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幻想再帰のアリュージョニスト 作者:最近

第2章 もしサイバーパンク世界の住人がオカルトパンク世界に転生したら

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2-16 鏡(ミラージュ)

 

 
 その男が五体満足で生きているという事に俺は少々の驚きを禁じ得なかったが、その一方でやはりという納得もあった。思わず声をかけてしまう。

「石になって死んでるかと思ったよ。案外しぶといな」

「開口一番にそれか。君の口も中々減らないな。礼も無しとは悲しい限りだ」

「うるせえな、わけのわからん恩を着せやがって。何で助けに来た」

「君を殺すのは私だと言わなかったかな?」

 飄々とした態度で言葉を返すのは、後ろで束ねた長髪と褐色の肌、長躯をゆったりとした道衣で包んだ男。天蓋にある呪力照明はキロンとコルセスカの激突、そして巡槍艦の猛威によって砕かれた。その為、世界槍外部での日暮れを反映するようになった現在の第五階層は闇に包まれている。探索者達の灯した弱々しい簡易照明に照らされるその美丈夫ぶりは忘れもしない、先日俺を散々苦しめた毒手使い、ロウ・カーインである。

 【公社】に襲撃された時に石化の邪視者アルテミシアから助けられたことは記憶に新しい。だからといって仲良くする気にはなれないのだが、礼を言わないのもこちらの精神に悪い。苦虫をかみつぶしたような気分が消えていく。コルセスカに内心で詫びながら、渋々と頭を下げる。

「あの時は助かった。感謝する――それと、悪いが再戦はしばらくできそうにない」

「だろうな。君の蹴り技がどの程度のものか、見てみたいという関心はあるが――流石に今のままでは戦う気が起きん」

 言葉通りにつまらなそうな顔でこちらの両腕に視線を送る。しかし奴の瞳は、その次を問おうとしていた。先回りして、言葉を繋ぐ。例のよく回る舌で会話の主導権を握られるのが嫌だったということもある。

「だが安心しろ。これで終わる気はさらさらない。丁度良い感じに作戦を立て終わった所なんでな。全部終わったらその時は――両腕を揃えて相手してやる」

「――ほう」

 瞬間、カーインの瞳が獰猛に光る。獲物を前にした猛獣の様相で、その爪を研ぐ準備を始めていた。気が早いことである。

「それは楽しみだ。その時、私は本当の意味でサイバーカラテと拳を交えることができるわけだな」

 そう言って、服の袂からシンプルな形状の端末を取り出す。画面に表示されたのは見覚えのある、どこか古くさいレイアウトのホームページ。中央にでかでかと埋め込まれた動画が動き出し、俺の身体に染みついている型を繰り返す。というか映し出されているのは俺だった。

「そういや、そんなのをトリシューラと一緒に撮ったっけな」

 思い出す。赤い髪の少女が不敵に邪悪に笑って邁進するその姿を。困難に直面し、悄然と項垂れる表情を。自らの価値を否定する言葉を、絶対に撤回させてみせると息巻いた、負けん気に溢れる緑の瞳を。

「サイバーカラテはそんな短い導入用動画で理解できるようなものじゃない。いずれ続きを配信してやるから、せいぜい楽しみに待ってろ」

 挑発めいた俺の口舌に、カーインは薄い笑みを返すのみだった。ていうかこれ有料配信なんだけど、わざわざ課金してくれたんだよな? 実は大事な顧客だったりするのか。もしかすると、俺が拳を交えた相手が次々と金を落とすようになるという殴り合い営業が有効なパターンなのでは。

 冗談はさておき。
 全てでは無いとはいえ、手の内を晒してしまった。分かっていてやったことなので動揺は無いが、奇妙な気恥ずかしさを感じる。そうした羞恥心も生まれた途端に首筋の孔から伸びる目に見えない管を通って氷の少女に送り込まれていくので、平然としていられるわけだが。

 とはいえ、これ以上この男と思わせぶりに火花を散らせても無い拳は交わせない。不毛なのでそろそろ退散しようとした時、視界の隅にそれが引っかかった。

 特徴的な黒い猫耳がぴんと立って、同じく愛らしい猫のような顔立ちを今は生真面目に緊張させて、なにか弁舌を振るっている。探索者たちによって構築された即席の街灯が照らす空間で、十名以上からなる集団を相手にしているようだ。

 どうもあの少年は、いつもトラブルに首を突っ込んでは巻き込まれているような気がする。彼が必死に話しかけている相手は、以前も彼がまるで相手にされていなかった樹木のような外見の種族だった。

 どうやら、周囲と馴染もうとしない彼らと他の住人達との間で衝突が起き、レオはその調停に当たっているようだった。突然の迷宮化による混乱でどの場所でも争いが再開されるような状況だ。元々は地上出身で最近地獄に移住し、更にその後第五階層に移った彼らに居場所は無いに等しかった。上からも下からも敵と見なされ、あちらこちらから追われてようやく辿り着いたのがレオが率いる種族混成のグループというわけだ。

 匿われたそこですら周りと合わせることができない彼ら樹木人を、俺は咎めたり責めたりできない。俺だって似たようなものだからだ。上下の勢力に対してどっちつかず、文化と言葉の違いから暴力に依存し、周囲を拒絶することしかできずに孤立する。

 どちらかと言えば、居場所が無いにもかかわらず、見る間に自らの居場所を作り上げてしまうレオの方が傑出しているのだと思う。今だって、レオが口にしている言葉は恐らく俺以外には理解できていない筈だ。彼の口から出てくるのは、不可解な響きの古代言語。どうしてだか俺にだけは理解できるその言葉は、彼ら樹木人にとってわけのわからないノイズでしかない。彼らに表情があるとすれば、こう語っていることだろう。「何だコイツは」と。野太い腕が暴力的に振るわれる。しかしレオは俊敏にひょいと回避して、細い両腕を使ってジェスチャーを試みる。一向にめげる様子が無い上に、彼らの暴力的な態度に慣れ始めていた。

「ティリビナ人か。レオも大した根性だな」

「――街路樹の民」

「何?」

「彼らに対する時はそう呼ぶようにとレオ――は言っていた」

 少年の名前を呼ぶ時、奇妙に言いづらそうにしたのが少し気になったが、そうした小さな疑問は続く言葉によって消えていく。カーインの説明したところによれば、レオはティリビナ人たちとのコミュニケーションが上手く行かないことに悩んだ末、対策をネットの海に求めたのだとか。彼にも理解できる日本語に翻訳された情報の海を彷徨い、どうにか見つけ出したのがとある新聞記事のコラムだった。ティリビナ人を特集したその記事には彼らを称して「あたかも街路樹のように街に馴染もうとする人々」という一文があったという。排他的なグループを形成する彼らに対してそのような言い回しを当て嵌めるのが適切かどうかはともかく、ものは良いようである。

 一目見てレオは「これだ」と猫耳を立てた。以来、ティリビナ人に対してこの呼称を定着させるべく、日本語と古代語で【街路樹の民】という言葉を周囲に広めて回っているとのことだ。街路樹をイメージしたシンプルなデザインのマークまで知り合いの探索者に用意してもらったようで、その交友範囲に舌を巻く。誰かと思ったらコルセスカだった。いつの間にそんなことをやっていたんだろう。

「観察した所では、あの集団内でも若い世代に受けが良い。都会人であるという意味を含ませたのが良かったのだろうな」

「そういうもんか」

 木のような肌をした彼らの年齢層など俺にはまるでわからないのだが、カーインの強い眼力で保証されると納得させられてしまう。

「そういや、お前レオと普通に話してるのな」

「それはだな、私が石化の呪術によって動きを止められ、その呪力にどうにか抗っている時に現れたのが彼だったのだ。彼は呪術医に持たされていたという石化解除の呪符で私を助け、共に来るようにと身振りで示した。自らを攫って利用した憎いはずの仇敵である私に対してだ。そんなことは些細なことだと言わんばかりに慈悲を振りまくその地獄の大海が如き広い心! 私は稲妻に打たれたような気持ちになったよ。このような気高く大きな器の持ち主がまだこの世に存在したのかと。そして今は彼の身辺に目を光らせ、その身にかかる火の粉を振り払う役目をこなしているというわけだ」

 一息に自らの事情を説明するカーインの表情に一切の揺らぎは無い。随分と淀みなく、まるで用意されていた台詞を喋るかのような解説だったが、こいつの長広舌は今に始まったことではないし、悪鬼の用心棒をしていた奴が雇い主を換えたというだけの話なので、そう不審な点は無い。

「ティリビナ――街路樹の人たちからの暴力はいいのか」

「あの程度の些細な暴力、レオ様――レオにとっては火の粉ですら無い。不要な心配だ」

 やっぱこいつ、レオに敬称をつけてやがる。いや、護衛対象で雇い主なんだからいいけど、一時は誘拐犯と人質という関係だったことを考えると、かなり妙な気分になる。

 当たり前の事だが、俺の与り知らぬ所でも人は考え、動き、それぞれに生きている。とりわけ関係性というものは水のように形が無く、流動的で捉えがたいものだ。相手が自分とは異なる他者であるということの果てしない困難さ。俺のコミュニケーション能力の低さもあるが、ままならないものを感じてしまう。

 どうにもならないこと。関係性の推移とは、獲得であり喪失でもある。
 氷の寝台で苦しみに喘ぐ一人の少女を想起する。それで終わりにしないために、俺にできることは何か。

「おや、もう行くのか。君はあの方を探してここまで来たのだとばかり思っていたが」

 その場を立ち去ろうとした俺を見とがめて、カーインが意外そうに声を上げる。その言葉は正解だったが、レオの邪魔をすることもないと思い、考えを変えたのだ。彼は彼のやるべきことをやりたいようにやっている。ならば、俺もそろそろ動き出す頃合いだ。

「全部終わったら、じっくり話そうと思ってるよ。そうだな、さしあたっては――眠り姫を起こしに行くとするか」

 そう言って、振り向かずにその場から離れていく。

 ――背後で、口を押さえて震えているカーインのことは記憶から綺麗さっぱり消去する。おい笑うんじゃねえ。羞恥心が無くなったせいか、他人が恥ずかしいと思う台詞も平気で口にできるようになってしまったのだろうか。いや前からだっけ? 記憶があやふやなものでちょっとわからないが、とにかくこの場合悪いのは俺じゃない。それ以外の何かだ。間違い無い。

 

 

 

 初めてその人形のような瞳を見た瞬間、仲良くなりたいと、幼い感情が湧き上がった。

 

 鮮血のトリシューラは、男を知るよりも早く、生まれながらの毒婦であれと教えられた。快活に笑え。愚か者を籠絡し、踏みしだいて己の足場とせよ。

「お前は愚かだけれど、愚かゆえに愛らしいのよ。大抵の男にとって――まあ私のような女にとってもだけれど、頭の軽い小娘というのは可愛らしく思えるもの。お前はそうして寄ってきた男を上手に使う術を覚えなさい」

 そして、そんな男に生きている価値は無いから、使い終わったらきちんと処分すること。そう付け加えて、トリシューラの師にして姉にして育ての親である空虚大公クレアノーズは自らの使い魔を葡萄絞り器に放り込んで圧搾する。骨肉が砕けて千切れ、やがて均一な絶叫となる。人体が潰される音と共に断末魔がいつしか消えて、滴り落ちてきた赤い雫がグラスに落とされる。芳醇な香りの、それは紛れもない葡萄酒であった。

 甘く酸味の強い果実酒の愉しみを教え込まれながら、トリシューラは一人前の魔女になるべくして育て上げられていった。【星見の塔】での様々な教え。人形師ラクルラールから受けた徹底した人格否定。呪術医ベル・ペリグランティアによる人間性の解体。それでも、一番記憶に強く焼き付いているのは、いつ頃からか気付いたら傍にいた少女のこと。不思議な透明感を宿した青い瞳と、凛とした佇まいが印象的な、冷たい表情の中に激しい情動を秘めた『姉』のことだ。

 年頃はトリシューラとほぼ同じか少し上。沢山の『お姉様』に囲まれて育ったトリシューラは「ああ、また知らないお姉様なのかな」と考えた。なにくれと無く構ってきては世話を焼こうとするその少女は、意地悪な姉ばかりの【塔】の中では新鮮に感じられた。なにしろ、最も敬愛するクレアノーズお姉様ですら意地の悪さ、性悪さでは群を抜いていたのだから。――彼女の場合、その悪意の矛先がトリシューラに限らず十人の姉であろうが六十人の妹であろうが、ありとあらゆる方向、場合によっては自らにまで向いているのだが、その一切の区別の無さが逆に迫害されていたトリシューラにとっては心地よいと感じられるのであった。そう、クレアノーズお姉様の悪意はいつでも一切の区別と容赦を知らなかった。

 ――クレアノーズお姉様に与えられた様々な情報媒体の中に、よく【氷血のコルセスカ】という魔女が登場した。最初は新しくできた親切な『姉』と同じ名前、そしてよく似たイメージに驚いたが、すぐに気付く。

 問い質すと、お姉様は美しく嗤いながらあるパスワードを示した。それによって明らかになったのは、トリシューラの記憶領域の深部に焼き付けられた無数の神話、物語の一群。【冬の魔女】の神話。トリシューラの意識の深い層に沈み込んでいたその情報が、彼女の無意識の願望を呪術として引き出したのだ、とクレアノーズお姉様は説明した。

「おめでとうトリシューラ。お前は今日、この世界に呪術が存在することにようやく気がついた」

 クレアノーズお姉様は葡萄をぐるぐると回して食べながら、トリシューラが初めて真っ当な呪術を成功させたことを言祝いだ。機械の身が想像力を宿すという神秘に、純粋な歓喜を表現する。

「想像力はつくりもの。神が土塊から紛い物の神を捏ね出すとそれは人になった。神の模造は人の模造。人の模造を人形と呼ぶならば、さしずめお前は女神の天形あまがつ。模造品が模造を作れるのならそれは叡智の証明だわ。喜びなさいトリシューラ。お前は『作るもの』になったのよ」

 クランテルトハランスと、お姉様はそれを呼んでいた。エイゴでは、イマジナリーフレンドとか、イマジナリーコンパニオンというらしい。

 与えられた自室に戻ると、そこにはいつも通り優しい姉の姿があった。白銀の髪と青い瞳をきらきらと輝かせて、一緒に遊びましょう、と誘うその顔が、いつになく恐ろしくなる。小さな諍いや喧嘩は何度もしたけれど、彼女をこんなに怖いと思ったのは出会ってからはじめてのことだった。その青い宝玉のような瞳に、怯えるトリシューラ自身の姿が映る。がたがたと震える振りをする、無機質な機械の身体。

 嘘だと思った。本当は怖くなんてない。それが、『想定されるこの年頃の少女に相応しい振る舞い』だと結論づけ、実行しただけだ。

 綺麗な瞳。氷鏡のような右目の中に映し出された、紛い物の自分の姿。稲妻のように自らの欺瞞が走り、輝いた。違う、そうじゃない。

 これは私自身の、妄想をしている振りだ!

 妄想をするという妄想。空想ができるという空想。それは強制された出来損ないの想像。ラクルラールお姉様に責められた。ベル先生に怒られた。失敗作には呪術など使える筈が無い。無駄な時間、無駄な教育、お前は思考などしていない。そのように見える振る舞いをしているだけで、想像力などあるはずもない。できることならば、さっさと壊してしまいたい。ああ憎い憎い、忌まわしいアーザノエルの落とし子め。怖かった。呪術が使えると証明しなければ消されてしまう。それでも今までにそれらしい呪術が使えたことなど一度も無い。呪具の製作は得意だったけれど、それでは周囲に認めてもらえない。【杖】など呪術ではないとはっきりと蔑まれた事も一度や二度ではないのだ。同じ【杖】の教室でも【使い魔】や【呪文】の扱いが自分より下手な魔女は皆無だった。とりわけ【邪視】は才能の欠片すら見つけ出せなかった。【杖】教室の同期生たちの中でも図抜けた邪視適性を持つ人形姫のアレッテ・イヴニルはラクルラールお姉様の一番弟子で、彼女こそ【最後の魔女】候補者――【杖の座】に相応しいと評判だった。このままでは自分は彼女に負けてしまう。スクラップにされた後、【塔】の地下にいる猟犬たちの餌になってしまうに違いない。必要なことはただひとつ、圧倒的な精度で現実をシミュレートして、その精彩なイメージを強く視界の中に描き続ける事。

 生存を賭けた強迫観念がそれを可能としたのか、それともそれこそがトリシューラ本来のスペックだったのか。いずれにせよ、トリシューラはそうやって呪術生命体――頭の中の妖精クランテルトハランスを実体化させた。
 優しいお姉様が欲しかった。

 強くて優しくてかっこよくて、どんな時でもトリシューラの味方になってくれる、完全無欠のお姉様。

 トリシューラが頑張ったら褒めてくれて、部屋に帰ったら遊んでくれる。誰からも否定されるその存在を認めてくれて、ここにいても良いと保証してくれる、無条件の許容。

 名前は氷血のコルセスカ。命名規則が同じであるせいか、同一のプレーンから名前をとっているからか、どこか自分と似た名前の少女。トリシューラの中のトリシューラ自身。槍の魔女、その映し身。

 元となった伝承リソースがあると知った時、『ああやはり』と得心した。何故なら彼女のディティールは、あまりに真に迫っていたから。それでわかった。無数の人々の目に晒された結果として蓄積された膨大な情報量、錬磨された現実感、そして生まれる高精細な魔女のイメージ。つまり彼女は己の想像力が出力された結果ではないのだ。それは空想のアウトソーシング。足りない才能、欠けた適性、できない呪術は自分の外側からもってくればいい。トリシューラは誰かの夢を切り貼りしただけ。

 だってほら、鏡を見てみればわかるでしょう?

 こんなにもつくりものめいた鮮血のトリシューラ、その名も滑稽な冷たい身体のトリシューラに、想像力なんてあるはずもない。その頭の中はがらんどう。身体の中には一滴の血も流れていない。誰もいないし、何も生まない。

 この自分を破壊しようと、トリシューラは決意した。

 この自己像は失敗だ、もう一度最初からやりなおして、もっと正しくて、もっとちゃんとした『姉』を作り出さないといけない。こんな不完全な自分が作り出しただなんて、きっとこの優しい姉は苦痛に思うだろうから。一番優しくて一番大事にしたい彼女に、もっと相応しい自分にならないと。

 恐慌を来し始めた思考の中で、どうにかそれだけを考えた。けれども鏡の中の自分をその硬い腕で壊しても、トリシューラの意識が砕けたりはしなかった。我に帰った時、目の前には右目を押さえてうずくまるコルセスカの姿があった。トリシューラは己の行いを自覚し、痛みと恐怖に震える『姉』を見て、それから自分が間違えたことを知る。

 この過ちに対しても、クレアノーズは大層喜んだ。

「過つこと、それこそが暗き願いを育む。取り返しのつかない失敗体験こそが心の奥底に強い呪いを植え付けるのよ。コルセスカも哀れなこと。創造主によって与えられた右目の傷は、永遠に刻まれて残る事でしょう。奇しくも一なるキュトスが愚かな槍神によって七十一の断片に引き裂かれ、魔女の姉妹へと不可逆の変化を果たしたように――そして槍神が永遠の後悔と嘆きを抱えて世界を跛行し、天と地に呪いをもたらしたように。ねえトリシューラ。後悔に苛まれる気分はどう? 消えない過去を呪わしく思う不快さを噛みしめている? その苦痛が怨嗟となって呪いを生むのよ。お前は確かに、呪術師として前に進んでいるわ。誇らしく、恥じなさい」

 優しい姉は、既にして独立した個性を持ったひとつの人格だった。彼女は残された左目でトリシューラを見つけると、途端に怯え、どこかへ隠れてしまう。当然の反応に、トリシューラは深く傷付いた気がした。そして、それすらも怯えるという規定の様式なのではないかと考えてしまう自らの空虚さに絶望する。

 過ちを取り消すことなどもうできはしない。それでも自分にできることを考えて、せめて彼女の失われた瞳の代替となる呪具を作ろうと思った。呪具の作成。それだけしかできることがなかったから、たった一つ残されたその手段に縋り付いた。縋り付くしかなかった。そして、それは失敗した。

 氷血のコルセスカは優れた邪視者だ。自分に足りない才能を持つ理想の姉を夢想した彼女にとって、それを一から再現することは困難を極めた。邪視の根底である眼球の再生は、並大抵の技術では実現不可能だったのである。そのためには【杖】だけでなく【邪視】の知識と技術、そして優れた適性が必要だったから。片方の才しか持たないトリシューラには到底無理な試みだったのだ。

 自分の無力が悔しくて、ただ惨めたらしく泣いた。その涙すらそれらしい素振りにしか過ぎないのだと理性が判断して、もっと悲しくなった。その悲しさまで信じられずに、トリシューラは無意味な行動を延々と繰り返した。泣き続けていれば、悲しみが本物だと証明できるような気がしたからだ。どれだけそうやって泣いていただろう。

 ふと、冷たさを感じて、頬に手をやると、流れ出した涙が凍り付いていた。はっと顔を上げると、そこには白い眼帯をした氷の少女が静かに佇んでいる。

 どうして彼女がここにいるんだろう。不思議に思って見つめていると、コルセスカは柔らかく微笑んで、トリシューラの頭をそっと撫でてくれた。奇妙に感じて首を傾げた。どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。

 決まっている。彼女はそうあるべく生まれたから。優しい姉。気高く美しい理想像。英雄譚の登場人物。だから自分に優しく、都合の良い存在でいてくれるに決まっている。

 ずっと心地よい感触に包まれていたいと願ってしまう。そんな甘やかな時間は、もう自分で断ち切るべきだと思ったけれど、彼女から離れるなんて寂しさには耐えられそうになくて。

 手を差し伸べられながら考えた。もっと強くならなければ。共に義眼を作りながら願った。力が欲しい。自分の足で立てる、確かな居場所を作らなければ。

 その日から、トリシューラの戦いが始まった。一人でも立てるように。自己を完成させて、クレアノーズお姉様の期待に応えられる最高の魔女になること。誰より優れた姉に劣らない、立派な妹になること。大切な人の為に、自分の為を追求しようと遠回りの決意をしてがむしゃらに走り抜けた。

 その過程でいつしかコルセスカとの親密な時間はこぼれ落ちていったけれど、それでも構わないと突き進んだ。振り向くよりも前に。ただ前に進むだけ。ふと気付けば、過去は息絶えた屍と同じものになっていた。大切なのは今この瞬間、そしてその先にある未来。振り返っても目に映るのは前に進もうとする自分だけ。私。わたし。トリシューラ。ただそれだけを突き詰めて、強固な自我を形成していく。

 

 男というものを見たのは、それがはじめてだった。

 キュトスの姉妹は女神の眷族。よって女性しかいない【星見の塔】で、男に関する知識はどうしても限定的なものになりがちだった。クレアノーズお姉様はその点においても抜かりが無い。時期を見計らって最適な資料をトリシューラに渡すと、こう囁いた。

「この中から、お前の運命を選ぶといいわ」

 リストに並んでいるのは、とあるプレーンで転生事故と呼ばれる時空情報流に巻き込まれた者たちの名とその詳細なプロフィールだった。

 悪辣にして聡明なるクレアノーズお姉様によれば。この呪われたプレーンと同一レイヤーに並存するとあるプレーンは末法の世であり、今世を捨てて来世に望みを託す者が後を絶たないという。

 日本、韓国、中国、台湾、モンゴル、インドネシア、カンボジア、シンガポール、タイ、フィリピン、ブルネイ、ベトナム、マレーシア、ミャンマー、ラオス、東ティモールなどの国々から千人もの候補者を選出し、その詳細なプロフィールをトリシューラに送信した。どれをとってもつまらない、傑出した人物など皆無のリストである。そしてそれこそがトリシューラにとって必要な人材であった。

「お姉様、インドからの候補者はいないのですか?」

 その問いを投げかけたのは、自らの名前がその国の神話において屈指の知名度を誇る破壊神の持つ槍から来ていることを――厳密にはその槍の神話的位相がこの世界のものと照応関係にあることを知っていたからだ。それこそつまらぬ問いだとでも言うように、銀髪銀翅の妖しき魔女は、清らかな良く通る声で答えを口にした。

「愚問よ、可愛いトリシューラ。あの仮想都市は遂に身体性と脳の全感覚を分離してひとつの完成された世界を構築してしまった。バーチャルリアリティに己の実体を投げ出した彼らは、私達【杖】よりも【邪視】や【呪文】の在り方に近い。サイバネティクスによる肉体侵襲機器を発達させ、現実を拡張させるアプローチを選択している東アジア諸国の転生者達こそ貴方の使い魔として相応しい」

 他世界への転生や転移に成功するしないに関わらず、その事故に巻き込まれれば情報体が流出し、別の世界に流れ着くことになる。そうして外の世界から漂着した情報構造体は古来より【墓標船】と呼ばれ、有益か無益かを問わず様々な情報をこの世界にもたらしてきた。【星見の塔】の技術をもってすれば、【墓標船】内部に蓄積されたデータから同一の存在を再構成することも不可能ではない。

 沼男あるいは沼女。スワンプマンとして再構成された外世界人を使い魔にする計画。

 【最後の魔女】候補者たちはそれぞれゼノグラシア、あるいはグロソラリアと呼ばれる固有の因子を保有した存在を使い魔として互いに競い合うことが想定されていた。外世界の因子を持つ転生者ゼノグラシア。転生者と同じ特異な因子を持つがこの世界で誕生した突然変異、異言者グロソラリア。どちらを使い魔に選ぶかはその候補者次第だ。

 トリシューラはそのリストを眺めて、自らの道を定める時が来たのだと悟っていた。結局、自分には人としての『それらしさ』が生得的にそなわっておらず、経験的に獲得することすらおぼつかない出来損ないのままだった。ならば、より広範囲から『人』のモデルケースを持ってきて観察し、自らに足りないものを手に入れればいい。足りないものは、いつだって自分の外側にある。

 それは多分偶然だった。真っ先に目に留まったその男は、他の使い魔候補と比べてもとりたてて目立った特徴が無かった。右腕が機械仕掛けであることすら、そう珍しい特徴ではない。その世界ではほとんど全身を義体化している者すら少なくはなかったのだ。それでも『彼』に強烈に惹きつけられたのは、そのぞっとするほどの無価値さゆえだ。

 空虚で無意味で、他のどの候補と交換しても構わないような余りにも低い存在価値。あらゆる呪力は意味とイコールだ。リストの候補者たちの呪力は多かれ少なかれ、様々な色合いを見せている。どんな転生者たちであっても、前世はそれなりの積み重ねがあるのだから当然のことだった。誰にでも呪力は宿る。

 しかし『彼』にはそれが希薄だった。というよりは、自らが持つ意味を、他者が持つ価値を、進んで希薄にしようとする性質を有していたのである。資料を読みながら、その凶暴で悪意に満ちた世界観がどのようなものなのかと半ば恐れ半ば期待している自分に気付いた。その性質は極めて邪悪。本質的に凡庸で、それゆえに怠惰さと俗悪さが良い具合に混淆した低劣な人格が形成されている。まさしく悪魔そのものであり、魔女の使い魔としては申し分ない。

 それからずっと、『彼』との出会いが楽しみになった。なにしろ初めて飼う事になる使い魔だ。座学においては【邪視】よりはましだったが、【使い魔】の才能も豊かとは言い難い。初めての実技、初めての飼育。それも高い知性を有した転生者である。これは外宇宙の生物をペットにするのにも等しい行為だ。

 どんな風に名前を呼んであげるのがいいだろう。呼び捨て? それとも愛称? 『彼』の母語は敬称が豊富だ。どんな風に呼ぶかで距離感やこちらへの印象も変わってくるはず。色々な候補を考えて、ああでもないこうでもないと口の中で吟味する。自分が新しい名前をつけるのもいいかもしれない。
 食事はおいしいものを作ってあげよう。服も綺麗なものにしてあげて、住むための部屋も快適に整える。もちろん病気や怪我はしっかり治してあげないといけないし、トイレのお世話もしっかり責任をとるつもりだ。何かあった時の為にずっと目が届くようにしておいて、叱るべき時にはしっかりと叱って躾けも完璧に。そうやって一生懸命に面倒を見てあげれば、きっとすぐに懐いてくれるに違いない。目を閉じれば、主人を慕って忠実に役目を果たす、強くて可愛い使い魔の姿が浮かび上がる。

 あまりにも『彼』の事を考えていたせいか、気がついたら資料を参考にして精巧な模型を幾つも作り上げていた。実益を兼ねた趣味だったけれど、どうしてかその作業だけは一切の実用性を考えずに没頭できた。平凡な男性型の素体にこれが似合うんじゃないかと空想を膨らませて、いつしか一から型紙を引いて裁断、縫製と作業を重ねてしまっていた。気がつけば幾つもの着せ替え人形が出来上がり、丁度良いとばかりにそれらを相手に主従関係の予行練習を行う始末。

 それが幼少期に通り過ぎたはずのおままごとの延長だと気付いて、遠い記憶、『姉』と共に空想の中で戯れたことを思い出す。

 もしかしたら、『彼』と出会うことで、いつか遠い思い出の中に置いてきてしまった安らぎを取り戻せるかも知れない。あの冷たく優しい氷の掌が頭を撫でてくれたように。自分も、己の庇護すべき対象を慈しんであげたいと思った。ずっと『妹』になろうとしていた自分に初めてできる、『下』の存在。

 どんな風に衝撃的な出会いを演出してやろうか。二度と忘れられない、とびきり鮮烈な体験を与えてあげたい。それでいて、自分の為にもなる合理的な意味内容を含んでいると良い。トリシューラという私らしさを最初に提示して、自己紹介に変えてしまおうと思いつく。その演出を考えながら、知らず知らずの内にトリシューラの表情に笑顔が生まれていた。ずっと鉄面皮と揶揄されてきた自分に笑顔の作り方を教えてくれたのは優しい『姉』だ。ふと考える。今の自分は、一体誰によって形成されているのだろう。そして新しい価値観を知るための『彼』と出会った後の自分は、一体どうなってしまうのだろう。

 ――それは果たして、自分なのだろうか。
 そして【最後の魔女】選定が開始され、トリシューラは『彼』に出会った。

 最初にマーキングをしたら、後はじっくりと観察しながらその性質を確かめる。脆弱な転生者がすぐに死んでしまわないように、それでいて安易に頼られないように密かに暗躍し、地上と地獄の双方を敵に回しての大立ち回り。準備は万全。計画は綿密。あとは転生者が戦いの中で強く成長し、彼女が目指す【完全者】への道を一歩踏み出してくれれば本格的な接触と共闘、そして使役の段階に入ることができるはずだった。聖騎士や魔将たちとの激しい戦いや計画の準備で身動きがとれない間にも絶えず『彼』の動きを観察し、その戦いの履歴を眺めていく、のだが。「おや?」とトリシューラは首を捻ることになった。半年間の『彼』の履歴は戻らなくなったばね仕掛けのように役立たずで、期待した成果の一割にも届かない。何故だろう。こんなはずでは。

 そうしている間に、当面の敵と見据えていた【公社】が動き出し、更には懐かしい『姉』までもが現れて『彼』に接近を始めてしまう。

 何もかもが上手く行かないまま、大幅な計画の変更を迫られて必死に状況に食らいつく。それでもどうにか『彼』と当初予定していた関係性を築けそうな所まで漕ぎ着けた。だがその後、またしても想定以上に厄介な横槍が入り、トリシューラがはじき出されたその場所に、いつの間にか『姉』が居座っていた。なんだそれは、聞いてない、抜け目なく隙間に入り込んでおいしいところだけを掻っ攫うなんて根性が悪すぎる。もしかして私自身の性悪さまで投影してしまったのだろうか。そんな風に混乱して、どうすればいいのかわからなくなって、ああそうかと天啓が舞い降りた。

 だって彼女は理想の私だ。私にできないことができる、私よりも優れた私。
 二人を並べて吟味したなら、選ばれるのはあっちに決まっている。私だってそうするだろう。

 だって私は、彼女みたいに立派な存在になりたいのだから。
 そう気付いた途端、自分が自分であると、信じられなくなった。

 度重なる【鮮血呪】の濫用で、ただでさえあやふやになっていた自己の輪郭が崩れていく。壊れていく。終わっていく。私なんていらない。トリシューラはがらくたのぽんこつで、頭の中はからっぽのがらんどう。心の中には明滅する信号が飛び交うだけ。どんな人にも成れはしない、役立たずのスクラップ。

 薄れていく意識の中で、ふと思い出す。
 いらなくなったお人形は捨てられて、子供の頃に見えていた妖精さんは大人になったら見えなくなってしまう。小さな私を『シューラ』と呼んで可愛がる、青い瞳の貴方はなんて名前だったっけ――?

 裏返しになるイマジナリーフレンド。鏡写しになった姉妹のうち、本物は果たしてどちらだったのか。鏡の中で砕け散ったトリシューラの姿にノイズが走って別の姿と入れ替わる。白銀の髪と青い瞳。赤い髪と緑の瞳。ネガポジの風景の中で、誰かの想像上の妹をモデルに製造されたアンドロイドの設計図が浮かび上がる。

 暗く深い闇の中。
 足場の無い不確かさに震えながら、果てしない底へと落ちていく。

 

 初めてその人形のような瞳を見た瞬間、仲良くなりたいと、幼い感情が湧き上がった。
 今となっては誰が誰に抱いた気持ちなのかも分からないけれど、ただその想いだけは手放したくない。そんな思考が泡となって浮かんで、何処かに漂い消えていった。

 

 あらゆる光から遠ざかった、そこはまるで深海のような空間だった。

 といっても、深海の環境と言って一般的に想起されるような海底都市の光に溢れた光景や仮想投影された青空とはまるで印象が異なる。そこは外圧と内圧が鬩ぎ合い、自意識をすり減らすような極限の環境。心の中の荒野。そこには何も無く、あらゆる光を飲み込む闇だけがある。ただ自分があるということだけを頼りに先へ進んでいく。と、そこまで考えたところで騒々しい抗議が耳に突き刺さる。それ以外にも頼れるものはまだあるんだった。

(まったくもう、シューラを数に含めないなんて、失礼しちゃうよね!)

 相変わらず態度の大きい二頭身のデフォルメキャラクター。ちびシューラがそこにいた。ただし、俺の瞳の中ではなくて、右肩の上にちょこんと座っているのがいつもとは違う点だ。

 俺達は無限にも思える闇の中を潜航していく。首筋の噛み痕から二筋の血の管が上方向に伸びていて、それが今の俺の命綱。そして俺の周囲を衛星のように周回している氷の球体。これが不可視の結界を形成し、外圧から俺の精神を保護しているのだった。

 この暗い深海はトリシューラという魔女の内的宇宙である。俺がそんな場所を訪れることができている理由は一つ。コルセスカのお膳立てによるものだ。催眠術の多くは邪視系統に属し、高位の邪視者であるコルセスカもまたこの呪術を使うことができる。呪術への抵抗がほとんど皆無の俺はあっさりと眠りにつき、気がついた時にはこの闇の中に存在していた。

 俺達はトリシューラの精神に侵入し、沈んでしまったその心を再び引き上げようとしている。無論、俺一人ではこのような芸当はできるはずもない。コルセスカの呪術師としての技量と、もうひとり、トリシューラという人物を知り尽くした存在がいたからこそ可能となったのである。そのもうひとりとは、他でもない。

(はーい、シューラだよー!)

 緊張感に欠ける返事をしているちびシューラは、トリシューラであってトリシューラではないのだという。

(いま、ちびシューラはトリシューラから切り離されてるの。強制的に同期を切断されるとびっくりして自動停止しちゃうんだよね。今は同期していないから、ちびシューラは独立してアキラくんの中にいるんだよ。こういう時の為にね)

 コルセスカに彼女の存在を話した所、素早い処理で即座にちびシューラは復旧した。またしても無許可で噛まれたことは置いておくとして、それによってトリシューラへのアプローチが可能となったわけである。

(総体としてのシューラの自己認識が致命的なダメージを負った時、『別の自己』として切り離して全体の保全を図るためのバックアップ。それが私、ちびシューラ。身体性のデフォルメ、名前の変更。限りなく同じでありながら別の存在でもある、『最初の妖精』なんだよ)

 えっへん、と胸を張る自称妖精だが、威厳などは皆無だった。
 闇の中を進んでいくと、どこからともなくトリシューラの声が響いてくる。反響する音は複雑に絡み合い、詳細がはっきりとは聞き取れない。それでもどうにかその内容を繋いでいくと。

「これは、あいつの過去の記憶か?」

(アキラくんサイテー! 人の心の中を覗くなんて恥知らずも良いところだよ! シューラの気持ちを考えてみたことある? やらしい、覗き魔、変質者、けだもの、浮気者ー!)

「すげーなお前本当に尊敬する」

 この厚顔無恥さ、あやかりたい。
 暗黒の中を流れていく声を背後にしながら、奧へ奧へと泳いでいく。足だけで進むのは中々しんどいが、幸い周囲の助けもあってある程度は自動的に潜航してくれるのが救いだった。

 下から無数の泡が浮かび上がってきたかと思うと、あっという間に俺の周囲を取り囲む。全方位が泡だらけになり、その浮力で押し返されそうになってしまう。応戦するように、氷とちびシューラが氷柱と光線を発して泡を潰していく。弾けた泡から、トリシューラの声が解き放たれていく。

『本当はすぐにでも迎えに行きたかった。でもそれは計画外だったから我慢した。言い訳みたいで口には出せなかったけれど、ずっと気にしていたんだよ。それに、鮮血呪の反動は想定していたよりずっと大きくて、私は半年間ずっと不安定なままだった』

 暗闇の中に、知らない光景が浮かび上がる。
 重火器を構えたトリシューラがキロンに銃撃を加えている光景。

 青い花の庭園で、何処かで見た人狼が異獣らしき金色の猿と対峙している光景。

 狼のような強化外骨格が縦横無尽に暗い迷宮を駆け巡り、目深にフードを被って大鎌を振るう死神のシルエットと激突し、更には豪奢な少女趣味の服を纏った、おぞましく途方もなく巨大な何かの攻撃を受けてバラバラになる。

 傷だらけの身体を引きずっていくトリシューラの各部から、断線した人工筋肉繊維やメタリックな内部構造が覗く。

『本当の私は自分に自信が持てなくて――なんて、冗談みたいな本当の話。自分がどういう像を持っているのかわからない。どんな声で、どんな口調で、どんな顔をして会いに行けばいいんだろう。私はどんな性格で、どんなことを考える人格なの? とてもじゃないけど正解がわからない』

 次に暗闇に浮かび上がったのは、学校の教室めいた空間だった。大小様々な人形で埋め尽くされた異様な空間。

 教卓で鞭を執るのは白衣を纏った恐ろしくシャープな印象の女性だ。彼女が口を開く度、最前列に座るトリシューラは小さく縮こまっていくようだった。周囲にいる人形達がそれを見てカタカタと笑い出す。

『準備に時間がかかったっていうのは本当。でも、それは自分を半ば失いながらの作業だった。むしろ、その作業を続けることそれ自体が自己を回復させるための儀式だった。目的に向かって行動する私は前と同じように私のままである。そんな風に自分に言い聞かせるための』

 今度の光景は、いつか巡槍艦の内部で見せられた、ミニチュアの第五階層だった。未完成のそれを、虚ろな瞳で淡々と作り上げていくトリシューラの姿に、退路のない切迫感を見出す。

『私が私としての自信を失っている状態を、アキラくんに見られたくなかったの。だって、あまりにも余裕が無くて、みっともないでしょう?』

 鏡を割る。トリシューラが、繰り返し繰り返し、大量に用意した鏡を割り砕く。日々のルーチンワークとして毎日それを継続するその様子は、狂気めいた行動というよりは宗教的な儀式を思わせた。

『立派で強くて格好いい、アキラくんが心の底から魅力的だって思えるような、そんなご主人様になりたいって、そう思ったのに』

 鏡の前で、次々とトリシューラの姿が変化する。途方もない衣装持ち。購入したもの、自分で作ったもの。ああでもないこうでもないと悩みに悩んで、終わりはいつも自分の否定。鏡が割れる。

『嫌だ嫌だ、私はがらくたでもぽんこつでもない! 誰からも認められる、アンドロイドの魔女なのに。どうして誰も私を認めてくれないの。分かってくれないの』

 俺の顔が映し出されて驚いたが、その後ろの地面を見て気付いた。これは第六階層で、トリシューラに押し倒された時の彼女の視点だ。暴言を撤回しろ、自らの存在を認めさせてやると宣言した、意志の強い瞳。
 ああそうだ。あの時から気になり始めたんだ。彼女が見ている景色が、一体どんなものなのか。

『みっともないところ、格好悪いところばかり見られてしまうのは何故? このままじゃ嫌われちゃう。蔑まれていらないって言われて認められずに居場所を無くしてしまう。そうして、私はいなくなるんだ』

 映し出されたトリシューラの全身にノイズが走り、消えて無くなる。替わって登場したのは、レオやカーイン、何故か例の店員さんに【公社】の破壊狂アニス、キロンまでもが現れて、最後にコルセスカが映り、やがて彼女以外の全てが消える。

『セスカにとられるのは嫌! 上手に立ち回って取り返すんだ。だって私はセスカみたいになるんだもの!』

 そして向かい合う俺とコルセスカ。ゆっくりとコルセスカが近付いていき、やがて二人の距離が零になる。
 絶叫が響く。

『嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! どうして私じゃないの、どうしてセスカなの? 私は頑張ったのに。一生懸命、セスカに褒めてもらえるように、セスカみたいになろうとしたのに』

 破綻していく言動と共に、暗闇の全てがひび割れる。視界に映る全てが亀裂の入った鏡となり、断片化されたトリシューラがそれぞれに絶叫を重ね、苦悶の合唱となった。

『行かないで、私を置いていかないでよ、お姉ちゃん――!』

 いい加減俺は――というか俺達は我慢ができなくなりつつあった。首の繋がりから怒りの感情がこちらにまで流れてきているのだ。今や俺達は感情を共有している。

 ああもう限界だ。それでも今の俺には両腕がないから手を伸ばして引き寄せることだってできやしない。
 だから俺は、可能な限り息を吸い込んで、力の限り声を張り上げる。

「いい加減寝てないで起きやがれ、このぽんこつアンドロイド!」

「誰がぽんこつだって――!」

 ぽんこつと呼びかけると、拳骨が返ってきた。
 いや冗談ではなく、一面の鏡が一斉に砕けたかと思うと、その向こう側から飛び出してきたトリシューラが勢いよく俺に飛びかかってきたのである。防御も回避もできず、顔面に硬く重い拳打が直撃する。凄まじい衝撃に身体が泳ぐ。うん、多分この言葉には反応するだろうな、と予想はしていたが、ここまで効果覿面とは。

 自尊心と劣等感をまぜこぜにして敵意と怒りで彩ったらこんな表情になるだろうか。いつもの整った微笑とはまるで正反対の、凄まじい形相でトリシューラがこちらを睨み付けていた。

「――何だそれ、そっちの方が断然良い面構えじゃねえかよ」

「わざわざこんな所まで、喧嘩売りに来たの?」

「ご明察。流石に話が早い」

「え? 本当に?」

 目を白黒させるトリシューラに、俺は首を振りながら体勢を整えて向き直る。少しばかり早とちりをしているらしい彼女に、細部の訂正を告げるために。

「ただし喧嘩の相手は俺じゃない。トリシューラが戦うのは、こっちの方だ」

 言うが早いか、首筋の繋がりを経由して高密度の呪力が深海まで到達する。青い輝きは俺の周囲で渦を巻くと、そのまま一点に収束していく。その一点とは、俺の目の前で静止していた氷の球体。コルセスカが愛用している宝珠型の呪具だ。そのシルエットが一瞬で人型を取り、次に瞬きをしたときには白銀の髪の魔女が出現していた。

「セスカ、どうして」

「私のように高密度の呪力体が侵入すれば、貴方の自動迎撃システムが少し煩いですからね。全て力ずくでねじ伏せることも可能でしたが、それで貴方が傷付いては本末転倒です。そこで、貴方自身であるそこの小さなクランテルトハランスと、その手引きで呪力がほぼ皆無なアキラを先に侵入させて裏口を作ったわけです」

 今回の俺の役割は、さしずめ英雄を内側に隠した木馬といった所だろうか。となれば、後は彼女に任せればいいわけだが、その前に言っておくことがある。コルセスカの前に出て、はっきりと宣言する。

「どうも、お前は俺がコルセスカを選んだと思い込んでいるようだが――」

「選んだでしょう。何を言っているのですか貴方は」

 後ろから耳を引っ張られて言葉を中断される。すみません、言葉のあやです。複数の方向から白い目で見られているのを感じつつ、急いで訂正する。

「――選んだが、その決定はこのたび白紙に返すことに決めた」

「死んで下さい」

「は? 死ねば?」

(シューラ不思議なんだけど、どうしてアキラくんは生きてるの?)

 全方位から生存を否定された。コルセスカは事前に説明した時には頷いてくれたのになんだこの仕打ち。

「理解はしましたが納得はしていません。一生許さないので覚悟するように」

「はい、肝に銘じます――それで、だ。よく考えたら、二人はもっと相応しいやり方と結果があるんじゃないかと愚考したわけだ。結論がよりはっきりとする、明確で覆しようのない方法が」

 俺の物言いが不明瞭だったせいだろう。トリシューラがいぶかしげに眉をひそめる。疑問に答えるべく、俺は続けて声を張り上げた。

「答えは一つだ。トリシューラ、俺は選ばないことに決めた」

「え――はあ?」

 トリシューラはわけがわからないと、呆けるよりも怒りを表に出して疑問符を突きつける。あまりにも、今までの彼女たちを馬鹿にしきった答え。それでも俺は言葉を連ねる。

「俺が選択し決断することが自明のものであるかのような状況が既におかしいんだよ。何が葛藤だ馬鹿馬鹿しい。ジレンマ? 二者択一? そんなストレスと真面目に向き合う必要性がどこにある? 死ねはこっちの台詞だクソが」

「じゃあアキラくんは、どっちも選ばないってこと? これまでのこと、全部ふいにするっていうの?」

「そうだ。お前らと過ごした時間になんて、大した価値は無いからな」

「そんな、ひどいよっ! アキラくんはそういう人だって知ってるけど、言い方ってものが」

 本気で傷付いたように抗議するトリシューラ。後ろからぐいぐいと耳を引っ張る力を感じるが、多分これ痛いのはコルセスカさんの耳ですよね?

「一体俺に何を期待してるんだ? 配慮のできる優しさとか強い意志力とか最適な答えを導き出す知性とかか? ねえよそんなもん。主体性も無いから決断とか無理。最初にコルセスカに誘われたとき保留したろ? 人間性なんてそうそう変化しないから、今また決断突きつけられてもやっぱり決められないってことだ。相手が悪かったなトリシューラ。選べない相手に選択を強いても最後まで選べないだけ。無いものを精神論で捻り出したりはできない。この世界ではできるのかもしれないが、俺は異世界出身なんで無理だ」

 背中に強烈な一撃。背骨が折れるかと思った。選んだ過去を無かったものとして喋る俺に、冷たく静かな怒りがぶつけられる。

「開き直るな! ただの屑じゃないそれ!」

「そうだよ前に言わなかったか? 俺は屑だ。――だからトリシューラ。お前が選べ」

「――私が、選ぶ?」

 思わぬ選択肢を突きつけられて、少女は緑色の目を瞬かせた。考慮の外側――というより、当たり前のようにしていることを、もう一度やれと言われたような不条理感を味わっているのだろう。

 確かに彼女は俺を選び、俺に選ばせる為に積極的に行動してきたが、俺に言わせればまだ手緩い。
 この二人は、俺の事を考えすぎだ。

「そうだ。お前がだ。他ならぬトリシューラが自分で選ぶんだよ。俺なんかに選ばれるんじゃない、他ならぬ自分自身の手で決定しろ。戦って勝ち取れ、欲しいなら奪って自分のものにしろ。選ばれる側じゃなくて、選ぶ側に回るんだ。他人の行動に生死とか自己の存在を規定され続けるなんて、そんなストレスに耐え続ける必要なんてない。せめて自分が生きるか死ぬかくらいは、自分の行動如何で決定されるべきだ」

 理想論だ。実際にはそうそう上手くいかない。それでも、己を尊ぶ心は、肯定されるべきだ。

 コルセスカがそうであるように。レオがそうあろうとしているように。今、誰もが苦境に立ち向かっているように。半年前のアズーリアが、自らの生存確率を下げてまで俺に手を差し伸べることを選んだように。

「これは最初から、俺じゃなくてトリシューラとコルセスカが選ぶ話だったんだよ。俺はあれだ、演劇で言うところのマクガフィンって奴だ。替えの効く舞台装置。重要なのは主役がどう行動するかだ」

 なにせ俺には主体性というものが無い。目的意識も希薄だ。転生したはいいがどうやって生活をしていけばいいのかも分からずその辺のごろつきに成り果てる有様だ。精神的に大分参ってるから、適当に甘い言葉かければすぐに転がって腹を出す程チョロい。俺の決断なんてタイミング次第で簡単に揺らぐ適当で価値の無いものだ。トリシューラが言うとおりの駄犬。いやそれ以下だ。

 ――まあその分、誰にでも尻尾を振る傾向があることは認めよう。が、それなら尻尾を掴んで手許に引き寄せればいいだけだ。コルセスカに目移りしていることくらいどうってこと無いだろう。強引に奪ってしまえばあとはトリシューラのものになる。勿論、その逆も然り。

「仮に俺がコルセスカを選んだとして、だから何だというんだ? 俺が誰かを選んで、トリシューラが選ばれなかったからといって、トリシューラの価値が損なわれることは無い。そう思っているならそれは錯覚だ。その二つは独立している」

 これはレトリックだ。一般的には独立しているが、競争関係にある両者の価値は相対的に変動することもある。その二つの条件を、俺は強引に錯誤させた。屈折し破綻した論理、しかしそのまま結論にまで持っていく。

「トリシューラの価値はトリシューラが決めればいい。他人のつけた値札なんて無視、いやいっそ剥がせ、拒絶しろ。自分の値札には好きな値段を書き込んでしまえ」

 俺は、この価値観だけは彼女と共有したかった。彼女の力強いエネルギーに溢れた姿を見て、彼女とならこの言葉に、たとえわずかでも共感し合えると信じた。

「俺の意志なんてどうでもいいものを気にするな。そんなものに顧みられるだけの価値は無い。トリシューラは自分の事だけを考えろ」

 俺の価値観では、心や意思、知性や判断なんてものは全て脳の活動に伴なう随伴現象に過ぎない。火を起こしてできる煙とか影みたいなものだ。

 しかし俺にとってはそうでも、この異世界で生きる彼女にとっては違う答えがあるのかもしれない。俺の内心には尊重される価値が無いが、彼女の内心はそうではない。たとえその存在が虚構であっても、その虚構こそが今このときに必要とされているものだからだ。そこに需要があるのなら、空虚な価値は本物の価値に変わる。

 本来は交換できないものを、交換できるものに変えること。
 生贄を捧げて、人知を超えた神秘的現象を引き起こすこと。
 どうやらそのような行為を、人は呪術と呼ぶらしい。

「トリシューラに心はある。これからお前自身がそれを証明する。今この瞬間に下した決断と意思がそれを裏付ける。前を見ろ、現時点での自分を感じろ」

 脳の生化学的な反応を測定したところで、そこから見出せるのは一瞬前の過去の記録だけだ。その先をシミュレーションした所で、それは過去から演繹された、まだ現れていない未来に過ぎない。データの蓄積という過去から未来への時間的な秩序の中に、果たして心は宿るのか?

 俺にはそんなものは無いという結論しか下せない。それが俺という人間の限界で、脳を制御することに慣れきった人類の末路だ。
 おそらくアンドロイドであるトリシューラも同じ病理を抱えている。心と言う最後の聖域を信じきることができずにいる。

 だが、トリシューラはあの世界ではなく、この世界で創られたアンドロイドだ。呪術が強く作用する、神秘の世界。ならば、一縷の望みがある。
 必要なのは、自分と言う意識が現在に――いま、ここにあるという確信なのだ。

 その為に俺がトロフィーとして必要だというのなら、幾らだって使えばいい。そのくらいの肩入れは、ごくありふれたことに過ぎない。

「だからトリシューラ、俺を攫え。コルセスカから略奪してみせろ」

 俺がこの世界に転生してから紡ぎ出した言葉の中でも過去最低に酷い台詞が口火となって、その戦いは始まりを告げた。

 俺の長い口上を聞きながら、トリシューラは何かを堪えるようにぶるぶると震えていたが、俺の酷すぎる要求を聞くや否や、かっと目を見開いて絶叫する。

「この――アキラくんのヘタレ、弱虫、無責任、最低男! もうここまで言われて黙ってられるか、セスカをぼっこぼこにやっつけた後でアキラくんを飽きるまで足蹴にして、気が済んだら捨ててやる――!」

「貴方にそれができますか?」

 俺の前に進み出たコルセスカが、その指先に青い燐光を灯して不敵に挑発する。漲る圧倒的な自信。その威圧感は勢いだけのトリシューラを思わずたじろがせるほどのものだった。しかし、トリシューラは深く息を吐いて、冷静に高い位置に浮遊する相手を見上げた。

「そっか。気にくわないけど、アキラくんの言うとおりだ。最初から、こうしてればよかった」

 その両腕の周りに赤い光が集まっていき、形成されていくのは見たこともない形状の重火器だ。巨大な砲塔から内側に伸びたグリップを両手で握りしめたトリシューラが、砲口をコルセスカに向ける。光の粒子が細かな部品を次々と生成し、それらが一瞬で組み合わさっていく。トリシューラの背中に、巨大な鋼の円環が組み上げられたかと思うと、それは強烈な光を放つ。

 それは神仏が発する後光の如く。機械仕掛けの光背から不可視の推力を発生させたのか、彼女の重量級の全体が急激に浮上していく。
 先に上をとったトリシューラが、両腕から砲弾を撃ち出す。

「私たちは、アキラの意思を気にしすぎた」

 対するコルセスカは、顔色一つ変えずに眼前で砲弾を停止させる。圧倒的な威力の質量も、彼女の前では運動エネルギーを奪われて無力な重量物と化す。初撃が凍結することは予め織り込み済みだったのか、続けざまの砲撃が位置を変えて、タイミングをずらして、緩急を加えて放たれる。

「お互い恨みっこなし、勝ったほうがアキラくんを手にする」

「何か勘違いをしているようですね。『これ』は既に私のものです」

 全ての攻撃をわずかに視線を向けただけで静止させていくコルセスカが、何を思ったか俺を引き寄せて、強引に片腕で抱きかかえる。

「欲しければ、奪って見せなさい」

 なんだこの構図。
 自分でけしかけておいてなんだが、凄まじく微妙な精神状態である。この感情はコルセスカにも流れ込んでるはずなのだが、不思議と彼女は「どうです羨ましいでしょうフフン」みたいな表情だった。見せつけるようにこちらの首筋の噛み痕を指でなぞるコルセスカ。全身に走るぞっとした寒気。しかし効果は覿面だった。トリシューラは面白いように憤激している。

「アキラ。私が勝ったら、その鬱陶しそうなクランテルトハランスを追い払って差し上げます」

(えっ、こっち?)

「脳内彼女なんてもういらないでしょう。それもトリシューラに無理矢理植え付けられたような理想とはほど遠い代物。全く、やり口がいちいち狡くて小さい。まあトリシューラらしいと言えばらしいですが」

「言わせておけばっ! こっちにだって事情が!」

「まあ鬱陶しいと言えば鬱陶しいな」

「アキラくんまでっ! 酷い!」

 酷いのはどっちだ。頭の中を常時監視される方の身にもなってみろ。しかしコルセスカが勝ったらこの状態から解放されるわけか。それはそれで魅力的だが、少し寂しくもある。

 が、俺はあえて気持ちの片方だけを表に出した。

「あー、なんだかコルセスカを応援したくなってきたなあ」

「ふふ、そうでしょう。そら見なさいトリシューラ! 彼は私の方が良いと言っていますよ!」

「最悪! アキラくん最悪! もうセスカもアキラくんも嫌いだー!! 死ねええええ!!」

 光背から無数の光線が放たれて、次々とコルセスカに襲いかかる。ぐっと強く抱きしめられる感触と共に凄まじい速度で景色が動いていく。高速で飛翔するコルセスカの背後を、無数の熱線が蛇のように追いすがる。

 次々と追撃を放ちながら、トリシューラが手をぶんぶんと振り回して叫ぶ。

「セスカの馬鹿ー! アキラくんを離してー! 離さないと、昔セスカが書いてた恥ずかしい小説をネットで公開するからー!」

「あれなら、既に自分で公開していますが?」

 衝撃の事実に、俺とトリシューラの精神が震撼する。トリシューラの精神世界である深海そのものに激震が走った。

「昇華してた?!」

「というか今も連載継続中ですが」

「まさかの現在進行形!」

「へえ、どんなの?」

 俺が訊ねると、コルセスカは空いた片方の手から放った青い光で高熱の光線を迎撃していく。激突した光が凄まじいエネルギーを放って消滅する。

「ええとですね、最初にお話ごとに大まかな筋書きとキャラクターシートを用意するんです。設定したルールに従ってプレイするアナログゲームを物語り仕立てにしたもので――」

「リプレイ?」

「――風の小説です。ダイスロールであらゆる正否が決定するので、私にも予想できない展開になったりしてはらはらします」

「手の込んだ独り遊びだな」

「独り遊びは得意分野ですので」

「ちょっ、仲良く話すのやめてってばー!」

 戦いの最中に緊張感の無い会話を始めた俺達を咎めるトリシューラだが、敵意や怒りよりも幼稚な所有欲や独占欲が前に出てきている気がしなくもない。

「話題を提供したのお前だろ」

「みんな死ね!」

 光背がばらけて無数の実弾となり、弧を描いて放射状に襲いかかってくる。コルセスカはそれを凍らせようとするが、その寸前で弾丸が爆発。熱や破片ではなく、漆黒の煙幕が俺とコルセスカの視界を遮る。

 視界を遮る。単純にして効果的な邪視対策は、しかしあっさりと破られる。周囲の微粒子そのものが凍結していくと同時に、生成された鋭利な無数の氷柱がコルセスカの上下左右に槍衾となって突き出される。更に、幾本もの氷柱を高速旋回させることによって旋風を生み出し、一瞬で煙幕を晴らしてしまう。

 だが一瞬の間隙を、トリシューラは無駄にはしなかった。
 深紅の髪をなびかせて、背後から赤熱するナイフを手に強襲するトリシューラ。最大の死角を狙ってくることを読んでいたコルセスカが、振り向きざまに邪視を発動させる。

「このメンヘラレイヤーッ!」

「この邪気眼ワナビッ!」

 その概念、この世界にもあるのかよ。この世界での罵倒に対応する日本語が選択されたのだと思いたいが、ゲームとか普通にある世界だし多分そのままの意味なんだろうなー。きぐるみとか邪視って言葉、もう真顔で口にできない。

 激突の結果、軍配が上がったのはコルセスカの方だった。あらゆる攻撃を停止させる凍結の視線に正面からぶつかれば、この結末は必然とも言える。だが、勝利したはずのコルセスカの表情に焦り。凍結したトリシューラの姿が明滅し、歪んで消える。その内側から出現したのは、薄い皮膜を纏った流線型のミサイルかロケットのような機械。

「映像投影型の光学迷彩っ?!」

「正解。で、こっちが本命。メタマテリアル製のこの装置は、あらゆる電磁波を回折させる」

 声だけが選択してこちらに届く。コルセスカの胸から生えた、赤熱する刃。気がついた時には勝敗は決していた。驚愕の気配が身体を通じて伝わってくる。振り向いても、トリシューラの姿はまるで見えない。

「どうして――私の熱源探知は、赤外線をはじめとした電磁波だけでなく、周囲との温度差を測定して――」

「知ってるよ。その義眼のセンサー部分は私が作ったんだもの。でもさ、だったら私が熱源として感知できなくなればいいわけでしょう」

「まさか、ノシュトリお姉様の熱遮蔽装置サーマルクローキングデバイス――完成していたのですか」

「だから、メタマテリアルだって言ったよ。このフォノニック結晶は原子の振動を光を回折させるようにねじ曲げて、一方向に効率よく進ませることができる。あとはそっちのデコイに私と同じだけの熱量と映像を欺瞞させて、私はその隙に奇襲すればいい」

 事も無げに言うが、熱学制御は俺のおぼろげな記憶の中に残っている前世の常識でもかなり高度な技術だった気がする。トリシューラは、一体どれだけの技術力を有しているのだろう。

 刃がゆっくりと引き抜かれると共に、背後に出現する気配。光学的にも熱学的にも露わになったその姿は、どこか晴れがましい。整った顔立ちを勝利で彩って、トリシューラは不敵に笑って見せた。

「参ったか」

「参りました」

 どこか満足したような優しい微笑みを浮かべて、氷の少女は俺の身体を手放した。応じるようにして勝利者がナイフを捨てて、空いた両腕を開く。体当たりを仕掛けるようにして勢いよくこちらに抱きついてくる彼女の表情は、満面の笑み。内心の読めない柔らかな微笑みではない。激しく獰猛な、超高熱を一点に集中させたかのような感情の発露。

 鮮血で濡れた、それは猛々しい戦女神の笑顔だった。

 

 問題を設定すれば、あとはその解消が状況を変化させる最初の一歩となる。
 敵意や憎しみ、対抗心や怒り、嫉妬や劣等感。
 尊敬や親愛、慈しみや庇護欲、渇望や希求。

 これらは矛盾せず、一人の人物が抱きうる感情である。
 好意と嫌悪すら同時に存在できる人間の精神は、単純なデータの形式をしていない。無数のタグにまみれて混沌としたデータベースは、正確な管理を心がけないとすぐにその元の形がわからなくなってしまう。

 これは冷たいようで情の深い少女の、仲の悪い妹に対してのメッセージだ。この場面でより重要なのは俺などではない。俺が何かをするまでもなく、トリシューラは既に誰かにとっての特別だ。

 トリシューラにとってコルセスカは、交換不可能な経験を共有してきた姉妹であり、その存在を脅かす競争相手でもある。その二つの事実は相互に排除しあう関係のようだが、矛盾せず並立している。

 トリシューラは認められたいと願った。それは、具体的に誰にだろうか。世間、世界、社会、そういう漠然としたものではない気がした。おそらくそれは金銭という形で数値化できるが、今すぐに反映される指標ではありえない。そのことを本人もわかっているはずだ。

 それならば、俺に選ばれることが彼女の存在を揺るがす重要な出来事なのだろうか? ありえない。あってたまるかそんなこと。その結論が否定されるべきものだとすれば、肯定されるべき結論とは何か。最適な答えを、俺は一つしか知らない。他にもあるかもしれないが、知らないのだから知っている範囲でどうにかするしかないのである。そう息巻いて説得すると、彼女は大きく溜息を吐いて最後には頷いてくれた。結果がどうなっても、一生許さないという恐ろしい宣言をして。

 トリシューラを唯一の存在として受け止めるとすれば、その第一の候補は競争相手であるコルセスカをおいて他にはいない。そして、コルセスカにとってもトリシューラは姉妹にして無二の宿敵なのだ。

 この関係性は、この上ないほどにトリシューラという存在を強固に規定している。競争という枠組みと双方向のまなざしが関係性を形成する。二人が個別にあるのではなく、対峙し、時に並び立つ関係であるからこそ、お互いにとっての特別さが際立つ。特別さとは、相対的な関係性の中にこそ立ち現れる。

 お互いが、お互いにとっての鏡になるように。
 二人でいることがなによりの存在証明であり、お互いを認め合うことこそが本当に必要とされていた承認だったのだと、俺はそう確信している。

「すっかり強くなりましたね。もう、私なんかが心配する必要がないくらいに。――約束通り、アキラは貴方のものです。足蹴にするなり奴隷にするなり、好きにしていいですよ」

 胸の傷をあっさりと塞いだコルセスカは、しかしはっきりと負けを認めてトリシューラに俺を譲り渡した。もののように扱われる感覚に、背筋をぞくぞくと震わせている。いや、俺じゃなくてコルセスカが。

 しかしトリシューラは抱きしめた俺をじっと見つめると、急に無表情になって、

「うーん、よく考えたらあんまいらないやこれ。やっぱセスカに返す」

「遠慮なんてやめてください。貴方は勝負に勝ったのです。ならばトロフィーを受け取る権利があります」

「いや、やっぱりセスカが貰ってよ。権利を行使するかどうかは私が決めて良いんでしょう? なら、私は本当に必要としているセスカにあげたい」

「戦力的にそこまで欲しいというわけでもないんですよね。単にクリアできる攻略対象は攻略しておこう、という心理が働いただけで。正直、一回落としてしまったのでもういいかなって。すぐ飽きそうですし」

「あーそれわかる。なんて言うか中身が無いんだよね中身が。おまけに決断力無いしさー」

「ですよね。実際、かなり苛つかされましたから。あと顔は澄ましてますけど内心がいやらしいことばかり」

「本っ当にね。あれはやめてほしいよね。サイテー過ぎてドン引きだよ」

「あ、でもあれはあれで言い訳に使えるというかおいしい思いができるというか――あ、いえなんでもないですよ? ええっと、ほら、でも何かしら優越感とかあるんじゃないですか。異性の使い魔ですよ。つまりは、ほら何と言っても念願の――」

 念願の、何? と言葉の途中で首を傾げるコルセスカ。それはやっぱり『かれ-』とか『こい-』とかで始まる漢字二文字の単語じゃないかなと口を挟もうとした途端、トリシューラの「ペット?」という回答が提出され、「ああそれです」とコルセスカが正解判定を下す。もうペットでいいです。

「でも、実際に手に入れてみたらそんなに――ていうか、セスカに勝てたって思ったらなんか満足しちゃった。私にとって大切だったのって、本当はセスカとの勝負だったんだと思う。『これ』はなんか、何だろうね、点棒とかゲームコインのやりとり?」

「あ、トリシューラ。それ、もっと言ってください――二重の意味でぞくぞくする。癖になりそう」

「はぁ?」

 生まれ変わったら何か色々なものを運ぶための媒体になっていた俺の事をどうか忘れないであげてください。木馬の次は点数計算用のツールでトロフィー。一体次は何を運べばいいのだろう。気分はすっかり運送屋(非物理)である。空気同然となった俺は、二人の間の親密な雰囲気を壊すまいとただ沈黙していた。

(媒体かー。いいねそれ。シューラの使い魔らしくて、ちびシューラは好きだよ)

 ふわふわと、いつのまにか居なくなっていた二頭身のデフォルメ体型がこちらへ漂ってくる。いつもは俺の頭の中にしか響かない声も、この空間では他の二人にも届くようになっているらしい。

「媒体ですか。確かに、それ単体では意味を為さず価値を持たないですけれど」

「他の意味を持つもの、価値あるものと一緒に使えば役には立つよね」

 お互いに俺を譲り合う、というか押しつけ合うような形で挟み込んだ二人の魔女が、おかしそうに囁き合い、やがて同時に頷いた。無言のアイコンタクト。その言語を介さないコミュニケーションでどのような合意が形成されたのかは一切不明だが、二人は交互にその結論を俺に告げた。

「それでは今この時より、アキラは私達共通の使い魔です」

「すり切れるまで使い倒してあげるから、頑張ってついてきてね、アキラくん」

 その時の俺がどんな表情をしていたかは定かではないが。二人の少女が、この上なく愉快なものを目にしたかのように華やかに笑い出したことが、全てを物語っているのだと、そう思えた。

 並んで咲き誇る、可憐で絢爛な二輪の華。
 この光景より美しいものを、俺は知らない。

 

 

 
 闇の中を、一人きりで深く潜航していく姿がある。

 白銀の髪と特徴的な氷の義眼。冬の魔女は誰にも知らせず、静かに深海の中を進んでいく。先に現実へと送り返した二人は、今頃仲良くやっているだろう。先に独り占めした分だけ、帳尻を合わせてあげなくては。多少妬けるけれど、そこはやっぱり自分の方が姉なのだから、我慢して譲ってあげようと思うのだ。

 いとおしい感触を牙と心臓の深い部分に感じながら、氷の魔女は淡く微笑む。その目指す先に、やがて煌めく何かが見えてきた。暗闇に輝く、あれは世界の裏側に広がる星々なのだろうか?

 そうではない。よくよく氷の義眼を凝らせば、それが同じ氷の破片だとわかる。散り散りになった鏡の破片が山となって積もっているのだった。
 その破片の一欠片をそっと手に取って、彼女はふと、幼い頃のことを思い出す。

 独り遊びに飽きた彼女が求めた、同年代の女の子。それは末の妹になるべく育てられてきた反動だったのかもしれない。おぼろげな記憶では、一緒に遊んでいたのは妹のような存在だったはず。妄想の妹――クランテルトハランスを自力で生み出してしまうほどに、彼女は一人だった。それが苦痛だったわけではない。沢山の娯楽や刺激に囲まれていたから、退屈というわけでもなかった。それでも色々な物語に登場する『他の人』には興味があった。いつしか彼女は空想との戯れをほどほどに続けながら外界にも目を向けるようになった。それでも幼い頃から続けていた遊びをやめたりはしなかったのが、誰かとの最大の違いだったのかもしれない。

 ばらばらになった鏡に映る、そのアシンメトリーな顔を見る。その姿が、一瞬だけぶれて別のものに変化した。

 白は黒に。青は赤に。色彩が反転して、性質が逆転する。二人の手を合わせれば、あつらえたパズルのピースのように、それはきっとぴたりと嵌る。
 記憶の中を探っていくと、古い愛称に行き当たる。トリシューラがセスカという愛称を今でも使っているように、かつてはコルセスカもトリシューラを愛称で呼んでいたのだ。小さくて可愛らしいその姿にぴったりな、短縮形のシンプルな愛称。彼女はそれが自分の名前だと理解して、幼い子供のように自分の事を名前で呼ぶようになった。その習慣は、彼女が自意識を確立しようとして、『私』という一人称を使うようになって以来廃れてしまったけれど。そのことを、あの奇妙な転生者に憑いていたクランテルトハランスを見て今更思い出した。多分あれは、『そういうこと』なのだろう。自分にだけ理解できる納得を胸の奥にしまい込んで、コルセスカは独りごちた。

 最初のシューラ。瞳の中のお友達。元気で小さな、妖精さん。
 最初のセスカ。ご本の中のお友達。強くて綺麗な、お姉さん。

 相互再帰のイマジナリーフレンド。双方向の参照関係。入れ子ネスト構造の魔女姉妹。

 始まりがどちらだったのか。それともそんなものはどこにも無いのか。今となっては、その真実を追究することすらどうでも良いことのように思えた。

 確かなのは、彼女がいること。ただそれだけ。胸の中に広がるのは、暖かな気持ちだった。お互いを繋ぐ見えない何かを、媒介してくれた人がいる。

 今だって姉妹の間にはどうしようもない二者択一の運命が立ちはだかっている。二人だけだったなら、きっとどちらかが、あるいは二人とも消えて終わっていたような気がする。けれど彼といると、どうしてか自分たちは違う未来、想像もしなかった結末へと行けるのではないかと思えてくる。

 きっと、彼一人では意味が無いのだ。彼を介して、その両端で自分たちが繋がっているから安定した意味を構成できる。異なる性質の呪術を扱う魔女達が摸倣子ミームを共有し交換し合い、その間で仲立ちとなる使い魔が三者を強く結合させる。

 あらゆる情報、あらゆる心、あらゆる呪力は、それを表現する媒介物なくしてはただの脳内のシグナルにすぎない。それらはコピーアンドペーストを繰り返して、他者の心に届くことで初めてその効力を発揮する。

 まるで呪術を知らず、呪力を持たない彼だけれど、本当は彼こそが最も呪術の才に恵まれていると言えるのかもしれない。

 この三人でならどんな困難も乗り越えられそうな、根拠のない自信が湧いてくる。そういえば、地上に置いてきた仲間達と居る時もこんな気持ちにさせられたものだった。探索者集団の最小構成単位は三人だ。人はその数字に安定を見出す。

 ふと、自分と妹の名前、その由来を思い出した。
 くすりと笑って、彼女は勢いよく浮上していった。全ては思い出の中に。バラバラになったパズルのピースは曖昧な闇の中でそっとしておこうと決めたのだ。

 帰るべき水上の居場所へと振り向かずに進んでいく、今はもう大人になった少女を見送りながら、水底に佇む小さな妖精は、いつまでも、いつまでも手を振っていた。

 

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