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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第3章 特権者のヒロイック・シンドローム、さもなくばアズーリア・ヘレゼクシュの憂鬱

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3-4 天の鴉と月の兎

 私は自分の顔が分からないだけでなく、他人の顔を覚えるのが苦手だ。
 けれど声や立ち居振る舞い、着衣などである程度区別はつけられるし、何度も顔を合わせるにつれて次第にその全体像をイメージとして記憶していくことができた。
 『個人』を識別できるようになればなるほど、顔の全体像が鮮明になっていくのだ。

 キール隊の皆やラーゼフ、それと同じ共同体に所属している『騎士団』の修道騎士たち――私自身の認識が影響しているらしいが、明確なことはわからない。
 あのとびきり奇妙な外世界人の記憶は今も鮮明だが、その顔の詳細はどのようなものだったかと問われると、どうにも曖昧模糊とした印象しか残っていない。

 声を聴けば思い出すだろうし、あの特徴的な腕を見れば一目で誰なのかは把握できるに違いないのだけれど。
 奇妙な事に、私はハルベルトやミルーニャ、メイファーラの顔を個別に把握できていた。
 全くの初対面である筈なのにだ。

 こんなことは初めてで、正直言って戸惑いが大きい。
 だが同時に嬉しくもある。今までは手が届かないと思っていたものが目の前にやって来てくれたような、そんな感覚があった。

 私達は怒りによって共感している。お互いに対する感情を行き交わせるのでは無く、共通の仇に対する一方向の感情を合流させて一つに束ねるような意思の合同。

「アズ、調子はどう?」

「うん、大丈夫――」

 軽やかながらも芯の通った声。すっきりとしていて綺麗めな顔立ちだけど、目だけがいつも眠たげにとろんとしているのがちょっと勿体ない。
 そんなメイファーラの問いかけで生まれた少々の焦りを沈めながら精神を集中させていく。

 身体の内側に、静かな夜が広がっていくようなイメージ。眠りにつく直前、目を閉じて己の中の深淵に没入していくあの感覚を思い出す。
 脳裏に浮かぶのは、さんざん思考に刻み付けた一連の文章。
 先程まで兜の内側に表示されていた文字列。

 大丈夫、ちゃんと覚えてる。
 すぐ隣で、師から厳しい視線を向けられているのを感じた。

 美しい容貌の中で、そこだけ『悪い』としか言いようのない目つき。
 まるで常に怒っているようなぶっきらぼうな態度。
 試験の最中とはいえ、身体の芯が冷えるような思いがした。

 前方に、やわらかくてぷるぷると震えながら移動する人畜無害そうな生物が見える。
 白いプディング状のそれは、自然界には滅多に存在しない長方形をした害獣トントロポロン。
 人の頭部ほどの大きさで、外見からすると意外だが、のろのろと俊敏でぷよぷよして硬い。

 のっぺりとした表情をしているが、あれで人を襲う凶暴な猛獣であり、油断はできない。
 あの猛獣を退治すれば、呪文の小試験もようやく終了だ。
 大きく息を吸って、鋭く声を張り上げた。

「地を這う災厄、暴食の多腕、荒ぶる混沌にして焦土の魔よ、その身を震わせ、波打たせ、重ね合わせ、耳を劈く死の絶叫をコヒーレントに増幅せよ。その憤激によりて我が怨敵を電子レンジ内のレトルト食品のごとくチンせしめん!」

 私は高らかな呪文詠唱と共に頭上に掲げていた両手を振り下ろし、標的へと掌を向ける。数秒間の高周波加熱によってトントロポロンの体内に含まれる豊富な水分が沸騰していく。断末魔の叫びが上がった。

 成功だ。成功なのだが、改めて口に出してみると――うん。何だ今の呪文。
 効果そのものはありふれた音響子の誘導放出による微波増幅なのだが、詠唱の内容が珍妙に過ぎる。それでも敵を仕留めるだけの威力はあるので、ハルベルトの呪文構成は極めて完成度が高いのだと思う。

 呪文の特性である『遅さ』ばかりは如何ともしがたいが、精神集中の深度もそれなりに手応えがあった。これならば合格点がもらえるのではないだろうか。果たしてハルベルトはいつも通りの厳しく冷たい表情で合否を伝えた。

「ぎりぎり及第点。そのレベルでチャネリングが出来るのなら、最初からやって欲しかった」

「ありがとうございます!」

 辛辣な口調だが、それが師ハルベルトから贈られた初めての賛辞だったから、私は思わず跳び上がりそうなほど喜んでしまい、彼女を引かせてしまった。
 「調子に乗らない」と釘を刺されても気分が浮き立つのが止まらない。

 第一印象の最低さ、強引な振るまい、常に辛辣で平坦な口調。
 これらの要因のせいか、私のハルベルトに対する感情というのはあまり好意的ではない。
 良くない感情だという自覚はある。

 尊敬すべき師に対してこの状態はまずいと思っていたから、少しでも心理的な障壁が乗り越えられそうな材料を見つけられて感極まってしまっているのだった。
 我ながら、感情を抑えるのが本当に下手だ。

「はい質問です。今の呪文、何か変だったんですけどどういう事なんでしょう」

 テストが終わったと見るや、メイファーラが気になって仕方が無いというふうに質問をした。正直、同じ気持ちである。

「それ私も訊きたいです。お師様、どのような意図であの呪文を?」

「あえて変なことをアズーリアに言わせて、それに気付くかどうかのテスト」

「え」

「――というのは嘘。本来は食品を温める為の呪文。戦闘用の呪文として書き換えて、強引に高出力にしたものをちゃんと制御できるかどうかを見たかった。これは言わば、アズーリアがどれだけ柔軟に呪文を扱えるかの許容量を測る為のテスト」

「おおーなるほどー」

 メイファーラが感嘆の声を上げる。しかし私は神妙な気分になっていた。食事の度にあの大仰な呪文を唱えるというのは、ちょっとどうなんだろう。想像してみたが、何かもの悲しい図のような気がしたので私はこの問題を忘れることにした――が、ハルベルトはフードに包まれた顔を背けてぼそりと呟く。

「まあほんとは嫌がらせだけど」

「あの、お師様。私のこと嫌いなんですか――?」

「出来の悪い弟子は嫌い」

 どう解釈すればいいんだろう。はっきり嫌いと言われているような気もするし、もっと努力して出来の良い弟子になれと叱咤されている気もする。案外両方なのかもしれない。ハルベルトの内心はフードの中に隠されてわからないまま。不安が生まれるが、こういう時は良い意味にとっていた方が自分の為になる気がした。

 ――もっと頑張ろう。
 決意を新たにすると、私の周囲にハルベルト、ミルーニャ、メイファーラの三人が集う。それぞれが頷き合った。

「よし、それじゃあ、各自打ち合わせ通りに。予定外の事態が発生した場合、お師様の指示に従って――」

「馬鹿なの。リーダーはあなた。全て自分で判断して自分で決定しなければ試練にも勝負にもならない」

「――私の指示に従うこと! それじゃあみんな、今度こそあのカラスを」

「こんがり!」

「焼き鳥」

「むぐー!」

 四人それぞれが気炎を上げて、勝利を誓い合う。
 そして、決戦の火蓋は切って落とされた。
 メイファーラが探し当てた金箒花の群生地。その近くまで来ると、私達の上空から落とされた影が翼を広げる。威圧的な鳴き声と共に、大きな鴉が三度目の強襲を仕掛けてくる。

「まだ来るよ! 天槌虫が三、人面鳥が二!」

 メイファーラの超感覚が更なる敵の襲来を察知する。鴉が遠くから追い立て、呼び寄せてきた怪物たちだ。巨大な角と甲殻を有する巨大な昆虫と、乱杭歯から涎を垂らして殺到する霊長類に似た頭部の怪鳥がこちらに向かってきてた。

「ミルーニャ、お願い!」

 私の声に応えて、ミルーニャが己の得物を構えた。左手に持った握りを上空に向け、二又に分かれた棹の両端から伸びるゴム紐の枠を強く引っ張る。中央に保持された煌めく宝石には無数の文字が刻み込まれ複雑な呪文を構成している。それは【ビーンズ】と俗称される、呪石の弾丸だった。

 その瞬間。ミルーニャの童顔が狩人のものに変貌し、邪視と見紛うばかりの眼光と平行に、蓄えられた弾性エネルギーが運動エネルギーに変換される。
 投石器スリングショット。常人を超える杖適性と器用さがあってはじめて可能となる射手の才能が、投擲という呪術を発動させた。

 解き放たれた呪石弾は光の軌跡を描きながら無数の文字列を展開させて、内部に圧縮されていた呪文を発動させる。呪符や巻物、端末経由の呪術を遙かに超える速度と射程を誇る投擲呪術が巨大な爆炎を撒き散らし、甲殻の虫たちを焼き払っていった。

 ミルーニャの攻撃から辛うじて逃れた怪鳥の一体をメイファーラの短槍による一刺しが仕留め、残る一体にも素早く向かっていく。私もまた金箒花の方に走り出した。雑魚によるこちらの足止めが通用しなかったと見るや、鴉は翼をはためかせて自ら呪術を紡ぎ出す。

 羽ばたきによって強烈な突風が吹き荒れる。分かっていても対処が困難な、初歩にして定石たる基礎呪術【空圧】の呪力がこちらの足を止める。風に足止めされながらも、私は身体の陰に隠すようにして魔導書を開き素早く精神集中に入る。

「地を這う災厄――」

 自ら呪文を唱えながら同時に項からも呪文の文字列を射出する。平行詠唱。書物から浮かび上がった文字が光に変化し、収束して熱線となり鴉を襲う。しかし素早く回避する鴉にはかすりもしない。嘲笑するような一鳴き。

 嗤いたくば嗤えばいい。
 どうせそれは、注意を惹き付けるための囮に過ぎない。本命は他にある。
 鴉は調子に乗るように鳴きながら羽ばたいた。

 羽の動きが更に重ねられ、二重になった風が渦を巻き、呪力の奔流となる。
 相手の足止めを目的とする【空圧】の上位呪術【旋風】は対象の呪力をかき乱すばかりか、物理的な破壊すら引き起こす。

 巻き起こされた風はがりがりと鎧の装甲を削っていくが、抗呪術加工がしてある呪動装甲を破壊するには至らない。それでも動きは完全に封じたと鴉が勝利を確信して鳴いたその時。
 二筋の光が杖から伸び上がり、拘束の呪術が広げられた羽に向かって突き進んだ。鴉は機敏な動きでそれを回避しようとして、自分の身体が動かない事に気付く。

 錯乱した鳴き声。光の帯が両の羽に巻き付いて、その身体を空中で固定してしまう。じたばたともがいて逃れようとする鴉。拘束の呪術が容易く綻び、破壊されようとする寸前、その真下から怨念に満ちた声が響く。

「逃がさない」

 鴉の真下、地上に落とされた影に同化するようにして、光を飲み込むような黒衣がのそりと立ち上がる。
 今までじっと息をひそめて隠れていた私は、そのままより強力な拘束の呪文を紡いでいく。発動した【陥穽エンスネア】の呪術がその全身を雁字搦めに縛り上げていく。

 更には直前に発動した呪術を参照することにより、周囲の大気から呪力を奪って鴉の呪術行使を封じ込めた。
 鴉が驚愕の鳴き声を上げた。目の前で杖を掲げて光の帯を操っている鎧姿の『私』がいるのに、どうして別の場所に『私』が現れたのかがわからないのだろう。

 種を明かせばなんということはない。
 今まで鴉と相対してきたのは、がらんどうの鎧を利用した案山子である。
 フィリスの掌握が進んだことによって、私は四大系統全ての呪術適性を上昇させていた。

 使い魔の呪術によって自らの呪動装甲を【自動鎧リビングアーマー】として遠隔操作した私は、魔導書と杖で鴉の注意を惹き付けつつ自らは影と同化して隠れ潜んでいたのだ。しかし上空から標的を補足する鴉の視力は平均的な霊長類の数倍と言われている。私の存在を見逃す筈は無い――本来なら。

「要するに電磁波操作――さっきのと要領は同じ!」

 幻影を操作したり、立体的なテクスチャを生成して重ねたりといった高位の光学呪術はまだ私には使えない。
 それでも呪文のアレンジ方法だけハルベルトに教えて貰って、私はこの試みを成功させた。

 多くの霊長類にとっての不可視光線――紫外線の操作は対吸血鬼用に開発されたと言われる歴史の古い呪術で、出力を上げることで生体細胞の破壊すら可能になる。
 日常空間でもゴミ捨て場や遮光カーテン、皮膚を保護する為のクリームなどによく使用されており、野生の鴉がゴミを漁らないよう、今やあらゆる自治体のゴミ袋に紫外線操作呪文が記されている。

 今の私はゴミ袋を纏っているようなものだ。紫外線を操作することによって見えづらくなった私は容易く影と同化できていた。
 鴉という鳥は天眼の民と同じように、太陽から放たれる紫外線を知覚できる。

 曰く太陽の使者。
 曰く松明を掲げし者ピュクティエトの子ら。
 曰く錬金術の守護天使ペレケテンヌルの下僕たち。

 聖なる鳥は見えるものが多いゆえに欺瞞されたのだった。
 この世界には多様な種族、無数の生き物が存在し、それぞれが異なる視野を有している。ただの色に対する認識でさえ、こんなにも異なるのだ。

 囚われの身になった鴉の前で、私はこれ見よがしに【爆撃】の呪文を唱えはじめる。途端、周囲で巻き起こる「焼き鳥」の合唱。人面鳥を串刺しにしたメイファーラとハルベルトが手を突き上げ、ミルーニャが足を踏みならす。私はおどろおどろしく見えるように黒衣の袖を持ち上げて、炎を両手の先に点した。その時。

「させるかっ」

 声と共に大きな岩陰に隠れていた人影が飛び出して、その背中から二つの水滴状の弾体が鋭く射出される。攻撃を予期していた私は慌てず騒がず炎を弾体の一つにぶつけて弾き返し、もう一つはメイファーラが短槍で振り払う。弧を描いて投擲武器が戻っていく先に、修道騎士の鎧に身を包んだ男、ナトが立っていた。

 鴉は金箒花を奪って消えた後、さほど長い間を置かずに戻ってきていた。それはすなわち、飼い主がそう離れた場所にはいないことを――すぐ近くでこちらを監視していることを意味していた。私は彼に向けて問いを放つ。

「他の人たちはどうしたの?」

「ペイルたちなら別行動だよ――君らの妨害なら俺一人で十分だからね」

 ずいぶんと舐められたものだが、その自信を裏打ちするだけの実力が彼には備わっている。鎧の背中に取り付けられていた攻撃端末が更に増えて、合計三個の弾体がナトの周囲を回り出す。

 高度な空間把握能力と繊細な呪具制御能力。複合的な呪術適性が必要とされる遠隔操作型の攻撃端末を三つ同時に扱い、更に優秀な使い魔まで操るナトの実力は序列二十六位と認められるだけのことはあった。

「こそこそと隠れ潜んでいた臆病者が良く吠える。油断した挙げ句にまんまと誘い出されているのだから、そろそろ気付いてもいい頃合いだろう。その自信は張りぼてだ」

 殊更に挑発的な言葉を弄してみるが、ナトはそう安易に乗ってこない。自尊心をくすぐるのは有効では無いタイプだと判断する。ならばこれはどうだろう。

「間抜けな飼い主に助けられる無能な使い魔――いっそ見切りをつけてもっと性能の良い道具に買い換えればいいのでは? ああ、これの処分は私達がやっておくから安心しろ。こんがり焼いておいしく頂いてやる。どうせ食肉にするくらいしか能がないのだから、この鴉も本望というもの――」

「言わせておけば貴様っ、アズーリア・ヘレゼクシュ! その良く喋る口を閉じろ、ぶち殺してやるっ!」

 怒りに満ちた激しい罵声。
 食いついた。
 激昂して攻撃端末と共に疾駆するナト。
 盾と長槍を構えた突撃は、立ちはだかったメイファーラによって止められる。

 だが三つの攻撃端末の内一つはメイファーラの背後に、二つは私の方に向かってその先端を突撃させた。メイファーラは後ろに目が付いているかのように短槍の石突きを使って正確に攻撃を逸らす。ミルーニャが射出した呪石弾が防御の呪文を解放。青い障壁が出現して攻撃端末を弾き返した。

 攻撃の失敗に舌打ちして、ナトが一度攻撃端末を戻しつつ後退する。その間に私は追撃の呪文を唱え始めていた。
 ナトは迂闊にも初対面で私に対する感情を露わにして、攻撃手段の一端を見せてしまっていた。それは対策を練る為の材料を露呈させてしまっているということだ。

 仲間を切り捨てた――犠牲にすることを選んだ私への嫌悪と敵意。
 そういう心根の人物であるならば、使い魔を見捨てるようなことは決してしないだろうと確信できた。
 だからこそ、過剰なまでに「焼き鳥」などと口にして彼の不安を煽ったのである。本当はそんなことをするつもりは無い。鴉ってそんなにおいしくなさそうだし。

 そしてなによりも、【三本足の民】にとって使い魔とは文字通り三本目の手足に等しい。
 肉体から独立した自分自身の一部なのだと彼らは認識しており、その『思い入れ』こそが呪力を生み出すのである。

 手足をもがれるような重傷を負うくらいなら直接相対しての戦いを選ぶ。
 そういう好戦的な人物だと、初対面の印象から私は判断していた。
 あとはまんまとおびき寄せられた彼を行動不能にして相手チームの戦力を削いでやれば、私達は一気に有利になる。露骨な妨害だが、先に仕掛けたのはあっちだ。ハルベルトのお許しも出ているし、遠慮無くやってしまおう。

 私が呪文を唱える間、前衛で時間を稼ぐのはメイファーラの役目だった。
 メイファーラの戦いは自分からは攻め込まず、静かに構えて敵の攻撃を待ち、カウンターによって着実に手傷を与えていくというものだ。左手の盾で攻撃を防ぎ、すかさず右手の短槍で報復の一撃を繰り出す。取り回しのいい短槍はこのような待ちの戦法と相性が良い。彼女は前衛として、このパーティにおける自分の役割を斥候兼盾役と定めたようだった。

 ナトは着実に劣勢に追い込まれていく。相手が【天眼の民】でなければ。そしてその中でも極めて優秀な、【松明の騎士団】序列二十九位のメイファーラでさえなかったなら、攻撃端末による多角的な同時攻撃には対応できなかったかも知れない。

 遠間から繰り出される長槍の刺突、多角的に前後左右、上から下から攻めてくる攻撃端末。その全てを、完全に読み切って回避し、短槍で弾き、小さな円形盾で防御する。【天眼の民】特有の超知覚は索敵のみならず戦闘においても凄まじい恩恵をもたらす。全方位攻撃の利点は、メイファーラの【天眼】の前では無いに等しい。

「くそっ」

 毒づいたナトは一度間合いを取り直そうとして、その事実に気がつく。迂闊にメイファーラから離れてしまえば、呪文を用意している私やスリングショットを構えたミルーニャに狙い撃ちされてしまう。既に趨勢は決しているのだと。

「俺が負ける――そんな、序列下位の、しかもあんな奴にっ」

 表情を激しくひきつらせて、ナトは呻いた。その恐れを振り払うかのように叫び声を上げて、彼は思わぬ手段に訴える。

「そんなことが認められるか――ルールなど知らない、加減できずに殺してしまっても構うものか! 舞い降りろ【トルレーズ】、伸びろ【ザナーティア】!!」

 ナトの呼び声に呼応して、捕縛されていた鴉から膨大な呪力が放出される。拘束呪術が弾けて消滅し、使い魔が主の意思に従ってその真の力を発揮しようとする。広がった羽に絡みついた金色の鎖、その一部がぴしりとひび割れ、音を立てて砕け散った。

「金鎖の解放っ?! じゃあこの鴉が――」

 鴉の周囲に光の粒子が集い、形を成していく。その体内に潜んでいた部位が外側に露出し、呪力を放射し始める。それは私のような【異獣憑き】にとっては馴染み深い光景だった。遅まきながら、私はこの鴉の正体を理解しつつあった。

 寄生異獣を使役する『異獣憑きの使い魔』。【松明の騎士団】序列二十六位であるナトは己の本体ではなく、自らの半身とも言える鴉に異獣を憑けているのだ。それも、二体。

 一体は擬態型。その両足の間から伸びる三本目の足。否、足のように見えるその先端には口のようなものが付いており、そこで詠唱を行っている。支配者であるナトの言葉や呪力を伝達するその異獣は【伝令管】と呼ばれ、異獣達が地上に侵攻してくる際に名前の通り伝令として用いられる使役獣である。

 もう一体は使役型で、大型の鴉種レイヴンよりも小さな烏種クロウの異獣を一時的に召喚するタイプらしい。つがい、もしくは親子のように並んで飛ぶ大小二つの影。双方を循環する呪力が、加速度的に増大していくのがわかった。

 次に放たれるのは、【空圧】や【旋風】をも上回る高位呪術だ。壮絶なまでの殺気が肌を刺す。これ以上戦いを続ければお互い無事では済まない。私が左手を前に出し、メイファーラが額に指先を当てて、ミルーニャが爪を摘もうとする。次の瞬間には壮絶な死闘の火蓋が切って落とされる、そんな予感が訪れたその時。

「少し大人げないけど、これ以上続けられて殺し合いになっても困る」

 言いながら前に出たのは、今まで私に呪文の指導をすることはあっても基本的に手出しを控えていたハルベルト。その彼女が、落ち着いた様子でその黒玉の視線を対の鴉に向けている。

「躊躇うなっ、まとめて始末しろっ」

 ナトの叫びにも一切感情を揺らすことなく、あくまでも静かに。
 ハルベルトは、玲瓏たる声で短い詠唱を世界に浸透させていく。

「穂先は貪欲に、指先は沈み往く――引き寄せるのはあり得べからざる創造の光。高らかに鳴け、【独角兎アルミラージ】」

 クリアな響きと共に、ハルベルトの眼前に淡い光が集い始める。一瞬にしてその輪郭は確かな存在を形作ると、聴いたこともないような甲高い鳴き声が上がった。
 光り輝く半透明の存在。青白く揺らめくそれは、長い螺旋状の角を有する兎だ。浮遊する小さな聖獣が虚空を蹴って、勢いよく鴉に向かっていく。

 目にも留まらぬ速度域で、鴉と兎の戦いが始まった。少なくともそれは物理的視覚では捉えきれない攻防だった。
 大鴉が紡ぎ出した呪術を基に小烏が無数のダミーを生成し、不可視の弾幕を張ろうとする。

 悪意ある呪術を検知した独角兎が防壁を展開してそれらを遮断するが、大鴉と同化した三本目の足――【伝令管】がダミー呪術を事後改変して防壁をすり抜けさせようと試みる。

 独角兎はそれにヒューリスティックスキャンで対抗。
 特徴的な『それらしさ』という振る舞いから呪術を検出する類推アナロギアの呪文防壁は改変されて未知となった呪術の亜種を根こそぎ跳ね返していった。

 【騎士団】の金鎖にも同様のシステムが採用されており、その有用性は確かだ。一方で害の無い呪術まで遮断してしまうという欠点もある。第五階層で魔導書を導入する際に苦労させられたのは記憶に新しい。

 アストラル界で繰り広げられる幻惑的な攻防は、さながら虚空を双方向に行き交う流星群のようであり、弾けてはまた次の光が新生する様は一つの宇宙が早回しで生と死を繰り返す無限の循環を思わせた。

 しかし、それは未熟な私や、視覚に依存して呪術を操る鴉だけの感傷に過ぎなかった。独角兎、そしてハルベルトの冷然とした瞳に映るのは、膨大な量の情報テキストでしかない。

 GUIグラフィカルユーザインターフェースであるアストラル界に対して、言語魔術師が認識するグラマー界はTUIテキストユーザインターフェースだ。

 両者は同じものだが、アストラル界での呪術行使は利便性と把握のしやすさ、つまり速度で勝る。鴉の放つ神速の呪術式が波濤となって独角兎を飲み込んでいく。

「――遅い」

 だが、相手が高度に自動化された呪術プログラム群なら話は別だ。押し寄せた呪術攻撃の悉くを、兎はその螺旋の角を振るって消滅させていく。鴉の攻撃を連続して処理した独角兎はそのまま突進して二羽のカラスたちをまとめて串刺しにする。

 目に見えない雷に打たれたかの如く、ナトが白目を剥いて昏倒する。脳を焼き切られるまではいかなかったようだが、使い魔を経由して入力された情報量に目を回したのだろう。役目を果たした兎がカラスたちをナトの上に投げ落とす。串刺しにされた箇所には傷一つ無く、独角兎は首を数度振るとそのまま霞となって消えた。

「お師様、凄い」

 私は、感嘆の声を漏らさずにはいられなかった。ハルベルトが使用したのはたった一種類の呪文に過ぎない。それだけで、あの異獣憑きの使い魔をあっけなく撃退してしまったのだ。何故かハルベルトは私を一瞥すると、ふいと顔を背けてしまった。

「何なに、今のって使い魔? あれ、ハルベルトさんって言語魔術師だったよね。呪文だけじゃなくて使い魔もできるの?」

 不思議そうにメイファーラが問いかける。ハルベルトはそれを否定して、事も無げに説明する。

「今のは幻獣。事前に設定したプランに従って決定論的な振る舞いをする仮想使い魔。複雑なものは人工知能にすら迫る動きが可能」

「お師様、人工知能って、流石にそれは無理なのでは」

 確かにハルベルトの呪文技術は卓越しているが、ものには限度というものがある。
 現代の技術は勿論、超古代文明の遺産でもそんなことはできないはずだ。
 どんなに複雑なプランを設定したとしても、自然な人の振る舞いはどうしても再現できない。

 完璧な人工知能というのは、有名な呪術の解決不能問題の一つである。
 常識的な発言をしたつもりだが、ハルベルトは私の方を見て、何故か少しだけ悲しそうな表情をした。

「そう――無理。しょせんは最初から無謀な試み。けど、夢を見る権利はある。誰にだって」

「はい? ええと、それはそう、ですけど」

 どうしてだろう。彼女の瞳がここではない遠くに向けられているような――まるで誰かを憐れんでいるように見えてしまって、私は自分でもその出所がわからない心のゆらぎを感じていた。
 戦いが終わった後、私はナトと使い魔を拘束し、予備の抗呪黒衣を裏返しにして包み込んだ。こうすることで、内側から呪術の発動を制限することができるのだ。

「ちょっと気になってたんだけどさ、アズはその黒衣どこにしまってるの?」

「心の抽斗――こんなふうに、身につけられる程度の物は黒衣にしまっておける」

 私が黒衣の内側から予備の黒衣や茶色の外套、灰色の外衣、その他数々の布を次々と取り出していくと、その場にどさりと衣装の山ができあがった。自分でも少し驚いた。こんなに貯め込んでたっけ。

「うわー、【夜の民】って便利体質なんだねー。空間圧縮技術とは何だったのか」

「他の眷族種より積載量が上ってだけで、限界はあるけどね。大きすぎると影の中に入らないし。基本的に服とか装備とか非常食とかを入れておく程度」

「それでもすっごい便利だと思うけど」

 私からすると、【天眼の民】が持つ超知覚の方がずっと便利そうに思える。こういうのは見方の問題だから、幾ら不平を呟いても仕方無いことではあるのだけれど。
 などと、私達が話をしている間にミルーニャが一人で採取を済ませていた。

 私の黒衣とは原理が違うが、見た目以上に中が広い鞄の中に金箒花を詰め込んだミルーニャは非常に満足げだった。
 更にもう一つ。
 メイファーラは出し抜けに籠手を外すと、布の中に手を突っ込み、気絶しているナトに接触した。その状態で瞑目し、しばらく深々と息を吸ったり吐いたりして精神集中を行う。

 何をしているのだろう、と不思議に思っていると、唐突に目を見開いたメイファーラはごそごそとナトの懐を探り出す。取り出した小型の物入れに触れると仮想の操作盤が表示される。彼女は淀みなく七桁の文字と数字を入力して解錠すると、内部の圧縮空間から大量の金箒花を取り出して見せた。

「これ、あのカラスが奪っていった――? でも、どうやってパスワードを」

「えっとねー、ちょっと【天眼】で過去を覗かせて貰っただけだよ?」

「それ、過去視までできるんだ?!」

 【天眼の民】の邪視能力は受信専門であり、上位の眷族種に比べるとあまり強力ではないと言うのが定説である。しかしここまで色々できるというのであれば、むしろ受信に特化している分だけ事象改変系の邪視者より優れている場面も多いように思える。

「それよりさ、お昼にしようよー。あたしお腹すいちゃった」

「そうだね。ちょっと遅めだけど。じゃあ、さっさと済ませよう」

 丸薬状の携行糧食を取り出してもそもそと食べ始める私とメイファーラ。ミルーニャも同様に、携帯チューブゼリーをじゅるじゅると吸い始めた。
 その様子を何故か唖然として見つめるハルベルト。どうしたのだろうと思っていると、彼女は眉根を寄せて頭痛を堪えるような表情をしながら言った。

「修道騎士とか探索者って、いつもこんなの食べてるの」

「ええまあ。迷宮ですし、簡単な栄養補給さえ出来ればいいので。それに、ここには【泉】とかの安全地帯もありませんから、なるべく手早く済ませないと」

 ハルベルトはその答えに随分と衝撃を受けた様子で、しばらくその大きな目を見開いてぶるぶると震えていたが、やがて目を伏せると、静かに爆発した。

「論外」

「あの、お師様?」

「食事は文化的な営み。調理済みの食料は彩り豊かに温かに――味覚のみならず視覚、嗅覚、更には温度覚にまで訴えかける。無味乾燥な補給行為としてではなく、複合的な感覚で作品を鑑賞するつもりでいるべき。手間暇をかけて調理された料理は多量の摸倣子を保有する。これからは単純な栄養補給の観点からだけでなく、食事は呪力源だという意識を持つこと」

「つまり、どういうことなんでしょう――?」

 何やらもの凄い勢いで怒られている、ということだけ理解した私は、恐る恐るハルベルトの様子を窺おうとして激しく後悔した。爛々と光る、野獣の目がそこにあった。
 一体どこから取り出したのか。一動作で一抱えほどもある巨大な重箱を出現させたハルベルトが、私の目の前にずい、と詰め寄って威圧的に言い放った。

「呪術師たるもの、お弁当くらい用意しておくべき」

「おべんとう? 何ですかそれ、どこの言葉?」

「うわー、立派な容器だねー」

 目を白黒させる私と、興味津々といった様子のメイファーラ。ミルーニャがチューブをべこっと握りつぶす。

「そなえて用に当てるものという意味。そして容器より中身が大事。こんなふうに」

 重箱の中には、ぎっしりと色鮮やかな料理が詰め込まれていた。
 黄色い卵焼きに、豆と海草の甘煮、南瓜と挽肉の煮物といった甘い品目から、玉葱と人参、そして挽肉の甘藍巻きや萵苣レタスのハムとチーズ巻きなどの肉類や塩味の効いた品目まで各種取りそろえられていた。

 鴉ではないが、しっかりと焼き色の付いた鶏肉も入っている。
 二段目にはスライスしたパンに様々な具材が挟まれていて食べやすそうだった。
 丁寧なことに、楊枝やフォークが用意されていた。

 更にその上で例の『食品を温める呪文』で程良く具材を温める。
 確かにこういう場面だと便利な呪文ではある。感心してしまった。
 ハルベルト曰く、冷めても美味しいらしいが。

「食べて呪力補給。必須。ハルの目が黒いうちは、あんな食事を弟子にさせたりはしないから」

 力強く宣言すると、ハルベルトはどこからともなく広々とした敷布を出現させた。戸惑いながらも皆で座ると、ハルベルト一人が立ったまま呪文の詠唱を始めた。

「照り返す陽光、屈折する透明な影、大地より生まれ天を突くそれは槍――光学障壁のアミュレット、林立し壁となって立ちふさがれ――さながら猫除けのペットボトルの如く」

 すると私達の周囲を取り囲むようにして透明な容器が次々と屹立していく。詠唱の通り、障壁系の結界呪術のようだ。

「【アウターゴッズ】ですら避けて通る高等結界――これで安全は確保した」

 どうだとばかりに胸を張るハルベルトだったが、私達は誰一人として彼女の勢いについて行けてなかった。なんだか今までで一番活き活きとしているような気がする。

「全く、師に昼食を用意させるなんて、気の利かない弟子もいたものなの」

「すみません、次からは気をつけます」

「――どうしてもって言うなら、また作ってきてあげてもいい」

 わからない。未だに私は、この奇妙な師がどういう人物なのかまるで理解できないでいた。とりあえず一つだけ確かなのは、とても健啖家らしいということ。美味しそうに鶏肉を頬張るその表情が、今まで見たことが無いほどに柔らかく蕩けていた。私はしばらく食事をするのも忘れて、ぼうっとその表情を眺め続けた。



 メイファーラは心の優しい人だ。無言でもそもそと食事を続けるミルーニャを見かねて、恐るべきお師匠様に「食事中くらい、あの子にかけた沈黙を解除してあげてもいいんじゃないです?」と上申してくれた。ああ、怖くてそれを言えなかった私を、ミルーニャは恨むだろうか。自分の身可愛さから仲間を犠牲にして恥じない、この愚か者を。

「もがもが――ぷはっ! もー最悪ですぅ! 何なんですかどうなんですかこの扱い! ミルーニャは依頼主なのに、アズーリア様の婚約者なのにー!」

 何を言っているんだろうこの子は。もうしばらく黙ってれば良かったのでは。

「おっとこれはまだミルーニャの脳内々で進めてたお話でした。くれぐれもナイショにして下さいね皆さん」

 人はそれを妄想と言う。

「はああん、アズーリア様のミレノプリズムで心のパネルをロールされたいです♪」

「ばかじゃないの」

 全ての人類を代表して、ハルベルトがミルーニャの妄言を斬って捨てた。途端、両者の間にギスギスした空気が生み出される。この二人なんでこんなに相性が悪いんだろう。

「あなたを見ていると、どこかの頭が年中春なぽんこつきぐるみを思い出すの。はっきり言って、鬱陶しい」

「はあああ? 意味が分からないんですけど? 言語魔術師のくせに言葉の扱いがなってないんじゃないですかー? あ、そっかー。あなたってそんなにコミュニケーション障害気味だからー、使い魔を支配できなくてわざわざ呪文で再現とかやっちゃってるんですねーぷぷぷー。良かったですねーコミュ障でも呪文のスキルがあって。無かったら人として終わり過ぎてて、ミルーニャだったら生きていられないですぅ」

「雄弁であれば意思疎通が成立するという思い込みは浅はか。あなたのはうるさいだけ。そしてさっきのはわざと分からないように言ったの。あなたなんかとまともに意思疎通する気が無いという意思表示。わざわざ説明されないとわからないの」

 張り詰めた空気が両者の間で架空の火花を散らす横で、私とメイファーラは「これおいしいね」「ねー」と精一杯の和やかさを演出していた。つらい。
 二人の言い争いはもはやただの人格攻撃になりつつあった。

「あーあ、やだやだ。超あざといミニとかっこよさを勘違いしちゃった黒遣い、とどめにフードとか、『わたしって可愛さもかっこよさも両方諦めたくないの、きゃるん♪』的な? 自分の理想に媚びてる感じが気持ち悪いですぅ。女が感染しそうなので近寄らないでくださーい」

「自分の名前を一人称に使うような、幼児性とかわいらしさを取り違えた女がハルは嫌い」

 凄い、自分の事を棚に上げた。
 あまりにも二人の仲が悪すぎるものだから、私とメイファーラはそれぞれ二人に話しかけて、罵声が飛び交わないように気を配ることにした。この二人を会話させてはいけない。

「でも、勝負してるのにこんなに悠長にしてていいのかな」

「そもそもアズの訓練が主な目的なんだし、ハルベルトさんの言うとおりにしてたら間違いは無いんじゃないのかな。依頼主のミルーニャちゃんもあんまり気にして無さそうだし。あたしはまあ、お手伝い要員だしね」

 どこか他人事のようにメイファーラは口にする。実際、それなりに気楽なのだろう。もしかすると、そのくらいの心持ちでいるほうがいいのかもしれない。

 奇妙な時間が流れていった。
 迷宮の裏面、死と滅びを宿命づけられた古代の世界。
 失われた時間の流れ。

 武器と呪術が飛び交い大量の血が流れていく空間で、何故か和やかに食事をしているという異様な光景。
 暴力と死の世界が裏返って、それが当たり前の日常であるかのよう。
 現実感が反転する。ここは一体どこなんだろう。

 私はいつか妹と過ごしたあの日常を取り戻す為に非日常の戦場に身を投じた筈なのに――いつのまにか、私の日常はこの場所の方になってしまっていたのかもしれない。

 だとすれば、私が取り戻すべきは非日常だ。儚い非現実。夢のような一時の居場所。ふと不安が頭をもたげる。それを手にしたあと、私はどうすべきなんだろう。取り戻した非日常を、私はもう一度日常に取り込む事ができるのだろうか――。

 ぼんやりとした思考を抱えながらも、私は表向きごく普通に振る舞っていた。食事をして、仲間と言葉を交わし、関係性を維持していく。心を、どこかに置いたまま。

「そういえば、ちょっと気になってたんですけど、みんなお幾つなんですか? 私は三十二歳なんですが」

 食事の後、これもまたハルベルトが用意していたロクゼン茶を飲みながら私は言った。強い甘味が口の中に広がっていき、身体に活力が戻ってくる。何故か、メイファーラが激しく咳き込んでいた。お茶が間違って気管に入ったとかかな?

「いや嘘でしょそれ。いくら【夜の民】が見た目で歳がわかりづらいからって」

 メイファーラは目を剥いてそう言ったが、すぐに何かに思い当たって落ち着きを取り戻す。

「――って、そっか、【夜の民】は巡節で数えるのか。びっくりした。要するに十六歳ってことだよね。あたしは十八歳だから、二つ違いかな」

「あ、ごめんなさい。そういう数え方が一般的なんだった。えっと、今まで通りにメイって呼んでいい?」

「うん。変に先輩風とか吹かせるの得意じゃないし、お互い気を遣わずにやっていこ?」

「はーい、ミルーニャはぁ、二十六歳でーす」

「はいはい十三歳ね」

「いえ、巡節数えだと五十二歳ですぅ」

 時が凍り付いたと思う。
 え? 何、どういうこと?

「きゃー、アズーリア様ったらミルーニャと一回りも違うんですね! 可愛い! 抱きしめたい! 鎧姿も凛々しいけどやっぱり黒衣ちびコマ激可愛い!」

「あの――ミルーニャ、さん? それ、冗談とかじゃなくて、本当に?」

「嘘吐いてどうするんですかぁ。あ、そういえば。そこの根暗は幾つなんです?」

「――十五」

 まさかのハルベルト最年少ミルーニャ最年長。
 私達は、まじまじと幼気な少女ふうの姿を見つめた。その童顔と自己申告された年齢のイメージが、どうしても噛み合わない。しかもその上。

「お師様が、年下――」

「何か問題があるの」

「いえ、全くそんなことはないのですが」

「年下の癖に生意気とか思ってるの」

「そんなこと、全然思っていません」

「本当に」

 夜のように黒い瞳でじっと覗き込まれて、息が止まる。認識妨害のかけられたフード越しに、お互いの表情を捉えることができるのは、私達二人だけ。透き通った輝きに、とうとう耐えきれなくなって、私は白状した。

「その、実はちょっとだけ、変なことを考えました」

「そう。怒らないから言ってみて。別に課題を増やしたりしないから。理不尽に呪文暗記耐久地獄とか言わないから。ほら早く」

 怒ってる。それ確実に怒ってますお師様。怯えながらも、ここまで来て黙り込むわけにもいかずに私は胸の内を明かしてしまう。

「私、妹がいるんですけど、とても頭が良くて頼りになる子だったんです。故郷ではいつも色んな事を教えて貰ってました。だから、お師様がひとつ年下だって分かって、少しだけ――ほんの少しだけですよ? 妹の事を思い出しました。それだけです」

 ハルベルトは、しばしのあいだ黙り込んだ。それから、目つきを一層悪くしてこちらを強く睨み付けて言った。

「『だった』――というのは過去形。その妹は、今どうしてるの」

「死にました」

 表向き、そういうことになっている。
 古代の魔女に魂を乗っ取られて、今では魔軍の元帥をやっているなどと、公にできることではない。まして、その魂を取り戻す為に戦っているのだ、なんてことは尚更。

「地獄から遠隔召喚された異獣の群れに村が襲われて――私は運良く助かったのですが、妹はどうにもならなくて。そのことがあったから、私はこうして【騎士団】に入って異獣と戦う道を選んだんですけど」

 嘘と真実が半々になった説明。戦う動機として、これ以上ない程にわかりやすい過去。私の本当の目的を知るのはもはやラーゼフだけだ。
 ミルーニャが目を潤ませてぎゅっと抱きついてきて、メイファーラが「よしよしいい子だね」と頭を撫でてくれる。

 二人が口々に慰めたり励ましたりするのを、私は前向きな意思を語ってやり過ごす。健気さの偽装。白々しい、半分だけの嘘。
 そんな私を、ハルベルトがどこか責めるように睨み付けていた。



 結局、課題は増え、講義が始まった。それが終わったら実践だそうだ。
 あれからハルベルトの機嫌は悪化の一途を辿り、その禍々しい威圧感はミルーニャさえもたじろがせるほどだった。もはや殺人的なまでに悪くなった目つきでこちらを睨みつつ、仮想的に表示されたボードに文字の群れが表示されていく。私は必死にその内容を頭に叩き込もうとしていた。

「宣名とは喩えるなら諸刃のナイフを鞘から解き放つようなもの」

 いわゆる呪術師にとっての必殺技だとハルベルトは説明した。同時にそれは自らの身すら滅ぼしかねない危険性を持つのだということも。

「たとえば『炎』という意味の名前を持つ者がいたとする。『自分は炎という意味の名前を持つものだ』と宣言することで、その認識が名乗ったほうと名乗られたほうの間で共有されるわけだけど」

 つまり、たとえ音声で名を告げても意味が理解されなければそれはただの音の記号でしかない。意味を沿えて伝えることで、始めて【宣名】という呪術は成立する。そしてそこには大きな落とし穴が存在するのだ。

「火種に水をかければ消してしまえる、と弱点を白状しているも同然ですよね」

「そう。でも同時に、自分は形なく周囲に広がりすべてを焼き尽くすものである、という自己認識を強固にする契機にもなりうる。自己への確信が強く、己を『消えない炎である』と認識し続けられる者にとって、名前を知られることは弱みを握られることではなく強みを曝け出すこと。そしてそれを不用意に知ってしまった方は、強すぎる認識に逆に飲み込まれることになる」

 思い出す。第五階層の戦いでエスフェイルが名乗った瞬間、狼の足下に広がる闇がその呪力を増大させたことを。
 【心話】によって伝わってきた闇の脚というイメージとエスフェイルの自己認識。それらを全員が共有したことによって、あの魔将の存在強度は飛躍的に上昇してしまった。

 フィリスが無ければ、そしてあの魔導書を受け取らなければ、名前を掌握して解体することすらできなかっただろう。まさに薄氷の上に卵を積み重ねるが如き勝利だった。

「宣名者の確信に引きずられて、相手を『自分などでは決して消せない炎だ』と思い込んでしまう。共有した認識が仇となって、自ら敵の力を強大にする現象――これが、近代以降の呪術戦闘で『宣名』が有効だとされるようになった理由。相手の名前を探り合う近代以前の呪殺合戦とは違う、名前と自己認識を押し付けることによる世界観のぶつけ合い。これは、言語魔術が唯一絶対の神秘であった時代から、邪視を頂点とする四大呪術系統のひとつでしかない呪文にまで零落した現代への移り変わりを象徴する出来事」

 私にも覚えがあるけれど、ハルベルトは普段は口数少ないのに自分の専門分野になると流暢にしゃべりだす人のようだった。

「ひとくちに呪文といっても色々ある。呪術が邪視、呪文、使い魔、杖の四大系統みたいに分けられているように、呪文の内部にも細かい分類があるし、各学派や地域、言語、時代によって色々と差が出てくる」

「それは教本で読みました。確か、火、水、地、風、槍の五大コントロールパネルですよね」

「実用面にだけ着目したひどくつまらない分類。マテリアリストの杖使い達が呪文の上っ面だけ再現しようとしてでっち上げた代物。そんなの覚えなくていい」

「あたしの田舎では色号論で教わったなー。時間を司る灰、知識を司る白、夢を司る朱、記憶を司る藍、言語を司る黒、とかそういうの。過去視とか接触感応系の邪視を覚える為に一杯勉強したよ」

 暇を持てあましたメイファーラが口を挟んでくる。

「いかにもイデアリストの邪視者たちが言いそうな観念的で曖昧な分類。杖使いたちと一緒に脳でも解剖してればいいの」

「はいはいミルーニャの提案です! 氷炎術とかビーンズ式とか、超実用的な即戦力系の呪術を覚えて簡単に戦力向上を図るのはどうでしょう!」

「氷炎術とかビーンズ式詠唱短縮術なんて化石もいい所。呪術史の講義はまた別枠でやるから、今はもっとまともな呪術を教えるべき」

「ハルさん、他系統の呪術に対して厳しい」

「ていうか今、さらっとビーンズ式使いのミルーニャに喧嘩売りましたよね?」

「というわけでアズーリア。ちょっと宣名してみて。【心話】で名前にルビを振るの」

「すみませんお師様。あの、できません」

「理由は」

「私、自分の名前の意味を知らなくて」

 私は、故郷の風習で異世界の未知なる名前を召喚された【猫に名付けられた子供】であることを説明した。
 名前を掌握されにくく、しかし宣名ができないという特質。
 それを聞いたハルベルトはしばし考え込んでいたが、やがて何か得心したように一度頷いた。

「なら、あなたはその名前の本質を、自ら解き明かさなくてはならない」

「ですが、異世界の言葉に由来する名前の本質を知るなんて――どうすればよいのでしょう」

「自分で考えて――と言いたいところだけど、考えるための切っ掛けくらいは教えてあげる。名前とは記号であり、世界に於ける存在の位置づけを示すためのもの。それ自体を掴むことが難しいなら、まずその周りに目を向けていくのが確実」

「周り、ですか?」

 ふと、既知感を覚えた。このようなやりとりが、最近もあったような。

「あなた自身を知るために、まずその周りを見て。森羅万象は連関と構造の中にある。『アズーリアでないもの』を知ることが、あなたをアズーリア足らしめているものを捉えるための手がかりとなる。あなたという輪郭はそうすることでようやく掌握できる」

 今この時、私のすぐ傍にいるのはミルーニャ、メイファーラ、そしてハルベルト。身近な仲間達を知ることが、私を知る手段になる? 遠回りこそが最大の近道みたいな訓話なのだろうか。なんとなく違うような気がした。多分、近いとか遠いとかの問題じゃない。もっと本質的な事を認識しなければならない。そんなことを言われているような――。

「アズーリア様っ! お互いにもっと知り合う為にぎゅーってしましょう、ぎゅーって! これも勉強です! 修行、訓練、鍛錬の為ですから仕方ありませんよね! そこの根暗言語魔術師のお墨付き、つまり公認です! さあアズーリア様ぁぁん♪」

 ミルーニャの暴走によって、講義はひとまず終了となった。またしても険悪になったハルベルトとミルーニャの二人をメイファーラと協力してどうにか引き離しながら、私はハルベルトに出された課題についてずっと考えていた。
 ところで、出発の直前に少し揉めた。

「ミルーニャ、汚らわしい男を運ぶのなんて嫌です。放って置いていいんじゃないですか?」

 ミルーニャが縛り上げたナトを指差しながら言った。汚物に対するような視線と口調である。ハルベルトはそれに頷いてこう返した。

「この結界はしばらく持続するからそれでいい。メイファーラ、端末から相手チームにこの場所を連絡して回収に来させて」

「了解です。でもハルさん、結界はどうするんですか? それに罠を警戒して来ないということも」

「結界の解除コードを言うから、それも沿えてメールして。それと、自分の命惜しさに仲間を助けるのを躊躇うような事はあの男のプライドが許さない筈。アズーリアにあんな事を言った手前、必ず来る」

 ハルベルトの言うとおり、端末には即座の返信があった。ナトの安否をまず確認し、こちらへの敵意と罵倒が続く。この様子ならすぐにここまでやってくるだろう。迎え撃ってもいいのだが、主旨は素材の採取である。そして厄介な異獣憑きの高位序列者を二人同時に相手にするには今の私では力不足だとハルベルトにはっきりと宣言されてしまった。

「心配しなくても、これから強くしてあげる。そんなことはいいから、移動しながら呪文の暗記。次の戦闘で試すからちゃんと覚えて。大事なのは反復」

 それに相手チームがこの場所に向かう時間は足止めにもなる。こちらはナトの撃破によって大きく有利になっているのだ。最後はハルベルトに頼ってしまったとはいっても、私は着実に力をつけている筈。自分にそう言い聞かせて、私たちはその場所を後にした。



 いかに恐るべき古代の怪物たちが徘徊するパレルノ山といえど、そこには一応の生態系が築かれている。
 怪物たちが餌とする小動物や昆虫、植物に呪動鉱石。

 今まで通ってきた道にもそうした無害な生き物たちは至る所に見られた。
 中には古代に絶滅した稀少な種もいたかもしれない。
 幾度かの戦闘を繰り返し、順調に金箒花の採取を続けていた私達はいつしか山道の入り口からだいぶ離れた場所まで辿り着いていた。

 装着し直した甲冑の足で、ひび割れた土を踏む。しばらく前までは乾燥した大地を裂いて力強く伸び上がっていた雑草が見えていたのだが、ここの所それすら見当たらない。気がつけば、辺りの様子が一変していた。生命の音が、次第に途絶えていくのである。かわって目に付くようになったのは、無機質な灰色の塊たち。

 それらは皆、動作の途中を切り取った美術作品のように精緻な造りの彫像に見えた。しかし、その細部といい躍動感といい、どれをとっても余りにも真に迫り過ぎており、またこのような古代世界の山道にあるのが似つかわしくない代物である。

「近い――みんな、隠れて」

 メイファーラが何かに気付いて警戒を促す。全員が弾かれたように手近な大岩の陰に身を隠す。私はハルベルトに叩き込まれた呪文を唱え、四人の周囲だけに呪力の偏向を発生させた。

 しばらくすると、しゅるしゅるという不穏な音と共に何か剣呑な気配が近付いてきた。流れるように、それでいて素早く油断無く。ちろちろと真っ赤な舌を出しながら、巨大な頭部が鎌首をもたげるのが見えた。

 蛇の王バジリスク――パレルノ山には決して遭遇してはならない危険が幾つか存在するが、この途方もなく巨大な蛇はその中でも上から三番目に食い込む正真正銘の死の具現である。

 その瞳は石化の邪視によってあらゆる生物を物言わぬ石像に変え、その牙に噛まれたものは恐るべき出血毒で命を落とすか、さもなくば四肢切断級の大怪我を負う。吐き出す息はあらゆる物を絶息させる猛毒であり、緑色の鱗には並大抵の槍や槌矛では傷一つ付かない。

 昔語りに出てくる住人が全て石像の都グリザ・グローボというのは蛇の王に襲われた都市の末路であると言われている。その余りの強大さから亜竜とも呼ばれ、崇拝対象にしている集団すら存在する。

 じっと息をひそめ、気配を隠す。その間も呪文の構成を維持し続けるのを忘れない。ここでの失敗は致命的な事態を引き起こす。巨大な頭部がこちらを向いた。私達が身を隠している巨岩を、その無機質な目と鼻の間にある窪みの部分でじっと精査していく。

 【天眼の民】が有する超知覚にも似た、不可視光線の知覚能力。
 蛇の王は赤外線を感知し、こちらの体温を正確に読み取って索敵を行う。
 また強力な邪視能力があるため、生きて呪力を発している物があれば強制的に電磁波を歪曲させて遮蔽物を迂回した温度感知を行うことができる。

 単純に物陰に隠れたり、赤外線を遮蔽する布を纏ったりしても発見され、即座に邪視の餌食となってしまう。
 ゆえに、こちらも呪術によって完璧に赤外線を遮断することが必要となる。それも、相手にそれと気取られぬように、呪術の行使それ自体を隠蔽しながらである。

 これは極めて繊細な技術と集中力が必要な作業であり、私は蛇の王をやり過ごすまでの間、ずっと全身に刃を突きつけられているような緊張感を味わった。

「もう大丈夫みたい。遠くに行ったよ」

 メイファーラの言葉で、私はようやくその苦行から解放された。
 疲れて溜息を吐いた。
 もし見つかっていたらと思うとぞっとする。

 このパレルノ山を不用意に訪れた探索者の多くはあの怪物に殺されるか石の像に変えられてしまう。それでも死亡ではなく石化であれば助かる見込みが無いわけでもない。もっとも、探索者協会に加入済みであり、高い保険料を払っていて、捜索隊に見つけて貰うという幸運に恵まれれば、という但し書きが付くのだけれど。

「それなりに呪文の維持が安定してきてる。今みたいな状況で精神集中を続けられるなら、維持に関しては及第点をあげてもいい」

「本当ですか!」

 師から発せられた賞賛の言葉に、思わず喜色を露わにしてしまう。
 ハルベルトは不用意な発言を後悔するように「調子に乗らない」と諫めるが、それでも私は浮き立つ気分を抑えきれなかった。

 私は感情の制御が下手で、挑発されればすぐに激昂してしまう悪癖があるが、これも似たようなものだ。
 嬉しいことがあるとその興奮を落ち着けるまでに時間がかかるのだ。
 辛辣でそっけない言葉ばかりのハルベルトから褒められるというのは貴重な機会であるだけに、その喜びもひとしおである。

 第一印象が良くないとか信用できないとかの要因があっても、こちらの気分を良くするような事を言われれば好感が生まれる。単純だが、私にはそういう極端な子供っぽさがあると以前ラーゼフから指摘された。嫌いな人をすぐに好きになる。好きな人をつまらないことで嫌ってしまう。

 冷静沈着な人ほど、私を馬鹿だと感じるだろう――自分でもいい加減うんざりしている所だ。それでも、私は自分の性格がそれほど嫌いではなかった。簡単に人を好きになれる――それは、こんな私でも他者を肯定できると言うことだから。それが『良いこと』のように感じられて、その時だけは自分にもちょっとはましな部分があるじゃないか、と気休めのように思えるのだった。

 私は気分良く探索を再開した。思えば、その時にはもう危険な兆候はあったのかもしれない。しかしその時の私は自分が着実に強くなっているという自信に満ちあふれていて――端的に言って、油断していた。

「うーん。この辺、呪波汚染がきっつくて視界が確保しづらいなあ」

 メイファーラがぼやく。それは、この先は索敵の精度が下がるという事を意味していた。私の背後でミルーニャがとんとん、とブーツで大地を蹴って言葉を繋げる。

「さっきからミルーニャも地脈を探ってるんですけど、近くに呪力が溜まってる場所がありますね。多分、呪鉱石が大量に埋蔵されてるんだと思います。探せば鉱山妖精ノッカーとかもいるかもです」

 ミルーニャが履いている革の編み上げ長靴は彼女が用いる『杖』だ。
 呪術師が用いる杖は時に『第三の足』などと呼ばれたりもするが、彼女の場合は両足で杖を扱う。

 大地に接触させて地脈――地中を流れる水や空気から呪力を引き出す事を目的とする場合、足下の接触面が広い靴の形にした方が効率が良い。デザイン性にも優れる為、現代の若い杖使いは靴で呪術を行使する事が多い。

「ということは、その上には呪力を吸った金箒花がたくさん咲いている?」

「そういうことです。楽しみですね、アズーリア様」

 しかし、それは同時に呪力の影響を受けて、出現する怪物がより強大になっていくことも意味していた。現れる怪物たちの生命力は前にも増して旺盛となり、その獰猛さ、凶暴さは入り口付近の比では無くなってくる。

 メイファーラの索敵範囲は以前よりも狭まり、より慎重な行動が必要になった。
 ミルーニャの呪石弾も無制限に撃てるわけではない。
 彼女の強力で即時性の高い投擲呪術を温存するべく、私のより一層の奮闘が求められた。

 ハルベルトの指示に従って適切な呪文を唱えていく。
 最初のような失敗も無くなり、私は成功の繰り返しに酔い始めていた。
 アキラを加えたキール隊の面々と第五階層を攻略していた時の事を思い出す。
 立ちはだかる人狼たちを次々となぎ倒し、強力な精鋭種エリートの人狼さえ打ち破る。

 勢い付いた私達を止められる者などいないように思えた。
 あの恐るべき巨狼ですらあの時の私達には叶わなかっただろう。
 今だってそうだ。

 ハルベルトが直接手を出さずとも、メイファーラとミルーニャという頼もしい仲間がいれば第六階層でだって充分に戦えるに違いない。
 胸に熱い確信を漲らせながら、私は呪文で敵集団を薙ぎ払う。

 その時に、少しでも冷静になっていれば良かったのだ。
 あの第五階層でも、最後に待ち受けていたのは途轍もなく深い落とし穴だった。その事を、どうして思い出せなかったのか。
 得てして、穴に嵌って後悔するのは落ちた後である。



 目の前に、危ういほどか細い道が続いていた。左手には地上が途方もなく遠い崖、右手には切り立った断崖。当然柵など有りはしない。足を滑らせたら真っ逆さまで、落盤でもあったら逃げられない。おまけに横に広がるだけの余地が無いので、縦一列に並んで進まなければならない。怪物に挟撃でもされれば絶体絶命である。

「あたしが先頭を務めるから、アズは殿をお願い。ミルーニャちゃん――さんがあたしの後ろで、その次がハルさんでよろしく」

 こういう時の判断は索敵と前衛を兼任するメイファーラに一任している。実際に妥当な隊列だったので誰からも異論は上がらない。私達は言われた通り一列になって進んでいく。

「――恐らく、ほぼ確実に敵と遭遇するから全員準備しておくように」

 出し抜けに、ハルベルトが不吉な事を言い出した。メイファーラが何の気配も感じていないというのに、一体何を根拠にそんなことを言っているのだろうか。

「落としたパンは必ずバターやジャムが塗ってある方が下になるし高価な絨毯は汚れてしまうの」

 さも含蓄深そうに言うハルベルト。
 振り返りもせずにミルーニャが鼻で笑った。

「はあー? ちゃんと統計とったんですかぁ? 認知バイアスですよねそれ? 頭のネジがちゃんとあるかどうか確かめた方がいいですよ?」

「どこかのポンコツみたいな事を――これだから杖使いは。無駄に文明人ぶって、それも呪術的思考の一つだと気付かない」

「はーい出ましたー、呪文使い特有の相対主義の濫用。逃げる時にはそれ使えばいいから楽ですよね。ていうか呪文使いって何か生産的な活動したことあるんですかー?」

 私も一応呪文使いなんだけどな。若干傷付いていると、前方のメイファーラがやや緊張を滲ませて声を張り上げる。

「二人とも、煽り合いとか喧嘩とかやってる場合じゃない! 前方五百メフィーテから高速で何かが近付いて来てる! もう四百、三百――!」

 速度からして、地上ではなく空を往くものである可能性が高い。恐らく甲殻虫の類だと当たりをつけて、私は【爆撃】の呪文を詠唱し始める。
 やがて姿を現したのは、予想通りの飛行体――だったのだが、半分だけ想定外のものが混じっていた。

 巨大で凶暴な肉食虫が群れを成して飛来してきているのは正しかったのだが、それらが一人の少女を追いかけていたのだ。
 箒に跨り、片手で三角帽子を押さえ、必死に背後を気にしながら空を飛んで逃亡する少女。

 たなびく明るい黄色の長髪が今にも虫の大顎で食い千切られそうだった。
 はっきりとした目鼻立ちには焦りが滲み、鳶色の瞳には死の恐怖が浮かぶ。
 既視感を覚えながらも、私は詠唱を終え、少女の背後を狙って呪文を解放した。

 炸裂する爆圧は指向性を与えられて甲殻虫だけを選択的に焼き尽くした。
 こうした状況に応じた精密な制御は、他の系統には無い呪文だけの強みだった。
 助かったことに気付いて、箒に乗った少女が急制動をかける。いや、止まろうとして失敗したのか、そのまま空中に留まり同じ所をぐるぐると回り出す。

「うきゃあああああ止めて止めて誰か助けてええええ」

 甲高い声を上げるが、そんなことを言われても空に浮いている相手をどうやって止めればいいのか私にはわからない。
 箒の呪具で飛行しているのだろうけれど、専門の呪具職人でも連れてこないとどうしようもないのでは。

 そう思っていると、隣のハルベルトが小さく呪文を唱える。すると箒の動きが安定し、少女はそのまま空中で制止することに成功したようだった。ぜえぜえと荒く息を吐きながら、彼女はこちらを向いて礼を述べる。

「いやー誰だか知らないけど助かったー。超感謝! 危うく山の藻屑となるところだったー!」

 先程まで命の危険に晒されていたというのに、切り替えの早い人物だった。というか山の藻屑って何だろう。と、その時ミルーニャが何かに気付いて口を開く。

「誰かと思ったらリーナじゃないですか。こんな所で何やってるんです?」

「げえっ、ミルーニャ先輩?!」

「げえって何ですか、げえって」

 知り合いだったのか。ミルーニャを見て凄まじく嫌そうな表情をする少女。まあ何となく気持ちはわからないでもない。そしてミルーニャの言葉で思い出したが、このリーナという少女、朝に列車の中で見かけた大学生だ。朝とは違い、こっちは甲冑姿なので相手は気付いていないようだが、印象的な声と顔立ちなので覚えていたのだ。

 ――妙だな。
 今日になってから、自分の感覚はおかしいことだらけだ。関わる相手の顔の輪郭、その全体像が、はっきりとイメージできることが多すぎる。以前に見かけたことがあるのだろうか。それとも相手が美しく、保有する容姿呪詛ルッキズムの摸倣子量が多い為に私にも知覚しやすいというだけの話なのか。

 フィリスとの同調率が上昇した為に、イメージの記憶領域が拡大したということも考えられた。後でラーゼフに相談した方がいいかもしれない。
 私が考えにふけるかたわらで、知己らしい二人が言葉を交わしている。

「もうその箒は使わないでって言ったじゃないですか! どうして言うこと聞かないんですか、頭が悪い、軽い、丸いの三重苦ってもうどうしようもないですね!」

「丸くないわよ! ちょっと頬のラインがふわっとしてるだけ!」

「馬鹿なのは否定しないんですか! っていうか、学生の癖に講義はいいんですか、講義は。単位落として留年とかしても知りませんよ。そのままずるずる生活リズムが乱れ、講義には出なくなり、ゼミに出席しないから卒論は進まず書き上げても受理されず――クズ大学生の末路は除籍か中途退学と相場が決まってるんです」

「先輩が言うと説得力あるなあ」

「あ?」

 私は、それがミルーニャの口から発せられた音声だとはとても信じられず、まじまじとハルベルト越しに彼女を見つめた。視線に気付いてびくりと背筋を伸ばしたミルーニャは、すぐに普段通りの甘い響きを持った高音域で喋り始める。

「こほん。で、リーナは一体全体どうトチ狂ってこんな危険な古代世界に?」

「いやあそれが。今日は講義午前中で終わりだったから、ちょっと一稼ぎしようと思って坑道潜ってみたんだけど」

「一人でですか? 正気?」

「ミルーニャ先輩が、この機種の最大速ならどんな飛行種でも振り切れるって言ってたから」

「ずっと最大速を維持するのとか無理ですからね? あと坑道内は飛行に向かないから箒では入らないってこれ常識ですよね? しかもそれ耐用年数切れのボロ箒だからいつ止まるかわかったものじゃないし――自殺行為ですよ?」

「そしたら箒が暴走するじゃない? で、よりにもよって採掘場の壁に設置してあった警報機に引っかかっちゃって。ゾンビとか守護機械とかに追われるやら、単眼巨人に見つかるやらで散々だったよもー。それでここまで必死に逃げてきたってわけ。いやー参るわー」

 リーナという少女の言葉のありとあらゆる箇所に指摘したい要素が山盛りだったが、それよりも看過しがたい事を彼女は口にしていた。

「ゾンビ? 守護機械? 単眼巨人? あの、リーナ? それらはちゃんと撒いてきたんでしょうね?」

「えーと、だいぶ距離は離したけど、守護機械にラベル貼り付けられちゃって。ぶっちゃけまだ追われてる途中。かなり大集団で、なんかもう、列車トレインって感じかな」

「――ほんとだ。前方五百メフィーテに凄い数の呪力反応があるよ。速度はさっきよりゆっくりだけど」

 メイファーラがリーナの言葉を裏付ける。私達の中で、浮遊する少女への評価が定まった瞬間だった。

「はい、リーナが狂人であることが証明されました。解散。あとは一人でなんとかしてください」

「ミルーニャ先輩、お願いします本当にやばいのでどうか助けて」

「こんっの、トラブルメイカー! 馬鹿大学生! 底辺探索者!! 水素ガス級に軽い風船頭!!! 金持ちだからって調子に乗るなよなんちゃってお嬢様! 引き連れた敵集団なすり付けるとかプライドないんですか!」

 激怒をぶつけながらも、ミルーニャは素早くスリングショットに呪石を番えていた。どのみち、この狭い場所では逃げることもままならない。敵集団は一列に連なってやってくるのだし、戦う決意を固めるのが現実的判断というものだった。

 やがて、ゆるやかに曲がった細い道の向こうから大挙して押し寄せてくるものがあった。縦一列になってやってくるそいつらは、見かけ上はごく普通の霊長類に見える。槍や警棒で武装している、坑道の警備兵といった所だろう。

 しかし、アストラルの視界で彼らを眺めればその異常性は一目瞭然だ。
 霊体が朽ち果て、今にも霧散しそうなほどに危うい。
 そのくせ生存のための欲求――飢餓感だけは残っていて、生きている者を生前の理に従って襲い、喰らおうとしてくる。

 彼らは魂無き抜け殻だ。「いたぞ、侵入者だ!」「捕縛して拷問しろ!」「火にかけて塩を振れ!」「調理したら食事休憩だ!」正気の目で語る彼らの振る舞いは、彼らの内部では社会性の表れだと見なされている。

 哲学的ゾンビ。
 魂無き抜け殻である彼らは物質的にはなんら人間と変わりないが、外界とは異なる環境下――つまりは迷宮に適応した結果として異常な振る舞いを見せるようになる。それは、霊体や魂を取り払ってしまえば人はいつでもあのようになり得るのだというおぞましさの具現であった。

 更には無数の節足を動かしながら壁を伝ってくる、途方もなく大きな蜘蛛を思わせる鋼鉄の塊が姿を現した。刃のような前足が二本、そして機敏に動く多脚は重力を感じていないかのように壁面に張り付いている。かのフロントクロンやハイダル・マリクといった古の呪術文明が生み出した超技術の遺産――坑道を警備する守護機械が一体、岩壁に無数の足跡を刻みながら迫り来る。

 この事態を引き起こしたリーナは責任を感じているのか、真っ先に行動した。肩に引っかけていた鞄から螺旋綴じのノートを取り出してその中から一枚を千切りとって放り投げる。

「ぶっ飛べっ」

 ノートに書かれていた文字が螺旋を描きながら呪力に変換され、強烈な【空圧】が哲学的ゾンビの集団に直撃する。凄まじい衝撃に先頭の足が止まり、そのまま吹き飛ばされて後列を次々と倒していく。最後尾にいた数体のゾンビが押しのけられて崖下に転落していった。

 とても初歩の呪術とは思えないほどの威力だった。彼女本人の呪力が凄まじいのか、それともあのノートに秘密があるのか。
 敵集団が壊乱している隙を突いて、しゃがみ込んだメイファーラの頭上からミルーニャのスリングショットが呪石弾を射出した。
 初撃は破壊の呪術ではなく、ゾンビの直前で発動しながらも無害な魔法円を虚空に映し出すのみ。
 しかし続く第二射がその魔法円を通過すると、発動した【爆撃】が数倍にも増幅されて炸裂し、哲学的ゾンビの群れを一網打尽にする。

 異なる呪文が封じられた呪石弾を次々と投射することで複合的な呪術の行使すら可能にするという、極めて実践的なビーンズ式詠唱術の本領が発揮されていた。

「ちょっと気が咎めるけど、さようならっ」

 そういえば、杖使いの中には彼ら哲学的ゾンビを人であると見なす人達もいると聞く。ミルーニャもそうなのかもしれない。その間にも、私もまた【爆撃】の詠唱を完了させていた。だが守護機械が両手に構えている刃は攻撃呪術に反撃する機能を有している。このまま守護機械に攻撃しても呪術ごと私の霊体が切り裂かれるだけだろう。

 私は鎧の隙間から魔導書を顕現させ、平行して呪術を紡ぎながらその細部を調整していく。
 視野を広げ、アストラル界と重なり合うグラマー界を覗きながら、展開される文字列を読み取って命令文プランを書き換えた。

 【空圧】は敵が反撃呪術を構えている場合、優先して対象呪術のコストに含まれる部位を狙う。
 解き放たれた圧縮空気が精密に守護機械の腕の付け根に直撃し、一瞬だけ生まれた隙を狙い澄まして私自身が紡ぎ出した【爆撃】の呪文が岩壁を抉った。

 飛散する岩と砕け散った機械部品が転がりながら崖下へ墜ちていく。遙か下方に広がる森で、遠い爆音が聞こえてきた。火災にならなければいいのだが。
 ひとまず目の前の敵を倒した私達だったが、まだ油断はできない。

 しかしその時、リーナがゆっくりと水平移動しながら私の傍に寄ってきて、何やら熱心に話しかけてくる。
 その目はまっすぐに私が操る魔導書に吸い寄せられていた。

「ねえ、良かったらその魔導書、ちょっと私に見せてくれない?」

 こんな時に、彼女は一体何を言っているのだろう。呆れながらも「後でね」と答えるとリーナはぐっと手を握りしめた。不思議な反応だった。
 そうしている間に、重量物が大地を揺るがす音が次第に近付いて来ていた。リーナが口にしていた中で、最も厄介な古代の怪物が現れようとしていたのだ。

 のそりと現れたのは単眼巨人キュクロプス。といっても本物の巨人ネフィリムのように人類を踏みつぶせるほどの大きさというわけではなく、せいぜい大柄な成人男性より二回りほど大きな体格というだけだ。

 それでも十分な脅威ではある。胸に巨大な眼球を持っていて、頭部が存在しない大男の姿をしている。
 意思のようなものはほとんど無く、ただ目についた相手の動きを束縛の邪視で停止させ、その間に巨大な棍棒で殴り殺そうとしてくる。

 古代の錬金術師が生み出した人工生命体であるとか、奉仕種族であるとか言われている。
 石化の邪視を使う蛇の王ほどではないが、それに次ぐ危険度の怪物だった。

 その巨大な単眼がかっと見開かれ、壮絶な呪力が放射される。相手の動きを見ただけで封じ込める束縛の邪視だ。厄介なことに貫通性能があり、縦一列に並んだ私達とリーナは漏れなく邪視の餌食となった。

 受信専門とは言えメイファーラは邪視適性があり、束縛の呪術を難なく無効化していた。【天眼の民】には邪視を受け流す技術があり、更には彼女の長い髪を右側で括っている瑪瑙は邪視耐性を高める呪石パワーストーンだ。前衛として短槍と盾を構えて単眼巨人を迎え撃つ構えだった。

 ミルーニャは事前に邪視耐性を高める呪具である眼鏡を装着済みであり、高位言語魔術師であるハルベルトは当然のように無効化。リーナもまた邪視耐性が高かったのか平然と浮遊したままだ。問題は私だった。

 邪視には抵抗できたが、呪力を乱されて精神集中に失敗してしまったのだ。これでは呪文を紡げない。
 構成中だった【爆撃】が弱体化して【炸撃】になってしまうが、仕方無くそのまま放つ。

 火線が弧を描いて単眼巨人に吸い込まれていくが、直前であっけなく消滅してしまった。相手の呪的抵抗が高すぎるのだ。
 完全な無駄撃ちだった。

 失態を演じた私だったが、ミルーニャとリーナの呪術攻撃が命中し、とどめとばかりに突き入れられたメイファーラの短槍が胸の単眼を貫いたことで戦いは終わりを告げたようだった。私はほっと胸をなで下ろす。

「ばか、まだ終わってないっ」

 ハルベルトの鋭い声。見ると、前のめりに倒れようとしていた単眼巨人の背中に何かが取りついていた。それを見て、私は思わず息を飲んだ。短い呼吸音が私以外にもハルベルトと、そしてリーナからも漏れた。

「何あれ。白い、花?」

「何かの呪具にも見えますけど――」

 メイファーラとミルーニャが怪訝そうに呟くが、私はあれに見覚えがあった。あれはハルベルトと初めて会った夜のこと。アストラル界で私を襲撃した、骨の花だ。何者かの使い魔だとハルベルトは言っていた。それが、どうしてここに?

「嘘――何であれが、こんな所に」

 私の横で、リーナが呆然と呟く。
 彼女は何か知っているようだったが、それを訊ねる前にきっと頭上を見上げ、何事かを小さく呟いた後で箒の柄を鋭角に持ち上げた。

「近くにいる――逃がさないっ」

 言うが早いか、リーナはほぼ垂直に飛び上がって山頂の方向に向かって行ってしまった。訊ねたいことがある上に状況は何も解決していないのにである。

「あいつ、厄介事持ち込むだけ持ち込んで、押しつけて逃げるとか――後で実家に慰謝料請求してやる!」

 ミルーニャが眼鏡のフレームを震わせながら憤然と吠えるが、その『後で』もこの場を乗り切らなければ訪れない。
 無数の骨片が伸びて単眼巨人の体内に入り込むと、死んだはずの肉体が再び動き出す。メイファーラが短槍を突き出すが、瞬時に再生した単眼は濃密な呪力を放出して刺突を停止させた。大気――あるいは空間そのものを束縛したのだ。

 巨大な単眼が、金色に染まっていた。全身から白い骨のような先端が突きだし、より攻撃的で獰猛な輪郭を形作っている。変貌した死せる単眼巨人は棍棒を振り上げてメイファーラに凄まじい一撃を叩きつけた。

 咄嗟の判断で短槍を手放して後退する。前衛として突出していた為にミルーニャとぶつかる事も無く回避が成功したが、そのまま後退し続けることはできない。
 何故なら、脅威はそれで終わらなかったからだ。

 最後尾にいる私の背後から、重い地響きを立てて何かが近付いてこようとしていた。予感と共に振り返ると、そこには金色の瞳を光らせた単眼巨人。それも、骨の花に寄生されて呪力を増した個体である。

 挟撃。想定しうる中で最悪の状況だが、このために私が殿を務めていたのだ。
 邪視が発生させる重圧の中、自ら呪文を紡ぐことが無理だと判断した私は魔導書に【空圧】の発動を命令し、自分は槌矛を構えて突撃する。

 大気を引き裂いて進む衝撃をものともしない単眼巨人に歯噛みしつつ、私は疾走の勢いに任せて槌矛を振り抜いた。
 そして、空振りの感覚に総毛立つ。

 単眼巨人が選んだ行動は後退しての回避でもなく、その場に留まっての棍棒による防御でもなかった。上への移動。より能動的な攻撃の為の準備行動。すなわち、跳躍によって後衛の目の前に降り立ったのである。

 単眼巨人は私の接近を認識した瞬間、手に持っていた棍棒を高く投擲した。その得物を即座に邪視で空中に固定、高く跳躍すると棍棒を足場にしてもう一度大きく跳ぶ。私の頭上を一瞬のうちに飛び越して、背後にいるハルベルトの目の前に着地したのだった。

 一瞬のうちに、私の思考を後悔と恐怖が駆け巡っていく。迂闊な前進。後衛としての力量不足。前衛としての誤判断。殿を任されたのに。でもハルベルトなら少々の事があっても大丈夫な筈だ。

 そう、問題は無い筈だ。今は窮地に見えるが、いざとなったらハルベルトがその圧倒的な実力でなんとかしてくれる。あろうことか、この状況でもまだ私には心の中に余裕があった。それは甘えとでも呼べるものだったのだと思う。

 最初に出会った時、ハルベルトは骨の花を一撃で破壊してみせた。異獣憑きの使い魔をたった一種の呪文で打ち倒してみせた。今回もそうなるに決まっている。
 無邪気な信頼は、しかし一瞬で打ち砕かれた。

 棍棒による横薙ぎの一撃。壁に向かって叩きつけられた細い身体が嫌な音を立てて岩壁にめり込んでいく。防御の呪術を展開していたのか、外傷こそ負っていないようだったが、僅かに身体を傾けた単眼巨人と壁の間に見えるハルベルトは顔面蒼白に見えた。

 不可視の障壁が圧倒的な質量によって軋み、今にもその脆く儚い身体に叩きつけられようとしている。間近に迫った肉体の破壊と破滅的な痛み――その恐怖に耐えきれず、ただ震えるばかりで何も出来ずにいる。

 ありえない、と私は思った。あんなにも圧倒的な呪文を操る言語魔術師、厳しいが紛れもなく優れたやり方で私を教え導いてくれていた師匠が、あんなふうに追い詰められるなんてことは、たとえ目の前で起きていたとしても信じられなかった。

 だがそれは幻影ではない。
 私は、自分がフィリスという存在によって無理矢理に全ての性能を底上げしている特例であることを思い出した。中衛という存在は、基本的には珍しいのだ。

 純粋な後衛職であるハルベルトは、アストラル界やグラマー界では圧倒的な強者であっても、物質マテリアル界では脆弱な少女でしかない。この四人の中で最年少だという事実を、改めて思い出す。

 物理攻撃では埒が明かないと判断した単眼巨人が、棍棒を離して邪視に注力する。効果範囲を絞り、より限定された箇所に集中して力を発現させたのだ。

「あ――ぐぅ」

 ハルベルトが喉を押さえて呻いた。
 その身体が、ゆっくりと持ち上げられていく。
 束縛の邪視で首を凝視することによって、呪術障壁を貫通して縊り殺そうとしているのだった。

 喉を押さえるというのは呪文使いにとって最も有効な攻め手でもある。
 助けに入ろうとするが、単眼巨人の背中に寄生している骨花、その中央に象嵌された金眼が光を放ち、私をその場に釘付けにする。

 ハルベルトの漏らす苦悶の声が途切れていき、口から唾液と泡が混じって零れそうになる。
 このままでは遠からずハルベルトは窒息するか首の骨が折れるかして死んでしまうだろう。

 メイファーラはどうにか残された盾でもう一体の単眼巨人を相手にしているし、ミルーニャは呪石弾で仲間を巻き込む事を恐れてスリングショットを構えたまま動けない。

 発動の範囲を絞ったり指向性を与えたりする呪石弾と組み合わせれば良いのだが、その場合射線上にいる私が邪魔なのだ。貫通した【爆撃】が単眼巨人ごと私を焼き尽くす事を懸念して、ミルーニャはハルベルトを助けられずにいた。足手まといという意識が身体を震わせた。

 ミルーニャは舌打ちしながらスリングショットを下ろして、意を決したように単眼巨人の方へと接近する。後衛の無謀な突進。突き出された徒手空拳の行き先は、見上げるような巨体ではない。ハルベルトの首の前に差し出された細い左手首が、軋むような音を立ててへし折れる。

「この――口先フード女っ! びびってないで呪文くらい唱えて下さいよっ」

 骨折の苦痛に表情を歪ませてミルーニャが叫ぶ。
 己の肉体を身代わりにしてハルベルトを救い出した彼女は、用意していた呪符を発動させると眼前に目をイメージさせる紋章を展開して邪視を一瞬だけ相殺し、その隙にハルベルトを後ろに引き倒して自分が前に出る。

 邪視の重圧に耐えきれなくなった呪符が破れるのと同時に、丸太のような棍棒が勢いよく振り下ろされた。
 ミルーニャはすっと眼を細めて、折れた左腕を頭上に掲げて棍棒の動きに逆らわず、そのまま僅かに重心をずらして超質量の一撃をいなした。

 更に悲惨に砕けていく左腕。
 激痛のためか、額に脂汗を浮かべながらも、ミルーニャは次の動きに移行する。
 だん、という激しい足の踏みならしによって大地から呪力を引き出すと、そのまま流れるように右足を振り上げていく。

 敵の物理攻撃を受け流しながら、靴型杖による呪力の導引、そして反撃。絵に描いたような初級呪術【報復】の流れである。
 絶妙な軸足のバランス、完璧な腰の捻転から繰り出される上段蹴りは鮮やかですらあった。

 呪術と組み合わせた特徴的な攻防一体の型は、ミアスカ流脚撃術のものと見て相違ないだろう。
 神話の時代に天使セルラテリスが人に伝えたとされる古武術で、現代でも両手が塞がっている射手が接近された時によく用いるという。

 凄まじい衝撃が単眼巨人の脇腹の急所に吸い込まれ、反射的に屈み込んだ隙を逃さず腰から引き抜いたナイフを一閃する。
 棍棒を握っていた手の親指が切断され、単眼巨人は重量物を支えきれずに取り落としてしまう。

 続いて眼球への刺突を繰り出そうとするミルーニャ。
 だが、彼女の奮闘もそこまでだった。
 背中から射出された骨片が、ミルーニャの眼鏡にひびを入れる。
 途端、邪視耐性が極端に低下してその動きが停止してしまう。

 痛撃を与えられたことに怒りを感じているのか、単眼巨人は無事な方の拳を固め、そのまま身動きの取れない少女の腹部に思い切りねじ込んだ。
 血と唾液、そして胃液の混じった吐瀉物が吐き出される。

 ハルベルトが用意した色鮮やかな昼食――消化されかかったそれらが、無残にも吐き出されてこぼれ落ちていく。
 再び、巨大な拳が少女の腹部に吸い込まれた。骨の砕ける音。そして、内臓が損壊していく音。人間が破壊される音が断崖に響いていく。

「が、え――ぐぅ」

 声を出すことはおろか、意識を保つのも難しいような激痛だろうに、ミルーニャは攻撃的な視線で単眼巨人を睨むことを止めなかった。強大な呪力を放出する邪視に負けまいとするように、強くその瞳に意思を宿す。

 血に汚れた唇が、ゆっくりと音の無い形を作る。
 たった一言。
 死、ね。

 その意味を理解せずとも、込められた敵意は充分に伝わったのだろう。単眼巨人はより一層その視線に呪力を込めてミルーニャの身体を締め上げながら、その命を終わらせるための拳を高々と振り上げた。

 駄目だ。
 間に合わないという現実を受け入れるなんて、もうできない。

「遡って――【フィリス】!!」

 左手の装甲を分離して金鎖を解放する。残り五つ。解放された無彩色の左手が、私を釘付けにしている金眼の呪縛を消滅させた。そのまま全力疾走して、槌矛を突撃槍のように構えて単眼巨人の方へ向かう。全体重を乗せてぶつかった。

 一瞬の浮遊感。
 私は単眼巨人ごと崖下に転落していった。こんな時まで魔導書は背後を追随してくるのが、少しおかしかった。

「あ――駄目! アズーリアッ!」

 弾かれたようにハルベルトが立ち上がり、あろうことかそのまま崖下に飛び込んだ。宙に身を躍らせるその表情に、先程までの怯えは無い。
 風圧でフードがばさりと持ち上がって、その頭が露わになる。
 流れていく綺麗な黒髪。

 そして、あるものを見て私は目を丸くした。
 だがそんなことには構わず、ハルベルトは墜ちながら素早く呪文を詠唱して仮想使い魔を顕現させる。

「【選択的重力の猫バタードキャット】」

 出現した仮想使い魔は、バターを塗ったトーストを背中から二つ生やした、奇怪な翼猫。あの迷宮の審判を自称する奇怪な存在をよりユーモラスにしたような姿の幻獣はその場で翼をぐるぐると回転させ始めた。

 落下速度が急激に減少し、くるくると周りながら次第に安定した状態になっていく。緩やかな降下により、墜死する心配が消える。落ちてきたハルベルトは私に抱きつくと、そのまま腕を後ろに回して強く身体を引き寄せた。

 しかし、脅威が去ったわけでは無かった。束縛の邪視を発動させて己の身を空中に固定させた単眼巨人が、その野太い両腕でゆっくりと落下する私達に襲いかかろうとしていたのだ。

 私はハルベルトを左手で抱えながら、右手の杖を展開する。放たれた拘束呪術の帯は崖の上に向かい、今まさにメイファーラを叩きつぶそうとしていたもう一体の単眼巨人の足に絡みつく。そのまま引きずり下ろした。どうせ落下するのだから、まとめて叩き落としてしまえばいい。

 空中戦と言うには少し奇妙な光景。
 二体の単眼巨人と私達との、緩慢に落下しながらの戦いが始まった。
 魔導書から牽制の呪術を放ちながら敵の接近を妨げ、杖を振り回して単眼巨人同士をぶつける。その間に詠唱を完了したハルベルトが高らかに叫んだ。

「【砂男ザントマン】よ」

 ハルベルトが新たに呼び出した袋を背負った小人が、背中の袋から砂を撒いた。邪視を遮る煙幕が束縛の呪力を断ち切り、体勢の崩れた単眼巨人たちが無防備に落下していく。その隙を狙って砂男は巨大な単眼に砂を投げ入れていく。途端、その眼がとろんと落ちていき、やがて完全に閉じてしまう。邪視を無効化するだけでなく、相手を眠らせる能力まであるらしい。

「アズーリア、今のうちに」

「はい!」

 魔導書と同時に高威力の呪文を紡ぎ、一気に解き放つ。巨大な【爆撃】が二体の単眼巨人を空中で焼き払った。爆炎の中から、バラバラになった骨花と単眼巨人の死骸が落ちていく。だがそれは一体だけ。

 腕を傷つけて棍棒を失った片方は既に役立たずだった。合理的に仲間を盾にして生き残った単眼巨人の背中で骨花が金眼を光らせる。本体が眠っても、寄生している方は眠らなかったのだ。金色の目が光り、呪力が空中を走り抜けた。

 骨片が雨のように降り注ぎ、装甲をがりがりと削っていく。強大な邪視に耐えきれず、呪動装甲が悲鳴を上げているのがわかった。相手が腕を振り上げるのに合わせてこちらも杖を変形させる。

 振り下ろされた棍棒がこちらの槌矛とぶつかり合い、強度で勝るこちらが相手の木製の武器を真っ二つに割り砕いた。
 しかしそれが仇となった。砕かれた木の欠片を凝視した金眼が鋭く視線を巡らせる。骨花の視線移動に従って横移動した鋭利な尖端が、私の腕を迂回してハルベルトの腹部に吸い込まれる。

 串刺し。そして、背中から抜けた。
 血を吐いてぐったりとするハルベルト。同時に幻獣達が消える。単眼巨人が目覚め、落下速度が増大していく。左手で必死に傷口を押さえた。感じるのは、強い焦り、怒り、悲しみ、嘆き、そして――絶望。

 束縛の邪視に捕らえられる。頭上で割れた棍棒を振りかぶる単眼巨人。空中で逃げ場は無い。次の一撃を凌いだとしてもこの位置関係だと巨体に押しつぶされて私とハルベルトは死ぬ。

 瞬間的な判断だった。
 魔導書に命じて背後から自分自身に【空圧】を放ち、上方向に加速する。
 背中に凄まじい衝撃が走り肺が圧迫されたが、構わずに槌矛を突き出す。

 鋭い尖端部分が見開かれた巨大な単眼ごと背中の骨花を貫いた。
 そのままもう一度真横から【空圧】の一撃。
 体勢を崩して、位置関係を入れ替える。
 私とハルベルトが上になり、槌矛を引き抜いて単眼巨人を蹴飛ばした。

 変形させた杖から拘束呪術の光を伸ばして壁に接続。
 引き寄せられて、勢いよく岩壁に叩きつけられる。
 衝撃で呪術が解除されて、私達は岩壁を転がりながら崖下へ落ちていった。
 意識が闇に包まれていく。



 気を失っていた時間はそう長くは無かったと思う。
 目が醒めた時、私達は広く迫り出した岩棚の上に倒れていた。
 運良くこの場所に落ちたお陰で、墜落死しなくて済んだらしい。

 立ち上がろうとして、右足に激痛が走る。
 見ると、甲冑の膝関節部分が横に拉げている。
 あり得ない方向に曲がったその足はまともに動かすことすらできない。

 その他にもあちこちに打撲と擦過傷、そして全身の痛みから数カ所の骨に亀裂が入っている可能性があった。
 呻きながら、少し離れたところに倒れているハルベルトに近付こうと這っていく。彼女の傷は腹部の貫通創だ。幸い治癒符の手持ちがある。すぐに処置しないといけない。

 異臭がすることに、私は遅れて気付いた。 
 槌矛と魔導書が落ちているあたりが、黒々とした液体で侵されている。何だろうと不思議に思ってハルベルトをもう一度見た。そして気付く。

 それは敗者からの最後の呪いだったのかもしれない。
 白く不吉な骨の欠片。
 鋭利な尖端が刃となって、ハルベルトの胸に突き刺さっていた。
 流れ出している異様なほど黒い液体は、彼女の血液だ。

「お師様――?」

 致命傷だった。手持ちの治癒符などでは追いつかないほどの圧倒的な死。
 ありえないと思った。あの圧倒的な実力。溢れる自信と不遜な態度。

 けれど、直前の単眼巨人に怯える姿もまた彼女の一面だった。
 裏返りそうな視界。崩れ落ちそうになる身体。目の前が一瞬暗くなりかけて、ある事実に気がつく。

「そうだ。キュトスの姉妹は、不死の魔女だって」

 神話において邪神キュトスは永遠と不朽に絡め取られ、楽園の中で七十一の断片に引き裂かれた。
 その因子を受け継いだ半神たちにもその不死性は受け継がれている。
 彼女たちが半神となって存在していること自体、キュトスの不滅を体現する事象なのである。

 であれば、【星見の塔】の末妹であるというハルベルトもまたこの程度では死なないはず。
 どのような方法によってかは知らないが、血が独りでに身体に吸い込まれて傷が塞がったり、何らかの方法で輸血して肉体を再構成したりできるに違いない。

 もしかすると、どこか別の場所から新しいハルベルトが出てきて脅かしてくるかもしれない。
 そんな夢想を、半ば期待混じりにしつつ。
 ただただ流れていく血液を見る私の思考に、ゆっくりと絶望が広がっていった。

 違う。
 ハルベルトは、不死などではない。
 彼女は、ただの人間だ。

 その露わになった頭部、その美しい造型の中で唯一特異な部位を注視する。
 ハルベルトは、両耳が左右不揃いなのだった。
 右側は半妖精アヴロノ特有の少しだけ尖った耳。左側は兎――【イルディアンサの耳長の民】を象徴する夜のように黒い垂れ耳。

 確かに、両方の種族の混血だと言っていた覚えがある。しかし、たとえ混血であっても通常はどちらか片方の形質が強く発現するものであって、半分ずつというのは聞いたことがなかった。

 ごめんなさいと呟いて、服を引き裂いて傷口に治癒符を当てる。露わになった肢体を見て私は息を飲む。想像通りの完璧な均整を保った身体だったから――というだけではない。

 その白い、あまりにも白すぎて透き通った肌ごしに血管が見えてしまう肌が、異様な模様を浮き上がらせていたからだ。
 複雑に入り組んだ毛細血管を流れる血液は、純粋な漆黒。

 夜闇の如き命の水が、黒々とその全身を循環して高密度の呪力を運んでいく。
 さながら全身に呪紋を描かれ呪いをかけられているかのようだ。
 血管は複雑に蠢き、絶えずその形を変えていく。

 それは呪術的な意味を持つ有機的な図形となり、また古い時代の力ある文字となってハルベルトの美の具現が如き肢体に呪いを刻み込んでいた。
 執念――あるいは怨念じみた偏執的な人体改造がこれを可能としたのは間違いないように思われた。

 天与の身体をこうまでも呪わしい異形に変貌させてまで、得なければならない神秘の秘奥、呪術の真髄が存在する。それはこの世界を成り立たせる呪術文明の負の側面を具象化したような光景だった。

 彼女の身体が宿している余りにも強大な呪力は治癒符の効力を阻害しているようだった。低級の治癒呪術ではその身体を癒すことなどできない。せいぜい気休めにその命をわずかに長らえさせるのみ。

 人でありながら、人というちっぽけな器から逸脱しようとする異形の存在。
 それでもその両耳を見れば、ハルベルトが眷族種の血を引くただの人類であることがわかる。生きて死ぬ、定められた命。

 血の気を失って真っ青になった表情が微かに動いた。弱々しく目蓋を開くと、細く長い睫毛の間から覗く黒玉が私の姿を捉える。ハルベルトの名を呼ぶと、彼女は微かに表情を動かした。あまりに弱々しくて、それがどんな意味を持つのかはわからなかった。

「良かった」

 そう言って、彼女は穏やかに目を閉じた。静謐が場に満ちる。動かなくなった身体に触れようとして、引き戻す。
 いつの間にか落ちてた太陽が、岩棚を焼けるような色に染め上げていた。
 光の中でもハルベルトの血は底無しの闇のように深い黒だ。

 手に持っていた治癒符を取り落とす。
 黒い血に染め上げられて呪符が台無しになっていくが、もはやそんなことは気にならなくなっていた。

 迷宮という戦場においては、もう処置の施しようがない致命傷を負った仲間を後回しにして、すぐに戦える軽傷の兵力を治癒する判断も必要になる。骨折程度なら治癒符を使えばどうにか戦闘できる状態にまで戻せるだろう。

 治癒符ではもう間に合わない。ここにラーゼフがいてくれたら。
 いや、呪術医とは言わずとも医療の心得がある修道士さえいてくれたなら。
 そうだ、ペイルが呼び出した仲間の一人――ああ、名前はなんといったっけ――が医療修道士らしい事を言っていた。

 どうにかして彼を呼び出せば。端末を取り出して、高密度の呪波汚染によって通信が出来なくなっていることに気がつく。呪動装甲の通信機能も同様だった。本部に救難信号を送ることすらできない。

 こんなのは嘘だと思った。
 たとえ現実でも、それは嘘であるべきだと信じようとした。 
 ハルベルトは私を追って崖下に身を投げ出した。あんなに怯えていたのに、弟子の身に危険が迫った途端に全力でその意思を奮い立たせたのだ。

 そして、意識を失う最後の瞬間、自らの意識を死が侵していく恐怖に苛まれながらも、私が生きていることに安堵して喜ぶことさえした。
 彼女がどんな人なのか、未だにわからない。

 けれど、このまま私なんかの為に死なせて良い筈は無い。それだけは確かだと思えた。わからないまま永遠に別れてしまう。そんな事を、私は認めない。
 夕日の輝きを吸い込むかのような、周囲の空間と隔絶した無彩色の左手を広げる。二回目の金鎖解放。ラーゼフの戒めはもう気にならなかった。

「言理の妖精語りて曰く」

 神秘の声が世界に響く。
 思い起こすのは、第五階層から地上に帰還した直後のこと。
 守護九槍の第七位、あの最悪の男の指示によって私は地下牢に繋がれ、全身の霊体と肉体を少しずつバラバラに引き裂かれる拷問と脳髄洗いの順正化処置によって第五階層における顛末を強制的に吐かされようとしていた。

 絶え間ない激痛と終わりのない精神の分裂感。
 自分が自分でなくなりそうになった時、その男は現れた。
 長い髪の、美しいという漠然とした印象だけが記憶に残っている。

 守護九槍の第九位。
 廉施者キロンとその名も高き英雄は、私の心身の負傷を一瞬で治すと、第七位の下から私を連れ出してラーゼフの保護下に置いた。
 その後、私は絆されるようにして第五階層であったことをラーゼフとキロンに話したのだが――。

 今このとき重要なのは、かの廉施者が用いた神働術だ。
 取り返しがつかないほどの負傷を一瞬にして治癒してしまう、神の御業としか思えぬ絶技。伝え聞くどのような医療神働術にもあのようなことはできないだろう。
 その比類無き医術を、今この時だけ借り受ける。

 フィリスが行使する対抗呪文【静謐】は対象とする呪術の構造を詳らかに解析することで、その効果そのものを解体可能にするというものだ。
 言葉を用いて発動させる呪文を打ち消す反対呪文。
 ゆえにそれは言葉無き多弁――【静謐】と呼ばれる。

 しかし呪術の構造を解析するということは、裏を返せばその本質を掌握するということでもある。
 ならば、そこから全く同じ呪術を再現することだって可能な筈だ。

 あくまでも、理論上は。
 私自身の技量がそれに追いつかなければ、呪術の完璧な摸倣などできはしない。
 それでもやるしかない。

 摸倣対象は恐らく地上最高峰の医術使い。第九位という高みはこの三十位からは見上げることしかできない。それでも、私は必死に手を伸ばすことしかできないのだ。間に合わなくなることなんて、もう嫌だから。

 この声が、まだ届くのなら。
 神様、どうか私の願いを聞き届けて下さい。
 祈るように、精神を集中させる。厳しくとも決して私を見捨てることはしなかった、最高の師に教わったとおりに。心を深く沈ませる。

 その静けさは、夜のように。
 太陽が沈み、世界が闇に染め上げられた。
 その瞬間。天啓のようにその言葉は降りてきた。

万色彩星ミレノプリズム――パラドキシカルトリアージ」

 それは呪文。未だ名付けられていない、存在しない筈のまことの名。
 万象を貫く【紀】より禁呪の本質を先んじて引き出す。私はその呪術を引き寄せて、必要な結果だけをこの場に再生する。

 瞬時に損なわれかけた命と魂――流れ出した血液と散逸していた霊体が巻き戻るようにハルベルトの身体に吸い込まれていった。
 重く長く、そっと息を吐き出した。

 成功した。ハルベルトは、一命を取り留めたのだ。
 直前まで死に瀕していたのが嘘のような姿。安らかな寝顔と穏やかな寝息を確認して、私はそのまま意識を闇に沈み込ませた。
 闇の中で、彼女と再会出来ることを期待しながら。




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