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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第3章 特権者のヒロイック・シンドローム、さもなくばアズーリア・ヘレゼクシュの憂鬱

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3-0 どうして空は青いの?

 


 白い綿毛よりも大きくて、黄色い車輪をぐるぐる廻す、赤いカーテンが大嫌いな、真っ黒な天井を見たことがないもの、なーんだ?

 ――ヘレゼクシュに伝わる謎かけ

 

 青。
 抜けるように高い空が、頭上に広がっている。
 綿毛のような雲、翼をはためかせて地上に影を落とす鳥。
 浮遊する大地の欠片は遠い昔、散らばった大地の時代に大陸や浮島だったものの名残だ。

 迷宮内では決して見ることの叶わない、地上固有の光景がそこにあった。
 地上、迷宮、地獄。三通りの世界が平行して存在する中で、地上の最も優れた点は何かと問われれば、それはこの無限の蒼穹があることだと答えることができる。

 美しいとかそういう価値基準を超えて、ただそこに広がっているあの綺麗な空が、私はたまらなく好きだ。
 暗く淀んだ迷宮のことを思えば、この地上世界がどれだけ尊いのかが身にしみて実感できる。

 ふと、他愛のない事を思い出す。
 『色彩』を知ってからしばらくの間、私は子供の無邪気さで周囲の人々に様々な質問を投げかけた。

「どうして空は青いの?」

 ありふれた質問で、多くの人が幼い頃に通り過ぎる疑問なのだという。
 それに対して、例えば神話はこのように説明する。

 大いなる槍神は不死なる女神キュトスと共に、暗黒の空間を旅していた。星々の輝きは綺麗で宝石のよう。キュトスはその光景がとても好きだったけれど、槍神はそれが面白くない。だから昼の間は彼女の目を自分に向けられるように、青い絵の具で星々の輝きを覆い隠してしまったのだ、と。

 初めて大人からそれを教えられた時、私は大いに不満だった。それでは空がどうして『青』なのかという説明にはなっていないではないか。
 型どおりの、大神院が定める公式の回答。私は修道騎士という身でありながら、そうした説話があまり好きではない。

 あるいは、学術院の学者たちは光の散乱でそれを説明する。
 それでもやっぱり、それがどうして『青』であるのか、どうして青く見えてそう感じるのかということはわからないまま。
 そして、とある呪術師はこう語る。

「青は青じゃないものによって規定される」

「はい?」

「青くないものを全て列挙していけば、残ったモノが『青』じゃない? 違う?」

 目の前から、面白がるようなからかうような声が響いてくる。巨大な椅子の上で手足と顔を拘束された豪奢なドレスの少女。異様なアバターをかたかたと揺らして私をからかう【狂姫】はいつも通りのわけのわからなさだ。どうしてこう、呪術師という人種は当たり前のようなことを迂遠に言い回す言葉遊びが大好きなのだろう。

 それは蒼い蒼い空間の中。半透明で非実体の肉体――というか霊体を漂わせながら、私達はとりとめのない会話を交わしていた。

「さすがです。深い見識にほれぼれしちゃいます」

「そうでしょうそうでしょう。わたしの世界有数の知性はヤバ過ぎて地下千メフィーテに幽閉されるレベルだからね。ほら、もっと褒め称えてもいいのよ」

 後ろで太鼓持ちをやっている【聖姫】さんの可愛らしいお姫様アバターがぴょこぴょこと動いて【狂姫】さんの回りを跳ねていく。二人の世界からは、私の疑問などどこかに飛んでしまったようだった。

「急にどーしたのアズは。そんな事いきなり訊ねてくるのはじめてだよね」

「ははーん。さてはホームシックか。独り寝が寂しくなっちゃったのかー? お姉さんたちが慰めてやろうか、ほれほれ」

 【目玉】や【箒星】たちの反応は予想通り。今日は【道具屋】がいないから訊ねることはできないし、【ジアメア】さんを呼んでもどうせいつものようにわけのわからない事を言われて混乱するだけだろう。面白い人ではあるのだが、今は面白さを求めているわけではないのだ。

「寂しくはない。こうして皆さんと話すことはできているわけですし、そこまで不自由ってわけでも――昼夜問わず監視付きっていうのが少し疲れるけれど」

 私のアバター【アズ】は灰色のローブに包まれた二頭身の身体をふわふわと漂わせて、ちょっぴり照れくさいけれど、まぎれもない本心を友人達に伝える。フードの奧に広がった闇の中、光る二つの瞳が感情に呼応してちかちかと瞬いた。

 【目玉】が仮想の手を伸ばして私の頭をポイントし、ぽんと撫でてくる。「よしよしいい子だね」とあやすように口にするが、目玉だけのアバターでそれをやられてもあんまり嬉しくない。

「じゃあ何? どうして急にそんな疑問に目覚めちゃったの? 地下に幽閉され続けたせいでおかしくなっちゃったとか?」

「地下幽閉仲間ね! 仲良くしましょう!」

 【箒星】が箒そのものの姿で疑問符を浮かべ、横合いから【狂姫】が突進してくる。自身の透明度を上げて回避。すり抜けていった【狂姫】がアストラルの彼方へと飛んでいき、【聖姫】がそれを追いかけて行く。ごめんなさい。でもなんであの人達はいつもあんなにテンション高いんだろう。

 この世界は現実空間とは違う呪的な空間だ。
 第五階層での魔将エスフェイルとの戦い――そして独断専行と命令無視の数々から、私の物理的肉体は大きな制限を受けることになってしまった。

 けれど、呪的な身体、つまり霊体は別だった。魔将との戦闘を経て呪術の適性が上昇した私は、新たにアストラル投射の技能を獲得していたからだ。階梯を昇り、新たな目と耳、手足を得た私は、監視の目を潜り抜けてこっそりと世界を広げていたりする。

 そこには、私がこれまでに関知できなかった目に見えない世界が存在していた。
 ここは現実の裏側にある空。
 一定の位階に達した呪術師たちは自らの星幽アストラル体を肉体から切り離し、投射することで星辰の世界を自在に行き交うことができる。

 邪視者たちがアストラル界、言語魔術師たちがグラマー界と呼ぶ非物質的な世界。厳密には、同じものを感覚によって捉えるか情報の記述によって捉えるかの違いだとか。私はまだ呪術についての理解が浅いから、視覚的、感覚的に捉えやすいGUIグラフィカルユーザーインターフェースを用いてこの曖昧な世界を泳いでいる。

「ううん、大した事じゃないです。ただ、夢で昔の事を思い出して、そういえばそんなことを不思議に思っていた時期があったなって考えてしまっただけで。みなさんの子供時代はどうでした?」

 浮ついた気持ちを押し隠して、形の無い不安をフードの中にしまい込む。どうでもいい疑問よりも、私は周囲のことが知りたい。

 それは不定期に行われている夜の雑談おしゃべり。呪的に隔離された『部屋』を作り、知り合いの呪術師たちがアストラル体を投射し合って密やかに会話を楽しむ架空のサロン。
 並んだ円形の卓上にお茶とお菓子が並び、馥郁たる香りと目にも鮮やかな彩りで来客をもてなしている。もちろん、実際には存在しないデータ上のものだけれど、それだけにどんなものを提供するかは自由自在。時には思いも寄らない味や色合いで驚きをもたらす。

 出されるお茶とお菓子はそれぞれ自前で味と質感を生成して周囲にふるまうのが作法。私はまだ味覚を鮮やかに再現することができなくて、もっぱら振る舞われるばかりだけれど、先輩呪術師たちがみんなして私を文字通りに甘やかすので中々上達のモチベーションが上がらない。自堕落にお菓子を頬張るばかりである。ああ、それにしても【目玉】の作る甘味は本当に綺麗でサクサクで冷たくて美味しい。

 

 
 本当の事を打ち明ければ、そこはいつだって平坦で中立な空間なのだ。
 深夜の歓談が終わって、仮想の談話室を出ると、広がっていくのは無彩色の世界。そこには色が無く、そこにいる誰かがその色彩を決定する権利を有する。夜である今は現実の世界に引きずられて星々が煌めく夜空がどこまでも続いているけれど、それだって私がその気になればどんなふうにも塗り替えられる。私の周囲の空間、私の手が届く範囲だけ、という但し書きが付くのだけれど。

 あの談話室の蒼穹も、私の好みが反映されたものだ。他の人達にも好評で、私の唯一自慢できる感覚再現の技術があの抜けるような空の表現なのだった。

「はあ」

 と溜息をつく。それだけできたから、なんだというのだろう。
 本当の世界は、ずっと色褪せた、灰色だというのに。

 遠い故郷の夢を見た。
 故郷では名前を異世界から『引用』するという習慣がある。『猫に名付けられた子供』と呼ばれて、統一感の無い、意味すら判然としないその名前を自分自身であると認識していく私は、だから己のまことの名を捉えることができず、また誰からも捉えられない。

 アズーリアという名前の意味と来歴を、私は知らないのだ。
 自らもそれを知らないが故に他者に名前を掌握される危険性が減る。これによって支配的な干渉に対する呪術的抵抗力が増すが、その代わり自らを理解していない為、自分に対して呪術を行使する事があまり得意では無い。

 それだけではない。私は自分で自分の顔を見たことが無い。鏡も窓も水たまりも、光を反射するようなものに私は映らない。呪的存在を捉えることが出来るカメラなどを使わないと、私を映し出すことはできない筈だ。

 幼い頃から今までずっと、私は私のことを何も知らないままに生きてきた。
 親だって友人だって、私の顔を見たことがある人はいないはずだ。
 まあそれは、私の故郷では当たり前の事だったのだけれど。

 そういえば、と思い出す。
 『彼』には一度、顔を晒してしまった。考えてもみれば、キール隊の誰にも見せたことは無かった。だというのに、出会って間もない異邦人に顔を見られてしまうというのはなんだか奇妙な事だとおかしさを感じる。

 別に見られて困るというようなものではない。ただ、彼の目に、私はどう映ったのだろうと、少しだけ気になった。

 夜の色が深い。
 ふと、空を見上げる。
 月を見て、空に孔が空いているのだと感じる時がある。そんなときには胸にも同じだけの空虚が押し寄せてくる気がして、急に寂しくなって誰かと言葉を交わしたくなる。

 けれど今は、月こそが最後に残った天井で、茫漠と広がる夜空こそが巨大すぎる穴なのではないかと、そんなことまで考えてしまっていた。皓々と降り注ぐ光はあまりにも頼りなくて、またたく星々はこんなにも危うげだ。

 なんて壊れやすそうな世界なんだろう。
 それとも、壊れやすいのは私の心の方なのだろうか。
 わかっている。幼い頃を回顧して、周囲に人がいると何度も見回して、そうして私が得ようと躍起になっているもの。それは安心だ。前が見えない、今いる場所がわからない。これから何処に行けばいい?

 怖かった。
 少なくとも迷宮では、誰よりも先に前に出て戦っていればそれで良かった。前衛にして後衛。どちらもできる中衛職として縦横無尽にひたすら動き回る。余計な事を考えている暇なんて無い。ただただ、ひたすらに戦うだけ。そうして勝利に辿り着けば、そこに未来があるような気がして。

 けれど、現実の私がいるのは暗く狭苦しい独房の中で。
 心だけどこかに旅立たせて気を紛らわせる、そんなつまらない毎日。
 こんな筈じゃなかった、とは思わない。これはなるべくしてなったこと。
 私が選んだ道行きの果て。

 覚悟の上で踏み出した――はずなのに、いざ暗い闇の中に放り出されてみると、その寒さと恐ろしさに震えが止まらない。
 私はずっとこのままなんだろうか。
 それとも、そのうち中央の大神院から通達が来て――最悪、処刑とか。

 辺りの闇が残らず氷になってしまったかのような寒気がして、強く唇を噛みしめた。
 一人きりだと、どうしても考えが悪い方へと向かってしまう。別なことを考えなければ。

 そういえば、あの青年は今頃どうしているのだろう。
 未だに安否すら分からない。もし、彼の命が失われていたら。生きているかもしれないという希望的観測すら、本当は私の愚かな願望に過ぎないとわかっていても、私はまだその目で見ていないという言い訳を積み重ねてしまう。

 放棄された第五階層――私は、彼にどんなふうに償えばいい?
 もし生きていたら。
 私が本当に不安なのは、その答えに肯定が帰ってきたら、果たして素直に喜ぶことができるのかどうか、ということなのかもしれない。その知らせを聞いた時に、恐怖してしまったらどうしよう。恨まれ、憎まれ、呪われていたらどうしよう。自分本位な考えが喜びよりも先だってしまったら。

 私はきっと、自分自身を許せない。
 だからどうか、生きていて欲しい。約束を守れなかった自分を、自分で自分を裁くことすらできないこの愚か者を、あの冷たい鎧の右腕で殴って目を覚まさせてほしいと、そう強く思う。

「いや、それは死ぬか」

 いっそ殺せ、とまでは言い切れない。そもそも、それで私が死んだら彼にこれ以上の重荷を押しつけることになりかねない。償いは、こう、なにかもうちょっと殺伐としてない方向性で。

 そんなことを考えながらそろそろ肉体に戻ろうとアストラル体を移動させていると、不意に奇妙な感覚を捉えた。
 周囲に嫌な風が吹いているような、そんな予感がする。精神のみの状態だから、霊感のはたらきは常よりも鋭敏だ。何かの前触れを感じ取っているとしても不思議ではない。

 ざああっと風の音が吹き、寒々とした夜の中に、それは現れた。
 金眼。
 爛々と光るその眼差しは、まるで視線のみでこちらを食らい尽くそうとする獣のよう。迷宮で何度も見てきた、獰猛な殺意が色濃く放射されている。

 そしてその異様な――この奇怪なアバターを、私はどう形容したものだろう。
 あえて言えば、人骨の寄せ集め。けれど私が今までに見たどんな人体解剖図にもこんな形の骨は乗っていなかった。人の骨の細部をいじり回して、まるで花が咲くように複雑に開いていったらこんな白く大きな造形物ができるのかもしれない。

 骨の花。放射状に尖った部位を開かせる、おぞましい中にもどこか彫刻めいた作品性を感じさせる形状。
 その中央に輝く金色の眼球だけが、唯一その物体に意思らしきものの存在を認めさせる要素だった。

「誰?」

 いらえは返らない。ただ沈黙と、変わらぬ悪意が放たれているだけ。
 自意識過剰とかそういうことではなく――視線の色が攻撃性の呪力を帯びているのだ。
 私はさっきから、低級の地縛霊くらいならば消滅する程の邪視攻撃に抵抗し続けている。つまり既に交戦は始まっているということに他ならない。

 通り魔、強奪者、侵入者、快楽殺人者――とにかく危ない襲撃者。それも邪視者ファシネイター! 最速工程で呪術を発動させる、最も危険な超越者達。躊躇していたらこっちがやられる。

「答えないなら、こっちからも攻撃する、けどっ」

 金色の瞳が、その眼光をいっそう強めていく。
 かたちのない呪力が空間を伝播し、その瞬間から呪術戦闘が始まった。

 侵掠する性質、すなわち『火』の形態を取るエーテル体が、私をクラッキングしようと無数の触手を伸ばす。
 正体不明の霊的侵入に対して、自動的に作動したファイヤーウォールが通信を遮断する。受動で発動・維持されるこの防壁は、不正なアクセスを逆にトレースして侵入者に対して反撃を行う機能も有している。

 焼き返してやる。簡易チャネリングと共に反撃対象に意識をフォーカス。エーテル体の指先を伸ばすイメージで、攻性投射を行う。
 ローブがたなびき、内側の漆黒から呪力を放射する。口の中で小さく唱えた呪文は一音節のシンプルな命令。

 言葉が文字に変換されて、文字が視覚化されて槍に変ずる。
 投げ槍のイメージと共に、呪文を敵対者に投げ放つ。
 金眼が極大の熱を放つ太陽の如く輝き、私の稚拙な呪術を一瞬で焼き尽くす。

 ダメだ、力量差がありすぎる。
 魔導書と呪術杖、そしてフィリスが厳重に封印されている今、私はただの未熟な駆け出し呪術使いでしかない。

 このままだと殺される。
 いいや、もっと悪くすれば、精神構造を書き換えられて今とは違う存在になってしまうかも知れない。そうしたら私はこの襲撃者の都合のいい存在に改変されて、意思を持たない奉仕種族のようになってしまうことだってあり得る。

 怖い。この世界に来て、はじめてそれを感じた。多くの友人ができて、閉塞した状況にある私にとってこの場所は明るく楽しい、救いをもたらしてくれるものだったはずなのに。
 今はただ、私の精神を脅かすこの金眼の怪物が怖くて仕方が無い。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。
 絶望的な状況ならこれまでだってあった。でも、完全に一人になったのは初めてだったから。

 ふと気付く。思えば、エスフェイルと戦った時、彼がいてくれたのは私にとって本当に救いになっていたのだと。前衛として時間を稼いでくれたというだけではない。一人で戦っているわけではないと、そう感じられるだけで恐怖とは後退していくものなのだ。

 この場には彼はいない。魔将に正面から立ち向かっていける、あの鉄の心の持ち主はもう私の前衛ではいてくれないのだ。きっと、この先もずっと。
 私は、一人で。

「このぉっ」

 半ばやけっぱちになって、単純な呪力だけを投射して相手の目を眩ませる。逃げなければ。どうにか逃げ延びて、そうすればその先には――

「あっ」

 何があるんだろう。
 そう考えてしまったのがいけなかったのか。
 射出された骨の欠片がローブの端に突き刺さって、何も無い空間に縫い止められる。金色の視線の先に形成されているのは、冷たい石の壁。

 邪悪な意思に従って、私の周囲に石の牢獄が形作られていく。逃げ場は無い。閉じ込められて、そのままあの恐ろしい呪術師の餌食になってしまうのだろうか。
 骨の花が、じりじりとこちらへと近付いてきていた。
 ローブの裾をぎゅっと握りしめて、せめて心だけでも強く持とうと強く睨み返したその時。

 ――歌が聞こえた。

 最初はそれが音の連なりだと理解できなかった。びゅうびゅうと吹く風の中に、余りにも自然に融け合って、その寒そうな響きをすこしずつ和らげていくような、力強くも自然体なメロディー。環境音だと言われても納得してしまうような、意識の真ん中に出てくることが無いような声。

 いつのまにか耳の奧に居座っていたその声が、気がつくとその存在感を増している。
 それは、空気とか地面とか、光とか心とか、そういう当たり前にあるものの顔をして現れた。

 一度認識してしまえば、その歌声が存在していることは絶対に忘れられない。意識から外すことなどできなくなる――いいや違う。意識は、この歌声の上に乗っているものなのだ。そんな風にさえ思える。

 私の恐怖を根こそぎにして、私と襲撃者の間に降り立つ人影があった。
 胸に手を当てて、口を大きく開いたその姿は、紛れもなく歌声の主。そのアバターはびっくりするほど精巧な人型で、ひょっとしたら簡易アバターではなくてそのまま現実世界の肉体を投射しているのかもしれない。

 だとしたら、なんて危険で高度な――そして美しいわざを使う呪術師なんだろう。
 漆黒のフード、首から口元までが隠れる襟元。親指まで隠れるほど袖の長いだぼっとしたコートまでもが深い黒。銀色の鋲を打ち付けたりごついベルトを巻き付けたりと、ちょっと荒っぽくて攻撃的なセンス。腰から革製のホルダーが下がり、黒革の書物を吊している。

 大胆な短さのスカートは三段ものフリルが重ねられていて、色は上から黒、紺、蒼黒。すらりと伸びた脚は折れそうなほど細く、病的に白い肌は緑色の血管が浮き出そうなほどで、あまりの眩しさにくらくらする。

 なによりその透き通った、そして可憐な面差し。
 艶めいた、暗い色の紅が引かれた唇。
 妖しく輝くふたつの黒玉。
 私は、声をかけようとして、失敗した。

 び、美少女!
 顔以外完全防御の上半身とは打って変わって、防御力弱すぎな下半身はあれ一体どういうことなの。ちょっと扇情的に過ぎないだろうか。心配だ。風邪引かないのかな。アストラル体が風邪を引くわけもないのだが、現実世界でもあれなら大変なことに。紺色の長いソックスとブーツが精一杯自己主張しているが、全体的に細いせいでどこか頼りない。突風が吹いたら倒れそうな雰囲気すらあった。

 そんな、見た感じ体温低そうな美少女が、ちらりとこちらに視線を向けたあと、すぐにこちらに背を向ける。
 つまり、骨の花と真正面から相対したのだ。

 逃げて、と声をかける間もなかった。
 少女の向こう側で、膨大な呪力が弾ける。私の所までは視線が遮られて届かないからその詳細はわからないけれど。そこまで考えて気付く。彼女は、私を襲撃者の邪視から守るために目の前に立ちはだかってくれたのだ。

「逃げてっ」

 今度こそ声があふれ出た。自分の為に誰かが犠牲になることを、何度でも受け入れてきた。人の死を利用して生き延び続ける、それが私という生き物だ。それでも、目の前で人が死んでいくところを見たくは無かった。矛盾していてもその感情が生まれることは止められない。

 けれど、私の不安と心配は実のところ余計なお世話でしかなく。
 くるくると旋回する、言の葉の長柄。シャープな単語が韻を踏みながら刃と化す。

 歌声を呪文に、流れるような言霊がアストラルの世界で物質として振る舞いだしたのだ。その姿は槍。それも、斧のような刃が組み合わさった斧槍という種類の長柄武器だ。流麗に湾曲する刃と透かし彫りの精巧な装飾。空洞で飾り文字を表現し、幾何学的に刻まれた模様に多様な文化を表象させた、それは呪術的な重量級武器。あれは情報的に重いのだと確信する。その凄まじい意味量を、少女は細腕で軽々と操ってのける。

 一撃だった。
 世界を震わせるような歌声と共に、横一直線に振り抜かれた斧の斬撃。それだけで、骨の花は粉々に砕け散り、そのまま霧散して消え去った。

 圧倒的な力。
 呪術師としての格が違う。あるいは、彼女は呪文系呪術師としての高み――言語魔術師のひとりなのかもしれない。畏れからか、おもわず居住まいを正してしまう。
 少女が斧槍を一振りするとそれは小さく畳まれてそのまま質量を無くして消えていった。

 くるりと振り返る。
 一対の黒玉が、まっすぐにこちらを見据えている。
 お礼を言わなければ。

 助けて貰った。恩人に感謝を。そう理性が促すのだが、どこかぼんやりとしてしまっていてうまく心が動き出してくれない。何故って、彼女は邪視も使っていないのに私をこんなにも魅了してしまっていたから。
 ああ、改めて見ても。圧倒的に美しい。

 基本的に体温低そうな美少女だが、だぶだぶの服装が若干の子供っぽさを感じさせており、圧倒的な呪術の技量を知ったあとだとなおさら可愛さが増す。
 ど真ん中である。何の真ん中なのかは自分でもよくわからない。

「参考にはしないで」

「はい?」

 唐突に投げ放たれた言葉は、予想通りに綺麗な声で――けれど、意味の通らないものだった。
 私が首を傾げると、彼女は意味が通じていないもどかしさをわずかに奧に滲ませて、重ねるように呟いた。

「今の呪文。速さが欲しかったからあんな風に力任せに紡いだけれど。本当は良くないやり方。呪術師として上を目指したいのなら、真似はしないで」

 でないと危ないから。
 その言葉はぶっきらぼうだったけれど、こちらを案じていることが確かに伝わってくるもので。
 ぎゅっと、胸の奥が締め付けられたような気持ちになる。この人は、いいひとだ。

「あの、危ないところをどうもありがとうございました」

「いい。それより――さっきの貴方の呪文だけど」

 どうやら、直前の攻防も見られていたらしい。形勢が危ういと見て助けに来てくれたのだろう。あの稚拙な呪術行使を見られていたかと思うと恥ずかしい。
 少女の声もどこか厳しい色合いを帯びていた。

「あなた、師は」

「いません――その、独学で」

 端末に落とした本の数々を思い出す。実を言えばほとんど勉強は進んでいない。ほぼ手探りで、ろくに基礎も出来上がっていない状態だという自覚はあった。

「危険なやり方。平坦で明け透け。端的に言って無防備。履歴だって覗こうと思えば幾らでも覗ける。だからあんなのに目を付けられる」

「え、えっと」

「こんなふうに」

 急に間近にまで近付いてこられて、心臓が跳び上がりそうになった。近い。フードの中を覗き込まれそうなほどの距離。細い睫毛の形までクリアに見えて、ぞっとするほどに美しい人なのだと改めて思う。形のいい目がすっと細められて、何か私には見えないものをさっと眺めていった。

「【目玉】【道具屋】【箒星】【狂姫】【聖姫】それから【アズ】」

「えっ、なんでその名前」

「筒抜け。ちゃんと隠すか消すかして。アバターイメージとネーム、それから総呪力量、アクセスした地域、あと会話内容と談話室での呪術行使履歴――多分、アレにも同じだけの情報を盗られたと思っていい」

「アレって、あの骨の――? そんな、いなくなったんじゃ」

「あれは幽霊――死霊系統の使い魔。本体の死霊使いがデータを収集するための端末」

「私、迂闊なことを」

「――犯罪者はあっち。ただ、身を守る術くらいはちゃんと覚えた方がいい」

 うちひしがれる私に、気遣うような静かな声。端的な事実のみを伝えようとする朴訥な言葉に、私は好感を覚えた。
 このまま繋がりが途切れてしまう事を、もう既に心が拒絶してしまっている。
 何か言葉を。
 そう思ったけれど、機先を制して少女がそれを遮る。

「そう大それた犯罪に使えるような情報じゃないから、あなたは気にしなくていい――ハルが通報しておく」

「ハル?」

「ハルはハル。三叉の槍――ちょっと変則的だけれど」

 綺麗なソプラノで、そう口にする――今、槍って言った? 何でここで槍?

「すみません、意味が分からないんですが」

「ハルベルト。そういう名前。ハルでいい」

 一瞬だけぽかんとして、自己紹介されたのだと気付く。
 慌ててこちらも、

「ア、アズーリア・ヘレゼクシュです! 助けてくれて本当にありがとうございました!」

「本名をここで名乗るの。あとお礼はさっき聞いた」

「あっ、あの、今の無しで」

「ハルも本名だけど」

 ますます呆けてしまう。動転していたとはいえ本当の名前を口にしてしまって――その上、本名で名乗り合ってしまった。ハルベルト。ハル。それが彼女の本当の名前なのだ。

 遅れてその事実が頭の中に浸透していく。ああ、それはもしかしたら、もの凄い幸運なことなのではあるまいか。この美しい少女の名前を呼べるという特権を手にできる者が、この世の中に、あらゆる時間の流れの中に、どれだけいるというのだろう。

「ハ、ハル――さん」

「何」

「い、いえ。呼んでみただけです」

 私は何を言っているのだろう。
 彼女の美しさに当てられて、ちょっと頭がおかしくなっているのかもしれない。
 ふわふわと茹だった頭に、出し抜けに冷や水が浴びせかけられる。
 それは、思いも寄らない時間差の回答だった。

「――空が青い理由、知りたいの」

「え?」

 黒い瞳が、まっすぐにこちらを覗き込んでいる。フードとフードのあたまが触れ合って、少し顔を前に寄せれば額がぶつかり合ってしまいそうな距離。白く端整な顔と、闇に包まれた空洞。
 危ういコントラストが、私の知りたかった言葉を引き寄せていく。

「雲が白いから」

「ええ?」

「太陽が黄色いから」

「えっと」

「草木が緑に茂っているから」

「あのー」

「夕焼けが赤いから」

「――」

「つまり『青』とは構造の中にある。色とは連関のこと」

 うーん、と首を傾げる。なんだか、【狂姫】と似たような事を言われている気がする。ひょっとしてこれ、高位呪術師にとっての共通見解とかなのだろうか。

「一色ばかりを見ていたら、それ自体のことがわからなくなる。その他を見れば、そこから差異を画定できる」

「それってどういう」

「こういうこと」

 さっと繊細な造りの顔が近付いて、凛々しく引き結ばれた唇が目の前に迫る。目指しているのは私の目と目の間、その少し上。額に、やわらかな感触とちょっとの熱が入力された。
 物理的な肉体だったら死んでいた。死因は心臓の爆発と脳の蒸発。
 何だ今の。彼女は今、何をした?

「な――な」

「あれ――赤になった。普通、こういうことをされれば気持ち悪くて血の気が引くはず。変」

 ぶしつけにフードの中を覗き込んだ挙げ句、そのままうーんと考え込んで、そのあとは勝手に一人だけで得心したようにああと呟いて、

「初対面の相手に口づけされて興奮するような変態――恥ずかしい」

「変態はお前だ――――!!」

 大地を踏みしめ、右手を大きく振りかぶってから後方に愛用の槌矛を再現。そして殺意たっぷりのフルスイング。手応えは無い、どころか、小さな身体では重さを支えきれずに手から槌矛が離れていく。その上存在が薄くなった相手を素通りした打撃武器が勢い余って彼方にすっぽ抜けてしまう有様。ああもう、腹が立つったら!

 なんて、なんて失礼なことをするんだろう!
 よりにもよって額、誰にも許してはいけない、聖なる場所に、艶めいていてこの上なく綺麗な、あの唇を――体中の血液が顔に集まっていくような思いだった。怒りと羞恥がない交ぜになって、どう振る舞えばいいのか全くわからなくなってしまう。

「入力された感覚が閾値を超えなかったとか。トリシューラみたい」

「わけのわからないことを!」

「あなたの方がとっても理解不能。どうして怒っているの。理不尽に暴力を振るうの。ばかなの。死ぬの」

「そっ、それは。確かに怒りに任せてやり過ぎたことは認めますけど、だからといって」

「所有物に対してする行為だから嫌がっているの」

「わかっているなら、最初からしないでください!」

「嫌」

 な、なんなんだこいつ――!
 最低だ、こんなにわけのわからない相手とは初めて遭遇した。死ぬほど嫌い、憎い、生理的に受け付けない、そういう相手に今まで出会わなかったわけじゃないけれど、この少女は第一印象が最高で、もの凄く好きになれそうだっただけに――その落差も含めて最低なのだった。頂点から底へ、落下する距離が今までで最大だから、これほどまでに衝撃を受けているのだと思う。
 直後の発言で、もう一度頭をがつんとやられた。

「アズは、今からハルのものだから」

 こっちからの反撃は一度も当たらなかったのに、あっちの方からは一方的にやられっぱなし。
 信じられないくらいのアップダウンを繰り返し、私の心を揺さぶり続けて振り回す。
 それが私達の、最高で最低な出会いだった。

 

 
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