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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第2章 もしサイバーパンク世界の住人がオカルトパンク世界に転生したら

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2-17 レジンキャストエピゴーネン

 

 
 それは、戦いが始まる前のこと。

「昨晩の件で確信しましたが、おそらく私達のような後衛寄りの魔女にとって、貴方は極めて相性がよいタイプの使い魔です」

 コルセスカは寝台の上で朝食のスープを手にしながらそんなことを俺に告げた。

 記憶によれば、この二人は普通に槍とかナイフとかで近接戦闘を行っていたはずだが、あれでも前衛とは見なされないらしい。あくまで護身用に身につけているだけで、その本領は後衛ということなのだろう。

「それには同意。私達って使い魔の専門職、支配者ルーラー召喚術士エヴォカーじゃないから、あんまり大層な使い魔は操れないし、かといって私、人形遣い(ドールマスター)は死んでもやりたくないし」

 後からやってきたトリシューラが野菜ジュースのパッケージにストローを突き刺しながら口を挟んでくる。ちなみに彼女が口の中に入れた物は体内の呪力変換装置で全て呪力になるらしい。人の手が加えられていればいるほど含有される意味の量が増えるので効率が良いとか何とか。

 コルセスカがスパイスの効いたスープを平然とした表情で飲みながら先を続ける。

「私に死霊術師ネクロマンサーの適性があればよかったのですが」

「吸血鬼って使い魔を従えてそうなイメージあるけどな。コウモリとか、それこそゾンビっぽいのとか」

「感染型の血統、一般的な吸血鬼は使い魔の使役に長けていますよ。私は厳密には吸血系の呪術――生命吸収を会得しただけの魔女なので、純粋な吸血鬼ではないんです。感染したのではなく自力で成った、一代限りの始祖吸血鬼。なので、貴方のイメージしている吸血鬼っぽいことは吸血しかできないですね――話がそれました。とにかく、私達の使い魔スキルで質の良い前衛を用意しようとすると、どうしても人間になってしまうのです。呪具を与えたり強化術をかけたりしても、単純な頭しかない獣だとどうしても役者不足になってしまいます。長い時間をかけて調教を施すような術は使い魔の専門職でないとできません。その上で戦場で瞬時の判断ができ、痛みや恐怖に揺るがず、こちらの指示を聞いてくれて、私達キュトスの姉妹に偏見を持っておらず、最後に私達の目的を聞いても味方になってくれる、そんな都合のいい使い魔。それが貴方というわけです」

「でも俺、呪術の適性は無いんだろ? それってかなりのデメリットじゃないか?」

「ええ、貴方には呪力抵抗がほとんどと言っていいほどに無い。ですが、それは裏を返せば私達の呪術も通りやすいということ。一般的な使い魔である小動物や人形に比べて、呪術で肉体を強化した場合の呪力伝達率がかなり良いのです。私達が上手く調整すれば、増幅回路としての働きが期待できる」

 そう言って、彼女は俺の右手に視線を向けた。二人の魔女による調整――戦う為の準備は、昨晩のうちに一通り済ませてある。俺は彼女たちから一つずつ義肢を与えられている。この左右の腕はそれぞれが極めて高度な呪術によって作られた特殊な義肢だ。そのような強力な呪具を肉体と繋げるということが可能となったのも、俺に呪術に対する抵抗がほとんどないからということらしい。普通ならそもそも機能しないか、拒絶反応でも起こしていたのだろう。

「ま、流石に抵抗力皆無だとその両腕に逆に喰い殺されかねないからね。私が最低限の底上げはしておいたよ。はいこれ」

「何だそれ、薬?」

 トリシューラが差し出してきたのは、赤と黒のカプセル剤だった。話の流れからすると俺を『調整』する為の薬品なのだろうか。

「王獣カッサリオの骨を砕いて粉末にしたものと、鴉の鰓と兎の角、岩の吐息と転生者の細胞とか色々混ぜたお薬。その腕で戦う為に必要だから、幾つかセットで持ち歩いてて。無くなったらまた作って補充するから」

 そう言って、カプセル薬が入ったプラスチックの成形シートをまとめて渡してくる。戦う前に一錠服用することで肉体を戦闘モードに切り替える、いわば安全装置のようなものらしい。つまり無くしたら戦えないわけだ。大切にしまっておくとしよう。

「気をつけてね、アキラくん。その両腕ではなく、直接身体にキロンの攻撃を受けたら、多分一撃で戦闘不能になってしまう」

 絶対に腕以外で攻撃を受けないでと言うが、あの超人相手にその制限は中々厳しいものがある。そこで俺は、一つの提案をしてみせた。トリシューラとコルセスカは驚き、それから強硬に反対したが、最後にはしぶしぶそのアイデアを受け入れた。それが最善の手であると、彼女たちも認めざるを得なかったのだろう。相手はそれほどの強敵だ。

 準備は万全。あとは時を待つだけ。二人の魔女が感覚を鋭敏にして索敵呪術を周囲に張り巡らせていると、やがてその網に引っかかった巨大な反応がひとつ。天蓋を盛大に破壊しながら、その男は迷宮と化した第五階層に舞い降りた。周囲に集まってきた悪鬼の群れを一瞬で薙ぎ払うと、彼は彫刻めいた美貌を不快そうに歪める。負傷した片目は一晩で治癒したのか、視界に隙があるということも無さそうだった。

 たった一人で目の前に立った俺を視認すると、意外な、そして愚かなものを見るように大きく目を見開いた。

「スキルと装備が更新されているようだな? 一瞬だけ別人かと思った。凄まじい程に能力が上昇している」

 ステータス参照能力。転生者から奪ったと思われる、キロンの持つスキルの一つだ。多様なスキルを自在に習得していくことが可能であり、現在どんなスキル構成であるのか、想像もつかない。なにしろ階層の狭間に追放されている間、空間操作のスキルに習熟するための特訓をひたすらしていたはずなのだ。戦いに備えて、その他のスキルも上げている可能性がある。

「なぜ逃げなかった? この期に及んで俺と戦う理由は? 俺は【きぐるみの魔女】と全ての異獣を討伐できればそれでいい。あえて君と戦う理由はないのだ。まして抜け殻となった今の君とは」

「生憎と、俺はその【きぐるみの魔女】の力になるって決めてるんだ。あいつに手は出させない」

「決断を他人に預けるな。それは怠惰さだ」

 何が彼の逆鱗に触れたのか。キロンは瞬時に沸騰した。限界まで見開いた目が槍のような視線をこちらへと放射する。彼に邪視の能力があれば今ので俺は死んでいた所だ。キロンは一度の激発で熱を放出しきったのか、普段のような涼しげな表情を取り戻して続けた。

「――そして弱さであり、醜さでもある。君は醜いなアキラ。見るに堪えない、美観を損ねる。醜いというのはただそれだけで悪だ」

 一歩前に踏み出す。ただそれだけで、大気が震撼し、大地が鳴動する。圧倒的な気迫が全身に突き刺さり、気を抜けば倒れ伏してしまいそうになる。

「君は邪悪だ、アキラ。邪悪な者は排除せねばならない。この胸に燃える正義の炎にかけて」

 己の中でのみ完結した論理を展開して、聖騎士は裸の胸の前で拳を握りしめた。右手を前にして半身となる。その構えはもはや忘れもしない、俺こそが最も良く知悉した流派の武術。

「君自身の力で敗れるがいい。その身の無力をもう一度噛みしめろ」

 言葉と共に、轟音が鳴り響く。地を砕く踏み込みは、かつての俺を遙かに凌駕した脚力で繰り出されている。その速度もまた常軌を逸しており、瞬く間に俺との距離を詰めると、最速でこちらの頭部へと掌底が放たれていた。

 右手をその軌道に割り込ませて防御、続けて撃ち出されようとしていた左下段への蹴りを逆にこちらから踏み込んで左拳で迎撃しようとする。俺の行動の出を読んだキロンは重心を後ろへとずらし攻撃を中断。背中の翅を羽ばたかせて発生させた突風が衝撃波となって俺への牽制と自らの移動、双方を同時に行う。

 その、瞬間。
 キロンの美貌が、驚愕に歪んでいく。音もなく大地を踏みしめた俺が、風を裂いて前進する。それを可能にしているのは、右下腕部をくまなく覆い尽くす包帯のような呪具の力だ。蚯蚓がのたくったような呪文が記されているこの呪帯は、内側の呪力を完全遮断する封印の呪術がかけられている。それは、外からの呪力もまたはね除けることができるという意味でもある。キロンが発生させた突風の神働術――コルセスカが【空圧】と呼ぶそれを完全に無効化し、そのままの勢いで接近していく。

 俺の左腕が打ち込まれ、キロンの左腕がそれを完全にガードする。その瞬間、骨が軋むような音がして、受けた方の眉がかすかに歪んだ。

 黒を基調とした色彩に銀のラインが入ったその腕は、どこかその作り手を思わせるデザインだった。事実、彼女はそれを自らの体内に圧縮して隠し持っていたらしい。最も安全な場所で守られ、呪力を蓄積され続けたその義肢の性能は、俺が以前まで使っていた義肢と比較しても更に上の膂力を生み出す。激突の瞬間、手の甲に取り付けられた『歯車』が急速に回転し始める。途端、左腕全体に力が漲り、俺が強く踏み込むまでもなく自動的に義肢そのものが駆動、その場で打撃力を増大させていく。

 拳そのものが巨大化するような錯覚。体幹をしならせて拳を振り抜く。その物理的な出力においてキロンを完全に圧倒し、その腕をへし折った勢いのままに胴体へと打撃を命中させる。

 手応えから、浅いと判断して舌を打つ。
 キロンは自ら凄まじい勢いで後方に吹っ飛び、そのまま地面すれすれを滑空するように進み、迷宮の壁面の直前で垂直に上昇。翅がはためいて、空へと舞い上がる。

「さすがは元サイバーカラテの使い手。肉体に刻み込まれた修練の成果はそう簡単には消えないらしい」

「エピソード記憶は削れても、手続き記憶は削れないみたいだな。試してないが、泳いだり自転車乗ったりはできるはずだ」

 軽口を叩きながら、改めて意識を上空へと向ける。
 迷宮化した第五階層は通路の狭さゆえに移動面での不便がある。しかし天井は吹き抜けになっているため、飛行能力を持つキロンにとってはそれは問題とならない。頭上からこちらを見下ろす彼の周囲に赤い燐光が灯っていく。合計三つの赤熱する球体を生成したキロンはそれをこちらに向けて射出すると、更に追撃の急降下を仕掛けてくる。

 球体の神働術はどれも【爆撃符】に匹敵する威力を宿している。強力な熱と衝撃はたとえ腕で防いでも頭部や胴体を焼き、損壊させてしまうだろう。まともに命中すればこちらの命はない。更に駄目押しの空中からの跳び蹴りが加われば、万に一つも生き延びる術は皆無だと思える。

 ただしそれは、こちらに呪術が通用すればの話だ。
 さて、教えられたとおりに、上手くやれればいいのだが。

 右手の先に確かな神経が通っている事を、研ぎ澄ました感覚で捉えていく。封印の内側、押し込められた幻の腕が、血も凍るような冷たさを感じ取る。

「凍れ」

 俺の意思に従って、手の周囲に複数の鏡が展開される。幾何学的な形状の、多面の結晶。形成された氷の鏡に映し出されているのは半透明で輪郭の不確かな幻影のような腕だった。

 新たな右の義肢――コルセスカが生み出した呪術の義肢は、俺の幻肢を実体として操作する。

 複数の鏡の中に生まれた幻の腕が、それぞれ皮膚と筋骨を有し、血が流れているような錯覚を俺にもたらしている。俺は鏡の反射角度を調整しながら、映し出された像そのものを微かに、そして大胆に歪曲させる。それに伴って、腕そのものが広がっていくような強烈な違和感を覚える。構わずに腕の感覚を肉体から切り離す。一瞬にして幻肢の形態を実大型から遊離型へと変質させるという、呪術による超常の操作。離脱した感覚が拡散、分離して上空へと飛んでいく。

 鏡の中の空間を高速で飛行していく右手が、掌を拡大させ、そのまま三つの火球をまとめて握りつぶす。それに従って、現実の世界では前触れもなくいきなり火球が消失。右腕の感覚を手元に引き戻すと、その周囲で氷が砕けていく。

 急降下してきたキロンの蹴りを右手で受ける。凄まじい衝撃に足下が砕け、キロンはそのまま俺の腕を足場にして跳躍する。こちらの背後へと降り立ち、流れるように回し蹴りへと繋げる。振り返りつつ左肘で受けると、手の甲の歯車が高速回転を始める。未知の機構を警戒したのか、キロンが素早く後退していく。

「なるほど。君が得たのはこの世界の力――呪術の力か」

「それだけだと、本当に思うか?」

 一瞬の静止状態を見逃さず、相手の呼吸の隙間を狙って拳を突き出す。腰から腹、胸から肩と体幹が順に波を立てるようにして動いていき、しなる身体が拳へとエネルギーを伝えていく。

 対するキロンの応手は四つ。右半身を前に出しての迎撃――サイバーカラテの正道を行き、更には俺を超えた速度の踏み込みから為る神速の打撃。そして翅の羽ばたきが発生させる空圧、左から出現する火球、更には地面から迫り上がってくる岩の槍。物理的攻撃と呪術的攻撃の双方から攻めるキロンの手はまさに盤石の態勢。

 俺はその全てを真正面から打ち破った。
 踏み込みと共に右拳が火球を消し飛ばし、流れるように肘の一撃が風を切り裂いて相手の掌底とぶつかり合う。襲い来る衝撃のエネルギーを上方向に流しながら、身体を回すように相手の内側に滑り込もうとする。重心を低く保ったまま肩から背、全身そのものを回転させて叩きつける動き。下方から伸び上がった岩の槍が俺の無防備な脚に直撃するが、砕けたのは槍の方だった。驚愕する気配ごと、相手を全身で吹き飛ばす。

 翅で衝撃を殺しながら、空中で制動をかけたキロンが、今度こそ驚きを禁じ得ないという表情でこちらを見た。

「今、何をした?」

「そっちがやってるのと同じ事だ」

 両腕以外は呪術に対する抵抗力を持たないはずの俺の身体が、キロンの術を打ち破った。ありえない事態だが、これは俺の肉体が急に呪術に対して強くなったということを意味していない。

「防いだのは俺じゃない。サイバーカラテだ」

「何?」

 呪力とはミーム――摸倣子を媒介にして人から人へコピーされる情報のことであるという。社会や文化を構成する様々な習慣、技能、物語といったものが呪力と呼ばれるエネルギーを生み、呪術を発動させる。

 俺が転生者として価値を見出されたのは、異なる世界の異質なミームを保有していたからに他ならない。

 同様に、外世界から持ち込まれた戦闘技術――【サイバーカラテ】という情報からも呪力は生み出される。呪術への抵抗力を持たない俺が今までこの世界で戦えてきたのは、ひとえにこの事実の為だ。この世界に来てからというもの、サイバーカラテは新しい性質を得ていたのだ。

 すなわち、サイバーカラテにおける特定の型や特定の動作を行っている時、それは『技』や『術』と見なされて発動を呪術によって妨害されにくいという特性である。この世界ではサイバーカラテそのものが強力な呪術となり得る。ゆえに、俺は演舞めいた大仰な型をなぞるだけで呪術を跳ね返すことが可能になるのだ。コルセスカに言わせれば、俺の技はキャンセルしにくいということらしい。

 多少の小技では妨害にもならないし、その守りすら貫通するような強力な呪術であれば、コルセスカから与えられた右腕がその役割を果たす。鏡の中の幻腕は、大抵の呪術を打ち消すことが可能である。

 外世界人、日本語、そしてサイバーカラテというミーム、更には『鎧の腕』というそれらしい異名。見ただけで分かるレッテル。ラベリングという呪術。半年間で積み上げた狂犬の悪名。箔が付くことによって呪術的な力は増大していく。そしてなにより、サイバーカラテの使い手がキロンではなく俺だと認識されていることが真贋を分け、その信用度を増していく。

 先だってトリシューラが通信講座を始めようなどと言ったのも、俺をこの世界に於けるサイバーカラテの第一人者として世間に認識させるためらしい。そうすることで俺という個人とサイバーカラテとを紐付けし、セットでの認識を浸透させる。拡散した俺とサイバーカラテの情報が、膨大な呪力を生み出していく。

 単純にサイバーカラテだけをコピーしたキロンよりも、その呪力は遙かに上である。
 ネット上にアップロードされた動画で紹介された俺の動きを、そのままなぞっていく。サイバーカラテの技は、行為と仕草そのものが呪術の儀式とみなされ、キロンの神働術を容易く打ち破る。

 呪術名は【サイバーカラテ】――動作によって効果を引き出される、身体性と結びついた【杖】の呪術。

「君はもうサイバーカラテをほとんど使えないはずだ。その記憶は確かに砕いた。身体が覚えていても、あらゆる状況に対応するための戦術データがもう残っていない」

「確かに。完全にぶっ壊されて跡形も残ってない。俺の中にはな」

 視界の隅に浮かび上がった幻影の魔女――ちびシューラが架空の映像を俺の網膜に映し出す。

 脳細胞に刻印された呪術的なパターンが特定の呪術効果を生起させる。外部の端末と同期。遠隔地からこちらの状況をモニタリングしているトリシューラの意識とリンクして、俺の中に膨大な情報が流れ込んでくる。

(バックアップって大事だよね!)

 サイバーカラテ道場の膨大な戦闘データを全て保存できたわけではない。基本的な型のパターンなどはトリシューラが記録していたものの、膨大なデータを参照してあらゆる状況に対応するというサイバーカラテ本来の強さは発揮できないままだ。それではサイバーカラテを再現したとはとても言えない。

 しかし、【サイバーカラテ道場】は失われたが、その精神性、方法論までもが失われたわけではない。
 蓄積された前世の戦闘経験は全て消えた。しかし、ならばこれから積み上げていけばいい。

 俺の脳細胞が形成する【脳内彼女クランテルトハランス】、ちびシューラが第五階層の各所に設置されていた監視カメラを乗っ取り、【公社】が外部委託していた警備会社のシステムに侵入する。治安維持の為という名目で、実際は第五階層の住人を撮影してその命運を握っていた悪辣な仕組み。この世界において撮影という行為は魂を奪い、呪術への抵抗力が低いものなら簡単に呪殺してしまえる最悪の犯罪である。【公社】によって掌握されていたその命をかすめとり、かわりに膨大な記録映像を利用させて貰う。

 今まで第五階層の各所で繰り広げられてきた暗闘や乱闘、数々の戦闘記録。探索者達が上下の階層から持ち帰り、仲間同士で共有していた戦闘データ。そうした、この世界における戦闘の記録を収集し、整理し、一定の規則に従って再配列していく。

 更にはネット上から様々な通信サイバーカラテユーザーの意見をリアルタイムでフィードバック。膨大な戦闘データの蓄積と共有。
 そしてそれらを統合して判断を下す、超高度な人工知能。

 戦術判断AI、ちびシューラ(道着バージョン)がどこからか戯画化された人体図を取り出して、俺の視界の端に設置する。各所に俺と相手のバイタルデータが表示され、厳選された戦術パターンが選択肢として並べられていく。今回のバージョンではご丁寧にちびシューラによる各戦術への考察コメントが付けられている。

 全て、この世界の呪術、【杖】の技術によって再現したものだった。

「そうか、呪術による擬似的な再現――だが、オリジナルに近い俺の方が精度が高い!」

 キロンの言葉は正しい。しかし、今の俺が用いるサイバーカラテは、かつてのサイバーカラテには無い要素が存在する。

 高速で繰り出された蹴りを回避し、続けて打ち込まれた掌底に、見覚えのある輝き。かつて俺の右腕と記憶を破壊した強力無比な神働術、【災厄の槍】だ。

 掌から至近距離で解き放たれた絶大な破壊力を、俺は構わずに右腕で殴りつける。凄まじく重い衝撃が右腕から肩、全身へと伝わっていくが、俺はそのまま膝を軽く曲げて踏みとどまった。渾身の踏み込みと共に、燃えさかる骨の槍を強引に押し返す。常軌を逸した呪力――コルセスカが引き起こす絶対的な停止現象によって、その神働術が正面から凍結、粉砕されていく。

「馬鹿な、高位の神働術を砕いたというのか――打撃のみで?!」

 呪的発勁。それは魔女の使い魔である俺の、最大の特性。
 コルセスカとトリシューラ、二人から与えられた呪力を左右の腕から放出し、発動した呪術を物理的に殴打することを可能とする攻防一体の奥義。

「ありえん。そんな技は、サイバーカラテには存在しないっ!」

「その認識は間違っている。サイバーカラテに『ありえない』は無い。この世の事象、その全てがサイバーカラテの包括範囲だ。呪術が有る世界に転生したなら、それを体系内に取り込むまでのこと」

 前世で蓄積した膨大なデータベースから具体的な戦術を参照して瞬時に判断することはできなくなったが、長年の鍛錬で身体に染みついたサイバーカラテの理念は忘れていない。

 サイバーカラテの真髄は外力を高効率で伝達して打撃力に変換することにある。呪術なるものが物理的に存在する世界を訪れたなら、その呪力だかミームだかを伝達するエネルギーに含んでも構わないと俺――そしてあらゆるサイバーカラテユーザーは考える。

 何しろサイバーカラテには磁力を伝える電磁発勁や、熱量を伝達する熱学発勁の概念などが存在するのである。義肢のスペックにもよるが、それがエネルギーで有る限り、サイバーカラテはそれを体系内部に取り込むことができる。呪術もまた例外ではない。

 そうやって実戦データをフィードバックしてアップデートをし続けることこそがサイバーカラテの強さに他ならないからだ。そもそも機械化義肢の運用を前提とした武術という時点で、技術革新や新技術が登場する度にその理論が根底から覆されるなんてことがざらにある。

 サイバーカラテユーザー達は、その度に半笑いで悪態を吐きながら、新たな戦術理論を構築すべく研鑚と議論を重ねてきたのである。つまり、いずれにせよ呪術が存在する世界に持ち込まれた時点で、呪術の運用を前提にしたものに一度生まれ変わらせる必要があったのだ。

 その点では、キロンに感謝してもいいくらいだった。
 データが全て水泡に帰したというのなら、もう一度最初から積み上げていけばいい。サイバーカラテの理念と方法論はまだ健在なのだから。

 終わったのなら、似たような事を始めればいいだけのこと。
 偽物のサイバーカラテ。粗悪な劣化コピー。方法論の類似品。

 だが、サイバーカラテはあらゆる義肢、あらゆる戦場、あらゆるOSに対応した万能の戦闘術。その戦術理論において置換不可能なものなどない。ならば、サイバーカラテそれ自体もまた交換可能なものであると言えるのである。

 更にこの呪術世界では、アナロジーが力を持つが故に、その二つのサイバーカラテは同一であるとみなされる。

「【サイバーカラテ道場】、ここに復活だ――発勁用意」

 ちびシューラが用意した人体図が仮想の輝きを宿す。足の部分が赤く発光。続いて下腿、膝、上腿、骨盤が展開して腰に力が充溢し、腹部からねじるように上昇していく力が胸、肩、そして生身の腕から義肢部分へと一切の遅滞もロスも無しに伝達されていく。

 踏み込みから流れるように右、左と順に打撃を叩き込む。視界を流れていく「Good!」の文字がどこか懐かしい。次々と叩き込まれていく打撃がキロンの裸の上体を打ち据えていく。

「何故だ、何故圧し負ける?!」

 後退しながら、キロンがへし折れた両腕を振り回す。鞭のようにしなった両腕が伸びていき、一瞬で元の状態に復元される。異常な回復能力もまた健在のようだった。

 敵の攻め手も、けっして手緩いわけではない。その回避や防御が遅いというわけでもない。キロンのサイバーカラテは十全に機能している。しかしながら、両者の差は確実に出始めていた。

 突き出された貫手を右手で身体の外へ捌き、その側面へ左掌での打撃を叩き込む。続いて右から弧を描いて相手の死角に貫手を滑り込ませる。紙一重で回避するその喉元を、伸び上がった指先が強烈な指圧によって抉り取っていく。致命傷に血を吐くキロンの無防備な胴に、渾身の左拳を打ち込んだ。

 たたらを踏んで後退し、翅をばたつかせて態勢を立て直すキロン。その喉には既に傷一つ存在しない。俺を見る目が、何かに気付いたように見開かれる。

「そうか、手数。そして落差か」

 単純な事実として、現在の俺は過去の俺よりも強い。文字通り、手の数が増えているからだ。キロンは以前に片腕のみで戦う俺の姿を見てしまっている。その印象が、彼の判断を鈍らせている。

 加えて言えば、【サイバーカラテ】は機械化人体の運用とセットで考案された戦闘術だ。

 義肢を持たないキロンが使う意味は薄い。元の使い手に心理的な衝撃を与えることはできるが、感情が凍った今となっては、その効果も無い。サイボーグやアンドロイドを破壊するための効率的な戦闘方法は会得できるものの、それを簡単に許すほど今の俺は――俺達は甘くない。

 近接格闘における分の悪さを悟ったか、キロンは浅く息を吐くと、嘆くように天を仰いで掌で目を覆った。隙だらけの状態に思わず足を踏み出しかけるが、寸前で思い留まる。その気配の色が、急激に変化しつつあった。

 ぎょっとして、息を飲む。キロンの掌と顔の隙間から、一筋の雫がこぼれ落ちていた。
 あろうことか、この男は戦いの最中に落涙していたのだ。それも、おそらくは。

「ああ――なんてことだろう。拳で制圧することは適わないのか。それができるほどに、君は容易い男ではないということなんだな。本当に、なんということだ。できれば、君を殺したくは無かった」

 この男は、本気で俺の事を想って涙を流しているのだった。
 あまりの異様さに、攻め入る機を逸してしまう。彼の内心は、掌に隠れて窺い知れないままだ。

「初めて君の事を知った時、その境遇に哀れみを覚え、そして共感した」

 ぽつぽつと、キロンは胸の内を語り始めた。その様子があまりに鬼気迫り、また切実さを感じさせるものであったから、思わず俺はそれに聞き入ってしまう。普段の俺ならば容赦なく攻めるべきだと判断しただろう。だが、一度だけ目にした彼の慟哭が脳裏に甦り、冷静な判断を鈍らせてしまう。

「君の嘆きが、痛みが、俺には手に取るように理解できた。そしてこうも思ったんだ。君は俺の事を理解してくれるのではないかと。儚い期待だったが、それでも俺は君と共に戦えたらいいと、本気で考えていた」

 掌がゆっくりと下ろされていく。いつのまにか涙は止み、彫刻めいた表情が再び明らかになる。その瞳に宿っていたのは、深く暗い絶望の色。

「好意を抱いた相手を殺さなくてはならない。これほどの苦しみが、他にあるだろうか」

 瞬間、俺は想起した。魔将の呪いに取り込まれ、狼と同化して死を願う一人の男。その余りにも無残な最期を。おそらく、同時にキロンもまた似たような光景を想起していたのだろう。交錯する視線がかすかな共感を呼び起こし――そして火花のように消えた。

 ありえない可能性、あったかもしれない未来を幻視して、即座に否定する。俺は魔女の使い魔だ。その事実は、たとえどのようなことがあろうとも揺るがない。
 迷いを振り払ったのは、二人同時だった。

「もはや出し惜しみは無しだ。来い、【トルクルトアの神託機械】よ」

 虚空から出現した光り輝く石版が、キロンの目の前で無数の文字列を立体投影していく。更にその周囲から漆黒の槍、古びた盾が出現して、下方から迫り上がってくる巨大なシルエットは見覚えのある黒馬。白い弓が盾の裏側に固定され、五種の神滅具は完全な状態で持ち主の下に集結する。

 コルセスカとの戦闘で確かに破壊されたはずだが、修復する手段があったのか、それともあの呪具は自動で修復する機能を有していたのか。少年達の姿はとらず、ただ戦力を集中して俺を即座に殲滅する構えのようだ。

 前触れもなく、その姿がかき消えた。ちびシューラが直前に発していたアラートによって回避、しようとするが失敗。移動を開始したにも関わらず、俺の全身はその場所から一歩も動いていなかった。いや、動いているのだが同じ地点に留まったまま、といった方が正しいだろうか。俺は同じ地点から同じ地点へと跳躍していた。

 キロンの空間操作能力だ。その理解が追いついた時には、凄まじい衝撃が真正面から襲いかかってきていた。

「凍れっ!」

 右腕を突き出して膨大な速度と質量、それによって生み出される運動エネルギーを零に近づけていく。停滞の呪力による絶対防御。

 だが相手は勢いを殺されながらも、キロン本体へと襲いかかる凍結の呪力を左手の盾で遮断し、更に右手の槍で神速の突きを放つ。予測していた俺は左手の甲で正確に防御。

 事前の耐久テストでは大口径の銃弾すら防ぎきった黒い左手を、キロンの神滅具は容易く貫通する。否、貫通したように見えただけだ。槍は意思を持っているかのように生物的にくねり、正確に俺の拳を回避しながら曲線を描いて俺の頭部へと襲いかかったのである。寸前で、辛うじて頭を横に反らす。耳たぶの一部を削いで穂先が背後へと抜けていく。

 俺は馬の頭部を蹴飛ばして背後へと飛んだ。距離をとって、右腕の周囲に多面鏡を展開。昆虫の複眼、あるいは亀の甲羅めいた氷の破片群が仮想の幻肢を映し出し、非現実の世界からキロンに対して攻撃を仕掛ける。

 だがその時、キロンの周囲で待機していた石版がその能力を発揮した。展開された文字列が鏡の世界の幻影の腕に対して接触すると、ワイヤーのように巻き付いてその動きを押し止めたのである。

 咄嗟に俺は鏡の角度を極端に調整し、合わせ鏡の状態にする。結果として無限に増え続けた俺の幻肢がその手数を増していくが、同時に凄まじい違和感が頭の中を荒れ狂う。強引に無数の腕で攻撃を仕掛けるのだが、石版は仮想の文字列をキロンの全方位に張り巡らせてそれを全て弾き返す。奴の身体に幻肢で直接触れることさえできれば、コルセスカの構築した攻性防壁【氷】によって脳を焼き切ることすら不可能ではないのだが、やはりそう簡単にはいかないようだった。

 再びの突撃を敢行しようとするキロンに対して、先んじて正面から突撃を試みる。たとえその加速が凄まじくとも、出足を挫かれれば意味は無いのだ。踏み込んだ瞬間、周囲の景色に違和感。空間に歪みが生まれ、俺は再び同じ風景に閉じ込められる。キロンの空間操作はたった一晩で熟練の域に達していた。

 だが、時空間の操作は何もキロンだけのスキルではない。今の俺の右腕には、世界そのものを停止させるという凄まじい力の片鱗が宿っている。展開された鏡を右腕の周囲で衛星のように回転させながら、今度は幻視全体を俺の周囲に広げていく。

 周囲の空間に干渉するキロンの力を感じ取り、それを強引に取り除く。漠然とした形の無い何かを同じく幻影のような感覚で摘むという処理に脳が悲鳴を上げそうになるが、それによってどうにか空間の無限ループから脱出。左手の歯車が高速で回転していく。呪力をスパークさせながら襲いかかる一撃は、しかしあっさりと空振りに終わる。

 確実に捉えたはずの間合い。それを覆されるという事態に動揺しかけるが、その焦りは即座に氷の冷たさが奪い去っていく。冷静さを取り戻して敵の位置を確認する。

 キロンは遙か上空で滞空し、こちらへと突撃の態勢に入っていた。飛行能力があるのだから、突進は上空から行えばいい。仕留め損なったら再び上昇してまた急降下。その繰り返し。合理的な選択と言えた。弓を使わないのは以前のように反射される事を警戒しているのだろう。こちらにコルセスカと同じ性質の力を宿した右腕がある以上、当然の警戒だった。

 上空のキロンの姿が、急激に遠ざかる。遠近感が狂いだし、空間の奥行きが果てしなく広がっていく。風景が奧へ奧へと吸い込まれるように歪んでいき、距離はおろか高低までもが歪む。騎士の姿が限界まで遠ざかり限りなく小さな点になり、消失点で映像として認識不能になる。

 それは空間操作の極致。凄まじい違和感が先鋭的な形となって襲いかかる。遙か上空から弧を描いて急速降下する黒い槍の穂先と、それを追いかけるようにして長大な距離を本体が疾走する。空間を限りなく引き延ばし、重力加速度によってその威力を極限まで増大させた突撃。前方を盾で守り、黒馬の蹄からはあらゆるものを融解させる汚濁を撒き散らし、聖騎士は流星となって地上に墜ちた。

 瞬きの余裕すら無い絶対の死。それを目前にして、俺は静かに呟いた。

「――廻れ」

 衝撃と轟音が、階層全体を揺るがした。
 舞い上がった噴煙が晴れていくにつれて、周囲の様子が明らかになっていく。周辺の壁は全て崩壊しており、被害の中心地は爆撃を受けたかのようにクレーター上に抉れていた。爆心地の中央に、盾を構えつつ槍を突き出した姿勢の騎士の姿がある。その顔が、驚愕と激痛に大きく歪んでいく。

 前足を地面に半ばまでめり込ませた馬の首にめり込んだ、俺の左拳。その手の甲で、黒い歯車が快音を上げながら回転を続けている。

 馬の首がめきめきと異常な角度にへし折れ、黒檀のような艶を持つ体表がぼこぼこと膨らんでいく。内側から破壊されていく馬の胴体を伝わって、奇怪な経路で伝達されていくエネルギーが鞍から騎乗者の股間、腰、腹、背へと抜けていき、その背後から一気に抜けていく。

 それは爆発だった。キロンの背に生えた蝶の翅もろとも骨と肉、内臓が諸共に吹き飛んで、大量の血と肉片が天に向かって飛散していく。馬の肉体、そして男の前面には一切の外傷が無いままに、俺の打撃はその致命的な破壊を為し遂げていた。

「う、おおおおっ」

 空間が歪み、その場からキロンが消失する。次の瞬間には遙か上空へと再出現しており、肉体の損傷は全て消えて無くなっていた。瞬間移動と超回復、その二つの絶技を同時にこなしておきながら、その表情に浮かぶのは余裕ではない。

「アキラ、君は今、何をした」

 キロンが見ているのは、俺と言うよりもむしろ俺の足下だった。俺が立つクレーターの中心。その場所だけ、一切の破壊に晒されなかったかのように地面が高くなっている。事実、俺の真下にはキロンの突撃による破壊力が届いていなかったのである。当然俺にもだ。

「さあ、何をしたんだと思う? なにしろ機能が多すぎてな。俺もまだ全部把握し切れてない」

「戯れ言をっ」

 事実なのだが、真面目な回答とは受け止められなかったらしい。
 聖騎士は石版を前に出し、今度は突撃ではなく大量の文字情報を周囲に展開していく。

射影聖遺物アトリビュート・第五番――神の万年筆を拾った少年」

 言葉と同時に、無数の輝く文字列が複雑に絡み合い、無数に枝分かれしてこちらに襲いかかる。右手から幻影を飛ばして防御を行うが、攻めに転じた石版は指の隙間を巧みにかいくぐってこちらへと侵入しようとする。

 キロンが使うあの神働術は、俺の知らない過去の聖人のエピソードを摸倣し、その性質を自らに重ねて自己を強化する術なのだと二人の魔女は説明していた。【松明の騎士団】が誇る膨大な歴史と伝統、その重みがそのまま呪力の強度となって襲いかかる。今までと同じように右手で防御しているだけでは勝てない。

 ならば、こちらからも攻めに転じて相手に攻撃の余裕を与えなければいい。
 脳内で仮想のデフォルメ体が叫ぶ。

(ビジュアルを転送。指定する印相ジェスチャーを左手で結んで)

 網膜に映し出された指示映像に従い、左掌を伸ばして口を覆い、舌で血を舐めるように掌に触れた。しないはずの、血の味がする。

 左側の手の甲で歯車がその回転数を増していく。視覚化した呪力が放電現象を起こして、その真の力を発揮していく。それは、神仏の力を借り受けるという相手と同じ性質の呪術だった。

 あちらが聖遺物の属性を利用して神や聖人の力を降ろすのなら、こちらも同様の手法で対抗するまで。

射影三昧耶形アトリビュート・十四番」

(No.14【ヴァレリアンヌ】エミュレート)

 刹那、脳裏に見知らぬ誰かの姿が浮かぶ。緑色の短い髪と、身の丈よりも巨大な斧が特徴的な背の低い少女。年の頃は十四かそこらのミドルティーン。その周囲には無数の扉。少女が一つの扉を開いて向こう側を覗き込むと、その他の全ての扉から少女の顔が現れる。【扉】――この世界における、空間制御技術。その叡智を統べる、【星見の塔】随一の扉職人ハイパーリンカーヴァレリアンヌ。そんな、知らないはずの知識が脳内を駆け巡り、やがて消えた。

仏眼仏母アーザノエルの名に於いて、ここに魔女の騎士団を招集する」

 俺と仮想の魔女は交互に言葉を連ねていく。すると、左手が爆発的な輝きに包まれて、増幅された呪力が高熱と衝撃を伴って周囲に放射されていく。間近にまで迫ってきていた無数の文字列が紙屑のように吹き散らされていった。

(コンバージョン開始。仮想採型を実行。シナモリ・アキラの呪的形状を転写)

 この左手の名は、アーザノエルの御手【ウィッチオーダー】。
 【星見の塔】の第九位、キュトスの姉妹の頂点に立つ九姉、その最後の一人が考案したこの義肢の能力は単純明快にして複雑怪奇。すなわち、キュトスの七十一姉妹全ての能力を個別に参照し、それに応じた能力を発動させるというものである。

 その薫陶を受けたトリシューラが自力で再現したこの左手は、作り手の性格を反映するかのように独特な方法で多様な能力を発現させる。
 左手が光の粒子になって消失し、一瞬にして再構成されていく。

 その質量はどこから持ってきているのか。
 答えは一つ。第五階層に住まう者に例外なく与えられる、共通のリソース。物質の創造能力――正確には、世界槍という小世界を掌握し、改変する能力である。トリシューラが階層そのものに干渉することによって、周囲の迷宮や地面が細かな光の粒子となって消滅していき、俺の左手を構成する一部となっていく。建造物という巨大な構造体ではなく、義肢という複雑で小規模な呪具を再現するアンドロイドの魔女の技量は一つの極致にある。今や第五階層そのものが俺の左手を再現する材料だった。

 模型のキットを成型するように、仮想の鋳型に呪力が流し込まれる。掌握者権限という名の合成樹脂が俺の意思という硬化剤と混合され、化学反応を起こして固体となっていく。

 この世界の神話に語られる七十一の魔女。その全てを再現する、この義肢は魔女の腕だ。
 戦いの前にトリシューラはこう言っていた。

『ウィッチオーダーは機能を自由に摸倣エミュレートして、外装を自在に変換コンバージョンする。伝承を再現する為のエミュレーターにしてコンバージョンキット。幾多の神話を内包したオールインワン』

 合成樹脂の神話摸倣者レジンキャストエピゴーネン。ありとあらゆる形態で敵対者を駆逐する、手段を選ばぬ最悪の盗作者。その手数は、総計七十一本。

 俺は見知らぬ世界の見知らぬ神話から、未知なる幻想を引喩アリュージョンして自らの力に変える。

 ウィッチオーダーがその十四番目の形態を完成させ、俺はその名を高らかに叫んだ。

「改型十四番・【縮地】」

 それは見覚えのある形状の義肢だった。当然である。数日前、第六階層で聖騎士たちや巨獣カッサリオと戦った時にトリシューラから託された円筒状の不格好な義肢。かつては斧から発生する空間の断層であらゆるものを切断する能力を有していたが、改良されたこの腕の真価は攻撃力には無い。

 空間制御。キロンが用いていた、転生者の能力。サイバーカラテに存在する【縮地】の技法が、この世界の呪術によって再現されようとしていた。

 振り抜かれた左手が、重い手応えと共にキロンの顎先を捉える。遙か上空から遠距離攻撃を仕掛けているはずのキロンが、今この瞬間だけ俺の眼前に出現していた。

 左手の能力が発動し、キロンと俺の間にあった距離を短縮してあたかも近距離の相手を殴るように攻撃を命中させたのである。反撃の刺突を繰り出すキロンだが、即座に距離を引き離されて無駄撃ちに終わる。

 そして、果てしないようにも思われる鬼ごっこが開始された。空間制御とサイバーカラテを組み合わせた特殊な歩法、縮地。

 それを使えるのは両者とも同じであるが、速度が速度として意味を為さなくなった戦いでは騎乗しているキロンは的が大きくなっているだけに過ぎず、有利不利の差は縮まっていた。

 両者が空間の圧縮と拡張を繰り返し、間合いの概念は消失する。高速の突撃と離脱、零距離からの寸打と遠間からの刺突が交錯していく。誰かがこの戦いを見たならば、きっと目の錯覚だと思っただろう。

 それはさながらトリックアートの戦場だった。一瞬で距離を詰め、直後に逃げられてしまうという繰り返し。

「ちっ、埒が明かんっ」

 焦れたようにキロンが舌打ちをして、盾を構えながら新しい神働術を発動させる。同時に、空間制御を解除する。違う転生者のスキルが来ると判断し、こちらも参照先を切り替える。左手の親指と人差し指で輪を作るような印相を結ぶと、ウィッチオーダーが光に包まれてその輪郭を消失させていく。

「六十四番!」

(No.64【漆黒のシャクティ】エミュレート)

 想起されたのは、黒い肌の尼僧。あらゆる異世界、あらゆる時空を想像と予測のみによって見透かすという恐るべき視野の求道者である。

 黒く染まった左手と、その手の甲に取り付けられた巨大な円環が再構成される。全く同時に、キロンから放出された不可視の斥力が大地をデタラメに破壊していく。正体不明の攻撃を、獲得した鋭敏な感覚で捉えて回避する。重力制御による防御不能、視認不能の攻撃が俺に襲いかかっているのだと今の俺には理解できる。

 回避性能に特化した義肢で数秒先の自らの死滅を予測しつつ、俺は左手の円環を回転させて上空に撃ち出す。回転しながら自動で標的を追尾する戦輪チャクラムが、キロンの構えた盾の防御を迂回し、背後から強襲してその背を切り裂いていく。

「複数の能力とは、厄介なことだ。尤も、俺が言えた事ではないか」

 キロンが平然とした状態で態勢を立て直し、そのまま右手の槍で円盤を串刺しにする。高速で自動回避を行う戦輪の動きを容易く先読みしたのだ。俺の額を、嫌な汗が伝っていく。

 俺は至極冷静ではあるが、現状は単に予想外のこちらの奮闘にキロンが攻めあぐねているだけであって、決して俺が優位というわけではない。かろうじて渡り合えてはいるものの、このまま決定打を与えられなければ先に斃れるのは肉体に攻撃を喰らったらおしまいな俺の方だ。攻めきれないのはお互い同じなのだった。

 やはり厄介なのは敵のすさまじい回復能力だ。それだけがどうしても打ち破れない。
 あれを破るプランは存在するのだが、それにはまだ時間が足りない。今はまだその時ではない。

 そしてもう一つ、敵には厄介な能力があった。
 周囲に満ちる、灰色の粒子。蝶の翅から放たれた妖しい光を宿した鱗粉が、その力強い羽ばたきによって周囲一帯に散布されていく。

「我が価値を問え――ミエスリヴァ」

 男と同化した魔将の名が呼ばれ、その真の力が顕現する。
 音もなく、左腕が粉砕された。

 こちらが反応する間もなく側面に回り込まれて攻撃を受けたのだ。辛うじて前方を右腕で防御したが、それでも側面への対応が間に合わない。

 即座に新しい兵装に換装を行う。瞬時に出現したチェーンソーを突き入れた時には既にキロンの姿はそこから消えている。背後から来ると当たりを付けて振り向きながら左腕で切り払うが、回転する刃は虚しく盾の表面を削るだけ。しかもキロンはそこにはおらず、盾のみの囮だった。キロン本体が直上から急降下、馬上から漆黒の槍を振り下ろす。

 俺の身体が急激に真横に引っ張られて、ぎりぎりで奇襲を回避する。新たに換装した腕から伸びるワイヤーが、俺の身体を迷宮の壁に引き寄せているのだ。巻き上げ機が高速回転し、移動能力に優れたワイヤーアンカー搭載義肢が俺を壁面の上へと運んでいき、勢いのままその向こうへと壁を飛び越える。

 壁の裏側で多関節義肢を構えながら、俺は真上へと視線を向ける。壁の上を飛び越えて追撃してきたキロンを迎え撃つ構えだった。

 超回復と並ぶ、聖騎士キロンの神速。俺の知覚を許さず、光の如きコルセスカのスピードにも追随して圧倒するという常識外の強さ。その種を、既にトリシューラは看破していた。打ち破る方法もまた準備した上で俺は今この場に立っている。しかし、その作戦を実行するには時間が必要だった。その時間を稼ぐための左手、そのための多種多様な手数である。

 すぐ傍の壁が粉砕され、盾から不可視の斥力場を発生させながらキロンが真横から一直線に突撃を仕掛けてくる。真上からでなく、障害物を無視して真横から強襲するキロン。多関節の腕で防御するが、あっけなく粉砕されていく。

 そのまま盛大に吹き飛ばされて、二度、三度と地面をバウンドして転がっていく。追い打ちをかけるようにして撃ち出された【災厄の槍】を右手で防ぐが、そこから更に弾き飛ばされた俺は迷宮の壁をぶち抜きながら更に遠くへと追い込まれていく。

 空中に打ち上げられたまま、更に二度、三度と【災厄の槍】の連射。左手の換装を行い、それを囮にしてあえて破壊させることで肉体への被害を防ぐ。最大のパフォーマンスを発揮し始めたキロンを相手にしては、七十一の数も時間稼ぎにしかならない――時間稼ぎにはなる。

 空中に打ち上げられたまま延々と吹き飛ばされ続ける。弧を描いて落下する度に燃えさかる骨が左手に激突し、多種多様な義肢が粉砕される。蒸気を吹き上げる巨大でレトロな腕が、腕と平行に取り付けられた刃が、電磁輻射砲を備えた腕が、すべて一瞬にして破壊され、その残骸を光の粒子に還されていく。

 一度破壊された形態の義肢はトリシューラが自らの工房で再生のための儀式を行うまでは再使用ができなくなってしまう。あまりに万能な力を持つウィッチオーダーだが、最大のパフォーマンスを発揮するためには相応の準備が必要だ。大量の資金と稀少な素材、そして膨大な工程。全て、トリシューラが半年間かけて俺の為に準備していたもの。その結晶が、何の価値も無いと一瞬で粉砕され続ける。

 何も感じない――冷たさが全身を支配する。風を切って、衝撃と共に飛んでいく俺の身体は、いつしか見覚えのある場所へと投げ出されていた。ついに地に投げ出された俺は、右手で受け身を取りながら回転して素早く起き上がる。

 周囲には、何事が起きているのかと多種多様な種族で構成された第五階層民たちが集まってきていた。そこは俺とコルセスカが逃げ込んだ、レオがいる区画だった。

 壊れた壁の向こう、粉塵の中から騎乗した聖騎士が姿を現す。周囲を睥睨し、冷ややかな一言。

「忌まわしいな。穢れた異獣共め」

 その殺意が、俺ではなく周囲の第五階層民たちに向けられる。ここに集まっているのが非戦闘員ばかりだということなど、一切考慮しないという瞳だった。咄嗟に動けず、俺は漆黒の槍が突き出されるのを看過してしまう。たまたまその場にぼんやりと立っていた、樹木のような姿のティリビナの民。その一人に向けて無造作に訪れる、死の穂先。

 瞬間、誰もが息を飲んだ。
 槍とティリビナの民との間に両手を広げて立ち塞がる者があったのだ。己の命を平然と投げ捨ててレオはその幼げな瞳で真っ直ぐにキロンを睨み付ける。キロンは槍を一瞬だけ止めたが、レオの頭頂部に生やされた黒い猫耳に視線を向けると、不快そうに鼻を鳴らした。

「忌み人であっても滅私と慈悲の心を持ち合わせていたか。見事――しかし、見逃す理由にはならん」

「あなたは」

 容赦のない殺意がレオを貫く寸前、キロンの呼吸の間隙に潜り込むかのような絶妙なタイミングで、その言葉は放たれた。無論、レオの言葉は俺以外には通じない。その意味が伝わったはずもないが、短い呼びかけは短いがゆえにそのまま呼びかけとして意味を為した。聖騎士に生まれた、あるかなきかの意識のラグ。そして解き放たれた、キロンの黒き槍よりもなお鋭利な言葉の槍。

「この人や僕じゃなくて、あなた自身が憎いのですか」

「何を」

「だからその槍は、あなた自身を傷つけているの?」

「何を、言っている」

 キロンの様子が、明らかに急変していた。聞き慣れない周波数の音を無理矢理耳元で鳴らされたような、不快感と戸惑いの入り交じった表情。というよりも、異様なのはレオのほうだった。その声が、どこか聞き覚えのある二重性を伴って響いてくる。その意味が、ダイレクトに脳内に流れ込んでくるような感覚。

 遅れて気付いた。レオは【心話】の術を使っている。彼の言葉は、キロンに届いている。強靱な腕が支えているはずの槍の切っ先が僅かに震えているのは、おそらくレオの問いかけによってだろう。

 透き通った瞳で、少年は胸の内から溢れる感情にまかせて言葉を繋いだ。その瞳が慈愛と悲しみに揺れて、一筋の雫が頬を伝う。

「あなたは可哀想だ。どうか、自分が弱いことを責めないで」

 それは劇薬だった。
 おそらく、余人には理解不能な洞察力、直感、あるいはその他の感覚によってレオは理解したのだろう。

 キロンの胸中に一歩踏みいることすら無く、ただ理解しているという前提だけをそこに成立せしめる圧倒的な異常性を、しかしレオは当然のものとしてキロンに突きつけた。そうして投げかけられた言葉は全てが心臓を刺し貫く致命の刺突。

 そして恐らく最後の言葉が最大の猛毒だった。当然だろう、あの言葉は俺にとっても痛みとなり得る。俺と似た過去を持つキロンにとっては、言うまでもない。

「――俺を暴き立てるか、貴様っ!」

 至極当然の帰結として、爆発するかのように激昂する。今度こそどのような言葉でも止められない殺傷力がレオに吸い込まれていく。俺は動き出していたが、それより速く少年の前に飛び出した影があった。

 激しい怒りと共に放たれた神速の穂先を、二本の指が正確に掴み、静止させていた。芸術的なまでの力の逃がし方、そして巌のような不動を保つその道衣姿。

 ロウ・カーイン――いつのまにやらレオの護衛に収まっていた男は、前に踏み込みながら片方の腕で槍を抱え込むと、そのまま背中と肘でへし折ろうとするが、槍は意思を持つ蛇のようにのたうち、するりと拘束を解いてキロンの手元に戻っていく。間を置かずにカーインによる貫手が放たれるが、馬上から跳び上がったキロンが頭上から刺突を繰り出す。

 今度こそ回避仕切れずに、その背中、そして内部の心臓を狙って穂先が吸い込まれていく。カーインが目をかっと見開いて、気息が体内に急速に導引されていくのと共に気力が充溢していく。

「ぬるいっ!」

 カーインの全身が、一回り大きくなったかのような錯覚。否、事実として服の上からでもわかるほどの筋肉の盛り上がりと皮膚の黒々とした変色は、彼の肉体に劇的な変化が起きていることを示していた。おそらくは、俺の渾身の一撃を跳ね返した時のように内功によって超人的な防御力を得たのだろう。漆黒の槍は分厚い背筋に阻まれてその侵入を一瞬停止させる。しかし。

「臭うな。貴様も異獣か」

 侮蔑の言葉と共に、キロンが着地する。握りしめられた槍の穂先が、カーインの胸から突き出していた。信じられないという表情で血の滴る刃を見下ろしているカーイン。勢いよく槍が引き抜かれ、傷口から勢いよく血が噴き出していく。悲痛な叫びを上げるレオ。倒れ伏していくカーイン。

 思考は、ひどく冷え切っていた。
 宿敵の死を見ながら俺が思ったことは、理想的な展開だということ。

(丁度いいね。彼が異獣かどうかはこの際関係が無い。重要なのは、どう見えるかということ)

 カーインは、身体的特徴において【上】のように見える。そして異獣の殲滅を謳い、【上】側として振る舞っている聖騎士キロンが同じ地上の人間を攻撃したという事実。

 都合の良い展開――期待していた中で、最も理想的な展開だった。厄介な敵も排除できて一石二鳥だ。
 ちびシューラが親指を立てて反撃開始の合図を告げる。

(準備完了したよ、アキラくん! さあ、正義の味方をやっつけようか!)

 ああ。邪悪な魔女とその使い魔の、ここからが本領発揮だ。
 ちびシューラの手が閃くと共に、空間が揺らぐように歪曲し、波紋のようにしてそれが階層全体に広がっていく。それと同時に、遠くからも何かが凍結するような音が響き、すぐ近くからも水が流れるような音が聞こえてくる。複数の音が反響し合い、第五階層を不可思議な音色で満たしていく。

 変化は劇的だった。階層全域を覆っていた迷宮の壁。それらが光の粒子となって解けていく。

「何だ、何が起こっている?!」

 カーインに駆け寄って治癒符を必死に押し当てているレオに、トドメの一撃を加えようとしていたキロンが動揺して周囲を見渡している。鳴動する大地に、黒い馬が嘶きを上げて暴れだそうとしている。慌ててなだめにかかるキロンに、もはやレオにかまけている余裕は無い。

 第五階層は、今や元の姿を取り戻していた。周囲には何事かと集まってきた住人達。この場所は既に普段多くの人々が行き交う大通りの風景を取り戻しつつあった。

 状況の変化にも関わらず無差別な襲撃を繰り返そうとする悪鬼たちに、無慈悲な集中攻撃が行われる。狭い通路で数の有利と小柄さを活かした戦法で襲ってくるのならともかく、どちらも活かせない状況では悪鬼は狩られる側の弱者でしかない。路上で暴力を行使した彼らから、創造能力が次々に奪われていく。

 騒動の隙を狙い、俺は黒銀の左腕をキロンに向けて振り抜いた。正確に盾で受けるキロンの表情に、理解が広がっていく。

「そうか、奇襲狙いだと思っていたが、きぐるみの魔女がいないのはこれが狙いか」

「そういうことだ」

 槍の振るえない近接距離での攻防。咄嗟に伸縮自在の槍を腕に巻き付かせ、素手での戦闘に切り替えたキロンはこちらから離れようと激しく動き、遠ざかろうとする。

「だが何故だ、このようなことをする意味がどこに――」

 疑問を呟くその身体から、複数の光の粒子がこぼれ落ち、周囲に立っていた内のひとりに吸い込まれていく。大きなくまのぬいぐるみを抱えた、蝶の翅を持つ少女。その周囲に水流が渦を巻き、未だ僅かにラグを走らせている建造物に干渉し、安定させていく。水流は倒れ伏したカーインとレオを包み込んで離れた場所にいた少女の下に運んでいく。

「ねーねーレオくん、わたし、役に立った?」

「ありがとう。このまま、みんなを守ってくれるかな?」

「うん、わたしがんばる」

 水の膜が少女やその周囲にいる人々を包み、呪術の障壁を作り上げていく。たった一晩の間に何があったのか知らないが、この呪術師の少女はレオに好意を寄せているようだった。こんな短期間で異性の心を奪うとは、ちょっと信じがたい事をする少年である。

 彼らの安全が確認された途端、階層全域に拡大された音声が響き渡る。

「聞け! 忌まわしき異獣と、それを匿う異端の民たちよ! 我が名は修道騎士キロン!」

 キロンは愕然と声の聞こえてくる天蓋を見上げるが、そこには何も無い。光学迷彩によって滞空する巡槍艦が存在する事を知っている俺は、構わずに打撃をその顎に浴びせていく。

「退廃と堕落、汚濁と悪徳が栄えるこの街は、もはや存在すら許し難い! よってここに、この聖騎士が裁きを下す! 異教徒も異端者も、残らず灰になるがいい!」

 合成された音声は、キロンのものと寸分違わぬ響きでそれらしさを演出する。

 宣言と共に、空中から無数の閃光が大地に降り注いだ。かつてキロンが異獣を虐殺した時と比較しても遙かに巨大で広範囲への呪術の爆撃。言葉の通り階層の全住人を皆殺しにするほどの高威力の呪術の雨に、キロンが絶叫する。

「おのれっ、正気か【きぐるみの魔女】――!」

 狂気の虐殺行為の責任をすべてキロンに押しつけて、トリシューラによる無差別な破壊が撒き散らされる。俺が時間稼ぎをしている間、トリシューラはキロンによって破壊され階層の狭間に漂っていた巡槍艦を取り戻す為、密かに行動していた。巡槍艦の制御システムに侵入し、絶妙なタイミングで作戦を実行に移す。

 巡槍艦の内部には、一定期間ごとに記録していた第五階層のバックアップが存在する。かつて俺が見せられた、ミニチュアの第五階層。再現模型と立体映像によって現実に影響を及ぼす装置。それを利用して、彼女は階層の迷宮化を解除したのである。過去の第五階層を再現した模型と、現実の迷宮がその差異を比較し、階層のシステムは以前の状態を正常であると判断した。かくして迷宮は過去によって上書きされていったのだ。

 当然、迷宮化を行っている何者かは妨害に動くが、コルセスカとレオの仲間になった少女の力によって再び迷宮化が始まることは無いようだった。裏で動いている何者かは恐らく高位の呪術師らしいが、いかに強力な呪術師でもこちらが三人がかりならそうそう負けることは無いということだ。

 天から閃光が降り注ぎ、凄まじい衝撃と爆音、熱波が周囲に吹き荒れる。右腕の力を周囲に広げて身を守るが、それでも重い衝撃が身体を貫いていくのを感じる。

 轟音が収まった後、階層は地獄と化した。多くの構造物が破壊され、至る所から火の手が上がり、多数の負傷者が呻き声を上げる。無数の小さな破片が全身に突き刺さり、呻いている者、耳を押さえてうずくまっている者。意図的に殺傷力を抑えて、多くの負傷者を出すために調整された爆撃。大規模な被害にも関わらず、驚くべき事に死者が存在しない。綿密な計算によって導き出された、悪意の演出。

 更に被害を軽減させる要因として、人々の周囲に展開された防御呪術の存在があった。彼らの身を守る不可視の障壁は、見覚えのある紙幣によって展開されたもののようだった。効果が途切れ、紙幣の表面に刻まれた絵図が細かな光の粒子になって消失する。

「アキラ、今のを君も容認していたのか?! 俺が護符を強制発動させなければ、被害はもっと広がって――」

 己が浸透させた紙幣を消費させてまで住人を守ろうとしたキロンに、【上】住人を巻き添えにしてまで虐殺を行うような意思はない。己の成果を無にしてでも無辜の民を守ろうとするキロンの行為は正しく、英雄的ですらある。だが、彼の意思は関係が無い。重要なのはどう見えるかということ。周囲がどのような認識を共有するかという一点だ。真実よりも速く、それらしい風説は流布されていく。

「ふざけんなっ! 全部てめえがやった事だろうが! 白々しいんだよクソ聖騎士!」

 安全地帯から、キロンに向けて放たれる呪符の攻撃。憎しみを滾らせた【下】住人の殺意により、キロンの動きが一瞬止まる。強大な力を持つキロンには傷一つ与えられない攻撃でも、気を散らす程度の役には立つ。そしてそれは、コンマ数秒単位の近接格闘においては確実な差を生み出していく。

 同じく戦闘行為を行っている俺に対しても創造能力を奪おうと複数人が手を翳すが、そこで強い制止の声が上がった。カーインに必死な表情で治療を行っているレオだ。

「待って下さい! あの人は、アキラさんは僕たちを守るために戦ってくれているんです! アキラさんは悪くない!」

 本気でそう信じ切っているレオの言葉には、切実な真情が込められていた。心話によって直接精神に語りかけられるという事も、周囲の心を動かす要因になっていた。当初はコルセスカの言語魔術で翻訳を行う予定だったが、レオが無意識に心話を使って周囲をまとめ上げている事が判明し、計画を変更したのだった。

 彼が持つ希有な才能は、状況を一変させてしまうだけの有用なスキルだ。こちらの真意を知っている者が扇動したならばこう上手くはいかないだろう。

「アキラさんは僕のことも助けてくれました――僕は、あの人を助けてあげたい、味方でありたいんです」

 場の空気が、目に見えて変化していく。左手を構成する掌握者権限によって創造された物質は、ぎりぎりの所で崩壊せずに形状を保っている。レオの本心からの訴え――当然トリシューラによる入れ知恵だが、それによってこの空間にはひとつの構図が出来上がっていた。

 第五階層を守る者と、その平和を脅かす者、という。
 周囲から俺に向けられる視線、そして自分に対して向けられる敵意に気付いて、キロンがはっと息を飲む。人が多い場所に誘い込まれたという事実に気付いた時にはもう遅い。

 確かに聖騎士に対してそこまでの悪感情を持たない者も、【上】住人の中にはそれなりにいる。しかし、ここに多く集まっているのはレオをはじめとしてここにしか行き場がない者達ばかり。探索者ではない非戦闘員や、探索者であることを負傷によって断念し、故郷にも帰れなくなった敗残者。純粋にここにしか居場所が無いと認識している彼らにとって、現在の第五階層を破壊しようとする者は敵である。

 第五階層全域の人口のうち、割合としては全体の三割程度。決して無視ができない非マイノリティ。

「アキラさんは僕たちと同じように、上にも下にも行き場が無い人です。あの人なら、本当にこの場所のために戦ってくれる!」

 浸透していた俺個人の情報が、レオの言葉を裏付ける。狂犬の悪名も、裏を返せばここで暴力に頼った生き方をすることしかできない社会不適合者だという証明になりうる。

「ぬ、おおおっ」

 いつしか。こちらの勢いにキロンが圧倒されている。
 周囲からキロンに罵声が浴びせられる度、俺に声援とも野次ともつかぬ荒っぽい声が投げかけられる度、明白なまでの差が広がっていくようだった。

 先程の無差別爆撃もまた、キロンのイメージの大幅な低下に役立っていた。死者がおらず、意識のある負傷者が多数という状況も、キロンに対して多くの憎しみを集めることに繋がっている。

 そしてそれは、話の流れというものを味方に付けて勝利するキロンにとって最大の危機。非道な行為を行っているのは俺ではなくトリシューラなので、そこで俺に不利な判定がなされるという可能性も無い。なんといっても、レオの言っていることは全て事実なのだから。俺は今、実際にレオからキロンを遠ざける為に動いている。

 心の底から思う。レオの存在は尊い。彼は守られるべきだ。
 俺にはキロンのような圧倒的な美貌、強さ、信念といった、英雄らしさが欠けている。彼が敷く物語のルールで戦う以上、それ無くして勝利することはできない。だが、必ずしも俺がそうである必要は無い。善良さ、主人公らしさというものを、俺の外側から持ってくればいいだけのこと。

 勝つための力が無いならそれは二人の魔女から借り受ける。勝つための資格が無いならそれは善なる少年から借り受ける。俺はそれらを効率よく伝達させるだけでいい。

 キロンのスピードや回復力は確かに厄介だ。しかしそれらを上回るキロン最悪の力、それは運命を味方につける英雄性だ。それを逆に利用して、相手の純粋な実力を無視して気合いとか友情とか叙情的観念的な勢いとかで勝利するのが俺達の作戦だった。いわば相手の力に逆らわずに受け流し、それを攻撃に転用する応敵技術。相手の運命力を受け流し、主人公補正の重心を崩す。これもまたサイバーカラテ、名付けて呪的化勁。

 キロンは状況の悪化によって明らかに弱体化していた。今までの強さが嘘のような遅々としたスピードで、俺の攻撃を捌ききれずに押されていく。俺自身の実力ではなく、キロンが持つ圧倒的な運命力そのものを逆用されて、自らダメージを蓄積させているのだ。

 この流れなら勝てる。

射影三昧耶形アトリビュート――十番」

(No.10【ルスクォミーズ】エミュレート)

 瞬間的に浮かんだイメージは、波打つ黒髪と凄烈な美貌を持った魔女の姿。その周囲に跪くのは見覚えのある悪鬼の群れ。特定の集団を悪鬼に変貌させる忌まわしい呪術を生み出した魔女にして、喰らった相手の力を己のものにするという恐るべき自己強化呪術の使い手。九人の姉を除けばその実力は随一。最強の妹ルスクォミーズ。

 七十一のうち、【星見の塔】によって使用が制限されている上位一桁の形態を除けば最上位となる十番の義肢。鮮やかな深紅を基調とした義肢には、一見して特殊な兵装は存在しない。だがそのシンプルな形状に逆に脅威を覚えたのか、キロンは大きく距離をとって口笛を吹く。

 合図の直後、真横から叩きつけられる衝撃。大地を割り砕きながら突撃を敢行した黒い馬が、右手によって停止させられていた。

「停止の力か――厄介な腕だ!」

 吐き捨てて、腕に巻き付けていた黒槍を元通りに伸ばし、盾を構えてこちらへ突撃を仕掛けるキロン。背後の石版から無数の文字列が展開され、こちらへ同時に攻撃をしかける。俺は馬を完全に凍結させると、多面鏡を展開させながら幻肢で文字列を防御。正確無比な突きをぎりぎりで回避しながら前へと進み出る。その攻撃速度は、以前と比較して明らかに精彩を欠いている。

 深紅の左手が、相対するキロンに真正面から襲いかかった。見え見えの動きを予想して、身体の前に構えられた盾。不可視の障壁に加え、盾そのものの硬度も極めて高い。まさに鉄壁の布陣。盾の中央に俺の掌が接触し、その運動エネルギーはそこで停止する――かに思われた。

「な――」

 驚愕の声を上げる間も無かった。キロンの腕が、そしてその奧の全身が火ぶくれによって赤く染まっていく。それだけにとどまらず、体内の水分が煮沸し、皮膚が、肉が熱によって融解していく。

 こちらの掌を防いでいる盾、そして呪力の障壁には傷一つ無い。にも関わらず、キロンの肉体は高熱によって破壊されていく。再生が追いつかないほどのスピードで細胞が完全に死滅していく。

 左の義肢の各所に刻まれた微細なスリットから、かすかな光が漏れる。もたらしている破壊に対して、ひどく静謐な駆動をする兵装だった。しかしその内側に搭載されているのは、あらゆる敵対者を細胞ごと破壊して融解させる死の熱学兵器。掌を砲口にして、瞬間的には最高一千度にも達する熱振動がキロンの体内を伝っていく。

(熱伝導制御能力によって一方向に効率よく進む熱フォノン。サーモクリスタルの兵器転用によって実現したフォノニックブラスター)

 自然界には存在しない負の屈折率を持つ左手系メタマテリアルの使い道は遮蔽装置だけではない。トリシューラは原子の振動を熱フォノンとして記述することにより、それを自在に収束させ増幅させる。義肢内蔵という個人レベルの兵装でありながら、ウィッチオーダー下位ナンバー内で最大の瞬間火力を誇る、熱と炎の左腕。

 それほどの高エネルギーを発生させるための核が、腕の中で強烈な呪力を放射し続けている。強力な異獣は肉体に宿した呪力によって、体内に呪石と呼ばれる呪力の結晶体を遺すことがある。数日前、第六階層でカッサリオを倒した際、トリシューラはしっかりとその遺体から高熱を放つ呪石を回収していた。

(第六階層で回収した王獣カッサリオの角を材料にしたこの腕は、あの振動砲と同じ原理の破壊を発生させる。流石にあのレベルの広範囲攻撃は反動でアキラくんがバラバラになっちゃうからやらないけど、局所的に熱振動を発生させることでより高い威力を実現させている)

 氷の右腕と対を為すように、赤い左腕が死の高熱を放射する。あのコルセスカが防戦一方になった程の超破壊力が、キロンの肉体を蹂躙していく。過剰殺傷とも思えるほどの無慈悲なる融解現象。肉が溶けていくという壮絶な拷問に、声にならない声が喉から血と共に吐き出された。

「溶けろ――熱学発勁」

 低く呟いて、左手の出力を引き上げる。腕の中を伝わる呪力を、掌から接触している盾に、展開されている不可視の障壁、そしてキロンの胴体に伝導させていくイメージを構築する。左腕から赤い光が放射され、掌へと収束していき、一瞬だけ消失する。

 静謐。そして爆発。
 一気に放出された呪力と熱によって、今度こそ盾が融解。軋むような音がして、呪力の障壁が無数の欠片となって砕けていくのを義肢の感覚で捉える。解き放たれたエネルギーは深紅の閃光となって視覚化され、高密度の呪力がスパークしてキロンの肉体を焼き尽くしていく。

 千切れた蝶の翅が、ゆっくりと地に落ちた。
 胴体に大穴を空けて、残った部位から蒸気を吹き上げるキロンは、今度こそぴくりとも動かない。沸騰した血液が溢れて、泡を立てては弾けて行く。

 勝ったのか。
 実感が遅れて追いついて、深く息を吐き出していく。

(向こうの手を借りるまでも無かったね。ま、無闇に借りを作るよりはいいか)

 ちびシューラが、安堵したように言った。決して苦戦しなかったというわけではないが、思っていたよりもあっさりと勝ててしまったのも事実だ。それだけキロンの運命力が強かったということなのか、それとも――俺は視線をキロンから逸らして、倒れ伏したカーインを治療しているレオに向ける。

 あの少年の力が、予想を遙かに超えて状況を変化させたのだろうか。思えば、奇妙な少年、そして奇妙な構図である。一度はレオを誘拐した男が、その危機に身を挺して倒れる。これは果たして偶然なのだろうか。最後にカーインと会話した時には深く訊ねることはしなかったが、もしかすると最初から――。

 俺の思考を中断したのは、不意に降って湧いた奇妙な声だった。

「力が、欲しいですか」

 幾重にも反響し、その精細な声質も、どこから響いている声なのかもはっきりとしない、不可思議な声だったが、それはどこか女性的な響きを宿しているようだった。

 問いかけに、倒れ伏したキロンの身体が僅かに反応する。直感的にまずいと判断し、踏み込んで倒れ伏したキロンの頭部を踏み砕こうとする。しかしキロンの姿が奇妙に歪み、次の瞬間には遠く離れた位置に移動していた。

 まだ縮地――空間制御能力ができるだけの余力があったのか。自らの迂闊さを呪いながら、追撃に移行する。

 だがそんな俺の目の前に、拳大の何かが飛び出して行く手を阻む。見覚えのある眼球型使い魔だ。

(最悪! この使い魔、こっちの感知をすり抜けるなんて!)

 またカッサリオのような怪物を呼び出されでもしたら手に負えない。素早く潰していくが、その間に事態は進行してしまっていた。

「ああ、あの時にも聞こえた――魔女の銃弾に斃れた時にも聞こえた声だ――」

 掠れて消えそうなキロンのうわごと。ちびシューラが何かに気付く。

(待って、もしかして――シューラはあの時キロンを殺せていたの? そしてその後蘇生した――?)

「たとえ己自身の意思を打ち棄ててでもその意志を押し通したいのであれば。それほどまでに力を欲するのであれば。強く心に願いなさい。その乾き、その餓え、余さずわたくしが充たしましょう」

 響き渡る謎の声は、明らかにキロンに利するもの。次から次へと湧き出てくる眼球の使い魔。直感する。階層を迷宮と化したのは、この声の持ち主だ。

 こちらに考える余裕を与えまいと、俺に飛びかかってくる無数の影があった。皺だらけの矮躯。憎悪を瞳に漲らせて、悪鬼の群れが俺に襲いかかる。

「くそ、タイミングが悪いんだよっ」

 いや、そもそもこいつらも『何者か』の指示で動いている可能性が高いのか。
 だとすれば、本当に脅威となる相手は、キロンではなく、その背後にいる?

 疑問を余所に、虫の息のキロンから膨大な呪力が溢れ、流れ落ちる大量の血が浮き上がったかと思うと元あった体内へ流れ込んでいく。更にその色彩が、鮮血の赤から暗く重い青へと異様な変化を遂げる。

 死の直前にあった聖騎士が、今まさに復活しようとしていた。

(そうか、死後に復活する、蘇生型の転生! だとしたら、これが二回目の転生ということ。まずい、転生力で上回られる!)

 飛び出した謎用語の数々に困惑を禁じ得ない。何だその転生力って。

 だが、確かに彼女にはキロンを過去に殺した確信があるようだった。それが誤認ではなく事実であったとしたら? まさしく俺という個人が、死後の復活という一例なのだ。この世界の人間が復活しないというのがそもそもおかしな前提である。コルセスカも、同じ世界の中で生まれ変わった転生者なのだと言っていた。

 つまり、キロンもまた転生者だったということだ。
 転生者殺しの転生者。

 キロンが定める戦いのルールにおいて、転生者や英雄性といった固有の要素が有利不利を定めるのだとすれば、ただの転生者ではキロンに勝つことはできない。

 その推測に戦慄しつつ、俺はようやく最後の障害を排除し終える。悪鬼の頭部を焼き切って、キロンの下へ走る。余りにも遅すぎる。十四番に切り替えて縮地で距離を短縮する時間すら惜しい。

「欲しい。力が欲しい。誰にも負けない――を守れるだけの力がっ」

「その決意、しかと承りました――賽は投げられた」

 左腕を振り下ろし、熱量を掌に集中させた時には、全てが手遅れだった。絶望的な声が第五階層に響き渡る。

『イェツィラー』

(トライデントの融血呪っ! アキラくん逃げてっ、取り込まれちゃう!)

 衝撃と閃光がキロンを包み、咄嗟に左手に制動をかける。こちらの肉体にまで害を為そうとするエネルギーを右手で押さえ込み、咄嗟に飛び退った。
 深い蒼色の流体が、キロンを、そして五つの神滅具を飲み込んで、一つのものとして融け合っていく。

 渦を巻く流体が呪力を放射し、近付こうとするこちらまでも飲み込もうとする。恐らく、触れればいつか悪鬼の融合体に取り込まれたようなことになるのだろう。寒気を感じて、大きく距離をとった。

 そして、姿を変えたキロンが流体の中から現れる。
 左手の盾と弓、そして石版が一つに融け合い、大型のクロスボウと化している。右手には歪な棘を無数に生やした黒い槍。ほとんど腕と一体化したそれは、その背骨にまで触手を伸ばしている。黒い触手に冒されているのは背から生える蝶の羽もだった。濃い黒と青に浸食され、毒々しい色となったその姿はおぞましくも絢爛である。

 そして、最大の変化は下半身に起きていた。
 キロンの腰から下が、黒い馬と一体化しているのだ。馬の首から上は失われ、元々一つの生物であったかのような変質を遂げている。
 それは真なる人馬一体。

「そう言えば、こちらはまだ名を宣言していなかったな」

 背筋に氷を突き入れられたような悪寒。宣名によって己を強化するという作法は、今までにも幾度か目の当たりにしてきた。エスフェイル、カーイン、コルセスカ、トリシューラ、そしてキロン。キロンの名が生み出す呪力は、その他とは比較にならないほどに大きいのだと記憶が警鐘を鳴らす。
 敵はその本領を発揮していなかった。切り札の温存という端的な事実が、定まった勝敗を覆す。

「我が真の名は【廉施者】――この身は、あらゆる死を拒絶する」

 放出される、かつてないほど強大な呪力。
 蒼い血液によって融合した聖騎士と異獣、そして五つの神滅具が、復活の咆哮を響かせた。

 
 
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