酸の胃液だった。

 さしものメイファーラもこれを受け流すのは無理だ。前に出たプリエステラが杖で地面を叩くと真下から土の壁が迫り上がって強酸を受け止める。イキューの攻撃はそれで終わらない。後ろ肢で虚空を蹴ると高く跳躍して障壁の背後に回り込み、上空から酸と舌の攻撃を加えていく。メイファーラのローブが溶け、プリエステラの防御が崩れていった。私とミルーニャは同時に【爆撃】をイキューに叩き込んだ。

 地面に墜落したイキューにすかさず繰り出される前衛二人の攻撃。胴体にめり込んだ短槍の穂先と凝縮された呪力とが実体と霊体の両面を損壊させ、血と呪力が噴出した。

 絶叫を上げるイキューが身をよじってその場から逃れる。振り回される舌先に二人が後退するが、そこでメイファーラが愕然と自らの得物を見た。

「まずい」

 ミルーニャの、かつてないほど切迫した声。私もまた、穂先が丸ごと失われたメイファーラの短槍を凝視していた。胴体に突き入れた時に失ったのか。何故? まさか、細く鋭くした舌を体内に穿孔させて、突き入れられた槍の穂先を舐め取ったというのか。

 邪視は己の世界観、つまりは知覚を世界に強制する呪術だ。他者からの認識による干渉が及びにくい体内で発動させる方が効果を発揮しやすい。受信・受動型の邪視を使うメイファーラがそうであるようにだ。『舌に触れたものはすべて分解吸収される』というイキューの確信はその体内では比類無き強さとなり、メイファーラの槍を破壊した。これで彼女の攻防力は半減する。

 無数に枝分かれした舌が襲いかかり、残された柄と盾でどうにか凌ごうとするが、以前よりも捌ききれる数が減っている。私の貸していた衣が剥がれ落ちていき、軽装の鎧が露わになっていく。

「私が前に出て加勢する。ミルーニャ、援護を」 

「駄目ですよアズーリア様。鎧が壊れてる今の状態じゃ危なっかしくてしょうがありません。防御や回避が低い後衛は、じっと機会を待つのも仕事なんです」

 あくまでも冷静なミルーニャの言葉にはっとさせられる。しかしミルーニャにしても今の状況は危機感を抱かせるものだったらしい。メイファーラは明らかに劣勢だし、プリエステラの攻撃も次第に通用しなくなっている。無数の舌で大気の動きを読んでいるのか、打撃の軌道が読まれてきているのだ。機敏な動きで回避と防御を同時に行う怪物からは隙というものが消えてきていた。

「仕方無い。あまり気乗りはしないんですが――」

「何か手があるの?」

「えっと、アズーリア様。ちょっとの間、こっち見ないでもらえません?」

 何故だろうと思いつつ、言われたとおりにミルーニャから視線を逸らす。少しの間をおいて、腹の奥から絞り出すような凄まじい悲鳴が聞こえて私は思わずミルーニャの方を見てしまった。目を丸くする。

「な、何やってるのミルーニャ」

「見ないでって、言ったのに――」

 痛々しい。そうとしか形容できない光景。ミルーニャが、自ら左手中指の爪を剥がしていたのである。べりべりと引き剥がされていく生爪から血が滴り、生み出される壮絶な痛みがミルーニャの額に汗を浮かばせ、歯を軋らせている。なによりもまず視覚的に痛い。実際の痛み以上に精神に負荷がかかりそうな行為だった。

「痛い、痛、いたた、うぐっ、うぐぅぅぅ」

 自ら爪を剥がす痛みに、ついに泣き出してしまう。なぜか、どきりとした。嗚咽の中に混じる熱を帯びた吐息が、どこか艶めいているようにも聞こえた。やっていることはただの自傷行為であるはずなのに、どこか見ているものの嗜虐心を煽るような感覚がある。思えば、普段の挑発的な毒舌や態度もやたらと敵意を煽るようなものだった気がする。

「ああ、見られてる、自分で爪剥がして、痛くて泣いちゃってるところ、アズーリア様に見られてる!」

 吐息の中になにか苦痛だけでなく悦楽めいた気配を感じて、思わずぞっとする。
 まさかとは思うが。

「痛い痛い痛い、痛いところ見られて、ミルーニャ気持ち良くなっちゃうぅぅぅ!」

 引いた。
 それはもう、物理的に一歩二歩、念には念を入れて三歩退いた。考えてもみれば失礼な行為で、色々な人がいるのだから痛みで快感を得たりそれを見られて快楽を覚えたりする人がいてもいいとは思うのだが、しかしなぜ今そんな事をしているのだろう。 

「見ないで、ミルーニャの恥ずかしいところ、見ないでっ」

 私は言われたとおり視線を逸らした。見るに堪えなかったというのもある。そのおかげで、直後に起きた現象の始まりを見損なうことになったのだが。

「ぁぁぁあ――左手中指、解錠アンロック。 おいで、【スーサイダルブラック・レプリカ】」

 巨大な呪力が唐突に出現する気配。
 視線を向けると、ミルーニャの前方にいつの間にか奇妙な物体が現れていた。
 ねじくれた形状を持つ、木の枝とも未知の生物の骨格ともつかぬ漆黒の長槍。それが槍であると直感的に理解できたのは、その放出される呪力の質があまりにも殺戮にのみ特化したものだったからだ。

 異様だったのは、柄から伸びた黒い管がミルーニャの傷痕――爪の剥がれた指先に繋がっていることだ。管はあきらかにミルーニャの指よりも太い。しかし指の手前で縮尺がおかしくなって、細く小さい管は彼女の内部に入り込んでいた。

「これがミルーニャに使える唯一の邪視――痛覚を引き金にして内的宇宙と接続する、変則的な【ハイパーリンク】の呪術。ミルーニャの工房アトリエにして大倉庫、そして【アルタネイフ呪具百貨】の品揃え、ご覧あれ!」 

 邪視は自分の内側に効力を発揮する方がずっと難易度が低い。本来他系統を得手とする術者――例えば杖使いでも、身体性に根ざした邪視ならば使えてもおかしくはない。それが自らの内部に影響を及ぼす術であれば猶更だ。

 彼女の能力は爪を剥がすことで【扉】を開き、積載量を超える物品を呼び出すことなのだろう。それは事実上、無尽蔵のリソースを使えると言うことだ。地味なようにも聞こえるが、ちょっと凄い呪術なのではないだろうか。――ちょっとどころではなく彼女に対する人物評が揺らいだのだけれど。

「ああっ、見られてる、ミルーニャの恥ずかしい爪の中、全部見られちゃってる!」

 私はかつて全裸で現れたアキラを変態と呼んだ。しかし今ではそれが不適切な評価だったと思える。本当に変態と呼べるのは、例えば目の前で悶えているミルーニャみたいなのだろう。

「アズーリア様の侮蔑の視線が辛気持ちいいですぅ♪ もっとミルーニャを蔑んで! ああ、でも駄目、嫌いになって欲しくないですー!!」

「大丈夫だから、嫌いにならないから。いいから早くその槍っぽいのをメイに渡そう? そのつもりで出したんだよね?」

「はい、あの――その」

「なに?」

「後で罵って貰っていいです?」

「さっさとやれこの露出被虐趣味の変態雌豚」

「きゃぁぁぁぁん♪」

 喜びの嬌声を上げながら剥がれた左手中指の爪を右手で弾く。爪の表面に血の文字が浮かび上がり、白い光を放ちながら巨大な文字列を立体投影する。指から無数の管が切り離され、肉をぶちぶちと引き千切り血を飛び散らせながら文字群の中心を漆黒の槍が通り抜けていく。加速した武器は矢のようにメイファーラの背後に向かうと、隙無しの『天眼』によって背後を正確に把握していた彼女の手にしかと収まった。

 無数の黒い管がメイファーラの腕に巻き付いて、頑丈な籠手のような形状になる。奇怪極まりない生きた武装。見ただけで強力な呪詛が込められた一級の呪具だとわかる。

 一閃すると、無数の舌が小刻みになって地に落ちた。溢れる血、上がる絶叫。
 二度、三度と繰り出される穂先は先程よりも速度を増し、その鋭利さも今まで使っていた短槍の比では無い。込められた呪力は膨大で、可視化した呪力が漆黒の靄となって穂先にまとわりついている。胴体に突き入れて引き抜くが、もはや穂先が失われるということもない。槍自体の呪力がイキューの邪視の攻撃力を凌駕したのだ。

 形勢は一気に傾いた。強力な武装を手にしたメイファーラの攻撃は見る間にイキューを追い詰めていき、繰り出されたプリエステラの打撃はその胴を打ちのめす。私とミルーニャの息を合わせた支援攻撃が白い肉体を焼き焦がすと、繰り返される絶叫もやがて力無く途切れていった。

 黒い槍が突き入れられ、串刺しの状態で宙に固定されたイキューを杖による強烈な打撃が襲った。胴体が潰れ、ついに破裂した皮膚から血肉と臓物が溢れ出して踏み荒らされた花畑を汚していく。弱々しい声が断末魔となって、怪物は動かなくなった。

 もう一度、止めとばかりにプリエステラが杖を叩きつける。更にもう一度。それでも足りないとばかりに続く一撃。何度も何度も、繰り返し杖を叩きつける。反射や痙攣すら無くなって、それでも抑えきれない激情を充分に吐き出しきるまで。
 血まみれの杖がゆっくりと下ろされて、張り詰めた空気は緩やかに消えていった。

「やった、やったんだ、私――」

 プリエステラが荒く息を吐きながら、震える声を漏らす。槍を引き抜いたメイファーラが、穏やかな目でプリエステラを見つめる。離れた位置で、ハルベルトも三人の治療を終えた様子で、プリエステラたちの所に歩み寄っていく。私とミルーニャは戦いの終わりに安堵して、勝利者であるプリエステラを労おうと近くに駆け寄っていく。

 口々にお互いの働きを讃え合いながら、勝利を噛みしめる。
 貴重な固有種の討伐。死体から素材となる戦利品を分配し終わったら、集落に凱旋して皆で祝おう。勿論、当初の目的であった金箒花もありったけ集めるのを忘れずに。この分なら、競争相手である三人に負けることはまずないだろう。

 完全な勝利だ。私はそう確信した。
 プリエステラは、執拗なまでに止めを刺し続けた。念には念を入れて何度も何度も。それはもう、死体を不必要なまでに痛めつけるような打撃の嵐。恨みの発散、復讐の遂行、喪の儀礼――それは合理的な死亡確認を超えた、儀式的な殺戮と言えた。

 だから、それが油断だなんて、その時の私には微塵も思えなかった。
 五人が集まって喜びを分かち合おうとしたその時。
 完全に動かなくなった筈の死体の中から、長く太いものが蛇のようにしなやかに、それでいて素早く這いだしたかと思うと、一瞬にして高く飛び上がった。

 真っ先に反応したのはメイファーラだった。跳躍した赤い襲撃者に向けて鋭く正確な突きを放つが、空中を地面の上にいるかのように自在に這い回る怪物に刺突は命中しなかった。虚空を泳ぐ凄まじく長大な蚯蚓とも蛇ともつかないもの。ざらついた表面は、紛れもなく先程息絶えたはずのイキューの舌だ。内臓を思わせる感覚器官――それ自体がイキューの本体だったのか。それとも、あれは寄生生物のようなものであの白い胴体と共生関係にあったのか。正確な事はわからない。なにしろイキューの討伐例というのが遠距離から一撃で氷漬けにしたという身も蓋もないものしか存在しないので、その生態については詳しいことがわかっていないのだ。

 赤い管が無数に分裂してメイファーラの腕、肩、脚を貫通し、鮮血を啜って中空を踊る。苦痛に呻きながらメイファーラが倒れた。天眼石の髪留めが障壁を形成して持ち主を守るが、その時には既にイキューは高く舞い上がって空に逃れている。無数の管が一カ所に集まり、蠢きながら奇怪極まりない異形が次なる標的を探す。その矛先がミルーニャに向かう。

 至近距離では呪石弾を撃つよりもナイフの方が早い。振るわれた銀の一閃は容易く空を切るが、それは次なる攻撃の布石。だん、と勢いよく大地を踏みならして呪力を導引すると、高々と持ち上げられた脚が旋回しながら舌の怪物に叩きつけられる。

 衝撃はあっけなく空中で霧散した。繊維のように限界まで細かくなった舌はそれぞれが物質を分解する機能を有した邪視器官と化し、ミルーニャの脚を微塵に裁断していった。ばらばらと落下していく肉片、吹き上がる鮮血、そして先ほど自ら生爪を剝がした時のような叫び。崩れ落ちるミルーニャの胸元に膨大な量の繊維が殺到し、次々と通り抜けていく。背中から、肩から、腰から、脚から、腕から、首から。体内に侵入した繊維質が彼女の全身を蹂躙し、食い荒らし、貪食していく。穴だらけになった全身から血が噴出する。無数の刃となったイキューがその胴体を真横に両断し、肩掛けの大きな鞄がどさりと落ちた。戻る動きで、ほっそりとした首が切断される。

 はね飛ばされた頭部は花々の中に落ちると、そのまま少しだけ転がって停止した。
 首から吹き出した血。金色の花畑に赤い雨が降り注ぐ。異形の生物は、歓喜するように宙を踊りながらその味を舌で受け止めた。

 全ては、一瞬のうちに行われた。瞬きをする間も無かった。それくらい、私は何一つできなかった。槌矛を手に持ったまま呆然と突っ立って、ただミルーニャ・アルタネイフという、つい先程まで軽口を叩き合っていた仲間が無残に殺されるのを見ていることしかできなかったのだ。

「嘘」

 嘘なんかじゃない。人はとても簡単に死ぬ。手練れの斥候であるカインはエスフェイルを罠にかけて仕留めたが、そのために死んだ。優れた修道騎士であるキールとマフスは私が殺した。テールとトッドもあれだけ頼もしかったのに死ぬ時はあっけなかった。

 その他にも、第四階層の無意味な防衛戦で沢山の人が死んでいった。第五階層への無謀な突撃で無数の人が命を散らした。私の言葉に踊らされて。
 ああ、私はまた、自分の為に誰かの命を犠牲にしたんだ。

 誰も守れず、自分だけが生き残る。
 どれだけ悔いても嘆いても、あの快活な毒舌家は帰ってこない。
 本当に?

「フィリスッ!」

 名を呼ぶ時間すら惜しかった。三回目の金鎖解放によって左手が脈動し、活性化させられた寄生異獣が超高密度の呪力を練り上げていく。時間すら遡って事象を改変する大呪術が発動し、目の前で起きてしまった惨劇を塗り替えようと色のない光を放射していく。

 ハルベルトの時と要領は同じだ。万能の医術、あらゆる致命傷を無効化するパラドキシカルトリアージを再現してミルーニャの死を否定してみせる。
 だが、極限の集中と共に左手を掲げた私の身体は一瞬だけ無防備になる。その隙を逃さずに無数の斬撃と化したイキューが襲いかかった。

 宿主の危機に自動的に反応したフィリスは規定のプランに従って呪文の性質を変更してしまう。摸倣呪文ではなく、対抗呪文【静謐】が発動。細かい斬糸の群れという呪術的な力無しには成立し得ない肉体となったイキューの呪的構造を解析し、解体していく。繊維の如き総体が私の眼前で停止し弾き飛ばされる。そればかりか、全体が依り合わさって一本の長い舌となった。

 背中の芯に冷たい氷を差し込まれたような感覚。
 呪術を完璧に解体して消去した時の手応えがない。【静謐】は非物質的な呪術構造で肉体を維持しているタイプの相手に使えばその命を奪う事すら可能だ。かつて第五階層で精鋭種の人狼に追い詰められた私は、敵の根幹を成す【平和喪失】の呪詛を解体して打倒した。魔将エスフェイルを成立せしめる【闇の脚】というまことの名を掌握して存在を否定した。その時に感じた相手を滅ぼしたという実感が無い。

 打ち消し損ねた。駄目だ、これでは元に戻っただけ。脅威は消えていないし、ミルーニャの死の結果が遡及的に改竄されたりもしない。
 【静謐】は結果的に私を守ったものの、誤発動した上に半ば不発に終わっていた。身体性に根ざしていたり、その作用が内的なものに限るような邪視は、対抗呪文に強い耐性を持つ。イキューが使ったような肉体を変異させる邪視は半ば杖に近い。物質的な存在強度と精密な再現性のある系統の呪術を完全に打ち消して『無かったこと』にするには、長い時間をかけて対象の構造を正しく理解しなければならない。今のような咄嗟の発動ではそのような結果は望むべくも無い。

 再びフィリスを活性化させる。立て続けの金鎖解放に頭の奧に軋むような頭痛を感じるが、耐え抜いて精神集中を続行する。

「もう一度! フィリスッ!!」

 残り二環となった金鎖が輝き、その影となるように色のない左手がのっぺりとした闇を広げていく。闇そのものとなった左手が、今度こそかつて見た至高の復元医療術を再現しようとして――

「――え?」

 ぐらり。左手が弾かれたように後ろに流れていく。散っていく呪術の構成。霧散する呪力。無意味に砕け散った金鎖の欠片。信じられない、と吐き出された息。

 失敗した。夜という最高の状態であったにも関わらず、失敗できないという極限の状況であったにも関わらず、私は極限を超えた超高位呪文【万色彩星ミレノプリズム】の発動に失敗してしまった。摸倣呪術はパラドキシカルトリアージを再現できなかったのだ。

 何故? どうして? 否、そのような疑問を持つこと自体が間違っているのかもしれない。あの時、ハルベルトを救えたこと自体が奇跡のようなもので、元々私の力量で成功するような試みではなかったのだ。けれど、それでも今ミルーニャを救うにはそれしかなくて。

「フィリスッ! フィリスッ!! フィリスッ!!!」

 もう一度。
 やめろ、無駄だ、死に近付くだけだと囁く理性の声を無視して、私は残り二つになった金鎖の半分を割り砕く。心を静謐に保つ。一分の隙もない、夜のように澄み渡る心で精神集中を行う。再現する。再生する。星のように煌めく軌跡を、幾万の輝きを映し出す万能の呪術を発動させる。ミルーニャの命を、この手に取り戻してみせる。

 静謐。
 無音だけが、その結果だった。
 血の雨はいつの間にか止んでいて、分かたれた小さな頭と胴体は赤々とした血に沈んでいた。もう遡れない。手遅れになってしまった。完全に損なわれたものは戻らない。死人の操り人形と化してしまったキール隊のみんなのように。生と死はどうしようもなく不可逆なもの。それがこの世界の理だ。それを否と言うことができるのは、不死の女神であるキュトスとその眷族、そして生と死の神秘性を否定して再現性の呪術で死を無かったことにしようとする一部の杖使いたちだけ。ゆえに彼らは疎まれ蔑まれ、邪悪であると排斥されるのだ。

 今はその在り方が羨ましい。それがこの世界の理から外れることであっても、大神院の教義に背くことであっても、地上の正義に反することであっても。私は死を否定できるだけの力が欲しい。狂おしいほど――呪わしいほど切実に。

 長大な舌そのものが鎌首をもたげる。対抗呪文を受けたことで私を危険だと判断したのか、別の標的を探し始める。体表面すべてが感覚器であるイキューは敏感に好物である兎の存在を察知したのか、その矛先を不用意に近くまで寄ってきていたハルベルトに向けた。

 このまま手をこまねいていれば、呪文を唱える暇すら与えずイキューはハルベルトの身体を蹂躙し、大地に横たわるミルーニャのような末路を与えるだろう。

 その未来を想像してしまったのか、ハルベルトは竦んだように動けなくなってしまう。瞬間的に、私はある光景を思い出した。単眼巨人を前にして、青ざめた表情で怯える彼女の姿を。血にまみれて私の無事を喜ぶ師の姿を。そして、月明かりだけが照らす場所で、確かに交わした約束を。

 今度こそ、守ってみせる。
 守らないと、私は。
 命じるよりも早く、黒衣の内側で使い魔が役割を果たす。投げ放たれた砂糖菓子。それはほとんど賭けだった。甘さを極限まで追求した糖分の塊、イキューが追求する味覚への刺激と快楽の発生源。不意打ちだからこそ通用する見え透いた罠。だがこの瞬間だけ、幸運は私の味方をしてくれた。長大な舌は砂糖菓子に食いつき、生まれた隙を縫って私はハルベルトの前に立ちはだかる。

 黒衣を翻して、杖を展開する。花開いた杖の内側から、月光に照らされて透き通った昼の空の如き天青石が現れ出でる。呪力光が溢れ出して拘束の帯が放たれると、長い舌を頑丈に絡め取った。【陥穽エンスネア】が発動する。

 イキューは必死に抵抗するが、拘束から逃れる事はもはや不可能だ。怪物の舌は修道騎士ペイルの全身を抵抗不可能なまでに締め上げ、その屈強な身体を溶解させた。そして日中に対峙したペイルは私の拘束をいとも簡単に打ち破った。単純に呪力を比較すれば、私の呪力でイキューを押さえ込める筈も無い。

 だがそれは、あくまでも昼間だったらの話だ。
 遮るものの無い夜空に、無数の星と四つの月が輝いているのを感じる。【夜月スキリシア】が空に闇を広げ、【|幽月(イヴァ=ダスト)】が星々を瞬かせ、【精月アヴロニア】が天と地を引き剥がし、【太月イルディアンサ】が潮汐力を最適化していく。降り注ぐ月光が、私の全身に呪力を漲らせていた。

 私は眷族種における序列第二位、【夜の民】だ。その名の通り、私達の呪力は夜の間だけ飛躍的に高まる――夜の間だけ本来の力を発揮できる。限られた時間だけとはいえ、夜の私達はあらゆる眷族種を上回る呪術適性を得ているのである。

 今の私が保有する呪力量は昼間とは段違いだ。ペイルに容易く引き千切られた光の拘束帯は、夜になってその輝きをぐんと増していた。呪的強度は比べるまでもない。上位魔将エスフェイルさえ封じ込めた拘束呪術、破れるものなら破ってみるがいい。

「エスト、今のうちに!」

 私が促すと、プリエステラは決然と頷いて、杖を高々と天に掲げた。強靱なオークを素材にした杖を握りしめる細い両手に、微細な紋様が浮かび上がっていく。

 ティリビナの巫女。極めて稀なその資質が、体内に秘められた固有の呪術を発動させているのだった。
 突然変異の樹妖精アルラウネ、その因子の中に刻み込まれた形無き血。生ける魔導書。その名は【アルラウネ断章】。遺伝子に内包された『種の記憶』に呪力を見出し、一つの呪術として発動させる。その効果は巫女であるプリエステラの身に超常の力を授けるというものだ。

 緑色の長髪が輝き、頭部の花が呪力を蓄えた粒子を散布していく。すみれ色の瞳が鋭く舌の怪物を睨み据える。その口から紡ぎ出されるのは、長大なる呪文の詠唱だった。

「生と死は流れ、密やかなるせせらぎはほの暗い土の中にたゆたう。ふるえよ目に見えぬ旅人たち、草木の囁きに耳を澄まし、梢の踊るさまを見よ。昼となく夜となく降り注ぐ烈火よ包み込む鏡の影よ、母の腹を突き破り、父の喉笛を掻き切らんと手を伸ばす獰猛なる子らに恵みを与えよ。森の主よ猛り狂え! 我は目、我は口、荒ぶる神意の代行者なり! 矮小なる者どもよ、【うろの中の秘密レルプレア】を畏れよ!!」

 大神院が説くところによれば、ティリビナの民たちは邪悪な存在を崇拝する野蛮人たちであり、非人道的で迷妄な教えを頑なに信奉し続ける愚か者どもなのだという。森の暗がりに子供を引き摺り込む人攫いの邪神、あるいは空虚と腐蝕の魔王レルプレア。大神院が誇張し喧伝する、自然神の荒ぶる側面だけを抽出した解釈。その恐るべき側面が、今この場所に顕現しようとしていた。

 大地が鳴動する。草木がざわめき、花が狂乱し、虫たちの鳴き声が途絶える。
 アストラルの視界に、雄大な風景が広がっていた。
 膨大な呪力の流れが樹木神の巫女の背後に集い、巨大な大樹の如き様相を呈している。複雑に枝分かれしていくその輪郭は、天に手を伸ばす巨大な手にも見えた。

 プリエステラの体内を走り抜けた複雑な呪文群が超常の現象を引き起こす。一瞬にして無数の毒草を煎じ詰めて合成するのと同様の工程が行われ、強塩基アルカリの溶液が水流となって杖先に集まっていく。あらゆるものを腐蝕させ、致死毒によって身体を蝕み、おぞましい異臭を放つ極限の汚濁液。杖が築き上げてきた人工的な文明など及びも付かない、自然界という底無しの闇が生み出した死と破壊の申し子がそこに顕現する。イキューが最も嫌うと言われている苦味を伴った猛毒が勢いよく振り下ろされた。

 激しい痙攣と共に舌全体が激しい痛みによって収斂していく。声ならぬ声を上げ、壮絶な苦痛にイキューは苦悶した。だが私は拘束を解くことはしない。むしろより強く締め上げ、更なる苦痛を与えるべく渾身の呪力を込めていく。

 表面に垂れ流されるだけではなく、舌の内部にまで穴を開けて注ぎ込まれる腐蝕の猛毒。狂乱せんばかりに暴れ狂うイキューはその命を燃やし尽くすまで蠢き、長い長い抵抗の果てについにその動きを停止させた。

 私は、その原形を留めないほど損壊して汚染された舌を地面に下ろすと、そのまま杖を槌矛に変形させて振り下ろした。
 何度も。何度も何度も何度も何度も。プリエステラが、その怨恨の全てを叩きつけていた様に。死んでいることが分かっていても、繰り返し繰り返し打ち据え続けた。

 多分、プリエステラが振り下ろした回数を超えたのだろう。彼女はそっと私に歩み寄って制止しようとしたが、私は無視してそのまま槌矛を振り下ろした。

 ハルベルトが何かを言おうとしている気配があった。私はそれを気に留めず、残骸の更なる破壊を続行した。
 細かな肉片と化した怪物を、より細かくなるまで破壊していく。もう破壊しきれないほど小さくなっても、まだ壊す。壊す。壊す。何度でも。

 戦いは終わっていた。私達はイキューに勝利した。
 三人の修道騎士達は治療を終えたのか、無言で私の狂態を眺めている。
 音の無い夜更け。私はただ無言で死体を打ち砕く。

 疲労した腕に【安らぎ】を掛けて強引に奮い立たせた。槌矛が持ち上がらなくなったら、今度は逆手に持って突き下ろす作業に移行する。それも限界がきたので、足を踏み下ろして肉片を潰す。けれど、赤い肉片はもうこれ以上ないほどに粉微塵になってしまっていて、それをする意味は殆ど無かった。

 やがて私は、何も無い場所をただ踏みつけるだけになった。
 そこにはもう何も無い。
 音も、そしてあの毒の混じった言葉も。全てが。





































 メイファーラの身体が傾いだ。
 そのまま腹部から大量の血を流して倒れていく。喉から迫り上がって口から溢れ出た血液がぼんやりとした表情を汚して、彼女は糸が切れたようにその場に倒れ伏した。

 呆然と立ち尽くしていた私達は、そこでようやく意識を取り戻したように現実を認識し始める。時間が動き出す。世界に音が戻り、再び言葉が記述されていく。
 そして私は、我が耳を疑った。

「あ、ああ、あーあー。声帯ちゃんと再生してますぅ? はいちゅうもーく。聞こえてたら、お返事下さいねー」

 聞き覚えのある、幼さを残した甘い声。それと平行するように、じゅくじゅくと、何かが蠢くような音がする。
 かすかな戸惑いの声。自分の身に何が起きたのかもわからないまま、メイファーラに続いてプリエステラが倒れていく。背後から一撃。背から胸へ突き出す、銀色の刃が月光を照り返して煌めく。鋭利なナイフが、樹妖精を刺し貫いていた。

「いいですかみなさん。これからぁ、あなた方をぶっ殺しまーす。ばばーん」

 自分の口で擬音を真似て、軽やかな口調でおどけてみせる。
 良く知っている声である筈なのに、私はそれが一体何者から発せられている言葉なのか理解できずにいた。

 目の前で音を発する、『それ』は。
 蠢き、流動し、隆起する肉塊。赤黒い血の色とまばゆいばかりの純白をまぜこぜにしたような、膨張と増大を続ける巨大な肉腫。
 地面に転がったミルーニャの死体を核として発生した、異形の存在。

「あっ、勿論アズーリア様は別ですぅ。貴重なグロソラリアですもの、左手と頭だけ残して保存したら、グロソラリアとしての因子を失わないように微調整しつつ、『脳髄洗い』で従順な奴隷にしてあげますからねー。きゃーん! これって愛のし、る、し♪」

 肉塊の中心に、白い喉と可愛らしい口元が見える。それは肉の塊に埋もれていた頭部がその全貌を露わにする前兆だった。果たして、その正体が露わになった。

 巨大な肉腫のかたまりが徐々に収縮し、凝縮され、一人の少女を形作っていく。見慣れた体型、見慣れた容貌。けれども、決定的に違う点がいくつもあった。

 まずその衣服。野暮ったい肩掛け鞄と作業用エプロンという格好ではなく、小さな肩と胸元を大胆に露出したドレスで、過剰なほどのフリルと純白に華奢な身体を包んでいる。深く開いた胸元の縁だけが血のように赤く、あくまでも基調となる白を妨げぬ程度に、随所に青い色も散りばめられている。

 露出した胸元には幾何学的な模様が刻印されている。白い肌の上を黒く走る線。模様は丈高い三角錐の頂点から一本の長い主枝と二本の短い副枝が伸びているという図形が基本構造となって、複雑怪奇に展開されている。図形と記号が組み合わさるその全体像はどこか化学式のようにも見えた。

 そしてその髪色。首元にかかる程度の巻き毛は明るい茶色から透き通るような純白に変化しており、茶色だった虹彩も血の赤になっていた。
 そしてその表情は劇毒に変じていた。私が知る彼女はこうではなかった。あどけない可愛らしさの中に含まれる毒は、密やかに相手を刺激する程度のもの。決して、世界の全てを呪い殺すような強烈な悪意を振りまいてはいなかった。

 極めて似ているけれど、決定的に違う。
 内包する呪力の質と量が、それまでの彼女とは隔絶していた。

「ミルーニャ、なの――?」

 問いに、少女は毒を込めて笑った。それは猛毒の嘲笑だった。

「あらためて、自己紹介と参りましょうか」

 予感があった。それは死の予兆、破滅の前触れだ。エスフェイルがそのまことの名を咆哮に乗せて叩きつけてきた時のような呪力の収束。
 そして、その呪術は発動した。

「私のまことの名は【白のメートリアン】――ああ、意味も添えないと駄目でしたよね。ミアスカの言葉で『抵抗』を意味する、揺るがずけっして損なわれない不屈の意思を体現する名前です。私は、与えられた運命には満足しない」

 鮮血が飛ぶ。宣名の威圧感に堪えきれず、傷を癒したナトが攻撃端末を放ったのだ。鋭利な尖端が少女の胸を貫き、心臓を破壊する。
 そして、それだけだった。
 少女はそのまま、何も起こらなかったかのように平然と言葉を続けていく。

「【最後の魔女】の予備候補で【塔】きっての呪術医ベル・ペリグランティアの助手、そして四人の候補者の支援役? そんな地位に甘んじたままなんて御免です。私の号は白、性質は生存欲求、起源は下らない運命に対する抵抗。そう、私は不幸の敵。不運の駆逐者。定められた老いと死を打ち砕くもの」

 肉腫が蠢き、攻撃端末を吐き出した。地に落ちた己の武器と致命傷を受けて平然と立ち続けている少女を交互に眺めて、ナトが何も出来ずに立ち尽くす。
 それは、私も同じだった。
 少女は、赤い視線を真っ直ぐに一人の相手にだけ向けていた。少女とは対照的に、黒く暗い色彩を纏った美しい魔女に。

「いいですか口先だけの根暗女――いえ、こう言い直しましょうか。黒のヴァージリア、と。ここで貴方を亡き者にして、私がハルベルトを襲名します」

 月光を照明に、星々を観客として、夜風の歓声に包まれながら。
 より深く更けて行く夜の劇場、その第二幕が開演しようとしていた――。







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